人をやめて皮を残し、竜となって皮を被る

  閑静な住宅街に建つ木造二階建ての一軒家、それなりに広い家の中で勉強をしながら静かに過ごす。

  ここには、自分以外には誰もいない。本当は四人家族なのだけど、共働きの両親は先月から長期の海外出張をしていて、姉は少し前から出かけていて帰ってこないのだ。

  一人きりになって最初の頃は、早めの一人暮らし体験ができると思って、密かに胸を躍らせたものだ。

  でも、この家は一人で使うには広すぎるし、誰かといっしょに過ごすのがこの家での当たり前だったので、今では奇妙な寂しさばかりを感じている。

  諸々の不安をごまかすために、あまり熱心にはやってこなかった学業に打ち込んでいた。

  問題集を解き終えて自己採点をしていると、玄関の方で物音がした。それは小さい頃から聞き慣れた、玄関扉が開閉したときの音だ。

  チャイムは鳴っていなかったし、扉には確かに鍵をかけていた。一体なにごとなのだろうか、誰が家に入ってきたというのだろうか。

  もしかして泥棒とかが扉をこじ開けて入ってきたのではないか、などと想像をしながら、早歩きで居間を出て玄関ホールに出る。

  「え、姉貴!?」

  「ああもう、やーっと帰って来れたよ。ただいまー」

  来訪者の正体は、数日前から行方知れずになっていた姉だった。ややくたびれた感じで『いつもの』ただいまのあいさつをしてきた。

  いつも身に着けている肩掛けバッグを持っていない。その他にも何かを持っているように見えない。何日もの外泊帰りのはずなのに、なぜか手ぶらだ。

  服はやや薄汚れているうえに、ボタンがいくつか飛んでいたり少し破れたりしていて、見るからに乱れている。

  ちゃんと手入れしているはずの髪の毛も、毛先がはね放題でみすぼらしい。

  山で数日ほど遭難して生還しました、といった疲れた人のナリである。

  「ちょ、なんで。連絡はぜんぜん取れなかったし、なにがあったんだよ?」

  思いがけないタイミングでの帰宅に、つい声を荒げて問い詰めてしまう。

  姉は出かける前に、一泊二日程度の短い旅行に行ってくると言っていた。だが姉は、二日経っても三日経っても帰ってこず、それでいて連絡を入れてくることもなかった。これまでは予定が変われば、一報くらいは入れてきたというのに。

  不審に思ってこちらから連絡をとろうとすると全然繋がらなかったので、なにかトラブルに巻き込まれたのでは、と不安に思い続けていた。

  あと一日帰ってくるのが遅かったら、警察に捜索願を出しに行っていたかもしれない。

  「ああ、いろいろあって。説明はあと。シャワー、すっごくシャワー浴びたい」

  「おまえちょっと、って……?」

  姉は質問に答えず家に上がろうとしてくる。

  人を散々心配させておいて、謝罪の一言すらなく風呂を優先するとは何様のつもりなのか。姉の素っ気ない態度に少しイラっときたので、姉を止めるべくその肩に手をかけようとする。

  だが、間近で姉の顔を見ると強烈な違和感を覚えて、手を止めてしまった。

  その顔も、その声も、その雰囲気も、姉そのものだ。間違いなくそうなのだけど、なにかが違う。

  生まれたときから同じ家で暮らしてきた実の姉のことだからこそわかる。水に一滴の酢が混ざったかどうかというくらいの、ほんの些細な違いだ。

  姉の顔は、服装の乱れのわりに汚れ一つついていない。その肌に血色や張りが微妙に足りていない気がする。顔の動きが微妙に硬くてぎこちない気もする。

  精巧な変装マスクでも被っているかのように感じる。作り物であるかのような嘘くささを感じる。

  でも、そんなことはあり得ないはずで。

  それと、においが違う。どことなく変なにおいがする。鉄臭さのようなものが混じる、異質な生臭さが微妙に漂っているように感じる。

  人というより野生の獣のような臭いを放っている、そんな気がする。

  でも、そんなことはあり得ないはずで。

  この違和感はどこから来るのだろうか。

  にわかに混乱して固まっている間に、姉はさっさと浴室に入っていってしまった。

  [newpage]

