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【まだファンボじゃない】聖騎士の鞘2

  聖騎士の鞘2

  目が覚めて、木目の天井を見つめる度に、ここはもう館の中でも、そうしてその後に逃げ出した山の中でもないという事を再認識させられる。

  軽く声を上げて、隣に手を伸ばした俺の手は空を切る。少し寝坊した、らしい。もう少し早くその行動をしていれば、まだ隣に居たであろう相手の

  被毛を撫ぜるくらいはできたはずで、力なくベッドの上に着地した掌は、まだ微かに残る体温を俺に教える。

  仰向けだった身体をそちらに向けて、深呼吸を。並べていた枕から、強い残り香が鼻腔へと飛び込んでくる。

  ルビアスの匂いだ。

  匂いの持ち主がいないので、ベッドは中々に広く使える。個別に用意したから、二人で寝るとそこは大分狭い。元々大の大人二人で寝るには少し狭い

  というのに、その上で俺はまあそこそこ、そしてルビアスは巨漢の部類だ。狭くて当然だ。むしろベッドはよく持っている方だ。

  嘘。持たなかったので術でちょっと補強した。そりゃそうだ。ただ寝るだけだったのなら、まだしも。その。まあ、うん。そう。仕方ない。

  「ヴィル」

  考え事をしながら、少しずつ無くなってゆく隣の体温と、残り続ける匂いを嗅いではうとうととしてると。部屋の扉がノックされて、少し遅れてから

  ゆっくりと開く。さっきまで俺の隣に居て、ベッドを温めていたデカい狼が顔を出す。

  「おはよう。身体は大丈夫かい? もう少しで朝ごはんができるから、動けるなら子供達を起こしてきてくれるかな」

  「んー……」

  眠い目を擦って、どうにか返事をする。正直なところ、俺は朝が弱い。いや、ここ最近、弱くなった気がする。気が抜けたからだろうか。気が抜ける

  様な生き方を、今までしてこなかった。そう思うと、なんだか微笑ましいというか。自分の事だけど、そう思ってしまう。

  地方領主の息子として産まれ、騎士を志しながらもその夢は潰え、家族や婚約者とも離れ離れになっては、すべてを呪って山へと籠り。そんな山の

  中では、行き場のない子供を拾っては極限の生活を続ける日々を送って。いつ自分の命も尽きるかと暗澹とした、暗い水の中でもがくような生き方を

  して。それでもその内には力尽きて終わるものだと思っていた。

  そんな所にやってきた、狼の騎士は。最初はただのどん臭いおっさんかと思ったのに、実は北方にある帝国のお偉いさんで、しかも小さいころから

  憧れていた聖騎士って。

  「君の事を、愛している」

  そして、そんな。とても俺なんかじゃ傍に居るのも、触れるのも、恐れ多くて仕方がないはずの男が、俺に思いを寄せてくれている。今はその聖騎士、

  ルビアスと共に山を下りては、街の中にひっそりと館を用意して、そこに子供達と住んでいるだなんて。以前の俺に言ったのなら、きっと信じてもらえ

  なかっただろうと時々思う。

  「大丈夫かい」

  生返事をするに留まっては思考に逃げ、その内にまたうとうととしはじめた俺の意識を、狼の声は現実へと引き戻す。最近、これが多い気がする。

  きっと、安心しているのだと思う。張り詰めていた日々に、そんな自分はとっくに失くしてしまったと思っていたのに。目を開けると、微笑んだ

  ルビアスがそこに立って俺をじっと見つめていた。身に着けているのは、とてもお偉いさんだとは思えない質素なシャツに、そしてエプロン。ルビアスの

  元部下の方達が見たら悲鳴を上げそうな気がしなくもない。当のルビアスは、かなり気に入ってる様だ。

  かなり胸元がキツい様に見えるが……。

  「厨房は料理人にとっての戦場だと、よく言われていた。昔は入れなかったが、今の私ならばこちらの方がより適した戦場と言えるし、そのための正装も

  当然ながら身に着けるべきだろう。任せてくれ。これでも野営だの、手ずからやらなければならない時は多かったから。丸焦げするなんていう下手は

  しなさい」

  なんて言ってた気がする。まあ、山の中でルビアスと暮らしていた時から、ルビアスがそういうの下手じゃないとは知っていたけど。獲物を仕留める

  のも、それをさばくのも、いつだって鮮やかだった。

  「ごめん。ちょっと、寝ぼけてた。俺も行くよ」

  ルビアスの恰好から軽く目をそらしながら、俺はようやく身体を起こして、窓から朝日を浴びる。最近、ちょっとたるんでしまったなと思う。どうした

  俺。以前の俺はもっと、そう。獣そのものの様であったじゃないか。なのにここに来てから、なんだか、そう。甘えて、ルビアスに甘えてしまっている。

  それも、恋人として付き合っているのだから当然じゃないかという気もするが。なんていうか、そう。

  「じゃあ、皆を起こしてくるから」

  「ああ。私はご飯をよそっておくから」

  ルビアスに軽く手を振って、廊下を行く。少しだけ、足早に。

  恋人というか、なんか父親に甘えるみたいなんだよな。

  というところまで思考が及んでしまって、朝の眠気は実に綺麗に吹っ飛び、そして恥ずかしくて顔を見る事ができなくなってしまった。

  山での生活が長ければ長い程に、こうした街の中。別段格式ばったともいえないところであったとしても、文明という物に触れて生きてゆくのには

  慣れと時間が必要だった。

  俺は正直、そこまででもなかった。元々貴族だし、ただ貴族といっても大金持ちでなんでもできるという程でもなかった。使用人になんでもやって

  もらっていたという程でもなかった。だから、別段街で暮らす事にそれほどの抵抗もなかったし、必要以上の努力も必要なかった。

  ただ、連れてきた子供達にとっては中々そのままとはいかない事も多かった。最初の内は、館の中から中々外に出ようともしなかったし。街の子供達

  とも接点を持てずにいた。

  それが、少しずつ、少しずつ。交流をする事ができる様に最近はなっていた。一つには、俺とルビアスの顔が街で知られる様になってきたというのが

  大きい。

  俺は魔術を専門に、していた訳じゃなかったんだけど。山の中で風雨と戦う内にすっかりそっちの方に精通する様になってしまったので、金を稼ぐ分

  にはまったく事欠かなかったし、その上で軽い治療の様な物もできる。

  「ヴィル先生、次はうちのもお願いしますよ」

  「ああ。……だけど。俺のは本当に応急処置程度なんだから、ちゃんと養生してくれよ」

  そんな訳で、いつの間にか周囲の人達からは医者か何かの代わりとして声を掛けられる様になっていた。庶民、それも金を持っていない底辺層は、

  医者にかかるのもそんなに簡単にはいかない。山の中で蓄えた知識が、意外なところで力を発揮していた。簡単な薬なら、作る事も一応できる。ただ、

  本業からすればやはり鼻で笑う程度の物だ。その足りない部分を、魔術で補っている。気の巡り、血の巡り。そういった物から来る症状なら、俺の

  力は大分効果を発揮する。そのため、日々の労働で傷めた身体を診る、という点においてはかなり都合が良かった。大抵は、どこか傷めて。その傷みを

  抱えながらも仕事を休むわけにはいかないが故に、どこかしら滞ってしまう。そういう風になる。それでも足りない時だけ、薬を煎じて出してやる。

  診る相手が居ない時は、魔術の品を用意してはたまに街にやってくる魔導士達に売りにゆく。先日の旅芸人の様な、自分でそれらを用意するのは

  苦手というタイプにはよく売れた。

  その二つの収入があるので、正直なところ俺一人で子供達を、そしてルビアスも不自由させないくらいの暮らしを送るのは難しい事ではなかった。

  そしてルビアスはというと、まずあの体格だ。どう見ても一般人じゃない。どう見ても農業だのに従事してる奴ではない。どう見ても腕が立つ。

  そんな訳で、ルビアスが居るというだけでまず周辺の治安が良くなるのだった。加えて当人の、聖騎士として骨の髄まで叩き込まれたであろう礼節と、

  柔らかな物腰。俺が最近、父の様に感じてしまって甘えてしまう部分がある様な。そう、包容力って奴だ。そういう、俺には無い物をルビアスは沢山

  持っているので、これもまた評判になっていた。

  俺が患者を抱えてしまったので、その分余計にルビアスが子供達の引率を引き受けているのも、そういった部分を後押ししている。優し気で、

  逞しい壮年のルビアスがそうして子供達を大切にしている光景なんていうのは、まず一定以上の年齢の女の心をかなり容易く撃ち抜いていたし。ちょっと

  嫉妬してる。子供達が楽しそうにルビアスと遊んでいるので、その内街の子供の方も、そこに交ざる様になって、気づけば子供達は街の子供と馴染める

  だろうか、なんて心配はどこへいったのやら。あっさりとそこから交流がはじまっていた。ルビアスの紳士然とした立ち居振る舞いに、周囲で暮らす

  人々がまず信頼と安心を寄せているのが強かった。それがなかったら、さすがに他所から来た奴に自分の子供が近づくだなんて、心配でたまらなかった

  だろう。

  ヴィル先生。ルビアスさん。

  そんな感じで、最近は俺とルビアスは周りからそう呼ばれていた。なんか、むず痒い。はっきり言って俺は若造なのに、先生って。

  「そんな風に言わなくてもいいんじゃないか。実際、ヴィル。君がそうして治療を施す事ができるのは、事実なのだし。それは、私にも中々できない

  事だよ。応急処置は確かにできるが、体内に巡る様々な脈に働きかけて、回復を促す、などというのは」

  「でも、本当に辛い物は、どうしようもないだろ……?」

  「それでも。以前よりも生活が改善したのは確かだろう。だから皆は、自然と君を先生と呼ぶ」

  時折、俺の手ではどうしようもない奴を紹介される事がある。医者は呼べないから、俺の様な奴にと縋る思いで声を掛けてくる相手が居て。

  だけど、そういう時俺は何もできない。俺にできるのは、元気になる素養をまだ失わずにいる物の後押しに過ぎない。

  もうそれを持たない者は、どうしようもない。そういう身体に俺の力で促しても、なんの反応も得られないか、或いは悪化する。一歩も動けない相手に

  補助をして少し動かしたところで、悪化するだけなのと同じだった。悪くなっている部分を、まるごと取り換えたり、切除したりする事ができないと

  いけなかった。

  そんなの、その辺に居る医者でもできないだろう。だから、どうしようもないのだった。

  ……。

  それは、置いといて。そんな訳で、俺とルビアスがそれぞれに街の人達に認知され、また親しみを持ってもらえたので。俺達が連れている子供達も

  また少しずつではあったけれど、街に馴染む事ができた。それに、事情を隠す必要もなかった。山の中で、生活苦により親から見放された子供を引き

  取り、彼らのための生活の基盤となる場所が必要だった。これは、この街に入った時にルビアスが申請した理由でもあって、そして口にするのが憚られる

  話題でもなかった。素直にそういえば、むしろ周りの目は同情的にさえなった。実際、ラッシグ地方の山中にある集落はその様な状態になっている、

  という噂の様な話もあったらしい。そんな噂の中に、雨を降らす魔導士の噂も交じっていたらしいが。まあ、噂は、噂だ。

  それから、年長組。ミカル達の活躍も、最近では目覚ましいものになっていた。

  「おはよう、兄貴!」

  俺が声を掛けようと子供部屋まで行くと、もう既に扉は開かれて。当の年長組が揃って子供達を起こしにかかっていた。俺はそれに頷く。

  「偉いな。ミカル。アウィド。ルー」

  揃っている年長組に声を掛けると、それぞれが朝の挨拶をしてから、軽く一礼をしてくる。この辺りも、教育の賜物だ。

  狐のミカルの傍に居るのは、黒豹のアウィドと、犬のルーだった。俺は最近、ルーを目にかけている事が多い。なんと、ただの平民であるはずなのに、

  わずかばかりの魔力を感じるのだ。無論、俺やルビアスの様に戦闘に使える程ではないが、上手くやれば将来働き口には困りらないだろう。一方

  アウィドの方は、身体が弱い、将来性が無いからと見捨てられる子供達の中では別格に体格が良かった。そのため、最近ではルビアスの指南を

  受けている。ただ、安易に武術を教えてはいない様だった。まずは武術を行使しても問題のない段階まで、精神の方を鍛えたいのだろう。

  「今後、子供達がどう生きていくのか。それは各々の判断次第だろう。だが、礼節に関しては知らないよりは知っていた方が良い。取れる選択肢が

  多いのと少ないのでは、人生はまるで違ったものになるだろう」

  とは、ルビアスの言である。そんな訳で、元々ミカルに関しては俺に教えを受けたいと口にしていたので今更な話だが。それ以外の子にも教育が

  少しずつ及んできていた。前からそれができたのならそれが良かったんだが、生憎あの山の中ではなぁ。そんな中でも学びたいという姿勢を示した

  ミカルの意志の強さを、改めて実感する。

  「選択肢が多ければ、人生も違うものになる、か……」

  ルビアスのその言葉に、俺はなんともいえない思いを抱いたのを今でも憶えている。まったくその通りだと思う。最初に地滑りに巻き込まれて倒れて

  いたルビアスを前にした時、俺は多少のリスクを承知しながらも結局は助けた。もしあの時の俺の心がもっとささくれていたり、警戒心が強かったのなら、

  きっと俺はあの時、ルビアスを殺していた。そこまでしなくても、見捨てていたし、そうされたらルビアスはいくらあの体力馬鹿とはいえ、生きては

  いなかったかも知れない。

  だけど俺はルビアスを助ける選択を選んで、そうしてその結果によって、ルビアスと共に山を下りたのだった。

  人生が違うものになった。あの時程、それを思い知り。そして後にルビアスの言葉ではっとさせられる事も、今後は中々ないだろう。

  ちびっこ達を連れて食堂として利用している部屋に向かうと、既に入る前からいい匂いが漂ってきて。目が覚めたばかりのちびっこ達が一斉に歓声を

  上げる。

  「おはよう。全員分きちんとあるから、焦らないで食べなさい」

  そこに掛けられる、ルビアスの優しい言葉。うん。どう見てみお父さんだなこれは。子供達も、心なしか俺が面倒を見ていた時よりも柔らかい表情を

  見せる事が多かった。まあ、それだけ山の中での生活は極限だったし、俺はいつも死にそうな顔してた訳で。少なくとも今この光景を見ているだけで、

  俺はともかく、子供達にとっての人生は好転したんだと思いたい。俺に拾われる事ができた。あんな山の中でも生きながらえる事ができた。そんな事すら、元の状態から考えたら好転した方だというのだから恐ろしい。

  どん底を知っているから、だろうか。子供達は、多分普通の、少なくともこの街に居る子供達ともまた少し違って。大きなわがままは決して言わない。

  そしてルビアスに関しては特に従順だ。気持ちはわかる。きちんとした父親を持っていた俺でさえ、家族との別れの後にルビアスの朗らかさ、優しさに

  触れると、ほっとして、安心している自分が居る事に気づいて驚く。父親の様だ、なんて思ってしまう。いや恋人だけど。

  だけど、この子達は……。父親に、母親に。家族から、見放されたからこそ俺の下へと来たのだった。中には見捨てられた子供と仲が良かった子供が、

  後を追ったという場合も稀にはあったけれど。確か、アウィドはそれだったはずだ。体格もいいしな。

  ルビアスと同じ狼の子はまだしも、それ以外の種族の子も、ルビアスを実の父親の様に慕っている。困らせようとはしないし、ルビアスの仕事を何か

  手伝えないかとよく相談している。微笑ましい物だ。

  「だが。そうであればあるほど。私は彼らにとって本当の父親にはなれてはいないのだろうな」

  いつだったか。そんな事もルビアスは言っていた。あれは確か、ベッドの上で……いや、そこは関係ない。思い出さなくていい。

  「甘えるでなく、役に立とうとして私の顔色を窺っている。それは、ある程度は私の事を信用し、また信頼をしてくれているのだろう。それは嬉しい。

  君の様に、長く彼らと一緒に居たという訳でもない私に対する評価としては、上出来なものだ。ただ、裏を返せばそれは……"また"見捨てられるのを、

  恐れているんだ。親を求めているのに、前と同じように求めて、また同じように見放される事に怯えている。私は、彼らの父親にはなれない。努めては

  いるが、それでもどこまでいっても血のつながりはなく。種族の壁は果てもない。本当は、わかっているんだろう。そんな事は。それでも甘えたくて、

  甘えられなくて。私の事を手伝おうとしてくれる。時々、どうしようもない気持ちになって、ただ抱き締めたくなるよ」

  それが、ルビアスの言だった。こういった事に関しては、俺から言う事は特にない。というより、ルビアスの方が二枚も三枚も常に上手だった。

  その上で、忘れてはいけないのは、ルビアスは世直しの旅という、まあ言葉通りに受け取ると笑ってしまいそうな理由だが旅を続けていた身だった。

  今こうしているからといって、それがいつまでも続くとは限らない。絶対だと、約束する事もできないんだろう。

  「ヴィル。どうしたんだい?」

  「ああ、いや」

  子供達の世話を焼いているルビアスの事を見つめて、当たり前だけど、それは俺にも言える事なのかもなと思った。

  俺はルビアスと、恋仲って奴になった。なんだか、今でも信じられない。身体を重ねても、心を重ねても。また後でと離れれば。触れた温もりが冷める

  様に、心の中もまたわからなくなる。

  いつかルビアスは旅に出てしまうのかも知れない。その時、俺はどうするのだろう。連れていってくれと、せがむのか。

  子供達はどうする?

