手を合わせて、目を瞑る。
冷たい風が毛並みをかき分けた。
「母ちゃん、今年の冬もすごく寒いよ。母ちゃんは寒くない?」
穏やかに口を開く。吐息が白く色付いた。
「見てよ、この[[rb:褞袍 > どてら]]。よく出来てるでしょ?お鶴さんに教えてもらって、ぼくが縫ったんだよ」
しゃがんだまま腕を広げ、少年は褞袍を見せる。古着を繋ぎ合わせたそれは、縫い跡が蛇行していて不格好だったが、褞袍を身にまとった少年はそんなことは気にもせず、楽しげに袖を振った。
「もし寒かったら言ってね。母ちゃんの分の褞袍、作ってくるから」
ひゅう、と空から吹いた風に、少年は頷いた。
「わかった。今度来る時は、母ちゃんの分の褞袍も作ってくるね。……うぅ、寒い。今日はそろそろ帰ろうかな」
冬毛に生え変わって毛皮は厚くなったが、寒さに弱いのは幼い頃から変わらない。少年はぶるりと身体を震わせると、褞袍の前開きを引き寄せながら立ち上がった。
「じゃあね、母ちゃん。また来るよ」
少年は手を振り、母の名前が刻まれた[[rb:塔婆 > とうば]]に背を向ける。柴犬特有の巻き尾を穏やかに振りながら、少年は墓地を後にした。
墓地のある森を抜けあぜ道に出ると、一面霜が張った田んぼが視界いっぱいに広がる。踏むとサクサクして面白いのだが、今日の空は今にも雪が降り出しそうな曇天だ。少年は大人しく、誰もいないあぜ道を歩き続けた。
「おーーい!」
人っ子ひとりいなかった景色に、見知った人影が現れる。初めてはごま粒ほどの大きさだった影は徐々に大きくなり、やがて少年の前で止まった。少年と同い年くらいの虎獣人が膝に手をつき、はぁはぁと荒い息を吐く。
「虎次郎、そんなに慌ててどうしたの?」
「お、おま……お前にっ、客が来てる!」
虎次郎は顔を真っ赤にしながら、息も絶え絶えに言い放った。
「きゃくぅ?なんでぼくの所に来るんだよ。……あ、さてはまた騙そうとしてるな。この前の『稲の葉っぱで編んだ玉を食べたら百歳まで生きれる』ってやつ、信じてやっちゃったんだぞ!」
「お、どうだったよ?」
「三日も青臭さがベロに残ってた」
「ばっかでぇ!」
虎次郎は腹を抱えてげらげらと笑っていたが、ふと真顔に戻った。
「違う違う。こんな馬鹿話してる暇はなかった。とにかく、早く家に帰るぞ」
虎次郎は少年の手をぐっと掴み、腕を引いて駆け出した。足の早い虎次郎に引っ張られ、少年は何度も転びそうになりながら必死について行く。体力のある虎次郎が息を荒らげて走る姿は、冗談にしては必死過ぎる。
やがて、視界の端に[[rb:家 > うち]]の茅葺き屋根が映る。家の戸の前では、虎次郎の母が身体を震わせながら、オロオロと右往左往していた。少年を見つけると、虎次郎の母は心配そうな顔で駆けつける。
「あぁ、やっと帰ってきたね。さぁ、中でお客様がお待ちだよ」
虎次郎の母は少年の褞袍を奪うように脱がせると、着物や毛についた汚れを[[rb:叩 > はた]]き落とした。
「くれぐれも、粗相のないようにね」
少年は家の中に押し込まれ、直後、パタンと戸を閉められた。
座敷には、[[rb:胡座 > あぐら]]をかいて座る虎次郎の父の姿があった。湯呑みを持つその手は、普段の豪快に鍬を振るう手からは想像もできないほど震えている。客座に座る人物は戸の陰になって見えなかったが、とんでもない人物であることだけは、少年にも分かった。
少年は意を決し、いつもよりずっと重い足を持ち上げ、座敷に上がった。
「おぉ、やっと戻ってきたか」
少年に気づいた虎次郎の父が言葉を投げかけたが、少年の耳には入ってこなかった。
それほどまでに、少年は目の前の存在に意識を奪われていたのだ。
その人物は、まるで刀のようだった。
背後に垂らした筆のような尻尾は落ち着き払っており、狼獣人特有の鋭い鼻を辿れば、氷のような瞳に行き着く。刃紋を思わせる銀色の毛並みの下には、鍛え抜かれた強靭な肉体が見て取れる。
そして、正座する彼の右脇には、黒光りする鞘に収められた刀が鎮座していた。
武士だ。この狼は武士なのだ。
狼武士の洗練された姿に、少年は魅入った。節くれだった拳を膝に乗せ、背筋を伸ばしているだけで様になる。傷一つない完璧な姿はまさに名刀、いや神刀と言っても過言ではない。
ふと、狼武士の瞳が呆然と立ち尽くす少年に向けられた。
「お座り下さい。そのような所で立ち尽くされていては、お体に障るでしょう」
「はっ、はいっ!」
そう促され、少年は慌てて狼武士の向いに正座した。
「お母上の墓参りに出向いておられたと聞きました。誠に立派な心掛けでございます」
「い、いや……ごめんなさい。待たせてしまって」
「謝られることではございません。お母上も、貴方様が心優しく成長なされてお喜びになっていることでしょう」
狼武士は淡々と言葉を発するが、その口調は、紡がれる言葉ほど優しくはない。威厳とも違う、この狼武士特有の冷たい雰囲気に、少年はかすかに身をすくませた。
「あ、あの、それで、ぼくに何のご用ですか……?」
少年はおずおずと疑問を口にする。
狼武士はすっと目を細めた。
「江戸幕府四代目将軍、[[rb:犬川篤綱 > いぬかわあつつな]]様が病床に[[rb:臥 > ふ]]せっております」
突如、俎上に載った[[rb:大物 > ビッグネーム]]に、少年は小さく息を呑んだ。
「篤綱様の病状は悪く、床に臥せてから既に一年も経っております。医者によると、ご[[rb:平癒 > へいゆ]]なさる見込みは限りなく低いとのことです。不謹慎だと承知しておりますが、江戸幕府に仕える武士として、篤綱様の跡を継ぐ方を見つけなければなりません。
―――ここまで話せば、もうお解りでしょう」
冷たく見据える狼武士は知っているのだ。
少年が抱える、大きな大きな秘密を。
「篤綱様の落とし子なれど、貴方様に流れるのは紛うことなき将軍の血」
狼武士の視線が少年を貫く。だが、秘密を暴かれているというのに、その端正な瞳に見つめられると、少年の心臓は否応なく跳ね上がった。
「犬川[[rb:篤助 > あつすけ]]様、貴方を江戸幕府五代目将軍として、お迎えに上がりました」
柴犬獣人の少年―――篤助は言葉を詰まらせる。疑問や混乱が頭を支配する中、篤助はやっとの思いで言葉を紡ぎ出した。
「あ……あなたは、誰ですか?」
それは問題の本質から逃げるような問いだろう。
だが、目の前の狼武士は佇まいを正し、今この瞬間誕生した主君に礼節を尽くす。その姿は、力強さと美しさを体現した『武士』、その完成形であった。
「[[rb:狼牙 > ろうが]]家嫡男、狼牙[[rb:剣心 > けんしん]]と申します。将軍家剣術指南役及び、篤助様の傍付きを務めさせて頂きます。―――そして」
剣心が小さく息を吸い込む。自然と膨らんだ分厚い胸板に、篤助は目を奪われた。
「―――大奥に入内した、篤助様の妻の一人でございます」
その一言に、篤助は思わず生唾を飲み込んだ。
あぁ、母ちゃん、ごめん。褞袍は作れそうにない。
でも、据え膳食わぬは男の恥。だから、許してくれるよね?
[newpage]
障子越しに差し込む薄光が、部屋に落ちる闇を僅かに払う。まさに夜が明けたばかり、早起きな鳥ですら目を閉じている[[rb:黎明 > れいめい]]に、篤助は瞼を開けた。
春先とは言え、夜中に冷え込んだ空気には未だに冬の気配が色濃く残っている。最上級の布団にくるまっていても、この時間の寒さは耐え難い。
[[rb:篤助 > あつすけ]]は傍に横たわる塊を、ぎゅっと引き寄せ抱き締めた。鼻先を毛並みに潜り込ませると、ほんの少し栗の花のような匂いがする。
「お目覚めですか、篤助さま」
剣心の吐息が耳をくすぐる。
「……ごめん……起こしちゃった?」
「いいえ、篤助さまより先に起きておりました」
「そっかぁ……ごめんねぇ、寒くてさ……」
寒さと同様、耐え難い眠気に篤助は大口を開いてあくびする。剣心は、篤助の背中に回していた腕に力を込めた。あくまでも優しく、苦しくない程度に抱きしめる。毛並みを押し潰し、その下にある肌の温もりが直に伝わった。
「起床の時間はまだ先です。どうか私で、暖をお取りください」
腕の力こぶ、割れた腹筋、厚い胸板。剣心の逞しい肉体を肌で感じる。激しく鼓動する心臓が、身体中に熱を駆け巡らせる。篤助はしっとりと汗をかき始めた身体で剣心を抱きしめ返した。
まるで一つの毛玉のようにくっついて、どれほど時間が経っただろう。長かったようにも、短かったようにも感じる。
しかし、時間は着々と流れ、日は昇る。障子越しでも明るく感じられるほど太陽は輝き、鳥たちも軽やかに[[rb:囀 > さえず]]り始めた。
「もーう!」
江戸城に響き渡る重低音。江戸に来て一年、毎朝聞いた起床の合図だ。
「お早うございます、篤助さま」
「おはよう、剣心」
目を伏せ、小さく頭を下げる剣心。その時、ちらりと見えた彼の左耳の傷に、篤助の瞳は小さく揺れた。
布団から出ると、服を着ていないので少し寒い。篤助は身を縮こまらせたが、剣心は顔色一つ変えなかった。鍛え抜かれた鋼の肉体をさらけ出し、篤助の目を奪う。
しかし、そんな洗練された剣心の身体には、似つかわしくないものが刻まれている。毛並みの上からでも起伏が見える腹筋、その下に刻まれた桃色に妖しく光る紋様だ。
「昨夜の[[rb:夜伽 > よとぎ]]は、ご満足頂けましたか?」
剣心の肉体に見惚れていた篤助に、ふと声がかけられる。鼻の下を伸ばしきっていた篤助は、慌てて顔を取り繕った。
「よ、良かったよっ!もう大満足!『我が生涯に一片の悔いなし』って感じ!」
「それは良かったです。ですか、篤助さまにはまだまだ生きてもらわねば。少なくとも、私が身篭るまでは」
そう言って、剣心は愛しげに下腹部の紋様をなぞった。子宮を象ったこの紋様は、雄でも身篭れるようにするための[[rb:呪 > まじな]]いだ。大奥で将軍に奉公する雄たちには、剣心と全く同じ紋様が施されている。
「さぁ、着替えましょう。そのお姿では、風邪をひいてしまいます」
剣心は用意していた篤助の着替えを抱え、篤助の真正面で膝立ちになった。
「まずは[[rb:褌 > ふんどし]]から着けさせて頂きます」
「そ、それくらいは自分でやらせて!」
剣心から褌を奪い取ると、急いで褌を着けた。その後は剣心に手伝われながら、着付けを済ましていく。テキパキと篤助の周りを動き回る剣心。彼がしゃがむ度に、左耳に深く刻まれた傷跡が篤助の網膜を否応なく引っ掻く。
「これでお着替えは終わりです」
「……あっ!うん、ありがとう」
ビクリと跳ねた篤助に、剣心は小首を傾げた。
「いかがなさいましたか?」
「いや、何でもないよ!気にしないで」
「左様ですか。では、私は別室で着替えて参ります」
「えー、ここで着替えればいいのに」
「そういう訳には参りません。では、失礼いたします」
剣心は指先まで揃えた美しい礼をして、隣の部屋に去ってしまった。それと同時に、反対側の襖が開け放たれる。
「失礼いたします」
深々と叩頭した小姓たちは、入室するなり粛々と仕事を始めた。布団を片付け、篤助の前に御膳を用意する。あくせく働き、入退室を繰り返す小姓たちに混ざって、見覚えのある犬獣人が現れた。
「おはようございまッス!篤助さま!」
挨拶とは思えない、畳を震わすほどの轟音が鳴り響く。部屋にいた小姓たちは、びくりと肩を跳ねさせた。
「おはよう、[[rb:蓮吉 > はすきち]]。朝っぱらから元気だね」
「へへっ!それがおいらの取り柄ッスから!」
嫌味にも気づかず尻尾を振るのは、剣心の家臣である蓮吉だ。大柄の身体に、白黒のぶ厚い毛並みを持つ[[rb:西比利亜 > シベリア]]犬である。
「篤助さま、朝食の準備が整いました」
「うん、今日もありがとう」
篤助が礼を言うと、小姓たちは丁寧に頭を下げて退出する。篤助は御膳の前に座り、「いただきます」と手を合わせた。
「……それで、昨夜はどうだったッスか」
蓮吉は白米を頬張る篤助にすり寄り、耳打ちした。
「え、どうって?」
「だから、昨夜は剣心さんとヤッたんスよね?お世継ぎ、できたッスか?」
「は、はぁ!?なに言ってんの!」
「別に恥ずかしがることないッスよ。子作りだって、将軍の大事な仕事じゃないッスか」
蓮吉の言う通り、世継ぎを作ることは将軍の重大な職務の一つである。ゆえに大奥という花園があるわけだが、蓮吉はその大義名分を笠に着て篤助をからかっているのは明らかだった。
「剣心さんは色恋なんてわからない朴念仁ですけど、身体だけは最高ッスからね〜!衆道の契りを結ぶには、もってこいの相手ッスよ!」
ケラケラと笑う蓮吉の背後から、刃のように鋭い声が響いた。
「『身体だけ』か、蓮吉」
「け、剣心しゃんっ!いつの間に……」
熱のない眼光が蓮吉を貫く。蓮吉は声を裏返させ、オドオドと後ずさった。
「初めからだ」
「ひぃっ!申し訳ございませんッス!これはっ、あのっ、ほんの出来心ってやつッスて」
剣心の答えは死刑宣告にも等しかった。蓮吉は全力で五体投地して許しを求める。
「暴れるな。篤助さまの御膳に埃が入る」
「ひゃ、ひゃい!」
だらだらと冷や汗を垂らす蓮吉に、剣心は溜息を吐いた。
「私を愚弄するのはいい。だが、真に仕えるべき相手を誤るな」
溜息とともに、剣心が張った緊張の糸がぷつりと切れる。反省する余裕を得た蓮吉は、おずおずと篤助に頭を下げた。
「篤助さま。調子にのって、申し訳ないッス……」
「さっきみたいな話は程々にね」
蓮吉は目尻に涙を溜めながら、首をブンブンと縦に振った。
「ところで蓮吉、一つ訊きたいのだが」
「な、なんスか……?」
蓮吉は恐る恐る、剣心の方を向いた。
「衆道の契りとは、いかにして結ぶものなのだ」
衆道の契りとは男同士の性行為のことであり、男色文化が盛んな江戸の世では、誰もが知っている常識だ。そんな幼子がするような気まずい問いに、篤助も蓮吉も閉口した。
「……昨晩ヤったことッスよ。これで分からなければ、おとっつぁんにでも訊いてください。性教育は親の務めッスから」
「そうか。では後日、父上に聞いてみるとしよう」
剣心はきっと、この悪夢のような問いを淡々と父親に投げるだろう。凍りついた父親の前で、平然と佇む剣心の姿が容易に想像できた。
篤助は罪悪感を流し込むように湯呑みを傾ける。その時、静かに襖が開かれた。
「失礼いたします、篤助さま。朝の検診に参りました」
平伏していた頭を上げる。現れたのは、黒曜石のように艶やかな鱗に覆われた、端正な顔だ。
「おはよう、雅」
この黒竜人は、篤助の医者である[[rb:黒龍院雅 > こくりゅういんみやび]]だ。毎朝篤助の元を訪れ、体調を診てくれている。
「おはようございます、篤助さま。ご一服されながらで結構ですので、左腕を出していただけますか」
篤助は右手に湯呑みを持ったまま、左腕を差し出した。篤助の傍にやって来た雅は、「失礼します」と言って篤助の手首に[[rb:恭 > うやうや]]しく手を添えた。
「春だというのに、今朝は寒かったですね。私は毛皮がないので、寒いのは本当に苦手でして」
「…………」
雅がちょっとした世間話をしてくれているが、篤助の耳には全く入ってこなかった。
俯きがちになった雅の胸元は着物が僅かにはだけていて、乳白色の胸が見える。筋肉がぎゅっと詰まった胸板はとても扇情的で、篤助の全意識がその胸に集中していた。
心臓はうるさいほどに高鳴り、もはや周りの音は聞こえないほどで…………
みゃ、脈が早すぎる!
ふと、今は脈を測られている最中であることを思い出した。
『雄の胸に見とれて頻脈になる淫乱将軍』
そんな蔑称が江戸中に広がる妄想が、篤助の頭の中で繰り広げられる。
篤助は少しでも落ち着こうと、バレないように小さく深呼吸をした。しかし、鼻腔に満ちるのは雅の色香をたっぷりと含んだ空気。心臓はより強く、はち切れんばかりに鼓動を打つ。
そして遂に、雅の手が静かに離れた。
終わった…………
篤助は静かに絶望に身を浸した。
「うん、今日もいつも通りです。篤助さまは本当に健康でいらっしゃる。これも丈夫な身体に産んでくださった、お母上のお陰ですね」
「……へ?」
篤助の心臓は、胸を突き破りそうなほど激しく脈打っていた。将軍お抱えの医者が、それに気付かないはずがない。篤助は困惑気味に雅を見ると、気づいた彼は片目をつむって目配せをした。
大丈夫、二人にはバラしませんよ。
黒竜の瞳がそう告げる。篤助の頬は朱色に染まった。
「剣心様は、お身体に変わりはありませんか?何かありましたら、私が診ますが」
「気遣い痛み入る。だが、私の身体は常に万全だ」
「左様ですか。しかし、もし何か違和感を感じたときは、すぐに申し付けください。もしそれが妊娠の兆しであれば、赤子のためにも様々な準備が必要ですので」
二人のやり取りを眺めていた蓮吉だが、ふと「むむむ」と首を捻った。
「いかがしました、蓮吉様?」
「いやぁ、大奥に入れるってことは、雅せんせーはすっごいお医者さんってことッスよね?なのになんで、剣心さんみたいに篤助さまにご奉仕しないのかなァって」
いいぞ、蓮吉!