  姉が帰ってきてから少しして。居間に戻って勉強の続きをしようとしたのだけど、気が散ってしまって問題集を一頁も進めることができなかった。

  姉の顔を間近で見たときの違和感が頭にこびりついて離れないからだ。

  ただの気のせいで片付けることが、どうしてもできない。何かがおかしい姉の顔が目に焼きついて消えやしない。

  いったい姉に何があったというのだろうか、いや、あれは本当に姉なのだろうかと、否応なく考えてしまう。

  胸の内がどんどん気持ち悪さで満たされていって、やがてそれがあふれ出すと、勝手に姉がいる浴室のほうへと向かいだしてしまった。

  音を立てないよう慎重に扉を開けると、カタツムリのようなすり足で密かに脱衣所へと入る。

  曇りガラスの扉の向こうにある浴室は暖色の照明で煌々と照らされていて、湯が勢いよく出る水音が響いている。姉はシャワーを浴びている最中のようだ、おかげで音に紛れて動くことができる。

  辺りを軽く見回すと、洗濯機の側に洗濯籠が置いてあるのを見つける。

  その籠に入っているものを見た途端、喉を握り潰されたかのようにして息が止まった。

  女物の服に混ざって、人の髪の毛が付いている人肌の色をした何かが、籠に放り込まれているのだ。

  呼気が震える、心臓が早鐘を打つ、冷や汗が浮き出てくる。

  勝手に笑いだす膝を必死に支えながら慎重に籠へと寄っていって、その何かの髪の毛部分を摘まんで持ち上げてみる。

  それは、人間の頭部分のマスクだった。

  他にも人肌の物体があるので、柔らかなそれの端を恐る恐る摘まみ上げてみると、着ぐるみのごとき人の皮が出てきたので絶句した。

  浴室のほうに目を向ける。曇りガラスの向こうで姉がシャワーを浴びている様子が見える。

  姉はあんな色をしていただろうか。全身がまんべんなく赤色になっている。

  姉はあんなに大きかっただろうか。大柄な男よりもずっと大きく見える。

  姉はあんな形をしていただろうか。四肢以外の何かが動いている。

  そして獣のような鳴き声が、薄い扉越しに届いてくるのだ。

  この扉の向こうに、人ではない何かがいる。でも、シャワーを浴びているのは実姉のはず。ならば今、浴室にいるのは何だというのだろうか。

  恐ろしい予想が頭をいっぱいに占めてきて、居ても経ってもいられなくなる。早くここから逃げ出したい。

  ほんのわずかな物音も立てないよう、慎重に脱衣所をあとにした。そこで頭の皮を手放さないのが何故かは、自分でもわからない。

  [newpage]