  「美味いな、今日も」

  「ありがとう」

  背中にひやりとした物を感じながら、食事を突っ込んだ。味がわからない、なんて事もなく。

  贅沢な悩みだ。本当に。つい先日まで、生きるか死ぬかだった。その前は、家族を失ってすべてを呪っていた。

  その前は。

  やめよう。もう過ぎた事だ。

  だけど、悲観的な気持ちはすぐに俺の中を通りすぎていった。顔を上げれば、子供達のはしゃぐ声に、美味しそうに食事を頬張る姿に、ルビアスが

  口元を汚した子を苦笑しながら拭いてあげていて。思わず俺も笑ってしまっていて。

  充分じゃないか。そう、思った。例えいつかルビアスがどこかに行ってしまったとしても、今ある物だけで、あまりにも。それだけの物をもう貰って

  いるのに。領地を追われた時に、あの山の中で。何もかもが憎たらしくて仕方がなかったはずなのに。今はここに居て、毎日成長する子供達の様子を

  見て。恋人になったルビアスが居てくれて。ああ、幸せだな、なんて思ってしまっている。そう思わされてしまっている。

  充分だろ。この後どれだけか、もし不幸が舞い込んでしまったとしても。それで自分の人生が最後だったとしても。

  もう充分、もらっただろう。今は、そう思える。それは悲観的ではあったけれども、多分、きっと。ルビアスを本当の事を、本当に俺自身が好きに

  なったからこそ胸の内から溢れ出る、温かい諦観の様な気持ちだった。

  食事を終えて、俺は本日分の患者の予定をまとめた紙を見ながら、薬はどうしようか、なんて考える。それにしても、これじゃ本当に医者だな。

  無論、本当の医者や、魔道までをも治療行為に盛り込んだ奴の様にはなれないけれど。

  朝食を終えたら、洗濯をルビアスと子供達はやっていて。ミカルはその後のルビアスの授業のために準備をするのが日課だった。ルビアスの授業は

  好評で、子供達は日に日に言葉遣いにせよ、基礎的な知識にせよ、しっかりと身についていっているのがわかる。俺も、たまに参加している。

  特に市井の状況に関しての話は、聞いていて中々に面白い。俺は領地を出てからは割と早めに山へと籠ってしまって、そういう部分に関しての知識は

  それほどでもないので、その辺りは聖騎士といえど、旅慣れているルビアスからの話というのは興味深かった。また買い物など、簡単な行為一つで

  あっても、買い方であったり、値切り方であったり、騙されたりしないように、金をあまり持っているように見られないやり方、など。これ子供に

  受けさせる授業かな? なんてものもあったりする。とはいえ、俺とルビアスがその場に居なければ、年長組しかいない訳で、そうすると時には買い物

  などの必要性もあるので、さっさと身に着けさせた方がいいのだろう。

  また、そういった経緯を話した上で「では今日は算術について学ぼう」と話を運んでくれるので、教えられる方としても受け入れやすいそうだ。今

  学んでいるこれが、なんの役に立つのだろう? それがわからないのにただ学ばされるというのは、確かに俺にも気が滅入っていた時期があったのを

  思い出してしまう。領主の息子として、基本的には政の様な物は父と兄が担当してはいたけれど、だからといってまったく勉強をしなくていい、なんて

  事はなかったので。

  おかげで子供達の教育水準は中々に向上していた。そういう意味では本当にルビアスには頭が上がらない。俺に教えられるのは、簡単な狩りや、武術や、

  魔術、それに関する道具の製作、兵法、戦支度……うん。今はどれも、まったく必要がないわ。

  「アウィドの武術の素養も、気にはなるが。まずはその者の根本をしっかりさせなくてはならないだろう。土台が堅実でないというのに、その上にあれや

  これやと建てたところで。それがどれだけか堅牢な建物であったとしても長持ちはするまいさ。あの山で、地すべりがあったのと同じさ」

  そう言われて、それはそうだと思って。俺はまたやっぱり苦笑する。俺の土台は、きっとそんなにきちんとできていないだろうし。

  ともあれ、そんな訳でもうしばらくは周りの奴らにとってのヴィル先生、子供達にとってのルビアス先生は続きそうだった。子供達がもう少しだけ

  育ったら、その時は自衛のための武術も必要になるだろう。もしかしたら、ルー以外にも魔法の素養が見つかるかも知れない。俺の出番はそちらからに

  なりそうだった。

  「兄貴」

  「どうした。ミカル」

  薬を取りに行こうと歩いていると、ミカルに声を掛けられる。ルビアスの手伝いをするのだから、いつもなら忙しそうに準備をしているはずだけど。

  「その……」

  ミカルの表情は、なんだか浮かない。そんな顔で、俺を心配そうに見つめていて。俺は悟る。やってしまったなって。多分、俺がルビアスを見つめて

  いる時に考えている事が、表情に出ていたのだろう。こりゃ、ルビアスも感づいているかも知れないな。

  「悪い。考え事しててさ。心配してくれてるんだな。ありがとう」

  「……うん」

  「最近はさ、山に居た頃と、何もかも違うだろ。暮らしぶりもよくなって、な。ちょっと、夢みたいだなって思ってただけさ。逆に、気持ちの方が

  ついていけてないのかも知れないな」

  これは、ある意味本心だった。あの山から、下りたいとは思いながらも、子供達の事を考えるとすぐにはそうする事はできず。雨と戦う内に、俺は

  自分の未来なんていうものを、元々の家族に起きた不幸も相まって想像できなくなっていた。

  そんな所から、解放された。それも、ルビアスという存在が居てくれるから、今こうして場所を変えてもある程度の余裕を持って生きていられる。

  「兄貴。僕、もっと、大きくなるから。兄貴に頼ってもらえるように」

  それ以上の言葉が続けられず苦笑していれ俺に、ミカルがそんな事を口にして。俺は覚えず笑ってしまう。

  「なんだよ。もう充分、頼らせてもらってるよ。お前が居て、アウィドやルーが居て。子供達の面倒を見てくれてくれるおかげで、俺は医者の真似事

  なんてものもできるし、ルビアスだって一人にできるんだからな」

  近づいて、わしわしと頭を撫でてやる。そうした時だけ、ミカルは年相応に嬉しそうに笑って、軽く尻尾も振っていた。

  一日が過ぎてゆく。

  「ありがとうございました。先生」

  「ん。薬はちゃんと飲んで。でも、俺のはあくまで補助でしかないから、安静に。本人の身体が弱ってたら、元に戻らないから」

  少しぶっきらぼうに返事をして、おとなっていた家を出る。先生って言われるの、いまだに慣れない。世間的に見ても働き盛りではあるけれど、若造

  って程度の年齢だ。ルビアスくらいに貫録が出ているのなら、そう言われるもわかるんだけど。

  今見た患者で今日の仕事は終わりで、だからあとは帰路に着くだけ。

  ハルナァの街は、結構平和な街だった。

  ルビアスと一緒に山を下りて、近場ならとりあえずそこで休もう。そんな考えだった気がするけれど、そもそもルビアスが住む館まできちんと用意

  して、部下にまで助力を乞う程の事をしたのだから。下調べなんてある程度はついていたのだろう。平民の表情は、中々に明るい。俺とルビアスは別

  だけど、子供達は区分すれば平民に。これは身分というよりは、暮らしぶりのの話だ。俺は俺の食い扶持を稼ぐくらいはなんの問題もない、むしろ

  遊んで暮らせるし、ルビアスはそもそも今更働く必要もないくらいに金なら持ってるだろう。ただ子供達はそうではないし、暮らすからには街の平民との

  接点が増える。なので、その街の平民の様子というのは大切だった、特にスラム街の様な物があると、平民以下の暮らしをする貧民が多いという事に

  なるし、治安の面でもよくはない。街の中にそういう場所がまったく無い、なんて事はなかったが。旅芸人なんぞが来るくらいには平和だし、平和とは

  また別に金の匂いがするから人の流れも中々に激しい。出入りが激しいという事は同時に事件も発生しやすいが、その辺りは治めている人物が中々に

  優秀なのか、今のところ危険に出遭う事もなかった。

  だから俺もルビアスも、本当は出す事のできる力を行使する必要もない。

  「今日も一日お疲れ様。ヴィル。仕事は、辛くないかい?」

  「別に、おっさんよりは楽だよ。おっさんは問題ないの」

  二人きりの寝室で、互いにベッドに座って今日の報告をする。最近は穏やかな会話ばかりが続いている。

  「私の方は、そうだなぁ……。慣れてきた部分があるので、楽になってきた、だろうか。はじめの頃は、これでは騎士として戦に出ていた方が楽だったな、

  なんて思う時もあったが。特に、子供の扱いとなると、どうしてもな」

  「ああ、わかる。泣き出したり、喧嘩はじめた時とかな」

  「理屈では通らない事が多い……」

  わかる。すげぇわかる。子供に慣れてない大人のやりがちな事だ。理屈で接しようとして、返り討ちに遭う。あいつらにとっては理屈じゃない。もしくは、

  子供の理屈って奴であって。こっちが持ってるのは大人の理屈って奴なんだろう。だから合わない。すごく、合わない。

  「ミカルがいかにできた奴で、居てくれるだけで助かるか。嫌でもわからされるんだろ?」

  「まったくその通りだ。彼はすごい。それだけ大人びていると少し心配になってしまうが」

  そんな所に現れる、ミカルとかいうできすぎた存在。大人の理屈も子供の理屈も聞き分けては、泣き喚く子供をあっという間に手懐けてしまう。

  正直なところその点に限れば、俺とルビアスはまったく足元にも及ばないくらいにミカルは優れていたりする。ちょくちょく俺が考え込んでいる時に

  心配してくれる様に、相手の気持ちの浮き沈みに凄まじく敏感だった。

  「一人でどれだけかできても、相手の敵……というか。時には注意をする役と、そして味方役は両立できないが故に、ミカル君の存在のありがたさを

  想いさらしれてしまう」

  「そうそう」

  どうしても、何か問題があった時にそれを注意している方っていうのは、それがどれだけか筋が通っていて、口調を柔らかくしたところで、言われてる

  方からすればちょっとむっとしてしまう相手になってしまうのものだ。そういう所に、ミカルは上手く入って、当人の味方になってくれる。その上で、

  注意をしている俺やルビアスと子供達との橋渡し役にもなってくれる。これが上手い。これはもう才能の領域だろう。ハルナァの街に住み着いたばかり

  だというのに、ルビアスはともかく俺が医者の真似事をして家を空けられるのは、まったくこの力のおかげだと言っても過言ではなかった。

  その後も、ルビアスが子供達についての評を少しずつ口にして、時折愚痴っぽく零しては苦笑して耳を下げている。精悍な、狼の騎士。立派な体躯は

  そのままに、そんな事をしているから、なんだかお父さん感がすごくて、俺は笑ってしまう。愚痴なんて零すタイプじゃないはずなのに、子供の世話は

  中々に大変なのだろう。いつもは俺を気遣う言葉の方がずっと多い。それだけ子供の世話もまた大変な仕事なんだろう。

  大変。なんだよな。

  「……ルビアス」

  そんな様子に、俺は思わず口を開いてしまう。

  「ルビアスは……まだ。その。これからも、ここに居てくれるか?」

  俺の言葉に、ルビアスは表情を一度解いて、それからふっと笑う。

