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少年聖女と猪将軍

  [chapter:序章:聖女の儀]

  霧がかった朝の空気に、聖なる鈴の音が静かに響いていた。

  白き神殿の高台、磨き上げられた石畳の上に、祭礼の列がゆるやかに進んでいく。鳥のさえずりも遠慮するように、世界がその歩みに耳を傾けているかのようだった。

  その列の先頭に立つのは、一人の少年。

  年端もゆかぬその子は、胸元まで届く黒髪を柔らかく流し、雪のような白の祭服に身を包んでいた。布は薄く、風にひるがえるたび、内側の華奢な肢体が透けて見えるほどである。

  だが、その顔には幼さと共に、不思議な光が宿っていた。

  緊張と、不安と、決意とが混ざり合ったまなざし。

  ──その名は、フリット。

  神託の下、「聖女」として選ばれし人間の少年。

  神殿で育てられ、今日ついに、王城へと迎えられる。

  左右に並ぶ神官たちの足音は静かだったが、儀仗の鎧が鳴る音が、列の後方から低く響いてくる。

  神殿から王城までを護送するのは、選び抜かれた獣人騎士団。

  その威容は並ぶ者なく、列の進行と共に、朝霧の中に鋼鉄の響きを残していた。

  「開門ッ!」

  城門前で、門番が声を張る。

  ゆっくりと開いていく巨大な扉の奥、陽光の中に現れたのは、獅子の顔を戴く王スマリントと、その傍らに立つ白金毛の王妃。

  そして彼らの背後には、整列する騎士たちと、無数の臣下の姿。

  全てが、少年ひとりのための光景であった。

  フリットの足元がふるりと揺れる。

  (……僕が、ここで……)

  その小さな胸に、恐れと、期待と、使命とがないまぜになったそのとき──

  「進め!」と声が飛ぶ。

  神官の合図で、ゆっくりと列が動き始めた。フリットは深く息を吸い込み、前を見据えて歩を進める。

  やがて、玉座の間へと至る。

  高天井の大広間。香木の香りと、獣毛の温もり。金細工の装飾が太陽の光を受けてきらめく中、フリットは玉座に立つ王と王妃の前へと進み出る。

  「……よう来てくれたな、聖女殿」

  王スマリントの声は低く、しかしその瞳はまるで孫を見るように温かかった。

  フリットはひざまずくと、静かに頭を垂れる。

  「はい……私は、神託に従い、この身をもって務めを果たす所存です。どうか、よろしくお願いいたします」

  その姿に、臣下たちがざわめきを飲み込む。

  王はひとつ頷くと、背後の騎士へ視線を向けた。

  「ガルグ・ド・バズトルよ──出でよ」

  「はっ!!」

  踏みしめるような重い足音が、広間を震わせた。

  大柄なその獣人は、猪の頭部を持ち、顔には幾つもの古傷が走っていた。肩幅は広く、鎧の下に鎮座する筋肉はまるで鉄の塊のよう。

  だがその目は、どこまでも真っ直ぐで、揺るぎない忠誠心が宿っていた。

  「聖女フリット様──我が名はガルグ・ド・バズトル。猪獣人にして、王国軍将軍。……今この刻より、貴女様の剣となり、盾となり、この命に代えてもその御身をお守りいたします!」

  堂々たる声が響き渡る。

  驚いたようにフリットが見上げると、その視界に「猪の顔」が飛び込んできた。

  (うわっ……)

  その威容、その声量、その存在感──まさしく「獣の将」。

  思わずのけぞりそうになるフリット。

  だが、次の瞬間。

  「……どうか、ご安心を。私めは、貴女様に決して牙を剥くことはありません」

  そう言って、猪の将は膝を折り、顔を伏せた。

  背を地に伏せるほどの姿勢。まるで、自らを下僕として捧げるかのようなその姿に、フリットはひとつ、胸の奥が熱くなるのを感じた。

  (この人は……怖くない……)

  手袋を嵌めた大きな手が、礼の印としてフリットの前に差し出される。

  戸惑いながらも、その手にそっと指先を重ねると──

  「はっ……!聖女様の御手……!!」

  ガルグの尻尾が、ぶんぶんと振り回される。

  ――パシン。

  銀扇の鋭い音が響いた。

  「記録いたします。一件目、初対面にて尻尾暴走」

  静かに立つメイド服の女。黒毛の猫獣人。

  それが、ルセルバ・セイルであった。

  銀の瞳は冷たく、しかし彼女の動きは優雅だった。

  「ルセルバと申します。以後、聖女様のお世話を担当いたします」

  「よ、よろしくお願いします……?」

  またひとり、強烈な個性が増えた気がする。

  「我はスマリント王妃。フリット様、ようこそお越しくださいました。……これからは、この城があなたの居場所です」

  白金の髪が揺れる。王妃の言葉に、フリットの瞳が揺らぐ。

  (居場所……)

  神殿は聖域だったが、あまりに静かで、どこか冷たかった。

  けれど、この城は──温かさがあった。

  フリットがまだそのことに言葉を見つけられずにいると、今度は無骨な黒鎧の男が一歩進み出た。

  耳が垂れた犬獣人。

  名を、セイムという。

  「副将軍、セイム。以後、聖女様の御身に万一あらば、将軍に代わり私が対処いたします」

  その口調は簡潔で、感情の起伏も乏しい。

  だが不思議と、怖くはなかった。

  (みんな、僕を……迎えてくれてる)

  そう思った瞬間、フリットの中で何かがほどけたように思えた。

  そして──

  その日から、「聖女フリット」の城での暮らしが始まった。

  白き少年と、猪の将。

  その出会いは、静かに、けれど確かに、運命の幕を開けていた。

  [newpage]

  [chapter:第一章:鋼の背、猪の誓い]