  脱衣所から居間に戻り、ソファに深く座って一息つく。そして、人の頭のマスクを片手で摘まんで持ち上げる。

  つい持ち出してしまった。もしこんなことをしたと姉にバレたら、恐ろしい目に遭うことは想像に難くない。

  すぐにでもコレを戻しに行くべきだと強く思うのだけど、あそこに戻ることがそれ以上に怖い。

  だから、コレを戻すのは気持ちの整理がついてからにしよう。自分自身に言い聞かせるようにして無理やり結論づけると、マスクの観察を始めた。

  このマスクの顔は、姉の顔だ。その皮は、マスクとは思えないほどの厚みがあって、生きた肌であるかのようなみずみずしさを持っている。

  血管が通っている皮膚の感触は柔らかで、そして人肌の暖かさをもっている。このぬくもりは、どこから発しているのだろう。

  まぶたや唇や耳なども、本物を触ったかのような肉感がある。こういう末端部分は造りが少し荒くなるものだと思うのだけど、そんな感じはまったくない。

  さらにまつ毛や髪の毛などが、産毛の一本一本に至るまで、皮膚の中から自然な感じで生え出てきていた。

  手にとって間近で観察しているからわかる。これはシリコンや粘土などではない、本物の人間の皮だ。そうだとしか思えない。

  まるで人間から皮をはぎ取って、そのまま加工したかのようだ。

  これを作る過程を想像したら気分が悪くなったので、頭を振って嫌なものを追い払う。

  マスクのふち部分を広げて、内側を見てみる。

  肉の赤身を思わせる鮮やかな赤色をしていて、光を当てるとてかっているように見える。指先を当てた触感も見た目通りでヌルヌルしている。

  なぞった後の指先を見ると、透明な粘液で少し濡れていた。何の汁なのかは考えたくもない。

  もしこれを被ったら、一体どんな事が起きるのだろうか。一瞬だけそんな気色悪い考えが脳裏をよぎって、また気持ち悪くなったので慌てて頭を振った。

  まったくバカなことを考えるものだと、自分のことながら他人事のように呆れてしまった。

  と、そのとき。浴室の方から扉が開く音を聞き取る。そして手に持っている皮のことを思い出したとたんに心臓がきつく握りしぼられて、心底震えあがるような戦慄を覚えた。

  しまった、姉が風呂からあがるのが、いつもよりもずっと早かった。頭の皮を持ち出してしまったままだ。

  どうしよう、本当にどうしよう。ここから逃げるか、しかしどこへ逃げればいいというのか。アレから逃げることなどできるのか。

  完全にうろたえてしまって動けずにいるうちに、姉が脱衣所から出てきて、早足で自分がいる居間へと向かってくる。

  その足音が異様なほど重々しく、一歩踏み出すごとにガチガチと堅いものが床に当たる音がする。

  足音からして人間のものとは思えない。それがより吐き気をもよおす恐怖心を煽ってくるのだ。

  果たして居間の扉が激しく開け放たれる。ついに姉の中身がこの場に姿を現した。

  隆々とした筋肉をもつ身体は、虎やライオンといった大型の猛獣を思い起こさせるが、それらよりもさらに体格が良い。

  その立派な体躯を支える四肢も相応にたくましく、四本に分かれている足指からは刃物のようなかぎ爪が伸びて床に食い込んでいる。

  全身の肌は真紅に輝く鱗でびっしりと覆われていて、人が持つべき柔らかな皮膚はどこにも無い。

  長くて太い首の先に乗る頭は吻が長く突き出て、口を閉じても収まりきらない牙が列をなしているトカゲ顔だ。

  尻からは筋肉質な尾が生えている。先端ほど細くなっていく、爬虫類の尻尾である。

  肉食の哺乳類と爬虫類を掛け合わせたかのような姿の四足獣だが、ただの獣ではない。

  その頭は王冠のごとき立派な角や無数の棘によって雄々しく飾り立てられていて、背中には広大な皮膜をもつ翼が誇らしげに広がっている。想像上の物語に出てくる西洋竜そのもの姿であった。

