一話

  しかしその直後、熱い情欲の余韻を切り裂くように、スライムが蠢き始めた。

  ウォルカはすぐさま身体を起こし、紅い瞳でそれを睨めつけた。

  スライムはティーガの腹の上で粘つく質感を変えながら、急速に形を成していく。

  半透明の粘液が濁り、そこへ有機的な肉が盛り上がるように形作られ、そこには紫色の羽根がついた、ころんと丸い蜥蜴のような生き物が鎮座していた。

  妙に愛嬌のあるフォルムだが、事後の静寂を汚されたウォルカにとっては、ただただ不快な邪魔者でしかない。

  「っはぁー! やはり大型獣の精は生命力が違うのー!生き返ったわい!」

  蜥蜴は極上の葡萄酒を味わったかのように、酔いしれたため息を漏らす。

  人語を解する蜥蜴など聞いたこともない。

  ウォルカの喉の奥で、低く震える威嚇の音が漏れた。

  得体の知れない生き物である以上に――ティーガの肌に、今しがた自分が刻みつけたばかりの精液に触れたことが、何より許しがたかった。

  当のティーガは、未だ快感の泥の中にいるのか、朦朧としてベッドに沈み込んだままだ。

  「……何だ、お前は」

  ウォルカの声は低く、剃刀のような鋭利さを孕んでいた。

  本能が牙を剥き出しにせよと命じるが、騎士としての理性がそれをかろうじて自制させる。

  「ふん、トカゲが人語を吐くとは珍しいな。……いやそれ以前に、俺のティーガに無断で触れたことが最大の過ちだ」

  しかし蜥蜴は、ウォルカの放つ獣の殺気などどこ吹く風と睨み返してきた。

  「何をぅ!? 誰がトカゲか、不敬だぞ! この虎は貴様のモノではないだろうが!一度も同意はしておらなんだぞ、貴様の片想いというやつだろう、わはは!」

  外見に似合わぬ、尊大で不遜な物言い。

  先程までの秘事をすべて覗き見ていた卑しさが透けて見え、ウォルカの瞳がさらに細まった。

  二十年越しの想いを、こんな化け物に嘲笑されるなど、耐え難い屈辱だ。

  「ふん、随分と口が達者だな。お前のようなものが何を言おうと関係ない。

  ……ティーガは俺のものだ。

  あの締め付け、あの喘ぎ声……お前が見ていたなら分からぬはずがない。身体が、すべてを語っている」

  ウォルカは断固たる威圧を込めて蜥蜴へ手を伸ばした。握り潰してしまえばただの肉塊だ。

  「ティーガから離れろ。さもなければ容赦はしない」

  「かーっ! 恐るべきは無知かな!察しの悪い犬畜生にも分かるように名乗りを上げてやろうではないか!

