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[chapter:眼と足]
地下神殿は今日も薄暗く、寝台のそばで湧き出す泉のおかげでしっとりと潤っている。やわらかな蒸気に包まれた空間はさほど寒くはなく、一年を通じてちょうどいい温度に保たれている。
そういえば最後にほかの誰かの顔を見たのはどれくらい前だったかしら、とシュバリスは寝台に足を伸ばしながら覚醒しきらない頭でふと考えた。
『ありがとう。ーーさよならシュバリス、ぼくの女神』
最後に会った相手はそう、彼だったーー最後に見た恋人、正確にはもと恋人のやわらかな微笑を思い出し、しかし顔全体の造作や声はすでに薄れつつある、そのことにほんのちょっと寂しさと、ざまあみろ、というような勝ち誇った感情をおぼえて、シュバリスは長い足をもぞもぞと動かしてため息をついた。
シュバリスが、元恋人を含む六人の仲間たちとエウレシアを建国して千年になろうとしていた。よくわからないが、世話係のアイドクレーズの話ではもうじきちょうど千年だとか。エウレシア、かつてひとりの人間の王と六人の[[rb:獣人 > フェラム]]の王によって創られた帝国。あわせて七人の彼らは種族間争いの絶えない世界をひとつにまとめてエウレシア帝国を建てたが、シュバリスはその建国者、七つの柱と呼ばれ、いまでは神さまとなった建国七柱のなかのひとりであった。蛇人族の神で、女神。もっとも、死んで神にまつりあげられた他の六人と違い、彼女だけはいまだに生身の存在としてこの世に生きているため、半神半人とよぶほうが正しかったが。
シュバリスはしかし、たったひとり生き残っていることを特に寂しく思うこともなく、ゆっくりと寝返りをうちながら、この日はめずらしく過去の記憶を頭の奥底から掘りかえしてみる気になった。あれから千年のときを閲し、初代皇帝となった元恋人もとうぜんこの世にない。シュバリスと違って永遠の命をもたなかった恋人は、別れたあと生きていたとしてもせいぜい百年が限度だし、ほかの獣人の仲間、兎・猫・鳥・熊・狼の性質をもつ獣人たちもとっくに亡いから、好き勝手に彼らを思い出して評点をつける暇だけは彼女にはたっぷりあった。
シュバリスは[[rb:蛇人 > アンギソム]]、つまり蛇の性質をもち蛇に変化できる[[rb:獣人 > フェラム]]だった。だから彼女が王として率い、まとめてきたのも[[rb:蛇人族 > アンギス]]だ。だが、なぜかシュバリスの記憶にいまもはっきり刻まれているのは、エウレシア建国にいたるまでの辛い旅や戦いではなく建国後の紆余曲折で、とりわけ印象深いのは、兎とか猫とか鳥とかの獣人族と異なり、地上でもっとも多数を占める人間たちが、立役者のひとりであるシュバリスがいるにもかかわらず、なぜか統一後も蛇人族にだけはまったく親近感を抱いてはくれなかったことだ。ほかの獣人たちが、そもそもの戦の原因であった人間との溝や差別を克服するいっぽう、なぜか蛇人族だけが友愛の輪からはじかれていた。そしてそれをひしひしと感じていたからこそ、シュバリスは建国後、人々が蛇人への嫌悪や恐怖を克服するまでエウレシアのなかでも辺境である森林と鉱山ばかりの帝国極東ヤハン地域を領土としてわけてもらい、蛇人たちを連れてそこへ移ったのだ。そして、華やかな都から遠く離れた僻地を統べる、もとい引きこもることになったシュバリスに、帝国建国の託宣と大いなる力をくださった[[rb:大神 > ジヴァ]]は、ほかの人間や獣人たちにはない永久の命を気前よく与えてくださった。
そしてシュバリス長生きになってしまい、なんとな〜く千年がたってしまったのであった。おしまい。
肝心なところはすべてとばし、しかしおおざっぱに千年をざっと追憶し終えてしまったので、シュバリスはふわあ、とあくびをし、もう一度眠ろうとした。と、横からするどい声がとんだ。
「あっまた寝ようとしてるっ! だめですよ、いいかげん外に出られたらどうですか、退屈なら退屈で寝てばかりいないで外に出るべきです、まがりなりにも神さまなんですからねあなたは。ひとびとの声をきかないと」
「神さまじゃないもぉん」
シュバリスは重いまぶたと頭をもちあげて反論した。
「ちょっと寿命が長くて魔力が高いだけの人間だもん、まだ生きてるもん。それにもう守るべき土地も人もいないもの、しょうがないわ……どうせわたしたちは滅ぶべき種族だったんだもの、仕方ないのよ、くすん」
「あなたがお出になって戦えばよかったのでは? そうすれば蛇人はこんなジリ貧にならずにすんだんですよ。はあ、まったくこの数百年というもの、景気が悪くてしょうがないったらーー」
ジト目でシュバリスを睨む従者に、
「戦ったらますます悪者あつかいされて徹底的に滅ぼされるところまでいっちゃってたわよ。いいのよ、だってもともとわたしなんか、仲間にはいれてもらったけどあのときからなんにもできないあつかいだったんだもの」
蛇人族はいま、ほかの種族のように繁栄しているとはいいがたかった。ひとえに、建国の際シュバリスが果たした役割が原因であろうと思われたーー建国まえの戦乱期、ほかの六人が敵を斃し、力づくで土地や城をぶんどって国土を統一する一方、シュバリスがしていたのはおもに彼らのごはん係と、旅や戦のあいだにぞくぞく生まれた仲間の子や孫や親の世話だった。[[rb:狼人 > ルプス]]や[[rb:熊人 > ウルス]]は腕力が高く戦闘にむいており、[[rb:鳥人 > アウィス]]は見張りと空中戦に長けていた。すばしっこい[[rb:猫人 > フェレス]]と[[rb:兎人 > レプス]]は斥候が得意で、ともに大勢の仲間をつかって情報収集にあたった。大きな戦闘では全員が戦場にでた。[[rb:蛇人 > アンギス]]であるシュバリスにも斥候に使えるたくさんの仲間がいたし、敵に仲間を潜り込ませて隠密活動をさせることもあった。だが、彼女自身はあまりに目立つ風貌だったのでおおっぴらに動けなかった。よって戦場で戦うことは副官にまかせ、彼女は本拠地のお城で掃除・洗濯・料理・育児・介護に勤しんで過ごした。それだって当時はだいじな役目だったと自負しているーーが、毎日えんえんとほかの六人や部下たちの世話を焼いているうちにいつのまにか戦いが終わって功労者のひとりとなっていたので、シュバリスにはじぶんが建国者である実感がさほどない。おまけで加えてもらったような気がいまもしている。そしてそれは、本人がそう感じる以上にのちのエウレシア内部においても通説になった。蛇人シュバリスは建国に際しほとんどなんの役割も果たさなず、なのに建国七柱のなかに入ったずるい女神である、ただ幸運なだけである、と。
しかしそれもまたシュバリスのもつ魔法特性のひとつではあったーー“幸運”。シュバリスは蛇人のなかでも希少な[[rb:大蛇 > オロチ]]族で、なかでも貴重な、純白の全身に赤い瞳をもつ[[rb:大白蛇 > ナーガ]]の獣人だった。大白蛇は人に強運と大きな富をもたらすといわれており、長いあいだ他種族や、ときには同族からも狙われてきた。生まれつき引きこもりの運命を与えられていたのだと彼女は思うーーものごころついたときからシュバリスはひとりきりだった。大白蛇人の生き残りとして、幼いころからヤハンの洞窟に隠れて暮らしてきた。だが、ほかの六人の仲間たちはそんな彼女を見つけ、説得し、友だちになり、ずっといっしょにいてくれた。長い旅のあいだも軍を率いて大陸統一に動きだしてからも、多少の衝突やいざこざはあったにせよ、彼らのおかげでシュバリスも充実した日々を送ることができた。
そしてエウレシア建国後、七人はそれぞれの種族の長として、帝国内部を七つにわけて暮らし始めたのだが、前述の事情にくわえ、たいした働きもしておらず肩身が狭かったため、シュバリスは仲間とともにいちばん辺鄙な土地に住まうようになった。その恩恵としてただひとり長命を与えられたのは意外だったが、しかしこれも彼女にとっては恩恵と思えず、同世代のひとびとが平均寿命を生きつくしたころ、シュバリスは部下が建ててくれた地下神殿に降りてひっそりと隠遁生活をはじめた。仲間の六人が次々と世を去ってゆくのにじぶんだけが地上で生き続けるなんて耐えられなかった。顔見知りがだれひとりいない世界で生きつづけるのも苦痛だった。七柱ゆいいつの生き残りとして彼らの武勇伝を語る気にもなれなかった。最後は六人といい別れ方をしなかったこともある。
そう、いまではすっかり伝説と化している六人だが、シュバリスにとってみんな生身の人間であり血の通った獣人だった。リーダーで彼女の恋人だった純人間の男ハルトガルトは、エウレシアが統一されて皇帝の座に就いたとき部下の人間の女の子を選んで結婚してしまった。彼とひそかに、しかし仲間内ではおおっぴらにパートナーとして扱われていたシュバリスはありていにいえばふられたことになる。当時はものすごいショックだった。熊人と狼人、兎人と猫人の四人もそれぞれ問題を抱えていて、建国後はたびたび対立した。その四人も最後は喧嘩別れしたーー失恋の痛手をこらえ、唯一中立を保った鳥人ライドとハルトガルトとともに彼らのあいだにたって諫めようとしたシュバリスだったが、戦闘のみならずこちらでもあまり役にはたたなかったように思う。
そして千年の時が流れるあいだ、状況はめまぐるしくかわった。
大きな種族間対立の時代を脱したエウレシアは発展期をむかえた。国土が開かれてゆくと同時に人口が増え、ほかの獣人たちは自分たちの住む地域では足りなくなり、蛇人たちが暮らす鉱山と森、豊富な資源をもつとのちにわかったヤハン地域を移住地として要求するようになった。彼らはやがて、ヤハンを含む帝国東方エイシャ域に住む蛇人たちをも邪魔に思い、ハルトガルトら建国者が世を去って数百年が経ったころ『蛇人族のみは獣人の仲間ではない』として迫害をはじめた。この迫害は、大部分が武力を用いたものではなかったとはいえ帝国全土に蛇人に対するひどい差別意識をもたらした。蛇人はほかの獣人とちがって“よこしまで悪い獣人”などといわれ、その気運は高まり、蛇人たちもみずからを恥じて、固有の領土であったヤハンなりエイシャから方々に散り、蛇人であることを隠して暮らしはじめた。
だからシュバリスの神殿を守ってくれる蛇人たちも数を減らし、地下神殿と対をなす地上のシュバリス廟を訪れるものもめったにいない。アイドクレーズのいうジリ貧とはこのことだ。ふたりの食料は仲間である蛇人の崇拝者がもってきてくれるお供え物でまかなわれていたが、これもまた激減していたーーシュバリスは一年をとおして冬眠しているようなものだからさほど食料を必要としないが、なんだかんだ外と地下を行き来している従者であり護衛であり世話係のアイドクレーズにとっては、供物のあるなしは死活問題だった。彼はシュバリスが拾うまでただの人間の子どもだったから、外の価値観をちゃんともちあわせているしそれなりに腹も減るのだ。
「まあいいじゃないの。そうはいってもまだちゃんと森は残ってるし、いざとなったらお外に出てなんとかするわ。お供えをくれるひとがいなくなってもだいじょうぶ、わたしは頑丈だし、あなただってほかのひとよりは丈夫だもの」
「あなたの魔力のおかげでね。はあ……あなたがハルトガルトほどちゃんとしてたらな。ほかの獣人王でもいい、そっちに仕えたかったですよ。こんなに怠け者で怠惰でめんどくさがりでのんびり屋なひとがあるじだなんてお先真っ暗だ。やれやれ」
「ちょっとちょっと。最後はいいように言ってたけど、怠け者とか怠惰とかって、それぜんぶ同じ意味でしょ」
「おや、わかりましたか」
「わかるわよ! だてに千年生きてるわけじゃないんだからね!」
「その千年、あなたはほとんど寝てただけでしょお? 中身は千年前と変わりゃしない、ジヴァさまから永遠の命じゃなくて知能をいただくべきでしたよほんと。それか常識!」
「なによ、生活力は七人でいちばん高かったわよ!ーーん?」
シュバリスが気づくと同時にアイドクレーズも気づいた。地上の廟で鐘が鳴らされていた。久々の参拝者だ。
「誰かがなにかもってきてくれたのかなあ。ありがたい、久しぶりの食料かも」
アイドクレーズはうきうきと立ち上がり、シュバリスもがぜんやる気がでてきた。
「果物あるかなあ果物。ねえアイク、果物あったらすぐ持ってきて!」
「はいはいわかりましたよ、っと。じゃあちょっと行ってきますからお待ち下さいね」
アイドクレーズがいそいそと地上への階段へ向かう。岩の壁で囲まれた頑丈な地下洞窟の、少し離れたところにある泉の真上から地上の光が細くさしこんでいる。いつだったか地震が原因で天井の分厚い岩盤が割れ、外からはわからないていどのすきまがあいている。わずかに赤みを帯びた光に、もう夕暮れなのかしら、とシュバリスは眠気をこらえてふたたび寝台で寝返りをうった。
しばらくして、慌てたような声が静寂を切り裂いた。
「ーーリスさま! お逃げを! 逃げて、早く逃げーーうわあああああ!」
「うーん? なにをどうしーーきゃああああ!」
気づいた時にはシュバリスの寝そべる寝台の上に、細長いものをふりかぶる影があった。全身黒づくめの男と目があう。金色の目をしていたーーしかしそのことに注意をむける時間もあらばこそ、すさまじい痛みがシュバリスの足を襲った。男が剣でシュバリスの足、人の姿でいうところの太ももから下の部分を切断したのだ。
「ああっ……あーー!」
それだけでは飽き足らず、男はさらなる蛮行に出た。長剣をすばやく鞘にもどすと、かわりにナイフを引き出し、体をくねらせて逃れようとするシュバリスの目に突き立てた。
「きゃああああああああ」
抉り出した深紅の目を掴みとると、すぐそばに転がっていたシュバリスの切断された足を抱えて男は身を翻した。シュバリスは動けなかった。足はともかく片目を抉り取られた痛みと衝撃で頭が真っ白だった。男はなにかを叫ぶアイドクレーズを突き飛ばし、ふたたび地上への階段をかけあがり姿を消した。正味にして十数秒、あっというまのできごとだった。
「いやあああああっーー」
我に返って、シュバリスは絶叫した。
「いやーーいやいやいや! ひどいよーー!」
「シュバリスさま! だいじょうぶですか!」
アイドクレーズがようやく駆けつけ、シュバリスは彼にむかって必死で頭を振った。
「だいじょうぶじゃないよ! 痛い……痛いよーー! あ、足が! 眼がーー!」
「しっかり」
アイドクレーズが慌てたように目と足に手をあてて治癒魔法をかけた。しかし彼の魔力はもともとシュバリスから日々分け与えられているものだ。シュバリス本人の魔力が創傷によって足と目から流れ出てしまっているいま、彼の回復魔法たいしてシュバリスの傷を癒さなかった。シュバリスは頭をもたげ、残った目から涙をぼろぼろこぼして制止した。
「もういい、やめてアイク、あなたまで具合悪くなっちゃう……じぶんで恢復するからわたしはだいじょうぶ。やめて」
「しかし」
「いいの、平気。騒いでごめんなさい、すぐ元どおりになるから。だから……」
「なりますかねーー?」
足の大部分をもっていかれてしまっている。「ただの人間や獣人なら、この傷と出血でだって死にいたりますよ」と不安そうにアイドクレーズはつぶやき、シュバリスも内心不安だったが「だいじょうぶ」とちいさくうなずいた。
「どうなるにしろ傷で死ぬことはないわ。わかってるでしょ、永遠の命、ね? だから心配しないで……ちょっと休めばだいじょうぶーーほら」シュバリスがなんとか微笑むと、
「わたしの魔力じゃ足りないなら、せめて食料を探してきます。それか薬草を。血を止めなきゃ」
食物はもっともてっとりばやい魔力供給先だし、薬草で止血して魔力の流出をふせぐのもいい手だ。意識を薄れさせながらシュバリスは「お願い」とつぶやき、心配そうではあったがアイドクレーズは「わたしのできる限りの力で結界を強化していきます。あんなのが二度と入ってこないように」とけわしい表情で出て行った。
清浄な空気でみたされていた地下には、すっかり血の匂いがたちこめていた。
(なんでこんなことされるの……? なにが起こったの?)