  「グルルルルル……」

  変わり果てた姿の姉は、縦割れの瞳孔を持つ獣の目をぎょろぎょろと動かして睨みつけてくると、恐ろしく凶暴そうな形相で野太い唸り声をあげてくる。

  そして吻を開いて牙の群れを剥き出しにすると、獣の咆哮とともに人間の言葉を、姉とまったく同じ声で抗議を始めた。

  「グアオッ! ちょっと、私の皮を勝手に持っていくなんて、どういう神経してんの!?」

  大柄な体からは想像できない俊敏な動きで駆け寄ってくると、持っている皮を口でくわえて奪い返してきた。

  瞬間移動のごとき目にもとまらぬ速さなので、反応すらできない。

  「グルルルゥ! 次にこんなことをしたら、ぶん殴ってやるからなっ!」

  そして苛立ちの言葉を残すと、ドスドスと乱暴に足音をたてながら居間を出て、尻尾で扉を閉じると脱衣所へと戻っていった。

  普通に怒られただけなので、逆に呆気にとられる。

  人間の形をまったく留めていない化け物が、姉とまったく同じ声で怒声をあげてきた。あれが自分と血の繋がりのある姉のようなのだ。

  これはどういうことなのか。姉の身に何が起こったというのか。なにがあればああなるというのか。

  意味がわからない。超常現象を前にしては理解がまるで追いつかず、ソファの上でへたり込んだまま呆然とせざるを得ない。

  しばらく放心していて、人間の皮を被り直した姉が、雑な手つきで肩をゆすってきたところで我に返ったのだった。

  [newpage]

  お互いに床の上に座って、風呂上がりの姉と向かい合う。

  今、目の前にいる姉の姿は被り物で、その皮の下には怪物の姿が隠されているということがわかっている。改めて見ると、この姿がはっきりと作り物であるのだとわかってしまう。

  あの恐ろしい怪物の姿を思い出すと、話しかけることを尻込みしてしまう。少しでも機嫌を損ねれば即座に皮を脱いで喰い殺しにかかってくるのではないかと勘ぐってしまう。

  それでも、確認をしなければならない。

  出かけている間になにが起きたのか、どうして人間ではなくなったのかを、その口から教えてもらわなければならないのだ。

  だから、覚悟を決める。力づくで恐怖心を抑え込んで、唾をごくりと飲み込んだあと、精一杯の力を込めて口を開いた。

  「さっきはごめん。でも、その、なんで。さっきの姿は……」

  「うん、本当にいろいろあったから。順を追って話すよ」

  自分とは対照的に落ち着き払っている姉は、変貌する前から長年にわたって聞いてきたものとまったく変わりない声で答える。

  だからこそ不気味なのだけど、今のところは敵意を見せていないのだから、ここはぐっとこらえて余計なことは言わずにおく。

  「旅行に出かけた最初の日のことね。夕方になってから、ちょっと人気のないところを歩いてたんだけど、そこで変な野郎に声をかけられたと思ったらいきなり襲われてさ、無理やり車に押し込まれたんだよ」

  「は?」

  出だしから予想外な話が飛び出てきたので、思わず間の抜けた声を漏らしてしまう。

  「そいつに荷物を全部取り上げられて、どっかに持っていかれて。だから誰にも連絡を取ることもできなくなって」

  「ああ、そういえば確かに、いくら電話をかけても電波が届かないってなったなあ」

  「それからどこかの廃屋に連れていかれてね、そこであいつに『死にたくなかったら騒ぐな』って刃物を突きつけられたんだ。それから何日もあいつに殴られたり蹴られたり、やりたい放題されてたよ」

  まさかの強盗拉致監禁事件である。普段だったら冗談だと思って一笑に伏すような話だけど、ここまでの出来事を考えれば大真面目に話を聞かざるを得なかった。というか、聞くのがちょっと怖いまである。