篤助は、心の中で蓮吉に歓声を送った。一言一句逃さぬよう、篤助は耳をそば立てる。
「嬉しいお言葉です。しかし、篤助さまにご奉仕できるのは、この江戸を動かすほどの傑物かつ、目に入れただけで欲情してしまうような[[rb:淫靡 > いんび]]な肉体を持つ至高の雄のみ。私には、艶やかな黒鱗と雄々しい肉体がありますが、所詮は唯の医者。とても篤助さまにご奉仕できる身分ではありません。それに――」
雅は爽やかな笑顔を浮かべて言い放った。
「私は孕むより、孕ませたい[[rb:質 > たち]]ですので」
「なっ!?」
開いた口が塞がらないとはこのことか。
篤助はそう思いながら、愕然と雅を見つめていた。蓮吉も言葉を失っていたが、剣心だけはいつも通りの佇まいを保っていた。
「さて、そろそろ私はお暇させて頂きます」
雅がゆっくりと立ち上がる。その最中、こっそりと篤助の耳に囁いた。
「……とはいえ、大奥にも例外があります。もし私にお手付きになるのなら、その時は全身で、篤助さまにご奉仕させて頂きます。極上の快楽を、お約束しましょう」
雅の生温かい吐息が、篤助の耳をくすぐる。僅かにはだけた胸元から見えるのは、鷲掴みしたくなるほどの逞しい雄乳。この黒曜石の如き肉体を無茶苦茶にできたら、どれ程の快感だろうか。
「それでは、失礼いたします。皆様、良い一日をお過ごし下さい」
パタンと襖が閉まる。黒竜が去ってもなお、篤助の五感は雅の[[rb:色香 > フェロモン]]に支配されていた。
―――
しっとりと肌に纏わりつく着物の感触。星屑が舞うように輝く、揺れる[[rb:水面 > みなも]]。篤助は冷たい水に半身を浸しながら、想いを巡らした。
大奥に勤める雄は皆、[[rb:珠玉 > しゅぎょく]]である。小姓ですら端正な顔と、逞しい肉体を有している。もしも大奥に町娘が迷い込むようなことがあれば、全方位を埋め尽くす[[rb:眉目秀麗 > びもくしゅうれい]]な雄たちに彼女は卒倒することだろう。
しかし、雄の宝石箱のような大奥の中でも、一際眩しく輝く玉が存在する。日ノ本一の武士にして、その姿は生きた刃とまで称される狼牙剣心は、まさにその一人だ。
だがしかし、至高の玉は、剣心一人ではない。
この大奥には、剣心に匹敵する雄が他にもいる。 戦国の世、乱立した英雄たちが天下人となるべく覇を競ったように、この大奥では無上の雄たちによる正室争いが繰り広げられている。正室になれるのは、篤助の子を最初に身篭った雄のみ。ゆえに、彼らは己が魅力を最大限発揮し、日夜、篤助を誘惑している。
……だから、こんな事は日常茶飯事なのだ。行き交う雄たちに鼻の下を伸ばしていた篤助が、身体の大きな雄に跳ね飛ばされて池に落ちるなんて。
「あ、ああ、篤助さま……っ!ご、ごめなさ―――ごふっ!」
篤助を跳ね飛ばした張本人は慌てて池に駆け寄り、そして案の定、何も無い地面に躓いて池に飛び込んだ。篤助は、その巨体に相応しい大波のような水飛沫を顔面に浴びた。
「ああ……うん……大丈夫だから……」
篤助は池の底に尻餅をつきながら、波打つ水面にそう零した。
「ていうか、[[rb:要 > かなめ]]こそ大丈夫?今、頭から池に突っ込んでたよね……って、えぇぇ!?」
篤助の視線の先、水面から二つの角が生えている。そして、その周囲でバシャバシャと水飛沫を跳ねさせる太い手足は、間違いなく篤助を吹き飛ばした牛獣人のものだ。
「こんな浅いところで溺れんの!?」
篤助は、膝ほどの浅さの池でもがき苦しむ牛獣人を引っ張り上げる。篤助の倍はありそうな巨体を引き起こすのは、とんでもない重労働だった。
「げほっ……げほげほ……」
陸揚げされた牛獣人は全身から水を滴らせながら、地面に両手を突いて何度も[[rb:嘔吐 > えづ]]く。
「大丈夫?雅、呼んでこよっか?」
「い、いえ……そ、そんな迷惑、かけられ、ない、です……」
山のような巨体を縮こまらせながら、[[rb:角巻 > つのまき]]要は伏せ目がちに言った。
「あ、あの……ごめんな、さい……お、おらのせいで、篤助さま、濡れちゃった……」
「大丈夫、大丈夫。どうせ次は[[rb:樋熊 > ひぐま]]の授業だし、遅れるくらいが丁度いいよ。てか、ぼくより要のほうがビショビショじゃん」
下半身しか水に浸かっていない篤助とは違い、頭から水に突っ込んだ要は全身びしょ濡れだ。肌にぴったりと張り付いた着物が、要の肉厚な身体を浮かび上がらせている。
「……やっぱり、身体は要が一番だなぁ」
「え……?」
こぼれ落ちそうなほど豊満な乳房の輪郭が、着物越しに
はっきりと浮かび上がっている。珠玉の雄たちが集う大奥だが、乳の大きさなら要はぶっちぎりの一番だ。
「そ、そう、ですか……」
要は篤助から目を逸らし、自らの身体を隠すように腕を回した。筋肉も、胸も、尻も、一物も、彼の身体を構成する全てが大きい。大奥でも最強の[[rb:武器 > 肉体]]を持っているのに、肝っ玉だけは小さいのが玉に瑕だ。
「うん、要はすっごくすけべ……魅力的だよ。さ、着物を着替えに行こ」
篤助が手を差し伸べると、要はおずおずとその手を取った。どんなに背中を丸めて体を小さく見せようとしても、要の手は篤助の手を包み込んでしまうほど大きい。
「要の部屋はあっちだっけ?」
「そ、そうです……」
汚れ一つない床に濡れた足跡を残しながら、篤助たちは進む。その最中、篤助はぴくりと耳を揺らした。
「なんか賑やかな声が聞こえるね……て、うわ!」
角を曲がった先で篤助が目にしたのは、炎の壁と見紛うほどの熱気を発する人集り。人の渦の中心を一心に見つめる彼らは、主上である篤助が現れたというのに一向に気付く気配がない。
「わ、わわ……」
人混みが苦手な要が、とても弱い力で篤助の手を引く。篤助は「大丈夫だよ」と怖がる要を宥め、彼の手を引いて人の壁に近づいた。
「ごめん、通してほしいんだけど!」
篤助が声を張り上げる。しかし、熱狂に囚われた彼らの耳に篤助の声は届かない。
大奥で働く小姓たちは、主上に仕えるだけの教養を有した優秀な者たちだ。しかし、そんな彼らですら仕事を投げ捨てて熱中してしまう、太陽のような求心力をもった存在がこの大奥には存在する。
「みんな〜、ちょ〜っと、あっちゃんを通してあげてほしいのにゃ〜」
渦の中心から聞こえたのは、気の抜けた猫なで声。本来であれば喧騒にかき消される程度の声量なのに、その声は天からのお告げのように、瞬く間に集団に浸透した。
「あっ、篤助さま!申し訳ございません!」
「ううん、大丈夫」
背後の篤助に気づいた小姓が、慌てて頭を下げる。篤助はそれを宥め、人垣の割れ目を抜けた。そして、渦の中心へとたどり着く。
「やっぱり、キミか」
そこにいたのは、篤助よりの背丈の小さい齢十四の雪豹獣人だ。自分よりも大きな大人に囲まれているというのに、彼の表情に怯えの色は全くない。それどころか自信に満ちた笑みを浮かべ、この回廊に熱狂の渦を巻き起こさんと声を張り上げる。
「星よりも、月よりも!」
『ぼくらを照らす、江戸の太陽ぉ!!!』
「[[rb:雪之丞 > ゆきのじょう]]、今日も江戸八百八町を照らすのにゃ!」
『うぉぉぉーーー!!!』
江戸でその名を知らぬ者はいない歌舞伎の花形役者、[[rb:豹宮 > ひょうのみや]]雪之丞の口上が響き渡る。
ユキの生口上に、[[rb:信奉者 > ファン]]の熱気は最高潮に達する。歓声が轟き、ビリビリと空気が震えた。
「ひ、ひぇぇぇ……」
その様子に、篤助の背後に隠れていた要は大きな身体をぷるぷると震わせる。
「大丈夫、大丈夫だから。ユキちゃん」
要を宥めつつ、篤助は目の前の雪豹獣人に呼びかける。
「どうしたのかにゃ、あっちゃん?」
ユキは小首を傾げ、水晶ように輝く瞳で篤助を見上げた。たったそれだけの動作で、柔らかな毛並みがふわりと揺れる。その愛らしさに、篤助は心臓を射抜かれたかのように胸を押さえた。
「うっく……ちょっと通してほしいんだけど」
篤助は未だユキの背後にそびえる人垣に目をやった。
「もちろん、いいにゃんよ。で〜も〜」
ユキは上目遣いで篤助に近寄る。そして、空いている左腕に抱きついた。
「ユキのお願いも、聞いてほしいのにゃ〜」
そう言って、ユキは篤助の腕に頬擦りをする。ふわふわの毛並みがくすぐったい。そして、周りの信奉者からの刺すような視線が痛い。
「今日、ユキの舞台があるんだけど、もし暇だったら、あっちゃんに来てほしいのにゃ。あっちゃんが来てくれたら、ユキはとってもとっても嬉しいのにゃ!」
ユキがそう言うと、周りの信奉者たちから悲鳴にも近いどよめきが走った。ユキの舞台は、最も安価な立見席ですら即座に埋まってしまうほど人気ぶりだ。ここにいる信奉者たちですら、ユキの歌舞伎を二度も見れた豪運の持ち主はいないだろう。
しかし、篤助は苦々しい表情で唸った。
「うーん、行きたいっちゃ行きたいんだけど……」
篤助は天下を統べる将軍である。歌舞伎の観覧であろうとも、大勢の武士を動員し安全を確保しなければならない。しかし、それを当日いきなり、というのは、武士にとって迷惑この上ないことだ。
「来てくれないのにゃら、ここは通してあげないのにゃ〜」
ユキが歌うように告げる。それを聞いた信奉者たちはがっちりと肩を組み、篤助たちの前を壁のように塞いだ。
「な、なんて結束力……!」
将軍の道を塞ぐなど、参勤交代の列を横切る以上の不敬だ。それだけのことをさせてしまうのだから、ユキの魅力は恐ろしい。
だが。
「―――貴様ら。己が行為の意義、理解しているのだろうな」
刀のような一言が、信奉者たちの熱狂を斬り捨てる。ユキの引力から絶たれた彼らは、顔を真っ青にして震え上がった。
「ただちに篤助さまに道を譲れ。さもなくば、貴様らの素っ首、ひとつ残らず叩き斬る」
襖が開くように、すぱっと人垣が割れた。その道を、刀のように鋭利な気配を纏った剣心が進む。篤助の眼前で止まった剣心は、篤助の腕にまとわりつくユキに鋭い視線を投げた。
「貴様の仕業だな、豹宮」
剣心は言葉の刃を振り下ろす。
しかし、ユキは少しも動じなかった。
「にゃぁ〜。剣心さんのお顔、怖いのにゃぁ」
剣心の登場によって周囲の大人が息を呑むほど緊迫している中、十四歳のユキはわざとらしく怖がって見せる。
「好きな人の前では笑顔!これが『心遣い』なのにゃ。剣心さんは礼儀正しいけど、心の余裕がないにゃんね」
そして二パッと笑うと、その愛らしい笑みを強調するように、頬に指を添えて小首を傾げる。対する剣心は、余分なものを削ぎ落とすように、表情から感情を消していく。
「貴様のそれは気遣いではなく、ただの不敬だ。これからも大奥に席を置くつもりならば、立ち振る舞いには気を使え」
「剣心さんは身も心もカッチコチにゃんね〜。融通の効かないヒトはモテないにゃんよ?」
途端、剣心から一切の熱が失せた。代わりに発せられるのは、研ぎ澄まされた刀のような殺気。あまりの恐ろしさに、周りの小姓たちが[[rb:戦慄 > わなな]]いた。
「はい、そこまで!」
篤助はパンパンと手を叩き、二人の意識を自分に集める。
「要が怖がってお漏らししちゃうから、この喧嘩はもうお終い」
「え、えぇ……!そ、そんなぁ……」
篤助の言い分に、後ろで縮こまっていた要は篤助の背中から顔を覗かせ、小さく抗議する。しかし、周りの視線が自分に向くと、亀のように頭を引っ込めた。
「ユキちゃん、今日いきなり歌舞伎を見に行くとなると、武士のみんなが困るんだ。だから、歌舞伎はまた今度見に行くよ」
「今度っていつにゃ?」
「うーん、再来週くらいかな。剣心と話しておくよ」
「む〜」
「剣心はこれから稽古でしょ?蓮吉たちを待たせちゃダメだよ」
「もちろん承知しております。ですが」
剣心は横目で、篤助の着物の裾から滴る水滴を見た。
「どうかこの剣心に、お着替えの手伝いをさせて頂きたく」
「ありがとう、助かるよ。それじゃあまたね、ユキちゃん」
「ぜったいぜったい!ユキの歌舞伎、見に来るにゃんよー!」
篤助はユキに手を振り、人垣を抜けた。
「あ、篤助さま……ほ、ほんとうにお時間、大丈夫ですか……?」
人混みを抜けると、要がおずおずと尋ねた。顔が真っ青なのは、先程までの人混みと、篤助の時間を奪っているという[[rb:畏 > おそ]]れからだろう。
「大丈夫だって。どうせこの後は樋熊の授業だし。なんだったら、このままサボりたいくらいだよ」
「篤助さま、あまり樋熊殿を侮らぬよう」
気軽に答えていた篤助だったが、剣心の張り詰めた一言に思わず振り向いた。
「今でこそ老骨の皮を被っていますが、あの御仁は歴戦の知将です。あの男の前では何が隙となるか分からぬ以上、一切の油断は排すべきかと。篤助さまを将軍の座から引き下ろせるとすれば、それはきっと、あの男だけなのですから」
―――
篤助は不安で縮こまる胸を、深く息を吸って膨らませる。そして、上品な意匠が施された襖の引手に手をかけ、小さな隙間を開けた。
隙間から見えるのは、文机が一つ置かれているだけの質素な部屋だ。そして文机の傍には、正座しながら眠りこける茶色い毛並みの老齢の熊。かつては筋骨隆々の逞しかったであろう大柄な身体は、今はでっぷりとした脂肪で覆われている。突き出た腹はまるで米俵のようだった。
「座りながら寝てる……」
首をガクリと傾け、口の端からは涎を垂らし、耳をすませば「ふごぉぉぉ……」といういびきまで聞こえてくる。警戒とは無縁の間抜けな姿に、篤助は肩透かしを食らったような気分で入室した。
「樋熊、起きて」
篤助は躊躇いがちに熊の肩を揺する。たっぷりと贅肉を蓄えた彼の身体は、まるで[[rb:護謨鞠 > ゴムまり]]のように篤助の手を押し返した。
「ふごッ…………あぁ、篤助様ぁ……。これは失礼したのぉ。春の陽気に当てられて、つい眠り込んでしまった。全く、歳を取ると起きているのも一苦労じゃ」
樋熊はゆっくりと瞼を開けると、口元の涎を手の甲で拭った。
「さて、篤助様も来たことじゃし、授業を始めましょう――と言いたいところじゃが」
樋熊はご機嫌に笑いながら、急須と茶碗を載せた盆を篤助に見せた。
「じゃーん!まずは一服、篤助様もいかがかな?」
樋熊は恵比寿様のような福々しい笑顔を浮かべ、二つある茶碗の片方を篤助に差し出した。
「要らないよ。何が入ってるか分からないし」
「ぶぅ〜、ワシも嫌われたものじゃな。これでも、仲間内ではなかなかのお手前と評判なんじゃぞ」
樋熊は頬を膨らませ、ぶつくさと不貞腐れながら急須を傾ける。注がれるのは、日に透かした葉のような美しい色の玉露である。茶碗から白い湯気と共に、青葉のような香りが立ちのぼった。
篤助も飲んだことがあるが、その繊細な味わいには心を奪われた。玉露なら貰っとけば良かった、と[[rb:臍 > ほぞ]]を噛んだが、そんな篤助の鼻腔に若干の違和感が舞い込む。
しかし、篤助の違和感など露知らず、樋熊は茶碗に口を付け、緩やかに傾けた。そして―――
「あちぃっ!」
弾かれたように茶碗から顔を遠ざけた。茶碗と共に、薄緑色の液体が宙を舞う。
「ちょっ、何してんの!?」
篤助は慌てて空の茶碗を手に取り、執務室を出た。たまたま通りかかったらしい小姓に、持っていた茶碗を渡す。
「ごめん、水を汲んできてくれる?」
「承知いたしました」
小姓は小走りで廊下の奥へ消えた。
「もうしわけごさいましぇん」
べっと突き出した舌を手で[[rb:扇 > あお]]ぐ御歳五十九歳の熊獣人を見て、篤助は辟易した。
「着物は濡れてない?」
「はひ」
篤助は、樋熊が落とした茶碗に茶を注ぐ。そして、慎重に口を付けた。
「熱っ!」
唇を焼く熱湯に思わず顔を引いた。そして僅かに口に含んだ玉露からは、眉をひそめる程の苦味が広がってくる。熱すぎる湯のせいで、旨みだけでなく余分な苦味まで抽出されている。
「こんな熱いお湯で玉露を入れるだなんて。なにが『なかなかのお手前』だよ」
篤助が文句をこぼしていると、襖越しに「篤助さま」と呼ぶ声がした。篤助が襖を開けると、先程の小姓が水をたっぷり入れた茶碗を差し出した。
「ありがとう」
篤助は茶碗を受け取り、それを樋熊に渡した。
「はい、水」
「かたじけない」
樋熊はぐいっと水を煽った。ごくりごくりと大きな喉仏が上下する。
「いやぁ、助かりました。篤助様は本当にお優しい。」
「嬉しくないよ」
「ワシは事実を述べたまでですぞ。その気質は大事にしなされ。――農民として生きるには、気遣いの心は不可欠じゃからな」
樋熊は淡々と、悪意の濃淡を変えることなく言い放った。
「……それ、どういう意味」
「農村で育った篤助様には言うまでもないことだと思ったのじゃが。農作業は重労働じゃからな、農家間の協力は不可欠なのじゃよ」
「そうじゃない!将軍であるぼくが農民として生きるって、どういうことだ!」
篤助は毛並みを逆立て、樋熊を睨みつける。しかし、樋熊はまるで動じない。仏像のように泰然と構えながら、篤助を真正面から睨み返した。
「仮、でございましょう」
「っ!」
「篤助様を将軍として認めているのはごく一部の幕臣のみ。篤助様は暫定的に五代目将軍となっておりますが、より相応しい御方を即位させるべきという意見も多い。事実、今の老中たちは[[rb:犬平貞義 > いぬだいらさだよし]]様を将軍に据えるべきと考えておられる」
犬平貞義は、御三家の一つである紀州藩藩主の嫡男である。将軍の血を直接引いている訳ではないが、落とし子である篤助と比べれば、ケチのつかない真っ当な血筋だ。ゆえに、落とし子である篤助が気に入らない老中たちは、こぞって犬平貞義を持ち上げているのだ。
「よくも……っ!」
それをさも当然とでも言うかのような樋熊に、篤助はギリギリと歯ぎしりした。
「よくもそんなこと言えるな!ぼくを殺そうとした張本人のクセに!!!」
半年前、篤助は在らぬ罪を着せられ、罪人として命を狙われた。その全容は、篤助から将軍の座を奪うために企てられた、老中たちによる謀反である。そして、この[[rb:奸計 > かんけい]]の立案したのは、目の前にいる樋熊だ。
「ワシは軍師として請われたものを差し出したに過ぎん。仕事を選べないのは、雇われの辛い宿命じゃな」
大奥に入内している雄の一人、[[rb:獅子蔵煌呀 > ししくらおうが]]のおかけで、篤助はこの謀反を生き延びることができた。しかし、謀反を企てた者たちは、未だ幕府の要職に居座っている。――仮初の将軍には、逆臣を裁く力すらない。
「まあまあ、取り敢えず落ち着きなされ。決定権を持たぬ者同士でケンカしたところで、何も変わりはしないのじゃから」
言外に無価値の烙印を押す樋熊を、篤助はただただ睨みつけることしかできなかった。
[newpage]
襖の外から、朝と同じ「もーう」という掛け声が聞こえた。篤助は小さく息を吐いた。
「おや、もう時間とは。まったく、時間が過ぎるのはあっという間じゃな」
樋熊は手に持っていた書物をパタンと閉じた。
「まだまだ教えたいことは山ほどあるのじゃが、仕方あるまい」
「教えた知識も、ぼくが将軍辞めたら全部無駄だけどね」
篤助は嫌味ったらしく言い放つが、樋熊は穏やかな顔を崩さなかった。
「無駄ではなかろう。ものを教えるというのは、案外難しいものじゃからな。本物の将軍を相手にする前に、こうして練習できるのは有難いことじゃ」
「今はぼくが将軍なんだけど」
「とは言っても、篤助様は次の将軍が決まるまでの繋ぎじゃからな。事実、将軍としての責務を果たしている訳でもなし。形だけの将軍よりかは、これからの幕府を担う『本物』に考えを巡らした方が有意義じゃろう」
滔々と篤助を侮辱する樋熊に、篤助はぐるると牙を剥く。樋熊はやれやれとご機嫌取りの言葉を吐き始めた。
「しかし、仮の将軍というのも悪くないものじゃぞ。責任は負わずに、将軍の贅沢な暮らしを堪能できるのじゃから」
「でも用が済めば捨てるんだろ。ぼくの母ちゃんみたいに」
「そんなことはない。篤助様が元々住んでいた村にお返しするとも」
…………同じことじゃないか。
「もういい」
篤助は勢いよく立ち上がると、襖へと足を向けた。
「そう言えば、昨夜は剣心にお熱だったそうじゃのう」
樋熊がかけた言葉に、篤助は足を止めた。
「何それ。ぼくの事情は何でも知ってるっていう脅し?」
樋熊は大奥の最高位職である[[rb:御年寄 > おとしより]]を務めている。ゆえに、大奥での出来事は全て樋熊の耳に入る。これは篤助の夜伽も例外ではない。
「勘ぐりすぎじゃよ。ワシも篤助様の夜の営みに首を突っ込むほど野暮じゃないのじゃ。ただ、お気に入りなら傍に置いておくとよいですぞ。なにせ将軍家剣術指南役に抜擢される程の雄じゃ。婿に欲しいと望む家は数え切れないからのぉ」
樋熊は老猾そうな嗤いを顔に浮かべる。その顔も、夜の事情を知られていることも気に入らない。篤助は不快げに顔を歪めながら、叩きつけるように襖を閉めた。
―――
生け垣越しに聞こえる竹刀の音が、ささくれだった心を[[rb:宥 > なだ]]める。篤助は[[rb:逸 > はや]]る気持ちを抑えきれず、駆け足で道場の門をくぐった。
道の両脇にそびえ立つ立派な松の木を横目に、篤助は道場に足を踏み入れる。[[rb:草鞋 > わらじ]]を脱ぎ捨てて[[rb:框 > かまち]]に上がると、四つん這いでそろりそろりと進み、戸の隙間から稽古場を覗き込んだ。
「やぁぁぁぁ!」
大勢の雄たちが、額に玉のような汗を浮かべながら竹刀を振るう。[[rb:裂帛 > れっぱく]]の叫びが耳をつんざき、力強い踏み込みが[[rb:丹田 > たんでん]]を震わす。鼻をさす汗の匂いすら、篤助の胸を高揚させた。
道場で鍛錬している雄たちは、稽古に夢中で誰も篤助に気付かなかった。もし彼らが篤助に気づけば直ちに稽古を中断するだろうし、今のように逞しい雄たちが汗水垂らす姿を見ていたかった篤助には好都合だ。
「あっ、いた!」
道場の真ん中、竹刀を構え凛と佇む剣心がいる。他の雄たちからは燃え上がるような気迫を感じるのに対し、剣心はまるで凪いだ[[rb:水面 > みなも]]のように悠然としていた。
「はぁぁぁぁぁぁ!」
対峙する鰐獣人が、剣心目掛けて竹刀を振るう。篤助の目ではとても追えない剣速。破竹の勢いで剣心に襲いかかった一刀は、しかし、空を斬る。
紙一重。剣心は半身ずらして躱す。
そして一閃。剣心の竹刀が、鰐の篭手を強かに叩いた。
「おぉっ!」
篤助は感嘆の声を漏らす。最小の動きで最上の成果を上げる、洗練された一刀。無駄を削ぎ落としたその姿は、敵を斬ることを追求した日本刀の美しさに通ずるものがある。
「ありゃ?篤助さまじゃないッスか」
篤助の歓声が聞こえたのか、思いのほか近くにいた蓮吉が篤助を見て首を傾げる。篤助はギクリと顔を歪めた。
「篤助様!」
彼らは篤助の姿を認めるやいなや、瞬きのうちに平伏した。稽古場からは熱が消え去り、逞しい背中がずらりと並ぶ。
「そ、そんなかしこまらないでよ!ぼくのことは気にせず、稽古を続けて」
「主たる篤助様が参った以上、そういう訳には参りません!」
頭を下げて頑として動かない武士たち。篤助が何も言わなければ、彼らは永遠に平伏し続けるだろう。
「んっんんっ!稽古を続け……ろっ!」
喉をつっかえさせながらも、篤助はなんとか言葉を絞り出す。
「はっ!」
武士たちはもう一度、頭を深く下げると、稽古を再開した。竹刀の打ち合う音が再び稽古場に鳴り響く。篤助は一礼して稽古場に入ると、隅に座って稽古の様子を眺めた。
太陽が真上に登った頃、午前の稽古が終わった。稽古が終わるやいなや、武士たちは汗の粒を振りまきながら、篤助の元に駆け寄った。
「篤助さま、よくぞいらっしゃった!」
「見てましたか、俺の一刀!なかなか冴え渡ってたと思うのですが、いかがでしたか!?」
「午後はどのようなご予定なのでしょう?もしお時間があるなら、ぜひ午後の稽古もご覧になってください!」
「えへへぇ、どーしよっかなぁ〜」
狼牙家の家臣である彼らには犬系獣人が多い。彼らは熱烈に尻尾を振りながら、口々に篤助に語りかけてくる。屈強な雄に囲まれて満足げな篤助は、だらしなく頬を緩めた。
「ところで篤助さま、何しに道場に来たんスか?」
「よくぞ聞いてくれた、蓮吉!みんな聞いてよ、さっき樋熊にね……」
篤助は眉間に皺を寄せながら、先程の樋熊との一件を語った。
「はぁ?篤助様が仮の将軍だァ?」
「篤助様を愚弄するなど、許せん!」
彼らは鼻梁に皺を寄せ、鋭い牙を備えた口で吠え[[rb:滾 > たぎ]]る。樋熊の言う通り篤助は繋ぎの将軍かもしれないが、狼牙家家臣のみんなは篤助のために怒ってくれる。篤助にはとって、彼らは大きな心の支えだ。
「ったく、なんてことを言うんスかね、あのデブ熊は。次そんなこと言ってきたら、贅肉つねってやるッスよ!それでも黙らないなら、イチモツちょん切って……」
「口を閉じろ」
背後から響いた声に、蓮吉はぞぞっと毛並みを逆立てる。他の家臣たちも背筋を凍らせて固まっている。彼らが振り向いた先にいたのは、彼らの主君、狼牙剣心その人だった。
「樋熊殿は大奥を取り仕切る御年寄、つまり私の上官だ。目上の御方に罵詈雑言を吐くとは、武士として到底許されることではないぞ」
剣心の厳かな声が、静まり返った道場に響く。家臣たちはさっきまで元気に振っていた尻尾をだらりと垂らし、沈鬱な空気を醸し出していた。篤助は罪悪感に背中を押され口を開いた。
「ごめん、ぼくが最初に悪口を言ったんだ。それで、みんなはぼくに同情してくれただけで……だから、あんまり怒らないであげて」
「これは家臣たちの未熟、すなわち主である私の責任です。篤助さまが負い目に感じることはございません」
剣心は丁寧に言葉を紡ぐが、その裏には篤助の言い分を認めない頑固さが滲んでいる。篤助は内心ムッとしつつ、口を尖らせた。
「剣心の主君はぼくだ。だから剣心の責任は、ぼくの責任でもある。叱るのならぼくにするべきだ」
剣心は僅かに目を見開いた。
「…………」
「え、なに?」
剣心が何やら呟いたが、篤助にはよく聞こえなかった。
「いえ、何でもございません。お前たち、此度のことは不問とする。篤助さまの恩情に感謝するように」
「ありがとうございます、篤助様」
家臣たちは篤助に一斉に頭を下げる。ぶわりと巻き起こった汗臭い風に、篤助は密かに息を止めた。
「臣下たる私たちは、この恩情に報いなければならぬ。午後の稽古は、私が帰ってくるまでとする」
こぼれそうになった文句をすんでのところで噛み殺した家臣たちだが、しかめっ面は隠さない。しかし、家臣たちは無言の抵抗に、剣心が気付く気配は全くない。頑張ってくれ〜、と篤助は心の中で声援を送った。
「帰ってくるまでって、剣心さん、どっか行くんスか?いつの間にか着替えてるッスけど」
蓮吉の言う通り、先程まで道着姿だったはずの剣心は、鼠色の着物に無地の羽織という格好に着替えていた。腰にはしっかりと刀を差しており、いつでも城下町に繰り出せそうだ。これから用事でもあるのだろうか、と篤助は首を捻る。
「篤助さまはこれから城下町にお出かけになる。私はその護衛だ」
「あ〜、納得ッス」
涼し気な顔で言い放った剣心だが、篤助は密かに驚愕していた。確かに、樋熊に虐められた気晴らしとして、城下町に繰り出そうとは思っていた。その護衛を剣心に頼むために道場に来た訳だが、篤助はその事を一言も口にしていない。言葉がなくともとも主の意図を汲み取るのだから、剣心は本当に優秀な武士だ。
「それじゃあ篤助さま、こんなこと言うのは心苦しいッスけど、できるだけ早めに帰ってきて欲しいッス」
蓮吉は両手を握り、心苦しさなど微塵もない、期待に満ち満ちた目で篤助を見つめた。
「案ずるな、蓮吉。例え篤助さまが早いお帰りになろうとも、お前たちの稽古は日暮れまで行う。その時は、私も稽古に参加しよう」
「……いや、なに一つ嬉しくないッス」
剣心は辟易とした表情の蓮吉に背を向け、篤助の方に向き直る。
「それでは、参りましょうか」
剣心が恭しく差し伸べた手を篤助は取る。その所作とは裏腹に、ゴツゴツとした武人の手が篤助の手を包み込む。途方もない積み重ねを感じられるその手が、篤助は好きだった。
―――
日本の中心は江戸だ。これに異を唱える者はいない。
ならば、江戸の中心は一体どこだろう?
