物腰穏やかな狼お兄さんをキレさせたいラブコメを本気出して書いてみた
遠い目をして頬杖をついた彼は、ドスキンのスーツがとてもよく似合った。黒のシングル、やや角ばったスクエア・ショルダー。ラペルは大きく、ウエストをぴったりと絞り込んだ三つ[[rb:牡丹 > ぼたん]]のジャケットと、細身で下にゆくに従い絞られてはいるものの、股上はゆったりと深い、タックの入ったズボン。白いウイング・カラーのシャツにはクラブ・ボウのブラック・タイを締め、靴はオックスフォード・シューズを履いている。
どこにでもあるファミレスで、なにをどれだけ注文しようと二人で三千円を超えないランチをつつき、なんの変哲もない街並みを眺めているだけであっても、いかにも英国のバトラーを模したフォーマルな彼が物憂げにしていれば、それは一つの画であった。窓の外には小雨の降りやまぬ街の通りが続いていて、濡れた石畳の上をひとびとが足早に行きかっていた。
「どうかしましたか、伯爵」
[[rb:柚々 > ゆゆ]]。
三毛猫に似た獣人。彼は、柚々のことをとても愛くるしい少年だと感じている。その柚々が、スパゲッティ・ナポリタンとの格闘を中断し、彼の視線の先になにがあるのかと目を移した。皿の上に残ったピーマンを丁寧にすくい、口に運びながら尋ねるので、彼はついと、まどろんだような目を正面に向ける。
二、三度ぱちぱちと瞬きをした彼は、口まわりを指さした。柚々のそこには、べたべたと赤いものがついていたからだ。慌ててパーカーの裾でそれを拭おうとする少年の手が伸びる前に、ナプキンを取って、ぐりぐりと汚れに擦りつけた。彼の、柄でもない世話焼き気質は、柚々との付き合いが始まってすぐに獲得したものの一つだった。
えへへ、と柚々がはにかむ。
「ありがとうございます。兄様にも、よく怒られるんです。だらしないぞって」
このようなことを、男女のカップルであるならまだしも、男同士でも彼はためらわなかった。しかし彼と柚々は今はもう、恋人同士ではない。かつては、そのような仲であった。ながら、彼と柚々はその関係を清算した。柚々がそうしてほしいと言いだしたからだった。
自分の将来のため、今、向き合わなければならないものに一人で向き合うために――と、柚々はその理由を説明した。
「伯爵と一緒にいると、便利すぎるんです。これが嫌だと思うことを、伯爵は説明せずとも、なぜかわかってくれます。これがいいと思うものに関しても、同様です。伯爵のところには、ぼくの欲しいものがなんでも揃ってるんです。それが最初は不思議で、でも楽しくて、それが怖くなってきたのです。これを当たり前だと、もはや思ってしまっている……このままでは駄目になってしまうんですよ。甘えている場合じゃない。やるべきことがあります。今はそれをやらなければいけない。[[rb:後 > のち]]に、もう甘えてもいいのかもしれない――と、思える日がくるのかもしれません。そうなればいいなと思います。その日がきたら、伯爵のところに、また今までと同じように……と、考えます。でも、いくらぼくでも、だからそのときまで待っていてほしいなんて都合のいいことは頼めません。いつになるかわからないし、戻ってこられない場合だってありますから」
それならば、しょうがない。彼は応えるしかなかった。
柚々というのは芸名で、彼は柚々の本名をあまり、きちんと覚えていない。呼ぶ機会もとくにない。会ったとき、柚々は既に柚々であった。それ以外ではおかしいという気がする。高校のころ、バンドでスカウトされCDを一枚出したらしいことを、彼は聞いていた。レーベルが柚々の家の子会社と関係が深かったらしく、早い話がコネがはたらいてのデビューだった。
「結局、なにをやったって父様――[[rb:姫川 > ひめかわ]]の家のレッテルはとれないんですよ」
だから嫌になり、バンドはすぐに解散、柚々は契約が残っているから事務所に籍を置くものの、今は稀にモデルの仕事をする程度。真剣に働いてはいない。ちゃんとした音楽がやりたいのだと、柚々は言った。でもどうすればやりたい、ちゃんとした音楽ができるのか、まだ柚々にはわからない。