ひとりになった地下洞窟で、寝台にぐったりと横たわり、うめき声をもらしながら、ようやくシュバリスはさきほどのできごとについてじっくりと考えはじめた。
(なんなのあいつーー)
獣人か人間かもとっさのことでよくわからなかったが、ここに来られるくらいだから魔力は高い。シュバリスの魔力は防御に適性があり、地下にもかなり高度な防御結界を張ってある。よこしまな意思をもつものは特に入ってこられない。まがりなりにもここは神の住む家なのだ。だがそれを突き破ってきたのだから相手の魔法は攻撃系に特化している。しかしあれほどに攻撃的な攻撃魔法とは?ーー狼人か熊人だろうか。しかし彼女の思考は、すぐに痛みで霧消していった。
(傷の治りが遅いわ……どうして? なぜこんなに遅いの?)
もちまえの魔力にくわえ、ジヴァ神からもらった長命は、高い恢復力つまり細胞の再生力と同義だ。なのに男がもたらした傷はひどく恢復が遅い。それどころかどんどんひどくなる。傷口からじわじわと内部まで切り口が広がっていく感覚に、
「さまーーシュバリスさま!? しっかり!」
気づいた時には泉に反射する光は夜の色に変わっており、壁のランプに炎が灯っていた。そばにはアイドクレーズがいた。彼は必死の形相でシュバリスを抱きかかえていた。
「水は飲めますか。水と薬草を蒸留して作ったものです。急ごしらえですがとにかくこれだけでも」
「ありがーー」
自力では飲めなかった。そうと見て取るやアイドクレーズは口移しに薬草いりの水を飲ませてくれ、手に光を宿しながら患部をつぶさに観察して「なにか毒が入ってたかナイフに魔法がかかってたかだと思います」と青ざめた顔で云った。
「きっとそうですーーでなければ、あなたがこれほど苦しむはずがない」
気絶するほど体力を損なうはずもない。シュバリスもうなずいた。
「わたしもそう思う。あいつ、ただものじゃなかったんだわ」
魔力の流出はやっと止まった。だが、失った力はかなり膨大だ。薬のおかげですこしだけ元気を取り戻したシュバリスは、残った片方の目でやっと自分の体を見下ろしてぎょっとした。ただでさえ細い胴がひとまわり細くなっている。というより、体全体が短くなり、体長も縮んでいた。
「ひょっとしてーー?」
脳裏をひらめくものがあった。奪われた足も眼も、膨大な魔力を蓄えたシュバリスの肉体の一部だが、あの男はそれを手元に置くことでシュバリスの魔力を吸い取り続ける特殊な遠隔魔法を使っている。だとしたら、恢復しようにもそのぶんの魔力を常に奪われつづけることになる。アイドクレーズも気づき、苦々しい顔で地上のほうを見上げた。
「取り戻さなきゃなりませんね、眼と足をどうしても。でなければ完全な恢復にはいたらない」
「ええーー」
しかし、またあの男と顔をあわせるなど恐怖だった。「どうしよう」と怯えるシュバリスに「わたしが行ってきます」とアイドクレーズがきっぱり云った。
「追いかけて捕まえて、取り戻してきます。あなたはここでお待ちを。では」
「待って。だめ」
いまにも飛び出していきそうな従者をシュバリスは必死で止めた。シュバリスの魔力を手に入れたいま、以前はともかく、いまあの男はアイドクレーズより強くなってしまっている。返り討ちにされてしまうかもしれない。怠け者でふがいなくてだらしなくて怠惰なじぶんに五百年も忠実に仕えてくれたアイドクレーズを、シュバリスはぜったいに喪いたくなかった。だが、どっちみち足と眼は絶対にとりもどさなくてはーーとなると?
シュバリスは決意した。
「わたしが行くわ。じぶんであいつを探しに行く。外に出るわ」
「ーーえ」
絶句する従者にシュバリスはこくんとうなずいた。
「やるときはやるわよ、だいじょうぶ。もうちょっと傷が恢復したら行くわ。ゆっくりだけど治ってはいるもの、傷がふさがってしまえばあいつを追える」
「しかし、そのあいだに遠くへ行ってしまいますよ」
「そうね。でもーー」
片方だけになったとしてもよく見える目は、いまもこんこんと湧きだす泉のそばで、闇の中でも光を反射する小さなものを捕捉していた。そもそも蛇人族はとても目がいいし夜目もきくのだ。
「シュバリスさま?」
シュバリスは小さくなった体で寝台を降り、そのまま這って泉に寄った。
シュバリスとて抵抗しなかったわけではない。目をえぐられる前、のたうつ体が男の手を打ち、そのとき男がなにかを落とした。
金色の台座に黒い魔晶(クリスタル)が嵌めこまれている指輪だった。魔晶には盾の図章が描かれ、その盾の上にイニシャルのSが刻まれている。
「手がかりを見つけた」
指輪を口にくわえ、やってきたアイドクレーズの手に落とす。指輪を見たアイドクレーズは感心したようにシュバリスにうなずき、彼女のさらさらとした頭を撫でた。「さすが」と感嘆する従者の目に、もはや大蛇とは呼べない標準体型の白い蛇が映っている。シュバリスの深紅の瞳が、アイドクレーズの灰色の瞳のなかできらめいた。
「さすがですシュバリスさま、ただでは転びませんねえ。だてに千年生きていらっしゃらない」
「もちろんよ。さてーー地上にいかなきゃね。そうとなったら久しぶりに人間の姿にならなくちゃ。ヒトになる魔力が残ってればいいけど」
じぶんの体を見下ろして、アイドクレーズだけにわかる蛇の発音でシュバリスは呟いた。
[newpage]
[chapter:紋章
]
眼と足は、いまにも開きそうな傷が赤く爛れた様子ではあったが出血はやみ、薬草のおかげか一晩たつと痛みも和らぎ動けるようになった。しかし、なんとか立って歩いて走れるようになったものの、とんでもない事態がシュバリスとアイドクレーズを待ち受けていた。
「いやあっ、なにこれえー! やだやだ、いまさらこんなのってないいいーッ!」
人型になったシュバリスは、地下の洞窟に作られた神殿の、いつも彼女が過ごしているホールに隣接した部屋で鏡を覗き込んで悲鳴をあげた。そのわきではアイドクレーズが「しょうがないでしょ」と憮然と云った。
「あの男が持ってる眼と足からいまも魔力を吸い取られてる。とにかく人型になれただけいいじゃないですか、そのぶんの魔力はちゃんと残ったんですから」
「でもでも、ひどいー! だって昔は、まがりなりにも蛇人族のなかじゃダントツで強い魔女だったのよわたしは! なのにこんなのって!」
人型になったシュバリスは未成年の少女の姿だった。しかも十歳になるやならずの年齢だ。自慢ではないが以前人型になったときは二十代のうら若き乙女だった。愚痴をもらすシュバリスに、じゅうぶんじゃないかとアイドクレーズはつくづくシュバリスを眺め、幼くなってなお秀逸な姿かたちにひそかに見惚れたが、シュバリスがなおもくだくだと不満をもらすので徐々にイライラしはじめた。
「いいじゃないですかあなたは、まがりなりにも十歳くらいには見えますよ! それにひきかえ見てくださいよわたしなんか、一晩寝て起きたらこのありさま!」
「ーーかわいいわよアイク、ほんと。なんだかとても男の子らし……ぶふっ、あ、ごめんなさい」
「笑っちゃってるじゃないですか! ちっくしょう、かわいくったってなんの役にもたちゃしねえ、けええーっ!」
シュバリスの世話係であるアイドクレーズの命はシュバリスの命に直結している。シュバリスが永久の命をもつならアイドクレーズは半永久だ、そしていま、シュバリスが魔力を失い十歳ほどの少女の姿にしかなれないのに対し、今朝起きたアイドクレーズは七、八歳ほどの少年に逆戻りしていた。昨日までは見た目年齢二十代後半から三十代のおとなだったのに、だ。従者として五百年シュバリスに仕えるアイドクレーズは、このことにひどい屈辱をおぼえた。
「ちくしょうあの野郎、こんど見つけたらただじゃおかねえ! もし獣人だったらてめえの尻尾ぐちゃぐちゃに切り刻んで両方の目玉抉りだしてやる!」
「ひっ……」
気焔を吐くじぶんにシュバリスが本気で怯えているのに気付き、アイドクレーズはあわてていつもどおり穏やかな表情を作った。
「失敬を。とにかくシュバリスさま、あなたはいちおうは人型になれたし人型を維持する魔力も残ってらっしゃる。見た目はいかんともしがたいですが、ならば足と眼を取り戻せばなんとかなるでしょう。それにあいつを追いかけるにも、いたいけな女の子のほうが有利かも。むろんわたしも、こうなったらーー」
アイドクレーズは、地下に押し入ってくる男を止めようとするときまともに顔を見られている。シュバリスのほうは蛇型で対峙したから人間の見た目は知られていないが、ふだんのアイドクレーズと明らかにただものではないシュバリスがセットで現れたら、足と眼を取り戻しに来たのだと即座に気づかれるだろう。
あの男とまともにやりあうのは得策ではない。子どもの姿で油断させたほうがいい。そうアイドクレーズが告げると、シュバリスはなおも鏡の中の自分をみつめてうーうー唸っていたが、やがてこくりとうなずいた。
「そうね。とにかく外に出てなんとか人としてふるまえるくらいの力は残っているんだし、体の一部を奪われたとはいえ膨大な魔力がまだ残されているんだしね。これだけあればなんとかなるわ。よおし、そうと決まったらとっととお外に出て足と眼を取り戻して、ここでまた千年のんびり暮らしましょ!」
「また千年、というのはちょっと考えものですがとにかくいってみましょう」
この姿で男の不意をついて足と眼を取り返す。ふたりはそう話をまとめ、外に出ても奇異に思われない衣装を選びにかかった。
この部屋は、人型になって過ごすときの道具類を詰め込んである部屋だった。蛇神シュバリスへのお供えもののなかには、食料のほかに衣服や小物だのがときおり混じっており、ここ三百年ほどシュバリスは「こっちのほうが楽なんだも~ん」とたまのお散歩や遊び以外では蛇身でばかりいたが、アイドクレーズが念のためとっておいた古道具およびアンティークの衣装がようやく日の目をみた。
「あの男がどこにいったにせよまだ遠くへは行ってないはず。エイシャのなかで捕まえられるといいんですけど、そこから先へ行くとなるとまた別の服を手に入れないとだしーーこれで足りるかなあ」
見聞きしてきた情報を思い返しながらアイドクレーズが呟くと、
「ねえアイク。外のことはもうわたしにはよくわからないけど、あれからファッションもそうとう変わったわけ? わたしが地下にひきこもってから?」
「そりゃあ大幅に変わりましたよ、千年ですよ千年、原始人も文化人になりますよ! わたしがここに来た五百年前とくらべてもだいぶ変わっちゃってます、だいいちエウレシアは広いですから、地方の特色ってものがばっちりでてきてますこの千年で」
「そう。……ヤハンじゃ特に大きな変化はないみたいだけど?」
お供えの衣装や小物を古い順もとい年代順に並べかえ、首をかしげて比較するシュバリスにアイドクレーズはしかめ面で頭を振った。
「なにをおっしゃる子蛇さん。それでも流行りの柄とか丈とか各パーツの形とか……いや、いいです。とにかくシュバリスさまはこちらをお召しになってください。なぜだか子ども用の衣装を奉納してくれたひとがいて助かりました、これならなんとか着られるでしょう」
白い下着を羽織らせて紐を結んで固定した上からゆったりとした赤い衣装を着せかけ、やわらかな白い帯を腰に結んで留める。足にはサンダルを履かせる。長い髪を編んでやりながら、とにかく髪を切られなくてなによりだったとアイドクレーズはほっとした。髪もまた強い魔力を秘めた肉体の一部だ。あのとき蛇型だったのはつくづく幸運だった。
「よしできた。これでよろしいですか?」
「ばっちり。アイクはすごいわねえ、わたしも練習しなくちゃね。人型のときの身支度をすっかり忘れちゃってるわ」
鏡を覗きこみ、きれいに三つ編みにされてまとめられた髪、しかもそこに、同じくお供えに混じっていた綺麗な赤い石の髪留めまでつけてもらったシュバリスはご機嫌だった。よくこの無邪気さでほかの六人の英雄についていけたな、と感心しながらアイドクレーズもじぶんの支度をすませ、ふたりして鏡に見入った。身なりがよくなったおかげでちょっぴり大人びた、とはいえ、いつもとだんちがいに幼い顔からだに愕然とする。シュバリスがぼやいた。
「ねえ。とにかく二人で旅をするってことになるけど、子どもだけだと疑われるんじゃない。子どもだけの旅は危険、これは千年前と変わらないわよね。なんて説明する?」
「親戚を訪ねにいくってことにしましょう。ちっとも似てないからきょうだいのふりをするのは無理ですが、とりあえず、いとこ同士ということで」
「いとこね、わかった」