「江戸城に決まっておろう」
武士たちは口を揃えてこう答える。天下人たる将軍が御座す居城を江戸の中心と考えるのは、ある意味当然だろう。
だがしかし、江戸で生きる庶民たちは、異なる答えを持っていた。雲上人である将軍より、ただ象徴でしかない江戸城より、彼らの生活と密接に関わり、向上させる場所。それは――
「日本橋きたー!」
篤助は木造の太鼓橋が見えるやいなや、橋に向かって駆け出した。
日本橋。それは初代将軍、犬川[[rb:康篤 > やすあつ]]が建造した橋であり、その用途はただの橋渡しではない。江戸と日本各地を繋ぐ五街道、その終着点がこの日本橋なのである。人と物が集まる日本一活気に満ちたこの地こそが、江戸っ子たちにとっての中心地なのだ。
視界を埋め尽くすほどの獣人が行き交う日本橋。彼らは五街道を踏破した健脚で、その床板を踏み鳴らす。
「すごいよ、剣心!こんなに頑丈そうな橋がどしんどしん揺れてる!」
「橋が揺れて喜ぶのは篤助さまくらいですね」
篤助はこの振動が好きだった。篤助一人が飛び跳ねようと地団駄を踏もうとビクともしない橋が、大勢で歩いただけで大地震のように揺れる。群衆が成せる大偉業だ。
欄干に手を乗せて振動を感じていた篤助だったが、ふと口を開いた。
「ぼく、まだお昼食べてないんだよね……」
「私もです。何か召し上がりたいものはございますか?」
「ん〜、そうだなぁ」
篤助は欄干から身を乗り出す。ぐるりと周りを見渡すと、川岸に屋台が立ち並んでいるのが見えた。
「あの辺、行ってみない?」
「かしこまりました」
二人は日本橋を渡りきると、川岸の通りに歩を進めた。
まず二人の鼻腔を突いたのは、磯の匂い。屋台に並べられた魚は採れたて新鮮で、その鱗は水面に反射する光のように輝いていた。
「うわぁ〜、おいしそ〜。なんか魚食べたくなってきた!」
「それなら、魚料理で評判のいい店を家臣から聞いております。ご案内いたしましょうか?」
剣心が恭しく提案する。しかし、篤助は顔をしかめた。
「剣心のおすすめは堅苦しいからヤダ」
「篤助さまが召し上がるのですから、格式ある店の料理を味わって頂きたいのです」
「そうじゃなくてさ、ぼくはこう、ふら〜っと入れるお店がいいんだよ。あと、『篤助さま』は禁止って言ったでしょ」
篤助は将軍にしては質素な着物の袖を振りながら、口を尖らせた。今の篤助は将軍ではなく、参勤交代で江戸にやって来た地方藩主の息子、という設定なのだ。しかし、剣心が『篤助』と呼んでいては意味がない。
「申し訳ございません――アツさま」
剣心は言いづらそうに口端を歪めるながらも、篤助の偽名を口にした。
「それでよい!で、剣心は何か食べたいものある?」
「アツさまが召し上がりたいものを」
調子に乗ってふんぞり返る篤助。剣心はそんな主人にも礼を失することなく、従者として満点の回答を返す。
「じゃあ――あれにしよう」
篤助が指さしたものを見て、従順な従者の仮面に不満げな色が差した。
「寿司、ですか……」
剣心の視線の先にあるのは寿司屋の屋台だった。万人に開かれたその形態は、剣心の言う格式からはほど遠い。
「お寿司きらい?」
「いえ、私に好き嫌いはありません。しかし、よろしいのですか?寿司は庶民の食べ物ですよ」
「いいの!ぼくは元々庶民なんだから」
そう言って、篤助は剣心を寿司屋の屋台に引きずり込んだ。
「へい、らっしゃい!何にする、にいちゃんたち!」
[[rb:鯱 > シャチ]]人の店主の威勢のいい声が二人を出迎えた。
「とりあえず、マグロちょうだい!」
「おいおい、柴のにいちゃん、マグロなんて下魚でいいのかい?値は張るが、うちにゃ格付け一番のタイだって揃えてんだ。ウマいモン食わなきゃ人生損だぜ」
「ふん!マグロのウマさが分からない方が損だね!」
確かにタイのような白身魚はあっさりしていて美味しい。だが、マグロだってうまいだろう。江戸っ子たちはマグロは痛みやすいだの、脂がくどいだの言っているが、篤助はマグロこそが格付け一位に相応しいと確信している。
「そうかい、そうかい。で、狼のにいちゃんはどうする?」
「アツさまと同じものを」
「柴のにいちゃんと同じね。二人ともマグロがいいなんて、変わってんな」
鯱は手早く握ると、二人の前に置かれた寿司下駄にぼん、と置いた。
「はいよ、マグロ二貫!」
「うわっはァっ!」
篤助はヨダレを垂らして、紅玉のように輝くネタに飛びついた。江戸の寿司は握りこぶしほどの大きさで、ずっしりと重い。大口を開けてかぶりつくと、マグロの甘い脂が口の中いっぱいに広がった。
「うっまぁぁぁい!」
篤助は鯱の店主にも負けない大声で叫ぶ。そのままバクリバクリと食べ進め、たった三口で寿司を平らげてしまった。
「大将っ!マグロを……二貫追加で!」
篤助は既に食べ終えていた剣心の分も追加で注文する。
「どうよ、屋台の寿司もウマいでしょ」
篤助はしたり顔で言う。しかし、剣心は少し考え込み、抑揚のない声で答えた。
「申し訳ございません。私には、食事を美味に感じる感覚はないのです」
……やってしまった、と篤助は後悔した。
狼牙家は代々続く武家の名家であり、狼牙家の鍛錬は江戸で最も厳しいことで有名だ。狼牙家では食事も鍛錬の一つであるらしく、剣心は幼い頃から無理やり[[rb:滋養 > じよう]]を腹に詰め込んできたという。そうして二十年以上鍛錬を続けた剣心は、美味しい、と感じるだけの味覚がない。
「ごめん、無神経なこと言って……」
「アツさまが謝られることなどございません。それに――」
剣心は篤助の頬にすっと手を伸ばした。
「うぇえ!」
突然の接触に篤助は身構えた。愛撫も接吻も毎夜のこととは言え、剣心がこんな公衆の面前で迫ってくるとは。頬は燃えるように熱く、心臓は胸を突き破りそうなほど高鳴る。
その大胆さに唖然としながらも、篤助は目を瞑り、剣心の想いを受け止めようとして――
「こんなご褒美もありますから」
篤助の頬についた米粒を取っただけの剣心に、篤助は顔を真っ赤にした。
「バカァァァァァ!」
篤助は剣心を叩いた。
「な、なぜ叩かれるのですか。もしや、篤助さまに何か無礼なことをしてしまったのでしょうか?」
「違うけどーー!でもとりあえず殴らせろーー!」
剣心は困惑していたが、不意に「ふふ」と笑い声を漏らした。
「なに笑ってんだよー!」
「いえ、申し訳ございません。私には美味しいという感覚が分かりません。ですが、篤助さまとのお食事は、やはり『楽しい』と思いまして」
そう言って、剣心は篤助の頬から取った米粒を自分の口に入れた。
「――っ!」
声にならない悲鳴を上げて、篤助は剣心の腹に向けて渾身の一撃をお見舞する。しかしそれは剣心の屈強な腹筋に阻まれ、幾ばくの[[rb:痛手 > ダメージ]]も与えられなかった。
「なんだいなんだい。メシ食ってる時でもじゃれつくなんて、柴のにいちゃんは狼のにいちゃんがダイスキなんだなァ」
鯱の店主はニヤニヤと笑いながら篤助をからかう。
違うわ!と否定できないのが辛いところであった。
―――
船を漕いでいた鮫人が、その鋭い牙をギラリと覗かせながら大あくびする。どれほどの距離を漕いで来たのだろう。鮫人の丸太のように逞しい腕を見れば、十里(約30km)はくだらない気がする。
「ご苦労さま〜!」
篤助は声を張り上げ、船上の鮫人に手を振った。篤助に気づいた鮫人は、ぼんやりと漕いでいた櫂を水中から持ち上げ、旗を振るように振り回した。大人らしからぬ無邪気な笑顔に、篤助は思わず吹き出してしまう。
「素敵ですね」
背後から投げかけられた声に、篤助は耳をぴくりと揺らし振り向いた。
「剣心もそう思う?」
「はい。泰平の世でなければ有り得ない、尊い日常だと思います」
川辺りに立っていた篤助は身を翻し、剣心の元へ向かう。そして二人は、人の流れに合わせて歩いた。
「珍しいね。剣心が思ってることを言うなんて」
「昔は、あのような営みに関心がなかったのです」
篤助の隣を歩きながら、剣心は言葉をこぼした。
「アツさまは、彼を見て何を思われるのですか?」
「ぼくはねぇ、やっぱり町人のみんなはスゴいっ!って思ったよ」
篤助はさっきの鮫人のような、江戸の街を回す人々のことが好きだった。
ただし、彼ら一人一人の影響力は大きくない。例えば、あの鮫人が一日仕事をサボったとしても、困るのはほんの一部の人だけだ。江戸全体を見渡したならば、なんの支障もないと言っていい。
だが、江戸で生活していると、町人たちこそが江戸の血であり、肉なのだと分かる。たった一人ではビクともしない橋も大勢なら揺るがせるように、小さな営みの集合が、日本で最も巨大な街を動かしている。これは、武士だけでは成し遂げられない大偉業だ。
「ただ――」
笑顔で語っていた篤助だが、急に顔を曇らせた。
「それと同時に、武士は今の日本に必要なのかって思うんだ。ぼくが農民だった頃、村に来る武士は我が物顔で米を取り立てるから嫌いだった。老中たちは権力争いに夢中で、今もきっと、ぼくを将軍の座から追い出そうと悪巧みしてる。町人よりずっと大きな力を持ってるのに、武士は一体、誰の役に立ってるんだろう……」
篤助は耳をへたれさせた。
「篤助さまの仰ることは理解できます。刀を抜く必要のない泰平の世となり、武士は支配者となりました。その立場に思い上がり、武士の本懐を忘れた者も少なくないでしょう」
眉間に皺を寄せ深刻げに告げる剣心だったが、不意にその表情を和らげた。
「しかし篤助さま、そのような者たちだけが武士ではないのです。篤助さまの目に見えぬ場所で、彼らは己が本懐を立派に果たしている。
篤助さまも同じです。今は道が見えずとも、将軍としての本懐を見つける時が必ず来ます。然るべき時に、その本懐を遂げられるよう、日々の勉学にお励みください」
日ノ本一の武士は、ブレない。
篤助が抱いた不安など、とうの昔に乗り越えているのだ。誰よりも先を往く剣心の目には、後進への慈愛が込もっていた。
「その、武士の本懐ってのは何なの?」
「それは申し上げられません。武士の本懐とは、他者から口頭で教わるものではなく、鍛錬と苦悩の果てに得る、自分だけの刀なのです。借り物の刀では、何も成し遂げられないのと同義です」
最後に一つ、御忠告を。
「刀を振れば武士であった時代は、はるか昔に終わりました。
泰平の世では、武士は刀を抜かずとも武士であらねばなりません。武士の象徴を封じられながら、その本懐を果たす――それは、とても難しいことなのです」
剣心は腰に差した刀の柄に手を添える。
それはまるで、戒めのように見えた。
―――
江戸城の道場と同じくらいの広さの店内には、[[rb:手代 > てだい]]たちの活きのいい売り口上が響いている。篤助が壁に飾られた反物を眺めていると、店の奥から現れた糸目の狐の番頭が、手もみをしながら素早く擦り寄って来た。
「お忙しい日々の中、我が[[rb:三狐 > みけつ]]屋呉服店にようこそお越しくださいました。アツさまのような高貴な御方にお越しいただけるとは、この三狐、天にも登るような心地でございます」
「いや、別に高貴ってほどじゃ……」
「ご謙遜なさらずとも良いのですよ。アツさまのご威光は日輪の如し。私のような凡俗には眩しすぎて、とても正視できませぬ」
と言いながらも篤助をガン見しているこの狐は、篤助が将軍だと知っているわけではない。変装の設定通り、どっかの武家の子供だと騙されていながら、流れるようにゴマをすっているのだ。
「本日も素晴らしい反物を揃えておりますよ。きっとアツさまも気に入るでしょう」
そう言って三狐は、篤助を店の奥の特別席に案内する。三狐は手招いた小姓に耳打ちすると、小姓は駆け足で店の奥に消えていった。
小姓が反物を取りに行ってる間、篤助は三狐のゴマすりを適当にあしらいながら店内を見渡した。ほとんどの手代が客の相手をしており、彼らの威勢のいい声があちこちで響いている。
「おっ」
そんな中、篤助の興味を引いたのは、篤助から真反対の位置にいる猫獣人の[[rb:番 > つがい]]だ。仲睦まじく微笑みあっている姿を見るに、もしかしたら新婚夫婦なのかもしれない。
白猫の妻の方は満面の笑みを浮かべているが、黒猫の夫は頬が引き攣っている。それはまるで崖っぷちに立たされたかのような表情で、彼にとっては相当痛い出費だったのだろう。
だが、喜ぶ妻の横顔を見ると、彼はたちまち頬を綻ばせた。頬を朱色に染めながら、妻の手に自らの手を優しく重ねる。絡み合う白と黒の指が、篤助にはとても尊いものに見えた。
武士の本懐とは、このような光景のことなのだろうか。
「お待たせいたしました」
高級そうな反物を抱えて戻ってきた小姓は、それを丁寧に机の上に広げた。それは美しい桜の文様が入った『女物の』反物だった。
「ご覧下さい、この風光明媚な桜文様を!思わず見蕩れてしまう美しさでしょう?こちらの反物、なんと皇族御用達の職人が作った逸品なのです。桜の美しさだけでなく、春の陽気までも醸し出すこの反物であれば、アツさまの要望に叶うかと」
糸目に火を灯し高らかに売り口上を述べる三狐。彼の言う通り、その反物は素晴らしかった。篤助は反物を腕に乗せ、矯めつ眇めつ眺めた。
「うわぁ〜、ホントに綺麗」
「そう言って頂けると思っておりました」
篤助の反応に、三狐は満足そうに目を細めた。普段の媚びへつらう姿からは狡猾そうな印象を抱くが、この男には客の要望や好みを決して忘れない類まれな誠実さがある。
「今日も素敵な反物を見せてくれてありがとう。すっごく気に入ったよ」
「こちらこそ、アツさまに気に入って頂けて光栄でごさいます」
晴れやかな笑顔を見せる三狐だが、その右腕が不自然に揺れている。机の下で、空でそろばんを弾いているのだ。商魂たくましいのは構わないが、客にそれを悟らせるのは頂けない。篤助はこの後に控える値段交渉に向けて、気を引き締めた。
その後、篤助と三狐は火花が散るほど苛烈な値段交渉を繰り広げた。強敵ではあったが、篤助は狙い通り半額近くまで値下げすることに成功した。そして、更にいくつかの反物を購入し、篤助たちは席を立った。
「今日はありがとう。仕立てが終わったら、家臣が取りに来るから」
「かしこまりました。今後とも変わらぬご愛顧の程、よろしくお願い申し上げます」
店の入口までついてきた三狐は、稲穂のように深く頭を下げた。篤助のことを銭袋だと思っていても、礼儀は欠かさない。これが商売繁盛の秘訣なのだろう。
「篤助さま」
その時、剣心が腰を屈めて篤助に耳打ちした。
「どったの、[[rb:煌呀 > おうが]]でも見っけた?」
「いえ、獅子蔵のことなどどうでもいいのです」
良い買い物をして上機嫌な篤助の軽口に、剣心は少しぶっきらぼうに答えた。剣心と犬猿の仲にある煌呀の名前を口に出したのが、気に触ったようだ。
「篤助さま、どうか取り乱さぬようお気をつけください」
嫌な前置きをして、剣心は言い放った。
「――血の匂いがします」
「っ!」
篤助は息を飲んだ。
「それは間違いない?」
「はい、[[rb:火盗 > かとう]]の武士と同じ匂いが」
火盗――正式には、[[rb:火付盗賊改方 > ひつけとうぞくあらためかた]]は江戸の凶悪犯を取り締まる治安機関である。危険な凶悪犯が相手なので、彼らの取り締まりは容赦がない。時には犯人をその場で斬り捨てるほど、血なまぐさい機関だ。
彼らと浅からぬ因縁がある剣心が同じと言うのなら、この近くに人斬りがいるのは間違いない。
「狙いはぼく?」
「いえ、恐らく――」
剣心が向けた視線の先には、先程の猫獣人の夫婦がいた。彼らもちょうど話を終えたのか、満足そうな笑みを浮かべながら店を出ようとしている。
「あんな幸せそうな人たちを……っ」
篤助は顔を歪めた。
「誰が狙ってるかわかる?」
「[[rb:彼奴 > あやつ]]です」
剣心が目で示した方を、篤助は慎重に窺う。笠を被った鷹人が[[rb:小間物屋 > こまものや]]の品をながめるふりをしながら、あの猫獣人たちを横目で追っていた。笠の影からのぞくその目は、彼の嘴よりもずっと鋭い。
その目に宿った殺気に、篤助は震えた。
そんな篤助に、剣心が目で問いかける。
――討つか、否か。
「剣心」
「はい」
身を縛るような空気の中、篤助は上意を言い渡す。
「頼んだ」
「御意に」
剣心はいつもと変わらない声音で返事をし、いつもと変わらない様子で足を踏み出した。剣心にとって、篤助の隣は常に戦場である。戦う相手が現れたからといって、今さら気を入れ直したりなどしない。
常在戦場を体現した武士、狼牙剣心。
まさに、日ノ本一の[[rb:武士 > もののふ]]である。
「あ、あの、どうなされたのですか?随分と真剣にお話しされていましたが」
二人のただならぬ空気を感じ取ったのか、三狐は動揺した様子で二人に尋ねた。
「話している時間はない。三狐殿は急ぎ奉行所に向かい、役人を呼ばれよ。狼牙剣心の命だと言えば、役人たちも素直に従うだろう」
「ろ、狼牙剣心っ!?」
三狐は糸目をガっと見開いた。
「急げ」
「はっ、はいー!」
剣心が低い声で一喝すると、三狐は慌てて駆け出した。
三狐が出ていくのと同時に、猫獣人の夫婦が店を出る。様子を窺っていた鷹人も二人の後を追って歩き出す。
そして、剣心も静かに足を踏み出した。
「気をつけて」
剣心は篤助の言葉を背に受け、日常の隙間を縫い、暴力と死が潜む最前線へと進む。野菜を売る棒手振りとすれ違い、客を呼び込む団子屋の娘の前を通り抜け、鬼ごっこに興じる子供たちを躱して
―――剣心は鷹人の前に立ち塞がった。
「……何用か」
「御用である。貴様には殺人の疑いがかかっている」
鷹人の目が強ばる。射殺さんばかりの視線に晒されていながら、しかし、剣心は微塵も臆さない。
「大人しく指示に従ってもらおう。まずはその杖からだ」
剣心はそう言って、鷹人がついている杖を指さした。
刹那、銀光一閃。
鷹人が杖の仕込み刀を抜刀。目にも留まらぬ剣閃は、剣心の喉元目がけて空を駆ける。剣心は上体を逸らし、紙一重でそれを躱した。
抜刀の勢いのまま上段に構えた鷹人は、剣心の脳天に刀を振り下ろす。剣心、敢えて敵の懐に潜り込み、振り下ろそうとする腕を下から抑えた。
「ふうっ!」
剣心は左腕を引き絞り、放つ。
破城槌の如き正拳突きが、鷹人の鳩尾にめり込んだ。
「ぐあっ!」
鷹人は唾を飛ばして吹っ飛んだ。
「きゃぁぁぁ!」
「あ、あいつ刀を!?」
「そいつから離れろ!殺されるぞ!」
泰平の世を生きる人々の目には、突如現れた刀の鈍い輝きは、飢えた猛獣の眼光のように恐ろしげに映ったのだろう。たった一振の刀が、彼らを恐怖のドン底に陥れる。恐怖は急速に伝染し、増幅し、弾ける時を今か今かと待っている。
しかし、
「貴様では、将軍家剣術指南役であるこの私、狼牙剣心には敵わない。刀を納め、大人しく幕府の沙汰を受けるがいい」
[[rb:武士 > もののふ]]が、名乗りを上げた。
その名は膨れ上がった恐怖を斬り捨て、彼らを護る城となる。冷静さを取り戻した町人たちは、鷹人を刺激しないよう、冷や汗を浮かべながらも慎重に距離を取った。
「幕府の犬めが何をほざく!」
苦しげに咳き込みながらも立ち上がった鷹人は、剣心に切っ先を向けて吼え立てる。
「貴様ら幕府は権力に増長し、武士としての在り方を失った!人々が長きに渡って培ってきたものを、幕府はまるで[[rb:芥 > あくた]]のように踏み潰す。今や武士は護る者ではなく、壊す者だ。私はその傲慢を正さねばならんのだ!」
「街中で刀を抜く者に、一体なんの正義がある」
「黙れ!貴様らは知るべきだ。奪われる側の苦しみを!」
鷹人は心に秘めたものを吐き出し、その気炎を燃え上がらせる。彼が繰り出す剣閃は先よりも速く、鋭く、命を刈り取る殺意に満ちている。
いかに剣心が手練とはいえ、『無手』のままでは勝ち目は無い。
「なんで刀を抜かないんだ……!」
剣心は鷹人の苛烈な剣戟を躱しつつ、反撃の糸口を探って目を凝らしている。しかし、刀と腕では間合いが違い過ぎた。剣心の腕が鷹人に届くより、鷹人の刀が剣心を斬る方が早い。
攻め手が見つからない剣心だが、それは鷹人も同様だった。より速く、より鋭い一刀ですら、剣心は確実に捌き、躱す。
両者、拮抗。
周りの人々も、立ち合っている二人ですらそう思っているだろう。
だが、篤助には予感がある。
―――このままではいけない。
「剣心、刀をっ!」
篤助がそう叫んだ瞬間だった。
剣心は耳をぴくりと震わすと、弾かれたように顔を向けた。しかし、それは篤助の方向ではない。何の変哲もない路地に、剣心は目を奪われたのだ。
剣心が鷹人から目を逸らしたのは、ほんの[[rb:一瞬 > ひとまばた]]きの間だけ。
しかし、それは拮抗を崩すには十分過ぎた。
「うぉぉぉぉぉぉ!」
裂帛の咆哮とともに、鷹人が刀を振るう。反応が遅れた剣心は泡を食って飛び退き、辛うじて凶刃から逃れた。しかし、鷹人は地面に転がった剣心には目もくれず、通りを一直線に駆け抜ける。
「マズイ!」
鷹人の向かう先には、あの猫獣人の夫婦がいた。