  「何を、今更。前にも言ったように、君の傍に居るとも。子供達の事だって、まだまだこれからだろう」

  「それは、わかってる。わかってる、けど……。あんたの旅の方は、どうするのさ」

  世直しの旅。漠然としてして、だけど文字通りに成し遂げようとすると、あまりにも途方も無い旅。きっとルビアス程の力があっても、何もかもすべてを、

  なんてできないだろう。それなのに、この人はここにずっと居ていいのかと。他でもないルビアスが居ると口にしたのに、俺は考えてしまうのだった。

  「……ヴィル。私は今まで、皇国の中だけで生きてきた。騎士となり、聖騎士となって。我が国にあだなす者を切り伏せて、生きてきた」

  立ち上がったルビアスが、壁に飾ってある剣へと手を伸ばす。山を下りる時に使っていたのを見た以来、あの剣はずっとそこにあった。

  「最初はそれでいいと思っていたんだ。愛する祖国のため、と。聖騎士にまでなった。もう、充分じゃないか。そう思っていた。だが、後任を育て上げ、

  空いた時間でふと外を、周りの国を見てみれば。以前ならばすぐに駆け付けて、手を差し伸べていた。差し伸べるべきだと主張していたはずの者達の

  姿があった」

  鞘が抜かれる。白銀に輝く剣の光が、淡い部屋の光の中でも強く見える。そこに映る、寂し気に見つめる狼の顔も。

  「届くんだ。手を、伸ばせば。違うのは、あの者達は……皇国の民ではない。我が国の民ではない。たった、それだけ。それだけが、どれ程に重いのかを

  知っていても。急に、わからなくなった。自分のやってきた事は、正しいと思う。国からしたら、間違いなく正しいと思う。ただ、痛みを他国に押し付けて

  いたという意味では、それもまた違いがないのだろう。今更こんな事をするのは、むしろ虫が良いのかも知れない。罪滅ぼしだなんて表現も、図々しい

  だろうし、少なくとも私は我が国のためにした事は、きちんと誇ってもいる。後ろめたい気持ちがある訳でもない。ただ……」

  ゆっくりと鞘に剣を戻したルビアスが、振り返り、微笑む。簡素な寝間着姿の癖に、やたらと様になっているのは、もう随分長い事そうして聖騎士を、

  自分の人生を捧げてそうしてきた者だけが持つ空気を纏っていた。

  「手が届くのに、助けないのは。やっぱり寝覚めが悪い。そうだろう? 皇国はもう、次代を担う者達だけでやっていける。だから、私は、そう。私が

  手を伸ばせる相手を。私にしか助けられないような相手を。助けたいと思った。だから、旅に出たんだ」

  「ルビアス……」

  ああ。いつもの。前の俺なら、こんな事馬鹿を言っていると笑っていられたのに。今は、そんなルビアスに手を差し伸べられた一人に過ぎなくなって

  しまった。ちっぽけだなって、思う。

  「そうしていたら。君に、出逢った。私よりも、ずっと立派な若者に」

  「俺、そんなんじゃ……」

  「いいや。……自国の者ではないからといつからか考えていた私に、そうしてそれだけではと外に出た私には、眩しかった。今だって、そうなのかも

  知れない。私はこの手を差し出す時に、そうする事でどんな結果を招いても、自分だけは生き延びられるという答えはわかっているから、そうしている。

  誰かに手を差し伸べるのなら、本当に沢山の人を救いたいのならば。自らの足元を固めてなければ、長続きするものではないのだから。だけど、あの時に

  出逢った君は、そうではなくて……無謀なのかも知れない。だけど、君がそうしなかったら、あの子達はきっと、誰一人今、生きてはいなかったのだと。

  食事の席で、授業の席で、そう思うんだ。笑い声があって、時に泣いたり、怒ったりして。ミルカ君がとりなしてくれて。良かったな、と思う。この子達が

  生きてきてくれて、良かったなと。そんな充足と、安堵を知る度に。君が先に手を差し伸べてくれたのだと思わずにはいられない。他の誰かとでも、

  こんな気持ちは得られたかも知れない。だけど、今この気持ちをくれているのは、間違いなく彼らで。そうして彼らに手を差し伸べたのは、君なんだ」

  「俺……そんなんじゃ、ないよ……。そんなに、立派じゃ……」

  「復讐のためにした事だから?」

  「……」

  「だとしても。君が誰かを救った事実は、変わらない。そうだろう? ヴィル。もし彼らが、君がどうして自分達を助けていたのかと知ったとしても。

  それで君を悪く言える子は、そう多くはないだろう。瞬間、助けたというのなら。まだそう言えたかも知れない。だけど君が助けてくれた。君だけが、

  助けてくれた。雨と戦って、ボロボロになっても戦い続けている君の姿をずっと見ていただろう。私だってそうだ。君に結局は助けられたのもそうだし、

  そんな君を愛しいと思ったのも、そうだ」

  「……あの、ルビアス。あんまそういう事言うの、やめて」

  自分の中の打算とか、計算づくなところとか。そういうのだって、俺にだってあるはずなのに。こんな風にルビアスが言葉を並べるのだって、いつもの

  事なのに。聞いている内に。俺は顔が熱くなって、その内降参してしまう。俺の言葉に、にこっと笑う。聖騎士のおっさん。おいおっさん。そういう

  所だぞおっさん。

  「まあ、少し話が逸れたが。ここをもし出るとしても、それはずっと先の話だ。あの子達が、君や私の助けを受けずに生きていられる様になったら。

  その時は、送り出す様に。いや、出ていくのは私の方だろうけれど。君だって、その時は……そうするのだろう?」

  「……まあ、そうなるかな。皆で暮らしていくのは、俺は嫌いじゃない。でも、俺やおっさんの力を考えると」

  家族の様に暮らす。それも、いいと思う。ただそれと、子供達がそれぞれひとり立ち、もしくは子供達だけで生きていける様にはしてあげなければ

  ならない。言ってしまえば、俺やルビアスと、子供達の能力にはあまりにも隔たりがある。いや、俺とルビアスにもかなり差があるけど。

  それほどの差がある者同士が身を寄せ合うと、どうしてもどこかが上手く回らなくなる。一時的に。あの山の中や、今のように暮らすのはいい。ただ、

  それをずっとは続けてはいけないとは思う。

  「少なくとも、一度距離を取って。あいつらが本当にあいつらだけで生きていけるようにはするべきだ。いつまでもずっと傍に居られる訳じゃない。

  これは何も、俺とルビアスだからという訳じゃなくて、普通の家族の話でもあると思う。子供が巣立っていけるように、親はするんだろう?」

  「ああ、そうだな。だから、私がいつか世直しの旅をまた始めるのなら。その時が来たら、だろうな」

  その言葉に、俺は改めて安心、してしまう。その内ルビアスは、居なくなってしまうのではないか。なんて。変だな。ずっと一人で生きてきたはず

  なのに、今更それが怖いだなんて。

  「ヴィル。その時は……君も一緒に、来てくれるかい?」

  「え? ……いいの?」

  「いいというか。むしろ、私は来てほしいとは思っている」

  耳を下げて、それから少し身を縮めて。ルビアスははにかんだ様に告げる。俺よりもずっと大きな狼がそんな風にしているのは、なんだか変な感じだ。

  「でも、君は少なくとも、お金を稼ぐ事に関してはかなり能力があるから。旅なんて、嫌じゃないかと心配してしまうんだ」

  そう言われて、確かにこの街に来てからの俺の動きを見ると、ルビアスからすればそう思えるのかなと納得する。医者の真似事をしながら、魔術の

  道具を制作して売りもする。それらは、金を稼ぐという点ではかなりの威力を発揮する。ただ、実際には俺のような存在は中々に稀有でもある。魔法の

  素養があるという時点で、特異体質を除けば貴族の血が。多寡はあれど流れているのだ。そうしてそういう自負を持っている者は、平民に対して

  何かをしてやるという事にあまり関心が無いし、地位や名声を得ようとする。あるいはそういう物すらどうでもよくなって、魔法に関する研究や

  自分の腕を磨く事に躍起になって、自分以外に興味を持たなくなってゆく。

  金だけを稼ぐのなら、それこそ貴族然としていた方が賢いだろう。勿体付ければ金が積まれる。相手を選べば金が積まれる。そんなもんだ。積めない

  奴は相手にされない。俺が今見ている平民もそうだし、趣味で作っている魔術の道具を買ってる、正道から逸れた魔導士もやっぱり相手にはされない

  だろう。

  「本当に贅沢がしたいなら、もっとやり方がある。そんな事、おっさんは気にしなくていいよ」

  「そうか。では、その時が来たら。改めて君を誘おう。私の人生の、共連れになってくれないかと」

  「ばーか」

  そんなぶっきらぼうな返事をした辺りで、その日の話し合いは終わる。ルビアスというのは、不思議な奴だった。抱いている不安も、話している内に

  ゆっくりと溶けてゆく。溶けて、無くなって。身体を重ねている時の胸の高鳴りとは別の物をくれる。安心する。

  そんな事の繰り返しなのかも知れない。ルビアスと一緒に居る、というのは。

  ちょっと、ルビアスがあんまりにもできすぎているから、都度俺は心配になってしまうだけで。

  いつもの様にルビアスに送り出されて、いつもの様に日々を送って、夕陽を見ながら、街をゆく。

  ふと、俺は足を止めた。違う場所に足を踏み入れたと思った。辺りを見渡さなくても、わかる。さっきまで周りに居たはずの人々の姿が、どこにも

  見当たらない。

  「それでも不安になってしまうんだろう? だってそれは、ああ。仕方がない。だって仕方がない。自分が幸せになればなる程に、君の家族はあんなにも

  辛い最期を迎えたというのに。君だけが。自分だけが幸せになってしまっているって。そう思うんだろう。そうしてほら、見てごらんよ。君の家族を

  滅茶苦茶にした奴らの今を。知っているかい? 知る手段がない? 本当に? 君の大切な彼は、教えてくれない? 知りたくない? 知りたくない。

  本当に? 教えてあげる。ほら……」

  声が、響き渡る。俺の頭の中に。夕焼けの真っ赤な世界が、そのまま頭の中にまで入ってくるように。

  粗野な恰好が、似合わなかった。

  ボサボサの被毛と、野生の滲みだした鋭い瞳。それでもまだあどけなさの残る顔。

  「どうか、あの人攫いの魔術師を退治してください。お願いします」

  そう口にした者の言葉を、信じた訳ではなかった。騎士として、聖騎士として長く生きてきた。ただの山の民に騙される程に鈍いはずもない。私が

  心得たという言葉を口にしただけで、いやらしい笑みを隠す事もせずに曝け出していた。

  ただ、それだからといってその魔術師という輩に対して好意的だという訳でもなかった。なまじ、魔導に長じている者の始末の悪さは骨身に染みている。

  そういう存在なのだ。魔導士とか、魔術師とか、そういう輩は。何かを失って、代わりに何かを得た者。何かを得るために、何かを捨て去る者。

  山の民の言葉を信じるかはともかく、子供を拾い集めている魔術師。それを捨て置けるはずもなかった。

  それでも、足を運んだ山の中で私が見たのは、予想していた景色とは違っていた。私でも感じられる程度に、巨大な、けれど力自体はそれほど大きい

  訳ではない魔導の領域が広がり、何をしているのかと見やれば、それはただ雲を散らし、雨を遠ざけている。目印にしては丁度よく、数日山の中を