ふたりの外見は正反対だ。まっすぐな銀髪に澄んだ白い肌、[[rb:柘榴 > ざくろ]]の目をしたシュバリスと、くしゃくしゃの黒髪を後ろで束ね、濃いミルク色の肌に灰色の目のアイドクレーズ。ぱっと見に血のつながりを感じさせるものはなにもない。
アイドクレーズは指輪を取り出してシュバリスの眼前にかかげた。
「手がかりはこれです。森を出ていちばん近い都会はベイジですので、ひとまずそこに行って指輪について聞きましょう。ヤハンは森ばっかりだしこういう指輪を作ってる大きな家があるとは考えにくい。あなたが寝てるあいだに仕入れやなんやでヤハンをうろちょろしてますけど、こんな紋章わたしもぜんぜん見たことないし。というか、これが家紋かなにかなら話は早い、あいつはその家の人間だ」
「うん。失くさないようにしなきゃね」
「とすると、あなたがお持ちになっていたほうがいいですね」
防御はシュバリスの十八番だ。輪に皮紐を通しておいた指輪をアイドクレーズが首にかけると、シュバリスは緊張した顔で衿の内側へしまった。
わずかな手荷物の入った鞄を抱えて部屋を出る。ホールの床には大理石の石畳が敷き詰められている。寝台のすこし奥、泉の周囲だけが自然のままだ。天井のわずかな切れ目から、神殿ぜんたいに真昼の光が降り注ぐなか、日光を反射してきらめく泉の水面からいつもじぶんが眠っている寝台、階段と視線を移し、名残惜しそうにため息をついて、シュバリスはアイドクレーズに「いきましょうか」と告げた。心細げな瞳にアイドクレーズも胸苦しくなり、しかしじぶんまで心細い顔をしていてはますますあるじを悲しませるだけなので、表情にはみじんもださずに力強くうなずいた。「いきましょう」
階段をのぼり、重い鉄の両扉を開く。短い廊下の先の鉄の両扉を抜ける。さらに短い廊下の先には、蛇のレリーフのついた木の扉。ひさびさに通り過ぎた木造の神殿は開放的で、ひっそりとして誰もいなかった。もう何百年とじぶんの住処の地上部分をまともに見ていないシュバリスは懐かしそうに目を細め、小さく「いってきます」と、誰にともなく囁いた。
「だいじょうぶですよ。すぐに帰れます」
「ええ」
こんもりと棲み処を包む森の中を、ふたりはゆっくりと歩いた。シュバリスがショック死しないよう、エイシャを含めた世界、現在のエウレシアがもう彼女の知っている国とはまるで違う国であることをどうやって伝えるべきかアイドクレーズはずっと逡巡していたが、じぶんの目で見る以上の理解はないとけっきょくは諦めた。とくに云いづらいのは現在の[[rb:蛇人 > アンギソム]]がおかれている状況だ。シュバリスが表舞台から姿を消した当時はともかく、蛇人族はいまきわめてまずい立場にある。それをどう伝えるべきかーーアイドクレーズは悩み、しかしとにかくそのことにはとうぶん触れまいときめ、遠回りせず最短ルートでベイジへ向かう道を辿ることにした。
森の端からしばらく行ったところでふたりは乗り物を拾った。比較的調教しやすい小型飛竜を使った運び屋は昨今ではエウレシアのどこにでも見られる。小型の[[rb:飛竜 > ドラゴン]]が繋ぎ場にたむろし、世話係の男が餌をやっている。首にかけてあるプレートでベイジの名があるものを選ぶと、ふたりは背につけられた鞍の上になんとか乗った。飛竜は毎日住処と餌置き場を行き来するよう躾けられている。子どもの体でよかった、と、アイドクレーズもシュバリスも初めて思った。二人乗りで路銀が節約できたのだ。
ベイジへ向かう空中の旅のあいだ、シュバリスの不安は軽減したようだ。アイドクレーズの背に腕をまわし、感心したように耳元で、風に負けない大声で怒鳴った。
「飛竜ってこんな使い方できたのねーっ! わたしたちが旅してたときもあったらよかったのに、ハルトがたまーに捕まえては乗って、シオンとエステルとエコーといっしょに振り落とされるまでの秒数を競う遊びしてたけど、あのときはなんだか鳴き声がうるさいだけだし美味しくないし、ずっと避けてとおっちゃってたわ!」
「ーーえっ。食べたことあるんですか?」アイドクレーズは目を白黒させた。ちょっと振り返ると、シュバリスはニコニコしていた。
「せっぱつまってねえ。お腹ぺこぺこだったのにあんまり美味しくなかったんだからそうとう美味しくなかったんだわ。煮ても焼いても駄目で、最終手段で揚げてみたけどそれでも無理だった」
食料としてはともかく、移動手段としての飛竜を、彼女はとても気に入ったようだ。ベイジへ降り立ったときには「戻ったら神殿にも一匹繋いでおけないかしら」と考え込んでいた。
帝国東方シーナ地方、首都ベイジ。おおぜいの人で賑わう通りに来ると、あたりを見渡した彼女の目はまんまるに見開かれた。
「こーーここがベイジ? ほんとうに? なんだかとっても、すごーく変わっちゃったみたい。わたしの知ってるベイジはちっちゃい田舎町だったけどーーたしかにエイシャじゃちょっとした町だったけど、」
「千年も引きこもってるからですよ。あ、危ない!」
ふらりと歩道を踏み外して車道へ落ちかけたシュバリスの腕をつかむ。彼女のすぐ目の前を、魔法で推進装置を追加された馬車が轟音で通過した。それでもシュバリスはじっと目の前の光景に見入っていた。
エイシャの伝統的な衣装に混じり、各地からやってきたさまざまな衣装にローブを着込んだ人々が群れをなして動き回っている。シュバリスはその瞬間、じぶんがすっかり時代遅れの人間なのだと気づいておじけづき、アイドクレーズの腕をぎゅっとつかんだ。竜に乗っていた時の楽しげな表情は、ふたたび不安にとってかわっていた。
「だいじょうぶですか。いまからでも戻りますか? わたしひとりでもなんとかしますよ」
「うん……」
そうしちゃおうかな、とシュバリスが考えたとき、ふたりの目の前を、盾の上にSと書かれた紋章が横切った。指輪と同じ。ふたりはつかのま見入り、それが通りの向こう側を小走りに駆けてゆく少女の抱えた鞄に染め抜かれた紋章だと気付いて顔を見合わせた。
「シュバリスさま。あれーー」
「うん。行こう」
少女の進む方向へと、ふたりは歩道を並走した。車道に車の途切れた隙をついて、アイドクレーズはシュバリスの腕を掴んで通りを横断した。少女はシュバリスと同じ年ごろだろうか、ベイジの人間らしく、シュバリスと同じキーノと呼ばれるたっぷりした袖の、首から下の全身をきっちりと布で覆う蝶袖服を身につけていた。ただしシュバリスと違ってズボン型の下履きを履いているため動きが軽快だ。ふたりは必死であとを追った。
やってきたのは、街の中心部にある大きな広場だった。広場に沿った車道の向こうに建つ巨大な建物へと少女はむかってゆく。しかしその前にふたりは気づいた。
「この紋章ってーー」
「たくさんある。なんでしょう、家紋ではなかったのかなーー恐れ入ります、よろしいですか? あのーーあの、そこのかた!」
「なんだい?」
建物の前でアイドクレーズの呼びかけに応じて立ち止まってくれたのは壮年の男性だった。種類は判別できないが獣人のようだ。彼のそばには娘とおぼしき、シュバリスよりやや年上に見える少女が立っていて、緊張した面持ちで一枚の紙片を手にしていたが、紙片の上部にはあの紋章が印刷されていた。
「あの、これーーこの紋章、いったいなんなのでしょうか。いったいなんのマークなので?」
「ん? 君たちも試験を受けにきたんじゃないのかい?」
「試験?」
「なんの?」
同時に訊ねかえしたため、男性は首をかしげた。一瞬の目配せでアイドクレーズが主導権をとり、「そうなんですが」とうなずいた。
「わたしたちは今回が初めてで。その試験とは?」
「そうか、初めて受けるのか! 所属は? どこの塾だい?」
「あーーえっと、東ーーのほうです、」
「じゃあヤハンのリュークか、それともキオト? ハクタ? あそこも初めての子が多いと聞くがうちの娘は今年で四回目だ、最後のチャンスだよ。今年こそ受かるといいんだけどね。受けるのはお嬢さんかな、君は年齢がまだだろう?」
「はい。そうなのですが」
「一発目で受かればそうとう有望だってことになるけどねえ。しかし一度で受かるのはそう多くない、とにかくあと三回もチャンスがあるんだから、今回はお試しだと思って気楽にすることだ。ここを出とけば将来有利だから、うちもなんとか娘をいかせてあげたいんだけどね」
ここ、というので、男性は娘の書類の紋章をつついた。
「ここーーとは」
「セレスタイン魔法学院だよ。セレスタイン・アカデミア・マギア、帝国魔法教育の最高学府。入学資格不問、ただし受験可能年齢は十歳から十三歳までの四年間、入学後は建国者の人数と同じ、七年の歳月をかけて学問と魔法を習得する。今年こそ娘にこのマークを勝ち取ってほしいねーーっと、あまりプレッシャーをかけないようにしなくては。だいじょうぶだよアリアナ。そうだ、こちらのお嬢さんといっしょに行ってあげなさい、初めてじゃ勝手がわからないだろうから」
「はいお父さま。はじめまして、わたしアリアナよ。アリアナ・リン・ノヴェレッテン。あなたは?」
黒に茶色と赤まじりの髪をおさげにしたアリアナの、眼鏡のむこうの青い瞳は明らかにシュバリスを見つめていた。シュバリスは慌てて答えた。
「レイミアです。レイミア・シュバリス・イスラメイ。よろしく」
「レイミア・シュバリス。蛇神シュバリスの[[rb:御名 > みな]]が副名なんて素敵!」
ほんとうは逆だった。シュバリス・レイミアなのだがーーシュバリスは曖昧に笑い、横から父親がからかった。
「娘はなんでかあの地味なシュバリス神が好きでねえ。わたしは彼女が七柱にふさわしいかどうかも確信しきれないのに」
「いいじゃない、七柱で唯一じぶんでは戦わなかったひとよ、彼女はとても賢いわ。いまのシュバリスの扱いは不当よ、わたしは学院で彼女について研究するの、ぜったい誤解を解いてみせるわ!」
「熱意を結果につなげてほしいね、早いところ」
「今年は自信あるわ、だいじょうぶよお父さま。じゃあ行きましょうか」
「はいーー」
周囲では似たような親子が数百組いた。アリアナの父が云ったように、子どもは全員が十歳から十三歳のあいだで、さっき見かけた少女のように紋章付きの鞄を提げている子もいた。アイドクレーズもせいいっぱい大人びたふりをしてふたりについていった。子どもたちは全員アリアナと同じ書類を手にしている。何本もの巨大な木の柱によって支えられたファサードを抜け、ドーム天井の内部に入ると中は吹き抜けになっていた。玻璃硝子を通過して色のついた光が天井からふりそそいでいる。「まあきれい」とシュバリスがぼうっと上を見上げているとアイドクレーズが袖を引き、ふたりはアリアナにくっついてさらに奥へ進んだ。
「これから受験生全員でミクラガードへ移動するの。初めてのときはびっくりするわよ、これほど大規模な転送魔法を経験するのはめったにないし。装置を目にするのもね」
廊下を歩きながらアリアナが笑い、シュバリスは曖昧な記憶を掘り返しながら首をかしげた。
「ミクラガードーーってきいたことがある。えっと……、」
「帝都よ。この国でいちばん大きな都、政治と学問の中枢。セレスタイン魔法学院は帝都ミクラガードにある。郊外に広がるものすごい土地が学校の敷地で、その敷地は皇帝家から下賜されたものなの。ねえ、シュバリスって天然? 受験生なのにあんまりなにも知らなすぎるわーーあ、ごめん、シュバリスって呼んでいい? 素敵な名前だからそっちで呼びたいわ」
「いいわよ、あなたが構わないなら」
「ありがとう。さっそく仲間ができて嬉しいわ。実をいうとこれが最後のチャンスだから緊張しちゃって。おしゃべりしてたら気がまぎれるわーーねえ、シュバリスはどこの塾にいたの? 塾同士の交流でも会ったことないわよね。あなたみたいなきれいな子に会ったらぜったい忘れないはずだもの。ベイジの外からきたの?」
「ええ。ヤハンなんだけど」
アイドクレーズを一瞥してシュバリスが答えると、
「ヤハンといっても広いけども。ヤハンのどちら? ここからだとハクタ、いえ、リュークが近いかしら」
「ん、もっと上の端っこのほう……云ってもわからないと思う、すごく田舎なの。のんびりしてわたしは気に入ってるけど。だからその、実をいうとセレスタイン? のこともよく知らなくて」
「そうみたいね。信じられない、気を悪くしたら申し訳ないけど、あなたのご実家ってほんとに田舎みたい。ベイジだとセレスタインの受験ていったら一大イベントなのに。一回目だからお試し気分? それとも記念受験?」
「そんなところ」
この紋章がセレスタイン魔法学院とやらの校章だとしたら、指輪を落とした男は学院の関係者か。ひそかに目配せしあったシュバリスとアイドクレーズだったが、アリアナが立ち止まったのでふたりも足を止めた。周囲は同じような子どもたちが大勢いるが、廊下のつきあたりにある大きな扉に足止めされていた。扉の前では、試験官らしい灰色の服を着た男女が子どもたちにむかってなにか喋っていた。一拍遅れて、魔法で拡声された声が廊下に反響した。