  王城の一角、白亜の回廊を通って、フリットは案内されていた。

  祭服から日常の礼服に着替えたばかりの彼は、まだ城の空気に慣れていない様子で、そっと手を胸にあてて歩いていた。

  すれ違う騎士や侍女たちが頭を下げるたびに、(どう返したらいいんだろう……)と小さく戸惑う。

  慣れぬ環境、慣れぬ視線。けれど、彼の横には、影のように静かに歩く黒猫の獣人、ルセルバの姿があった。

  「……こちらが、聖女様のお部屋でございます。日々のお世話、ならびに生活の補助は私が責任をもって行わせていただきます。どうかご安心を」

  「ありがとうございます。えっと……あの、今さらなんですけど、部屋に鍵って──」

  フリットが問いかけた瞬間、ルセルバが足を止め、静かに振り返った。

  「配備済みです」

  そして視線だけを、廊下の壁際へと向ける。

  そこには──甲冑をまとい、完全なる直立姿勢で控える猪獣人の姿。

  見慣れつつあるとはいえ、やはり圧が強い。

  「……ガルグさん、なんですね。鍵って……」

  フリットの呟きに、ルセルバは頷く。

  「ええ。聖女様の寝所へ、余人の足を踏み入れさせない“封鎖機構”として、これ以上の者はおりません」

  「封鎖機構て……人ですよね……?」

  思わず口にしたフリットの困惑を余所に、ガルグは胸を張って応える。

  「聖女様、護衛騎士ガルグ・ド・バズトル、只今より常駐警備任務に入らせていただきます!」

  その声は廊下に響き渡り、壁の燭台が微かに揺れるほどであった。

  「……え、今から、ずっとここに……?」

  「左様にございます!この廊下、寝ずの番をさせていただきますゆえ、どうぞ御身を安んじてお休みくださいませ!」

  「えっ、寝てください!? っていうか、寝なきゃダメですよ、体に悪いですよ!?」

  「むっ!? いやしかし、聖女様をお守りするという使命が……っ」

  眉間に皺を寄せ、尾をぴくりと揺らすガルグ。

  その表情には戸惑いと、けれど決して揺らがぬ忠義の色がにじんでいた。

  「……そんなに、気を張らなくても大丈夫です。ガルグさんがいてくれるだけで、もう安心してるから」

  「…………」

  その一言に、ガルグの表情がわずかに緩む。

  「……承りました。お言葉、胸に刻みます」

  そう言って、ガルグは再び居住まいを正し、扉の横で直立する。

  まるで壁の装飾の一部かと見まごうような、動かぬ守りの姿。

  フリットはその横を通りながら、そっと小さく、けれど丁寧に一礼をし、部屋へと入っていった。

  ***

  夜──。

  フリットは目を閉じていたが、眠りは浅く、微かな空気の動きにも意識が引き戻される。

  寝台の上、天蓋の布がゆらりと揺れ、外から漏れ込む月の光が、室内の空気にほのかな青白さを添えていた。

  (……まだ、立ってるのかな)

  体のどこかが、そわそわする。静かなはずの空間なのに、誰かが近くにいると感じる安堵が、反対に気になってしまうのだ。

  ふと起き上がり、布団の足元に掛けてあったブランケットを手に取り、扉を静かに開けた。

  ──そこには、灯火の揺れる廊下に佇む、巨大な背中。

  微動だにせず、ただ静かに立ち尽くす将の姿があった。

  「……ガルグさん」

  「……っ! 聖女様!? 何かございましたか、ご就寝中に……」

  「……これ、どうぞ」

  差し出されたのは、小さなブランケット。昼間のうちに温められていたそれは、手の中にまだぬくもりを宿していた。

  「体、冷えますよね。ずっと立ってると、風邪引いちゃいますから」

  その言葉に、ガルグは何かを言いかけたが──

  しばし無言のまま、両手でそっとブランケットを受け取る。

  「……ありがとう、ございます……。このガルグ、生涯忘れませぬ……」

  その言葉には誇張も装いもなかった。ただ、まっすぐに心からの礼。

  布を握る手の厚みと、ぎこちなく揺れる尻尾が、その真摯さを物語っていた。

  フリットはそれを見て、少し微笑んだ。

  「おやすみなさい、ガルグさん」

  「はっ。聖女様に安らかな夢路が訪れますよう……」

  そうして再び、静けさが戻る。

  扉の向こう、ベッドの中に戻ったフリットは、微かな灯火の光を瞼に感じながら、小さく囁いた。

  「……なんだか、やっぱり……ちょっと、安心するな」

  その声は、誰に聞かれることもなく、ただ柔らかく夜に溶けていった。

  [newpage]

  [chapter:第二章:はじめての笑顔]

  春の光が城の中庭に降り注いでいた。

  青く澄んだ空の下、若葉が風に揺れ、噴水のしぶきが細かくきらめく。

  そこに一人の少年がいた。

  白いエプロンを胸までかけ、小さな手で捏ねた生地を器用に分けていく。

  「……もうちょっと、水を足したほうが……」

  フリットは手元を覗き込みながら、木の卓上で丁寧に生地を整えていた。

  彼の前に並ぶのは、数枚の焼き石板。その脇には、干し葡萄、蜂蜜、そして香草が置かれている。

  そしてその傍ら、腕を組んで控えている巨体の獣人──ガルグ・ド・バズトル。

  甲冑は脱ぎ、紺の軍装に身を包んだ彼は、立っているだけで存在感があった。

  陽の光を受けるたび、肩の金具が光を反射し、彼の猪の頭部が静かに動くたびに、獣毛の首元がもこもこと波打つ。

  ガルグは口を開くでもなく、ただその鋭い眼でフリットの手の動きを見つめていた。

  「えっと……ガルグさん、怖くないですよね? この、火とかで、焼くの……」

  「怖くは……ございません。ただ、興味がございます」

  「興味?」

  「聖女様が、なぜご自身の手で食を整えようとされるのか……それが、どうしても不思議に思えるのです」

  ガルグの言葉は素直で、敬意に満ちていた。

  フリットは少し笑った。

  「僕が料理すると、ちょっとだけ“力”が入るんです。神殿でそう言われてました。……でも、本当は、自分の手で何かを作るのが好きなだけかもしれません」

  そう言って、フリットは生地を丸く整えながら、ほんの少しだけ蜂蜜を落とした。

  その手の動きは丁寧で、清らかで──

  次の瞬間、彼の手の周囲が、ふっと淡い光に包まれた。

  「……!」

  ガルグが息を呑む。

  白い輝きがふわりとパン生地を包み、柔らかに、温かに、その姿を変えていく。

  「焼き上がったら、食べてみてくださいね」

  にこり、と。

  フリットは自然な笑顔を見せた。

  その瞬間、ガルグの心臓が、どくんと大きく鳴った。

  ……こんなにも、あたたかい光があるのか。

  ……こんなにも、柔らかい表情が、あるのか。

  それは、まるで自分が守るべき「神聖」そのものが、目の前に息づいていると知らされるような──

  「……聖女様」

  「ん?」

  「…………」

  言葉が出てこない。

  代わりに──ガルグの尾が、ばさっ、と大きく跳ねた。

  ぶんっ、ぶんっ!!