  進む内に、それがどういう物であるのかも理解する事ができた。ただ、何故こんな山奥でと、思うばかりだ。

  時折、領域が弱くなる。慌てた様に強くなって、雲を散らす。痛々しい程のその力が、その持ち主がどのような人物であるのかを教えてくれる。

  それほどまでに困窮しているというのなら、今必死に抗っているこの人物はその気になれば、こんな山など捨てて単身外へ行けるはずだ。

  何故それをしないのか。捨てられない研究の成果でもあるのか。

  子供を集めていて。

  気づけば、鞘から剣を抜いて力を解き放っていた。

  「必要な時に使うといい。ただし、無駄撃ちはしない様に。それからお前の宿敵にも使わないように。さすがに、競り負ける。それから」

  これを受け取った時の、忠告を思い出す。

  「それから。足場が不安定な場所で最大出力では使わない様に。衝撃にお前の身体が耐えられても、その身体を支える場所そのものが耐えられるかは

  また別の話なのだから」

  光線が雲を貫く、光の柱が空に立ち昇る様に、一直線にそれは雲を穿ち、食い、雨を消す。そして反動がやってくる。全身に重石を乗せられたかの

  様な。特に問題はない、私は。

  友の忠告を無視した一撃で、見事に足元が崩れ落ちる。致し方ない。長雨続きのこの山の中。安定した場所、なんて物は求めたところで見つけられない。

  そう苦笑しながら、私は地すべりに巻き込まれていった。

  次に目が覚めた時、私は目的だった魔術師に介抱されていた。

  それが、ヴィルとの出逢いだった。

  粗野な恰好が似合わない。目つきの鋭い、それでもあどけなさの残る虎の顔。

  言動の端々に育ちの良さを滲ませては、私が魔術師の討伐を頼まれたと聞くや悪ぶった態度をとっていて。

  それでも、どんな態度を見せられても。浚われたと言われた子供達が一心にヴィルを慕っている姿と、必死に雨を払うヴィルを見てしまえば、それが

  答えとなって私の脳裏に焼き付いた。ただの平民の出ではない事はすぐにわかった。これだけの魔力を持っているのだから、基本的には貴族だろう。中には

  突然変異の様に力に目覚める平民がいないでもないが、その辺りはヴィルの言動でそうではないと判断できた。どれだけか悪人の様に振舞っても、結局の

  ところヴィルは根が善人なのだ。この状況で子供達を見捨てたところで、別に悪だと判断される訳でもないのに、ヴィルは必死に子供達を守っては、

  いつ自分が雨に負けてしまうのか気を揉んでいて。

  そんなヴィルの姿を見て、私はしばらくそこに留まる事に決めたのだった。

  ともに食事を取り、必要とあらば協力を申し出て雨雲も散らした。その所業が、どれだけ常人離れしているのかも思い知った。力自体が強いかというと、

  それは違う。ただ、とかく繊細な力の使い方だった。ペース配分を誤れば長雨に対抗できないし、なるほどこのせいで、遠くから眺めているだけでも

  領域が時々解かれていたりしたのだなと納得する。ヴィル一人以外に誰も力の強い者が居ないというのも、納得だった。

  二人がかりで、ようやく極端な無理をする事なく雨雲を退けられる。そんな程度だった。一人でそれをやっていたというのだから、これは中々に

  現役の騎士でも根を上げかねない重労働だった。もっとも騎士は魔術に関してそれほどの物を求められないので、大抵はそもそもできないのだろうが。

  私は膂力も魔力も強かったが、それでも魔力を繊細に扱うという点ではヴィルにはまったく及ばなかった。彼の力は、この生活をする上で培われたもの

  だという。そういう所は、戦場と似ているのかも知れなかった。実戦で死すれすれの状況に到達しないと、開花しないものがある。座学がいくらできても、

  実技でどれだけか結果がよくても、戦場に立って本当にそれらを役に立たせる、自在に行使できるかどうかは、当人の資質、胆力次第だし、その上で

  そこから昇華して更に上を目指せるのかどうかも、やはり当人次第ではあった。

  そういう意味で、ヴィルは既に魔術師として、どこかの国に仕えては城に勤めてもおかしくない程の腕を有していた。

  それでも、その心はまだ幼かった。

  「父さま。母さま。ごめんなさい……兄さま……」

  眠っている時、時々ヴィルは魘される。そういう時、決まってその言葉が。消え入りそうな声で口から出ては、震えて蹲り、涙を流しては謝罪を

  続けていた。そういう時に、はっとさせられる。ヴィルの腕前を見て、子供達の面倒を見ている姿に、立派な男だと思った。だけどそれは、ただ一見して

  そう見えたというだけでしかなかった。己の身すら顧みない献身だって、結局は見通しの甘さである。

  それでもヴィルは、投げ出さずに、子供達を守っていた。もっと言えば、救っていた。寝言から察せられる、当人の苦しみなど起きている間はおくび

  にも出さない。

  「この傷の事も、肩がしびれている事も、言わないでくれ。特に、ミカルには……」

  湯けむりの中で寂しそうに笑ってヴィルが言う。

  その背中の傷は既に古傷のそれになっていたが。気づけば私はそれから目が離せなくなっていた。醜いからと、見ていた訳ではない。

  傷だらけになって、今も傷ついているのに。自分より後に生まれ、力の無い子供達を必死に守っている姿に、どうしようもなく惹かれていたのだった。

  騎士には、名誉があった。

  守るべきを守り、倒すべきを倒し、仕えるべき相手に仕える。幼い時分を、憶えている。こんな風になりたい。そう思ったものだ。

  今、目の前に居るヴィルに。あの日の気持ちに似たようなものを抱いた。見通しの甘さはあるだろう。当人の言うように、そんなに善人という訳でも

  ないのかも知れない。それでも、この青年はこの先に得られる名誉も、地位も、財産も。何も無いはずなのに、ただ子供に手を差し伸べていて。

  だけどそれが結局は、復讐のためだったのだと知って。それでも私は、ヴィルの事を嫌いにはなれなかった。例え真実そうだったとしても、結局の

  ところヴィルはお人好しで、助けてを求める子供の存在を無視できない性質で。

  「俺、何も持ってない。何も持ってないんだなぁ……。あんな奴のところまで行くための力も……。ごめん、ルビアス……ごめん……」

  言葉と共に、眠っている時しか決して見せなかった涙を流すその姿が、私の胸をどうしようもなく搔き乱した。気づけば私も、涙を流していた。

  助けて、と。そんな言葉すら言えなかった青年の、少年の。述懐に。どうして私は、この青年が本当に辛い時に、傍に居られなかったのだろうと、

  歯痒くなった。そんな事は仕方がない事だ。当たり前の事だ。理屈ではわかっていても、納得ができなかった。同時に、ここまでずっと傷つけられ、

  奪われるばかりの生を送っていたはずなのに、それでも小さな子供を抱き締めているヴィルへの愛おしさが、堪らなく胸から溢れたのだった。

  彼よりも強くなければ、彼を抱き締めて支える事はできない。けれど、彼より強い存在は、彼の周りには居なかったのだった。どちらがより辛いか

  なんていう訳でもなく、彼の前に居るのはいつだって自分よりも弱い存在だったから、死んでしまいそうな程に身も心も傷ついているのに、彼はまだ

  どうにか動く身体を使って、救えるだけ救って。私が初めて会った時ですら、そうしていて。

  いつか壊れてしまう。

  そう思い至った瞬間に、ぞっとした。誰かの死を、悼む事はあった。だがそれは、仕方がない事だとも思っていた。例えば共に戦場に向かった騎士の

  戦友が居たとして、戦死する状況は多々あった。しかしそれは、仕方がない。ともすれば命を奪うのだから、奪われる事もあるだろう。悼みこそすれ、

  仕方がない事と割り切り、そしてそんな友の分まで自分は生きようと思い定めて、前を向いて生きる決意を改めて固める。それこそが友への手向けだった。

  だけど、目の前で今にも壊れてしまいそうな虎の青年の、ただ涙を静かに流し、口元ばかりで笑う。ひびが入った容器が、今にも割れてしまいそうな

  様子が、私には耐え難い物に見えた。

  愛おしさと、危機感と、何もかもが綯い交ぜになる。こんな欲求を、今まで知らなかった。ヴィルに向ける思いが、愛情が一番に強く、次に憐憫が

  続き、最後に庇護欲が続く。守りたい。この青年を、この子を、守りたい。そう強く思った。

  気が付けば私はヴィルに告白をして、山からもまるで連れ去る様に、子供達を連れて下山をした。使える物をすべて使った。いくら聖騎士としての

  立場があるとはいえ、所詮ここは皇国の外。相当な横紙破りをした自覚を持ちながら、それでもかつての部下に頼み込んだ。正直ヴィルには仔細を

  知られたくない。ただ、部下の方は、二つ返事で私の下へと馳せ参じてくれたのは幸いだった。

  「ようやくルビアス様から頼っていただける事、望外の喜びでございます」

  そう言われて、苦笑する。確かに普段はあまり頼る事はなかったが。立場を利用して、自分ですればよい物を任せるというのはどうにも性に合わない。

  ただ今回は、私一人の力では限界があった。戦場に立つだけであったのなら、どれだけ楽かと思う。

  「どうか私の剣と、そして愛とを、受け取ってはいただけませんか」

  そうした紆余曲折を経て、私はヴィルをハァルの街まで案内し、そこで改めて想いを伝えたのだった。

  正直なところ、反省している。かなり強引な真似をしたと思う。守りたい、なんて清い気持ちだけではなかった。

  失いたくなかった。いや、この言い方も大分綺麗な表現だ。

  欲しい。……多分、これだろう。産まれて初めて、こんな風に誰かに対して思った気がする。

  ヴィルはかなり戸惑いながらも、私の想いを受け入れてくれた。押し切った形だが、それでもヴィルは受け入れてくれた。同時に、安堵もする。

  独りにさせてしまうと、復讐の事を考えてしまうかも知れない。それが、私には不安の種だった。

  「もう諦めたって、言っただろ?」

  ヴィルは、そんな風に言う。けれども、子供達と一緒に居て、はしゃいで。幸せな家庭の様な時間を過ごしている時。時々、堪らなく申し訳なさそうな

  顔をしている時があるのを、知っていた。

  まるで自分だけが満たされている事に、嫌悪感と申し訳なさを感じている様なあの顔を見る度に。そんな事はないのだと、幸せになったって良いのだと、

  強く思う。傷ついて。傷ついて、傷つけられて、傷ばかりを負いながらも子供達を救い、抱き締めながらもまた無茶をして。その内、すり減って、

  消えて無くなってしまうのではないのかと。そんな気分になる。

  そうして、まるでそんな予感が的中するかの様に。

  ヴィルは。不意に姿を消した。子供達と、私の待つ家に、帰ってこなくなったのだった。

  いつもの様に、仕事をするからと出ていって。

  けれど、いつもの様には帰ってこなかった。

  最初、私は胸に僅かな胸騒ぎを感じつつも、動かなかった。というより、子供達の方がヴィルが居ない事に不安な表情を見せていたのだった。たった

  一夜の無断外泊、といえば軽い物に感じる。年頃を考えたら、なおさらだった。ただ、周りは知らなくてもヴィルは私の恋人だし、そもそもヴィルは