その血走った目に映っているのは、白い毛並みの妻の方だ。妻も鷹人の狙いが自分だと察したのか、身体を震わせて膝を折った。
距離、およそ十尺(約三メートル)。
剣心はもはや間に合わない。
鷹人は顔の横に刀を構え、その切っ先の狙いを猫獣人の額に定めた。鷹人は疾走の勢いを殺すことなく、矢のように引き絞った突きを放つ。
そして貫いた。
「ぐあぁぁぁぁぁ!」
妻を庇った、黒い毛並みの猫獣人を。
―――
地上に、歪んだ夕日が溜まっている。
夕焼けに照らされた江戸の街並みは、巨大な生物の血をぶちまけたかのように真っ赤だった。そんな紅に染まった景色の中を、町奉行の役人たちが事後処理に奔走している。
しかし、篤助は彼らには目もくれず、とある一点、黒猫が刺された場所を、じっと見詰めている。
「篤助さま」
戻ってきたら剣心からは、覇気のない気疲れした声がこぼれた。
「……町奉行の手伝いは、もう終わり?」
「はい」
夕日を背に立つ剣心の顔は、影になってよく見えない。だが、想像はつく。
「…………そう」
猫獣人の夫が刺された後、剣心は迅速に鷹人を制圧した。標的ではない人物を刺して動揺したのか、鷹人は剣心にあっさりと捕らえられ、その後、ノコノコやって来た役人たちに引き渡された。
猫獣人の夫に関しては、妻が座り込んでいたことが不幸中の幸いだった。妻の額を狙った突きは、立ち塞がった夫の腹を刺した。
『重症ではあるが、助かる見込みはずっと高い』
駆けつけた医者の言だ。
そう、心臓や頭のような命の要を刺されるよりも『ずっと』。
「面目次第もございません」
剣心はその場に跪き、頭を地面につけた。
「此度の失態、全て私の不徳の致すところでございます。如何なる[[rb:御裁可 > ごさいか]]も、謹んで拝命いたします」
剣心の言葉は、篤助の心にドボンと沈み込んだ。
胸が重い。
「昼に言ったよね。君の責任は、主君であるぼくのものだって」
「はい」
「今回もそのつもりだったんだ。ぼくは覚悟して君に頼んだ。でも、君の手抜きの責任まで負うつもりはない!」
「なんで、刀を抜かなかった!」
篤助の怒号が、紅に染まる江戸に響く。
「武士が刀を持つことが許されているのは、こういう時のためだろう。それなのに刀を抜かず町人に犠牲を出して、何が武士だ!」
数刻前に剣心が語った『武士の本懐』。
篤助はそれを『安心して生きれる国を守ること』だと思っていた。
反物を買っていた時の猫獣人の夫婦のように、命の危険など感じることもなく、ただただ幸福な今を噛み締めて生きられるように。もし幸福ではなくとも、せめて死に怯えることのないように。
そんな篤助を含めた多くの人々の願いを叶えてくれるから、人々は税や特権を武士に献上したのだ。
「篤助さま」
目の前の狼は篤助の、江戸に生きる全ての人の信頼を裏切ったのだ。
なのに、
「―――武士だからこそ、刀を抜くわけにはいかないのです」
銀色の毛並みが変わらず誇り高く見えるのは、一体なんの皮肉だろうか。
[newpage]
「どうやら最近、夜伽に剣心を呼んでいないようじゃが、ケンカでもしたのですかな?」
唐突に発せられた樋熊の問いに、篤助は落書きだらけの教本から慌てて顔を上げた。
「べ、べつにっ、んなことねぇっぺ!」
「あちゃー、篤助様は嘘をつくのがド下手じゃのぉ。今度、雪之丞に嘘のつき方を教わるべきじゃな」
「う、嘘じゃないっぺ!」
「まずはその『っぺ』てやつを止めるっぺなのじゃ」
「バカにすんな!」
「してないっぺ」
「嘘つけ!」
篤助は耳の内側を真っ赤にしながらも、ぐるると唸ってみせる。
「知ってますー?人の恋路に首突っ込む奴は馬に蹴られて死ぬんですよー?」
「篤助様のは恋路じゃなくて子作りじゃろが」
「ガッ……!」
樋熊に一泡吹かせてやろうと精一杯憎たらしげに煽った篤助だったが、樋熊の鋭い切り替えしに思わず仰け反った。
「うっさいうっさい!ぼくが誰と寝ようが、樋熊には関係ないでしょ!」
「まー、その通りなのじゃがー」
樋熊は脇に積まれていた紙の束をゴソゴソを探った。
「あったあった」
樋熊はその大柄な身体には似合わない小さな眼鏡をちょこんと鼻梁に乗せ、手にした資料を声に出して読む。
「五日前の[[rb:三狐 > みけつ]]屋前での刃傷事件。下手人は元八原藩の上級武士である[[rb:三鷹桓謙 > みたかおうけん]]。藩取り潰しの恨みで幕臣の娘を狙ったが、たまたま現場にいた狼牙剣心に妨害され、不運にもその夫が重症を負ったと」
脳裏に浮かぶ、鮮烈なまでに赤い血溜まり。篤助は顔を歪ませた。
「この頃からじゃな、篤助様が剣心を夜伽に呼ばなくなったのは。この事件で剣心と何かあったんじゃろ」
「うっさい」
篤助は苛立たしげに言い放つが、樋熊は気にも留めずに話を続ける。
「しかし、あの狼牙剣心がいて重傷者がでるとは。剣心が浪人如きに出し抜かれるとは、想像もできんの」
「……剣心は刀を抜かなかったんだよ」
刺々しい口調で篤助は言った。
「ふむ……」
しかし樋熊は納得してないようで、眼鏡を外しながら呟いた。
「例え無手だとしても、剣心が浪人に遅れを取るとは思えんのじゃが」
樋熊の言葉に、篤助の記憶が呼び起こされる。身じろぎ一つ許されない空気の中、通りの真ん中で睨み合う剣心と鷹の浪人。その拮抗に危ういものを感じ、篤助が喉を開いたその瞬間――
「失礼いたします」
襖が敷居を滑る音に、篤助の思考は中断された。
「篤助さま、樋熊殿、勉学の最中の御無礼、ご容赦下さい」
洗練された所作で叩頭したのは、件の狼牙剣心その人だった。篤助は小さく眉をひそめ、剣心から視線を逸らした。
「なに、気にするでない。篤助様も勉強に飽きた所だったのでな、世間話にちょうどお主の話を――」
余計なこと言うな、と篤助は樋熊を睨みつける。しかし樋熊は全く[[rb:怯 > ひる]]むことなく、それどころか必死な篤助を嘲笑う始末だった。だが、意外にも樋熊は咳払い一つして話題を変えた。
「ところで剣心、珍しく洒落た格好をしておるが、お見合いでもするのかの?」
剣心は黒の着物を麻柄の帯で締め、刀のように美しい銀色の羽織を纏っていた。どんな格好でもかっこいい剣心だが、今日は一段と凛々しい。
「樋熊殿、そのような戯れは篤助さま前では控えて頂きたい」
「つれないのぉ」
形だけ悲しそうな顔を作って、樋熊は湯呑みを傾けた。
「ぷはぁ〜。まあいいわい。どうせ用があるのは篤助様じゃろう。さっさと済ますがよい」
「[[rb:恐惶 > きょうこう]]に存じます」
剣心は樋熊に礼を述べて、頭を上げた。
目が合う。篤助への信頼と忠義が揺らぐことなく輝くその瞳は、剣心に鬱屈とした感情を抱えている篤助には眩しすぎた。
「篤助さま。本日は、暇を頂きたく参りました」
「…………え?」
まるで頬を引っぱたかれたような衝撃だった。篤助が距離を置くことはあっても、剣心に離れられるということは篤助の意識には全くなかったらしい。自分の傍から離れようとする剣心に、どうしようもない不安が湧き上がる。
その時、樋熊がくつくつと笑った。
「剣心、先に期間を述べるべきじゃろう。篤助様が捨てられた子犬のような顔をしておるぞ」
「失礼しました。暇を頂きたいのは、本日の午後のみでございます」
「あ、あぁ……午後だけ……」
思っていたよりもずっと短い期間で、篤助は胸を撫で下ろした。
「いかがでしょうか」
剣心の願いを拒絶する理由はない。
しかし、篤助にはどうしても気に入らないことがあった。
剣心の格好だ。
剣心は、篤助と出掛ける時でさえ自身を飾りつけることはしない。だと言うのに、今日に限って見栄えを気にして着飾っている。それがどうしても気に入らない。篤助の口調は知らず知らずのうちに刺々しくなっ。
「そんな格好で何するの?」
「……お答えできかねます。どうかご容赦ください」
主君への隠し事という不忠に耐えかねたのか、剣心が苦しげに唇を噛む。なぜ不忠をされる自分ではなく、不忠をはたらいた剣心の方が苦しそうなんだ、と篤助は苛立ったがそれを口に出すことはしなかった。
「……好きにすれば」
「御恩情、感謝いたします」
篤助の口調はとても言葉通りではなく不満に満ちたものだったが、剣心は慇懃に礼を示す。
「私はこれで失礼いたします。――立派な将軍となるべく、どうか勉学にお励みください」
そう言うと、剣心は退室し丁寧に襖を閉めた。襖と縦枠がぶつかる音すら鳴らさず、遠ざかる足音だけが微かに耳を震わせる。
足音が聞こえなくなった頃、樋熊が口を開いた。
「いいのですかな、篤助様」
「なにが」
篤助は苛立ちを隠しもせず、樋熊を睨みつけた。しかし、そんな篤助の態度もどこ吹く風で、樋熊は遠慮なく言葉を投げつける。
「あれは色恋に[[rb:嵌 > はま]]った雄の行動じゃぞ。見てくれを気にするのも、もう気のない恋人と距離を取るのも。ワシが言ったお見合いというのも、あながち間違いではなかろう……て」
樋熊が言い切るより前に、バンッとけたたましい音を立てて襖が閉まった。
「やれやれ、想い人を追っかけて授業をほっぽるとは、やはり将軍の器ではないの」
樋熊は他に誰もいない部屋で独りごちる。重い腰を上げ、樋熊は文机にある篤助の教本を手に取った。落書きだらけの頁を捲る。数日前の頁には、思いの外に勉強の跡が見えた。
「ワシに釘を刺すとは、全くもって忠犬らしい」
樋熊は忌々しげに嗤い、教本を放り捨てた。
―――
「あ、篤助さま、これはちょっとヤバいっていうか……バレたら、おいらが剣心さんにガチ説教されるやつッス」
「いいからついてきて!」
篤助はごねる蓮吉を無理やり引き連れ、江戸の街に繰り出していた。
「剣心の行き先、絶対に突き止めてやる……!」
眉間に深い影を刻んだその表情は荒々しいが、額を伝う冷や汗が、篤助の焦燥した内心を顕にしていた。
「蓮吉は本当に剣心の行き先に心当たりはないんだよね?」
篤助は振り返り、気まずそうについて来る蓮吉を問い詰める。
「普段ならまだしも、あんなカッコした剣心さんが何するかなんてマジで分かんないッスよ。おいらも知りたいくらいッス」
篤助は前に向き直り、遠くに見える剣心の背に向けて、苛立たしげに地面を踏み鳴らした。
「てか、もう帰りましょうよ。おいら、篤助さまを外に出さないようにって剣心さんにキツく言われてるんス。ほら、五日前に事件があったばっかッスし。もし篤助さまに何かあったら、おいらだけじゃ守りきれないッスよ」
「その時は腰に差してるものを抜けばいいじゃないか」
「そんな単純な話じゃないんスよ……」
取り付く島もない篤助に、蓮吉は参った様子で頭を搔いた。
「は〜。取り敢えずついて行くッスけど、あまりワガママ言わないでくださいよ」
「ワガママって」
蓮吉の物言いに噛み付こうとした篤助だったが、自分の感情で他人を振り回す篤助の行動は、確かに、反論の余地がないほど『我儘』だった。
「……ごめん、気をつける」
「いいッスよ。普段は優しい篤助さまがカッとなっちゃうくらい剣心さんに夢中ってのは、家臣としては嬉しいッスから」
ニカっと笑う蓮吉は包容力があって、彼が篤助よりも一回り年上であることを思い出させた。
「でも、おいらの側から離れないってことだけは約束してください。もし篤助さまに何かあったら、おいらだけじゃなく、剣心さんまで腹を斬ることになるッスから」
蓮吉は腰に差した刀の柄に手を置き、普段の軽薄な物言いからは想像もつかないほど真剣に念を押した。
「分かった……あと、ついて来てくれてありがとう」
一瞬驚いた表情を見せた蓮吉だが、すぐにニカっと笑う。
「そういう部下思いなところ、おいら好きッスよ」
篤助は先程までの不甲斐ない自分を反省しながら、大勢の人々が行き交う大通りを進んだ。
「……一つ聞きたいんだけど、大奥に入内する前、剣心が付き合ってた人はいる?」
篤助は勇気を振り絞り、口を開いた。
ぷっ、という破裂音が蓮吉が吹き出した音だと気付いたのは、振り向いた先の蓮吉が口元を抑えてぷるぷると震えていたからだ。
「あの朴念仁に恋人?ぷぷぷ、そんなことよく想像できるッスね。篤助さまには作家の才能があるッスよ!」
「ひっどいな」
上官への敬意など微塵もない物言いだが、篤助は内心
ほっとした。これで、篤助に愛想を尽かした剣心が、かつての恋人と寄りを戻そうとしている可能性はなくなった。
「じゃあ、お見合いはどう?やっぱりカッコ……狼牙家嫡男だし、モテるのかな?」
「そうッスね。確かに篤助さまのお付きになる前は、よくお見合いをしてたッス。そういえば、今日みたいな格好して出掛ける時は、だいたいお見合いだったッスね」
ズキリと篤助の胸が痛む。
「なにせ剣心さんは江戸随一の優良物件ッスから、縁談は数え切れなかったッスよ。家柄は言わずもがな、将軍家の剣術指南役に抜擢されるほどの剣の腕前に、見てくれも良いから、初見の女性はころっと落とされちゃってたッスよ。あの頃は平安時代かってくらい、山のように恋文が届いてたッスねぇ」
剣心が非常に魅力的な雄であり、引く手数多であることは理解していた。しかし、いざその事実に直面すると、どうしようも無い不安が湧き上がってくる。
『気に入りなら傍に置いておくとよいですぞ』
悔しいが、樋熊の言う通りだ。こんな思いをするくらいなら、剣心に暇を与えるべきではなかった。
「あっ。篤助さま、止まって」
白黒の腕が篤助を抑えた。
「どうしたの?」
「あれ、見てくださいッス」
蓮吉が指さした先には、小間物屋の軒先で手に取った品を眺める剣心の姿があった。二人は急いで物陰に身を隠し、剣心の手元に目を凝らす。
「あ、あれって……」
「櫛ッスね。それも女物の」
剣心の無骨な掌に乗っていたのは、椿をあしらった美しい櫛だった。
「あ、あぁ……」
ペタリと耳を倒した篤助の目に、大粒の涙が溜まっていく。
「な、泣くのはまだ早いッスよ、篤助さま!まだあの櫛が意中の相手への贈り物だって決まったワケじゃないッス!もしかしたら、お世話になった人へのお礼かもしれないじゃないッスか!」
「あ、あぁ……そ、そっか……」
「そうッスよ。おいらが思うに、あれは実家の母上へのお土産に違いないッス!」
頷いた篤助だったが、蓮吉が浮べる笑みがぎこちなかったことには目を瞑った。
剣心は購入した櫛を懐にしまい、再び歩を進める。篤助たちも剣心の後を追って歩き始めたが、その足取りは先程までよりも重かった。
江戸の活気ある街並みを抜け、土色の田んぼが視界を占めるようになった頃、蓮吉が唐突に声を漏らした。
「……あ」
「何か気がついた?」
篤助が訊くが、蓮吉は気まずそうに目を逸らす。
「いや、剣心さんに限ってそんな場所……」
目の奥に疑念の色を宿しながら、蓮吉は呟く。ハキハキした蓮吉らしかぬ様子に、篤助の胸はざわついた。
剣心は迷いなく進んでいく。田んぼのど真ん中という辺鄙な場所だったが、意外にも人通りは多い。おかげで剣心の目から身を隠すのは、それほど難しいことではなかった。
やがて、力なく佇む柳の木が見えてきた。剣心は柳の側を曲がり、その先の緩い下り坂を下る。この辺りになると道の両側には店が立ち並び、江戸の街中のような、しかし、どこか淫蕩な熱を孕んだ活気で溢れていた
ここまで来れば、世情に疎い篤助でも気付く。
下り坂の先にある大門――吉原遊郭への入口をくぐる剣心の後ろ姿は、こぼれる涙で見えなかった。
―――
唇が湯呑みに触れる。喉を通り抜ける茶は苦かったが、その温かさは骨身に染みた。
「落ち着いたッスか?」
「……うん、少し」
蓮吉は割れ物に触れるように、優しく問いかける。篤助は泣き腫らした目を擦り、小さく頷いた。
吉原へ入っていく剣心を見た篤助は、その場で崩れ落ちて大泣きした。道の真ん中でわんわん泣く篤助の姿は衆目を集めたが、蓮吉が何を言っても篤助は動こうとしなかった。仕方なく蓮吉が篤助を背負い、江戸城へと足先を向けた所に、この茶屋の主人が声をかけてくれたのだ。
「柴犬の少年、甘いものは好きかね」
羊羹を乗せた皿を持って現れたのは、この店の主人の梟人だ。元々恰幅の良い体型が、ふっくらとした羽毛によってさらに肥大化している。しかし、鐘の音のような深みのある声が、彼の印象を品のあるものに昇華させていた。
「あ……はい……」
篤助が答えると、梟人は静かに皿を置いた。
「ありがとうございます……」
「少年、想い人とは、よく話したのかね?」
「え……?」
梟人の唐突の問いかけに、篤助は困惑した。
「こんな場所で店を開いていれば、少年のように想い人に裏切られた者を嫌と言うほど目にする。誰もが少年のように絶望するし、その姿は痛々しくてとても見ていられない。
だが、彼らも相手を傷つけていたのではないかと疑ってしまう私もいるのだ。親愛には親愛を返すように、不義理には不義理で返すものだからね」
梟人の深い声が篤助の胸の奥に響く。やっと落ち着いたものが蠢くのを感じて、篤助は苦しげに顔をしかめる。
「だから、自分に非がなかったか、あるのなら何が悪かったのか相手に訊き、お互いに歩み寄るべきだと私は思う。まあ、そんな苦行をするくらいなら、見切りをつけて新しい相手を探す方がずっと楽だろうがね」
最後に皮肉げに笑うと、梟人は踵を返して厨房へ戻って行った。
篤助は羊羹を一切れ、楊枝で持ち上げた。わずかに赤みを帯びた紫色の表面は艶やかに輝いている。口に運ぶと優しい甘味が舌に広がり、ざらついた心をなだめてくれた。
「おいらも、あの店主の言うことに賛成ッス」
不意に正面から声がして、篤助は顔を上げた。
蓮吉は店の外――吉原遊郭を眺めながら、言葉を紡いだ。
「剣心さん、何百回とお見合いしたッスけど、一つも成立しなかったんスよ。これは剣心さんがモテないとか、相手との相性うんぬんとかじゃなくて、そもそも剣心さんが他人に興味なかったんス。
あの人はホント、武士として余分なものを削ぎ落とされてきたッスから、人を好きになるなんて出来なかったんスね。あの頃は触れれば斬るって感じで、家臣でも近寄り難い存在だったッス」
蓮吉は目尻を下げて、少し困ったような笑顔を浮かべる。いつも溌剌とした蓮吉にこんな表情をさせるほど、かつての剣心は憂鬱な存在だったのだろう。
「でも篤助さまに仕えるようになってから、人を好きになれるようになったッス。家臣たちはみんな、『刀が人になった』って驚いてたッスね。正直、最初は気味悪かったッスけど、今はみんな、今の柔らかい剣心さんが大好きッス」
朗らかに語っていた蓮吉だったが、突然眉間に深い皺を刻み、牙を剥くほどの怒りを顕にした。
「だから、今日の剣心さんは本気でムカつくッス。自分を変えてくれた篤助さまを捨てて、他に良い人を作ろうとしてるなら、あの人は馬鹿ッス。マジの大馬鹿ッス。剣心さんを好きになってくれるのは篤助さましかいないし、剣心さんが好きになっていいのは篤助さまだけなんスから」
普段のおちゃらけた様子はなりを潜め、蓮吉は真剣な眼差しで篤助を見据える。思わず背筋が伸びるほどの気迫に、蓮吉もまた、ひとかどの武士なのだと思い知った。
「篤助さまには、剣心さん以外にも良い雄がたくさんいるッスけど、剣心さんには篤助さましかいないッス。今回の件で、あの馬鹿狼に愛想を尽かしたかもしれないッスけど、どうか話だけでも聞いてやってください――剣心さんを斬り捨てないでください」
そう言って、蓮吉は深く深く頭を下げた。普段は見上げるばかりの白黒の頭が目の前にあるのは、少し不思議な気分だった。
「蓮吉は剣心のこと、大好きなんだね」
篤助がそう言うと、蓮吉は満面の笑みで答えた。
「狼牙剣心以上にカッコイイ武士はいないッスから」
「そうだね」
五日前、身を呈して戦った剣心に感謝ではなく怒りをぶつけた自分や、『暇をもらう』と言ってきた剣心に意地悪なことを言った自分は、あの高潔な狼武士に釣り合っていない。愛想を尽かされて当然だと思う。
だからこそ、溝は埋めなければならないのだ。
好きという気持ちがある限り。
「あっ!剣心さんッス!」
羊羹を食べ切り、すっかり冷めてしまった茶を飲んでいた頃、蓮吉が店の外を指さして立ち上がった。ちょうど吉原の大門から出て来た剣心は、意外にも考え込んでいるように見えた。
「なんか元気なさそう」
「篤助さまじゃないから勃たなかったんスよ。ざまーみろ!」
先程の発言はなんだったのかと思わせるほど、蓮吉は唾を飛ばして自分の主君に暴言を吐いた。
「さ、あのオタンコナス中折れ狼野郎は出て来たッスけど、どうします?」
「どうするって……?」
蓮吉はおちゃらけた雰囲気をしまい、真剣な眼差しで問いかける。
「追うか、帰るか。篤助さまはどっちがいいッスか」
答えは既に決まっていた。
「追うよ」
蓮吉はニヤリと笑った。
「それでこそ篤助さまッス」
蓮吉は懐から巾着を取り出し、茶と羊羹の代金にしては多すぎる金を机に置いた。
「店主!いろいろ感謝するッス!」
「もう行くのか」
店の奥の[[rb:暖簾 > のれん]]から、梟人の店主が顔を出した。
「頑張りたまえよ、少年」
「ありがとうございます。羊羹、美味しかったです」
「また食べに来なさい。今度は想い人とね」
ふと、ある一言を思い出した。
『篤助さまとの食事は、やはり楽しいと思いまして』