  ところで、姉の語り口調は相変わらず淡々としていて、表情にも変わりがない平静そのものである。

  心に一生ものの傷を負うこと間違いなしの話だし、もう少し辛そうにするものではないかと思うのだけど。姉はどういう想いで語っているのだろうか。

  「ああ、きっと助かることはないんだろうなあって、あのときは本当に絶望したね」

  「でも、こうして助か……? ……助かったんだろ。うまく逃げることができた?」

  「いや、助けてもらった」

  「誰に? 近所の人? それとも警察?」

  普通に続きが気になるのでこちらから尋ねてみると、そこで姉は落ち着いた様子から一転して明るくなり、威勢よく張り上げた声で語りだした。

  「それはね、神様だよ!」

  「は? なにがなんだって?」

  「神様は神様。神様が私を助けてくれたんだよ!」

  「はあ、そう、神ね……」

  どす黒い陰惨さをにおわせる事件の話をしたと思ったら、なんか今度はファンタジー系の話を始めてくれた。

  姉が帰ってきてから状況が二転三転しているせいで頭がついてこられていないので、生返事せざるを得ない。

  「あいつに頭を蹴られて気を失ったときにさ、竜の姿をしてる神様が夢枕に立ってね、私のことがかわいそうだって言って血を分けてくれたんだ。それで私を神様の眷属に……竜にしてくれたんだよ。

  夢から覚めると体が変わってたことを感じたから、皮を脱いでみたら、この素ン晴らしい種族になれたわけ!」

  アジ演説をするかのごとき熱烈さで高らかに語る姉は、両手で頭を持つと、引き抜くようにして頭の皮を脱ぎ去った。

  人間大の皮のなかにどうやって収まっていたというのか。胴体ほどの長さがある太い首と、人間の頭の倍近くはある大きな爬虫類の頭部が、胴体からズルズルと生え伸びるかのようにして出てきた。

  「グゥアァ……」

  姉は牙だらけの裂けた口を何度か開け閉めしたあと、鎌首をもたげて鱗だらけの顔をこちらに向けてきた。

  首から上だけが大きな竜で胴体は小柄な人間のままという、子供が描いた戯画みたいにアンバランスな姿だ。

  これを気味悪いと恐怖するべきなのか、シュールだと笑うべきなのか。誰でもいいから教えて欲しい。

  「そ、その、それで……姉貴をさらった犯人は、どうなって?」

  「もちろん踊り喰いにしてやったよ」

  「いや、もちろんって……」

  「悲鳴をあげさせないように喉をつぶして、できるだけ長く苦ませるように手足から肉と骨を少しずつかじり取っていって……」

  姉は人外顔でも一目でわかるほどの歪んだ笑みを作ると、ものすごく剣呑なことを抜かしてくれる。

  そんな残酷すぎる処刑について楽しそうに語られても反応に困る。

  「人間は初めて食べたけど、すごくおいしかったなぁ。もっと食べたいなあ……グルルルル……」

  姉は獣の目を欲望でギラギラと光らせ、だらしなくよだれを垂らしながら荒く息をつきだす。

  その吐息からは人間では絶対にありえない獣臭さと、そして血臭を嗅ぎ取ることができた。最初に感じた異臭の正体はこれだったか。

  今の姉からは見た目通りに人間らしさがまったく感じられない。一つ間違えると容赦なく喰い殺しにかかってくるのではないかと考えると背筋に寒気が走った。

  「おっとっと、つい本能が。それで廃屋から脱出できたから、丸一日かけてここに帰って来たってわけ。はい、めでたしめでたし!」

  はっとして我に返ったらしい姉は、やや早口で一気に語りきると、楽しい話を終えるようにして手を二度打った。

  そっと額を手で押さえ、やりきれない思いとともに天井を仰ぐ。もう、本当にいろいろがあり過ぎていて、もう言葉が出ない。

  波乱万丈と言うか荒唐無稽と言うか。もう、なんて声をかければいいのかわからなかった。

  「竜はすごいよ。グルルルルものすごく力が強いし、頭の回転がとても速いし、空だって飛ぶことができる。それでいて人間の皮を被り直せば、完璧に人間のふりをすることもできるんだよ」