  子供達の生活に、こうして街に移ってなお心を砕いていた。遅くなりそうな日は遅くなると事前に告げるし、患者の容体次第で無論遅れる日もあるが、

  それでも深更を過ぎる頃には帰ってきていた。

  更に急患でも入ったのかも知れない。もし目の前にそんな相手が居て、自分にしか助けられないとしたら。きっとヴィルはそうするだろうから。

  ただ、次の日も。ヴィルは帰ってこなかった。さすがに子供達にも動揺が走る。いくら急な仕事が入ったとしても、一度戻ってきて事情を説明してから

  また行くだろう。

  「ミカル君、申し訳ないが、皆に気を配っててくれるかい。私は少し街を探ってみるから。夕方には戻る」

  年長組を集めて、特にミカルにはよく言い含める。ヴィルと話した通り、その存在がとてもありがたかった。

  親だけでなく、ヴィルにまでついに見捨てられてしまったかも知れない。

  今、子供達の中に広がる動揺はそれだった。山の中ではなく、街であるからそこまで大きな騒ぎにはなっていないが、この状況で私まで家を空けて

  外に出るのは、ミカルが居ないと不可能だ。実際、私まで外に行こうとすると、不安そうな顔をされて。なだめるのに時間が掛かった。

  ただ、誰もが本心ではヴィルに見捨てられた、とは考えていないのも事実だった。当人がどれだけ否定しようとも、その言動に子供達が身を預けたのだ。

  ずっと戦うヴィルを見てきたから、信じてここまでやってきた。今、まだ街での生活ははじまったばがりだが、順調に事は運んでいる。

  もういつヴィルが手を引いたとて、誰も文句は言えないくらいの状況になっている。無論、まだ年長組の才覚だけでは全員を食べさせるのは難しいから、

  私にせよヴィルにせよ、手を引く気はなかったが。

  「師匠」

  外へ行こうとすると、声が掛けられる。黒豹のアウィドだった。師匠、と呼ばせるつもりはなかったが。最近のアウィドは体格もすっかり大人に近く

  なってきて、膂力もついてきていた。ミカルほどの知識や頭の良さがある訳ではないが、乞われて最近では少しずつ棒術の稽古をつけている。武術を

  扱うには、まずは精神からと考えていたが、その辺りはミカルの影響があるのか、アウィドには卑しいところはなかった。

  元々、純粋な上に友達思いだ。友人であるルーが山の因習によって見捨てられた時に、飛び出してその手を取った。体格の良さから、家を継ぐ予定

  だったはずなのにだ。その心意気は、私がヴィルに抱いた好感に似ている。自分の身を省みていては、今目の前に居る人は救えない。

  そういう意味では、アウィドは充分に立派な精神を宿していた。ヴィルが二人を拾った時も、アウィドは力尽きたルーを背負って、まるで獣そのものに

  なった様な凄まじい眼光をヴィルとミカルに向けていたらしい。

  「アウィド。留守番を、頼めるかい。急な事で、ここは君に守ってもらわないといけない。ただ、どうしても危険な相手が来たら、逃げなさい」

  「大丈夫、です。俺。その辺の奴には、負けない」

  「まあ、それはわかってるんだが」

  呑み込みの早さが凄まじい。教えてみて、まずすぐにそれがアウィドからは伝わってきた。これは、出が貴族なら魔法が扱えなくても充分な武器と

  なるし、平民であったとしても武術の師範代など、教えを授ける者になれるかも知れない。実際、暴漢の一人や二人くらいならもはや軽く倒せてしまう。

  それでも、先に精神についてのしっかりとした土台を築いてよかったと思った。これほどの強さ、そのままでは絶対に驕るだろう。

  一度、そういう顔を見せた時があった。その時だけ、私は散々にアウィドを叩き潰した。ヴィルが心配そうに見つめていたくらいだ。

  「君は強い。でも、その年齢にしては、だ。その程度だ。それだけは、忘れない様にしなさい。私はただそうしないだけで、ひと呼吸の間で君を何度か

  殺すくらいはできる。ヴィルにせよ、そうだろう。ただ、そんな事はしないというだけだ。君が自分の力を過信せずに生きるのなら私は全力で応援を

  するし、これからも教えを授けよう。しかし道を踏み外すのならば、それは私の本懐である、世直しの妨げになる。アウィド。理解しなさい」

  傷だらけになって転がり、目だけで私を見ているアウィドの目には怯えが走っていた。そういう風に打ちのめした。ただ、次の日からアウィドはますます

  礼儀正しくなり、より私の教えを受けたがった。

  実のところ、アウィドの指導に関しては私よりもヴィルの方が今は向いていると思う。最近はもっぱら魔術に関する腕前ばかりを披露しているが、

  元々は騎士としての教育も受けていたらしく、武術に関しても相応の心得がある。が、ヴィルは患者を診るのに忙しかったし外出の必要があるので、

  私が受け持つという形だった。ちなみに私とヴィルで戦った場合、時間はかかるが多分私が勝つ、はずだ。雨雲を長時間退けられる様な所業などを

  含めて、ヴィルの能力は戦闘よりもそれ以外に対しての効果が高い。ただ、周囲の状況を、まるで網を巡らせた蜘蛛の様に。自分の探知圏内に入った物を

  察知して処理する能力は、あの雨との戦いで散々鍛えられたらしく、これに関しては私でも敵わない。何度かあの雨との戦いの際にも代わった事が

  あるが、今でも思い出すだけで頭が爆発しそうな気がする。それくらいに厳しい物で、そんな事を何日にもかけて行い続けていたヴィルの凄まじさは、

  力の強さよりもその繊細さによるものだと理解できるだろう。武術に関しても、死角が基本的に存在しないので、相対すると結構攻めあぐねる場合がある。

  なので、もし私がヴィルと戦った、勝とうとすると。とにかく力を籠めた一撃を如何にしてヴィルに当てるか、という一点に目標は絞られるし、それが

  できるかどうかなので、そしてヴィルは状況を把握する能力にあまりにも長けているので、当てればすぐに終わるはずなのに、中々終わらない。そんな

  戦いになるのだった。

  もっとも、ヴィルは今や守るべき相手。剣の主にして、我が伴侶。決して剣を向ける事などないのだが。

  「師匠の事は、心配してない……です。でも、ヴィル兄の事は、どうかお願いします」

  「ああ。任せてくれ」

  必ず連れ戻す。とは言わなかった。世間的に見れば、年頃の男が二日戻ってこなかっただけ。大袈裟な話だろう。

  そう思って心の中で呟くに留めて、街へと繰り出す。

  「あら、ルビアスさん。こんにちは」

  「こんにちは。お嬢さん」

  外を歩くとすぐに、近所に住む娘が笑顔で迎えてくれる。それに笑顔で応える。

  「珍しいですね。まだお昼過ぎだから、いつもなら皆と一緒なんでしょう?」

  「ああ、いや。実は、ヴィルを捜していてね。見なかったかい?」

  「ヴィル先生? 戻られてないんですか?」

  娘はとても意外そうな顔でそう言う。先日、娘の母親が具合を悪くした時にヴィルが診察をしたのもあって、とても好意的な娘だった。

  「ええ。ほんの数日だから、気にしすぎかなとは思うけれど。受け持つ患者さんの方にも、昨日は行っていなかったみたいで」

  「そうなんですか……。ヴィル先生はとても人気ですから、心配ですね。お金も碌に持ってない私達には、本当に居てくださるだけでありがたくて」

  ヴィルは、治療にはあまり金をとらない。というより、持っている者からは貰うが、持っていない者からはそれほど取りはしなかった。どうしてもと

  言われた時だけ受け取る様な、そんな物だ。もう少しがめつくなればいくらでも懐は潤うだろうが、その辺りの赤字は魔術の品を作って売る事で相殺

  していた。

  「別に、金なんて直接的な物が返せなくてもいいんだ。俺がこうしていて、周りの奴らに一目置かれたり。おっさん。あんたみたいな奴が居てくれれば、

  悪漢だの、そういう類の奴も大人しくなる。大きな範囲じゃなくてもいい。あいつらが育つ場所の治安を良くする。環境は、あっちの家の家族や、

  こっちの家の家族が寄り集まって作ってくれるもの、だろ? 金なんていい。"良い環境"って奴になってくれれば、それでいい。長い期間でなくてもいい。

  あいつらが、育ってくれるまでで。あとは育ったあいつらがそれを続けたいなら続ければいいし、他所に行くならそうすりゃいい」

  とはヴィルの言で、なるほどと感心した物だ。確かに治安が良くなり、病に対する備えも多少はできるとなれば、その周辺に集まる人々は心穏やかに

  なり、子供達にとっては良い環境になるだろう。

  娘に別れを告げて、私は更に足を、ヴィルの足跡を辿る。

  居なくなった当日の患者の下には、足を運んでいたらしい。その辺りもヴィルはきちんと、今日は誰の下へ行くとリストを制作して、机に忍ばせていた。

  基本的には私はそれを見ないが、こういった時にそれを辿るためのものだ。結果、当日のリストにある患者はすべて診て、日も暮れてきたから帰る。

  そういう所までは目撃されていたが、その後はわからなかった。次の日のリストにある患者の下には、向かっていなかった。

  忽然と、消えてしまった。まるで世界から急に居なくなってしまった様に。

  最後の患者の下を去ってから、家に帰るまでの間の部分が綺麗に抜け落ちていた。

  「妙だな……」

  指を顎に当てて、思案する。既にヴィルの周辺での知名度はかなりの物だ。通りすがれば大抵の者が挨拶をするくらい、世話になっているし、各々の

  家に足を運ぶ過程でその場所の情報なども耳に入れている。つまるところ、下手にヴィルの不興を買うとまずい、という方に人々も動いているのだ。

  もっともヴィルはそんな風に暴れたりはしないし、それだからこそ人々はヴィルに敬意を払ってもいる。そういう存在が、各々家に戻ってゆく夕暮れ時に

  歩いているのに誰からも見咎められず、どこに消えたのはわからない。誰かにかどわかされた? しかしそれをされるには、はっきり言ってヴィルは

  強すぎる。その辺の暴漢では話にならないし、魔法に関しても多少かじった程度なんて欠伸をしながら追い払ってしまえるだろう。

  調査は、その辺りで行き詰まった。そして丁度、ヴィルが消えてしまった様に、夕暮れ時だった。そろそろ戻らないと、子供達を不安にさせるだろう。

  吉報を持ち帰れなかったのは心残りだが、私はそこで一度切り上げた。もしかすると私も同じ様に、この世界が赤々と燃ゆる時間に何かをされるかと

  思ったが、そんな事はなかったし、ヴィル程ではないが私も周囲から認知される様にはなっていて、軽く声を掛けられながらの帰宅となる。仮にここで

  私がいきなり消えても、ヴィルの様に誰も行方を知らない、なんていう事にはならないだろう。

  やはり、異質な消え方だった。あまりにも綺麗に消えてしまったから、それが違和感になってしまっている。

  館に戻ると、子供達が一斉に集まってくる。私が申し訳なさそうな顔を見せると、それで察した様だった。

  「すまない。何も、進展らしき物は。ただ……あまりにも、綺麗に消えてしまっていた。痕跡が無いし、足跡が辿れない。逆にいえば、ヴィル当人が

  自らの意思で。こういってはなんだが、生活に嫌気が差して逃げ出した、とか。そういう訳ではないだろうね」

  残った年長組に対しては、もう少し子細な情報を伝える。もっとも、それも大した情報かと問われればそうでもないのだが。

  「誰も、兄貴がそんな風にして逃げただなんて思ってはいません。ただ、心配していて」