「売れすぎは、困ります。三〇〇人くらいの前で演奏できればいいのです」
夢が小さいのが、柚々であった。
[[rb:松濤 > しょうとう]]のマンションに一人で暮らしているけれど、思い出したようにやる雑誌の撮影モデルの仕事のギャランティや諸々で家賃がまかなえている訳はなく、だから彼は柚々の暮らしがほぼ親がかりであることを推測している。なにせ、姫川といえば明治からの財閥である。不動産などバカほどに所有していた。
恋人である期間、柚々は何度も、「あー財布にお金がない」と言い、彼はその度に金を出してやっていた。今日のファミレス代も、彼は当然のように払うつもりでいる。「コンビニで金をおろしてこい」と指示するべきだとは思いながらも、彼は柚々に対して、可能な限り見栄を張っていたかった。別れてもなお。
いまだ、どこか宙を見ているようだった彼の目が焦点を結ぶ。ふううん、と鼻を鳴らし、物思いをつらつらと口にした。
「なあ柚々、[[rb:蒼 > あおい]]を知っているな。[[rb:和歌月 > わかつき]]蒼。実家を追い出されて以来、事実上、俺の後見人をしている狼なんだけど」
「何度かお会いしています。最後に会ったときはでん六豆のパックをくれました」
いつも飴ちゃんだの豆ちゃんだのを忍ばせているのが蒼であった。
「俺とあいつの付き合いは長くてな。おい、これは他言するなよ。正味なところ、俺はあいつのことを、実の兄のように思ってる。そのくらい、お互いの手の内も知っている。そういう存在なんだ……向こうがどう思ってるかは、わからんが」
彼は独白を続けながら、自分の前に置かれていたプロシュートの皿を柚々に差し出す。わあと目を輝かせ、もちゃもちゃ口を動かす柚々がはたして訊いているのかいないのか、いずれにせよ彼は続けた。
「だけど、なあ。俺は、蒼のことをどれだけ知っているだろう? そう思うと急に不安になってしまってな」
蒼はいつもほんのりと笑い、まるで空気のように振る舞う男であった。そして彼がなにをしても、すっかり受け止めてしまう男であった。理不尽な怒り……身に余る喜び……胸が軋む寂しさ……不器用なりの感謝……そういったもの、すべてを。
「でも俺は、あいつがマジに怒ったところをさえ知らない。数えきれないほど叱られてきたが、そこに憤怒は欠片もなかった。なあ、それは俺が蒼のことを知らないって、そういうことなんじゃないか。そしてそれは、フェアじゃないんじゃあないか……そう思ったんだ」
「ねえ伯爵」と、柚々が言った。「もう一回ガチャ回していいですか?」
「いいぞ。俺はもういい。ぜんぶ食え――で、だ。きのう読んだ本に書いてあったんだよ。『そのひとのことを知りたかったら、どんなことでいちばん怒るかを知れ』ってさ」
「もしそれが漫画なら、ぼくも読んだことがありますね」
昼を過ぎた店内に客は少ない。無防備な自分自身を俯瞰し、彼は今さらながら照れくさくなった。いささか早口にまくし立てていた。
「思うに蒼は……感情の波が、遅いんだよ。あいつにも喜怒哀楽の起伏が……そう、振れ幅がある。波同士は干渉し、時として手に負えないほど高くなって、過ちを犯させる。心という水面を讃える器が小さく浅いほどそれは起きやすくなり、そんななかで蒼は……その波が、遅い。寛仁大度というか、媒質が違うのか。だから大きな波が立っても、心の水面に新たに石を投げ入れて、度し難い感情を打ち消してしまう」
多かれ少なかれ、誰もがやっていることの話を、彼はしていた。自分のご機嫌は、自分で取る。大人という生き物の行動であった。しかし蒼はそれに特に長けていた。彼はその蒼の心に大波を起こしたい。蒼の逆鱗を知りたい。
彼は卓上のグラスを一気にあおった。ドリンク・バーの原液が切れていたそれは、ひどく薄味だった。
「あの、伯爵」と、柚々は言った。「簡潔にお願いします」
「蒼を怒らせてみたい」
「理由は?」
「なんか面白そうだから」
「よくわかりました」