「さて、時間です! これから順番にミクラガードへ転送いたしますが、その前に全員このクリスタルに触れるように。ここまで見送りにきた保護者のかたも、どうぞお子さんを置いて家におかえりください。心配な方は別室で帰りをお待ちいただいてもけっこうですーーでははじめます。年齢を偽っていらした方も、ご存知でしょうがこれからは逃れられませんよ。さあ、触れて!」
最後まで付き添ってきていた大人は通路を引き返してゆき、子どもたちは二列に並ばされた。列の外側を、男女の教官が透明なクリスタルを持って歩き、ひとりずつ手を触れさせる。前方から「あなたは十四歳ね。だめよ、帰りなさい」と女性の声が上がった。
「あなたにはもう受験資格はないわ。さあ」
少年がひとり、逃げるように廊下を駆け去っていった。「たまにいるのよね」とアリアナが肩をすくめた。
「変な魔法使ってごまかそうとするひとが。学院の教官を騙せるわけないのに。ああはなりたくないわね、諦めのわるいーーと、お先に」
男が差し出すクリスタルにアリアナが軽く手を触れると、クリスタルが金色に輝いた。なにが起こるのかと必死にのぞきこむシュバリスの目の前で、クリスタルにアリアナの名と年齢が浮かんで消える。「次」と男がクリスタルをシュバリスに差し出した。
「初めてかな? やり方はみてたはずだね?」
「はい」
ほんとうは千歳だということがばれたら、とシュバリスは冷や汗をかいたが、手を触れたクリスタルは金色の光を放ち、名と年齢を浮かび上がらせた。シュバリスは十歳と判定された。純粋に肉体年齢のみを感知するらしい。しかし隣で、失笑とも苦笑ともつかない笑みが女性教官の口からあがった。
「まあまあ。諦めきれない受験生はたくさんいるけどこれは珍しい、あなたは待てなかったのね。でもだめよ、三年後にいらっしゃい」
アイドクレーズは七歳と判定されていた。促されておとなしく列から出たが「見ていていいですか」と女性教官に食い下がった。
「ねえさまが心配なので。おねがいします」
アイドクレーズの視線を追って、シュバリスを見つけた女性が驚いたように目を見開く。そのあと静かにうなずき「どのみち転送でもふるいにかけるから、まあいいでしょう」と後ろの子に移った。廊下の壁際にしりぞいたアイドクレーズは、教官が背をむけるとすぐに寄ってきてシュバリスに囁いた。
「まさか見た目ではじかれるとは思いませんでした。いっしょには行けないみたいです、どうしましょう」
「うん……ここで離れ離れになるのはわたしも厭。ねえ、とにかくこの紋章が学校のものだってことはわかったし、いちど撤退して別の場所でこの学校について調べてみましょうか?」
このまま試験まで受ける気はなかった。周囲の受験生はみな真剣だ、冷やかしで混ざってはいけない。アイドクレーズは賛成とも反対ともつかない表情でちょっとだけうなずいた。
「そうですね、いったん態勢をたてなおしたほうがいいかもしれません。この子どもたちのなかに犯人がいるとは思えないし……でもあの、お気づきになりましたかシュバリスさま?」
「ん、なに?」
「教官が、ふたりともあの指輪をしてましたよ」
「えっ、そうなの?」
「あいかわらずぼーっとしてますねえ」
アイドクレーズは苦笑いを浮かべ、後列に移動した教官ふたりを指で差した。
「よくみてください。ほらーー」
子どもたちにクリスタルを差し出すふたりの指には例の指輪と同じ指輪が嵌められている。シュバリスはびっくりした。
「じゃ、あいつはこのセレスタインなんとかってとこの教官? でもセレスタインって、よくわからないけどこの国の最高の学校だっていってなかった? ずいぶん立派そうなのにそこの先生がわざわざ神殿まで来てわたしを襲ったっていうの?」
「ひょっとして、職員なら誰でも持っているのかも。教官にだけ与えられる[[rb:印 > しるし]]じゃなく、学院の清掃係や食堂のコックさんまで含まれるとしたら、必ずしも温厚なひとばかりとは限らない。もしくは創立を祝っての記念品とか卒業生全員に贈られるとか、関係者に大量に配られているとしたら」
「膨大な数ね。とても探しきれないわ」
「しかし、あいつがこのセレスタインの関係者ってことはたしかそうです。手がかりはこの学院だ」
「とするとーーあ、ねえ待ってアイク。アリアナはいまからミクラガードまで移動するっていってた。わたしいま気づいたんだけど、転送って何百年か前に確立された長距離移動魔法よね?」
シュバリスの時代にはそんな魔法はなかった。飛竜を飼い馴らすなんて発想はだれもしなかったし、大多数のひとびとは徒歩か馬車を使うしかなかった。ごくまれに転移魔法が得意なものがいて重宝されていたがーー
「そうです。いわゆる印陣のうち、これは転送印、転移陣ってやつですね。一瞬で広いエウレシアのどこにでも行けるっていうんだから便利な世の中になったもんだ。ただ、多くの人を遠方に送ろうとすると恐ろしく準備に手間がかかるし広いスペースが要るとか。大きな魔法陣を書かなくちゃだし、魔法道具を四方に置くことになるから一度設置したら容易に動かせない。この建物なら問題なく設置できるし維持しておけるでしょうけどーーそれがなにか?」
「ーーもしあいつがアカデミアの関係者なら、これって逃げるのにうってつけじゃないかしら。どう思う?」
「えっ。ひょっとして、犯人はここの装置を使ってミクラガードに逃げた、と?」
「そうよ。たったいま思いついたんだけど」
シュバリスはうなずいた。
「考えてみて、なんで昨日襲われたのか。ひょっとしてあいつ、逃げる手段を確保したうえで来たんじゃない? 神さ、ごほん、わたしの足と目玉をぶんどって逃げるってかなりのおおごとよね。で、あいつがとっとと逃げたいのだとしたらミクラガードみたいな都会に逃げたいんじゃないかしら。そのうえで、あいつが今日ここで入試があることを知ってたんだとしたら」
「この入試にあわせて襲撃の計画をたてた? そしてここの設備を使って逃げることを考えていたーーチェックの甘くなるであろう入試の日を狙って?」
昨晩の侵入と蛮行は、あきらかに用意周到に計画されたものだった。逃げる手段までがあらかじめ準備されていたとしたら。アイドクレーズは考え込んでいた。
「なるほど、あるかもしれませんね。このあたりで大規模な転送陣があるのはここだけだそうだし」
「でしょ。あとはーーねえアリアナ。ちょっといいかしら」
「ん? なあに?」
入試に備えてぶつぶつとスペルを暗唱していたアリアナがふりむいた。
「ここの転送装置ってアカデミアの関係者ならだれでも使えるのかしら? いつでも?」
「――そうね、許可さえあれば使えるんじゃないかしら。申請がいるからいつでもってわけではないと思うけど。でも今日は特に申請しなくたって使えるでしょうね」
「どうして?」
「わたしたちは入試だけど、今日は在学生や職員の帰校日にもなってるそうよ。春休みが終わるの。わたしたちが入試に向かった後、彼らも転送されると思う」
「それってたくさんいる? 誰か知らないひとが混ざっててもわからない?」
「わからないんじゃない。セレスタイン魔法学院は各地に支部があるけど、帰校来校のための転送スポットは近辺じゃここだけよ。学院からの許可さえあれば今日はだれでもーー係のひとに頼みこめば比較的簡単に使わせてもらえると思う。近所の老人会のひとも申請して旅行に使わせてもらったりするしね。ここは公共交通機関の一種として解放されてるし、わたしも塾の遠足で何度かーーえっ。シュバリス、それ!」
シュバリスは、すばやく衿元から紐につないだ指輪を取り出し、アリアナに見せた。「これがなにか知ってる?」と訊ねると、アリアナはごくりと息を飲み、羨望の眼差しでシュバリスを見つめた。
「どーーどこで手に入れたの? それ。だれにもらったの?」
「これってなに? あなたご存知?」
「学院で毎年成績上位者に与えられるものよ。卒業生でも持ってるひとはめったにいないわ。でもそれ、ずいぶん古そうだけどいったいーー」
「親のものなの」
男女と親子の複雑さだけは千年前と変わらないだろうと踏んで、シュバリスは何食わぬ顔で云った。
「わたし孤児なの。というより捨て子だったの。いなくなった両親を探していて、これはその手がかりなの。これの持ち主がわたしの親ってわけ」
「そうだったのーーまあ、」
アリアナの表情が同情に染まる。子どもだけで入試に来たのも事情にうといのも納得、という顔だ。
「だからこれを過去にもらって、いま手元に持っていないひとがわたしの親なんだわ。ようやくわかったーーありがとうアリアナ」
ふたたび衿もとに指輪をしまいこんで、シュバリスとアイドクレーズは視線を交わした。アリアナが云ったとおりなら指輪は希少な品だ。それに学校という場所の性質上、受贈者の名簿かなにかがあるはずだ。
なんとかしてセレスタイン魔法学院にもぐりこむ必要がある。ふたりはうなずきあった。
「わたしはこれからセレスタインについてもっと情報を集めてきます。あなたはぜったいに入試に受かってください」
アイドクレーズが重々しく云った。
「あなたが合格すれば最短で、穏便かつ正当にアカデミア内部に入れます。男の身元さえわかればあとはこっそり消えればいい、そうしましょう」
「やってみる。いまの魔法のことはいまいちよくわからないけど大丈夫かしら?」
「あなたなら大丈夫ですよ。ご武運を」
アイドクレーズは告げ、すばやく廊下を駆け去って行った。子どもたちのチェックが終わったらしく、教官ふたりが扉の前に戻ってきた。
「では、これからみなさんをミクラガードへとお連れします。そのあとすぐに試験です! 未来の魔術士の健闘を祈ります!」
扉が開かれた。
[newpage]
[chapter:アカデミア入学試験]
扉の先は、巨大な四角い箱のような作りになっていた。窓が一枚もなく、床にも壁にも天井にも[[rb:魔法語 > マギアコード]]で転送のためのスペルが描かれていた。大人数を一度に他所に送るには大きな魔力が要るため、巨大な魔力増幅装置もあった。生徒はそこで複数の組に分けられて魔法陣の中に誘導され、次々と転送されていったーーシュバリスはアリアナにくっついてたため当然同じ組になったが、いっしょに送られる五十人ほどのなかに、学校の紋章のついた鞄を抱えている一団も混ざっていた。アリアナ親子と出会う前にシュバリスたちが見つけ、追いかけてきた少女もいた。後ろ姿だけでもすぐにわかった、というのも、彼女はとても綺麗な金髪を、くるくるにカールさせて腰までたらしていたからだ。集団のなかでもひときわ目立ったーー彼女がいなければアカデミアのことも紋章のことも気づくことはなかったから、シュバリスは彼女にお礼をいいたかったが、シュバリスと同じ方向を見たアリアナが「ーー同じ組になっちゃうわね」としかめ面で呟いた。どういう意味、と訊ねる前に転送がはじまり、強くひっぱられる感覚にシュバリスはぎゅっと目をつぶった。反射的に隣のアリアナにしがみついていた。感覚が消えて目を開けると、さきほどとは別の建物のなかにた。さっきと勝るとも劣らない巨大な建物で、高い天井と、やはり床一面に魔法語と魔法陣が描かれている。外からさしこむ光が柔らかく広い空間を照らしている。どこかの邸宅のホールのようだ。別の男性教官が「ではこちらへ」と、邸宅の奥へと子どもたちを誘導した。
「ようこそセレスタイン魔法学院へ。ここからはみなさんを番号で呼びます。組ごとに教室のなかへ入り、呼ばれたらさらに隣にある教室へ入り、順番に椅子に座ってください。試験官には、名前、年齢、出身地、所属する塾名をはっきりと伝えること。こちらが番号です、胸につけてください。では一組目からどうぞ」
シュバリスたちは六組目に割り振られた。転送前は明るい表情だった子どもたちもさすがに緊張している。シュバリスもだった。
(魔法……もうずっと使ってない……)
このあいだ魔法を使ったのはいつだったっけ? 百年くらい使ってない気がする。引きこもっているうちは魔法を使う必要もなかった。せいぜいが夜にランプを灯す簡単な魔法くらいで、あとはぜんぶアイドクレーズがやってくれた。彼のほうは「このまんまじゃ中身がじじいになっちゃいますよ!」と街で手に入れてきた魔法書で最新の魔法についてちょこちょこ勉強していたが、シュバリスはそれすらしていない。彼女の魔法は実質千年前で止まっている。
(どどどどどうしよう……!)
