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かーす・おぶ・うるふ

  どこにだっていけるのに。

  このあしと。このはなと。このうで。

  これがあれば、どこにだっていけるのに。

  ぼくはどうしてここにいるんだろう。

  

  「かーす・おぶ・うるふ。」

  

  なにもおもいだせない。

  ぼくはどうしてここにいるんだろう。

  となりにいるおんなのひとは、とってもやさしくわらう。

  「大丈夫。私が居るよ。」

  そういって。

  やわらかい。とてもおいしそう。

  だけど。ぼくはそのひとをたべられない。

  なんでだろう。ふしぎにおもう。

  きっと、ひとはぼくのえさなのに。

  だけど、たべられないんだ。

  

  

  目の前で変貌した彼を前に、私は言葉を失くした。

  彼にかけられたのは、強力な呪い。

  人の姿を失い、獣に変わる。

  それは本能に訴えかけてくるような恐怖だ。

  人であり、人でない。獣であり、獣でない。

  彼が何をしたというのだろうか。ただ平凡に。

  …あぁ、私が知らないだけなのだ。

  彼は帰ってくるたびに涙を流して、血の臭いをさせていたっけ。

  私が知らないだけ。

  「きみは…だれ?」

  とても幼い。だけどとても低く、恐ろしい声。

  それも恐怖だけれど。それ以上に。

  その疑問が。とても辛かった。

  「私は…あなたと、居る。」

  囁くような言葉を。なんとか搾り出した。

  

  

  どうしてこのひとはぼくといっしょにいるんだろう。

  じゃまだな、とおもう。

  だけど。ぼくはどうしてこのひとをころせないんだろう。

  このひとがいなければ、ぼくはどこにだっていけるのに。

  そうおもうと、とてもたべてしまいたい。

  ぼくによりかかりすやすやとねむるおんなのひと。

  がぱぁ、とくちをあける。

  なんでだろう。

  ぼろぼろとなみだがこぼれてくる。

  なんでぼくは、いっしょにいるんだろう。

  

  

  つい眠ってしまった。

  起きた時、彼は私の肩を抱きしめながら、私と同じようにすやすやと眠っていた。

  その頬は液体で濡れていて。私はその頬をそっと拭ってあげる。

  柔らかな手触り。前にせりだしたマズル。

  そっと触れるととても、暖かくて。

  彼はまだ、彼で居るんだ。

  「私が、そばにいるよ。」

  囁く声は、彼に届くのだろうか。

  

  

  まんげつは、とってもあかるい。

  とっても、きもちいい。

  「アォォォォォォン!」

  とおぼえをする。おとがとおくまでひびいて。

  きもちいい。

  はしってみよう。

  きっと、どこまでもいけるから。

  はしる。

  どこまでもいける。

  からだが、とってもかるいんだ。

  においが、する。

  なつかしい。あったかい。やさしいにおい。

  

  

  私は、彼を追いかけて必死に走っていた。

  満月の下を。とても明るく、とても妖しい光の下で。

  「待って!」

  彼の背中が、遠く。小さくなる。

  呪いにかかった彼は日に日に獣に近づいていた。

  私に出来る事は、何も無くて。

  ただ一緒にいることしか出来なかった。

  走っても走っても。彼には追いつけそうにも無い。

  足がガクガクと震えても。走れなくなりそうになっても。

  私は走る。

  このまま彼を放っておけばきっと。

  彼は。

  そんなこと、させたくない。

  お願い、待って…!

  伸ばす腕は、地面に落ちた。

  

  

  どしゃあ、とおとがきこえた。

  なつかしい、あったかい。やさしいにおいはそこからする。

  ぼくはそこにもどった。

  たおれているのは、あのおんなのひと。

  はぁはぁとあらくいきをしている。

  …どうしてこのひとは、こんなにがんばるんだろう。

  わかんない。

  このひとがいるからぼくはきっととおくにいけないのに。

  おいしそう。そうだ。たべてしまおう。

  ぼくはおんなのひとのまえでかがんだ。

  だくだくとくちからよだれがでてきた。

  いいにおい。

  

  

  あぁ、私。彼に。食べられてしまうのかな。

  でも、それでもいいかな。

  呪いをかけられた、彼に出来る事なんて。

  私には、何もないもの。

  獣のような眼光で私を見る彼。そこに、人としての意識は無いように思えた。

  私を餌としか見ていない。

  だけど。最期に言おう。

  「私は、貴方と。ずっと一緒に、いるよ。」

  

  

  だめだ。たべちゃ、だめだ。

  そうだ。わかった。どうしてぼくはおんなのひとをたべなかったのか。

  いっしょに、いたかったんだ。

  ぎゅうっと、おんなのひとをだきしめる。

  ほそくて、やわらかくて、あたたかい。

  「ごめんね」

  頼りない体を必死に動かして、僕と一緒に居てくれようとしたんだ。

  頭が痛い。思い出す。思い出す。

  呪いにかけられた僕を見捨てなかった。

  一緒に居てくれた。

  僕は、彼女と居たいんだ。だから、遠くにいけなかった。

  いや、行かなかったんだ。

  「ありがとう。」

  

  

  囁く声は、あの日の彼と同じで。

  抱きしめられる感触。あの日と少し違うけれど。

  でも、確かに彼で。

  「くすぐったいよ。でも…ありがとう。」

  顔に当たる毛が、とてもくすぐったくて、私は笑ってしまう。

  彼の瞳が、とても優しくて。

  一緒に居てくれるのが、とても嬉しくて。

  彼がこの姿のままだとしても。私は。

  「一緒に、いるよ。大丈夫。」

  

  

  優しく囁く言葉は。

  静かに、満月の下に響いて。

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