彼の振る舞いにいちいち歯止めをかけていたら、あっという間に摩滅する。柚々はその点、[[rb:猫人 > ねこひと]]に特有の異様なまでのユルさで、高速で回転するタービンのような男への適応に成功していた。
「それで伯爵(彼がステッキに凝ったころから、柚々は彼をそう呼ぶようになった)、どの程度、怒らせたいとお考えですか?」
左様、賢明な読者諸氏には改めて説明申しあげるまでもないことだが、怒りは階層構造を有する感情だ。
曰く――
1.おこ(弱め)
2.まじおこ(普通)
3.激おこぷんぷん丸(強め)
4.ムカ着火ファイヤー(最上級)
5.カム着火インフェルノォォォォオオウ(爆発)
6.激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリーム(神)
――以上の六段階である。かつて彼は、蒼の激おこぷんぷん丸までは目撃したことがあった。
「蒼は、めちゃくちゃ着やせするんだ。んで、腹の肉をこう……むんずとやったことがあってな」
「ああ、はい。わかります。それで、どの段階を目指すおつもりで?」
「俺一人なら、激おこぷんぷん丸の一段階上、ムカ着火ファイヤーで満足したろうが、おまえも手を貸してくれるだろう? なら、せめてカム着火インフェルノォォォォオオウまでは見ておかねばな」
「ええっ!」柚々は仰天した。「カム着火インフェルノォォォォオオウですか?」
「そうだ。やるからにはカム着火インフェルノォォォォオオウだ」
彼と柚々は、ただならぬ雰囲気であった。店にいたいくつかのグループが不穏を察して、そそくさと会計を済ませ、出ていった。この二人に店舗を根城にされたらたまったもんじゃねえなあ店長はなあ。
「市役所でちょいギレしてたって、聞いたことがある。まあ、まじおこ程度だろう。で、だ。あの蒼を怒らせるには、どうすればいいと思う?」
ほうれん草のソテーをもぐもぐしながら、柚々は頭をひねった。
「蒼様が食べている雪見だいふくを一個、横取りしちゃいましょう」
「やったことある」と、彼は言った。「もう一個もくれたな」
「ベタですけど、推理小説の犯人を教えちゃう」
「それもやったことあるなあ」
「じゃあ蒼様が録画してた映画を消しちゃうとか」
「そんなんで怒ったりしないだろう。ほぼ月一でやってる」
「蒼様……」
耳とヒゲをしょんぼりさせる。なんだ、ドレッシングが酸っぱかったのか、と訝るバトラー風の男が、柚々には今だけは悪鬼に見えた。
「たとえば、柚々。おまえの兄さんはなにをしたら怒る?」
そろそろ場所を変えようということになり、彼が会計を済ませて街に出た。彼が外に出ると急に雨がやみ、晴れ間が見えはじめる。濡れた石畳をこつこつ、ひょこひょこと歩きながら続けた。
「今朝も怒ってましたよ。目玉焼きにしょうゆかけすぎだ、って」
「あー、おまえ調味料おぼれるほどかけるものな」
彼はそんなことはやらない。蒼を怒らせるためでもだ。目玉焼きを食べるときというのは、なんというべきか、こう……救われてなきゃあ駄目であった。それは、独りで……静かで……豊かのことであった。
はあ、と柚々の気のない返事があった。目玉焼きは、唯一彼が作れる料理らしい料理であることを、彼は知っていた。それを可能にさせたのが誰であるのかも、薄々察しがついていた。
「そういえば、一昨日ですかね。家でひとりでホラー映画を観てたんです。部屋を真っ暗にして。それで、ぼくがお手洗いに行ってるあいだに兄様がやってきていて、後ろから『いらっしゃい兄様ー』って言ったら、ええ、危うく拳が顔に当たるところでした」
「ふむ」と、彼は言った。「だめだな」
「だめですか。お手軽な方法だと思いますけど」
「なぜって、その……なんだ。一人で暗い部屋で……なんだ。うん、だめだな」
「だめですか」
彼と柚々の歩みは、街の中央広場に至っていた。ああでもない、こうでもない。喧々諤々とした議論はやがて熱を帯び、陽が沈むにしたがって両者の計画は輪郭を得て、内容を充実させていった。
