一杯の牛乳

  世界に権威主義が本格的に広まって以降、社会には極端な階級構造が出来上がっていた。己の肉体を資本として物質的な利益を生み出す[[rb:労働者階級 > プロレタリア]]と、頭脳を利用して知的な、概念的な利益を生み出す[[rb:知識人階級 > インテリゲンツィア]]の待遇の差は日に日に広がるばかりだった。この格差は唯一性に乏しい物質的な成果と、唯一無二の学術的成果の圧倒的な価値の差によるものだった。この価値の差が生み出す収入の差は、労働者階級の子が知識人階級となることを、さらに難しくしていった。

  革命的な学術的発見をもたらし得ない、中途半端な知性は不要だという声は、知識人階級の人間たちの間でますます高まっていった。そんな無駄なものよりも、自分たちの利益と享楽のために資源を消費するべきだと。そうしていつのまにか労働者階級は教育機関へのアクセスを断ち切られて、神経学習させられた最低限の知識ともに生き、生殖し、知識人階級の指示に従って労働するだけの存在になり果てていった。

  ただ、たとえ労働するためだけの存在であろうと、労働者階級が“人間”であることには価値があった。“ご主人様”の指示を聞けばその通りに動けるだけの理解力は他の動物には持ち得ない、人間だけが備えているものだった。だからこそ、その“かしこさ”を備えさせたまま、労働者階級の人間たちをより“生産的”な存在にできないか。知識人階級の人間たちは、そう考えた。そうして、後天的な他種遺伝子の導入という手法が発想された。人間以外の動物の多くは、知性を除いた分野においてしばしば人間よりも優れていたものだから、高度な知性を必要としない労働者階級の人間たちにこれの特徴を適用することで生産性を高めることができるのではないかと思われたのだ。その一歩として、ウシが異種遺伝子導入計画の材料として選ばれた。長い品種改良の過程で形成された、豊富な筋肉を形成する形質や、多量の栄養豊富な乳を産出できうるという形質が、その決定の根拠だった。そして、発展した解剖学と先進的な遺伝子工学はあっという間に発想を形にした——全身の細胞に含まれる遺伝子を書き換え、人間を半人半牛の存在へと変えてしまうレトロウイルス・カクテルだ。

  数年前に、私はそれによって人間が考える家畜へと貶められていく様を目の当たりにしたことがある。生殖義務を終え、労働以外に使い道のなくなった一人の女が、ある種の見世物として連れてこられて、カクテルを投与されたうえで実験チャンバーに放り込まれたのだ。数週間をかけて、女は重く、大きく、筋肉と脂肪の塊のようになっていった。変化のために加速された代謝が食欲を増進させるのか、貪るように与えられた栄養ペーストを喰らう姿が頭に残っていた。最終的に、女は立派な乳房と太った巨躯を備えた二足歩行の牛になり、人間の時と同じ従順な目で私を見つめていた。その後彼女がどうなったかは知らないが、どこかの労働施設で働かされでもしているのだろう。数年たった今ではすっかり“家畜人間化”技術は一般的なものになり、私たち知識人階級の目の届かない場所では様々な“動物たち”が肉体労働に従事している。私は休憩のために飲んでいた牛乳が入っていた空のコップを眺めて、それを私の——人間の、召使に渡した。私が先ほどまで飲んでいた牛乳は果たして何者によって生産されたものなのだろうかと、そう思案しながら。