  「ああ、そうだな。すまない。明日ももう少し足を運んで調べてみるが、構わないだろうか?」

  「それは勿論。むしろ、そうしていただかないと。僕達はまだ、遠出をしてどうこうする、なんていう事ができる訳ではありませんし」

  これに関しては、年長組はできると判断した方が正しいが、しかしそれより下の子供達の面倒を見る者がどうしても必要だった。

  少ない情報のやり取りをして、部屋へと戻る。本当は不安がる子供達の下へ行くべきだろうが、その辺りはミカルが気を遣ってくれた。

  「どこへ行ったんだ。ヴィル……」

  部屋で一人になると、ずっと肩ひじ張っていた状態から私は盛大に力を抜く。聖騎士として散々訓練されてきたから、人前で表情や仕草を作るなんて

  いうのは今更な話だが。それでも、やっと見つけた相手を。初めて愛しいと思ったその人が、何も告げずに忽然と消えてしまった。この事実は中々に

  堪えた。

  私と居るのが、嫌になってしまっただろうか。まるで子供達の様に、そう考えてしまう。

  そんな事が、あるはずがない。そう思う。それは自分が見限られるはずがないという甘い考えではなく、子供達に対するそれと同じように。誠実な

  ヴィルが、こんな風に何もかもを打ち捨てて姿を晦ますなんて真似を、当人の意思で行うはずがないという確信だった。そんな事ができる者が、あの山の

  中で、子供達をずっと守り続けて居られるはずがないのだから。

  明日は、もう少し捜索範囲を広げてみよう。そう思って、楽な恰好に着替えてから、何か見落としている物はないかとヴィルの使っている机を見た時だった。

  その上に、見慣れない一枚の書き置きが。それも、机そのものに書かれている。そんな物を、見逃すはずがなかった。明らかにそれは、私が捜索に

  出た後に書かれたものだろう。すっとそれに近づいて、内容を読み上げると同時に。

  怒りが込み上げるのを感じた。

  暗い。

  暗い、沼の中に居るような気分だった。

  周りは決して、暗い訳じゃなかった。そこは、騒々しくて、煌びやかで。おおよそ俺とは無関係な。いや、無関係になった、場所で。だけど今、そんな

  喧騒は、近くにあるのに遠くに感じられた。薄い膜が俺を覆って、同じ世界に居るはずなのに、どこか隔絶された様な気配を感じていた。音が、籠って。

  声が出ない。出したつもりのはずの自分の声音も、聞こえない。俺の周りに居るはずの奴らも、それが聞こえた素振りも見せなかった。

  煌びやかで、賑々しい世界に、だけどたった一人。俺は立っていた。視界が少し悪い。自分の呼吸音が聞こえる。兜を、被らされている様だった。

  多分、鎧も。そういう感覚が、とても遠い。視界も上手く動かせない。上手く、動かせない、はずなのにい。不意に俺の目は、遠くに居る老人を

  捉えた。獅子の男。どうしてそんな奴が気になるのかと、戸惑う。あんな奴、俺は知らない。

  「忘れちゃった? 本当に? 自分の家族の仇なのに」

  不意に頭の中に溢れる、あの時の声。それと同時に、はっとする。胸の中がざわつく。

  あいつだ。

  あいつが、父や兄を殺して。母も心労から倒れては亡くなって。あいつがすべてを奪っていったんだ。

  自分でも戸惑う程の確信が、胸の内から溢れる。確かに、あの顔には見覚えがある。けれど、頭の中にぼんやりと残る記憶よりも、大分老けていて。

  そういえば、前にあったのはもう十年も前だったのを思い出す。元々俺は地方を治める領主の、次男。要は、田舎者な上に跡取りですらない程度の

  身分だ。だから、こんな賑々しい。田舎の地方ではありえない、豪奢な宴には。小さな頃に連れられて行った程度だった。それだって、勤勉だった父の

  友人の貴族が。そっちはそれなりの家格を持っていて、けれども身分の差を気にもせずに父をも招待してくれた宴に、俺はついでで参加しただけだった。

  その宴の席に居た、あの獅子の男。柔和な表情と礼儀正しさは、今も変わらない。

  何かを話している。

  「――様は、今日も凛々しくていらっしゃる。お身体の加減は、如何でしょうか?」

  「ありがとうございます。とはいえ、さすがにもう歳ですなぁ。皆々様と楽しく話に花を咲かせられるのも、もうあと何度その機会に恵まれるだろうかと、

  少し寂しくも思っております」

  俺の耳に、話声が飛び込んでくる。いくらなんでも耳をそばだてて聞こえる距離ではないはずなのに。大体周りは周りで好き勝手話しているのだから、

  そんな都合よくその会話が耳に拾えるはずがないのに。それでも、その会話は聞こえた。言葉と口の動きが合っている事にもすぐに気づけてしまう。

  「またそんな寂しい事を仰って」

  「いやいや。私がそうなってもよろしいように、今はほら。こうして跡目を継ぐ息子を連れております。どうか、私に親しくしてくれた様に、息子にも

  そうしていただけるとありがたいのですが」

  「おお、これはこれは。ご子息のお噂は、かねがね聞いておりましたが。ついにこうして社交の場にもお顔を見せられるようになったのですね!」

  「ええ。ええ。息子は、そのう。少々博愛的に過ぎると申しますか。皆様のご期待に応えられるのか、私としては不安で、こういった煌びやかな場には

  これまで連れたってはおりませなんだが。その様に宝物か何かと勘違いして扱うのは、当人にとっては気の毒だし却ってよくはないと妻にも言われて

  しまいましてね」

  老人の隣に、まだ青年の獅子が立つ。顔立ちは初々しく、父に紹介されて照れた様子で会釈をしている。着ている服はここから見ても華美に富んでいて、

  着るというよりは着られているという印象が強かった。

  「相変わらず羽振りが良さそうですな、あの方は」

  ふと、話している場所から少し離れた囁きが俺の耳に飛び込んでくる。これまた、到底距離的に聞こえないはずの、囁くような小さな声なのに。まるで

  その場に耳があるかの様に、はっきりとそれが聞こえる。なんというか、自分の領域を展開するあの魔術を、もっと鋭利にした様な物かも知れないと

  感覚的に判断する。今の俺だと、そこに何かが在る、もしくは無い。それからなんとなく、ぼんやりとした輪郭の様な物を掴む。そのくらいが精々だ。

  そもそも感覚の触手を伸ばして、知覚できる範囲を広げるというのは、膨大な情報量が頭に流れ込んでくるので、あんまり細かい情報を知ろうとすると、

  多分俺でも持たないだろう。なのに今のこれは、それ以外の情報はきちんと遮断しているから、ぼんやりとした俺の頭でも問題なく渡される情報を

  理解する事ができた。

  「次期当主がふがいないから、心配しているのでしょうよ。ええ。もっとも、あの羽振りの良さは見せかけじゃありませんからね。確かにあの鉱脈と、

  家格さえ揃っていれば。多少は不甲斐ない息子であっても、問題はないでしょうよ」

  「鉱脈、ですか。羨ましいものですなぁ。私もあやかりたいものです。そんなものを見つけてしまう、運にね」

  「まったくです。元々は召し取った土地の物ですからね。ほら、あそこの……」

  続く言葉に、俺は耳を疑った。それは間違いなく、俺の、というより父の治めていた領地の名だった。

  「なんでもあの方が元々の領主を糾弾して。その後は領地の管理も任されたと思ったら、そんなものが出てきたって話じゃないですか? 元々の領主は

  私利私欲のためにそれがあったのを知っていながら隠していて、あの方が奏上した事で陛下の覚えもめでたくなったとか。いや、まったくあやかりたい

  もんですよ」

  ……。

  嘘だ。咄嗟に、そう思った。うちの領地にそんなものがあったなんて、俺は知らなかった。父も多分、知らなかっただろう。少なくともうちの経営は

  そんなに楽じゃなかった。そんなものがあったら、もっと裕福であったり、地位だって確立していたはずだ。大体国に対してそれを隠して私服を肥やす

  なんて、国に対する背信行為を父ががえんずるはずもないのに。

  嘘を言うな。

  そう言いたかった。だけど、口元が僅かに動くだけで、やっぱり俺の言葉は声にもならなかった。

  「あんな奴らどうこうしたって仕方ないだろう? ほら、そんな酷い嘘を吐いた奴が、あっちに居るじゃあないか」

  視線が切り替わる。ごく自然に、また正面へと。和やかに話す老人の獅子と、その隣で苦笑をしながら話に参加している獅子の息子が。着られている

  様にしか見えないあの豪奢な服が何を犠牲にして作られているのかと思った途端に、かっと身体が熱くなった。

  熱くなって。悲しくなった。そんな金になるものがうちにあったのなら。あんな奴らさえ最初から居なければ。きっと皆は今でも元気に生きていたはず

  なのに。濡れ衣を着せられ、後ろ指をさされながら命を絶たれ。死んだ後ですら、金を隠していたと嘲られて。

  「酷い話だ。なのに、君が復讐をするのは良くないだなんて言う奴が居る。君は家族を何人を奪われて、領地まで負われ、苦労に苦労を重ねてきたのに。

  そんな辛さに、君に対して行われた罪科に、君がほんの少し怒りを露わにして、あの老人に手に掛けたって釣り合うはずもないのに。あんな枯れ枝の様な

  爺、どうせ放っておいたってその内に死んでしまうだろうに。ほら、あんなに幸せそうにしてる! 君から奪った何もかもで、あんなに幸せそうに!!」

  声が、頭の中で陰々と響く。視界を音が塗り潰す。端から赤く染まって、暗がりにぽつんと残る灯りの様に、そこだけが、そこばかりが鮮明になって

  俺の意識を無理矢理にでも集中させてゆく。赤い霞の中に浮かぶそれまでをも赤く染めて、視界そのものを一色にしてしまえと急かす。

  「助けて、ヴィル! 助けて!」

  「どうして仇を討ってくれないんだ? 私を助けてくれると、言ってくれたじゃないか。ヴィル」

  「真摯でいなさい、ヴィル。虚偽で人を陥れる様な輩は、早く殺してやらなければならないんだ」

  声が。違う声が聞こえる。家族の声だ。応援してくれている。皆が、俺を。やらなくちゃ。早くあいつを殺さないといけないんだ。助けて。やらないと

  いけないんだ。

  「さあ武器ならここに」

  手元に、いつの間にか握り締められていた。黒い刃。柄から刃先まで、どこまでも黒く。だけどきっと、突き刺したなら真っ赤になるだろうそれ。

  足が一歩、前に出る。視界が赤く点滅する。心臓が強く跳ねて、脈が早まる。ガンガンと鐘を鳴らすかの様に。二歩、三歩。前へ前へと、進む度に、

  次第に力が戻ってくる。歩いている。自分の意思で、俺は歩いているんだ。俺はあいつが憎いんだ。だからこのまま進んで。だから進んだら、きっと。

  ふと、何かが俺の目の前に飛び出してきた。俺の行く手を阻むかの様に。足がもつれた。慎重に進んでいたはずなのに、まるで糸が切れた人形の様に

  俺の身体は前へと、突き出されるかの様に倒れて。握り締めたままだった刃が、その身へと吸い込まれて。

  「……ヴィル……」

  握り締めた刃ごと、俺を受け止めた誰かの声が聞こえる。知らない声だ。知っている声だなんて、認めたくなかった。こんな俺の姿を、今一番、見られ

  たくなかったのに。この人にだけは。

  俺が握った刃を、俺毎包み込むようにして。あの人が。ルビアスが、俺の身体を迎えてくれていた。