傍からは、そこそこ容姿のよい青年と少年の駄弁りにしか見えなかったし、ある意味ではそのとおりであったかもしれない。だが、ここで語りあわれたのはそのように無邪気で微笑ましいものではない。
「よし、このプランでいこう」
「さすがです、伯爵」
「前祝だ。一杯付き合え」
「さすがです、伯爵」
こうして、和歌月蒼という狼の逆鱗を探る作戦は動きだしたのだった。
和歌月蒼の昼食は、朝方コンビニに寄って調達したサンドウィッチなどを一人で齧るというものである。この日も蒼は会社から少し離れた河原の一角を訪れていた。片手にビニール袋を提げている。
名を蒼といっても、毛並みは奇想天外な色彩をしてはいない。ブラウンとグレーとホワイトが適度な割合で混合された――彩りとしては柚々とよく似ている――ごくごく平均的な、狼の美しさをもつ男である。
蒼は機嫌がよかった。今日は週に一度、いちごクリームサンドを食べることを自分に許している日であった。ささやかな蒼の楽しみだった。
軽やかな足取りが、不意に途切れる。[[rb:人気 > ひとけ]]のない、蒼だけの場所に、今日は先客がいたのだ。
彼であった。
「やあ、蒼。お昼休みだろう? 早速だけど、弁当を作ってきたんだ。見てくれよ」
「へえ、嬉しい!」蒼はビニール袋を鞄にしまいこんだ。「お昼、どうしようかと思ってたところだったんだ」
話を合わせた蒼に、彼は得意げに重箱を――重箱である――広げた。蒼の口がぽかんと開く。滅多に隙を見せない蒼が一瞬、心底驚いたという表情を浮かべた。よほど蒼と付き合いが長い彼でなければ見逃しちゃうようなやつだった。
「なんだ。そんなに驚くことないだろう?」
「いや……うん。これを、きみが? 卵焼き……」
できるようになったんだね、と蒼は言った。
重箱には、これでもかと一面の黄色が詰め込まれている。卵のカートンを二個費やした、彼渾身の卵焼き重だった。下の段には白飯が盛られている。
むろん、これらはすべて和歌月蒼の逆鱗に触れるために行われたことであるが、重箱が二色で構成されるに至ったのは決して嫌がらせのためではない。純粋に、彼ができるだけのことをやりきった結果であった。彼はウィンナーを炒めることすらできないのである。しかたないね。
「さあ、召し上がれ。ほら、あーん」
「ええっ!」
あーん! あーん!? なんたることか!
卵焼きを切り分けた彼が、蒼にそれを差し出しているのである!
蒼はひとしきり目を白黒させ、三角耳をあちらこちらに向けたあと、意を決してぱくりといった。味は、可もなく、不可もない。ごく普通の卵焼きである。当然、なんの仕掛けもしてはいない。ごく当たり前の卵焼きだ。
いったい彼はなにをしているのだろう? 読者諸氏は彼が唐突に示した挙動に戸惑いを覚えたはずだ。これらの奇行はどれもこれも、元をただせば柚々とその兄の、ある日の一コマに由来していた。
柚々がまだ実家で暮らしていたその日、兄は朝寝坊をした。弁当を作る暇もなく家を飛びだした兄のため、柚々は不慣れながら弁当をこしらえ、兄の職場まで届けたことがあったのだ。
――兄様は大変に怒りました……ええ、全然、目を合わせてくれなかったくらいです。お弁当、届けてあげたのに。それで、とっても大きなナックル・リングをつけてたから、ぼくは兄様にあーんして食べさせてあげようとしたんです。なのに、そっぽ向いちゃって。こりゃいけないな、ご機嫌とらないとなと思い、兄様がつけていたアクセサリーを褒めたんです。かっこいいね、素敵だね、似合ってるよって。ますますに兄様は俯いちゃって。全身の毛が逆立つくらいに怒っていましたね、あれは。
と、柚々はそう述懐する。なるほどたしかに、そのときの柚々の兄は全身を膨張させていたであろう。だが俯瞰してみれば……口角も尻尾も喜色を隠しきれず上がり気味で、視線もふやけたように甘かったのだ。柚々は結局、気付かなかったが。
――なるほど。弁当を作って持っていって、あーんして食べさせて、アクセサリーを褒めればいいんだな。
――そうです! その日からしばらく、兄様はよそよそしかったくらいですから!