  「……っ!?」

  風を巻き起こすほどの勢いで尾を振るその音に、フリットが目を丸くする。

  石板の上の干し葡萄が転がるほどの風圧だ。

  「ガルグさん!?」

  「し、失礼いたしました! これはその……っ」

  うろたえながら背を丸めるガルグ。

  そこへ──

  パシン。

  乾いた音が空を切る。

  「記録いたします。中庭にて、第三件目・尻尾暴走」

  音もなく背後に現れたのは、もちろんルセルバである。

  銀扇を片手に、完璧な距離と角度で尻尾にツッコミを入れていた。

  「むっ!? いかんか!? いやしかし……っ」

  「第三件目です」

  「ぬ、ぬううっ……す、すまぬ……!」

  何度繰り返しても、反省は薄い。

  フリットはそのやり取りを見ながら、思わず吹き出してしまった。

  「あはは……ふたりとも、面白いですね……」

  その声に、ふたりの獣人が同時にぴしりと姿勢を正す。

  「失礼いたしました!」

  「失礼いたしました」

  「ふふ……大丈夫です。怒ってるわけじゃないですから」

  フリットのその笑顔は、まるで春そのものだった。

  ***

  昼下がり、焼き上がったパンはふわりと香りを立てていた。

  小麦と蜂蜜、干し葡萄の甘さに、ほんの少し香草の爽やかさ。

  ガルグは両手で丁寧にそれを受け取り、ひとくち──。

  「…………ッ!!」

  鼻を鳴らす音すら忘れ、次の瞬間。

  「──う、うまい!!!」

  その叫びが、中庭に轟いた。

  「……っ!? ガルグさんっ、そんな大声──!」

  またしても、尻尾が。

  ぶんっ!

  空を裂くように振り切られたそれが、ルセルバの銀扇に迎え撃たれる。

  「四件目、記録します。大声、及び尻尾反応。食後直後に興奮」

  「む、むっ……っ! な、ならぬか……!? いやしかし、この味は……っ!!」

  尾を抑えながらも、パンを見つめるガルグの顔には、少年のような無邪気さが浮かんでいた。

  フリットは、思わず笑った。

  「ふふ……よかったです。口に合って」

  「合うどころではありませんっ……! これは……神の、いや、聖女様の……いや、天上の……っ!」

  「そんな大げさな」

  口元を手で押さえながら、フリットはまた微笑む。

  ルセルバは無言で、また一件、記録を加えた。

  けれどその頬には、ほんのわずか──影のような微笑が、確かにあった。

  [newpage]

  [chapter:第三章:遠乗りと虹]

  王城から南東の丘陵地へ向かう古道は、草の香りが濃く漂う初春の風に包まれていた。

  うねるように続く獣道の先、陽光にきらめく草の海を抜けて進む騎馬の一団があった。

  その最前列、巨体の黒馬を操る獣人の将軍と、その前にそっと座る白装束の少年。

  「……揺れ、大丈夫でございますか、聖女様」

  「うん、大丈夫……その、背中があったかくて」

  少年──フリットはそう答えると、そっと背を預けた。

  馬の鞍に跨るにはまだ体格が足りぬため、ガルグの前に抱かれるような形で座っていた。

  その距離は近く、声を出さずとも鼓動が伝わるほど。

  背に感じるのは、厚い胸板と温かな獣毛。

  そして、甲冑ではない軍装越しの、ごつごつとした安心感。

  (……このあたたかさ、なんだか……)

  フリットは目を伏せた。

  緊張ではない。けれど、落ち着かないのは確かだった。

  一方のガルグは、慎重に手綱を引きつつも、内心は嵐のようだった。

  (ぬおおお……っ。こ、これは近すぎる……ッ! いやしかし、この姿勢しかなかろう、聖女様の安全のために……っ)

  意識せずにはいられない距離。

  柔らかな黒髪が肩に触れ、背中の熱が胸へと流れ込んでくる。

  思わず尾が動きそうになるも、ガルグは気合で抑え込んだ。

  (ダメだ……っ。ここで尾を振ったら、馬が暴れる……っ!)

  だが、フリットの小さな呟きが、爆弾を落とした。

  「……あったかいな」

  「──っッ!!!」

  尾が一瞬、ぐらつく。

  馬がひとつ、くいと首を傾けたが、どうにか保たれた。

  「ガルグさん?」

  「い、いえ……問題ありません、聖女様……っ!」

  その声が裏返っていたことに、本人だけが気づいていない。

  ***

  一行は、王城から数十里離れたガルグ邸の敷地へ到着した。

  砦のように堅牢な構えの邸宅は、かつて軍属の者たちが寝泊まりしていた名残を残している。

  敷地の奥、草地の向こうに広がる湖へと、フリットはガルグに案内されていた。

  「ここ……こんなに広いんですね」

  「ええ。私が将軍に就任した頃、王から下賜された地です。……あの頃は、まだ部下も粗野で、砦と呼ぶにふさわしい場所でしかありませんでした」

  「でも、いまは……風が気持ちいいです」

  湖畔には誰の姿もなく、空の青と水面の色が一つになっていた。

  草の匂い、湿った土の温もり、そして──

  淡い霧が、水面にかかっていた。

  風が吹いた瞬間──

  「……っ!」

  霧が舞い、湖上に、虹が現れた。

  それは、まるで神託のように。

  「ガルグさん……っ!」

  「はい……。この景色を、聖女様にお見せしたくて……」

  ガルグは静かに答えた。

  その顔には、誇りと、喜びと、どこか照れたような表情が浮かんでいた。

  フリットはしばらく、口を開けたまま見上げていた。

  水音と、光と、色と。すべてが溶け合うこの瞬間に、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。

  「……すごく、きれい。ありがとう、ガルグさん……」

  「……っ! そ、それは……っ」

  ガルグの尾がぶんっ!と振れた瞬間、地面に刺したままの槍が倒れた。

  それを見て、フリットが吹き出す。

  「ふふ……もう、ガルグさん、ほんとに……」

  あどけない笑顔。屈託のない笑い声。

  それは、城ではまだ見せたことのない“子ども”の顔だった。

  ガルグは、その姿を目に焼き付けるように、ただ見つめていた。

  (……この命に代えても、守らねばならぬ)

