今日は都心では稀に見る豪雪の日で。確か夕方から夜間にかけて積雪量も普段より多くなると今朝の天気予報士が言っていたな、と積雪の上を歩きながら思い出す。半月ほど前には山の方で雪崩が起こり、行方不明者がいると報道されていた気もする。その雲がこっちに来たのかな。普段なら適当に聞き流す天気予報も、この日ばかりはしっかり耳に入れていて。まだ十一月だと言うのに、異常気象も遂に雪崩まで引き起こしたのか、とありきたり感想を抱いた。そんな報道を聞いて、定時制の私は夜間に冷え込むことを予想して、いつもより防寒に努めていた。最近最寄りのモールで買った淡い御所染色のマフラーもしっかり首に巻きつけている。地味にお気に入りなんだよね、これ。生意気な弟曰く、私の目の色と同じらしいけど、買った時はそんなこと特に気にも留めていなかった。
くしゅん。思わず出たクシャミに顔を柔く顰めながら鼻を啜る。多分今頃薄桃色に変色しているんだろうな、折角のメイクが台無しになりそうだけど、ポケットから出したハンカチを軽く鼻に当てる。ああ、少し急いだほうがいいかもしれない。だって今日はあまりにも寒くて。そう考えた途端一刻も早く暖房のある極上の部屋に飛び込んでしまいたい衝動が増した気がした。
そうして普段より明るい夜の世界を駆けること少し。この曲がり角を左に抜けて信号を渡った先に私の自宅はある。そんなもう少しで自宅に着くというところで私はふと違和感を覚えた。そう、それはまるで生き物の存在感。弟の彰人や私こと東雲絵名が苦手とする気配だ。その気配に従って前方を注視すると、電信柱の近くに黒い影が見えた。あれは、野犬?その場で丸まっているらしい影は、果たして柴犬を少し上回るほどの大きさだった。こんな寒い中積もった雪に座るなど余程図太い神経をしているんだろうか。そんなことを考えながらも、どうか襲いかかってきませんようになんて願って恐る恐る、なるべく遠くの道をゆっくり歩く。
そろり、そろりと真横を通過する瞬間だった。ふと鉄のような匂いが鼻腔を擽り、逸らしていた視線を半無意識にその影に向けた。徐々に眉間に皺が寄っていく感覚。視線の先にはただじっと時が経つのを待っているかのように目を瞑り微動だにしない犬。その付近の雪には何やら黒ずんだものが付着していた。よく見るとその向こうにも所々に同じものがある。そうして条件反射的に目を犬に戻す。紫紺色の毛並みと夜が重なり極めて目立ちにくいが、その左足の大腿から足根部にかけて血が滲んでいた。となると、あの黒い雪は恐らく出血の跡。
「ちょっと、あんた怪我してるじゃない!」
もう夜も深くなってきているというのに、私はそんなことを考えることなく、紫紺色の犬に近づいた。噛まれるかもしれないなんて思考はとんと頭から抜け落ちていた。
「ヴゥ……」
大声で近づいたからか、犬は低く唸り声を漏らしてこちらを警戒している。ってか、こいつ本当に犬なの?柴犬にしては毛量が厚いし、目形もそこらの犬より鋭い。何より後脚部の筋肉が発達しているように見える。シベリアンハスキーに近いような外見。だけどシベリアンハスキーはこんな毛量をしていない。
まぁ今はそんなことどうでもよくて。更に観察してみると、止血はまだできていないのか血の滲みが濃くなっている。傷も一つではなく、複数。紙に線を書き殴ったような痕。よく今まで貧血にならなかったものだと冷静な頭で感心しながらも、冬にも関わらず額から冷ややかな汗が頬を伝う。
学校用の鞄の中に確か買ったばかりのハンカチがあったはず。冬用ともあって大きめ厚めだから止血には十分だ。そう思って鞄を探るべく手を突っ込んだ途端、目の前のそいつは私の腕に噛み付いてきた。
「っ……!」