てな訳で、彼はその情報どおりに行動していたのである。
「どう? 旨いか?」
「うん。よく焼けてるよ」
柚々の兄は、弟の行為に素直に応じることはできなかったろう。だが和歌月蒼ともなれば話は違う。この点を、見事に二人は履き違えていた。所詮は浮世離れのコンビであった。計画が上手く転がるはずがなかった……ま、その方がいいんだけど。
うまうまと、蒼は幸せそうに卵焼きを頬張る。密かに弟分と可愛がってきた彼の、急ではあるが快いサプライズを素直に喜んでいた。
「おかわりもあるぞ。遠慮するな。今までのぶん食え……」
繰り返すが、あーんして食べさせる卵焼きも白飯も、素人料理であること以外は真っ当なものである。毒ガス訓練も控えてなどいない。
「なあ、蒼。もしかして毛並みのトリートメント、変えたか?」
「え? うん、そうだね。よく気づいたね」
もちろん、なにも変えてなどいない。しかし和歌月蒼はやはり話を合わせた。
「うん。すごくふわふわだ。素敵だよ」
「あっ、ありがとう……」
ここにきて、蒼もなにかがおかしいと勘づきはじめていた。だが、それがなんだというのだろう? 卵焼きをうまうまと頬張る。
やがて昼休みが終わり、蒼は会社へ引き上げてゆく。彼は荷物をまとめ、遠くに控えていた柚々と合流した。
「柚々よ、見ていたな。どうやらあまりうまくはいかなかったみたいだ」
「そのようですね、伯爵……」
左様、一部始終はドスキンのスーツの中に隠されたスパイ・カムと収音マイクを通じ、柚々のスマートフォンにストリーミングされていた。
「なあに、まだまだ計画は始まったばかりだ。次にいこう!」
「さすがです、伯爵」
その後も、いくつかの作戦が実行に移された。
「伯爵、兄様ったら、ぼくが部屋を掃除すると怒るんです。埃の掃き清めがあまい、こんなんで一人暮らしなんてちゃんとやれてるのかって。いざとなったら兄様がいるからいいもんってぼくが反論したら、『バッカじゃねえの!』って、ぷんぷんして口もきいてくれなくなって……」
「なるほど、掃除だな」
翌日、朝早くにハウス・クリーニング用品を満載した軽トラで蒼のアパートに突入した彼は、独身生活が染みついた部屋を問答無用で断捨離していった。はじめは蒼も戸惑っていたが、次第に、これもいい機会だ、いやさ弟分に気を遣われているようではだめだと心を入れ替え、物にあふれていた部屋はピカピカに、すっきりした人権の宿った空間に変貌した。
「こんなに気を遣ってくれて、わざわざ来てくれて……」と、蒼は言った。「そうだ。今日はごはんを食べていってよ。すぐ作るからね」
ウキウキと、新品同然となったガス・コンロで親子丼を作る蒼の後ろ姿を眺めながら、どうやらこの作戦も失敗だなと、彼は悟った。なお、さすがに蒼の私室にカメラを入れるわけにはいかなかったため、柚々は少し離れた場所で経過を伺いつつ、漂ってくる夕食のにおいに腹を鳴らすことになった。
「伯爵、兄様ったらぼくが隣に座ると怒るんです。エアコンの利きすぎで部屋が寒くて、でも兄様はエアコンを緩めたくはないから、それならなるべくくっついていた方があったかいのに。馬鹿がうつる、あっちいけって。悔しいから抱きついてやったんですけど、最後には呆れてなにも言わなくなってましたよ!」
「なるほど、密着だな」
蒼が[[rb:久 > 丶]][[rb:し > 丶]][[rb:ぶ > 丶]][[rb:り > 丶]][[rb:の > 丶]][[rb:日 > 丶]][[rb:曜 > 丶]][[rb:日 > 丶]]を満喫している午前中、突如と鳴り響くインターフォン! 開け放たれるドア! 英国執事のエントリーだ!
「遊びにきたぞ、蒼」
「いらっしゃい……っと」
手洗いうがいを済ませた彼は、飛びこむようにして蒼の隣に尻を落ち着けた。詰めれば四人座れるソファーであった。蒼は、どうぞくつろいでね、と言ったが彼はかぶりを振り、蒼の肩に肩を、太腿に太腿を当ててぴたりと密着した。蒼はしばらく、首をひねったり、身じろぎしたり、していた。が、彼が自分の体でリラックスしているのだとわかると、蒼はなにも言わず読みかけの本を広げた。
――これは邪魔してやらねばなるまい!
彼は蒼の膝の上にしなだれかかり、ごろんと上を向いた。まるで柚々かなにかだった。
「しかたのない、きみ」
呆れたような言葉とは裏腹に、ひどく慈愛に満ちた表情で、蒼は彼の頭を撫でる。気づけば彼は眠っていた。やはりその日も夕食をごちそうになる。漂ってくる筑前煮のにおいに、この日も柚々は腹をぐうと鳴らした。