  浮かれた様子を継続中の姉は、今の体の良さを語ってくると、長い首を伸ばして顔を間近に向けてきた。

  厳つい鼻面を寄せて、感情に乏しい爬虫類の目でじろりと睨まれる。睨んでいるつもりはないのだろうけど、ただ見つめられるだけでも強い威圧感がある。

  人語を発するごとに動く牙の数々は、至近距離で見ると全てが研がれた針のような鋭さなので、命の危機的なものを感じてしまう。

  「私、この感動をあんたにも分けてあげたい。いや、分ける。分けてあげる。分けられろ」

  いきなり天地がひっくり返った。

  わけがわからないまま勢いよく仰向けに倒れて背中を軽く打ってしまったので、視界が暗転するとともに激しくむせてしまう。

  圧迫された胸をむりやり広げて呼吸を整えて、震えるまぶたを無理やり開いてみると、馬乗りになってきている姉の姿が目に入った。人外の顔で見下ろしてきながらグルグルと猛獣のように喉を鳴らしている。

  「ちょ、な、なにを」

  首から下は細身の女性という見た目に反して異常に重くて、どれだけ力を入れても上半身がまったく持ち上がらない。身をよじっても足を上げても、なにをしても無駄だった。

  「暴れるな」

  姉は大きな口を開けて先が二股に割れた舌を出してくると、喰らいつく勢いで唇に口先を合わせて、肉厚な舌をねじ入れてきた。

  舌を伝って熱湯のように熱い液体が喉へ流し込まれる。反射的にむせて吐き出そうとするのだけど、姉は片手で口と鼻を無理やり閉じて、吐くのを止めてくるのだ。

  喉が行き場を失った息で張り裂け、熱い液体で焼かれることで、意識が飛びかねないほどの苦痛にさらされる。

  死ぬ、死んでしまう、とばかり思っていたら、その痛みがぱっと引いて、嘘みたいに何も感じなくなる。

  そこで姉は口を離した。

  満足そうな顔をしてこちらを見ている姉は、長い舌であご全体をべろべろと舐めまわしている。

  「はあっ、はあ……なんなんだよもう……」

  何度か咳をして乱れきった息を整える。

  いきなり暴行をしてきたことに文句を言うが、姉は大きく裂けた口を不気味に釣り上げると、楽しそうに告げてきた。

  「神様にもらった血を、あんたにも分けてあげた。グルルッ、あんたも竜になるんだよ」

  「えっ……」

  姉の言葉への理解が追い付く前に、体がひとりでに震えだすと酸欠にでもなったかのように苦しく、一気に気が遠くなっていって、あっけなく意識が途切れた。

  [newpage]

  夢を見ている。

  現実感がまったく無いこの感覚、壁も天井も何も無い空間で一人だけで立っている謎の状況、これは夢だとはっきりとわかる。明晰夢というやつだろう。

  体の中でなにかが動き回って肌が波打ちだす。筋肉が強張り、骨がバキバキ鳴って、体が見えない糸に引かれるようにして勝手に暴れまわる。

  よくわからない感覚が通り過ぎて体の暴れが落ち着くと、全身がムズムズして服を脱ぎたくなってきた。

  上着を脱ぐ、ズボンを脱ぐ、下着も脱ぐ。生まれたままの姿になってもなお脱ぎ足りない。とくにうずいている首の後ろに手をかけ、さばいた魚の腹を開くようにして両手で引っ張ると、ずるりと粘質な音をたてて皮膚が剥がれる。