一組目が全員教室に入り、中からはかすかに物音と声が聞こえた。何が起こっているのか扉に耳をつけてみたかったが、大勢の前ではとてもできなかった。どんな試験なのか聞こうにも、アリアナは塾とやらの仲間が同じ組にいたらしくそちらと顔を寄せ合って話していた。
「六組目、どうぞ」
シュバリスたちはぞろぞろと教室に入った。ぜんぶで十人ほどのグループだった。番号を呼ばれ、さらに隣の教室に移る。試験場である教室はドーム型の天井をした開放感ある空間だった。四方八方に大小さまざまな[[rb:魔晶 > クリスタル]]が置かれているが、魔力制御のためのもののようだ。壁はすべて鏡で、子どもたちが何人にも増殖して見える。ちょっとした迷宮に迷い込んだような気分だった。
「では六組目。一八三六番」
「はい。一八三六、カレン・マーガレット・ジプサム、十三歳、ベイジ出身、セレスタイン魔法学院エイシャ支部ベイジ第一塾。よろしくおねがいいたします」
六組目でいちばんに呼ばれたのは、例の金髪の少女だった。塾名が同じ少年と少女がその後に続けて名乗った。アリアナも「一八五〇、アリアナ・リン・ノヴェレッテン、十三歳ベイジ出身、カルトナー塾」と名乗り、シュバリスも倣った。「塾には入っていません」と云ったとき、前方で細長い机に一列に並んだ五人の試験官が、揃って書類に目を落とした。シュバリスの次の生徒が名乗り終えると、誘導してきた男がひとつうなずいて云った。
「以上十名を第六組として、これからは集団で試験に臨んでいただきます。では最初の課題です」
「基本的な身体能力、およびリズム。これから彼が見せるお手本と同じ動きと音を出してください」
学生と思われる少年がひとり教室の隅に立っていた。横一列に並んだ受験生の前へやってくると、「よく見てください」と云って手を叩き、ステップを踏む。なんということはない簡単な動きだ。「ではみなさん、これと同じ動きをしてください。1、2、3ーーはじめ」
ほっとしながらシュバリスは動いた。その後も何度か同じような動きを繰り返した。お手本はだんだん複雑になっていったが、ついていけないレベルではなかった。十ほどクリアすると「最初の課題は終了です。第六組は全員合格。三十秒休憩のにち第二課題に」と試験官が云った。息を整えるあいまにそっとアリアナが云った。
「脱落方式よ。だんだん人数が少なくなる。本番はここから」
目の前では、魔法によって次々に机が並べられていた。第二課題は筆記試験だった。こんどはかなり長かったーー四つの教科がそれぞれ一時間ずつ、あいだに一時間の休憩を挟んで行われた。試験が終わると三十分の休憩。休憩のあいだに採点が行われたらしく、第三の課題に臨むときには三人の受験生がいなくなっていた。かなり賢そうな子たちで、筆記のあと「できた」「なんだよ、簡単じゃないか」と自信ありげに云っていたので、じぶんが残ったのは奇跡だとシュバリスは内心おののいていた。
筆記試験はかなり難しかったが、つぎはさらに難しくなるのだろうか? 休憩を終え、合格者の番号を呼ばれ、アリアナとともにひとまず喜びながら教室に戻ると、
「第三の課題はこれです」
試験官が、残った七人の前で、中央にしつらえられた小さなテーブルに水の入ったコップを置いた。
「どんな方法でも構いません。このコップに入った水を消してください。一滴のこさず」
「ーー恐れ入ります。質問してもよろしいでしょうか」
「はい、なんでしょう」
「消す、の定義を教えてください。人間の目には見えなくする、という意味でしょうか?」
アリアナの質問に、机の左端に座る人物が答えた。
「解釈は任せます。ひとつだけ言い添えるとするなら『魔法使いとして』課題に臨んでください」
このころには、試験官でもリーダー格の人間がおり、今答えた若い男性がそうだと全員が理解していた。三十代に入ったところと思われ、彼もまた例の指輪をはめていたーー彼のことばにアリアナはうなずき、アリアナが質問した瞬間、なぜか忌々しそうに唇を噛み締めてアリアナを睨んでいた金髪の少女、たしかカレンーーも、真剣な目でコップを凝視して考え込んでいた。
「では一八三六から。制限時間は三分」
最初に課題に挑むのはカレンだった。トップバッターがいちばんやりにくい。彼女はしばらく迷っていたが、やがて手をふって下級の[[rb:風天 > ヴァーユ]]、つまり風の精霊を呼び出す呪文を唱えた。風でコップの中身を空中にまきあげると、[[rb:火天 > アグニ]]、つまり火の精霊を呼び出して、宙に浮いた水の塊をひとつずつ蒸発させていく。かなりの水の塊が空中に散乱しており、すべて消すまで時間がかかった。しかしなんとか時間いっぱいでやり終えると、彼女は自信をとりもどした様子で列に戻った。
試験官が新たにコップに水を注ぎ、テーブルに置く。カレンの次の受験生は、まるっきりカレンの手法を真似た。次も、その次も。その次は時間が足りず残った水を飲み干すという暴挙に出、そこから悪い流れが続いた。みんな口から水分補給をした。
アリアナの番がきた。
「フオルコ」
アリアナはいきなり火天の力を借りた。外側のコップにヒビを入れたりしないよう、細心の注意をはらって火力をコントロールし、水を蒸発させにかかる。退屈そうにしていた試験官が体を起こし、それまでと別の手法で課題のクリアを試みたアリアナの勇気に賞賛の笑みを浮かべた。アリアナも理解しているのだろう、ちょっと得意げに魔法を披露している。シュバリスも初めて彼女の魔法を見たが、危なっかしいところのない堅実で誠実なものだった。魔法は本人の性格をあらわす。おかげでもっとアリアナに好感を抱いた。魔法の力量にも舌を巻いた。十三歳にしてはかなりやる。しかも早いーーアリアナは一分でみごとにコップの中身を消した。合格まちがいなしだ。
「次」
アリアナの魔法に見とれ、なにも考えていなかったシュバリスは我に返った。どうしよう? アリアナのようにいきなり火を使ってもいいが、彼女ほどコントロールできる自信はない。頭が真っ白になり、ぼうっとその場に突っ立って動かないシュバリスに、試験官が怪訝そうに首をかしげた。
「どうしました? 具合でも?」
「あ、いえーー」
昔、仲間たちのご飯を作るのに火の魔法をよく使った。しかしあのときは大量の食材と大量の水、対して今はコップ一杯ぶんのわずかな水が相手だ。もごもごと「部屋を爆発させちゃったらまずいですよね」と云うと、試験官たちが苦笑した。右端の年老いた男が「それほどの魔力が君にあるのかね?」と手元のメモに目を落としたあと、まるで期待していない様子で手を振った。
「いいからさっさとやりなさい。だいじょうぶ、教室には結界が張ってある。爆発なぞしない」
「そうですか。だったらーー」
しかし、教室や教官はともかく受験生たちはじぶんでじぶんの身を守れない。ちょっと考えたすえ、シュバリスは火の魔法を使わないことにした。相手は水なのだから水そのものをどうにかすべきだ。さいわいシュバリスは水の魔法が得意だった。蛇人族じたいも水の魔法を得意としている。
シュバリスはコップをじっと見つめ、水に意識を集中させると、指をパチンと鳴らした。その合図でコップのなかの水が空中に浮き上がり、コップに入れられていたそのままの形を保ったまま静止する。久しぶりに魔法を使うとあって深い集中に入っていたため彼女は気づかなかったが、その瞬間、教室のなかはしんと静まりかえっていた。シュバリスは、空中に浮いたコップ型の水にむかって再びパチンと指を鳴らした。水は二つに分かれ、さらにシュバリスが指を鳴らすと、四つに分かれた。パチン! 四つが八つに。パチン! 八つが十六に。分裂するにしたがって水は小さくなってゆく。三十秒のあいだシュバリスは指を鳴らしつづけ、やがて完全に水は姿を消した。肉眼では見えないほど小さくなったのだ。
合図を出すはずの真ん中の試験官はぽかんとしていたが、「あの、まだ小さくしたほうが」とシュバリスが首をかしげると「次」と慌てたように云った。コップに新たに水を注ごうとするのを、シュバリスは「あ、戻しますからいいですよ」と手を振り、人差し指でくるくると空中に円を描いた。微細な粒となって空中に溶けていた水はあっというまに集合し、元どおりにコップに流れこんでいった。
「あの……?」
列に戻ったが、全員の視線がシュバリスから離れなかった。気まずい空気のまま次の受験生の挑戦となったが、水はごくごく飲み干されて終わった。
「第四の試験。面接を行います」
第六組で残ったのは、カレンと、カレンと同じ塾からきた少女と少年、アリアナとシュバリスだった。最初は十人いたのに、半数がこの時点で不合格になっている。がらんとした教室で、試験官たちは順番に受験生に質問をしていったが、ほかの子どもたちが家族構成や塾での成績について尋ねられたのに、シュバリスだけ質問の内容が異なっていた。
「事前に塾から送られるはずの書類が君だけない。受験申し込み書類もない。飛び込み受験のようだが、ほんとうに塾には所属していない?」
「していません」
「以前は所属していた?」
「いえ、ずっとしていません」
「ではいずれかの魔法使いの一門に所属して弟子として学んでいる? 師の名は?」
「師はいませんーー、」
魔法をほかの誰かに教わることじたいが千年前はない概念だった。魔力は個人が独力で磨くべきもので、洗練させていくもいかないも個人の自由だった。魔法を使わないという選択肢もあって、魔法使いとして生きると決めたものだけが試行錯誤しながら己の魔法を確立させていた。だから魔法を教えてくれる学校なんてものが存在することにも驚いているくらいだ。シュバリスが戸惑っていると、
「独学だというのかね?」
右端の老人、白いひげを鼻の下にたくわえた男がメガネの奥からじっとシュバリスを睨んだ。息を詰まらせながらシュバリスは答えた。
「仲間ーーえっと、友だちから教わったことはあります」
千年前、ほかの六人とそれぞれ得意な魔法を教えあったものだ。なんとかそのときのことを思い出していると、
「なんという友だちかね?」
「……」
ほんとうのことはとてもいえない。緊張でさらに息を詰まらせながらシュバリスは答えた。
「か、かなり昔のことでして……幼いころのことで名前はよく覚えていないのですが、基礎は彼らに教わりました。それからはずっとひとりで学んでーーえっと、ときどきいとこが魔法書を買ってきてくれて、それで勉強していましたが」四苦八苦しながら告げると、
「君に関しては書類が出されていないから名と年齢しかわからなくてね。すまないがもっと詳しいことを訊きたい。もういちど訊くが、基礎を君に教えてくれた人物のことはまったく覚えていないのかね?」
「はい。まったく……あの」
シュバリスは恐れを抱いた。質疑応答が彼女に及んでから十分が経っていたが、ほかの誰より長い。
「あの、なにか不自然な点でもございましたでしょうか、わたしの魔法には」
どぎまぎして首をかしげると、
「不自然というよりふしぎでね」
左端に座るもっとも若い、だがリーダー格の男性がちょっとシュバリスに微笑みかけた。彼が口を開くのは面接が開始されてから初めてだ。彼は静かに云った。
「教育の匂いがしないんだ。ふつう、塾や師匠についていると、使う魔法にある種のサインが入り込む。セレスタイン流、タラゼド流、ほかにも高名な魔法使いの流派に属する人間である、どこそこの弟子である、そんなサインが自然とつく。一定以上の魔法技術をもつ我々には、受験生がどの流派で教育を受けているかすぐに判別がつくんだよ。君以外の受験生に関してはみんなわかるーーしかし君にはそれがない。独学でそれほどの魔法を使えるというのは、きわめてまれなことだ。そう……蛇人のなかにでもいたのでなければね」
蛇人、と云ったとたん、ほかの試験官が非難の目で男を見た。じぶんが蛇人だということはわからないはずだが、とシュバリスはぎくりとし、ついで、試験官たちと隣に座る受験生がそろって息を飲んだのに、なぜだろうと内心で首をかしげていた。まばたきを繰り返すシュバリスに、男はふっと笑うと低く云った。
「まあーー掟やぶりの彼らのなかから出たにしては君の魔法は無垢だった。それに実力も申し分ない。きわめてまれなことだが、どこにも属さず高い魔力を意のままに操る術をもつものもいるということなのだろう。まだまだエウレシアは広いということだーーさて、以上でいいかな?」
男はほかの試験官を見渡し、試験官たちは彼のことばに神妙な面持ちでうなずいた。結果は後日、というのでシュバリスたちは教室を出て、最初に降り立ったホールまで戻った。疲れた顔でため息をついたアリアナが「すごかったわ、あなた」とぽつりと云った。
「第三試験よ。あんなやりかた誰も思いつかなかった。水を水じたいだけでどうにかするなんて。しかも元に戻せるなんてーー塾の入試対策で似たような課題があったけど、あんなやりかたは誰も云ってなかった。どこであんなことを?」
「あーーえっと。……ごめんなさい、よくわからないのだけど、あれって決められた形式があったの? 火を使うべきとか、暗黙の了解があったり?」
ほかの全員が火天を用いたことを思い出しながらシュバリスが首をかしげると、
「火には水、水には雷、雷には地、魔法には対照となる属性があるのよ。今回は、消す、というのが蒸発させることだと推測してわたしたちは火を使った。それがセオリーだと思ったからよ」
「そうだったの? じゃあきっとわたし不合格ね。だめだったんだわ」
「ううん。試験官はあなたが水を分割しはじめたとたん目の色変えてた。いちばん右端のおじいちゃん先生はセオリーにこだわる派みたいだから減点するかもしれないけど、ほかの試験官は夢中で見てたし、制限時間の半分もかからなかったんだから加点がすごい。それにスマートだったし、見ていてこれ以上の方法はないと思ったわ。誰も文句はつけられない。ひょっとしたらーー」
と、背後からくすくす笑いが聞こえてアリアナは口をつぐんだ。振り向くと、笑っていたのはあの金髪の少女カレンと、面接まで残っていた彼女の塾の友人たちだった。
「でもねくら魔法がすごくてもその服装じゃね、あなたたちふたりとも!」