痛い。噛みつかれた部分が仄かに熱を放ち始める。目を向けると、じんわり制服に血が滲むのが見えた。あー、これはクリーニングに出さなきゃ駄目そう。でも幸いにも破れてはいない。買い換えないだけマシだ。それに目の前のこいつもきっと同じような、いやそれよりもひどい痛みを感じているのだと思うと、私自身の痛みなんてちっぽけなものだなんて。
「大丈夫、大丈夫だからね」
腕が痺れるような感覚を何とかしつつ、私は傷口にハンカチを、少しキツめに巻きつけた。目の前の犬は困惑しているのか目線を右往左往させている。
「ちょっときついかもしれないけど、暫くは我慢しなさいよ」
と言っても犬に話しかけても分からないよね。なんて呟くと稍あって、次第に犬の表情が落ち着いてきた。何かに気付いた様子で汐らしくなった目の前の犬は、徐に私の腕をぺろぺろ舐め始める。
「あんた、もしかして言葉がわかるの?」
「……クゥン」
「そっか。意外とお利口さんなんだ。なら聞いてもいい?あんた、これからどっか行く宛はあるの?」
問うてみたものの、そんな宛など多分ないだろう。遠くに見える血の跡は舞い散る雪によって消されつつあるものの、左右にバラけていて。その中には引き摺ったようなものまである。何かから逃げてきたか、事故にでもあったのか。いずれにしても限界が近いはずだ。それが分かっていて、私は敢えて質問をする。こんな怪我をしているんだ。放っておいては死んでしまう。多少無理にでも引っ張って家に連れていくことはできるだろうけど。でもこの犬は何やら事情持ちのようだし、下手にトラウマを刺激すればこの子を可哀想な目に合わせてしまう。だからこそ、今はこの子自身に選択を委ねなければいけないと勘が訴える。
私が質問した数瞬の間の後に、耳を下げながら、目の前の犬は首を横に振った。申し訳なさそうなその仕草と表情が少しだけ愛おしく思えてしまう。始めはあんなに怖かったのに、ひょっとして私は心移りしやすい性格だったりして。……いや、そんなことないはず。
「そう。それなら、取り敢えず私の家に来る?流石にこれ以上寒い中外にいたら不味いし」
そう言うと、犬はその紫紺色の尻尾を僅かに横に振った。瞳は警戒色から僅かに光を取り戻したように見える。それと自惚れていなければ少しだけ、安心しているような、そんな色。すると言葉の分かる賢い犬は驚いたことに、その場に自分で立とうとした。しかし、左脚に力が入らないのか、体勢を崩して倒れてしまいそうになる。そうなる前に咄嗟に両腕でその身体を支えた。
「こら、無理しちゃだめ。言葉がわかるなら、自分の身体のこともわかるでしょ?そんなんじゃ悪化するし、そもそも怪我人は気を遣うもんじゃないの。その気持ちはありがたいけどね。……さて、嫌かもしれないけど、身体持ち上げてもいい?家はすぐそこだから、ちょっと我慢してもらうことになるけど」
そう提案すると、紫紺色をした犬は私の言うことに頷いた。抵抗を示さず、その身体は容易に持ち上がる。ふと感じた手触りはふわふわしているものの、所々ジャリジャリしている。雪が溶けて水になり、毛が固まってしまったんだろう。本当はお風呂に入れてあげたいんだけど……。できるだけ怪我の部位に触れないように、痛みが起きないように慎重に、横抱きに抱える。
「クゥン……」
申し訳なさそうに鳴きながら、私の下顎をぺろぺろ舐める紫紺の犬。噛んだ部位の、制服の状態を見てから舐めたところを見るに、やっぱり悪いと思っているのかな。
「そんな顔しないの。怪我のこと気にしてるなら痛みは引いたから心配しないで。それより、せっかくの化粧が落ちちゃう。それにこの化粧、舐めたらあんたの身体にも悪いよ?」
少しの強がりとだんだん擽ったくなってきた感覚に声を上げる。少し不服そうな表情をした後、渋々頷いて竜胆の瞳が徐々に閉じられた。思った以上に体力がなくなっているのかもしれない。
「……急いで帰らなくちゃ」
苦しそうな犬に負担をかけないようにしつつ、口許から白い息を吐きながら私は小走りで自宅へ急いだ。