  ツナギのようになった全身の皮を脱ぎ捨てることで、ようやく満足できた。

  皮の中から出てきた体は、赤い鱗でびっしりと覆われていた。鱗の下からでもわかるほどに筋肉が盛り上がっていて、重量感のある体型になっている。

  堅い鱗は一枚一枚が研磨された石や金物のようにツヤツヤしていて、素直に綺麗だと思う。

  自分の鱗に見惚れていると、全身から異音がたつとともに体が震えだして、また皮膚がムズムズしてきた。

  服も皮も全部抜いたはずなのだけど、もう一度脱ぐことができると思う。最初と同じように首後ろに手をかけると、また皮膚が剥がれだした。

  古い皮膚から足を引き抜くと、長く伸びた指にかぎ爪のある人外の足が出てきて、足指でしっかりと床を掴んで立つ。

  手も引き抜くと、足ほどではないけど鋭そうなかぎ爪が生えていて、とても力強そうだ。

  手足や胴体や首など、体の部品の大きさや長さの比率がやや変わっている、人間とは違う体型になっていた。

  体のうずきは止まらないので、さらにもう一枚皮を脱ぐ。すると体の重心が急に変わって立っていられなくなり、勢いよく床に手を突く。

  手の指は太く短くなって、指の数が一本減っている。幅が狭くなった肩は付け根が胴体の前方に移動しており、骨格からして獣の前足になっている。

  やや短くなった足は、踵が長く伸びてつま先立ちをする獣の後ろ足そのものになっていて、足の指も手と同様の四本指に変化している。

  そして股の間から太くて長い尻尾が生えていて、自分の思い通りに動かすことができる。今までにない感覚なので、ちょっとおもしろい。

  視点が自分を後ろから追う三人称視点に変わる。

  自分が皮をもう一枚脱ぐ。昆虫が脱皮するようにして古い皮の背中が破れると、そこから大きな翼が飛び出す。皮膜を持つ翼を大きく広がって宙を打ち、まとわりついている粘液を振り払う。

  皮の中から出てきた頭は首がぐんと長く伸びて、首と同様にあごも長く突き出る爬虫類の顔になっている。

  耳よりも裂けた口を開いて、大きく息を吸って吐くと、口から爆炎が出てきて何もない空間へと拡散してゆく。

  体のうずきはもう感じていない。

  尻尾を振り下ろして、強靭な四肢で地面を踏みしめる。翼を羽ばたかせる。長い首を持ち上げて空を見上げると、翼を広げて何もない空へと舞って、どこかへ飛んで行く。

  そこで夢は終わった。

  自室のベッドの上で目が覚める。手を上げて目の前まで持ってくると、五本の指を持つ人間の柔らかで弱そうな手が見える。でも、夢の中のように指が四本であるように感じる。

  尾の感覚があるのに、尻尾を振ることができない。翼の感覚があるのに、羽ばたくことができない。この体はなんて不自由なのだろうか。

  ギシギシと頼りない悲鳴をあげながら揺れるベッドから降りる。頭頂部から足先まで、全身がむずむずする、この余計なものを早く全部脱ぎたい。

  服を脱ぐ。下着も脱ぐ。肌も脱ぐ。

  足部分を脱ぐと、鱗で覆われた後ろ足と尻尾が出てくる。背中部分を脱ぐと翼が出てくる。手を脱ぐと鋭いかぎ爪のある四本指の前足が出てくる。頭部分を脱ぐと長い首が出てくる。

  こうして皮が全部剥がれると、ようやく自由の身になった。

  首を回して一皮むけた体を眺めてみる。

  この屈強な筋肉と真紅の鱗で覆われている力強い体は、脆弱な人間など比較にならない力で満ちている。

  肉を容易く引き裂けるであろうかぎ爪を持つ四肢、骨を軽々とへし折れるであろう筋肉質な尾、万里を超えることができるであろう優美な翼、なにもかもが素晴らしい。

  途方もない解放感に、恍惚のため息とともにゆるく炎を吐いた。

  と、そこで盛大に腹の音が鳴る。人間から竜になるために養分を使い切ったので、胃の中がスッカラカンだ。今すぐ適当な肉を食べて力を補給したい。

  そう思っていたら部屋の外から肉の匂いを嗅ぎ取る。示し合わせたかのようなタイミングだけど、何より重要なのは今すぐ飢えをしのぐことである。狩りをするときは何事も迅速に、だ。