  「…………ルビ、アス……」

  「やっと、見つけた」

  「俺」

  そこまできて、俺は少しずつ。浮上してくる。夢から醒める様に。熱が冷める様に。意識が明瞭になって、自分が何をしているのかを思い知って。

  「ルビアス、刃が……当たって」

  「大丈夫だ。それよりも、騒がずに。まだ、誰も気づいていない。ゆっくり。そう、ゆっくり……失礼」

  ルビアスが優しい声音を吐きながら、刃を握る俺の手に、ルビアスの手が重なる。

  「ヴィル。どうか、落ち着いて。私の言う通りにして。私の力を貸すから、心を強くもって。念じるんだ。俺の中から、出てゆけ、と」

  何がなんなのかわからず、けれどゆっくりと話しかけてくれるルビアスの言葉に俺は頷く。すると、繋いだ手から凄まじい量の力が昇ってくる。

  あたたかい。

  そして、言われた通りに念じる。出ていけ。あっちへ行ってしまえ。

  効果はすぐに現れた。不意に、強く握り締めていたはずの刃の感覚が消えて、俺は虚空を掴んでいる事に気づく。長いリボンの様にそれはするりと

  俺の手から抜け出すと、そのまま宙を滑り、いくどか円を描き、描くうちに徐々にそれは太い、うろこ状の物へと変化して。瞬間的に俺はそれに対して、

  生理的な嫌悪感を抱いた。さっきまでは、ただの大き目のナイフだと思っていたし、別にそんなに嫌な感じがしなかったのに。いつの間にかそれは

  鱗に覆われ、光をぎらぎらと照り返す大蛇になって、またくるりと宙で踊ったかのようにくねっては、翻って俺達を睥睨していた。

  「あーぁ。せっかく仇を取る手伝いをしてあげようと思っていたのに。酷い奴だ。恋人の邪魔をするなんて」

  「そんな事をしても、ヴィルの心が傷つくだけだ。失せろドブネズミが」

  突然喋りだした大蛇に目を白黒させていると、俺を抱き締めるルビアスからこれまた聞いた事の無いような汚い言葉が吐き出されて、俺はまた目を

  ぱちぱちとさせてしまう。

  「連れない事を言う。たった今まで、僕達身体を一緒にしていた仲じゃないか」

  「それで愛が証明されるというのなら、性犯罪者はさぞ存在を祝福されているだろう」

  「別に僕は君とねんごろになるのも、やぶさかではないがねぇ? そうしたら、こんな茶番もしなくて済む」

  「前にも言ったはずだ。ヴィリニウス。貴様にくれてやるものは、何も無いと」

  ルビアスが吐き捨てる様にいうと、ヴィリニウスと呼ばれた大蛇は、威嚇する様に牙を剥きだしにしてから、またくるりと回って。すると一瞬のその

  身が崩れて中身の肉と骨が見えたかと思った次の瞬間には、さっき起こした手品のような変化の具合を発揮して、小さな、狼の少年へと変わる。思わず、

  息を呑んだ。こんな時だけど、その姿はとても綺麗な白銀で、それから、そのう。全裸だった。その身体がゆっくり、ゆっくり宙から地面へと降りるに

  連れて、急激に身体が膨らみはじめる。いや、成長している。さっきまでの綺麗だという思いが俺の中から消え失せる。怖い。これは、俺なんかでは

  とても手が出せる存在ではない。

  気づけば、ヴィリニウスが地面に足を突く頃には壮年の男性の姿になっていたし、まるで皮膚から生じたかの様に、服もいつの間にか纏っていた。濃紺の

  ローブを払い除けて。そうすると壮年ながら精悍な顔つきと、引き締まった胸元が僅かに覗かせる形になる。無茶苦茶だった。

  「連れないなぁ、ああ連れない。せっかく同じ種族なのだから、相性は悪くないだろうに。そこの猫ちゃんなんぞよりも。まあ、そこの猫ちゃんは結構

  器が良い感じだし、名前も僕と似ているからかな。中々操りやすかったし、当人の身体の中もそんなに壊してはいないと思うので、安心するがいい」

  「ヴィルに何かあったら、その時は貴様を地の果てまで追いつめて、殺す」

  「まったく。普段の君を知っている者からしたら信じられないくらいに短気だな!」

  「それは交渉と会話の余地がある者だからだ。生者を冒涜するばかりの奴に、誰が気を許すものか」

  「またそんな。ああ、まったく。それだからせっかく君と繋がれたのに、大して力が取れなかった。まあ、今回はこれで良いか。君が本当に怒って

  しまうと、手がつけられないし。そうすると君と繋がっても、上手く取れないんだこれが。そんな訳で、そこの猫ちゃんは返してあげるから、どうか

  僕の事を許してくれると助かるね」

  話はそこまでだった。ヴィリニウスの姿が、また歪むと。そのまま泥か何かの様に黒い液体がべしゃりと地面へと落ちて。飛び散ったかと思いきや、

  まるでそのまま床を抜けた様に広がった染みが消えてゆく。俺は息を呑んでそれを見守っていた。自分が魔術を使うようになったから、よくわかる。まるで

  大人と子供。というよりそれ以上の開きがある相手だった。言いたい事が無かった訳ではないけれど、とても二人のやり取りに口を挟めなかった。

  「行ったか……」

  やれやれと言った様子でルビアスが言う。この様子とやり取りを見た感じ、旧知、なんだろうか。あんなよくわからない。俺やルビアスと同じ生き物

  と言っていいのかわからない奴と。

  いや、それよりも。

  「ルビアス、傷は」

  「ああ、問題ない。……とはさすがに言えないが、ひとまずここを離れよう。今はまだ奴の張っていた結界が残っているから、周りの者達は私達がただの

  警備と招待客に見えているだろうが。いつまでも誤魔化しきれない」

  ルビアスに手を引かれる。俺は傷を心配するけれど、その服は純白の、貴族が着る服だというのに。血の赤い汚れは見て取れなかった。確かに、あの

  刃が刺さったはずなのに。それから、こんな時だけど大きな身体にそういう服を着ている、貴族然としているルビアスの様子は、なんだか見慣れなくて、

  少し目のやり場に困った。

  「中々似合っているだろう? もっとも、聖騎士だった頃は鎧が基本だったから、あまり着慣れてはいないが」

  「……そんな軽口言ってられるくらい、平気なのかよ」

  「まあ、まだ」

  手を引かれたまま、ルビアスは人込みを避けて廊下を歩き、その内目についた扉を開く。いわゆる、ゲストルームって奴の一つだ。入った途端に、

  ルビアスは抜け目なく振り返ると鍵を閉める。どういう部屋なのかは、俺も知ってる。会場で意気投合した男女が、そのまましけこむ場所。というと

  なんともな表現だが、実際に事に及ぶというよりも一休みする場所として使われる事も多い。

  仮面舞踏会の様な、身分の差さえ一瞬忘れる様な場でだともっと過激な事にも使われるそうだけど。

  生憎田舎領主の次男である俺は、そういう部屋があると知っている程度だった。

  「ルビアス!」

  鍵を掛けた途端に、ルビアスは扉に凭れてそのまま座り込んでしまう。俺は慌てて近づこうとして、鎧が邪魔で、急ぎでそれを脱ぎ捨てる。それ程の

  重装備という訳ではない。何せパーティの警備だから、そんな重い物をガチャガチャさせる訳にはいかないのだから。

  「大丈夫、だ……。少し、力を取られ過ぎた」

  傷を確認しようとする。さっき少し見たのと同じ様に、傷はなかった。傷口すら。

  「身体自体はなんともない。君の持っていたあの刃は……。気味が悪いが、ヴィリニウスが化けた姿だ。その上で、あれの目的は、私を傷つける事では

  なく、私の力を利用したがっている。だから手練手管を弄しては私から力を奪おうとする訳だ。今回はあれに力を取られたのと、君をあれから解放

  するために少し力を渡したから、反動が来ているだけで、その内動ける様になる。それよりも、私が心配なのはヴィル。君の方だ」

  ゆっくりと身体を動かしたルビアスが、俺の身体をぎゅっと抱き締める。

  「あれの術中にあったのだろう? 身体は無事かい?」

  「……今のところは、別に。なんともないけど」

  そんなに壊してはいない。そういえば、そんな風にヴィリニウスは言っていた。途端に、被毛が総毛立つ。

  「無事なら、それでいいんだ。あれは……あまりにも異質だ。私が言うのも、なんだが。異質過ぎるが故に、ああして他者をも容易く操ってしまう。

  それだけならいいが、操られている方は相応の負担を強いられる。あんな化け物が、身体の中に入っているのだから、当然だが」

  「俺、死んじゃうのかな……?」

  あの登場の仕方。自分の身体、つまりは器に縛られない振舞い方。思い出すだけで、強い恐怖に苛まれる。一体どれだけの修行を積んで、そうして

  冒涜的な力を求めたら、あんな風になれるのだろう。俺はとてもできそうにない。自分の身体をちょっと強化するのならわかるけど、あんな、自分の

  身体を物の様に操って作り変えて、しまいには他人の身体に入り込んでしまうなんて、とても。

  「気休めにしかならないのが、心苦しいが……それは、ないと思う。あれは、私にちょっかいを掛けてはいるが、本当に怒らせる真似はしない。私が

  そうなってしまうと、私から奪った力も上手くは扱えないからだ。私から離れても、その力がそれを持っている奴に十全に使いこなせる訳ではない。

  逆に言えば、私がそうしてほしいと望んで渡した力なら、渡された方もそれを上手く使えるはずだ」

  確かに。ルビアスの助言を受けて、その力を借りてあのヴィリニウスに出ていけと命じた時。驚く程あっさりと、それを追い出す事ができた。俺の

  本来の力では、多分。いや、絶対にそんな事はできない。

  「身体が無事なら、帰ろう。ヴィル。私達の家に」

  「ん……でも、俺……ここまで、来ちまった……」

  「まだ、復讐がしたいかい?}

  俺を抱き締めたまま、ルビアスが囁くようにそれを口にする。それに俺は言葉を詰まらせた。

  「正直に言えば……ヴィリニウスの力を借りて、聞いた話が事実だったとしたら……。俺は余計に、あいつを許せない」

  端的に、聞いた話をルビアスへと伝える。ルビアスは多分、知らなかっただろうと思って。

  「そうか。そこまで……酷い事をされていたのだな……」

  「仇を討つのが、当然なのかも知れない。あの時は本当にそう思ってた。でも、怖かった……。復讐したい気持ちはあるけれど、あんな」

  俺がそれを望むのは、俺の自由だ。その点に関して、ヴィリニウスが俺の復讐心を利用して、俺をここまで連れ出したのも、文句が無いとはさすがに

  言わないけれど、俺の落ち度の様なものだと思う。

  けれど、居なくなったはずの家族の声音が、あの頃のまま。記憶の中のままに頭の中に蘇って。それらすべてが、復讐を遂げろと俺を鼓舞し、それが

  できない俺を叱咤激励する、あの声は。

  違う。あんな言葉、俺の家族は言わない、はずだ。それなのに、そっくりな。いや、同じ声音がそれを口にするあの状況が、酷く恐ろしかった。

  「それに、あの爺さん……いや、前に見たのは、十年くらい前だけど。もう、あんな……生い先短そうになってたんだな。それで、後継ぎって息子の

  紹介してたけどさ、なんか頼りなさそうな奴で……」

  「その息子の事も、憎く思ったのかい?」

  「わからない……。どっちかって訊かれたら、きっと、憎い。うちから奪った物で、贅沢に生きてきたんだって思うと。でも、いくらあいつがあの爺さんの

  息子だったとしても。あいつが何かした訳じゃないんだ。きっと、何も知らない。やるなら、爺さんの方、だけど……。あんなの、放っといたって、