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ただいま、と言って玄関に入ると、玄関先では彰人が壁にもたれてスマホを見ていた。私が帰ってきたことに気づくと、スマホを見たまま「おう、遅かったな」という。そうして目線をこちらへ向け、
「うぉっ!?」
それはもう壮大に叫んで後退った。それもそのはずで、先も触れた通り私の片割れは私同様、犬が苦手なのだ。それも少し大きめの犬など特に。しかし、その視線は次第に怪訝なものとなっていく。抱える犬の様子を見て、すぐに冷静さを取り戻したらしい。……距離はだいぶ離れたけどね。
「あー……怪我、してるみてえだな。今日は雪も降ってるし、身体冷えてんだろ。でも風呂は今入れると傷口に響くだろうから……取り敢えず、暖房効かせた部屋に入れてやれ」
怖がっているくせに手を貸そうとする姿勢に少し笑みが溢れる。普段は生意気なくせに、大事な時にはしっかりしているところが彰人らしい。
「ありがと。私が連れていくから、あんたはお母さんから何か処置できるもの借りてきてもらえる?」
「分かった。すぐ行くから待ってろ。あと確かリビングのソファにブランケットあったはずだから、それ掛けとけよ」
緊急事態でお互いテキパキと行動に移していく。なにしろ、先ほどよりも抱いている犬が衰弱しているのだ。ちょっと横着してリビングの扉を開けて、ラグの上に犬を降ろす。ソファにあったブランケットを犬にかけてから立ち上がり、床暖のスイッチを入れて戻ると、心なしか呼吸が穏やかになってきているように見えた。
暫くすると彰人とお母さんが部屋にやってきた。この子の怪我の処置をしながら二人に犬と出会った経緯を話す。それと、犬の保護について。私はあの子を怪我の手当てをしたからといって、はいさようならとするつもりはなかった。外はこれから冬一直線になるし、あの子の栄養状態も良くないだろう。一見体格は一般の犬と同じに見えるけど、抱き上げた時身体が軽いように感じた。前にいた環境がよくなかったのかな。それと最大の理由は、あの何かを訴えるような視線。そんな視線をあの犬は私に向けていた気がする。あんなことをされては、手放すわけにはいかない。
「……そういうことで、この犬をうちで飼いたいんだけど、いい、かな」
発した声色は、自分が思っていた以上に緊張で震えていた。断られたらどうしよう。そんな思いが胸の中を渦巻く。だけどここで折れてちゃいけない。だから、
「家族に迷惑は絶対かけないから、お願い」
私は頭を下げた。私の目の前で二人が顔を見合わせた気配がする。少し間が空いた後、お母さんが口を開いた。
「顔を上げて、絵名。絵名がそこまで言うのなら、お母さんは許可します。ちゃんと面倒を見ること。それと朝もしっかり起きてご飯あげるのよ?お父さんには私から伝えておくわね」
頬に手を当ててくすくす笑いながらそう言ったあと、お母さんは「彰人もいいわよね」と問いかける。それを受けた彰人は頸に手を当てながら、
「まぁいいんじゃねえの。オレが朝起こすことも減るんなら手間省けるしな。それに、弱ってる犬見せられちゃ、断るわけにはいかねえだろ」
と目を逸らしながら返事をした。その視線は三人の中心で横になっている犬に向かっている。因みに“あいつ”に関しては絵画の披露会に出席すると言って、一週間ほど遠出している最中だ。私的には万々歳だけど。
私は二人に「ありがとう」とお礼を言うと、今も浅い呼吸をしている犬の頭を撫でた。目元に力が篭っているところを見るに、何か悪い夢をみているのだろうか。そもそも犬も夢を見るのかは分からないけど、その夢が少しでも優しいものになるようにと、そんな想いを込めて。
[newpage]
