【skeb】優醒、絶叫!非情なる邪竜の刃!! (完全版)

  帰り着いた自室は、まるで凍り付いたかのように静かだった。

  必要最低限の家具が佇むだけの殺風景な空間の片隅、場違いに艶めくベルベットのソファーの片側に腰掛けるのは、額を愁いに歪めて押し黙ったままの灰狼。色のない鏡面に映るその表情があまりに虚ろに見えて、思わずリモコンの電源ボタンを押した。

  今日も今日とて垂れ流される臨時ニュースが映し出すのは、日々繰り返される異能者同士の戦い。異能を悪に行使する者――ヴィランと、それを阻むために異能を振るうヒーローの激闘は日常茶飯事ではあるが、ここ数週間は特にその件数が倍近くに増加している。

  もっとも、急増した異能犯罪の大半は、各地で場当たり的に強盗や暴行等のちゃちな犯罪を繰り返す、小物と切って捨てられる程度の悪党どもによる犯行である。常日頃ならヒーローの威光に平伏し、凶行を思い立っても実行には移せないような小心者たちが、今や日本各地で伸び伸びと邪悪な活動に勤しんでいる。

  ヴィランたちが調子づく原因など、とうにわかりきっている。

  彼が、敗れたためだ。

  「戻られてましたか。お疲れ様です、氷牙さん」

  努めて明るく設えた声が、にべもなく宙を切る。

  湯気を立てるコーヒーカップを机に置くと、大神 冬樹はソファーにぐったりと背を沈ませる己が番――大神 氷牙の隣に腰を下ろした。普段ならすぐにでも首筋を通って肩に伸びてくるはずの逞しい腕が、今日に限っては肘置きから微動だにしない。代わりに届くのは、深刻な声色で綴られるごく短い問いかけ。

  「――彼の様子は」

  「……びっくりしちゃいました。あんなに明るい優醒さんが、一言も喋らなくって」

  そう呟く冬樹の脳裏には、昼下がりに訪れた病室での一時が鮮明に蘇っていた。

  入院患者の名は天導 優醒。日本最強のヒーローと謳われた『刃竜』こと天導 武蔵と運命を分かち合う、ただ一人の『共鳴者』。

  武蔵のサポーターとして働く傍ら、胸に募るほのかな想いを確かな愛に育てつつあったはずの彼の心は、その武蔵が『[[rb:狩人 > ヴェナトール]]』を名乗るヴィランによって倒されたことで粉々に打ち砕かれた。大切な人を眼前で見る影なく穢し尽くされ、無力に打ちひしがれた悪夢の一日が終わってなお、胸に差す翳りはあまりにも深い。精神を絡め取る泥濘に囚われ、密室で一人己を責め続けるうち、いつしか彼は文字通り『言葉を失って』いた。

  心因性失声症――精神的ショックによる、一時的な発声機能の喪失。

  同じヒーローの共鳴者同士、何かと交流の多かった冬樹の中では、優醒はよく笑う快活な人物という印象だった。しかし、今の優醒は笑顔どころか、他人と語らう言葉さえも失ってしまっている。何事か伝えようと口を開いても、喉を一つ鳴らすことすらできない痛ましい姿を思い返すと、締め付けられた胸の奥が鈍く軋む。

  だが、冬樹の心を憂いに曇らせるのは、優醒の悲惨な姿ばかりではない。

  「でも、僕も……もし氷牙さんがあんなことになったら、きっと……」

  脳裏を過る最悪の想像に、冬樹は膝の上に下ろした両拳を震わせた。拒むように目を塞いでも、閉じた瞼の裏にさえ侵蝕する惨憺たる光景が、あの日目撃した刃竜の敗北、その一部始終を否応なしに思い出させる。

  卑劣な『狩人』たちによって日本中、いや全世界に配信された刃竜の痴態。淫欲を増進させる粘液生物とその触手に全身を絡め取られ、立て続けに襲う快楽に為す術なく絶頂を繰り返す様を、冬樹もまた画面越しに目撃していた。粗暴な蜥蜴人に尻穴を蹂躙され、狂い悶える白竜の悲鳴じみた喘ぎが、今も耳の奥にこびりついて離れない。