「伯爵、兄様ったら、ぼくがお風呂上がりにお着換えがなくって、裸でいると怒るのです。それでぼくはこのあいだ、兄様の古い仕事着から着られそうなのを探して、服が乾くまでそれを着ていたんですよ。そこに兄様が、貸していた本を返しにやってきて……絶句してしばらく玄関の外に出てしまいました。相当、怒ってましたよ。あれは」
「ほう、そんなにか」
「はい。あれは弟なんだ。あれは弟なんだ。抑えろオレ……って、独り言まで言ってました。恐ろしい。きっと殺意を抑えていたんでしょう……」
「どんな衣装だ?」
「興味を持たれるだろうと思って、用意してきました!」
「なるほど。ボンテージだな」
金曜日のある晩、遅くまで飲み会に付き合わされ、疲労困憊となった蒼が帰宅すると、うっすら部屋の電気が点いていた。豆球である。合鍵を持っているのは彼くらいであり、玄関に脱いだオックスフォードがあった。千鳥足で部屋に入る。
「ただいま。寝てるのかい?」
自分もワックスを落として、シャワーを浴びたらさっさと眠りたい……
くたくたになった気持ちで呼びかける。すると、ぱ、と部屋の明かりが光量を増した。
蒼は我が目を疑った。肩を大きく露出し、首元に白襟と蝶ネクタイ、貧相な体を網目のタンクトップに収め、付け根から先をすべて剥き出しにした競泳水着じみたボンテージ・パンツという風体の彼がそこにいたからだ。ソファーに座った彼が振り向くと、うさ耳がぴろんぴろんと揺れる。
「おかえり、蒼。だいぶお疲れみたいだな。さ、まずは座って」
「あ……う、うん……」
二の句を継げないまま、蒼は歓待を受けた。白の手袋でワイルド・ターキーをロックで勧められるがままに飲み干すと……あっという間にタガが外れてしまった。日ごろ言えない、日々に潜むさまざまな不平不満。会社への苦言と自身への嫌悪。そういった言葉がとめどなく溢れだし、彼はそれを黙って聞き、必要に応じて蒼を癒す酒を注いだ。この点、そつなくやってしまうのがバトラー然とした彼であった。
やがて日付をまたぎ、なお夜は更け……朝になる。
――明朝‼
頭痛を抱えながら起きあがった蒼は、脱ぎ捨てられたボンテージと、ほとんど裸のような格好で毛布にくるまる彼、頭のワックスも落とさずスーツをしわくちゃにした自分自身を発見した。ワイルド・ターキーは翌朝に引きずったりなどしない上等のやつで、記憶もしっかり残っていた。
まったくの大失態。自分の弱さを見せたというのに――なぜだか蒼は少しも、自己嫌悪に囚われたり、落ち込んだり、してはいなかった。
「ありがとう」
小さくそうつぶやき、晴れやかな気持ちで朝食を作りはじめる。
柚々はというと、さすがに学習しており、今日はちゃんと夜食も朝食も準備してあった。ベーコンの焼けるにおいを嗅ぎながら、建物の影の、草むらのじめじめした陰気なところで、コンビニのおにぎりをかじる柚々であった。
「伯爵、兄様ったら、ぼくが子供のころにピクニックで編んだシロツメクサの冠を、そんなの貧乏くさいと言うんです。あんまり貧乏くさいから逆に貴重だって、ドライ・フラワーにしていまだに部屋に置いて見せしめにしているのですよ。ひどいでしょう」
「なるほど、贈り物だな」
翌日、彼はティファニーに突撃し、店じゅうをひっかきまわした。
やがて半日かけて、一つのネックレスを選びだす。アクアマリンがあしらわれた、実に控えめな一品だった。
蒼に約束を取りつけ、普段は行かないような少し高い店に連れだす。ドレス・コードを意識するギリギリの水準という店で、ドスキンのスーツの彼は問題なかったのだが、その日は蒼も随分とおめかしをしてやってきた。
黒のYoji Yamamotoのジャケットには、襟の裏にシート・ベルトがついていた。蜘蛛の巣柄の白シャツと黒のネクタイはVivienne Westwood、表面に窓と扉の画絵が刺繍された、全体を見るとメゾンのかたちになっているトリッキーなLulu Guinnessのバッグを持ってきている。狼である蒼は毛並みが鮮やかだが、ハイ・ブランドに閉じ込められた体毛は窮屈そうなところが一つもなく、襟や袖口から、実に柔らかそうにふわりと溢れだしていた。歩くだにひらりひらりと翻るジャケットの裾に、合わせて揺れる尻尾の長さは、いかにも颯爽として見えた。
あんパンと牛乳を片手に遠巻きにしていた柚々が「わはあ」と口を開けてしまうほどであり、彼をしてさえ、素直に見違えたと思わせる変貌ぶりだった。
食事は終始、和やかに進んだ。事ここに至り、彼でさえ、いったいなんのためにこんなことをしているのか……当初の目的を、忘れつつあった。