そう言って剣心は笑った。ここの羊羹を食べたら、剣心は一体どんな反応をするだろう。もしかしたら、初めての「美味しい」が聞けるかもしれない。
「はい、必ず」
そんな未来に思いを馳せ、篤助は一歩前へと踏み出した。
―――
吉原から江戸の街に戻った剣心は、今度も道中の饅頭屋で土産を買い、とある茶店の前で立ち止まった。
その剣心を見た蓮吉は一言、
「ヤバ。あの人のこと嫌いになったかも」
と先程とは真逆のことを、冷ややかな声で言い放った。
「え!なんでなんで!?あの店、ただの茶屋じゃないの?」
剣心が入ろうとしている店は、篤助にはただの茶屋にしか見えない。
蓮吉は辟易とした顔で説明する。
「茶屋は茶屋ッスけど、あれは陰間茶屋ッス」
「カゲマ?なにそれ?」
「男娼のことッスよ。陰間茶屋ってのは男版遊郭なんス」
「なっ……!」
「ほら、おいらが引くのも納得ッスよね」
「で、でもほら、何か事情があるのかもしれないし……話してみないことにはね?」
「そッスね。でも話すのはチンコちょん切ってからッス」
内容は普段通りの下品さだが、蓮吉の口調には一切のおふざけがなかった。冷えきった武士の目で刀に手を伸ばす蓮吉に、篤助は額に脂汗を浮かせた。
「ま、まあまあ、落ち着いて……あれ?」
蓮吉の大きな体越しに、こちらに近づいてくる集団が見えた。剥き身の武器を背や手に持ち、顔や身体中に傷を走らせた男たちが、表通りを我が物顔で占有しながら歩いてくる。武士たちを掟を遵守する統制の取れた軍隊だとすれば、彼らは規則をかなぐり捨て、好き勝手に生きる獣の群れだ。
そして、彼らの先頭を歩く、金糸の着物を纏った絢爛豪華な獅子獣人の姿が一際目を引く。威風堂々と歩むその姿からは、王者の風格すら感じられた。
「マ、マズい……」
獅子の姿を認めた篤助は、唇を震わせた。
荒くれ集団の進む先には、剣心がいる。篤助は、剣心とあの獅子を会わせたくなかった。不倶戴天の敵同士である彼らは、最悪――殺し合いに発展するかもしれない。
「ど、どうしよう……!」
特に今日は武器の持ち込みが禁止されている大奥とは違い、剣心は刀、獅子の方は傭兵団と、双方武力を所持している。不幸にも、殺し合いに発展するだけの条件は揃っていた。
慌てふためく篤助を尻目に、彼らの距離は刻々と縮まっていく。獅子たちに気づいた剣心は、射殺さんばかりの眼光をその目に宿した。[[rb:只人 > ただびと]]であれば命惜しさに足を止めるだろうが、獅子はそよ風を浴びるかのように平然と歩を進める。
そうして、篤助に身を捧げる最後の雄――[[rb:獅子蔵煌呀 > ししくらおうが]]は、剣心と対峙し、おもむろに牙を覗かせた。
「無様だな、駄犬」
日ノ本一の武士を前にして、金獅子は悪辣な嘲笑を浮かべた。
「既に貴様の価値は底値だと思っていたが、まだ下があったようだ。主のいない犬など、惨めこの上ない。[[rb:疾 > と]]く、[[rb:我 > オレ]]の視界から消え失せるがよい」
傲慢に言い放った獅子に、剣心は鼻を鳴らす。
「人の道を外れ、欲望のまま生きる獣の視座で価値など語るな。貴様に評せる事柄など、この世に一つとして無い。分を弁えろ、商人」
冷静沈着な姿勢は崩さず、しかし、容赦のない口撃を繰り出す剣心。緒戦から互いの息の根を止めんばかりの苛烈な舌戦だ。
「ハッ!権力に迎合した犬の分際でよく吠える。ならば貴様が見定めるか?最早一銭の価値もない貴様に、それだけの眼力が備わっているとは思えんがな」
「人の価値は金ではない。貴様は傾いた商家を立て直し、江戸一番の店にして見せた。その規模は今や江戸の商界を左右し、幕府すらもその動向を警戒する大豪商だ。
だが、貴様にそれ以外に何がある?全ての他者を塵芥のように扱う、傍若無人にして傲岸不遜な貴様が、金以外に何を持ち得るのだ」
剣心の問いというには鋭過ぎる言葉が煌呀に放たれる。
しかし、獅子の輝きに翳りなし。
煌呀は不敵な笑みを浮かべて宣言する。
「―――全てだ」
煌呀は懐から取り出した山のような小判を、無造作に放り投げた。宙を舞う黄金に、町人たちが目の色を変える。
「かっ、金だっ!」
「こんなにたくさん……!」
「どけどけ!全部オレのもんだ!」
彼らは砂糖に群がる蟻のように押合い圧し合いながら、地べたを這って小判をかき集めた。彼らの恥も外聞もない愚行が堪らないのか、煌呀は肉厚な舌を覗かせ、舌なめずりした。
「はっ、滑稽だろう。貴様ら武士が必死で積み上げてきた威厳と暴力によって従えてきた者どもが、こんなちっぽけな金属板に踊らされるのだからな」
「……悪趣味だな。そこまで金を信奉しているのか」
「ふん、愚か者め。金そのものに価値はない。千変万化な性質に価値があるのだ。金は飯となり、衣となり、住処となる。愚民どもは金より命の方が尊いなどとほざくが、これら無しで、即ち、金無しで命を保つことはできん。
[[rb:我 > オレ]]たちは命すら金で買っているのだ。[[rb:畢竟 > ひっきょう]]、この世の万事は金で買える。万人が追い求めながら手の届かない幸福も、愚鈍な役人が躍起になって欲する権力も、国すら相手取ることのできる武力も―――そして、貴様が男娼に望むものも、な」
煌呀が陰間茶屋を視界に収める。いつも得意げに上がっている口角が、より一層上がった。
「いつかは[[rb:我 > オレ]]のものになるとは言え、アツに忠義を立てた武士が男娼を買おうとは。―――主人に刀を抜いた不忠の証も、どうやら無価値だったようだな」
剣心は傷を隠すように、咄嗟に左耳に手を当てた。
半年前、篤助が幕府からの逃亡を手助けしたのは、煌呀だった。[[rb:火盗 > かとう]]を始めとする幕府の手練たちが篤助の首を狙う中、煌呀率いる傭兵団は死力を尽くして戦い、篤助の命を守り抜いた。
しかし、剣心は幕府の側についた。そして幕府が命じるがまま、篤助に刀を抜いた。剣心はその不忠への贖罪として、自ら耳を切り落とそうとした。左耳に残る傷跡はその名残りなのだ。
「犬なら犬らしく、主人にだけ尻尾を振っていれば良かったものを。雄であれば誰彼構わず尻を振るとは、とんだ雌犬だな」
ゲラゲラと品のない嗤い声が、煌牙の背後から響く。あの時、剣心と剣を交えた煌呀の傭兵たちは、剣心を許していない。無数の悪意の塊を、たった一人の剣心に容赦なくぶつける。
「アイツら……!」
物陰に隠れている篤助の隣で、蓮吉は牙を剥いている。刀に手を伸ばす蓮吉、下卑た笑みの裏に敵意を燻らせる傭兵たち。彼らから立ち込める血の匂いに、篤助は身をすくませた。
いつ殺し合いが始まってもおかしくない。
そう思った時だった。
「[[rb:公事方御定書 > くじかたおさだめがき]]、七一条。武士が耐え難い侮辱を受けた場合、侮辱した不届き者を斬り殺しても罪には問わない」
「……何がいいたい」
唐突に言葉を発した剣心に、煌呀は平静を装って言葉を返す。しかし、その下に閻魔の如き憤怒が揺らめいているのは、遠目からも明らかだった。
「私にこれ程の無礼を働いておきながら、貴様の首が繋がっている理由を教えてやる」
「あ''?」
「それは一重に、私の慈悲だ。貴様はこの世の全てを金で買えると豪語していたが、私の慈悲は金では買えぬ。貴様は今、雌犬の慈悲によって生かされているのだ」
狼の武士は勝ち誇るでもなく、ただこの世の真理を説くように淡々と言い放った。
「雌犬の分際でェ、[[rb:我 > オレ]]を愚弄するかァ!!!」
獅子は鬣を炎のように逆立て、大地を震わすほどの怒号を轟かせた。
「上等だ!貴様を殺し、毛皮を剥いで敷物にしてやる。死んだ後も永遠に、踏み[[rb:躙 > にじ]]ってやるからなァ!!!」
「商人だけあって口が上手い。だが、そろそろ大言壮語は聞き飽きた」
江戸にその名を轟かす二大巨頭の死闘が、幕を開ける。賑わいを見せていたはずの通りは、たちまち戦場のような恐怖に支配された。町人や、煌牙の傭兵でさえ、呼吸一つで二人の殺意が自分に向くような気がして息もできない。
張り詰めた空気の中、二人は拳を強く握りしめながら、ゆっくりと距離を詰めていく。そして互いに腕が届く距離まで迫った瞬間、二人は大きく腕を振りかぶった。
「ふぅっ!」
「おらぁっ!」
二人の情け容赦ない拳が放たれる。それは空気の層を突き抜けながら、相手の顔面目がけて放たれ――― 二人の間に現れた巨大な影によって阻まれた。
「たく、どっちも重てぇ拳だな!おい、オメェら、ちぃっとばかし、おいたが過ぎるぜ」
ドッシリと腰を落とし、二人の拳を広い掌で受け止めた偉丈夫は、小さく口角を上げた。
「凡夫めが。[[rb:我 > オレ]]の邪魔をするとはいい度胸だ」
「へ!江戸っ子の取り柄といっちゃあ、度胸くれぇなモンよ!」
唸り声のような恐ろしい声が、煌呀の口から漏れ出る。しかし、偉丈夫は明朗闊達な笑みを崩さなかった。
「……チッ、興が削がれた」
煌牙は踵を返し、鹿の側近の着物に自分の手のひらを擦り付けた。
「旦那様!?何をしているんですか!」
「あの男の手、汗で湿っていて不快だ」
「それなら私の服ではなく、自分の服で拭いてください」
「黙れ」
底冷えする煌呀の声に、鹿は渋々と口を閉じた。煌呀は鹿の服をぐちゃぐちゃにするほど丹念に手を拭くと、剣心たちには目もくれず、傭兵たちを引き連れてこの場を去っていった。
「ふぅ、一番厄介そうなのは何とかなったな」
ひと仕事を終えたかのように偉丈夫――三十前後の逞しい虎獣人は、額の汗を腕で拭った。
「場を収めてくれたこと、礼を言う」
礼を述べた剣心に、虎の偉丈夫はしかめっ面を向けた。
「別にオレは大したことはしてねぇ。てか、アンタは江戸を守るおサムライだろうが。みんなを怖がらせるようなことしてんじゃねぇよ」
「武士として、受けた侮辱をそのままにしておくことはできない。これも江戸を守る武士としての責務だ」
「とか言って、ホントはアイツのこと嫌いなだけだろ」
虎はジト目で睨むが、剣心は目を逸らして頑として答えなかった。
「たく、真面目なんだか不真面目なんだか、よくわかんねぇヤツ」
虎が呆れ顔で頭を搔いていると、彼の背後から声が聞こえた。
「おーい、お頭ー!」
ドスドスと太鼓腹を揺らしながら、猪が虎の元へ駆け寄る。
「やっと来たか、イノ」
「やっと来たか、じゃねぇよ。こんな汗臭ぇの押し付けやがって。鼻が曲がるかと思ったわ」
猪はそう言って、紺色の布を差し出した。
「あー、前に洗ったのいつだったか……ひと月前?」
「きったね!なんちゅうモン渡してくれてんだ!」
猪は慌てて布を虎に投げつけた。
「へへへ、わりぃわりぃ」
虎はヘラヘラと笑いながら、紺色の半纏にその太い腕を通す。袖から肩にかけて走る赤い線と、腰をぐるりと回る白線、そして背中に大きく印された『とら』の文字が、遠く離れた篤助の目にくっきりと映った。
「これでも生粋の江戸っ子でなぁ、喧嘩には一家言あるから言わせてもらうぜ」
虎は振り返り、不敵な笑みを浮かべて剣心に告げる。
「殴り合うだけの喧嘩は粋じゃねぇ。殴り合いが終わったなら、盃交わしてとっぷりやるのが本物の喧嘩ってモンよ」
虎は汗と煤の匂いを残して、江戸の街並みに消えていった。
―――
騒ぎが一段落し、通りに普段の賑わいが戻ってきた頃には、剣心は陰間茶屋に入っていた。篤助たちは剣心が陰間茶屋から出てくるまで、近くの甘味処で見張ることにした。
「さっきの虎さん、ムキムキでかっこよかったな〜。大奥に来てくれないかな〜」
「……はぁ」
「どうしたの、溜め息なんかついて」
「いやー、おいらの上司はみんな色狂いで悲しいなーって」
蓮吉はジトっとした目を遠くに向けて続けた。
「剣心さんは娼婦買いまくりだし、篤助さまはぽっと出の雄にメロメロだし……あーあ、これでもおいら、今日の朝まではお二人のこと尊敬してたんスけどね……」
「ご、ごめんって。団子もう一本奢るから許して」
「十本」
「うっ……」
正式な将軍ではない篤助は金を自由に使うことは許さておらず、現在はお小遣い制で金を貰っている。とは言え、その支給額は将軍らしく膨大なのだが、先日の反物で篤助の巾着はゲッソリと痩せ細ってしまった。「ひー、ふー、みー」と巾着の中身を数えながら、篤助は顔を青くしていく。
「十本だと[[rb:素寒貧 > すかんぴん]]になっちゃうんだけど……五本じゃだめ?」
「十本」
「すみませーん、団子十本ください」
頑として譲りそうもない蓮吉に折れ、篤助は仕方なく要求を呑んだ。
「ごちになるッスぅ!」
団子を乗せた皿が目の前に置かれると、蓮吉のしおらしい表情はたちまち消え去り、満面の笑みでぱくぱくと団子を頬張った。
「騙された……」
「なにいってんスか。色狂いだと思ったのはホントッスよ」
「そこは嘘であって欲しかった!」
蓮吉は口の回りを餡子で汚しながら話した。
「お礼に一つ、篤助さまにいい事をお話するッス」
「え、なになに?」
蓮吉はゴクリと団子を飲み込むと、普段のおちゃらけた雰囲気を抑え、真剣味のある目で篤助を見つめた。
「――剣心さんが刀を抜かない理由」
蓮吉の言葉に、篤助は息を呑んだ。篤助の脳裏に浮かぶのは、五日前のあの日、頑なに刀を抜かずに浪人と対峙する銀狼の姿。
「教えて、はす――」
「その話、[[rb:我 > オレ]]も聞いてやろう」
飛びついた篤助の声を遮って響いたのは、聞くものを威圧する、威厳に満ちた声。その方に目を向けると、そこには店の出入口を塞ぐほどの巨躯の獅子獣人が仁王立ちしていた。
「な、なんで煌呀がこんな所に……?」
困惑する篤助を尻目に、煌呀は当然のように篤助の隣に座った。
「未来の亭主が来てやったというのに動揺してばかりとは、[[rb:我 > オレ]]の女だという自覚が足りんな」
煌呀は篤助の腰に手を回し、身体が密着する程強く引き寄せた。引き寄せられた勢いで、篤助は煌呀にもたれかかるような体勢になる。巨木のように逞しい肉体は亭主として申し分なく、篤助はその肉体に顔をうずめた。
「それでいい。お前は[[rb:我 > オレ]]に尻尾を振り、ただ欲情していればいいのだ」
豊満な胸板に頬擦りし、極上の雄の匂いを鼻腔いっぱいに吸い込む。篤助の鼻先はより匂いの強い方へと導かれる。下へ下へ、大きな膨らみを誇る股座へと――
「篤助さま、めっ!」
「はっ……!」
正気に戻った篤助は慌てて顔を上げた。
煌牙はグワッと蓮吉を睨みつけ、鬼の形相で吠えたてる。
「この駄犬ッ!我とアツの情炎を邪魔するとは、万死に値する!」
「こんな所でおっぱじめようとする方が万死ッスよ!ほら、篤助さまも何か言ってくださいッス!」
ぐるぐる唸り合う猛獣二匹に気後れしつつも、篤助はおずおずと口を開いた。
「い、いや……ぼくは正直、全然アリ」
「少しは!節操を!持て!」
「ご、ごめんって。でも蓮吉、他にもお客さんがいるんだから、そんなに怒鳴らないで……って、あれ?」
さぞ迷惑そうな視線を向けられているだろう、と恐る恐る店内を見渡した篤助だったが、煌呀と蓮吉以外の人影は一つも見当たらなかった。
「さっきまで他にもお客さん、いたよね?」
篤助が困惑気味に言うと、蓮吉は煌呀を睨みつけた。
「お前ッスね?」
「凡夫どもと同じ空気を吸っていては我の価値が落ちるのでな。下僕どもに追い出させた」
鋭い牙を覗かせ、煌呀は不敵に嗤う。入口の方を見れば、煌呀の傭兵が二人、見張りのように立ってた。
「さぁ、あの駄犬の話、聞かせてもらおう」
煌呀は脚を組み、ふんぞり返る。この世の全てを見下すような傲慢な眼差しが、蓮吉に向けられた。
「断るッス」
「ほう、何故だ」
「主君に対する裏切りだからッス」
それは、宣戦布告と同義だった。蓮吉は敵意を明らかにした目で、煌呀を睨みつける。しかし、煌呀は不敵な笑みを崩さない。
「ふん、健気じゃないか。だが――」
煌呀が言い切るより前に、鈍く光る刃が蓮吉の首筋に当てられた。
「貴様に選択権などない」
いつの間にか蓮吉の背後に現れた長身の鹿獣人が、眼光鋭く薙刀を構えている。その目には隙も油断もなく、もし蓮吉が煌呀の意にそぐわない行動をすれば、即座に蓮吉の首を断ち切るだろう。
「はぁ〜〜〜」
蓮吉は大仰に息を吐く。その姿には、命を握られている恐怖心は全く見られなかった。
「ったく、このどら猫は学ばないッスねぇ。さっき剣心さんが言ったことを忘れたッスか?この状況なら、正当防衛として刀を抜くには十分ッス。言っとくッスけど、おいらは剣心さんほど優しくないッスよ」
蓮吉の挑発に、煌呀は額に青筋を浮かべた。
「ハッ!状況が分かっていないようだな。貴様は今、死の淵にいるのだ。口に気をつけろ」
「ならアンタは実力ってヤツが分かってないッス。後ろの人が薙刀を引くより、おいらがアンタの首を[[rb:刎 > は]]ねる方が早いッスよ?」
蓮吉はニタリと笑った。
「……貴様、死にたいようだな」
尊大だった煌呀の声に翳りが差す。一線を越えたその雰囲気に、篤助の心臓は締め付けられた。通りで剣心と煌牙が邂逅した時と同じ、血なまぐさい緊迫感が漂う。しかし、仲裁してくれた虎獣人はここにはいない。
この事態を納めることができるのは自分だけ。
篤助は覚悟を決めた。
「うぉ!」
「へ?」
煌呀が仰天し、蓮吉が困惑する。無理もない。突如、篤助が蛇のようにするりと身を踊らせ、煌呀の腿に[[rb:跨 > またが]]ったのだから。
そして
「アツ、何を……ッ!?」
僅かに開いた煌呀の口に、篤助は自分の舌をねじ込んだ。
「ん……」
先に仕掛けたことで主導権を得た篤助だったが、それはすぐに奪われた。状況を受け入れた煌呀は、その肉厚な舌で篤助の口内をたちまち蹂躙する。
「ちゅ……くちゅ……」
「ん……んぁ……」
くちゅりくちゅりと艶かしい音をたてる口淫に、二人の熱は増していく。煌呀は篤助の着物の中に手を入れ、普段の傲岸不遜な態度からは想像もできないほど繊細な手つきで愛撫する。それに応えるように、篤助も懸命に舌を動かした。
「っはぁ……」
息が続かなくなり、篤助は唇を離す。二人の唇に架かった銀糸が淫らに輝いた。
「はぁはぁ……煌呀にお願いがあるの」
「なんだ」
肩で息をする篤助に対し、煌呀は百獣の王に相応しい貫禄で篤助と向き合う。しかし、それは取り繕われた顔だと篤助は見抜いていた。
「今日ここで聞いたことは誰にも――剣心にも話さないで欲しいの」
「……むぅ」
「だめかな?」
普段なら自尊心しか映らない瞳に、篤助への熱情が混ざった。対立するその二色が、瞳の中で激しく渦巻く。
「…………他ならぬアツの頼みだ。聞いてやるのが亭主の務めだろう」
「やった!ありがとう!」
篤助は満面の笑みで言うと、兎のようにぴょんと跳ねて煌呀の膝から降りた。
「ふん、礼を言われることではない」
篤助が自分の膝から下りたのが余程残念だったのか、煌呀は腕を組んでそっぽを向く。つまらなそうな煌呀の
横顔を見て、篤助はもう一手打った。
「煌呀のそういう所、好きだよ」
ちゅ。
篤助が頬に接吻すると、煌呀は一瞬、目を見開いた。しかし、それも束の間のこと。すぐにいつもの自尊心に満ちた眼差しに戻ると、篤助の腰に手を回し引き寄せた。
「アツこそ、[[rb:我 > オレ]]の女としての自覚ができてきたようだな」
煌呀は顔を寄せ、不敵な笑みを浮かべた。
「げふんげふん」
二人っきりの世界に入っていた篤助だが、わざとらしい咳払いに現状を思い出す。
「あわわ!ごめん、蓮吉!」
放置されていた蓮吉が、ジトっとした目で篤助を見ていた。
「そんなに獅子蔵とのベロチューは良かったッスか」
「う、いや、その……」
「[[rb:我 > オレ]]との接吻だぞ。脳髄が蕩けるほどの悦楽に決まっている」
火に油を注ぐように煌呀が口を挟む。恐る恐る蓮吉の方を見れば、今にも噛みつきそうな目で煌呀を睨みつけていた。
「おいら、コイツがいるなら話さないッス。剣心さんの家臣として、敵に主君の弱みを明かすような不忠を犯す訳にはいかないんで」
誰とでも仲良くなれる蓮吉が、断固として煌呀を拒絶する。その分厚い壁の前には、篤助にできることなど一つもなかった。
この場で蓮吉に話させることは不可能だ、と篤助が諦めかけたその時、今まで閉口していた慇懃な声が響いた。
「大丈夫ですよ、はっちゃん。旦那様は自分の価値を下げるようなことは、絶対にしないですから」
「かっちん!」
蓮吉が「かっちん」と呼んだのは、先程まで蓮吉の首筋に刃を突き付けていた鹿獣人、[[rb:草鹿 > くさか]]だ。
「後ろにいたの、やっぱりかっちんだったんスね!」
「物騒な真似をして、申し訳ないです」
「いいんスよ〜。お互い、厄介な上司を持ったスね〜」
数刻前の張り詰めた空気は何だったのかと思うほど、和気あいあいと話す蓮吉と草鹿。その落差に、篤助は肩透かしを喰らったような気分になった。
「はっちゃんの言う通りです。ウチの旦那様は確かに性格は悪いし、自分以外の人を[[rb:塵芥 > ちりあくた]]だと思ってます」
「下僕の分際で主人を図ろうとは、[[rb:烏滸 > おこ]]がましいにもほどがある」
「ほら」