その日は辺り一帯が白で覆われていた。私が狼として生まれ、生きてきた中でも初めての豪雪の日。そんな日に私は錆びたケージに入れられ、ただ只管に時が経つのを待っていた。あの時は咄嗟のことで逃げようにも間に合わず、いつの間にか強制的に入れられてしまった鉄格子のケージ。冷たいとは思わなかった。……いや、思えなかった。思考という行為そのものを最早私は放棄して、ただ一人、目を瞑る。
「なあ、こいつ本当に獣人なのか?さっきからジっとしてるだけで、まるで死んでるみたいだぜ」
頭上から声が聞こえる。獣人という言葉が耳に入った瞬間、無意識に体毛が逆立つ。
「いや、あの情報屋が外すなんてことはありえない。それに前情報と相違なく、こいつは二匹の親と呑気に巣穴に篭ってたじゃねえか。恐らく奴の言う獣人の中でもレアな個体ってのは間違った話じゃねえだろ」
「それもそうだな。へっ、態々殺傷力の高い銃を仕入れてぶち込んだんだ。おまけに麻酔銃も高くつくと来たもんだ。元が取れなきゃ意味がねえ。だがまぁ、見たところ状態は良いし、質だって悪かねえ。はっ、今から値段が釣り上がってく様子が目に浮かぶぜ」
「まぁ落ち着け。闇市まであと二日もある。気が早いぞ」
「ははっ、違いねえ」
この男たちの話を聞くに、私は闇市とやらで売られてしまうらしい。闇市が何なのか、そもそも何故私だけが生きているのかは分からないが、少なくとも先ほど心がどうしようもなく揺らいだあの言葉。“獣人”とやらが関係していることは推察できる。
ある日、父親と母親が話す言葉が聞き慣れた獣の鳴き声ではなかったことに私は気づいた。それをお母さんに四苦八苦しながら伝えると、二人はとても喜んだ。母が言うには、私たち家族は獣としての鳴き声に加え、人間の言葉を扱うことができるらしい。そして成長をすると、人の姿を形取ることも可能になるという。しかし、言葉を知覚し、姿を変えられるようになるのは通常成犬期、つまりは現在の私がもう少し成長してからのことだという。だけど私は自分が生まれて少ししてから、人間が話す言葉を理解できた。姿は変えられないが言葉は……出来てしまった。
それ以外にも、私は人間の言葉を比較的早くに、流暢に話せるようになった。これが珍しいと人間から評価されているのだろうか。それ故に私は稀有個体として生かされているのだろう。……私がこうして珍しい獣人として生まれなかったのなら、両親は今頃生きていたのだろうか。
あの時の光景は鮮明に記憶に焼き付いている。
突然、我が家に鳴り響く銃声。舞い散る火花と嗅ぎ慣れない火薬の臭い。地面に空いた弾丸の跡。そして、
〈いいか、私たちが注意を逸らすうちに抜け出すんだ〉
〈さあ早く!ユキ、逃げなさい!〉
冷静な、だけど静かに怒りを顕にするお父さんと悲痛なほどに張り詰めたお母さんの獣としての声。目の前の男たちから私を守るように立ち塞がる背中。瞬間、……飛び散る赤い何か。
途端に心の奥が熱く煮えたぎる感覚に侵される。瞳の奥が広がり、足に巻かれた鎖が揺れ、鎖の内側に仕込まれた鋭利な先端が足に食い込んだ。動いたら痛みを与え、暴れる気をなくさせる算段のようだ。次いで楔から不快な金属音が響く。
「おい、うるせぇぞ!勝手に暴れてんじゃねえ!っクソ!だから暴れ防止用の鎖は反対だったんだ。足に傷が付いてこれ以上価値が落ちたらどうするつもりだ!」
価値。そんなもの知ったことではない。痛みなど、この際どうだっていい。この心の靄は決して忘れない。そもそも、私に価値などあるからこうなったんだ。この靄ができ、両親を亡くしたんだ。だったら、そんな価値捨ててやる。
――――
ドンドンと不規則な音が部屋に響く。それを皮切りに私は目を覚ました。いつの間にやら眠ってしまっていたらしい。左脚が鈍い痛みを訴える。視界を移すと、男たちの姿が見えた。音の正体は一人の男の地団駄と、机を叩く音らしい。