  我が名はリューゴ。この地の竜脈を司る竜神である!」

  竜神リューゴ。

  リュゴニア王国に住まう者なら誰もが耳にする名だが、現代では既に神話の存在だ。

  ウォルカは、この滑稽な蜥蜴を鼻で笑わずにはいられなかった。

  「ふん……笑わせるな。守護神が、こんな姿で他人の閨を覗き、精を漁るなど……ありえない話だ。お前はただの、人語を話す珍しいトカゲに過ぎん」

  「不届き者は貴様だー!魔導具の乱用で竜脈が弱り、縮んでしまったのだ!本来はもっと雄々しく、巨大な姿なのだ!」

  リューゴはティーガの腹の上で跳ね回る。

  「精は生命力の塊。我は栄養補給をしたまでである!」

  その騒がしさに、ようやくティーガが重い瞼を持ち上げ、リューゴを抱き上げた。

  「人の腹の上で言い合いすんなよ……。ウォルカ、お前もそろそろ抜けって……」

  ティーガの言葉に顔をちらりと見やり、ウォルカは名残惜しそうに熱を帯びた身体を離した。

  白い毛並みが汗で湿り、尾が重苦しく揺れる。

  「……、確かに、もう十分だ」

  ウォルカは低く呟き、リューゴの説明を反芻して眉を寄せる。

  「お前が本物の竜神だとしても、ティーガを栄養源にするなど許しがたい。そして、俺たちの邪魔をするな」

  しかし、リューゴはウォルカのことなどまるで無視だ。

  「おお、虎よ、気は戻ったか。お主の精、なかなかの美味であった。

  我の神使として仕える名誉を与えよう。今や王家は我を壺に詰めて監禁する始末。

  我は隣国へと渡り助力を求めるつもりだ。お主は供をせい」

  「はぁ……?いや、そんな急に……俺は、ただの娼夫だぞ……」

  困惑するティーガに、リューゴは羽根を震わせ、耳障りな音を立てて羽根から大量の金貨を溢れ出させた。

  「ほれ、これでは足りぬか?我がお主を身請けしてやろう」

  ウォルカの内に燃える嫉妬に油が注がれる。

  「随分と上から目線だな。

  ティーガ、お前はそんなものに惑わされるな。俺がいる。お前をこの娼館から連れ出すのは俺だ」

  ​だが、ティーガの反応は予想だにしないものだった。

  「……分かったよ。神使とやらになってやるよ。

  とりあえずお前を隣国……ヴェルガルドまで連れて行きゃ良いんだな?」

  ​歓喜してティーガの頬にすり寄る蜥蜴。

  ウォルカの心臓が、氷水を浴びせられたように冷え切った。

  ​つい先刻まで、ティーガは自分の腕の中で熱く溶けていたではないか。

  あれほどまでに深く繋がり、涙を流す自分を抱き締め返してくれた。あの抱擁は、自分を受け入れるという誓いではなかったのか。

  ​理解できない。いや、理解したくない。

  喉の奥が引き攣るような感覚に襲われ、ウォルカの尾が苛立ちと焦燥で激しく一振りした。

  ​「……ティーガ、何を言ってる。お前はそんな軽々しく、訳の分からん化け物の供などになるのか」

  ​ウォルカは縋るようにティーガの腕へと手を伸ばし、リューゴを抱えたその身体を自分の方へと強引に引き寄せた。

  ​「お前は俺のものだ。俺と一緒に帰るんだ。

  主様の元へ……いや、俺の元へ。俺がすべて面倒を見てやる。

  ……なぁ、さっきのあれは、嘘だったのか?」

  ​声音は穏やかだが、瞳の奥に潜む執着が、暗い泥のような色を湛えている。

  あの情事の余韻を、得体の知れない蜥蜴に上書きされる恐怖に、ウォルカの指先が微かに震えた。

  「……まぁ待てよウォルカ。お前の気持ちも嬉しいと思ってるさ。

  だがな、なにもかもお前に囲われて甘えて生きるようなことは、俺にはできねぇよ」

  その言葉は、誇り高い騎士であるウォルカには痛いほど理解できた。

  理解できてしまうからこそ、胸が引き裂かれるほどに悔しかった。

  「領主の屋敷など行かんぞ!我に追手を向けているのはこの国の王なのだから!」

  またしても口を挟む蜥蜴に、ウォルカの忍耐が弾けた。

  「このトカゲめ、黙れ」

  ウォルカは素早くリューゴを掴み上げ、顔の前に突き出した。

  「お前が本物の竜神か、ただの戯言を吐く魔物か……今すぐ証明してみせろ」

  「証明だと?ふん、いいだろう。ティーガ!我の神使として仕えることを誓え!」

  ティーガが首を傾げるように頷いた瞬間、リューゴが放つ不気味な光がティーガの巨体を飲み込んだ。

  溢れだす閃光がウォルカの網膜を焼く。

  しかしそれは一瞬の出来事で。

  光が収束してウォルカが見たのは、床に転がる粗末な木製の義足。

  その横には、欠損が埋まり、完全に元に戻ったティーガの左脚があった。

  「ふん、どうだ。神使として我と繋ぎ、竜脈の生命力を還元したのだ」

  ウォルカは息を呑んだ。

  膝をつき、その「脚」を凝視する。恐る恐るその肌に触れる。冷たい義足ではない、獣の熱を孕んだ、弾力のある確かな肉体。

  「……これは……何だ……」

  つい先程まで失われていた虎の誇り。それがまるで何事も無かったかのように再生していた。

  ティーガも信じられない奇跡に呆然としている。

  「お前は……大丈夫か?痛みは?」

  「あ、あぁ……。なにも変わらねぇ……いや、足がある……前と同じように……動く……」

  立ち上がり、床を踏みしめるその感覚に、ティーガの全身が感動で震えた。

  「さぁ、神使ティーガよ。我を連れてヴェルガルドへ行くのだ。はようはよう!」

  喜びと同時に、深い憂いがウォルカの胸に影を落とす。

  「リューゴ、貴様……。

  ティーガの足が戻ったのは確かに喜ばしい。だが、ひとまず身請けして、主様の邸宅で休んでからでも遅くないだろう。何もかもきちんと説明しろ」

  「なんだと!?だから急いでおるんだと…もがっ!?」

  喚き散らそうとするリューゴの口を、ティーガが素早く手で塞いだ。

  「ウォルカの言うことも一理ある。……領主の家にお前を隠して連れていく。それならどうだ?」

  ティーガの目配せに、ウォルカは小さく頷いた。

  「……そうだな。主様の邸宅なら安全だ。こいつを隠して連れて行くのも容易いことだ」

  ティーガは溜息をつき、ベッドに溢れた金貨を掬い上げた。

  「おい、リューゴ。この金……契約金として貰っちまうからな」

  ティーガはウォルカに向き直る。

  「ウォルカ、悪いがこの金で俺を身請けしてくれ。こいつの代理で、頼む」

  その提案に、ウォルカは一瞬言葉を失った。

  本当は、自分の名で、自分の金で、二十年分の想いを込めてティーガを救い出したかった。

  その「自由」が、突如現れたトカゲの金によって、あっけなく買い叩かれようとしている。

  この金で、ティーガは自由になる。

  だが、同時に自分の手から離れていくような、釈然としない思いが胸を焼く。

  「……分かった。代理で、俺が身請けしてやる」

  声は静かだったが、喉の奥に熱い塊が詰まっていた。紅い瞳を伏せ、嫉妬を殺す。

  (これで本当に、お前は自由になれるのか……?)

  ウォルカの胸には、晴れることのない不安の影が、黒々と渦巻いていた。