  その内……」

  「どこに怒りをぶつけたらいいのか、わからなくなってしまったかい」

  「……うん」

  ヴィリニウスの術中にある時。それでも憎い相手、殺したい相手には違いないと思っていた。ただ、家族の声音で焚きつけようとしたヴィリニウスの

  狙いは、むしろ俺には的外れだった。そこへルビアスが割り込んできたから、余計だった。大切な人を、傷つけてしまった。その気持ちが、一気に俺を

  現実へと引き戻した。

  「ごめん、ルビアス。俺がもっと、強かったら。ルビアスに、あんな事」

  「大丈夫だ、ヴィル。それに君は、充分に強い。ヴィリニウスに操られていてなお、ああして思い直しては、それを退けた。それだけで、充分だ。君が

  もし、心から憎しみに沸き立っていたら……きっと、私の声は届かなかっただろう。ヴィリニウスに支配されているのを、心地よいものだと感じていた

  だろう。あれは、そういうものだ。人を焚きつけ、意のままに操ろうとする。自分の行動が、自分が望んだからそうしているのだと、操られている者は

  気づかない。ヴィリニウスにとって都合が良いから、そうしているだけに過ぎないというのに、だ」

  「あれは……あの人は、一体なんなんだ……?」

  「すまない。昔の、腐れ縁という奴だ。今は、それで簡便してくれ。頭の中に、あれを入れたくないんだ。それに、戻ってきてくれた君の事を、今は

  もっと感じていたい。改めて、よく戻ってきてくれた。ヴィル。君を失ったかと、私は怖くて堪らなかった」

  「ごめん。俺」

  「いいんだ。君が戻ってきてくれた。それだけで」

  温かいルビアスの身体に包まれる。あのヴィリニウスの刃が刺さったのは大丈夫なのかと心配だったけれど、見た感じ空元気という訳でもなさそうだ。

  「帰ろう。皆、待っている。君の事を」

  「……うん」

  少しだけルビアスが俺を抱き締める力を弱めて、顔を近づけてくる。俺はそれを受け入れた。貪る様な口づけが、こんな時だというのにという思いと

  同時に、それだけルビアスを不安にさせていたのだと思い知る。俺は必死にそれに応えながら、変わる事なく続く宴の喧騒を、ヴィリニウスに操られていた

  時とはまた別の意味で、遠くに感じていた。

  家に帰ると、凄かった。

  まず子供達が物凄い勢いで集まってきた。いつもならたしなめる立場の年長組も、おんなじ様に飛んできて、あっという間に俺は埋もれた。

  「もう、十日以上経っているからね」

  「そんなに」

  というのも、俺はヴィリニウスに半ば気絶させられて運ばれて、母国まで。それも首都の方まで連れ去られていた訳だし、ルビアスはそこまで必死に

  追いかけてきてくれてた訳で。解放されたとて、今度は二人で急ぎはしたものの、そこそこの時間をかけて帰る破目になっていた。その間、子供達は

  大丈夫だろうかと俺はかなり心配だったけれど。いざ戻ってきてみると、凄まじい熱量で俺達を迎えてくれた。

  「おかえりなさい。兄貴。無事でよかった、本当に」

  「ミカル。お前達は、大丈夫だったのか?」

  「近所の人達も、助けてくれたから。お金はルビアスさんがきちんと置いていってくれたし、ちょっと怪しい人が来る事もあったけれど、その辺りは

  アウィドが頑張ってくれたよ」

  「そうか。なんだかんだ、お前達だけでも充分留守番できるんだなぁ」

  「何言ってるの、兄貴。兄貴が街の人達に親切にしてくれてるから、兄貴が居ない時に親切を返してくれて。兄貴が戻ってきてくれる様にって、僕達の

  事も助けてくれるのに」

  そう言われてしまうと、俺は何も言えなくなってしまう。確かに子供達の環境のために良いからとそうしていたけれど。親切にしていたって言われると、

  なんだかむず痒い。俺のは計算ずくだから、そんな風に言われたり、されてしまうと。

  そして何も言えない俺の横で、ルビアスはとても満足気に微笑んでいる。そういうところだぞおっさん。

  「なんか、疲れたな」

  一頻り騒ぐ子供達の歓迎を受けて、二人揃って部屋へと引き取って呟く。ルビアスが苦笑していた。

  「しばらくゆっくり休んでも、構わないよ」

  「いや、患者が結構溜まってるだろうし、明日から仕事はするよ。本調子に戻っているかちょっとわからないから、数は少し減らすけど」

  結局、ルビアスと一緒に豪華な宴を抜け出してここに来るまで、ヴィリニウスの手が再び迫る事も、また操られていた俺の身体の具合が悪化する事も

  なかった。だけどそれはただ、今は元気というだけの話に過ぎなくて。戻るまでの旅路の間も、ルビアスはとても心配そうに俺を見ては、いつもそれと

  なく気遣ってくれていたのだった。

  自分だって切られてたはずなのに。

  「私が奪われたのは、力……というか。生命力、精力の類だからね」

  「それって、ヤバいんじゃ?」

  「少し疲れる程度さ。ただ、その程度でも、魔法を扱う物にとっては莫大な力になると。当のヴィリニウスが言っていたが」

  「結局、あのヴィリニウスっていうのは、なんだったんだ?」

  「私が騎士として、そして聖騎士として戦う間にふと出遭った……厄介な代物だな。それからは、事あるごとに私の力を狙っている。もっとも相手には

  していないが。今回みたいな事をけしかれてくるのは、少し誤算だった。できれば成敗してしまいたいが、逃げ足はとかく早い奴だ。今後はより一層、

  君がまたかどわかされないか、注意してゆきたい所存、ではあるが……ヴィル」

  ふと、ルビアスの声音が落ち込んでいるのに気づいて、俺はベッドに座ってぼーっと天井を見つめていた顔をそちらへと向ける。

  「今回、嫌な思いをしただろう。普通に……私と関わらなければ、きっとあんな奴の存在とは無縁でいられたはずだ。……その。それでも、まだ私と

  共に、居てくれるだろうか……? すまない。本当なら、君と一緒になった時、もっと早く教えておくべきだった」

  大きな狼は、こういう時は小さく見える。縮こまっていたし、尻尾の先まで元気がなかったし、耳は下がっているし。普段はあんなに大きく感じるのに。

  俺はゆっくりとルビアスへと近づいて。

  「ヴぃ、ヴィルッ!?」

  そのまま、体当たり気味にその胸へと飛び込んだ。

  「……なんかさ、おっさん。俺達って、考えてる事、似てるのかな」

  「似ている?」

  「俺も、おっさん……ルビアスが、どこかに行っちゃうんじゃないか。まだ俺と一緒に居てくれるのかって、思ってたから」

  「それは、前も言ったが……ああ、いや。そうだな。……そうでは、ないのだな。今なら、少しわかる」

  不安なのは、相手を信じられないからではなくて。愛していないからだという訳でもなくて。むしろ、逆なんだろう。信じているし、その、愛しても

  いるからこそ。自分と一緒に居てもらってもいいのかと、不安になったりする。自分に足りないところや、至らないところがあるのは勿論。この人なら、

  他の道だって歩めたのかも知れないと思ってしまって。それでも自分と一緒に居てくれるのかって。

  俺は復讐を、そしてルビアスは栄華を極めたかの様な道にある影を、それぞれに抱えているのかも知れなかった。

  「言葉で口にしても、その時その時に、ほんの少し安心する程度なのかも知れない。本当に大切にして、安堵させたいのならば。きっと、そう思って、

  日々を積み重ねてゆくしかないのだろうな」

  「ルビアスだって。俺が、やっぱり復讐を諦めてなかったって。嫌になったりしないのか」

  「君の復讐の、極端な手段に賛成ができないのは今も変わらない。だけど……家族を失った痛みと怒りを、ただ諦めて忘れてしまえだなんて、そんな

  風にはとても言えない。君が彼らを愛していたからこその、痛みと怒りなのだから。ただ、その……そうだな」

  そこまできて、ルビアスは俺の腰を抱いて、そっと頬を寄せてくれる。大きな身体を丸めて。

  「それでも私は、君を幸せにしたい。君の復讐も、結局は手詰まりとなっただろう。振り上げた拳の、行き先を見失って。君を幸せにしたいし、君と

  幸せになってみたい。改めて、そう思った。ヴィル。君は……どう思うだろうか?」

  訊ねられて、俺は少しだけ首を傾げる。だけど、答えははじめから決まっていた。

  「俺も。そう思う。あの時……握った刃が、ルビアスに刺さったんだって思った瞬間。終わったって思った。復讐の事よりも、もしかしたら……これで

  ルビアスとの関係が終わって、それで何もかも終わりなんだって。あの場で騒いでいたら、それこそ周りにバレて、捕まっていたかも知れないし」

  努めて落ち着いて、あの時もルビアスは俺を助けてくれたのだった。ともすれば、そのまま地獄へと落ちていくかも知れなかったというのに。

  「私が居たせいで、ヴィリニウスに目をつけられたとは思わないかい」

  「そんなの。……あの人が居なかったとしても、俺が結局復讐をしたいって思ってたのは、変わらない。もしあの時の話を、聞いてたら。ヴィリニウスに

  連れられなくても、俺は一人で向かっていたかも知れない。今は……もう、いいって思うけど。家族には、悪いとは思うけど」

  復讐は何も生まない、なんて言葉を言われたい訳ではない。家族を奪った奴が、のうのうと生きているのなら、そいつをくびり殺してやりたい気持ち

  だってある。だけど、あんな状態の爺さんを見たら。不思議と。

  「あの爺さん。今俺が診てる近所の爺さん婆さんと、あんま変わらないじゃん」

  「くっ」

  ルビアスは口元を押さえて、肩を震わせる。かなりツボに入ったらしい。

  「た、確かに……。失礼だが。いや、いきなりそんな事言われると、さすがに私も……ふふっ。そうだな。変わらない、か」

  「だから、もういいんだって。そう思った」

  復讐心は、きっとまだ消えない。でもその相手は、もう居なくなったも同然で。結局やれる事なんてもうないのだろう。

  「だからルビアス。今は……あんたと、一緒がいい……かな」

  「そうか。嬉しいな。一緒に居よう。ヴィル。ずっと……一緒だ」

  「あんな爺さんみたいになるまで?」

  またルビアスが噴き出す。しばらくはこのネタでからかえそうだ。

  「ああ、そうだな。それくらい長く一緒に居られたら。きっと、幸せな人生だったって、そう思えるだろうさ」

  「俺よりずっと年上なんだから、注意してくれよ」

  「勿論だ。それに、鍛えているから。きっと君とそんなに変わらないくらい老いるだろうさ。でも、もう少し鍛えようか。君にいつまでも、きちんと

  見てもらえるように」

  これ以上魅力的になられると正直目のやり場に困る。

  とは思いながら、俺はルビアスに抱き締められたまま、一緒のベッドに横になる。

  大きなベッドが必要だろうか。いい加減、小さいベッドでは手狭だった。でも子供達に、なんて言おうか。もう二人の関係を打ち明けるべきだろうか。

  いやでも、子供達の、その、情操教育って奴に良くないだろうか。どうなんだろう。

  そんな事を考えながら、狼の厚い胸板に迎えられて、俺は帰ってきた喜びを噛み締めるのだった。

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