  心の奥で、誓いが深まっていく。

  ***

  夕暮れが近づき、空は橙色に染まっていた。

  ガルグ邸では、騎士団の使用人たちが馬具の整備を行い、厨房では軽食が用意されていた。

  フリットは広間の窓際で、ぼんやりと空を眺めていた。

  「……もう、帰らなきゃいけないんだ」

  つぶやいた声は、どこか寂しげだった。

  そのとき、扉の向こうから足音が響く。

  重く、しかし静かに調律されたその歩みは、彼にとってもう馴染み深いものだった。

  「聖女様」

  「……ガルグさん」

  「馬の準備が整いました。……お戻りになられますか?」

  フリットは、少しだけ黙っていた。

  言葉を選ぶように、窓の外を見つめたまま──

  「……ほんとは、もうちょっと、ここにいたいなって。そんな気持ち、ダメですか?」

  問いかけに、ガルグの尾が、反射的にぶんっ。

  「っ……! あ、いや……す、すみませぬ……!」

  振り上げたまま慌てて抑える姿に、フリットが微笑む。

  「……ふふ、やっぱり面白いな、ガルグさんって」

  「私のようなものが、聖女様に笑っていただけるとは……光栄にございます」

  「ううん。僕のほうこそ、楽しかったです。……ガルグさんが、いてくれて」

  その言葉に、ガルグは言葉を失い、ただひざをついた。

  「……この命、この魂、あなた様の微笑のために」

  フリットは、そっとその大きな頭を見下ろしながら、小さく囁いた。

  「……また、来てもいいですか?」

  「何度でも。聖女様の望むままに」

  外では、騎士たちが静かに出立の準備を整えていた。

  その光景を背に、ふたりはまだ、夕日の中にいた。

  [newpage]

  [chapter:第四章:風邪と看病]

  旅の余韻がまだ胸に残る翌朝、フリットは静かに目を覚ました。

  けれど、喉の奥に違和感があり、体を起こそうとした瞬間、視界がゆらりと揺れた。

  「……あれ……?」

  額に手を当てると、熱があった。

  喉は乾き、身体はだるく、胸の奥にひゅうと風が吹き抜けるような寒さがあった。

  そのとき──

  「聖女様……!?」

  扉が開き、ガルグの声が轟いた。

  「なっ、なにゆえお顔が青白い!? 聖女様、お身体に何が──!」

  「が、ガルグさん……っ、声が大きくて……」

  「あっ、す、すみませぬ……!」

  慌てて声を抑えたガルグだったが、すでにその顔は明らかに血の気を失っていた。

  彼は一歩、二歩と近づくと、ベッド脇に膝をつき、両手を地につけて項垂れた。

  「く……っ、遠乗りなど、余計なことを……! この私が……不覚……っ!」

  「そ、そんな……違います、僕が……ただ、少し疲れちゃっただけで……」

  「いえ!! いかなる理由であれ、私の判断によって貴女様を弱らせてしまったこと、まごうことなき過ち……!」

  フリットが慌てて腕を伸ばすと、その手に触れる前に、ガルグが涙を浮かべて顔を上げた。

  「代われるものなら、代わって差し上げたい……っ! この命などいくらでも差し出しますゆえ……どうか、痛みも苦しみも、私にだけ──!!」

  その叫びに、フリットは息を飲んだ。

  涙ぐんだ目は、まるで幼子のようであり、猛将の貌ではなかった。

  「……ガルグさん」

  「……っ」

  「……ここに、いて?」

  その一言に、ガルグの体がびくりと震えた。

  「はい……っ、今すぐ……ッ」

  ばきっ!

  その瞬間、彼の尾が勢いよく跳ね、近くの机の脚にぶつかった。

  見事に脚が外れ、机はごとんと傾いた。

  「わ、わああっ!? ガルグさんの尾がっ……!」

  「す、すみませぬッ!! 今すぐ修理を……ッ、ルセルバを──」

  「いい、いいから! 動かないで……!」

  混乱の中、フリットが笑ってしまいそうになるのを懸命に抑えた。

  「でも、ほんとに……そばにいてくれるだけで、安心するんです」

  そう言って目を閉じたフリットの顔は、熱のためかほんのり紅く染まっていた。

  ***

  その夜、室内は静かだった。

  扉の外には医官が控え、ルセルバは食事の管理を済ませて引き下がった。

  フリットは眠っていた。

  ガルグは椅子に座ったまま、微動だにせず、その寝顔を見守っていた。

  柔らかな寝息。汗ばむ額。軽く握られた手。

  そのすべてが、命の輝きに見えた。

  (……この掌から、温もりが消えることなど、あってはならぬ)

  ガルグはそっと、毛に覆われた大きな指で、フリットの頬に手を伸ばした。

  極めて慎重に、羽のように軽く、触れるか触れないかの距離で、撫でた。

  「……守らねば」

  呟いた声は、誰にも聞かれないように小さく、けれど確かだった。

  その夜、ガルグの尾は一度も揺れなかった。

  それほどに、彼は静かに、ただ静かに──祈るように、聖女の眠りを見守っていた。

  [newpage]

  [chapter:第五章:剣とドレスと]

  春の雨が上がった翌朝。王城の中庭には、柔らかな陽射しと、雨粒の残る空気が満ちていた。

  その広場の一角、石畳の上にて、少年が両腕を振り上げる。

  「はっ……!」

  掛け声と共に、木剣を振るう細い腕。

  白い袖が風を切り、儀礼用の軽装が動きに合わせて揺れた。

  「ふむ……見事にございます、聖女様!」

  褒め称える声が響く。

  それは中庭の外周、片膝をついて見守る猪獣人──将軍ガルグ・ド・バズトルのものであった。

  「ほんとうに……? へ、変なところない?」

  「いえいえ! 手首の角度、足の運び……すべてが清らか! その気品と、ひたむきな精神……っ、まさに神技でございます!」

  拍手までしそうな勢いのガルグに、フリットは少し頬を赤らめながら木剣をおろした。

  「……褒めすぎです」

  「いえ、真実を述べております! これほど華麗な剣技を“ドレス姿”で振るっていただければ、なお──」

  「ドレスは着ません!」

  即答だった。

  「え、えっ、いかんのでしょうか!? ……その、聖女様の気高さがさらに引き立つかと……っ!」

  「ガルグさんの妄想、時々こわいです……」

  ふくれっ面のフリットに、ガルグは両手をぱたぱたと振って慌てた。

  「い、いえ、失言……失礼いたしました! あの、その……稽古に集中いたします、はい!」

  しかしその後ろで、しれっと背後に現れたルセルバがひと言。

  「第五件目、“幻のドレス妄言”、記録いたします」

  「むっ!? 今のもか!?」

  「無論でございます」

  「ぬうぅぅ……!」

  ガルグは頭を抱えるが、尾は律儀に小さく揺れていた。

  ***

  この「稽古」は、フリットの体力を戻すための一環として始まったものであった。

  風邪から回復したとはいえ、元より華奢な身体。

  医官や王妃の助言もあり、軽い運動と呼吸の訓練を日課に取り入れることになったのだ。

  「……でも、なんで剣なんですか?」

  稽古の合間、汗を拭きながらフリットが尋ねる。

  「私にできることの中で、聖女様のお役に立ちそうなもの……それが剣でありました。剣はただ敵を斬るだけではございません。立ち方、呼吸、精神を整える所作すべてに、身を養う理が込められております」