「おい、聞いてねえぞ。なんでこんなに悪天候になってんだ。これじゃ街に降りられねえじゃねえか」
「落ち着けって。所詮は山だ。天候は変わりやすい。一日くらい経てば吹雪だって収まるはずだ」
鉄格子から部屋を覗くと、窓の外は吹き荒ぶ雪で真っ白だった。まるであの日が蘇るような天候。ああ、私は知っている。こんな吹雪の日に、私の父は嘗てこう言ったのだ。
「ユキ。今日のように外の様子がひどい時は、雪崩に注意しなさい。あれに巻き込まれては、私たちでも生き延びられるか分からないからね。大丈夫、雪は冷たく命を奪うけれど、ユキには温かい心がある。冷静な知性がある。いつかこのことが役立つ日が来るかもしれないからね、覚えておいて損はないはずだよ」
お父さんの声が心に木霊する。両親のことを思っても、昨日から不思議と心が煮えたぎらなくなった。諦めて、しまったのだろうか。いや、きっとそうではないはず。だけど何故、心がこんなにも空っぽなの。
その時だった。空間そのものが大きく振動し、何かが爆ぜるような音が私たちを支配した。
「おい、やべえぞ。雪崩だ!山の天辺が白く浮き上がって……!」
「クソっ、こんな時に……おい、合図したらケージの扉を開けろ。予定より早いがこいつを麻酔銃で眠らせて街まで運ぶ。くそっ、弾がデケェお陰で余計なリスクが増えるじゃねえか」
そう吐いて男は黒く長細い箱から銃を取り出すと、弾を詰め始めた。その光景に胸の奥が警鐘を鳴らす。あの弾は、私から力と意識を刈り取るものだ。心臓の鼓動が加速する。……私は、まだ生きなければいけない。不思議と心の奥からそんな声が聞こえた。驚いた、私はまだ生きたいと思えるのか。命の灯が果てれば、二人に会えるかもしれないのに。
だが獣としての本能が私を奮うのか、今までにない力が湧いてくるのを感じる。今なら、できる。
男が合図すると同時に、鉄格子の扉が開け放たれた。構えられた銃口から、弾が放たれる。だけど、少し遅い。ケージが広く、鎖が長めで助かった。私は銃弾をその場で避け、私を縛る鎖の杭を外すべく力を込めて引っ張った。それはあまりにもあっけなく地面から外れた。だけど足にはまだ鎖が巻き付いている。鎖の内側から再び刃物が食い込む。でも痛みは感じず、冷静な頭がこれは邪魔だと判断した。
「ヒィッ!この化け物!」
鉄格子の扉を開けた男は私の行動に驚いた様子で尻餅をついている。その顔部に体当たりを喰らわせてやると、仰向けに倒れて頭を強く打ち、動かなくなった。殺してはいない。狩りでいう気絶状態というやつだ。お父さんから教えてもらった。
もう一人の銃を持った男に視線を飛ばすと、気絶した男を見て焦ったのか、素早く装填をし、再び銃を構え直そうとした。私は銃口から弾が出る前に男に近づき、巻き付いた鎖を足払いに利用した。波打つ鎖が男の足を捕らえる。その場で男が転んだことを確認すると、山小屋から逃げるべく、扉へ走った。途端、奔る激痛。転ばされた男が鎖を引っ張ったらしい。痛い。痛い。だが私は、おまえ達と心中するなど認めない。だから、これ以上ない力で左脚を引き上げた。ああ、もう何度目かの激痛。だけど、後ろを確認すると左脚は深い切傷があるだけで、鎖は外れていた。それと男の叫び声。思い切り引き上げたから、恐らく男の腕の関節が外れたのだろう。視界の隅で腕を庇う男が見える。
男は床に転がり何やら喚き散らしながら血眼でこちらを睨んでいるが、これ以上目をやる必要性も最早感じない。ドドン、と再び感じる地震のような振動。雪崩は数分でここ一帯を巻き込むだろう。その前に、逃げなければ。
扉に体当たりをすると、木製のそれはあっけなく開いた。幸いなことに、私は吹雪に慣れている。視界は悪いが、感覚で街までの降り方は分かる。
心の声。まだ生きたいという想いに従って、私は鈍い脚を懸命に動かした。
[newpage]