慎重に、機を見て包みを取りだす。
「これ、気に入ってくれるといいんだけど」
「いいの? ありがとう、すごく嬉しいよ。大切にするね」
唐突だが、読者諸氏の忘備のために書いておく。これは和歌月蒼の逆鱗を探り当てようという作戦である。というのも一応、解説しておかねばなるまい――アクアマリンの石言葉には、「幸せな結婚」というのも含まれている、ということを。
店を出て、二人は夜の街を歩きだした。柚々が背後からそろそろと後をつける。だがもう、彼は蒼と過ごす時間に夢中になっていた。それは蒼とて同じだったろう。
かつん、こつん。靴底が、石畳を叩く音。
やがてなにを思ったか、彼は蒼の手を取り、小走りに石畳を鳴らしはじめた。蒼は戸惑いながらもしっかりと手を握り返す。Vivienne Westwoodの、七センチ以上も底のあるブーツを浮かせ、伴奏を鳴らした。笑顔を交わし、二人は衆目にも構わずリズムに乗って回りだした。即興の、ストリート・ダンス。彼はもとより、大抵のことはできる男であった。蒼は追従するだけならいくらでもできる狼だった。
だが、ここには――
それ以上の、ものがあった。
彼に導かれた蒼は、徐々にその心を露わにしていった。それは、彼と一緒だからこそ蒼から引き出されたものだった。
「蒼」と、彼は言った。「見てみろ。月が出てる」
「うん」と、蒼は言った。そして、彼の名を呼んだ。
「――いい響きだ。ずっとそう呼んでくれ」
「もちろん、よろこんで」
柚々は、気配を消して、ナッツをかじりながらその様子を見ていた。
十分に……左様。自身の影響が、及ばない距離を取って。
「ぼくは透明になる術を身に着けた……スローすぎて……誰もぼくの姿は見えない……そしてゆっくりと……ナッツを口に運ぶのです……」
「あれ? おまえ、こんなとこでなにしてんだよ」
「………」
柚々の兄であった。
平穏な夜であった。
彼は、柚々の好きな少年ナイフの「PRETY LITTLE BAKAGUY」をかけながら、労をねぎらい、紅茶を出した。柚々は紅茶に口をつけながら、ハーゲンダッツのクッキー&クリームのパイントを食べていた。彼の家の冷蔵庫には、これがいくつも入っている。まだ付き合っているころ、柚々が大量に買ってきて入れたのだ。むろん、いくら大量に買い込んでくるとはいえ、アイスクリーム、限界があるから、なくなっては買い込み、繰り返し定期的に補充しているというべきだろう。ないときはコンビニで間に合わせるのだが、彼のマンションの近くのコンビニは、ハーゲンダッツのクッキー&クリームはあるのだが、パイントなど置いているわけもなかった。
柚々はハーゲンダッツのクッキー&クリームのパイントが――モデルをやっているにもかかわらず、大好きであった。
さて、和歌月蒼の逆鱗を探ろう作戦は暗礁に乗りあげていた。もはや柚々が出せる案も残りは少なく、ついでに言うと二人のやる気も尽きはじめていた。新しい遊びを探す時期がきていたのだ。
「伯爵、兄様ったら――」
「ふむ、なるほど。わかった」
彼は厳かに頷いた。
「洗いっこだな」
――今日、部屋に行ってもいいか?
彼からその連絡を受けた和歌月蒼は、これから起こるであろう事態を鋭敏に予知してみせた。部屋を掃除し……食材を買い込み……念入りにベッド・メイクを行い……待ち受ける。
彼が来たのは夕方だった。最近、二人でよく開けるワイルド・ターキーを今日も携えている。
「いらっしゃい」と蒼は言った。そうして彼の名を呼んだ。
「ああ。こんばんは、蒼」
くすくすと笑いあいながら、部屋に落ち着く。二人で夕食を作り、すっかり平らげ、ソファーに重なり合うように座りながらウィスキーを開け、野球中継にヤジを飛ばす。いつもどおりで……いつもどおりのままだったが……二人とも、今日はどこかが違うと、頭の奥底で感じていた。
「じゃあ、先にお風呂、いただいてくるね」
「うん」
酔いの回った彼が、くたりとソファーに取り残された。
――逃げちまおうか。
このまま靴を履いて、夜に紛れてしまおうか。
幾度か浮かんだ考えは、しかしなんら実を結ぶことはなかった。彼はいつのまにか……あるいは最初からか……服を脱ぎ、浴室の前に立っていた。
「あおいぃ、入るぞ」
浴槽に肩まで浸かっていた蒼が、充血した目で彼を迎え入れる。
「流しっこしようか」と彼は言った。
そして、蒼はおずおずと、こう言ったのだ。「うん」