  「……ほんとに、そう思ってる?」

  「思っておりますとも!!」

  即答だった。

  ガルグの目は真剣で、何一つ嘘はなかった。

  だからこそ、フリットは苦笑しつつも──木剣を握る手に力を込めた。

  「じゃあ……もう少し、頑張ってみようかな。ガルグさんが教えてくれるなら」

  「おお……!」

  ガルグの目が潤んだ。

  「そのお言葉……生涯忘れませぬ……っ!」

  そして再び尻尾が振れ、またルセルバの扇子が待っていた。

  「六件目、尻尾・訓練中暴走」

  「む、むっ……! せ、聖女様の励ましゆえ、これはやむを得ず……!」

  「事情に関わらず記録は残ります」

  「くっ……!」

  フリットはそのやり取りに、つい声を漏らして笑ってしまった。

  「ふふ……ほんとに、飽きないなあ、二人とも……」

  それは、心からの言葉だった。

  ***

  夕暮れ、訓練後の一時。

  ガルグはフリットの小さな手に包帯を巻いていた。

  使い慣れぬ剣を握っていたため、手の平に軽く水ぶくれができていたのだ。

  「……申し訳ありません、私が見守っていたにも関わらず……」

  「大丈夫。これくらい、痛くないです」

  「しかし、聖女様の手は“祈り”の力を宿す神聖な器……その御手を傷つけてしまったこと、この私……」

  「ガルグさん、また重たくなってる……」

  「むっ!?」

  やや本気で狼狽えるガルグ。

  「でもね、ガルグさん」

  「はい……?」

  「僕、ちょっと楽しかったです。……こうやって動くのも。褒められるのも。できたって言ってもらえるのも」

  包帯を巻き終えた手を胸に引き寄せながら、フリットはふわりと笑った。

  「自分の身体をちゃんと感じられるって……嬉しいなって。弱いだけじゃないって、思えたから」

  「…………」

  ガルグは、何も言えなかった。

  言葉にならぬ感情が喉をふさぎ、ただ、彼は深く、深く頭を垂れた。

  「……この身にて、支え続けます。いつかそのお力が、世界を照らす日まで。聖女様のその想い、その手、その願い……すべてを、守り通します」

  その宣誓に、フリットは少し顔を伏せ──

  「……ありがとう、ガルグさん」

  囁くように、言葉を返した。

  [newpage]

  [chapter:第六章:心が揺れる]

  春の訪れと共に、王城は外からの客人を迎える機会が増えていた。

  この日も、東の砦からの使者が到着し、城内では簡素な式典と報告会が開かれていた。

  フリットは公式の姿として白い衣を身にまとい、玉座の横に控えていた。

  聖女として、微笑みと沈黙で場を整えるその姿は、誰の目にも神聖なものに映っていた。

  しかし、その穏やかな姿の内側では、小さな感情が芽吹いていた。

  (……ガルグさん、あんなに喋るんだ)

  遠巻きに見ていた先、会議の一角。

  将軍として参列していたガルグが、若い騎士と親しげに言葉を交わしている。

  その表情はやわらかく、朗らかで、尾が控えめに揺れていた。

  (……あの人と、楽しそうに喋って……)

  どく、と胸の奥が揺れる。

  それが何なのか、フリットにはわからなかった。

  けれど、ひどく落ち着かず、呼吸が浅くなっていく。

  (……僕、変かな)

  ほんの少しだけ、自分の手を握りしめる。

  そして、その日の夜。

  フリットは寝室の窓辺に座っていた。

  風がやわらかくカーテンを揺らし、庭の灯がちらちらと瞬いている。

  その隣──窓に背を預けるようにして、ガルグが控えていた。

  「……お疲れ様でございました。今日の御役目、聖女様は本当に立派に──」

  「……ガルグさん」

  「はっ」

  「今日……誰かと話してるとき、楽しそうでしたね」

  「……!」

  ガルグは一瞬、何かを飲み込んだように口を閉ざした。

  「……あの騎士の方と。……仲がいいんですか?」

  問いかけは素直だった。責める色はない。ただ、知りたかったのだ。

  ガルグはゆっくりと頷いた。

  「かつて、同じ隊におりました。年若いながら、才覚に富み……礼儀もある。将としては頼もしい若者です」

  「……そっか」

  フリットはうなずいた。けれど、胸に刺さるものがあった。

  (どうして……こんなに……)

  そしてガルグもまた、同じように胸を押さえていた。

  (聖女様が……他の者と笑みを交わすたび、なぜか、胸が苦しい)

  神聖な存在に対して、こんな感情を抱くなど──あってはならぬことではないか。

  だが、否応なく、想いは膨らんでいた。

  そのとき──

  「記録いたします。両名とも、完全に“恋の症状”」

  ぬるりと現れたルセルバが、銀の扇子をぱたりと閉じる。

  「っ!? なっ、なんだとルセルバ!?」

  「事実です、ガルグ様。特に本日は、尾の反応が明らかに妙でした。若者と話している際、無意識に“見せ尾”が動いておりました」

  「なっ、見せ尾とは何だ……っ!? し、しておらぬ!!」

  「……ガルグさん、“見せ尾”ってなに?」

  「し、聖女様っ、それはですね……あっ、いや、これはその、誤解であり──!」

  「説明不要です。私がきちんと記録しておきますので」

  「ぬううぅ……ッ!」

  慌てふためくガルグと、冷静無比なルセルバのやり取りを前に、フリットは──

  笑ってしまった。

  「ふふ……なんか、落ち着いたかも」

  「え……?」

  「……わかんないんですけど。今日、なんだか、胸の奥がモヤモヤして。……でも、今は大丈夫です」

  窓から入り込む夜風が、二人の距離をやわらかく撫でた。

  「たぶん……ガルグさんが、誰かと仲良くしてるの見て……少し、寂しかったのかも」

  「……!」

  「……変ですよね。僕なんて、まだ子どもなのに」

  「いえ……変などでは……決して」

  ガルグはゆっくりと、心の底からの声で応えた。

  「聖女様……その感情は、愛おしさというものではないかと……この私には、そう思えてなりませぬ」

  「……愛おしさ……?」

  フリットはそっと、目を伏せる。

  心の奥で、確かに何かが形になり始めていた。

  (……ルセルバさんの言うように、これが、恋なのかな)

  まだ名前を知らぬ想いが、静かに芽吹いていた。

  [newpage]