つけつけとした物言いに、さきほどの試験中の自信はどこへやら、アリアナが恥ずかしそうにうつむいた。たしかに、カレンとほかの少女たちの[[rb:蝶袖服 > キーノ]]は、生地も縫製も上等で高価そうだ。シュバリスはようやくアイドクレーズの発言の意味に気づいた。シュバリスが今朝アイドクレーズに着せてもらった蝶袖服は、彼らに比べて明らかにひとまわり、いやふたまわりは流行遅れだった。アリアナはシュバリスよりましだが、それでもカレンたちには劣る。顔を見合わせ合うふたりに、カレンがきつい眼差しをむけながら云った。
「最後の面接が何を意味するかおわかり? わたしたちの立ち居振る舞いからどんな子か、どんな家で育ったかを確認するためよ。入学しても学院に寄付もできないような家の子はお断りってことよノヴェレッテン!」
たしかに面接では、家族や家族の仕事について聞かれた。家族の仕事についても。しかしだとしたら、塾や師匠について聞かれるばかりで家族についての質問をされなかったシュバリスはどうなんだろうーーと思っていると、シュバリスに視線をうつしてカレンが続けた。
「どこの馬の骨かもわからない飛び込みの受験生もね。いくら魔法が使えても信用できないわ。セレスタインにはふさわしくないわよ」
意地悪にふたりを睨んで、カレンはさっと身を翻し「いきましょ」と少女たちを率いて去っていった。彼らのブーツの靴音が消えると、アリアナがぽつりと呟いた。
「実はわたし、前はカレンと同じ塾にいたの。セレスタインは各地で魔法塾を開いてるのだけど、なかでも第一塾はベイジでいちばんの塾で、わたしと彼女はそこでずっとライバルで、そのときはそれなりに仲もよかったと思うのだけどーーだけどうちのお父さまの仕事がうまくいかなくなってお金の問題もあって、去年と一昨年はわたしは試験を受けられなかったの。学費のやすい別の塾に移ってずっと勉強してきたけどーー塾同士の交流にもなんとか出てたんだけど、カレンはわたしがセレスタイン系列の塾に通えなくなったのが内心で面白かったんでしょう。いっぱい意地悪されたわ。それにあの子のいうとおり、なんとか面接まで残ったけど今回もきっとダメ。あの子塾では成績優秀だし、同じくらいの成績なら家柄の良い子を選ぶわ。あの子は家柄もとてもいい。なんといってもこのセレスタインのーー、」
「でもアリアナ」
金髪の少女の、あまりに意地悪な言動にじぶんもショックを受けながら、シュバリスは必死でアリアナに云った。
「あの子は去年も一昨年も受けたんでしょ? 受かるんならきっと去年や一昨年に受かってるわ、家柄で選ばれるというならね。それが今年ぎりぎりになっても受けてるっていうんなら実力が足りなかったんだし、きっとそんなに甘くないのよ。合格ラインをクリアしなくちゃ、そもそも家柄を問うことすらできないんじゃない。それに、家のことはともかく魔法の実力だけでいうなら、まちがいなくあの子よりあなたの方が上だった。第三試験でわかったーー第六組のなかでいちばんの実力者はあなただったわ」
「ーーほんとう? あなたはそう思った?」
アリアナはすがるようにシュバリスを見つめた。シュバリスのほうが年下だが、魔法について信頼できると感じたのだろう。シュバリスはうなずいた。
「思ったわ。魔力をコントロールするという点では、あなたはわたしよりずっと上だった。十三歳とはとても思えなかった。それになんとなくだけど、カレンの魔法はあなたほど誠実でもないし真摯でもなかった。どこかでズルをしてやろうって魂胆がみえたもの。わたしにもわかるくらいだから試験官だって気づいたはずよ」
「えっ。ーーあなたひょっとして」
ふとアリアナは驚いた顔をした。
「魔法が読めるの?」
「なに? 魔法が読めるって」
シュバリスが戸惑っているとアリアナは満面の笑みをうかべた。
「すごいわ! ほんとうにシュバリスみたい! わたしね、シュバリスはーー七柱のほうのシュバリスだけど、蛇神シュバリスはその能力の持ち主だったんだと思うの。彼女はきっと、魔法から使用者の背景を読み取れたひとなのよ。オルリドっていうの、そういう能力をもってるひと。魔術者の感情や魔力を魔法道具なしで読むことができたの。だから戦わないで、ほかの六柱のあいだに立って平等に渡り合っていけた。オルリドは蛇人だけにそなわった邪悪な力だなんていうひともなかにはいるけどねーー蛇人特有の力だーーってーー、?」
「ーー、」
「あれっ。てことはーーあなたってもしかして蛇人? 左のハンサムな試験官の云ってたとおり? まさかーーそれでシュバリスって名をもらってるってことはーー」
ここで隠したら誤解される。それに、もし受かって同級生になったとしても足と眼の行方さえわかればいずれアリアナとはさよならだ。話したって構わないだろう。シュバリスは静かにうなずいた。
「そうなの。わたし蛇人なの。あの、でもーー」
胸をナイフでなでられるような嫌な感じがした。さっきの試験官たちと受験生の戸惑った様子。蛇人はどうも嫌われているようだ。なぜだろう? 蛇人だとはっきりとシュバリスの口から聞いた瞬間、アリアナも息を飲んだ。しかしアリアナはにっこり笑い「わたしは気にしないわ!」とシュバリスの手を力強く握り、ホールの真ん中へと誘った。そこでは試験を終えた子どもたちが、不安そうに、あるいはほっとしたように寄り集まっていた。帰宅の転送も始まっていた。レイシャ、エイシャ、ユーロープ、アングイス、など、教官がおおざっぱに地区の名前を叫んで誘導している。
「あ、在校生」
校章の入ったジャケットを着た少年少女が、ホールにぽつぽつと混じっていた。今帰校してきたばかりらしく、手に大きなトランクを携えている。ホールの外に出て行く彼らを、アリアナはじっと見つめていた。
「いいなあーー」
「アリアナはきっとだいじょうぶよ」
つないだ手から、シュバリスはそっと、彼女が元気になるように力を注ぎ込んだ。短いつきあいだが何かの縁だ。気付かれないほどの微細な波動を受け取ってくれたか、アリアナは不安そうな顔からすぐに笑顔になると「そうよね」と自信をとりもどしたようにうなずいた。
「じゃ、帰りましょうか。ねえシュバリス、あなた遠くから来たんなら、今日はベイジに泊まるんでしょう。宿が決まってないのならいいところ知ってるわ。どう?」
「ありがとう。アイドクレーズと話して、彼がいいっていったらお願いしていい? ただあんまりお金がなくて、わたしたち」
「ならうってつけよ。ぜったい気にいるわ!」
ふたりは来たときと同じように、魔法陣の中に入った。
[newpage]
[chapter:合否]
ベイジに戻ったシュバリスはアイドクレーズと合流した。そしてアリアナおすすめの宿へと案内されたのだが、そこは彼女の父パトリックが経営する、ボリュームたっぷりの食事と広々としたベッドを提供してくれる学生むけの安宿だった。夕方にはほとんど満室になってしまうそうだが、アリアナはパトリックに頼み込んでシュバリスたちを泊めるよう手配してくれた。というより、けっきょく部屋が満室だったのでシュバリスたちはパトリックとアリアナの住居部分、ようするに自宅空き部屋を借りることになり、かえって恐縮してしまったが、パトリックは陽気に手を振った。
「いやいや構わないさ、アリアナが入試からこんなに元気に帰ってくるなんてこれまでになかった、わたしも嬉しい限りだよ。仲良くなれたのならもっとよかった、うちのアリーはこうみえて母親似の頑固者で、まじめで融通のきかないところがあるからいまの塾でもあまり友だちができなくてね。わたしはそこがいいと思うのだけどね、ほんとはとっても優しい子だし。ねえ?」
「はあ」
優しいのはたしかですわね、とシュバリスがこくこくうなずくと、
「君もなかなか立派に試験をこなしたみたいじゃないかシュバリス、いっしょに帰ってきたんだから最終試験まで残ったんだろう? こうなったらいっしょに受かるといいねえーー宿の残り物ですまないが料理だけはたっぷりあるし、腹ペコにだけはさせないからね。ふたりとも遠慮なくくつろいでくれ」
パトリックは厨房から顔をだしてそう告げ、愛娘を抱きしめると、すぐに若者たちの世話を焼きにばたばたと出て行った。宿は大繁盛だった。アリアナはいつもリビングでひとりで食事をとるというが「今日はひとりじゃなくて嬉しいわ」と終始笑顔だった。狭いながらもきちんと片付いた部屋を見渡して、シュバリスは仲間たちと暮らしていた頃を懐かしく思いだしながらアリアナとアイドクレーズと食事をいただき、お風呂までもらったあとで与えられた部屋にひっこんだ。
「首尾はいかがでしたか。受かりそうですか?」
アリアナの子供時代のものだというシャツとズボンをパジャマがわりに借りたアイドクレーズが床の上で首をかしげた。シュバリスもアリアナのおさがりを着ている。余った袖をまくりあげつつ正直に報告した。
「わからないわ、塾の出身者が有利みたいだからなんともね。アリアナは褒めてくれたけどほんとうにどうなるか不明よ」
「そうですか……」
「あなたはどうだった、セレスタインについてなにかわかった?」
「ざっと。帝国立セレスタイン魔法学院、セレスタイン・アカデミア・マギア、わたしも初めて知りましたがこの学校、どうやらとんでもない組織のようですよ」
「組織? ただの魔法を教えてくれる学校じゃなくて?」
「じゃ、なくて」
アイドクレーズは頭をひとふりし、話し始めた。
「創立してからおよそ400年が経つそうです。当時の皇帝主導でつくられた組織で、最初は純粋に魔法教育のみを行う学校であり貴族の子弟が対象でした。貴族には伝統的に高い魔力の持ち主が多いので皇帝の名のもとに能力の制御や訓練の場を提供する必要があったんです。それがやがて民間の魔法使いにも門戸を広げ、一定以上の魔力をもつひとびとの教育機関になった。あなたが今日受けたのは七年間の教育課程を学ぶ選抜試験で、この七年課程は中級課程と呼ばれ、ここを卒業した学生は一人前の魔法使い、[[rb:魔法士 > マギウス]]として扱われます。そして中級課程を卒業した生徒がさらなる魔法研究や魔力の成長を望む場合、高等課程として魔法大学が存在し、ここを卒業すると[[rb:魔導師 > ウィザルト]]の称号が贈られる。さらにその上に魔法や魔術道具を開発するための研究所があり、そこへの入所を許されると[[rb:大魔導師 > グランウィザルト]]。その大魔導師のなかでもとくに功績を認められたもの与えられる称号が[[rb:賢者 > ウィズマ]]」
「うーん。なんか複雑だけど、それってつまり?」
「セレスタインはこの国の魔法使いすべてを牛耳っています。この国、大まかにわけて四つの地域、東のエイシャ、西のユーロープ、極西のアングイス、北のレイシャには、あなたのお仲間だった建国神を初代王とする王国がそれぞれあって、それぞれがそれぞれの流儀に従って魔法教育を行う学校があります。そしてセレスタインはその地域すべてのど真ん中にあたるミクラガードにあり、ほかの魔法学校のもっとも上に位置する魔法学校とされている。マギウスやウィザルトといった称号を与える権利もぜんぶセレスタインにある。そして純粋に学術機関として機能しているわけでもない」
「学校だけじゃない。じゃあほかに?」
「騎士団です。セレスタインは、研究所と並ぶ上部組織に騎士団と呼ばれる軍事組織をもっている」
「武力? 軍事組織?」
「はい。この国で魔法を使った犯罪や戦闘が起こると騎士団の出番。彼らの支配は警察にも及び、警察内部にも騎士団の特別機関がある」
「警察のなかに。ていうと?」
「魔法を使った軽微な犯罪について捜査するチームがあるんですよ。で、セレスタインと名のつくそれらの組織すべてを統括するのが皇帝家の当主であり現在の皇帝ラーゼス・シンビジウム・セレスタイン陛下と、その嫡男ハダル・ハルシオン・セレスタインくん。そのハダル皇子が次期皇帝です」
「へえっ……」
「ていうかシュバリスさま」
ここでアイドクレーズは、灰色の目をじっとシュバリスにむけた。
「わたしですら途中で思い出しましたけどね。今日一日セレスタイン漬けといっても過言ではなかったでしょうに、これだけ聞いてもあなたはなにも思い出さないので?」
「ん? なにを?」
「セレスタインですよセレスタイン。あなたはそもそもこの名に聞き覚えがあるでしょう、というか、あったんでしょう?」
「えっ、ないけど? 今日はじめて聞いたわよ。えっと、それってつまり人の名前だったわけね、あなたが今云ったラーゼスさんとハダルさんの姓ーー貴族向けの学校を作っちゃうくらいだから、昔からものすごい名家だったってことかしら。たしかいま皇帝家のって云っーーんん?」
「そうですよ」
アイドクレーズはジト目でシュバリスをにらんだ。
「信じられませんね。そもそも皇帝家っていうところでまっさきに気付くべきなのに、千年でボケがすすんじゃったんじゃないですか?」
「ええっ? 待って待ってーーセレスタイン? 皇帝家? てことはひょっとして」
シュバリスはパニックになりながら云った。
「ハルトガルト、ってことーー?ハルトガルトの家のこと、セレスタインって。えっ?」
「そうですよ。千年前にあなたをフった純人間の王にして初代皇帝ハルトガルトは、正式にはハルトガルト・ミクラガード・セレスタインっていう名前だったでしょ! で、いまのセレスタイン家はハルトガルトの直系の子孫、つまりセレスタイン魔法学院はあなたの元恋人の子孫が作った組織なんです、大学も研究所も騎士団もね!」
「あらららら」
「あらららら、じゃないですよ、しっかりしてくださいよ!」
舌打ちせん勢いのアイドクレーズに、シュバリスはあごに人差し指を添えて「だってえ」と言い訳した。
「当時は家の名前なんてあってないようなものだったんだもの。みんなただのシュバリスでただのハルトでシオンでエステルでライドでエコーでアリスで、セレスタインだれそれ? ってなものよ。わたしだって今回お外に出なかったら、じぶんの姓すら忘れちゃってたし」
「あなたは子孫すら残してないからイスラメイの名も忘れ去られてますけどね。まあよかったんでしょう、シュバリスでイスラメイときたら、いくらなんでもできすぎだって思われるところだ」
「わあお。忘れられてるのね? アリアナにつられて素直に姓まで名乗っちゃったけど妙に思われたらどうしようって思ってたの。千年ひきこもっててよかった、ラッキー!」