煌牙の言葉はなかなか棘があるが、草鹿は毛ほども動じなかった。
「でも、この人は自分の価値を損なうような事はしません。篤助様の前なら尚更です。だから、信じてあげてください」
草鹿の真摯な声音に、蓮吉は悩ましげな表情を浮かべる。そして、助言を仰ぐように、蓮吉は篤助の方を見た。
「草鹿さんの言う通りだよ。威張りん坊な煌呀だけど、本当はすっごく真摯なんだ」
篤助が幕府から追われたあの日、煌呀だけが篤助を守ってくれた。強大な幕府に屈することなく己を貫き通した力強い背中を、篤助は今も鮮明に覚えている。
「だからお願い。剣心の話、聞かせて。ぼく、もっと剣心のことを知りたいんだ」
「……分かったッスよ。どら猫はともかく、篤助さまとかっちんのことは信じてるし……」
深いため息と共に[[rb:蟠 > わだかま]]りを吐き出した蓮吉は、その目に真剣な光を灯した。
「ではまず、剣心さんの話の前に武士についてッス。篤助さまは武士について、どれほど理解してるッスか?」
「ええと……刀を持ってて、戦える人……?」
突然の問いに篤助は自信無げに答える。
「戦乱の世であれば正解ッス。でもそれなら、武士を束ねる将軍である篤助さまは、武士ではないことになるッスね」
「あ、そうか」
篤助は武士の長である将軍だが、刀は持っていない。これでは矛盾する。
「戦乱の世から泰平の世へと移り変わり、武士の役割も変わったッス。戦う者から治める者へ。今の武士の役割は、国を統べる為政者なんス」
篤助が頷いて理解を示すと、蓮吉は話を続けた。
「武力と権力を手にした武士ッスが、その力に驕り高ぶることは許されないッス。人の上に立つ者として、模範となる立ち振る舞いを。武士の子供はそう教え込まれ、それはそれは厳しく躾られるッス」
蓮吉の表情に苦いものが浮かぶ。破天荒な蓮吉は、相当手厳しい躾をされてきたのだろう。
「厳しい教育の果てに、今のはっちゃんがあるんですか?」
「かっちん、言いたいことは分かるけど、今は静かにッス」
怪訝そうな顔をする草鹿を、蓮吉は努めて厳格にたしなめた。
「故に、武士は軽率に刀を――暴力を振るうことは許されないッス。もし大した理由もなく刀を抜き、人を斬ったならば、その武士は間違いなく切腹。最悪、御家断絶ッス」
「剣心も、そうなんだね」
篤助が呟くと、蓮吉は険しい顔で首を横に振った。
「いいえ。剣心さんはそれ以上に重いものを背負ってるッス。将軍家剣術指南役である剣心さんは、言わば武士にとっての模範ッス。剣心さんが刀を抜いたと言うだけで、武士たちの抜刀への壁は低くなる。それはいつか、巡り巡って武士の暴力性を解き放ってしまうかもしれない。
―――剣心さんは、完璧な武士であることを、世界から求められてるんスよ」
蓮吉が重苦しく紡ぐ言葉は、篤助の胸に鉛のように流れ込む。篤助が感じている以上に重いものを背負いながら、毅然と振舞ってきた剣心を心から尊敬する。
しかし
「愚かだな」
大胆に、そして無遠慮に言い切ったのは退屈そうに目を細めていた煌呀だった。
蓮吉は冷めた視線を向けたが、口をつぐんで煌呀の言葉に耳を傾ける。
「貴様らが秩序のため刀を封じていることは理解した。だが数刻前、貴様は[[rb:我 > オレ]]に言ったな。『刀を抜くには十分』と」
首筋に刃を当てられた時、蓮吉は『正当防衛として刀を抜くには十分』と言った。武士たちの掟は絶対ではなく、例外があるのだ。
「刀を抜かぬことが本質ではない。刀を抜くべき時と相手を違わぬことが肝要なのだ。そして当然、あの駄犬もそれを理解しているし、見極める頭もある」
宿敵の愚行を暴くのが堪らないのか、煌牙は口角は徐々に上がっていく。
「だが五日前、あの駄犬は刀を抜かず、平民の一人に重傷を負わせたというではないか。秩序の維持を建前に民衆の犠牲を許すとは、本末転倒も甚だしい。これ程の愚か者は見たことがない!」
煌牙の嘲笑が高らかに響く。心を逆撫でする傲慢な嗤い声を聞きながら、 しかし、篤助は煌呀をたしなめることはしなかった。
「……ぐうの音も出ない正論ッス」
深く俯いた蓮吉は、喉から絞り出すようにして言葉を紡いだ。
「命を守ってこその平和ッスから、あの時、剣心さんは刀を抜くべきでした。おいらにだって分かるッス。でも、それを剣心さんが分かってないとは思えないんスよ……」
蓮吉の眉間に刻まれた深い皺は、いつも軽快に笑っている彼には似合わなかった。だが、その歪な違和感が蓮吉の苦しみを生々しく伝えていた。
「剣心は昔から、刀を抜かなかったの?」
「昔は抜くべき時に抜き、収める時は収める人でした。臆病風に吹かれることも、感情に振り回されることもなく、その判断は絶対的に正しかったッス」
「じゃあ、なんで今になって……」
篤助の呟きに、蓮吉は真一文字に唇を結んだ。
「……これはおいらたち家臣の推論……いや妄想なんスけど……」
蓮吉はそう前置きして、恐る恐る口を開いた。
「篤助さまに刀を向けたことが、トラウマになっているのかもしれないッス」
「……え?」
「篤助さまが幕府から追放されて、剣心さんに篤助さま捕縛のご達しがあったあの日から、剣心さんは一度も、刀を抜いてないんスよ」
全身を巡る血が、一瞬で冷水に置き換わったかのようだった。
水底から湧き上がった泡が水面に到達して弾けるように、様々な感情が篤助の胸に去来しては弾けていく。罪悪感、後悔、不安、恐怖。そして、一際大きな泡が、篤助の中心で弾けた。
―――篤助の命の危機に、剣心はその刀を抜くのだろうか。
―――
紅に染まる空に、江戸城の天守閣が輝いていた。
一日の終わりが近づき、仕事を終えた人々が帰路に着く。仕事から解放され肩の荷が降りた彼らは、江戸の街に和やかな空気を醸し出している。
しかし、刀のように美しい毛並みの狼は、そんな空気にも気を緩めることはない。凛とした姿で、店先に並べられた品物を吟味していた。
「茶屋から出て来てからずっと、あの調子ッスね」
剣心が陰間茶屋から出てきたところで、篤助たちは再び彼の後を追った。この頃にはとっくに煌呀は去っており、今は篤助と蓮吉の二人だけだ。
剣心は商店が立ち並ぶ大通りまでやって来ると、店先に並べられた品物を一つ一つ、じっくり眺めた。時折品を手に取り、悩ましげに眉をひそめながら[[rb:矯 > た]]めつ[[rb:眇 > すが]]めつしている。
「遊郭と陰間に行く時は即断即決だったスけど、一体なにをそんなに悩んでるんスかね」
遊郭や陰間茶屋への土産は迷うことなく即決していたのに、今は既に半刻(一時間)もこうしている。剣心らしからぬ随分な悩み様だ。
「……帰ろうか」
篤助がぽつりと呟いた。
蓮吉は横目で篤助の様子を窺う。感情という色がすっかり抜け落ちた主人の顔に、蓮吉は奥歯を噛み締めた。
「はいッス」
二人は剣心に背を向けると、振り返ることなくその場を去った。人波が作る奔流は、まるで剣心から遠ざけるかのように篤助を押し流す。
一度は落ち着いたはずの不安が再燃したのは、一重に、完璧な武士に『刀を抜けない』という致命的な欠陥を与えてしまった罪の意識ゆえだ。
完璧な武士であれ、と望まれ続けた剣心。その人の身に余る願望は呪いとなり、彼から多くのものを奪った。しかし、剣心は失いながら、奪われながらも研鑽し、その果てに理想の武士像に辿り着いた。
それを、篤助は汚したのだ。
剣心に嫌われるのは当然だ。篤助だって、泥と汗に塗れて作った米を、小綺麗に着飾った役人たちに徴収されると腹が立った。
しかし、それ以上の泥と汗、そして血に塗れ、多大なものを犠牲にして体現した理想を汚される無念は、どれほどのものだろうか。
篤助には、想像すらできない。
「……蓮吉」
「は、はいッス!」
「剣心が城に帰ってきたら、ぼくのところに来るように伝えて」
「了解しましたッス」
篤助は、居心地悪そうについてくる蓮吉に告げた。
「話すべきだ」と言われたから、とりあえず呼びつける。しかし、一体何を話せばよいのか、全く分からない。ただ剣心に許されたくて、剣心のために行動しているように偽っているだけかもしれない。
篤助は、そんな自分の醜さから逃げるように早足で進む。だがそれは、影のようにぴったりと張り付いて離れない。当然だ。いかに早く進もうとも、自分の心を置き去りにすることはできないのだから。
しかし――
「篤助さまっ!」
「え……?」
自分を守ってくれる存在を遠ざけていた。
気付けば、篤助は人影のない通りを歩いていた。無意識のうちに人を避けていたのか、普段なら決して選ばないその通りは死角が多く、人を[[rb:拐 > かどわ]]かすには絶好の場所だ。
「この時を、待っていたぞ」
篤助の目の前に突如現れた大男は、篤助の鳩尾に拳を深くめり込ませた。
「がふっ……!」
篤助は肺に溜まった空気をもれなく吐き出し、ぐったりと膝を着く。動けない篤助に大男が手を伸ばした。
「篤助さまに触れるなっ!」
蓮吉は刀の柄に手を伸ばしながら、全速力で駆ける。[[rb:西比利亜 > シベリア]]犬の屈強な筋肉は、大地を力強く蹴り飛ばし、瞬く間に大男に接近する。大男を切り伏せるべく、蓮吉は柄を握る右腕に力を込めた。
しかし――
「ッ!小癪なっ!」
蓮吉は急に体の向きを変え抜刀した。一閃の後、蓮吉の足元には真っ二つになった矢の残骸が落ちていた。
蓮吉が睨みつける路地の暗闇から、矢頭の鈍い輝きが覗いていた。
「あぁ、そういう……」
鷹の浪人と睨み合っていた剣心は、唐突に路地へと目を逸らした。それはこういうことだったのだ。
揺れる視界には、路地から姿を現した刺客たちと切り結ぶ蓮吉の姿が映っていた。遠ざかる蓮吉の顔はグチャグチャに歪んでいた。
「……たす、けて……」
そう呟いて、篤助の意識は闇に没した。
―――
銀狼は悩み抜いた末に買った品を満足そうに眺めて――不安そうに眉をひそめた。
贈り物をするのは初めてな上、銀狼は自分が人心に疎い自覚があった。熱が出るほど相手のことを考え抜いて選んだと自負しているが、相手の反応を見るまでその成否は判断できない。
妻をあれほど喜ばせていた黒猫獣人は凄かったのだな、と銀狼は深い畏敬の念を抱いた。
「…………」
その時、銀狼は傷の走る左耳をぴくりと震わせた。それはちょうど、彼の主人が助けを呟いた時だった。しかし、彼がいるのは主人のいる場所からは遠く、周りも喧騒に溢れている。
主人の言葉が届くことは、有り得ない。
だが、銀狼は確信を持って、心構えを戦場のそれに切り替えた。
贈り物を大事そうに懐にしまうと、銀狼は[[rb:疾風 > はやて]]の如く江戸の街を駆け抜けた。
[newpage]
「あのガキ、本当に殺さないんだな、エトゥクペ」
無意識に死の気配を感じ取ったのか、篤助の聴覚は失った意識を揺さぶり起こした。後ろ手に回された腕は縄が食い込むほどキツく縛られ、篤助の身体は土埃で汚れた床に無造作に転がされていた。鼻につく、い草と泥の匂いにむせかけながらも、堪えて静かに聞き耳を立てる。
「ああ、将軍の首を取ったからと言って、あの和人が約束を果たすかは分からない。なら、オレたちで成し遂げた方が確実だ」
心臓を鷲掴みにされるかのような恐怖に耐えながら、篤助は恐る恐る瞼を開ける。
篤助の網膜に映るのは、くたびれた廃屋の内装だった。抜け落ちた床の穴から雑草が生い茂り、崩れた天井からは月光が差し込んでいる。耳に届くのは乾いた葉音ばかりで、誘拐犯たち以外の声は全く聞こえない。人の寄り付かない辺鄙な場所にある廃屋なのだろう。これでは助けは期待できない。
そして、篤助を[[rb:拐 > かどわ]]かした者たちの姿を見て、篤助は身を震わせた。
窪んだ眼窩の奥に昏い光を宿らせた彼ら。その顔や身体には無数の傷跡が走っている。武士である剣心にもないその傷跡は、人を殺し、殺され続ける地獄にいた者だけがもつ業の証だ。
そして、その業をさらに積み上げるように、彼らの身体や武器にはおびただしい量の血潮がべっとりとこびりついていた。
「……!」
ふと、蓮吉のことが頭によぎる。篤助が連れ去られる瞬間に見たのは、大勢の男に囲まれた蓮吉の姿だ。
……あぁ、ダメだ……考えるな。
男たちにこびり付いた血潮が、篤助に最悪の想像をさせる。耐えきれず、篤助は彼らから目を逸らした。その先には、話をする首魁らしき二人がいた。大柄で毛皮の厚い白熊獣人と、短弓を背負った狐獣人だ。狐の方は着物を着慣れていないのか、帯を結ぶのが随分と下手だった。
「あれが武士どもの頭目か。ガキのクセして随分と贅沢な暮らしっぷりだよなァ。オレたちは毎日毎日、死にかけてるってのに……!」
歯ぎしりと共に、狐の憎々しげな眼光が自分に向けられるを察して、篤助は慌てて瞼を閉じた。
「気持ちは分かる。だが落ち着け。アイツにはやってもらわなければならない事がある」
白熊はそう言って狐をなだめると、篤助の側までやってきた。
そして
「おい、お前。起きてるだろ」
それは、間違いなく篤助に向けて放たれた言葉だった。
しかし、あまりの衝撃に篤助は答えるどころか、目を開けることすらできない。恐怖に支配された頭は真っ白で、篤助は体を震わせるばかりだった。
そんな篤助の頭を、大きな手のひらが覆う。
その無骨な感触は、刀を振り続け、硬くなった剣心の手のひらと似ていた。誰かを守るために鍛えた力強い手は、いつも篤助に温もりと安心を与えてくれた。きっとこの白熊も同じで、誰かを守るために剣を振り続けたのだろうと、篤助は傷だらけの大きな手に心を許す。
しかし
「ガッ……!」
白熊は頭に指が食い込むほど強く握り、無慈悲に、容赦なく、篤助を床に叩きつけた。
「舐めてるのか」
「ち、ちがう……っ!」
篤助はふるふると首を振った。その度に打ち付けられた頭がズキズキと痛んだが、今は目の前の白熊を怒らせる方が恐ろしかった。
「いいか、オレたちの言う事には全て従え。口答えもするな。でなければ殺す」
白熊は懐から抜いた短刀を篤助の首に押し付けた。月光の青白い光を反射する刀身に、篤助の目から流れた涙が滴り落ちる。
篤助が身勝手に抱いた幻想は、木っ端微塵に打ち砕かれた。
「お前、ウタル族は知っているな」
篤助は恐る恐る頷いた。
ウタル族とは、蝦夷に住む先住民族である。本土にいる日本人、彼らに言わせれば和人、とは全く異なる文化を持つ異民族。その暮らしについて、篤助はよく知らないが、幕府との交易はあると樋熊から教わっていた。
そして、幕府が彼らに何をしたのかも。
「そうか、なら話は早い。オレたちの要求はただ一つだ」
白熊の真っ黒な瞳が篤助を映す。その瞳の奥底には、地獄の業火にも劣らない猛々しい炎が、轟々と燃え盛っていた。
「ウタル族を虐げる松城藩を潰せ」
繰り出された言葉に、篤助は絶望した。
十年ほど前、ウタル族は松城藩と戦争をしている。原因は松城藩のあまりに不公平な交易だ。蝦夷に居所を置く松城藩はウタル族の産物を安く買い叩き、従わなければ子供を人質にしたという。
松城藩の卑劣な行いに激怒した当時のウタル族族長、ノタカラは戦士たちを率いて蜂起した。戦況は互角。戦は泥沼化し、戦場と化した雪原は真っ赤に染まったという。
しかしある時、松城藩は唐突に和睦を提案した。
これ以上犠牲を出したくなかったノタカラは、これを受け入れる。ノタカラを初めとするウタル族の指導者たちが、和人が設けた和睦の宴席に着いた。
―――しかし、それは罠だったのだ。
「和睦の前日、ノタカラは――オレの[[rb:アチャ > 父]]は言った。『隣人と助け合うこと。それがこの厳しい[[rb:ウパシモリシ > 雪の大地]]で生き抜く術だ』と。
…………多くの仲間が殺された。それでも、アチャは戦争をやめると決意した。ウタルの未来のために、荒れ狂う憎悪を胸の奥に押し込んだんだ」
胸に吹き荒れる憎しみの嵐。その暴風雨に身を任せ、殺戮の限りを尽くすのは楽だろう。だが、その嵐に立ち向かい、苦しみを抱き続けながら生きるのは、想像を絶する苦難の道だ。
―――ああ、ウタルは本当に強く、武士たちは卑劣なほどに弱かった。
「和睦のための酒宴ゆえ、アチャたちは武器を携えずに、和人が設けた宴席に着いた。互いの遺恨を水に流し、より良い未来を祝って酒を酌み交わしていた最中、あの外道どもは、酒に酔ったアチャたちを背後から銃で撃ち殺した……っ!」
松城藩は、ウタル族の指導者たちを騙し討ちしたのだ。
勇敢にして聡明な指導者を一斉に亡くしたウタル族はたちまち瓦解し、松城藩の支配下に置かれた。そうして、隣人の手を取ろうとしたウタル族は敗者となり、以降、虐げられ続けている。
「冬を越えるための食料すら奪われ、血が凍るほどの極寒の川の中で砂金を取らされた。当然、何人もの同胞が死んだ。あの外道どもは、オレたちを人だとすら思っていない。
なぜあんな外道どもが悠々と生き伸びて、アチャのような誰かを想いやれる人や、なんの罪もない人が死ななきゃいけないんだ!」
短刀を持つ白熊の手に力が篭もる。刃が篤助の首の皮を裂き、刀身に血の川を作った。
「これ以上、家族や友を殺させやしない。だから、松城藩の外道どもを全員殺せ!断るのなら、お前を殺す。
さあ今すぐ決めろ、将軍。これほど[[rb:容易 > たやす]]い選択、迷う要素など微塵もないぞ!」
悲しみを薪にして、白熊は瞳に炎を宿す。身を削りながら、身を燃やしながら、彼は絶望に抗っている。
その在り方に、胸が詰まる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
大好きな人を失う悲しみ。
自分を愛してくれた人を失う悲しみ。
それは光すら届かない水底に落ちていくかのような、どうしようもない絶望だ。
篤助はそれを知っている。
だから、その絶望に浸り続けることを強いられた彼らを、助けてあげたいと切に思う。
だが――
「ごめんなさい……ぼくには、それだけの事をする力がありません……」
仮初の将軍には、何も変えることはできない。
篤助は泣きながら、己の無力を[[rb:懺悔 > ざんげ]]した。
「…………は?なんで」
白熊は呆気に取られた表情で問いを漏らした。
「ぼくは……ちゃんとした人が将軍になるまでの、繋ぎだから……」
一縷の望みを託し、命を懸けて攫った将軍が、実はお飾りだった。
白熊は手をガタガタと震わせ、握っていた短刀を落とした。
「は、はァ?ふざけるなよ……だったら、オレたちは、どうすれば」
白熊は鼻息荒く立ち上がると、平衡感覚を失ったかのようによろめいた。顔を覆う指の隙間からは、血走った目が震えている。
「落ち着け、エトゥクペ。コイツが使えないなら、殺してあの和人に差し出せばいい。『将軍を殺せば、松城藩に天誅を下す』。元々そういう約定だったじゃないか」
「だが、侍は信用できない……ッ!」
白熊は肩を大きく上下させ、荒々しく息をする。その姿は怒りに震える猛獣のようで、いつ篤助の喉笛を喰い破ってもおかしくはない。
しかし、狐は殺気を立ち上らせる白熊の肩に手を置くと、熱のこもった言葉を紡いだ。
「故郷にいる家族を思い出せ。オレたちは、あいつらのために戦っている。使えるものは何でも使え。それが例え、罠だとしても」
ふいごのような息遣いは、徐々に落ち着きを取り戻した。
「そう、だな。……済まない、落ち着いた」
狐は小さく頷き、一歩後ろへ下がった。
冷静さを取り戻した白熊は再び篤助に向き直ると、腰に差した剣に手を伸ばした。
「さっき言った通りだ。ウタルの自由のため、その命、奪わせてもらう」
鞘を滑る刃の音は、鼓膜を切り裂きそうなほどに鋭利だった。解き放たれた刀身には錆ひとつなく、月光に淡く輝くその様は、研ぎ澄まされた彼らの意志が宿ったかのようだ。
「い、いやだ。やめて……死にたくない……っ!」
篤助は尻もちを着いたまま、床を足で押して後ずさる。無我夢中だった篤助の脚は、腐った床板を蹴り破った。脚を引き抜く時、割れた床材が脚の肉をがりがりと削ったが、痛みに構っている余裕など微塵もない。篤助は肉の削げた脚で必死に床を蹴り続けた。
しかし、篤助の必死の逃走は、すぐに壁に阻まれて終わった。剣を握った白熊が、泰然とした足取りで距離を縮める。
「その程度の命乞いで救われるのなら、こんなことにはなっていない。恨むのなら、卑劣な侍どもを恨め」
滲む視界の中、自分に向けられた切っ先だけがはっきりと見えていた。白熊が剣をゆっくりと振りかぶる。剣を頭上まで上げ切ったその瞬間、空気が冷え固まった。
…………これが、最期に見る光景か。
泥にまみれた床、角に張られた蜘蛛の巣、土間に散らばった皿の破片、自分の死を願う人々。
あぁ、なんで…………なんでこんな死に方なんだ。
真っ暗で汚いあばら家の隅で、多くの人に恨まれながら
独り死ぬ。こんな惨い死に様を押し付けられるほど、自分は罪深くないはずだ。
嗚咽が止まらない。
覚悟なんて決まらない。
―――助けて、と願わずにはいられない。
「けん、しん……っ」
「ふん……っ!」
白熊が剣を振り下ろす。白刃は寸分違わず篤助の首に迫った。しかし――
「ぐぁぁあっ!」
破裂音のような音がした後、白熊は苦悶の声を漏らし、篤助には白刃ではなく木片が降り注いだ。