  [chapter:第七章:王の企み、妃の微笑]

  その日は、王城の一角で静かな宴が催されていた。

  正式な式典ではなく、親しい者だけが集う小規模な夕食会。

  とはいえ、豪奢な調度と白銀の食器、香草をふんだんに用いた料理の数々は、それが王の主催であることを雄弁に物語っていた。

  長卓の上座に座すのは、もちろんこの王国の主──スマリント王。

  金のたてがみを持つ獅子獣人の王は、杯を手に、いつもよりも柔らかな笑みを浮かべていた。

  その傍らには、王妃。

  白金の毛並みを纏うその姿は、燭台の灯の下で静かに光を帯びていた。

  そして、席の左側には、聖女フリット。

  右側には、その専属護衛騎士ガルグ・ド・バズトルの姿。

  ふたりは正装を身に着け、背筋を正して座っていた。

  フリットは、慣れない空気に緊張しつつも、時折そっとガルグの方へ視線を送っていた。

  (……こうして並んで座るの、ちょっと照れるな……)

  対するガルグは、いつものごとく緊張に堅くなりながらも、尾だけが小刻みに揺れていた。

  王はそんな二人を見やり、にやりと笑う。

  「ふむ、良いな、良いぞ……ふたり並ぶと、まことに絵になるではないか!」

  突然の発言に、フリットとガルグは同時にびくりと肩を揺らした。

  「こ、光栄にございます……!」

  「っ……! お、恐れ多いです、陛下……!」

  ガルグはすかさず立ち上がりかけ、王妃の「落ち着いてくださいな」の一言でようやく腰を戻す。

  王は大声で笑った。

  「はははははっ! 堅い堅い! いやいや、良いのだ。若きふたりが信頼し合い、支え合っている様を見られるとは、王としてこの上ない喜びよ!」

  「信頼、ですか……」

  フリットが、ぽつりと呟いた。

  その響きには、どこか確かめるような響きがあった。

  「そうとも。……ふたりは互いに信頼し、必要としている。違うか?」

  「……僕は、ガルグさんがいないと、不安です」

  「っ……!」

  突然の言葉に、ガルグが目を見開いた。

  王はにやにやと笑いながら酒を飲み、隣の王妃へと視線を送った。

  王妃は、にこやかに杯を傾けたまま、優しく告げる。

  「おふたりは──とてもお似合いです」

  ……その瞬間。

  フリットの頬が、りんごのように染まった。

  「ぅ、ううっ……っ、あの、ちが、ちがうわけじゃないけど……っ!」

  「おや、否定はされないのですね?」

  王妃の微笑みは穏やかだった。

  「し、しないですけど……でも、そういうのは……っ、まだ……っ」

  言葉に詰まったフリットの横顔を見つめ、ガルグはひざの上で拳をぎゅっと握った。

  王の眼差しが、ふたりの間を往復する。

  「ふむ……ならば、そろそろ“はっきり”させてはどうかな?」

  「はっきり……?」

  フリットが小さく首を傾げる。

  そのときだった。

  「陛下、記録をご覧になりますか?」

  ぬるりと現れたルセルバが、銀の扇子と共に記録帳を差し出していた。

  「ふむ、なんだ? これは……“尾の異常運動記録”? はっはっは! これまた愉快な!」

  「主観抜きの実測記録でございます。“主の名を呼ばれた際の揺れ幅”が顕著に上昇しております」

  「ぬ、ぬおおお……ルセルバ、それ以上はやめてくれ……っ!」

  顔を真っ赤にして震えるガルグと、視線を泳がせるフリット。

  王妃がそっと一言添える。

  「きっと、ふたりともまだ戸惑っているのですね。けれど──」

  「え……?」

  フリットが振り向く。

  王妃は、その柔らかな瞳で、フリットの目を見つめた。

  「誰かを“好き”になるということは──それだけで、尊く、愛おしいことなのですよ」

  その言葉は、静かに、フリットの胸の奥に届いた。

  (……好き)

  小さく、唇が動いた。

  「……僕、ガルグさんのことが、好き……なのかな」

  誰に聞かせるでもない、囁きのような声だった。

  だが、ガルグの耳はしっかりと、それを拾っていた。

  尾が、びしっと背筋に沿って跳ね上がった。

  音が響く前に、ルセルバが背後からピシリと一撃。

  「記録済みです。“好意告白直後の尾跳ね”──一件」

  「むっ!? い、いまのは不可抗力では……っ!」

  「不可抗力も記録対象です」

  「ぐぬぅぅぅ……!」

  そんなやりとりの隣で、フリットは両手で顔を覆いながらも、小さく笑っていた。

  (……なんだろう、この気持ち)

  不思議と、怖くなかった。

  王も、王妃も、ルセルバも──

  誰も、自分のこの想いを否定しようとしなかった。

  (……あたたかい)

  心が、ゆっくりとほぐれていくのを感じていた。

  [newpage]

  [chapter:第八章:聖女の力、試練の日]