お母さんから聞いた話を思い出す。夢をみることは、記憶を整理することだと。人は嫌なことをいつまでも身に宿したままでは壊れてしまうと。だから、嫌なことを記憶の整理中に曖昧にして、幸せなことを色濃く残すのだと。それなら、今見た夢は私にとってどんな夢なのだろう。きっと、嫌なんだと思う。だって、お父さんとお母さんがいなくなったことで、心の中にぽっかりと穴が空いてしまったように感じるから。それなら、いずれこの嫌な記憶も消えて無くなってしまうのだろうか。心の穴を埋めてくれる何かは現れるのか。
それは、幸せと呼ぶものなのだろうか……。
……あたたかい。まるでお母さんとお父さんに包まれているような、温かさ。ひょっとして、私は二人の許に辿り着いたのか。果たして瞼を開けると、二人の姿はそこにはなく。代わりにあったのは、あどけない表情を浮かべた少女の顔。
ああ、そうだ。私はこの少女に拾われたのだった。
あの日、満身創痍で街に降り立った私は、人目につかないように細心の注意を払いながら当てもなく歩き続けた。自分の血の跡が道に出来るも、幸いこの吹雪が夜の間にかき消してくれるだろう。しかし歩みの行き先はなく、宛てもない。ただ、何故だか心がざわついて。そのざわつきのする方向へ匂いを頼りに脚を只管に動かしていた気がする。
だけど心のどこかでは気づいていた。そんな行為は無駄だと。いずれ体力が尽きるか、人間に見つかって攻撃をされ、その後は……。そう考えると、途端に身体から力が抜け落ちていく感覚が私を襲った。私は何のために生きているのか。何故生きたいと思ったのか。
そして身体は言うことを聞かなくなり、せめて見つかりにくいところへと、大きな柱と壁の陰に身を寄せた。丸まれば、体温の低下をある程度凌げるだろうか。でも凌いだところで、こんな街中では狩りなどできるはずもない。そもそも、こんな身体ではそれどころではない。どうしようもない、リーチの掛かった状況。それならいっそ……消えてしまおうか。
目を瞑っていると、遠くから足音が聞こえてきた。聞き覚えのある、人間の足音。あの男たちより音の間隔は早いが、間違いのない二足歩行の音。私は無自覚に身体を強張らせた。私を見つければ、途端に警戒をして私を傷つけるのだろう。そうして行きつく先はきっと真っ暗なセカイ。
「ちょっと、あんた怪我してるじゃない!」
静かだった世界に音が響いた。どこか焦りのある声。甲高いこの声の主はどうやら女性であったらしい。それも、男たちよりずいぶん幼いだろう少女。不思議な服を着ている。その少女の声は煩いようで、でも不思議と嫌だとは感じない。……私は今何を思った?嫌ではない、そんなわけない。人間は私たちを平気で傷つける。そんな相手に心を開くな。安心するな。感情を無くせ。警戒しろ。もうあんな目には合いたくない。
威嚇の意を込めて唸り声を上げるが、目の前の人間は遠慮も無く私を観察した。そして目線が私の左脚へ向き、歩いてきた道へ向き、眉を寄せた。ああ、汚らわしいとでも思っているのか。案の定目の前の人間は肩に掛けた四角い何かに手を入れた。途端にフラッシュバックが起こる。あそこからは、きっと武器が出る。そうなる前に、私は少女に噛み付いた。
ひゅっ、と細切れた声が少女から漏れる。だけど、その目には男たちのように薄汚れた欲がなければ、殺意もなかった。
「大丈夫、大丈夫だからね」
その声はとても優しかった。そうして私の左脚に変なものが巻き付けられた。左脚に少しだけ温度が戻ったような感覚。
なんで、どうして。
そんな陳腐な言葉が思考を支配する。この人間は何故私に優しくするのだろう。私は何も返すものがないのに。でも、悪い気はしない。さっきと同じだ。なんでこの人間からは嫌な気配がしないのだろう。じっと少女を見つめると、どこか真剣な眼差しで私を見つめ返してくる。……この人間は本当にただ私を助けようとしている?