一体何が起こったのか。
篤助はその答えを求めて、ウタルたちの視線が集まる方へ顔を向けた。先程まで閉じ切ってきた縁側の障子が一枚消え、そこには篤助が切望した人影が佇んでいた。
其は、日本刀の最高傑作と称される天下五剣、その全てに勝る生きた刀。日の昇る国に秩序を敷く[[rb:武士 > もののふ]]の頂点。
「どうかご安心を、篤助さま。この狼牙剣心が参った以上、貴方様には指一本触れさせません」
刀を携え、銀色の毛並みを靡かせた狼が、そこにはいた。
「貴様……なぜここが分かった……」
白熊は緊張気味な面持ちで剣心を睨みつける。剣心か蹴り飛ばした障子を左手で受けた白熊は、左腕を庇うように押さえている。障子がバラバラに砕け散るほどの威力だ。受け止めた腕の骨が折れるのも当然だろう。
「主君の匂いは覚えている。例え地の果てまで連れ去ろうとも、私は必ずや、篤助さまを取り戻す!」
「剣心……」
普段であれば、冷ややかな刃のような返答をしていただろう。しかし、今の剣心から溢れ出るのは、敵の心臓を抉り出さんばかりの憤怒のみ。
それは、刀だった頃の剣心には決して見られなかった執着だ。
「けんしん……狼牙剣心……全てを手に入れた、武士の頂点……」
篤助の呟きを聞いた白熊は、歯を食いしばり憎々しげに剣心を睨んだ。
「オレたちを骨の髄まで貪って私服を肥やした侍が、なに正義面してんだ!全部お前たちが撒いた種だろ!だから大人しく殺されろ、オレのアチャみたいに!」
唾を飛ばして激昂する白熊に、剣心は静かに反論した。
「松城藩がウタル族と争っていた時、篤助さまは将軍どころか、武士ですらなかった。ただの一農夫だった篤助さまに、その罪を問うのは間違っている」
「昔どうだったかなんてどうでもいい!侍が卑劣で残忍なのは、その上に立つ将軍どもがクズだからだ!だから、今ここで全ての苦しみの根源をぶち殺すんだよ!」
白熊は、白い毛並みに朱を差すほど猛々しく吠える。聞く耳を持たない白熊に、剣心は鋭い眼光を返した。
「一つ忠告する。篤助さまを[[rb:弑 > しい]]すれば、ウタル族に二度と平穏の日々は訪れない。将軍を殺した逆賊として、幕府は貴様らを一族郎党共々、根絶やしにするだろう。
だが、篤助さまの治世が訪れた暁には、篤助さまは必ずウタル族に手を差し伸べる。いや、ウタル族を救える将軍は、篤助さまを於いて他にいない」
「コイツが……オレたちを救う……?」
怒りが充満していた白熊の目に、一抹の光明が宿った。篤助を見つめるその瞳は、小さく小さく揺れている。
「エトゥクペ……」
他のウタルたちも迷いを抱えながら、不安そうに白熊を見つめた。仲間のか細い声に、白熊ははっと目を見開き、かぶりを振った。
「アチャは、侍に騙されて殺されたんだ……信じない……信じるわけにはいかない!」
白熊はそう吐き出すと、握った剣の切っ先を剣心に向けた。
「刀を抜け、侍。武器を構えていない相手を殺すような卑劣を、ウタルは決しておかさない」
断固たる決意を漲らせた瞳、揺れることのない切っ先。白熊は言葉ではなく、その姿でウタル族の総意を示した。毅然と構えた族長に倣って、他のウタルたちも各々の武器を構えた。
ウタルたちの悲壮な覚悟が、この小さなあばら家に渦巻いている。それはまるで嵐のように激しく、篤助は身をすくませた。
嵐の中心に立つ剣心は、その脅威を篤助よりも強く感じ取っているだろう。額に伝う一筋の汗がその証拠だった。
鋭い眼光を周囲に配り、敵の位置を把握する。そして左足を半歩引き、剣心もまた戦端に備えた。
しかし、その姿には、何か致命的な不備があるように見える。
『ご達しがあったあの日から、剣心さんは一度も、刀を抜いてないんスよ』
「まさか――」
有り得ない。
篤助だけではなく、剣心の命すら危ぶまれるこの状況で、そんなことがあろうはずない。
しかし
「―――刀は抜かない」
剣心は、はっきりとそう言い切った。
「民を治める身の上ゆえ、武力で民を従えることはしない。だからと言って、黙って殺されるつもりも、秩序を乱させるつもりも毛頭ない。
罪を犯したものを斬り捨てるのでなく、然るべき罰を受けさせる。それが、私が得た『武士の本懐』だ」
それは、決して気高い宣誓の言葉ではなかった。
苦悩に阻まれ、誇りをへし折られ、自己を否定された先に得た、泥と血に[[rb:塗 > まみ]]れた傷だらけ矜恃。
剣心はそんなものを、命よりも高らかに掲げる。それが篤助にはどうしても許せなかった。
「なに言ってんだ、大馬鹿野郎!命あっての本懐だろ!」
聞いたこともない大声で怒鳴った篤助に、剣心は一瞬気圧された。だがすぐに、毅然とした態度で篤助に向き直る。
「いいえ、篤助さま。本懐あってこその命なのです」
普段は物分りのいい従者が、この時ばかりは誇りに殉ずる武士の顔を見せた。
「私が[[rb:我意 > がい]]を通すことで、篤助さまを死の淵に立たせていることは重々承知しております。ですが、私はこの身に代えてでも、篤助さまの御命だけは護り通す所存です。
――どうか、貴方の武士を信じてください」
剣心らしくない、縋り付くような目が篤助を見据える。
そういうことじゃないのに――
篤助の胸には込み上げてくるものがあったが、それを言う前に白熊が口を開いた。
「これだけ時間をやったんだ。お互い、遺言は残し終わったな」
白熊は、剣心から篤助を隠すように立ちはだかる。そして剣をだらりとぶら下げたまま、ゆっくりと剣心に近づいた。
「まずはお前からだ、侍。話足りないのであれば、あの世で好きなだけ語らうといい。お前を殺した後、すぐにコイツも送ってやる」
白熊は一歩の踏み込みで剣がギリギリ届く間合いで立ち止まる。
そして、静かに剣を振り上げた。
「虐げたものに[[rb:贖 > あがな]]う時だ。お前の命を以て、ウタルは自由と尊厳を取り戻す!」
白熊は、全ての苦難、全ての逆境を踏み潰すための一歩を踏み出した。
速く、重く、そして昏いその一刀は、まるで濁流のように剣心の命に迫る。
篤助の心臓が跳ねた。
「剣心っ!」
―――刹那、狼動く。
剣心は鋭く踏み込み、白熊の懐に入った。剣を振り下ろす白熊の手を両手で受け止めると、白熊の腕を捻じるようにして剣を奪い取る。そして、逆手で剣を握った剣心は、剣の柄を白熊の鳩尾にぶち込んだ。
「ガバッ……!」
白熊は口から涎をこぼして地に伏せる。この場にいる全員が、月下に佇む銀狼の姿を呆然と見詰めていた。
「す、すごい」
剣心が披露したのは、[[rb:昔日 > せきじつ]]の剣聖が夢想し、ついぞ叶わなかった絶技―――無刀取り。無手で刀を持った相手を制圧するという荒唐無稽の技だ。
まさに、武を極めたものが[[rb:徒 > いたずら]]に夢見る『幻想』。それを現実まで昇華してみせた剣心は、間違いなく人が到達しうる究極の一つだ。
「蓮吉っ!」
呆然としていた篤助の耳に、剣心の怒号が響く。その瞬間、篤助の背後の壁が斬り抜かれ、ぽっかりと穴が開いた。
「逃がすかっ!」
それに気付いた狐が弓を構え、篤助に狙いを定める。
しかし、それより先に穴から伸びた腕が篤助の襟を掴み、むんっと引っ張った。矢は篤助の鼻先を掠めて、壁に突き刺さる。
あばら家から脱出させられた篤助は、覚えのある匂いに鼻を鳴らした。
「ご無事で何よりッスよ、篤助さま!」
「蓮吉!」
蓮吉は暗闇でもわかるほどニカッと笑うと、篤助を背負い、暗闇が支配する森の中を走り出した。
「待って、戻って!剣心がまだ……!」
篤助があばら家から脱する最後の瞬間に見たのは、ウタルたちに襲われる剣心だった。今もあのあばら家では、無手のまま剣心が戦っている。
「それはダメッス」
言葉も景色も置き去りにして、蓮吉は夜の森を駆け続ける。
「なんでよ!剣心が死んじゃうよ!?」
「篤助さまが戻っても、それは変わらないッス」
「でも、蓮吉がいれば…………あ」
気が動転していた篤助は気づかなかった。蓮吉から漂う、尋常ではない血の匂いに。
「気づいちゃったッスか。おいら、もう死にかけなんスよ」
巻かれた包帯から血が滲むほどの深い傷を負いながら、篤助を背負って走る蓮吉。体は徐々に冷えているのに、額には湯気が上るほどの脂汗を流している。蓮吉にまとわりつく死の気配は、刻一刻と濃密になっていく。
「ご、ごめっ……ぼく、どうすれば」
剣心と蓮吉、死の淵にある両者を救う手立ては、篤助にはない。先程までとは別種の恐怖が篤助の胸を締め付けていた。
「大丈夫ッス。剣心さんはそんなヤワじゃないッスから。それに――」
蓮吉が言いかけたその瞬間、落ち葉を踏みしだきながら、二人の両脇を無数の影が駆け抜けていった。
「憎ったらしい援軍もいるッスからね」
―――
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
床に手を着いて、息を吐く。額から流れる汗と血が、泥だらけの手の甲にぽたりぽたりと垂れていた。
「死ねぇぇぇ!」
顔を上げると、剣を振りかぶった兎獣人が鬼気迫る形相で迫っていた。剣心は咄嗟に立ち上がり、後ろへ飛び退く。そのまま背後にあった柱に向かって飛び上がり、柱を蹴って空中で体を反転させると、その勢いのまま兎の側頭部を蹴り抜いた。土間まで吹っ飛ばされた兎は、呻き声すら上げずに気を失った。
「くっ……!」
しかし、蹴りを放ったその時、剣心の左太腿に鋭い痛みが走る。着地の瞬間、激痛が脚の力を根こそぎ奪い、剣心は落下した硝子細工のように床に崩れ落ちた。痛みの源を辿れば、そこには動物の骨を削った矢が深々と刺さっていた。
「ぐ、ぅぅぁぁぁあ!」
即座に矢を握った剣心は、[[rb:鏃 > やじり]]に肉を抉られながら、深く刺さった矢を引き抜く。投げ捨てられた矢は、カランと虚しい音を立てて床を転がった。
「正しい判断だ。鏃には毒が塗ってあるからな、放置すれば命に関わる……」
ぎし、ぎしと床を軋ませながら白熊がやってくる。鳩尾を殴っても、頭に肘鉄を喰らわせても、床に叩きつけても、この白熊は何度も立ち上がった。息も絶え絶えで、関節が外れた左腕がぶらぶらと揺れているが、剣だけはしっかりと握り締めている。
「まさかここまで抵抗するとは……正直、お前のことを見くびっていた」
白熊が周りを見渡す。あばら家の中には、剣心が気絶させた十数人のウタル族が横たわっていた。まさに死屍累々の状況で、未だ己の脚で立っているのは白熊と狐の二人だけだ。
「だが、ここまでだ、侍」
白熊は、目の前の獣を見下ろす。
全身から血を流しながら、牙を剥き出しにして立ち上がろうとする狼。脚の筋肉に力を込める度に、矢傷からどぷりどぷりと血塊が噴き出す。しかし、狼は立ち上がるどころか、自らの血溜まりに足を滑らせ、何度も何度も身体を床に叩きつける。ばしゃりばしゃりと血を跳ねさせる姿は、水溜まりで遊ぶ子供にどこか似ていた。
「……なぜ、そこまでして戦う」
その問いに、剣心はピタリと動きを止めた。
「お前ほどの特別な獣人が、なぜ、あんなどこにでもいる凡庸な子供のために命を懸けるのだ」
白熊は、何度も立ちあがろうとする剣心の姿に、下らないことにこだわる子供のような意固地さを感じていた。
「私が……特別……か」
剣心は絶え絶えの息を吸い、口を開いた。
「世俗が特別と認めるものは……ただの異物だ。未練の対象になることも……愛情の対象になることもない。お前の言う特別とは……人の枠組みから外れた化け物に付けられる、蔑称だ。
能力や……才能は……人を特別にはしない。人を特別にするのは、時間だ。積み重ねた時間……だけが、誰かを誰かの特別にする。……それを一番理解しているのは、お前たちだろう……」
その時、ばしゃりという音が響いた。
血溜まりに、一匹の狼が横たわっている。
「お前たちは……お前たちの愛するものの……ため、剣を取った。私の戦う理由は……お前たちのそれと、何も変わらない。自分の価値も命も……どうでもいい。だが、篤助さまだけは……あの人だけは……生きて……」
声が、虚空に溶けていく。
光が消えていく視界、熱の失せた指先。
遠大に広がっていく深紅の海の真ん中で、狼は唯一戦う意思に応える指先を動かし続けた。
その命の灯火は、小さく、小さく、揺らめいて。
「そうか。ならば、誇れ」
白熊の声が、遠くから響く。
「お前は見事に、愛するものの命を救って見せた。あの子供に、オレたちの刃が届くことはもうない」
その言葉を聞いて、ようやく狼は指先を動かすのを止めた。満足げな表情を浮かべる狼に、白熊は苦悶する。
「……本当に、あの子供以外のことはどうでもいいんだな」
ウタル族の未来どころか、自分の未来まで閉ざしておきながら、なぜ満足できるのか。
…………いや
「オレも、お前のように成し遂げたなら、笑って死ねたのかもな」
白熊はそう呟いて、月の浮かぶ夜空に剣を掲げた。
終幕の気配に、狼は、静かに瞼を閉じる。
瞼の裏に映るその人は、太陽のような笑顔を浮かべていた。
―――ああ、貴方に出会えて、とても幸せでした。
[newpage]
「特別だというのなら最後まで足掻け!この愚か者がァ!!!」
外から轟いた怒号が、剣心の瞼をこじ開けた。
刹那、剣心の脇を駆け抜けた影が白熊を吹き飛ばす。
「殺すなっ!」
死にかけの体でありながら、剣心は腹から声を張り上げた。そうせざるを得ないほど、[[rb:闖入者 > ちんにゅうしゃ]]の纏う殺気は鋭く、冷徹だった。
「……[[rb:彼奴等 > きゃつら]]は篤助さまの命を狙った大罪人。なぜ止めるのです、狼牙殿」
草鹿は倒した白熊の胸をへこませるほど強く踏みつけ、薙刀の切っ先を喉元に当てながら淡々と述べた。機械的な眼光が宿る瞳に、剣心は密かに頬を強ばらせる。
「殺せば……辻斬りと変わらない。……重罪だ」
「そのような虚言が通用するとでも?よしんば、それが事実だとしても、私に貴殿の命令を聞く義務はありません」
草鹿は剣心の背後に視線を向ける。釣られて剣心も振り向いた。
「……獅子蔵」
あばら家の外には、深い闇が暗幕のように垂れこめている。しかし、暗闇の中でも輝きを失わない絢爛豪華な獅子が、屈強な傭兵たちを引き連れ、血と泥に塗れたあばら家の床を踏みしだいた。煌呀は血だらけの剣心には目もくれず、白熊の元に歩み寄った。
「無様だな。どれほど強い悲願であろうとも、叶わぬのなら一銭の価値もない」
そう言いながら、煌呀は白熊の頬を踏みつけた。
「ぐ……っ」
「テメェっ!エトゥクペから足をどけろ!」
傭兵に捕らえられた狐が、鬼の形相で煌呀に吠える。しかし煌呀は気にも留めず、嬉々として白熊の頬を足でこねくり回す。
「大望を阻まれた挙句、侮辱される気分はどうだ。少しは身の程というものを思い知ったか?底辺は底辺らしく、地の底を這いつくばっていればいい」
雪のように真っ白だった毛並みが泥にまみれていく。
しかし、白熊は折れなかった。
「死んだ同胞の苦しみを思えば、この程度の侮辱など取るに足らん。だが、覚えておけよ。オレたちが復権した暁には、必ずお前をぶっ殺してやる……!」
殺気に満ちた眼光が、煌呀を射抜く。誇りを踏みにじられてなお威勢を失わない白熊に、しかし、煌呀はにやりと口角を上げた。
「ふはははは!全く、大言壮語も甚だしい!だが、身の程知らずは嫌いじゃない」
煌呀はそう言って、白熊を踏みつけていた足を退けた。
「慈悲だ。[[rb:我 > オレ]]のアツに手を出した罪は不問にしてやる。――少なくとも、あの駄犬よりかはずっとマシだ」
煌呀は振り返ると、顎を突き出し、冷徹な目で剣心を見下した。
「武士という生き物は本当に度し難い。敵に背を向けることは恥じる癖に、己が生からは簡単に逃げ出す。困難に遭遇してなお、『生きて』本懐を成し遂げるのが本物の強者だ。[[rb:潔 > いさぎよ]]い死など、逃走に過ぎん」
煌呀は容赦なく剣心を断罪する。
「その身勝手な弱さが一体誰を傷つけているか、ちっぽけな脳味噌でよくよく考えろ」
―――
[[rb:艶 > つや]]やかに輝く黒い漆。その鏡のような表面に映るのは、光を宿した、即ち、生者の瞳。しかし、その眼差しは、[[rb:懊悩 > おうのう]]に小さく揺れていた。
「私の行いは、篤助さまを傷つけたのだろうか……」
薄暗い部屋の中、床の間の正面に正座していた剣心は、そこに鎮座する己の刀に問うように呟いた。答える者のいない凍えるほど静かな部屋で、剣心は[[rb:身動 > みじろ]]ぎ一つせず思案する。
「刀に聞いたって、なんも答えてくんないッスよ。剣心さんに似てるとはいえ、刀は喋んないッスからねー」
ドスンと勢いよく襖を開け放ち、剣心の思索を邪魔した蓮吉は、悪びれることなくドシドシと部屋に踏み入った。
「剣心さんは怪我人なんスから、そんな所で座ってないで布団で安静にしててくださいッス」
そう言って、蓮吉は布団を剣心の傍まで引きずる。
「戻れるッスか?」
「当たり前だ」
剣心は、過保護な蓮吉を軽く睨む。しかし、立ち上がろうと脚に力を込めた瞬間、激痛が走り床に倒れ込んだ。
「うぐ……っ」
「あーあー、無理するから」
蓮吉は、歯を食いしばる剣心を介抱し、布団に戻した。
「数刻前までは、平気だったのだ……」
「おいらにまで強がらなくてもいいッスよ」
蓮吉は苦笑しながら答えると、障子を開け放ち、薄暗い部屋に陽の光を入れた。
「部屋は明るくしないとッスよ、剣心さん。暗くてドンヨリした部屋だから、気分もドンヨリして刀なんかと話し出しちゃうわけで」
「私は父上に、『武士たる者、迷いは他人ではなく、己が魂に語れ』と言われのだが。蓮吉は刀に語らないのか」
「いや、確かに刀は武士の魂って言うッスけど……」
蓮吉は苦笑いを浮かべ、そそくさと剣心から距離を取った。
「お身体、見せてもらうッスよ」
蓮吉は真剣な表情に戻ると、布団の上に座った剣心の寝間着を脱ぐのを手伝った。
「すごいッスね……」
蓮吉は、一糸まとわぬ姿になった剣心の身体をまじまじと見つめ、感嘆した。
「まさか、全ての傷が綺麗さっぱり消えるとは。雅せんせーはとんでもない名医ッスね」
江戸城に運び込まれた剣心は、触れれば崩れ落ちてしまいそうなほど瀕死の重体だった。全身を血で赤黒く染め、胸の動きは今にも止まりそうなほど小さく、そして何より、傷のない箇所を見つける方が困難なほど満身創痍の身体に、駆けつけた雅は血相を変えて治療を始めた。
しかし、今やその裸体には傷一つなく、見るものを惚れさせる美しい[[rb:玉体 > ぎょくたい]]を取り戻している。
「剣心さんの命も心配だったッスけど、それと同じくらい今後のことが心配でした。もし命が助かったとしても、あんな傷だらけの身体じゃ絶対に大奥から追放されると思ってたッスから。でも、傷が残らなくて本当に良かったッス」
将軍の子を孕む雄に求められるものとして、容姿は重要な要素の一つだ。
篤助本人は、剣心が傷を負ったからと言って大奥から追い出すような人物ではない。だが、篤助の力を弱めたい勢力からすれば、身体の傷は完全無欠な剣心の唯一の隙だ。「傷物は将軍に相応しくない」と徹底的に糾弾し、剣心は大奥から追い出されていただろう。
今でこそ解消されたが、剣心もその不安を強く抱えていた。わざわざ買い付けた姿見で毎夜自らの裸体をつぶさに観察し、身体の傷が全て消えた時には深く胸を撫で下ろしたものだ。
「これなら、胸を張って篤助さまに会いに行けるッスね!」
祝うように告げる蓮吉だったが、剣心の表情は曇っていた。それを見た蓮吉は眉をひそめ、丁寧に言葉を伝える。
「篤助さま、剣心さんと話したいことがあるって言ってたッスよ」
「……そうか」
最愛の人に求められながら、剣心の尻尾は死んだように動かない。
「会いたくないんスか?」
「会いたい、とは思っている。だが……」
剣心は唇を歪める。それは、彼が戦場で一度も見せたことのない『不安』だった。
「……獅子蔵に言われたことが、気がかりなのだ。私は篤助さまの武士として、最善を尽くしてきたつもりだ。だが、もしあやつの言う通り、私の行動が知らず知らずのうちに篤助さまを傷つけていたのなら、私は、篤助さまのお傍にいるべきではない……」
自信無げに不安を吐露する剣心の姿に、蓮吉は目を見開いた。
「……変わったッスね、剣心さん」
「身の程を知った、と言うべきだろう。私は[[rb:人心 > ひとごころ]]に疎い朴念仁だ。篤助さまには、とても見合わない」
神妙に語る剣心を見て、蓮吉はクスクスと笑った。
「何が面白い」
「いや、すいませんッス。でも、剣心さんが悩んでるのって、なんか新鮮で」
「私にも、悩みの一つや二つはある」
「でも、悩みって全部、篤助さまのことッスよね?」
剣心は言葉に詰まった。
「篤助さま以外のことで悩んだことがないから、解決方法がわからない、でしょ?」
「……その通りだ」
剣心は瞼を落とし、不甲斐なさそうに答えた。
「そんな時は、おいらたち狼牙家家臣を頼ってください。一緒に悩むッスから。―――ね、みんな」
いつの間にか生じていた、襖と襖の小さな隙間。その真っ黒な帯に、いくつもの目が浮かんでいた。蓮吉に目配せされたそれらは、瞳を慌ただしげに右往左往させる。