「ラッキー、じゃないですよ! とにかくあの男がセレスタイン魔法学院の出身者なのはたしかです、指輪を持ってたことからしてすくなくとも学院の卒業生だ。そして、さきほどちょっと考えたんですが、ひょっとしてあいつは騎士団の所属かもしれません」
「騎士団。なぜ?」
「あなたの足や眼をぶったぎって[[rb:抉 > えぐ]]り出した手際のよさ。あれは戦闘訓練を受けた人間にしかできないわざです。たいていの魔法使いは魔法に頼って身体能力を磨くことを忘れがちだが、あいつはそうじゃなかった。地下への侵入を止めようとしたわたしをぶん投げたし、結界を突破するほど攻撃魔法にも長けてた、ならば騎士団員である可能性はひじょうに高い。大学や研究所ってところは、聞くところによるとどうも純粋な学術機関のようですし、そこの人間があれほど攻撃的な魔法を使うかといったら考えにくい。犯人がもともと攻撃魔法が得意で学院出身者だとしたら、就職先に選ぶのは大学や研究所ではないでしょう」
「そうね、騎士団一択だわね。軍隊みたいなものだとしたら」
あまりあのときのことは思い出したくなかったが、ゆっくりと記憶を辿ってシュバリスはうなずいた。
「すごい早業だったわ。一瞬なにが起こってるのかわからなかったもの」
「ええ。あなたが油断しきっていたにしても相当だった。というわけで方針が決まりました」
「ん。セレスタイン魔法学院に保管されている指輪の持ち主の名簿を確かめる、そしてその中から騎士団に入団した人を調べる、と」
「そう多くないことを祈るばかりです」
「でもその前に受かるかどうかよ。それに騎士団員でもないかもしれない、だとしたらぜんぶ無駄じゃない?」
「だとしても、指輪をもつ者の情報を手に入れてからです。それに騎士団員である確率はほかの可能性よりぐっと高い。ご存知でしたかシュバリスさま、いまこの国では人を傷つけるために魔法を使うことは禁止されているんだそうです。合法的に使えるのは騎士団と、セレスタインが認めた特別な人物だけ。そして非合法に使っているのがーー」
アイドクレーズは口をつぐんだ。彼は一瞬宙に視線をさまよわせ、シュバリスはそれで彼の云わんとしていることを悟った。
「わかる気がする、[[rb:蛇人 > アンギス]]ね? わたしの一族はいま、なんだか奇妙な立場に置かれているのね?」
「ご名答。蛇人はいま、エウレシアでは非合法の魔法使いの代名詞のように云われています。ーー入試のときに?」
「まあ」
「あなたが蛇人だということは?」
「話の流れでアリアナには喋ってしまった。でも彼女は内緒にしてくれるし、ほかのひとにはまだ知られてない」
「ならよかった」
あるじの口ぶりから、もっと最悪なことはまだ知られていないようだとアイドクレーズはほっとした。段階を踏んで知った方がショックは少ない。彼は優しく云った。
「では、そうと決まったら今日はもう休みませんか。お疲れでしょう? 久しぶりに大勢の人に会ったでしょうし魔法も使ったそうですし」
学院にいるあいだにシュバリスが感じていた戸惑いやパニックや恐れや安堵を、従者であるアイドクレーズも遠くから感じていた。ふたりは繋がっている。感情が強く揺れるともう片方にも伝わってしまうのだ。まして近くにいるいま、アイドクレーズはシュバリスが負った疲労をわがことのように感じていた。いま現在もどこか遠くにいる敵に魔力を奪われ続けているのだから無理もないが、ベッドに入るよう促すと、シュバリスはこくりとうなずき、じぶんの体を見下ろしてため息をついた。
「そうね。なんだかとても疲れたわ。いつもならあなたに癒してもらうところだけど、この体じゃ無理だし睡眠で回復するしかないわね。寝ましょ」
「はい。ではおやすみなさいませ」
「おやすみ」
シュバリスが望むならどんなかたちであれ奉仕してみせるとアイドクレーズは思っていたが、七歳の肉体でどこまでできるかは心もとない。それにシュバリスも望まないだろう。いつになったら元どおりになるのだろう、とアイドクレーズはため息をつき、部屋の反対側に置かれた寝台へむかった。しかし、明かりを消して数分も経たないうちに、暗闇の中でシュバリスが呼んだ。
「ねえアイク。やっぱりこっちに来ていっしょに寝てよ。外に出て初日なのにいろんなことがありすぎたわ。手を握るだけでいいから眠るまでそばにいて」
「[[rb:是 > ヤール]]」
暗闇で光る二つの柘榴のもとへ吸い寄せられるようにむかう。ひとつの寝台にはいると、濃密な香りがアイドクレーズを包んだ。子どもになってなお胸をしめつけられるような清らかさにみちている。せめて彼女より年上の姿だったらと思いながら、アイドクレーズはじぶんより一回り大きくなってしまったシュバリスを抱きしめ、銀色の髪に鼻先を埋めた。腕枕で安心したのかシュバリスはすぐに寝息をたてはじめた。よくこの無邪気さで他の六柱と、といつも不思議に思うことを今日も彼は思った。エウレシア建国までの戦乱は、彼女の警戒心や自己防衛心をまったく抱かせなかったらしい。それとも生来の防御力の高さでその方面が成長しなかったのだろうか? 逡巡するうちアイドクレーズも眠りに落ちた。
翌日から、宿の手伝いとひきかえにノヴェレッテン家に身を寄せることをパトリックに承知してもらって、ふたりはセレスタイン魔法学院についてより深く広く調べ始めた。もし不合格だった場合は別の手段で学院にもぐりこむ必要があるため、その方法を模索した。
そして三日後、ついにノヴェレッテン家に入試の合否を知らせる封書が届いた。封書は親書、つまり宛名に書かれた本人以外は開封できない魔法がかかっていたが、主従が手をつかねるあいだ、勇気の塊であるアリアナが先に封を開け、紙面に目を落とした瞬間歓声をあげた。
「やった、合格! 合格よ! 合格したわお父さま! わたしついにセレスタインの生徒よ!」
「よくやったアリアナ! おめでとう! ほんとうによかったーー!」
抱擁をかわす父娘の横で、ふたりはため息をついていた。
「だめ。やっぱりあなたが開けてアイク、入試なんて初めてだったんだもん開けたくない。誰かに拒否されるのは生涯ハルトだけでじゅうぶんよ」
弱音をはく主人に、アイドクレーズは「はあ」と仕方なさそうに手を触れ、すぐに頭をふった。
「だめです、本人以外開封不可って文字が浮かんできます。こういうのって、たぶん一定数続けてやろうとするとーーほら、弾かれた。びりっときた」
封書から手を離し、雷魔法でしびれた手を振ってアイドクレーズはシュバリスに返した。
「いいから開けてください。だめならまた別の手段を考えるだけですから。ね?」
「ううう。厭だなあー怖いなあー見たくないなあ〜」
シュバリスはおそるおそる受け取って開封した。やたら分厚い便箋のいちばん上には、蔦の模様の金の箔押しがほどこされたやたら豪華な書類が一枚。そこに大きく書かれた文字を見てシュバリスは驚いた。
「合格 レイミア・シュバリス・イスラメイ 帝立セレスタイン魔法学院は上記の者を中級課程学習者として入学を許可する。ーー理事長 ユアン・リコリス・カルセドニー」
「うーー受かった……受かってる。合格って書いてあるー!」
「おめでとうございます」
アイドクレーズは当然といわんばかりだがシュバリスは安堵のあまり力が抜けた。椅子に座り込むと、シュバリスの合格通知をのぞきこんだアリアナが「同級生ね!」と笑顔で肩に手を置いた。
「嬉しいわ、あなたといっしょだなんて。それにやっぱりすごいわ、一発合格はめったにないことよ!」
「よかったなあ」
横からしみじみと云ってパトリックはそっと目元を拭っていたが「喜ばしいが親としてはここからが勝負だ。なんとか金を工面しなきゃ」とぼそりと云った。アリアナがちょっと困ったようにうなずいた。
「そうね。ごめんなさい父さま」
「謝る必要はないさアリー、ここで頑張らなくてなにが親だ、任せなさい。宿は繁盛してる、金のことは心配いらないよ。事業もうわむいてきいたしね」
「金?ーーそういえば」
シュバリスとアイドクレーズは顔を見合わせた。セレスタインが立派な学校であることはさんざん聞いてきたが、だとすると予想されるのはーー合格通知の次に重ねられていた書類を引き出して、シュバリスはおののきながらアイドクレーズに示した。
「アイクアイクアイク。いまのお金の価値とか金額っていまいちわからないけど、これってかなり?」
「ええ。高額ですね」
ふたりの手持ちは多くない。ノヴェレッテン家に泊めてもらっていなければ、すでに帰らざるをえなくなっていたところだ。見ると、セレスタイン魔法学院は入学するにあたってかなりの額の入学金を収める必要があった。さらに、一年は前期と後期に分かれるが、前後期を合わせると授業料もかなりの額だ。とーーアリアナが「待って」とするどく云った。彼女は三枚目の書類に目を落とす。とたん、表情がぱっと輝いた。
「お父さま。わたし準特待生に選ばれたみたい、ここのリストに名前があるわ。準特待生は学費が半額になるし、そのほか必要な道具と制服がすべて支給されますってーー最後の書類は支給認定書よ、これを持っていけば教科書や道具と引き換えてくれる。かなり楽になるわよ!」
「でかした! やっぱりおまえは優秀な魔法使いの卵だ! 母さまの目に狂いはなかったぞ!」
「ええーーそれにシュバリス、ここ見て!」
「えっ、どこ?」
「ここよここ、ほら、こっち!」
アリアナは、シュバリスの書類をとりあげてべらべらとめくった。彼女が指差した書類の一番上にシュバリスの名前があった。
「あなたは特待生よシュバリス。学費は全額免除、道具も制服も当然すべて支給になる。すごいわ、特待生は今年はふたりだけみたい。よかったわね!」
年下のシュバリスのほうがじぶんより優秀な成績で合格したことに、アリアナはちょっぴり嫉妬した様子だったが、シュバリスとアイドクレーズがやはり学費の心配をしていたのを見ていたためかすぐに気遣う表情になった。シュバリスが捨て子であることも思い出したらしく「きっとご両親も自慢に思うわ」と優しく云った。
「入学式まであと一週間よ。すぐにミクラに行って制服と授業に必要な道具を揃えなきゃ。そうだわ、たしか特待生にはほかにも特権があるの、生徒は全員寮に入るんだけど特待生の場合はーーひょっとしたらあなたたち、離れ離れにならなくてすむかもよ!」
「え?」
それはこの三日間、いとこ、もとい主従のあいだで話し合われていたことだった。セレスタインに受かったらシュバリスとアイドクレーズは別々に行動せざるをえなくなる。しかしアリアナは思わせぶりに笑った。
「わたしの記憶がたしかならね。ここには記載されてないけど、とにかく三人でミクラにいきましょう」
なにはともあれ、最高の形でセレスタインに侵入できる。シュバリスとアイドクレーズはそろってため息をついた。
[newpage]
[chapter:ユアン]
帝都ミクラガード。エウレシア帝国のほぼ中央に位置するこの都は、いうまでもなく首都であり、エウレシアきっての大都会であり、ひとびとからは愛情をこめてミクラと略され呼ばれている。合格通知に添えられた書類には受験時に利用した転送装置を申請なしで使用できる特別許可証がついており、翌日シュバリスたちはそれを使ってアリアナとともに入学準備のためミクラへ跳んだ。
魔法学院の関連施設はミクラ郊外にまとめられており、ミクラ市街地とは巨大な塀と柵で仕切られていた。まるで箱庭だ、とシュバリスは思ったーー彼女がそういうと、だけどミクラに出ずともここだけですべてが済んでしまうほど充実しているのよ、とアリアナが答えた。
「わたしたちが入学する学院は、一般的な小、中、高校を合わせた場所。もちろん魔法学院の名のとおり、もっとも重視されているのは魔法の授業よ。魔術士を育てるための機関だからね……魔法大学が隣接していて、そのずっと奥には魔法研究所。さらにずっと奥にはセレスタイン魔法騎士団の本部がある。騎士団は、ここからは見えないけどあの丘のむこう。危ない訓練もするから、騎士団だけはちょっと離れた場所にあるの」
街のむこうの霧に煙る丘。敵がそこにいるのかもしれないとシュバリスとアイドクレーズは目をこらしたが、緑のほかにはなにも見えなかった。アリアナは街に指先をもどして云った。
「セレスタイン魔法学院のあるこの場所は、それだけでひとつの巨大な街よ。ミクラのなかにもうひとつ、自治権をもつセレス市があると考えるといいかも」
「セレス……市?」
「ええ、セレスタイン魔法学院都市、通称セレス市。学生や先生向けの飲食店や雑貨店、魔法使い御用達の店舗に居住区。関連施設で働く人たちや学生に教官はみんなここに住んでいるの。だからわたしたちがミクラに出るのは、ここで手に入らない特別な買い物があるときくらい。あと観光」
「よく知ってるのねえアリアナ。なんどか来たことが?」
「ううん、セレス市を自由に歩くのはわたしもはじめて。塾で合格者の体験談は聞いたけどね。巡礼でミクラには行ったけどかなり昔だし……。ふふ、だからこれから七年間、ここがわたしたちの街よシュバリス。とくにこのセレス市がね」
セレス市のメインストリートは、同じように学用品を揃えにきた新入生でごったがえしていた。半日かけて教科書、文房具、制服などを購入する。ほかの子どもたちが保護者同伴で来ているのに対し、アリアナはパトリックが宿にかかりきりで忙しいためひとり、シュバリスとアイドクレーズももちろん保護者などいるはずもなく、すべての買い物を終えると、十三歳と十歳と七歳の子どもの手にあまるずいぶんな荷物になった。
「だいじょうぶかい君たち。ずいぶん重そうだが」
夕方、そう声をかけてきた男を振り向いてシュバリスは驚いた。アリアナもだ。そこにいたのは、第六組の試験官でずっと席の左端に座っていた男だった。いちばん若く、いちばん最後に発言した人物。座っているところしか見なかったのでわからなかったがすらりと背が高く、かなり痩せている。入試のときはかっちりとしたジャケット姿だったが、今日はラフな服装なのでよけいに線の細さがきわだった。すぐ後ろに背の高いがっしりした体格の男が付き従っていた。