  その日は、風が強かった。

  高い空を流れる灰白の雲。城壁の旗がばたばたと音を立て、衛兵の外套が膨らんでいた。

  午前の祈祷を終えたフリットは、王城北棟の礼拝室を後にして、廊下を歩いていた。

  ガルグはいつも通り、その背後を半歩引いた距離で付き従っていた。

  「今日の風……変な感じがします」

  フリットの呟きに、ガルグの眉がぴくりと動く。

  「風の流れが変わるのは、季節の兆しか、あるいは──」

  その言葉が終わるよりも早く。

  ドオォン! という爆音が、城の南方から響き渡った。

  窓の向こう、城下の塔のひとつが火を吹いた。

  「っ!? 爆発……っ!」

  「聖女様、後退を──!」

  同時に、騒然とした気配が城内を包み込む。

  衛兵たちの怒号。地響き。鉄の靴音。剣が鞘から抜かれる音。

  ガルグはすでにフリットの前に立ち、即座に背中へ手を伸ばした。

  「このまま、背中へ──!」

  「うん、わかった!」

  フリットは何も言わず、ガルグの背にしがみつく。

  瞬間、重装の将軍は獣のごとく走り出した。

  火の手が広がる南門へ、逃げ惑う使用人たちを避け、崩れた梁を飛び越え、突き進む。

  「ルセルバ! セイム!」

  響き渡る咆哮。次の瞬間、左右の通路からふたりの姿が現れる。

  ルセルバは銀扇を携え、衣の裾ひとつ乱さず走りながら叫ぶ。

  「襲撃者複数、城内に侵入。標的は“聖女様”──!」

  「全隊、封鎖に移行。排除、死角なし」

  セイムの声は低く、鋭い。

  フリットは、ガルグの背から必死に顔を出しながら問う。

  「ねえ……標的って、僕……なの?」

  「はい。詳細は不明ですが、“聖女の力”を目的とする異端の動きが、王都で噂されていたとか」

  ルセルバの言葉に、フリットの身体がこわばる。

  「力って……でも、僕には──」

  「力など関係ない! 貴女様は、存在そのものがこの国の宝! 奪わせはせぬ!」

  ガルグの咆哮に、フリットの胸が熱くなる。

  だが──

  「っ、前方から、来ます!」

  ルセルバの声と同時に、暗がりの向こうから現れた数人の黒装束。

  「引き渡せ! その身と、その“祈り”!」

  短剣を抜いて駆け寄ってくる侵入者たち。

  それを前に、ガルグの尾が鋭く揺れ、獣のような咆哮が廊下を満たした。

  「お下がりを、聖女様……ッ!」

  ガルグは咄嗟に体をひねり、フリットを腕に抱え、背後へと降ろす。

  「……だめ……!」

  フリットが声を上げたその瞬間──

  侵入者の刃が、ガルグの脇腹をかすめ、赤い線を描いた。

  「っ──!」

  血飛沫が舞う。

  だがガルグは叫ばなかった。ただ、吠えた。

  拳が宙を裂き、黒装束の一人が壁に叩きつけられる。

  重装の甲冑をまとう巨体はなおも動き、残る敵を次々と叩き伏せる。

  「が、ガルグさん──っ!」

  「下がっていろ……! ここは、戦場だ……!」

  だが、その身体はすでに大きく揺れていた。

  肩が下がり、腹からの出血が床を濡らしている。

  「……ガルグさん、お願い、もうっ、動かないで……!」

  フリットは、思わずその背に縋りついた。

  「……死なないで……っ、お願い、お願いだから……っ!」

  その瞬間だった。

  彼の手が、勝手に動いた。

  何かに導かれるように、ガルグの傷に触れ──

  そして、祈った。

  「助けて──ガルグさんを、守って……!」

  光が、弾けた。

  その身から放たれる純白の光が、闇を切り裂いた。

  暖かく、やわらかく、そして──凛とした力が、世界を満たす。

  傷口が、ふわりと閉じる。

  血が止まり、皮膚が再生し、筋が戻る。

  その光景に、ガルグは目を見開いた。

  「……聖女様……この力は……」

  「……僕、わかんない。でも……」

  涙で濡れた瞳が、真っ直ぐに見上げてくる。

  「あなたが傷つくのが、いやなんです。……守りたいんです」

  その声に、ガルグの膝が崩れた。

  床に手をつき、呻きながら、その小さな手を両手で包み込んだ。

  「……恐れ多い……こんなにも、光をいただけるとは……」

  「ガルグさん……!」

  フリットが抱きつく。

  ガルグの肩に、額を押し当て、震える声で叫んだ。

  「……死なないで……僕が守るからっ!」

  その言葉は、聖女としてではなく、一人の少年としての叫びだった。

  一人の、誰かを好きになった人間の、涙だった。

  [newpage]

  [chapter:第九章:誓いの剣、心の名]

  春の嵐が去った後の王城には、穏やかな日差しと草の匂いが満ちていた。

  南棟の回廊には、朝露を吸った風が吹き抜け、遠くで鳥のさえずりが聞こえる。

  その一角にある静かな庭園。

  紅葉した常緑の枝が控えめに揺れる中、白い長椅子の上に、ひとりの少年が座っていた。

  膝に開かれた書物は、もう数分動いていない。

  視線はそこにない。彼は、誰かの姿を待っていた。

  そして──

  重い足音と、鉄の擦れる音が、石畳に響いた。

  「……ガルグさん」

  フリットの声は、ささやくようにやわらかい。

  その声音に、ゆっくりと近づく影があった。

  護衛騎士、将軍ガルグ・ド・バズトル。

  傷は癒えた。だがその歩みには、今までとは違う、何か深い思慮があった。

  「お待たせいたしました、聖女様……」

  「ううん。僕、ずっと……話したかったから」

  フリットは、そっと腰を浮かせて向き直る。

  ガルグの甲冑が、きしむ音と共に止まった。

  「その、ガルグさん」

  「……はい」

  「この間、助けてくれて……ありがとう。あの時、ほんとに、怖かった。……でも……それ以上に、あなたが傷ついたのが怖かった。……僕……震えて、どうしようもなくて……」

  吐き出すように、言葉が続く。

  「あなたが、いなくなってしまうんじゃないかって、思って……」

  小さな拳が、ぎゅっと握られる。

  「……その時、ようやく気づいたんです。僕は──」

  一度、目を閉じる。

  そして、正面から見上げるその瞳は、何よりもまっすぐだった。

  「僕は……ガルグさんが、好きです」

  その言葉が落ちると同時に、空気が澄んだ。

  沈黙の中、甲冑の男は、その場に膝をついた。

  耳まで赤く染まり、尾が跳ね上がりそうになるのを必死に抑えつつ。

  「っ……聖女様……もったいなきお言葉……!」

  頭を下げるその姿は、戦場の咆哮ではなく、恋に打たれたひとりの男のものだった。

  しかし、フリットはそっとその肩に触れた。

  「ねえ、もう“聖女様”って呼ばないで」

  「え……?」

  「あなたにだけは、名前で呼んでほしい。……“フリット”って」

  その一言に、ガルグの尾が反射的にバサッ!と振り上がる。

  ──ピシリ。

  音もなく現れたルセルバが、すかさず尾を叩いた。

  「“恋人呼称切替後の尾跳ね”──記録いたします」

  「むっ!? お、お主、いつの間に……ッ!」

  「常に拝見しております」

  「ぐぬぬ……!」

  そのやり取りの背後で、フリットはくすりと笑った。

  そして──

  「……名前、呼んでくれますか?」

  その願いに、ガルグは深く息を吸い──そして、ゆっくりと言葉にした。

  「……フリット」

  その声は、かつての戦場でも、王の前でも見せなかったような、深い優しさに満ちていた。

  フリットは頷き、そっと手を差し伸べる。

  指先が触れ、甲冑の手がそれを包む。

  「じゃあ……これからも、僕の隣にいてくれますか?」

  「はい。あなたの命が尽きるその日まで──いや、この魂が在る限り、フリットの傍に」

  ふたりの手が、強く、重なった。

  その結びこそ、主従を超えた“誓い”であり、名実ともに恋人となった瞬間だった。

  [newpage]

  [chapter:第十章:再び並んで]