「ば、ばれたっ!」
「逃げるぞ!」
ドタバタを走る音が聞こえた瞬間、剣心渾身の「待て!」が屋敷に轟く。
「全員、私の前に来い」
足を止めた彼らは、今度はそろりそろりと足を運び、気まずそうな笑みを張っつけながら顔を覗かせた。
「えへへ……ご無沙汰してます、剣心さん」
襖を開け、剣心の部屋にぞろぞろと入室したのは、剣心と蓮吉を除いた狼牙家家臣全員だった。部屋に入り切らず、廊下まで続く人の群れに、剣心は頭を抱えた。
「お前たち、一体こんな場所で何をしている。稽古は?職務は?武士としての務めは、一つとして怠ることは許されないのだぞ!」
剣心の怒号に、家臣たちは項垂れた。
「お前が呼んだのか、蓮吉」
剣心は蓮吉を睨みつける。しかし、蓮吉は飄々とした態度を崩さなかった。
「いえいえ。気づいたら隙間から覗いてたッスよ。てか、そんなことはどうでもいいんス。あれ、[[rb:甲斐 > かい]]が持ってるやつ、見えないんスか?」
剣心は深い皺を刻んだ顔を、蓮吉が指さした方に向ける。家臣団の中でも新参者の甲斐犬獣人が背中に何かを隠し持っているのは分かった。だが、チラリと覗くそれが何なのかは、剣心には検討もつかなかった。
「にぶちんッスねぇ。仕方ない。みんな、観念して渡すッスよ」
家臣たちが頷くと、甲斐が剣心の前まで歩み出る。カサリと音を鳴らして剣心に差し出したのは、色とりどりの折り鶴を糸で束ねた千羽鶴だった。
「これ、剣心さんが良くなるようにって、家臣全員で折りました。受け取って、くれますか……」
甲斐はおずおずと千羽鶴を差し出す。その自信無げな姿には、受け取って貰えないのでは、という不安がありありと浮かんでいた。しかし、家臣たちの予想に反し、剣心は[[rb:呆気 > あっけ]]ないほど素直に受け取った。
「なぜ、こんなものを……」
腕に抱えた千羽鶴は、まるで虹のようだった。剣心は目を奪われたようにそれを見詰め、ぽつりと言葉をこぼす。
「みんな、剣心さんのこと心配してたんスよ。剣心さんのことが、『好き』だから」
―――好き
刀に熱を与えた、おまじない。
気付けば、剣心は口を開いていた。
「―――お前たちの力を、借りたい」
家臣たちは自分の耳を疑った。自らの精神と肉体に向き合い続け、鍛錬を積み重ねてきた剣心が他人を頼るなど、彼らからすれば有り得ないことだ。
「私は、篤助さまに見合う人になりたい。だから、お前たちの力を借して欲しい」
助けを求めるというのは、恐ろしい。他人からの印象が、如実に現れる。好きならば承諾され、嫌いなら拒絶される。
拒絶されたくない。
人ならば、そう思うのは当たり前だ。けれど、この二択に立ち向かわなければ、誰も手を取ってくれない。
不安が雪崩のように押し寄せる。
戦場ならば、鍛えてきた剣の腕がある。だから、死への恐怖や不安は全くなかった。だが、戦場以外で人の前に立った時、自分は何も積み上げてこなかったのだと思い知る。相手を楽しませる話術も、輝くような笑顔も、誰かを思いやる心も、剣心は持っていない。人としての魅力がない自分を、好きになってくれる人なんていない。剣心はそう確信している。
声が震える。指先が震える。
なんて情けない姿だろう。
だが、それでもただ一つ、彼らと共有してきたものがある。それを頼りに、剣心は喉を振り絞る。
「人に愛される人間になる方法を教えて欲しい。どうか、頼む」
剣心は色とりどりの鶴を優しく胸に抱え、頭を下げた。かさかさと紙が擦れる音だけが、剣心の耳に響いた。
「剣心さん」
剣心の肩に置かれた手。その感触は、とても――
「あなたの魅力は、オレたちが誰よりも知ってます。何年一緒に竹刀振ってきたと思ってるんですか。あなたは絶対に、篤助さまに見合う素晴らしい人ですよ」
顔を上げれば、家臣たちが剣心に向けて掌を広げている。何度も皮がめくれ、固くなった掌。剣心とその家臣たちが積み重ねてきた、途方もない時間の証。
「ありがとう」
好き、という感情が、取りこぼしてきたものを拾い上げ、剣心を人に近づけていく。
また一つ、剣心は得がたいものを得た。
―――
家臣団の議論は大いに白熱し、[[rb:喧々諤々 > けんけんがくがく]]たる様相を見せた。家臣たちは稽古も食事も忘れて熱中し、気付けば、屋敷の外には夜のとばりが落ちていた。
疲れ果てた家臣たちは、真っ暗な部屋のあちこちで泥のように眠っている。一日中稽古した後でもこれほど爆睡することはないのだから、彼らがこの作戦会議にどれほどの熱量を傾けたかがよくわかる。
雑魚寝する家臣たちで足の踏み場もない床を、剣心は起こさないように慎重に足を運んでいた。
「……篤助さまのところッスか?」
そんな剣心の背に、眠たそうな声がかけられた。
「あぁ」
「そうッスか……くわぁぁぁ」
蓮吉は大きく口を開けて欠伸をした。
「すんませんッス。結局、大して力になれなかったッスね」
会議はあまりの熱量に暴走し、まともな結論が出ないまま終わってしまった。しかし、剣心の顔は晴れやかだった。
「いや、お前たちのお陰で自信がついた。礼を言う」
「もし獅子蔵の言うことが正しくても、剣心さんの想いを篤助さまに伝えればきっと大丈夫ッス。頑張ってください」
剣心は力強く頷き、部屋を後にした。
「あれ……?見間違いッスかねぇ……」
蓮吉は寝ぼけ眼を擦った。剣心が部屋を去る瞬間、その手に妙なものが握られていたような気がしたのだ。
「……いやいや、いくら剣心さんでもそんなことしないッスよね」
剣心がその手の[[rb:専門家 > エキスパート]]から教えてもらったという案は、満場一致で却下した。家臣たちの猛烈な批判に、いくら人心に疎い剣心とは言え、己がしようとしていた行為がいかに血迷ったものか理解したはずだ。
睡魔に屈した蓮吉は、身体を再び畳の上に横たえる。
「あんなの、ご乱心にも程あるってもんス……」
数刻後、そのご乱心を剣心が本気で実行するとは露知らず、蓮吉は穏やかな寝息を立て始めた。
―――
襖越しに声がした。
「狼牙剣心、ただいま参りました」
篤助はごくりと唾を飲み込み、声が震えないように気を張りながら返答する。
「入って」
「失礼いたします」
洗練された所作で入室した剣心は、篤助に向けて深々と頭を下げた。
「まずは謝罪を。傍付きでありながら篤助さまの命を危険に晒した愚行、弁明のしようもございません。如何なる沙汰も覚悟しております」
篤助は瞼を伏せた。
「いや、元はと言えば、ぼくが無理やり蓮吉を連れ出したのが悪いんだ。だから、剣心が謝ることじゃ……」
「私の家臣が、篤助さまを守りきれなかったのは事実です。そして、家臣の失態の責任を取るのが、彼らの長たる私の務め。何卒、[[rb:御裁可 > ごさいか]]のほどを」
それは文字面をなぞった空虚な台詞ではなく、何かを背負う者の覚悟ある言葉だった。
「…………なら、答えて欲しいことがある」
「何なりと」
篤助は息を吸い込み、薄氷を割る覚悟で言葉を発した。
「―――剣心は、なぜ刀を抜かないの?」
あの日、剣心は命を投げ打って篤助を助けた。しかし、その果てに江戸城に運び込まれた剣心は、指先すら微動だにさせず、赤黒い血で銀の毛並みを染めていた。その姿はまるで、死神の[[rb:腕 > かいな]]に包まれているかのようだった。
その姿を見た篤助が、絶望に打ちひしがれたのは言うまでもない。
もう二度と、剣心のあんな姿は見たくない。
だから、篤助は知らなければならない。
剣心が命を懸けて果たそうとする『武士の本懐』、その真意を。
剣心は頭をゆっくりと上げ、篤助を見据えた。
「篤助さまが、私に寄り添ってくださったからです」
「…………え?」
「長い話ですが、聞いてくださいますか?」
篤助が頷くと、剣心は丁寧に言葉を紡ぎ始めた。
かつての私は、理解していなかったのです。
人には過去が、感情が、懊悩が、未来があることを。
人には家族が、恋人が、子供が、友人がいることを。
何も知らない愚かな私は、世を乱す悪人を斬り捨て続けました。その悪行の裏にある苦しみや、誅殺の後に残る悲しみに、微塵も気付くことなく。
しかし、貴方さまに刃を向けたあの日、私は、自らが斬り捨ててきた悪人になったのです。悪人にかける情けはなかったように、私自身にかける慈悲もまた、ありませんでした。
主の言葉を拒んだ耳を切り落し、腹を斬って死ぬ。
私は、そう決意いたしました。
しかし、小刀を耳に押し当て、切り落とそうとした瞬間、篤助さまは私を止めて下さいました。
……本当に愚かなことですが、当時の私には篤助さまの行為の真意が理解できませんでした。なぜ止めるのか、と問う私に、篤助さまは泣きながら答えて下さいました。
『剣心が死んだら、悲しいから』
…………当たり前のことです、人が死んだら悲しい、なんて。しかし、武士としてありとあらゆる感情を削ぎ落としてきた私は、この時初めて、幼子でもわかる当たり前を理解したのです。
確かに、武士は帯刀を許された特権階級です。また、有事の際には人を斬ることすら許されています。
ですが、懊悩の果てに悪事に手を染めた者の未来を奪うことは、許されるのでしょうか。相手が悪人だとしても、残された人たちに深い悲しみを与える権利が、武士にあるのでしょうか。
…………私には、わかりません。
ゆえに私は、何もわからない相手に刀を抜くことはいたしません。
暴力で、苦しみごと悪人を消し去った世界は、人に寄り添った世界ではありませんから。
「…………そうだったんだ」
剣心が頑なに刀を抜かなかったのは、悪人にすら寄り添おうとしたからだった。身近な人ばかり気にしていた篤助にはない、とても高く広い視座をもって、自らの本懐を成し遂げようとしていた。
尊敬するべきだろう。褒め讃えるべきだろう。
だが
「……それで死んだら、どうするんだよ……」
「篤助さまのご懸念はもっともです。ですが、篤助さまの命は、私の命に代えてもお守りいたします」
篤助はぎりりと牙を噛み、吠えた。
「そうじゃなくてっ、剣心が死んだらどうするんだよ!」
篤助の怒号に、剣心は圧倒された。
「君はいつも他人のことばっかりで、自分の命を粗末にする!結局、ぼくの想いはなにも伝わってない!もっと自分を大切にしてよ!剣心がいなくなったら、ぼくは……っ」
篤助の言葉は続かなかった。何度も何度も口を開き、言葉を紡ごうともがくが、漏れてくるのは嗚咽のみ。想いを伝えようとして、その想いに呑まれてしまう。
とうとう子供のように泣きじゃくり始めた篤助を、剣心は慌てて抱きしめた。
「……申し訳ございません。私が間違っておりました。貴方さまを泣かせるようなことは、二度としないと誓います」
「きらい……きらいだぁ……」
篤助は自分を抱きしめる剣心の胸を、力なく叩いた。少しでも自分の想いが届けと、祈りを込めながら。
―――ずっとずっと、傍にいて、と。
[newpage]
「実は、篤助さまにお渡ししたい物があるのです。受け取ってくださいますか?」
篤助が泣き止むと、剣心は篤助の耳元にささやいた。
「贈り物?」
篤助は目元の涙を手の甲で拭い、首を傾げた。
「はい。人に贈り物をするのは初めてなのですが、どうか受け取って頂けると嬉しいです」
剣心は恥ずかしそうに頬を赤らめながらも、実直に目を合わせる。篤助は泣き腫らした顔でぶんぶんと首を縦に振った。
「ほしい!ほしいよ、剣心からの贈り物!」
篤助が頷くと、剣心は嬉しそうに口角を上げた。
「少し、お待ちください」
剣心は篤助の背中に回していた腕を解き、一歩下がった。
篤助は剣心の着物の裾をちらりと盗み見る。剣心は何も持たずに部屋に入ってきた。贈り物を隠しているとしたら、着物の裾以外にない。
「……え''?」
だが、篤助の予想は大いに裏切られた。
剣心は裾に手を伸ばさず、静かに立ち上がる。
そして、あろう事か着物の帯を解いたのだ。
「な、なにしてるの……?」
困惑する篤助を置き去りに、剣心は着物を脱ぎ続ける。やけにはっきり聞こえる衣擦れの音と共に、薄闇に余分なものを排した人本来の輪郭が浮かび上がっていく。
そして
「ど、どうか……この剣心を、受け取ってくださいませ」
闇の中でも砂金のように[[rb:煌 > きら]]めく黄金色の帯。それで自らの裸体を飾り付けた剣心が、篤助を布団に押し倒した。
「け、けんしん……!」
自らの上に降ってきた至高の肉体に、篤助は目を奪われた。
筋肉で構成された肢体を抱きしめるように、黄金色の帯が巻きついている。下乳に回された帯は剣心の豊満な胸を持ち上げ、その重量感を見せつける。股間にも帯が巻かれているが、面積が足りず、一物を全く隠しきれていない。
銀毛の上を走る黄金の帯と、下腹部に施された淫靡な紋様が、刀のように洗練された肉体をこれ以上ないほど淫らに演出していた。
「ぁ、あつすけさま……」
吐息に混ざって、篤助を呼ぶ声がする。顔を上げれば、しっとりと湿った[[rb:鼻先 > マズル]]と朱色に染まった頬があった。
その時、篤助の我慢が振り切れた。
「据え膳!」
篤助は剣心の胸と一物を握りしめた。
―――
小鳥のさえずりが耳で踊り、栗の花の匂いが鼻をつく。そんないつも通りの朝が、久しぶりにやって来た。
「あー!剣心さん、『贈り物は私』作戦やっちゃったんスか!?」
朝食と共に篤助の部屋にやって来た蓮吉は、部屋の隅に置かれた黄金色の帯を見つけ、大きな声で騒ぎ立てた。
「あれ、蓮吉の入れ知恵じゃなかったんだ」
篤助は目の前に置かれた御膳をつつきながら、蓮吉に訊いた。蓮吉はいかにも不服そうな様子で反論する。
「確かにおいらたちは、剣心さんのことをおもちゃ……じゃなくて、世間知らずだと思ってるッスよ。でも、流石にこんな下品なことはさせないッス。武士の面子が丸潰れッスから」
「じゃあ、自分で考えたの?」
篤助は、隣で背筋をピンと伸ばして正座している剣心に問いかけた。
「いえ、遊女や陰間からの助言です」
「あ、それで!」
篤助は、剣心が遊郭や陰間茶屋を訪れていたのを思い出す。あれは遊んでいたのではなく、恋愛下手な剣心なりに勉強していたのだ。
疑念や不安が完全に解消され、篤助はほっと胸を撫で下す。だが、蓮吉にはまだまだ不満があるらしく、剣心に口を尖らせた。
「裸に帯巻いて自分の身体を見せびらかすなんて、武士としての品性を疑うッス」
「だが、篤助さまには気に入って頂いた」
「いやいやいや、ご乱心の剣心さんに気を使ったんスよ」
と、鼻で笑っていた蓮吉だが、剣心に帯についた白い染みを見せられると、たちまち顔をしかめた。
「……篤助さまはホントに、煩悩の塊ッスね」
「えへへ、これが仕事ですから」
「褒めてないッス」
照れる篤助に、蓮吉はピシャリと言い放った。
「そうそう。今朝、[[rb:三狐 > みけつ]]屋から着物の仕立てが終わったって知らせが来たッスよ」
「それじゃあ、今日の午後受け取りに行こうか。あ、でも手紙も書かなきゃなぁー」
「なら城を出るのは少し遅めにするッス。受け取った後は、いつもみたいに村まで届ければいいッスか?」
「うん。いつもありがとう」
満足気に微笑む篤助に、剣心は恭しく声をかけた。
「申し訳ございません、篤助さま。私はここで失礼いたします」
「え、もう行っちゃうの?」
篤助の目の前に置かれた御膳は、まだ半分も減っていない。篤助が食べ終えるより前に剣心が退室することは、今まで一度もなかった。
「人を待たしていますので」
「ううーん、それじゃあ仕方ないかぁ……」
「とは言っても、大した相手ではありません。お灸を据えるという意味でも、待たせても問題はないのですが」
「いやいや、それはダメだって」
未練を滲ませる剣心に、篤助は苦笑した。名残惜しそうな顔をしながらも、剣心は襖に足を向ける。
「話を終え次第、直ぐに戻って参ります。それでは、失礼いたします」
剣心は美しい所作で叩頭し、静かに襖を閉めた。剣心の足音が遠ざかり、聞こえなくなると、部屋には静寂が訪れた。篤助は黙々と食事を続け、蓮吉は気まずそうに目をキョロキョロさせる。
つまらなそうに箸を運んでいた篤助だが、不意に三角耳をぴこんと跳ねさせた。近づいてくる足音に、その表情は段々と明るくなる。いよいよ足音が篤助の部屋の前で止まると、篤助は顔を輝かせた。
「けんし――!」
「おはようございます、篤助さま。だいぶ暖かくなりましたね」
襖を開けたのは剣心とは似ても似つかない、真っ黒な鱗に覆われた竜人、黒龍院雅その人だった。
「あぁ、雅か……」
「おや、私ではご不満ですか?」
「いやぁ、んなことないけどぉ……」
そっぽを向いて不貞腐れる篤助の様子を、雅は蓮吉に目で尋ねる。
「剣心さんが出て行っちゃって寂しいんス」
「ふむ、それなら……」
雅は顎に手を当てて少し考え込み、篤助の背後に回った。特段気にしていなかった篤助だが、後ろから聞こえてきた衣擦れの音に顔色を変えた。
「ま、ままままま、まさか!」
「そのまさかですよ、篤助さま」
膝立ちになった雅は背後から篤助を抱きしめた。篤助の身体を鱗に覆われた逞しい腕が包み込む。頭には大きくて柔らかくて温かい雅の乳が乗っかり、耳を押しつぶしていた。
「どうです、篤助さま。私だって、身体には自信があるのですよ?」
「……雄っぱい食べたい」
雅は身体を乗り出し、篤助の顔を覗き込んだ。その顔は長風呂でのぼせたかのように真っ赤だった。
「ふふ、ご満足いただけたようですね」
雅は満足気に頷き―――ふと、気になるものを見つけた。
「篤助さま、その帯に挟んであるものは?」
雅は、篤助の着物の帯に挟まれたキラキラした細長いものを指さした。
「剣心の雄っぱい」
煩悩で茹で上がった篤助の頭では、人語を理解することはできないらしい。雅が怪訝そうに眉をひそめていると、代わりに蓮吉が答えた。
「桜の[[rb:簪 > かんざし]]―――剣心さんからの贈り物ものッス。遊女たちから勧められていたのとは別に、自分なりに考えて買ったものらしいッスよ」
「…………」
「簪を贈るのは『あなたを守る』という誓いの意味が込められてるんス。あの朴念仁にしては、なかなか良い[[rb:感性 > センス]]ッスよ」
誇らしげに語る蓮吉は気づかなかった。
淡い桃色の花弁を象った簪を見る雅の、険しげな表情に。
「―――また、桜の咲く季節が巡ってきた」
雅は誰にも聞こえないほど小さく、口の中で呟いた。
―――
篤助に初めて会った日のことを思い出す。
寒さに鼻先を赤らめ、粗末な[[rb:褞袍 > どてら]]を羽織った、どこにでもいそうな柴犬の少年。剣心の姿に純朴な瞳を輝かせながらも、そこにはどこか翳りが差していたのを覚えている。
その翳りの正体を、将軍となった篤助は呉服屋で剣心に明かした。
あの日、篤助は母の墓に自分で作った褞袍を見せ、母の分の褞袍も作ると約束したのだと言う。その約束を果たせないことが、篤助にはとても心残りだったそうだ。
故人との約束に、一体なんの意味があるのか。
当時の剣心はそう思った。
いや、今の剣心にも、そう思う心がある。
しかし、そんな疑念は、篤助の弾けるような笑顔の前には無意味だった。
「母ちゃん、絶対喜んでくれる!」
篤助の注文通りに仕立てられた、庶民には決して手の届かない[[rb:瀟洒 > しょうしゃ]]な着物を前に、篤助は溢れんばかりの笑顔を浮かべた。一片の翳りなく輝くその瞳には、きっと、その着物を纏った母の笑顔が映っていたのだろう。
季節が巡ると、篤助は呉服屋に足を運ぶ。愛してくれた母と、自分を育ててくれた[[rb:養親 > ようしん]]たちに着物を仕立てるために。そして、したためた二通の手紙と共に、着物を村に送るのだ。
篤助は、誰かから受け取った愛情を、決して忘れない。
それは、武士として育てられた剣心には真似できないことだ。
「それでも、貴方のように在りたいと、思ったのです」
愛情の温もりを知ってしまった。
もう二度と、冷酷な刃には戻れない。
篤助のいない人生など、生きていけない。
剣心は大奥のとある一室の前で止まった。普段は主のいない部屋に、だが今は、確かに人の気配がする。胸の奥底から湧き上がる嫌悪が、襖に伸ばした手を引き止める。
だが
「貴方をお護りするためなら、この程度……!」
剣心は決意を胸に、襖を開けた。
「―――やっと来たか、駄犬」
脚を横に投げ出し、[[rb:脇息 > きょうそく]]にもたれ掛かるように肘を着いた傲岸不遜な獅子が、ゆっくりと瞼を開く。江戸の商界を支配する豪商の鋭い眼光が、剣心を貫いた。
「[[rb:我 > オレ]]の時間を奪うという狼藉は、寛大な心で許してやる。だが、時間を無為に捨てるというならば話は別だ。貴様の話が聞くに値しない[[rb:駄弁 > だべん]]であれば、我は二度と耳を貸さん」
平等に、そして冷徹に価値を測る絶対の天秤が、剣心の前を塞ぐ。
だが
「貴様の力を借りたい」
剣心もまた、江戸の頂きに立つ武士である。この程度の試練は足止めにもならない。
「ーーその大義は」
煌呀は仰々しく言葉を紡ぐ。
剣心は胸に手を置き、そこに宿った熱と共に言い放った。
「―――この狂った大奥を作った黒幕、その討伐のために