  小さなノブを握りつぶさないようにひねってドアを開け放つ。速やかに部屋から出て肉の匂いがする居間へと駆け足で向かう。

  「おはよう。おー、立派になったじゃない」

  居間に入ると、皮を被って人間の形をしている姉が前足を、いや、手を振って迎えてきた。

  「進化したばかりだからお腹、かなり減ってるでしょ。ほら、肉をたくさん買っといたから、たーんと食べな」

  「お、気が利く」

  姉の足元に置いてある大皿の上に、牛や豚や鳥など様々な種類の肉が山のように盛られている。姉は足で皿を押してこちらに差し出してきたので、すぐさま駆け寄って、遠慮なくがっつくことにした。

  肉に牙を食い込ませて、長い口吻いっぱいにくわえては呑み込む、くわえては呑み込む。やはり肉は良い、こうして何も考えずに喰っているだけで幸せな気持ちになれる。

  欲を言えば生き餌が、そうでければ仕留めたての血が滴っている肉の方が良いのだけど、そういうのが欲しければ自分で狩りをしろという話なのだから文句は言わない。

  山盛りの肉を三十秒で平らげる。満腹とはいかずとも、腹五分目程度までにはなれたので、とりあえず満足だ。

  「グルルッ、ところで姉貴」

  「ん?」

  口まわりについた肉片と油を舌で何度も拭ってから、生の骨付きチキンを骨ごとかじっている姉に呼びかける。貧相な人間の格好で、頭くらいの大きさがある肉を軽々と食いちぎっているので、なかなか豪快な絵面である。

  「なんで人間の皮なんて被ってんの? そんな窮屈なもんを着る必要はないんじゃないの?」

  「そりゃ、ここは人間用の家なんだから、人間の姿でいないと。あんたもちゃんと皮を被るのに慣れておきなよ、人間の町で暮らすなら、人間の姿でいないとならないんだし」

  「……ギュウ」

  姉はたしなめるようにして言ってくる。至極もっともだと思ったので反論できない。

  自分たち竜族はなんでも思い通りにできる強い力を持っているけど、さすがに数が少なすぎる。まだ年若い自分たち二頭だけで暴れても、人間の無駄に多い物量に圧倒されてしまうだろう。

  今は雌伏の時だ。人間の皮を被って身を潜めなければならない。

  自分が人間だった頃の皮は寝室に残してきている。あれを被らないといけないのかと思うと今から憂鬱な気分になるけど、まあ仕方ないか。

  「来週にはお父さんたちが帰ってくるしね、それまでには元の人間の振りをするのに慣れといてよ」

  「グゥゥ、わかったよ」

  「あとさー、できるだけ騒ぎを起こすようなことはしないように気をつけなよー。神様は世の中を乱すために私たちに血を分けてくれたわけじゃないから、やんちゃしすぎると天罰が下るかもよ」

  神様がどうとかは知らないが、今は騒ぎを起こすとマズいということだけはわかるので、無難に頷いておく。

  「……あ、そうだ。お父さんたちが帰ってきたらさ、血を分けて竜にしてあげようよ。家族みんなが竜になるし、仲間が増えるしで一石二鳥じゃね?」

  「あ、そうか。うん、それがいい」

  と、そこで姉が何かを閃いたようにして手を打つと、人間の親がこの家に帰ってきたときの話をしてくる。

  そうだ、自分たちの数が少ないのなら増やせばいいのだ。姉が自分を竜にしてくれたように、親も竜にしてやればいい。

  そうなれば、親もまた他の誰かを竜にするだろう。そしてその竜もまた誰かを竜にするだろう。そうして竜が増えていけば、いつかは人間を圧倒することができるようになる。人間の時代は終わり、竜族の天下がやってくるのだ。

  遠い未来の話にはなるだろうけど、その時が今から楽しみである。

  「血を分けるのは、やっぱり血が濃い姉貴のほうがいいかな。グルル、じゃあ、あとで適当にそこら辺の人間を狩ってくるから、たっぷり喰ってもらって……」

  「だから騒ぎを起こすなって言っただろがッ! 自重しろ!」

  終わり