  もしもあんな惨劇が、己の番たる灰狼の身に降りかかったとしたら。

  「――冬樹」

  「ひどい、ですよね。今は攫われた武蔵さんと、優醒さんのことが優先なのに」

  いつの間にか溢れ出した涙が、眦を伝って頬に流れ落ちる。

  武蔵と同じく最前線で戦うヒーローである氷牙を支え、共に戦うパートナーとして在るべきはずの自分が、『英雄』としてではなく『自らの伴侶』としての氷牙の身を案じてしまっている。その事実が、冬樹の心を鋭い茨となって激しく締め付ける。

  「僕は……氷牙さんが、心配で……そればっかり、考えて……っ」

  まして、氷牙の勝利を信じ続けるべき自分が、敗北の可能性に怯えて啜り泣くなど。

  「大丈夫だ、冬樹」

  今にもその場に崩れ落ちんとする頭を受け止めるように抱き締めて、氷牙は静かに告げた。頭二つ分ほど小さな冬樹の身体を丸ごと包み込む、逞しい肉体の感触。耳元に優しく息を吹きかけられると、体の芯の震えが少しずつ収まってゆく。

  「俺は必ず武蔵さんを助ける。そして……お前の元に、必ず帰ってくる」

  「氷牙さん……っ」

  頭上から降り注ぐ、静謐ながらも優しさを湛えた蒼い眼差し。潤む視界に受け取った温もりに、なおも零れる涙を、獣毛に包まれた太い指がそっと拭う。

  迫る不穏の一切から守る、と高らかに宣言するかのように、四方に密着した番の体温。氷の力を宿した戦士にはいささか似つかわしくない、その燃えるような熱さに縋って、冬樹は体重を灰狼の胴体へと預けた。爪先と背を懸命に伸ばし、見上げる先へ差し出した唇が、精悍なマズルの先端と柔らかに触れ合う。

  それから翌朝、非番を終えた氷牙が勤務に復帰するまでの僅かな間、二人は一瞬をも惜しむように互いの体温を分け合った。生まれた姿に戻り、互いの欠落を慈しみ、睦み合う悦びに埋没する至福の一時。しかし、宙に浮き上がるような夢見心地の中にあってなお、冬樹は胸の奥に巣食う不安の種を払い除けることができずにいた。未だ知れぬ明日の影に怯えるばかりの己を恥じて、項垂れそうになる首を懸命に左右に振る。

  今考えるべきは、自分にできること。氷牙の共鳴者として、果たすべき使命のこと。

  分厚い雲の向こうからうっすらと覗く朝焼けの光が、窓越しにベッドサイドを照らす。彼の残り香がうっすらと漂うシーツの上で、冬樹は一人拳を握った。

  ※

  「――おはようございます、刃竜さん」

  低くひそやかな囁きに導かれて、茫漠の彼方に霧散していた意識がにわかに覚醒する。見開いた眼に映るのは、おどろおどろしい暗赤色の証明に照らされた見知らぬ天井。動揺に息を呑む暇もないまま、したり顔の[[rb:鬣犬 > ハイエナ]]が視界に割り込んでくる。

  「ああ、すみません。今はただの天導 武蔵さんでしたね」

  「く……ッ」

  降り注ぐ慇懃な侮蔑に歯嚙みしながら、武蔵は瞳を左右に振って周囲を見定めた。全方位を取り囲むのは、モニターの乾いた光が照らす無機質なコンソールの群れ。身ぐるみを剥がされた己が身は、膝を曲げた状態の両脚を大きく開かされ、椅子とも手術台とも取れぬ器具に固定されている。首筋、手首、足首――動作の起点となる部位の全てを戒める、鋼鉄のリング。一切の温もりを宿さぬ無慈悲な冷たさが、鱗肌に食い込んで離れない。