――蒼の毛って、柔らかいよな。俺は人間だし、体つきもこんなだから、全身ふさふさの蒼が、すごく素敵だと思う――そんなことを言って、不便なこともたくさんあるよ?――そうかな。そうかもしれない。だけど俺はずっと、そう、蒼に憧れていたんだと思う。なあ、こんなことを言う俺って、変か――変だね。変だよ。だけど、うん。僕も変だよ。きみは、とてもきれいだ――蒼の毛、パック、するよ――うん。一人じゃ大変なんだ、これ――これからは、違うだろ――ありがとう。ありがとう――
さぶ、さぶ。湯の流れる音が響く。
柚々が定位置として潜んでいた草むらには今日、気配がない。柚々はもう、マンションに帰っていたのだった。
「じゃあ、先にあがってて」
「ああ」
「寝室で……待っててね」
「うん……」
言葉少なに、彼は姿を消した。残りのパックの時間、たっぷり百秒を数えて、蒼は後を追った。念入りに、全身をドライヤーする。少しでも先延ばしにしようとする心理がはたらいていた。
それは彼とて同じだった。そう、ベッドに腰かけた彼は、なんてことはない。
怯えていたのである。
彼の生涯で、はじめてのことだった。
しずしずと、蒼は寝室に入ってきた。気がつけば、彼の隣に座っていた。そこ以外に、彼と蒼に居場所などなかった。左様、世界中、どこを探そうともだ。
「蒼、俺はおまえに言わないといけないことがあるんだ」
すがるような声で、彼は言った。たとえどれほど空気が読めなかろうと、彼がひどい負い目を抱えていることは、明らかだった。なぜって、今さらどう伝えたらいいのだろう? すべてはおまえを怒らせるための、茶番だったなどと。
言えるはずがない。
「俺は、おまえにひどいことをした」
「ねえ、きみ」
突き倒されたのだ。今まで、蒼が見せたなかで、もっとも強い意思表示だった。
「僕が、なにも知らないと思っていたんだね。うん、すべてわかっていたよ」そして、蒼は指先を自身のマズルの先端へ当てた。「きみは狼の嗅覚を、あまり侮らないことだ」
マズルの長い狼はにおいを受け取る[[rb:嗅上皮 > きゅうじょうひ]]の面積が広く、人間の三、四平方センチメートルに対し、一五〇平方センチメートルにも及ぶ。これらを貫通する太い神経網は、あらゆる角度から入射するにおいを捉え、展開し、聴覚とよく似た感覚としてフィードバックを続けている。対象の人物から落ちたにおいをリアル・タイムに検出する蒼にしてみれば、彼が使っていたBluetoothのワコム製スパイ・カムや柚々の存在など、最初から[[rb:丸 > 丶]][[rb:見 > 丶]][[rb:え > 丶]]だったのである。むろん、ここで「丸見え」といったのは喩えではあるが、誰と誰が繋がっているのかはわかる。自称「透明」の柚々も、これでは形無しである。
「さて、どうしてくれようかな?」
「あっ、蒼」と、彼は言った。「お、お、俺は」
彼が声を絞り出そうとする。蒼はにっこりと微笑み、告げた。
「今の僕は、カム着火インフェルノォォォォオオウだよ」
「カム着火インフェルノォォォォオオウなのか?」
「うん、カム着火インフェルノォォォォオオウなんだ。だから――」
ぎしり、ベッドが軋む。彼に覆いかぶさるように、蒼が体を重ねた。
「――多少、痛かったとしても、許してね」
こうして、彼は期せずして目的を達したのだった。
その後について、いくつか補足を書いておこう。
翌日、柚々はいつものように彼のマンションで落ち合った。作戦明けの日には首尾を報告しあうのが慣わしだったからだ。玄関へ出迎えに姿を見せた彼は、蒼の怒りを受けてあちこちに噛み痕をつけていた。よほど可愛がられたのは明白だった。
だが、彼はだらしなく笑っていた。これまで彼が周囲に示してきた不遜さや頑なさは、すっかり鳴りを潜めていた。
和歌月蒼の逆鱗は、結局よくわからないままだった。とはいえ、先は長いのだ。いずれ判明する日もこよう。
そう、蒼といえば、後年、己を振り返ってこう述べている。
「貧乏くじを引かされた人身御供、そんなふうに僕のことを言うひとも、あるかもしれない。たしかに、やらかしが過ぎることもあるんだけど、彼のあれがいいんだよ、僕には。空気をぶち壊して、なにをしてしまうかわからないっていうのが、ね」
そして、こうも言った。
「最近、いいことがあったよ。うん。彼が僕に、雪見だいふくを半分くれたんだ。いや、嬉しかったなあ」
こんな具合である。
柚々と、その兄は相変わらずであり続けた。それであの兄弟は幸せだった。
そして彼はというと――
「伯爵。今日はなにをしましょうか?」
「さあてな」
空を仰ぐ。屈託のない笑みとともに、彼は応えた。
「風の吹くまま、歩いてみるか」