試験官をしていたということは魔法学院で教鞭をとっている先生なのだ。シュバリスもそう理解して挨拶しようとしたが、それより先に「合格おめでとう。君たちのような優秀な魔法使いの卵がうちに来てくれて光栄だ。ユアン・リコリス・カルセドニーだ」いかにも先生らしいよくとおる声で男が名乗った。
「カルセドニーさまーーとおっしゃいますと、学院の理事長さま?」
合格通知にあった名前だ。アリアナも「あなたが」と驚いていた。そのまま「昔は」といいかけてすぐにやめる。ユアンはちょっと肩をすくめたあと、三人を見渡して微笑んだ。
「いまは理事長兼魔法印・魔法陣の教官でもある。臨時で学院長もしているがね。いずれ授業で会うだろうがそのときはよろしく」
教官でもあり理事長でもあり学院長でもある、そんな人物が、偶然とはいえ声をかけてきてくれるなど思いもよらない。あらためて間近で見るユアンは三十歳をようやくこしたほどで、とうてい理事長という要職につく年齢には見えない。ユアンは「普通の教官のひとりだと思ってくれていいよ」と穏やかに云った。
「レイミア・シュバリス・イスラメイとアリアナ・リン・ノヴェレッテン、君たちの名前はあっというまに覚えてしまった。たまたま試験官を務める組に君たちがいたのはひじょうにラッキーだった、特にイスラメイは特待生に選ばれたそうで、期待してるよ」
「あーーありがとう存じます」
シュバリスは慌てて膝を折った。試験の時はどこか憂鬱そうだったが、今日は完璧な紳士そのもののユアンは鷹揚に背後の男に命じた。
「テディ、わたしはもういいからお嬢さまがたの荷物を持ってさしあげろ。このぶんだとそれほど買い物は残っていないだろう、それがすんだら転送場所まで送ってやれ。立派な少女たちだ、誰に頼ることもなく、この年から自立している。わたしの買い物はもういいから」
「[[rb:是 > ヤール]]。ではのちほど」
ユアンはすたすたと行ってしまい、テディと呼ばれた男だけが三人の前に残された。テディは無表情に三人を見下ろしている。ユアンは柔和な顔立ちの美男子だが、こちらはまさに獣人といった、野性と豪放を絵に描いたような顔と体つきだ。大男の鋭い目つきにアリアナもシュバリスも息を呑み、いっぽうアイドクレーズが、なにか危険なものを感じたかすばやくシュバリスの前に出た。
その瞬間、どこか冷たいテディの瞳がまろやかになった。にっこり笑うと「けっこう」と、愉しげにうなずく。とたんに人好きのする顔になった。
「では君が彼女の従者というわけだな。レディたちの名は伺ったが、君は?」
「あーーアイドクレーズ・イスラメイと申します」やや拍子抜けしてアイドクレーズが答えると、
「イスラメイ。姓が同じだな。そちらのレディの弟かい?」
「いとこです」
「それはいい、魔法使いにとって血縁はなによりの絆だ。ではいこう」
テディはシュバリスとアリアナの手から荷物を取り上げると、さっさと歩き出した。ふとシュバリスは、10メートルほど先の通りに、カレンがひっそりと立っているのを見つけた。カレンはじっとこちらを睨んでいたが、特に何か声をかけてくることもなく、魔法学院の制服を着た少女とすぐ近くの店へ入っていった。「あと買い物は?」とテディが訊ね、アリアナが「スティックを」と遠慮がちに云った。
「新しくしようかと思っているのですが、よろしいですか」
「もちろん」
楽器店を出ると、転送場所となっている学院校舎の一角へと、テディは三人を送ってくれた。彼は別れぎわ、親しげにアイドクレーズに握手をもとめた。
「特待生の従者ということは、君も学院に来るんだろうアイドクレーズ。また会えるな。楽しみだ」
そのころには、見た目は頑迷だがひどく優しい男だと三人も気づいていた。大きな手を握り返して、アイドクレーズは頭を振った。
「いえ、なんとかこの街に住む算段をしようとは思っていますがどうなるか。シュバリスさまをひとりにしたくないのですが」
「ん、なぜだい? 彼女は特待生だろう、それで君が従者ということは、てっきり彼女といっしょに住むんだと思った。それとも君は代理か? ほかにちゃんとお嬢さんの従者がいるのかな?」
「いえ、彼女の従者はわたしだけです。あの、どういうことですか?」
「なんだ、知らないのか」
テディは笑った。
「特待生は従者をひとり連れてきていいことになってるんだ。特待生寮室には従者の部屋がちゃんとついてる、君たちふたり、いっしょに住めるよ」
「えっ」
「もともとこの学院は貴族の子弟むけに作られたからね。生徒には護衛の随行が許されていて、今でも特待生に対してのみ従者と同居が認められている。学友にならない限り授業には同席できないが」
「えっ。じゃあ、わたしたちふたりいっしょに暮らせる?」
アリアナを見るとうなずいていた。このことだったらしい。シュバリスも安心した。アイドクレーズがテディに訊ねた。
「あの、さきほどのご様子から推測するに、あなたは理事長さまの従者でいらっしゃるのですよね。理事長さまもやはり学院の特待生であられたのでしょうか。あなたはそのときから理事長の従者で?」
「そうだよ。わたしは正式な名をテオドール・ネメシア・アベンチュリンといってね。アベンチュリン家はカルセドニー家はじめ皇帝縁者の家に代々従者として仕えてきた家なんだ。だからわたしもユアンに幼いころから仕えてきたし、同時に学友でもあった。君はまだ年齢が足りないようだが、もしシュバリス嬢と学友になるつもりなら従者として学院にいられるのは受験にも有利だよ。みたところあるじより年下なのを気に病んでいるようだが」
子どもの顔はひどく表情を隠しにくい。買い物のあいだにアイドクレーズの秘めたる懊悩に気づいたのだろう、テディは「そんなにまるわかりの顔をしていただろうか」と眉間にしわをよせるアイドクレーズに「わかるさ」とうなずいた。
「同じ従者だからね。といっても、わたしの場合は君と逆、あるじより年上だから悩んだよ。たった一歳差だけど最初の受験に失敗したあとはひどいプレッシャーだった。ユアンさまは一発合格間違い無しの秀才だったし、じっさい一度で合格された。あやうく置いてきぼりをくらうところだった。けっきょくは学友といっても後輩になったからぎりぎりだったしね」
「そうでしたか。しかし、不合格でも従者としていっしょに暮らせるのなら構わないのでは?」
「いや、当時はそういうわけにもいかなかったんだ。単なる同居人でなく、ぜったいに彼の学友になる必要があった。なんといってもハダルが生まれる前はユアンこそーーいや、これはもうすんだことだが、しかしともかくがんばれアイドクレーズ、従者として学院での生活に困ったらいつでも相談においで」
テディは最後に連絡先を書いてアイドクレーズに寄こした。「あなたにも友達ができてよかったわねアイク」とシュバリスが云うと、「特待生の特権について聞けたのはよかったです」とアイドクレーズは素直にうなずいた。
「それに言動や表情にもっと気を配るべきだということがわかりました。わたしたちはここに犯人を捜しにきてる。本当の年齢とか内心とか知られないようにしないと。わたしは犯人に会ってるし、なおさらただの無邪気で能天気な七歳にみせないと」
無理じゃないかなあ、とここ五百年で彼のことを知りつくしているシュバリスは思ったが黙っていた。アイドクレーズのしっかりしていることといったら、じぶんで育てたとはいえあまりのできのよさにシュバリスも眩暈をおぼえるほどだ。無邪気とはほどとおい。しかし単純にアイドクレーズといっしょにいられるのは嬉しかった。
シュバリスは、アリアナとアイドクレーズの肩越しに春風の吹きわたる魔法都市をあらためて眺めた。街路に植えられた桜が満開になっている。春という季節はいつも美しい。が、春はシュバリスにとって、どこか気のふさぐ季節でもあった。
「あなたといっしょでよかった」
そこに込められた意図にアイドクレーズも気づいたのだろう、こくりとうずいた。
「ええ、よかったです」
五百年前にアイドクレーズを拾ったときは、まさかここまでいっしょにいるとは思わなかったし彼がついてくるとも思わなかった。シュバリスのなにもかもを受け入れてくれるとはーー桜の花びらを黒髪に散らしたアイドクレーズの頭を撫でると、彼はちょっと嫌そうに頭を振った。子どもあつかいはごめんなのだ。だが、あのときのあの子がよくぞここまで、とシュバリスはみょうな親心でしんみりしていた。
そしてあたりを見渡して、シュバリスはふいに、セレスタイン魔法都市が、まさにハルトガルトの子孫が作った街であることを実感した。街にはりめぐらされている魔法の気配がハルトガルトのものとそっくりだ。なにぶん千年前のことなので記憶はひどく曖昧だが、ここにはちゃんとハルトガルトの残り香がある。
夜、パトリックの作ってくれたおいしい夕食をいただいたあと、部屋に戻ったシュバリスとアイドクレーズは購入してきた学用品を仕分けて鞄に詰めなおした。入学式はもう三日後に迫っていた。ベイジはまだ晩冬と早春のあいだをさまよっていたが、セレス市のほうはすっかり春だった。足と眼を取り戻すのとは別の懸念事項についてもふたりは話し合った。
ふたりにとって、春は混乱の季節でもある。アイドクレーズはシュバリスの様子を見極めようと目を細めた。
「いまのところだいじょうぶですかお体は。あれがくる気配は?」
「だいじょうぶ、特に変化はないし思考も正常。体が十歳だからでしょうね」
「よかった。いまの状態だと、眼と足の傷以上にそちらのほうをなんとかできる気がしません。しかしーー」
アイドクレーズは昼間のことを思い出していた。セレス市は他の都市に比べて人間たちの比率が高かったが、獣人がまったくいないわけではなかった。多くは成人した男女だったが、彼らにとっても春と夏は己の本能に抗うことを強いられる辛い季節のはずだ。どうやって乗り越えているのだろう?
「ひょっとして、そちら方面を抑制するまっとうな魔法が開発されたのかもしれませんね。アリアナやパトリックに訊くべきなんでしょうが、やはりわたしも五百年前の人間です、誰かに相談する気になれませんでした。夕食のあいだに訊くかどうか迷ったんですが」
「わかるわ。というか、いくら時代が変わっても夕食の話題にすべきことではないわ、発情期なんて。しっかりしているとはいえアリアナはまだ未成年だし……わたしの時代だってみんな隠して処理してたもの。わたしはハルトといっしょにいたけど、多くは同族のパートナーといっしょに過ごすことでなんとか乗り越えていた」
「いまは発情期ではなく、繁殖期というそうですよ。獣人族への配慮がずいぶんすすんでます」
「そうなの?」
「ええ。発情期というと怒られるそうですよ。差別用語らしいです」
「そう。獣人の地位もあがったものね。ありがたいわ」
「セレス市にはそういったことを商売にしている施設はなさそうでしたけどね。発散のためのーー娼館とか」
あなたの時代にはありましたか、という意図をこめて、ためらいがちにアイドクレーズが首をかしげるのに、シュバリスも意を知ったか「わたしの時代はまだなかったけど」と頭をふり「そりゃあ学校がある街だもの、セレス市には、子どもたちに悪そうな場所はないわよきっと」と肩をすくめた。
「ですよねえーー」
蛇人族の気配もなかったのに彼らはどうやりすごしているのだろう、というのはかろうじて飲み込んだが、アイドクレーズが考え込むいっぽう、シュバリスはあくまで明るく「まあ、なんとかなるわよ」とうなずいた。
「いざとなったらアリアナに訊きましょう。まじめに訊けばきっと変な顔せずに教えてくれるはずよ、あの子なら」
「たしかにあの子はいい子です。頭もいいし素直だし優しいし、パトリックが自慢するのもわかります。ベイジに来て真っ先に彼女と知り合えて、しかも友だちになれてとんでもないラッキーでした。お手柄ですよ」
「住む場所まで貸してもらっちゃってるしね。いきなりいなくなるのも申し訳ないから、力を取り戻したらそれ相応のお礼をしてから消えないとーー」
何百歳も歳の離れたアリアナを、シュバリスもいまは慕わしく思っていた。せっかく千年ぶりに友だちができたというのに、いずれ彼女と別れなければならないのは残念だ。ため息をついているとアイドクレーズが「それはそうと傷のほうは?」と心配そうに云った。
「だいぶ塞がったわ。ーーけど」
シュバリスは足元に視線を落とした。日常の動作ではばれないが、切られた時の傷がそこにはある。子どもの姿になることで両目ともに機能するようになったのは幸いというほかない。ただし、えぐられた右の視力が若干落ちていた。
「わたしもやっとわかったのだけれど、足の傷のほうが特に完全にふさがらないようにされてるみたい。そこから魔力を吸い取られてる。これが完全にふさがるときは眼と足を取り戻したとき、それ以外にない」
「そうですかーー」
「傷はだいじょうぶ、それより当座の心配は学校のほうよ。魔力を取り戻せばすぐに姿を消せるとはいえそれまで周りに不信感を抱かせるわけにはいかない。あなたが同じくらいの年頃ならよかったのだけど。そしたらふたりで助け合えたのにーーわたしひとりで学校に通うなんて、いったいどうなることやらよ。エイシャのヤハンなんて田舎者の世間知らずの捨て子、で、千年の時代の空白をごまかせるといいのだけど」
「なにかあればすぐに馳せ参じます」
「ありがとう」
それでもシュバリスの様子は、ベイジに来た日と比べたらかなりマシになっていた。じっさいにじぶんの目でいまのエウレシアを目にし、アリアナに接して現代の女の子の思考やふるまいを体得したからだろう。神殿の地下にこもりきりの主人を、アイドクレーズはことあるごとに外に誘い出そうとしてきたが、よければ年に一度、悪ければ数年に一度外を散歩させるのが精一杯だった。
いまだに千年前の失恋をひきずっているシュバリス。千歳をこしているとは思えないほど子どもっぽいシュバリス。彼女がこうして外に出ることになってよかったんだろうか、それとも悪かったんだろうか、とアイドクレーズは考えた。シュバリスはここ二日、アイドクレーズと同じベッドに入らずともちゃんと眠りに落ちてゆく。そのことにも、安堵か不安かわからない複雑な感情を彼は抱いていた。
入学式がやってきた。
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