  王城の朝は、いつもよりゆっくりと始まった。

  中庭には、早咲きの花々が開き、白い光が石畳を照らしていた。

  空気は澄んでいる。鳥の声も心なしか柔らかく響く。

  その庭の端に、剣を持ったふたりの姿があった。

  「……せいっ」

  細い腕が木剣を振る。白い衣をまとったフリットの身体が、しなやかに空を切った。

  「良い姿勢です。肩を力ませず、背筋をもう少しだけ伸ばして」

  「う、うんっ……こう、かな」

  すぐそばには、ガルグの大きな影。

  鋼の如き背中に身を包みながら、表情はあくまで優しく、視線はフリットに注がれていた。

  その視線には、かつての“主を守る将”という張り詰めた緊張はない。

  代わりに、そこには──深い親愛があった。

  「一度だけ、受け止めてもらってもいいですか?」

  「……え?」

  「剣を。僕の……全部を、あなたに向けてみたい」

  ガルグは驚いた顔をした。だが次の瞬間、真剣な顔で頷く。

  「……その覚悟、確かに受け止めましょう」

  フリットが木剣を構えた。

  風が止まる。木々も耳を澄ますように動かない。

  そして──

  「……はああっ!」

  振り抜いた一撃が、ガルグの掌で、そっと止められた。

  「…………」

  数秒の静寂。

  ふたりの視線が交錯し、やがて、静かな笑いが漏れた。

  「手、痺れてない?」

  「いや。……むしろ、愛しさが溢れすぎて尾が勝手に」

  バシィ!

  どこからともなく現れたルセルバの銀扇が、音もなく尾を一閃。

  「“過剰愛情による尾反応”──記録いたします」

  「むっ!? ま、またか……ッ!」

  「見ておりますので」

  「毎度ながら……なぜ見ている……!」

  そのやりとりを、フリットは笑って見ていた。

  ***

  夜。部屋の灯が、やわらかに揺れていた。

  広めの間取りに、二つの寝具。

  だが、今夜は──

  「ほんとうに、こっちでいいの?」

  「はい。護衛としての配慮というのなら、最も近い距離が理に適う」

  「恋人としては?」

  「……それもまた、理由に加えていただきたい」

  言ってから照れくさそうに視線を逸らすガルグの姿に、フリットはそっと笑った。

  ベッドを並べて横になり、互いの顔が見える位置に身体を寄せる。

  灯火の揺らぎが、ふたりのまなざしを照らす。

  「……こうしてると、安心します」

  「私も、でございます」

  「……ずっと、傍にいてくれますか?」

  囁くようなその声に、ガルグは力強く頷いた。

  「この魂がある限り、フリットの隣に在り続けます」

  沈黙の中、毛に覆われた手が、そっとフリットの指を包み込む。

  それは、戦場ではなく、日常の中にある“誓い”だった。

  明日もまた、同じ場所で目覚めるために。

  声をかけ合い、微笑みを交わし、名を呼び、名を返す日々のために。

  [newpage]

  [chapter:終章:ふたりの聖域]

  時は過ぎる。

  季節が巡り、国は安寧を保ち、人々は穏やかに暮らしていた。

  城を囲む森が金に染まり始めたある日、山上の聖域では、荘厳なる儀式が静かに執り行われていた。

  風は清らかに、空は限りなく高く、白銀の石段が朝陽を浴びて光っていた。

  その最上段。

  ひとりの若者が、白い衣をまとい、祈りの姿勢を取っている。

  彼の名は、フリット。

  歳月を経ても、華奢な体つきと繊細な面差しはそのままに、静かな威厳を湛えた佇まいへと成長していた。

  声は少し低くなり、言葉の端に確かな自信が宿るようになった。

  祈りを終えると、彼はふと顔を上げ、境内を見下ろした。

  「……よし」

  優しく微笑み、白衣の裾を整えて立ち上がる。

  すると、その後方──

  巨大な影が音もなく控えていた。

  「おつかれさまでございます、フリット」

  響いた声は、温かく、懐かしい低音。

  そこに立っていたのは、変わらぬ風格と鋼のごとき体躯を持つ、猪獣人の男──ガルグ・ド・バズトル。

  甲冑こそ簡素になっていたが、その背筋は微塵も緩まず、銀灰の毛並みに時の重みを刻んでいた。

  そして、その尾は──

  「……ぐ、ぬぬ……っ」

  ぶんぶんぶんっ

  「ガルグ、尾が暴れてる」

  「し、失礼を……っ! 聖域というのに、己を制せぬとは……っ!」

  「ふふっ」

  すかさず──

  「“神域での感情尾反応”──記録いたします」

  「むっ!? ま、まだ続けておるのかルセルバッ!」

  木陰にぬるりと現れた黒猫のメイド長が、扇子をひと振り。

  どこまでも冷静に、気配を消す技はまったく衰えていなかった。

  「もちろんでございます。“ふたりの関係”が続いている限り、私は記録をやめることはありません」

  「くっ……もはや宿命か……」

  「定めでございます」

  そんなふたりのやり取りを、フリットは小さく笑いながら見守っていた。

  そして、歩み寄る。

  「ガルグ」

  「……はい」

  「手、貸して」

  差し出された小さな手に、迷いなく自分の大きな掌を重ねる。

  それは、かつて震える少年の手を包んだあの日と、まったく同じぬくもりだった。

  「……変わらないね、ガルグは」

  「フリットも、です。……清らかで、まっすぐで」

  「そうかな……」

  ふたりは並んで歩く。

  儀式を終えた祭壇を背に、聖域の小道をゆっくりと下っていく。

  その道は、誰もいない静かな回廊。

  風の音。鳥の声。落ち葉の気配。

  すべてがふたりだけの世界を作っていた。

  「ねえ、ガルグ」

  「はい」

  「ずっと、変わらずにいてくれて、ありがとう」

  「……それは、私の方こそ」

  少しだけ言葉を切り、視線を落とす。

  「この命があなたに与えられたものなら……私は、何度でも同じ道を選びます」

  そのとき、フリットは歩みを止める。

  そして、そっと顔を上げた。

  その目に、かつての不安はない。

  「この世界で──」

  彼は言った。

  「いちばん安心できる場所は、あなたの隣だった」

  ガルグは、ひとつだけ深く息を吐き、

  胸の奥から、ゆっくりと、その手を取った。

  「私にとっても、それがすべてです」

  ふたりは、黙って歩き出す。

  重なる足音。手のぬくもり。風の流れ。

  この世界に聖域があるのなら、

  それは、決して石造りの神殿ではない。

  “ふたりが並んで歩くその場所”──

  そこが、永遠の聖域だった。

  (終)

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