それに気づいた瞬間、私の心に空いていた穴に温かい何かが注がれたような気がした。そうした途端に視野が広がっていく。そうだ、私は私がされたことを、痛みの及ぶ傷を少女に与えてしまった。噛んでしまったのだ。彼女はただ、私を助けようとしただけなのに。
「ちょっときついかもしれないけど、暫くは我慢しなさいよ」
ああ、やっぱりそうだ。この人は私に危害を与えるつもりはないのだ。それなのに私は。謝らなければならない。でも、どうやって。人間の言葉を話す?……でも、動物である私が人間の言葉を発したら、彼女は怖がってしまうだろうか。気持ち悪いと罵倒し、私から離れてしまうのだろうか。それは、嫌だ。それなら、やることはひとつしかない。
そうして私は初めて人に自分から触れた。彼女の腕を舐めた。狼の舐める行為は、毛繕いの他に謝罪の意がある。人に対してこれが通じるかは定かではないけれど。
ごめんなさい、ごめんなさい。謝っても私がしたことは消えないのに。でもこうするしか方法がない。ひどいことをした。してしまった。
少女はそんな私の行動から、私が言葉を理解できることを察したらしく、「言葉がわかるの?」と問いかけてきた。返答をするのに少し時間を要した。人の言葉を話して、伝えられたらいいのに。でも、それは出来ない。もし逃げられてしまったらと、仮定の空想を描いているうちに返事が弱々しくなってしまった。
少女が少しはにかんで私の行く宛を尋ねた。男たちのように無理やり従わせるのではなく、私に選択を投げかける。優しくて、心がまた温かくなるのを感じる。ないよ、そんなのない。あるわけない。でも、私はあなたの側にいたい。離れたくない。だから、だから……。
耳が自然と垂れ下がる。私は首を横に振った。
「そう、それなら、取り敢えず私の家に来る?流石にこれ以上寒い中外にいたら不味いし」
欲しかったその言葉は、想像しているよりもたやすく彼女の口から出て。一瞬思考が止まってしまった。瞬間、言葉が出そうになる。“いいの”の三文字が私の喉で堰を切る寸前、彼女の怯える顔が想像されて、私の声は心に溶けた。その代わり、私は努めて冷静を装った。彼女を脅かさないようにするために。でも、彼女の言葉に対してほんの少しだけ尻尾が揺れてしまった気がする。少し、心の奥がむず痒い。
私の様子に気づいたらしい彼女は、目を細めて微笑みを浮かべた。その表情が私に力を与えてくれた気がした。あなたと居たい。そのためには、自分で立つくらいしなくては。
脚に力を入れ、立とうとする。その行為は難しいはずないのに、ああ、視界が揺れる。これでは、倒れてしまう。しかし衝撃はいつまで経っても襲ってこなかった。ふわり、とても優しい香りが鼻を擽った。
獣人は人間の言う五感というものがとても優れているとお父さんは教えてくれた。でも、私は私を攫った男たちに出されたものを一つ食べて、自分が味覚というものを失っていることに気づいた。嗅覚だって、同じものだと思っていた。歩いている時、何も感じなかったから。ああ、でも心がざわつく匂いがあった気がする。それと、よく似た匂いを、私は今香りとして受け取った。
咄嗟に瞑った目を開くと、少女の腕が私の体に回されていた。支えてくれるその腕は、華奢だけど力強く、温かかった。少女は私に無理をするな、気を遣わなくていい。加えてお礼まで言った後、私の身体を持ち上げた。体毛が少女の腕に絡みつく。毛並みは優れていると両親が言っていたが、雪が降る今、その状態は良いものとは言えないはずだ。なんだか心がざわざわする。
ふと腕を見ると、先程私が噛んでしまった場所が赤く滲んでいる。私の傷と同じ。襲ってくるのはやはりごめんなさいの気持ちで。私は彼女の顔の下を舐めた。
「そんな顔しないの。怪我のこと気にしてるなら痛みは引いたから心配しないで。それより、せっかくの化粧が落ちちゃう。それにこの化粧、舐めたらあんたの身体に悪いよ?」
嘘だ。顔からは水のようなものが垂れている。お母さんが、汗というものだと言っていた。人間は体温調整のために身体から水分を出すのだという。これは、彼女が無理をしている合図。お母さんはしょっぱいものと言っていたが、舐めてみても味はしなかった。でも、不快感はない。それと、その後に言っていた”化粧”というものはよくわからなかった。ひょっとしたら舐められるのが嫌なのかもしれない。それなら仕方ない、のだろうか。少しだけモヤモヤしたまま、私は舐めることをやめた。……今後謝る方法、どうしよう。
彼女に身体を持ち上げられて暫くしていると、段々と視界が狭まっていることに気がついた。この行為はお母さんにされて、教えてもらった。抱っこというらしい。とても温かくて、これが彼女の温度なのだと思うと、余計に瞼が下がってくる。このまま、眠ってしまってもいいのかな。でも、眠ることは即ち意識を手放すこと。どうしても躊躇してしまう。
だから私は願う。私が眠っても、どうかあなたが私から離れていませんように。どうか、これが夢でありませんように。
「……急いで帰らなくちゃ」
最後に聞こえたのは、心配そうな声色と小刻みな息の音だった。