  「ご安心ください。失った英雄の力などより、よほど上等なものを与えてさしあげます」

  そう嘯きながら、細身の雄は羽織った白衣の懐に手を差し入れた。あからさまな音を立てながら取り出した掌大の塊を、囚われの竜人へ見せつけるように弄ってみせる。

  「何を、する……止めろ、放せ……ッ!」

  「無駄ですよ。竜人とはいえ、無能力者に成り下がった貴方にこの拘束は解けません」

  跳ねるような口調で言い放つ鬣犬――[[rb:繫殖者 > クルトゥーラ]]の手の中で、黒瑪瑙を彷彿とさせる結晶体が鈍い光を放つ。一歩、また一歩と歩み寄る足取りを前に身体を捩らせても、鋼の戒めはびくともせず、金属の擦れる乾いた音が寒々しく鳴り渡るばかり。

  変異者たるこの身を英雄の姿に変えることさえできれば、湧き上がる膂力を以て拘束を脱するのは容易いはずだった。しかし、今の己には変異はおろか、異能の発動さえもままならない。肉体を瞬時に作り変え、戦士の力をもたらす黄金の輝きはとうに砕かれ、そのわずかな名残りを胸元に残すばかりなのだから。

  変異者の力の源――エナジーコアを失ったこの身では、脱出など夢のまた夢。重く圧し掛かる現実を反芻しながら、武蔵は戒められた腕の向こうで疼く拳を強く握った。脳裏に浮かび上がる屈辱と悔恨が頬を歪め、全身を巡る血をあらんばかりの勢いで沸騰させる。

  日々の鍛錬に磨かれた太い腕脚に生々しい血管を青々と浮かばせても、拘束は軋む気配すら見せない。そうわかっていてなお藻掻かずにいられない竜人の姿を嘲笑いながら、繫殖者は痩せこけた腕を武蔵の胸に伸ばした。赤い照明を反射して不気味に艶めく漆黒の結晶体を、萎びた掌にしっかりと握り込み、大胸筋の隙間に擦り付ける。

  「――よっこらせ、っと」

  そして、ナイフのように尖ったその先端を、武蔵の胸に一息に突き刺した。

  「ぐぅぅッ!?」

  竜人の喉から呻きを溢させたのは、肉を抉る刃の一刺しそのものではない。切っ先が胸を貫いたその瞬間から、血管に浸透するように広がってゆく異様な感触。肌の奥で無数の蟲がざわめくようなむず痒さと、じわじわと全身を冒す痺れが、苦悶となって滲み出る。

  「ぐ、あぅ、ッ……ぁ、がぁッ……ぐぅ、うが、ぁぁぁ……ッ」

  自分の内側で蠢く『何か』が、全身を無理矢理に躍動させる。強壮な竜の心臓は破裂しそうなほどに脈を打ち、全身を巡る血液の迸りが激流となって異物感を運ぶ。間髪入れずに叩きつけられるのは、頭の天辺から足指の先まで、ありとあらゆる部位を内奥から切り刻まれるような痛み。引き攣る背に負う羽を広げようとしても、拘束具に阻まれ叶わない。激痛に喘ぐ指先が、中空をひっきりなしに掻き毟る。

  「ナノマシンが定着するまでしばらくは苦しいと思いますが、耐えてくださいね」

  「ぐおぉッ! んぬぅッ、がぁ、はぁ……ぐあぁぁぁぁッ!! あぁぁぁぁぁぁッ!!」

  腹に手を挿し入れられ、内臓に直接触られるような、おぞましい感触。

  鱗の一枚一枚が喚き、肌という肌が粟立つ、耐え難く不快な感覚。

  だが、武蔵にとって何よりも恐ろしいのは、それらの感覚が徐々に己の身体に馴染み始めていることだった。血管という血管に敷き詰められた細かい砂利が血流に砕け、全身に溶け込むかのように、神経を圧迫する著しい不快感が収まってゆく。

  腸を引き摺り出されるような痛みも、喉を焼く吐き気も、波が引くように和らぎを見せる。その事実がもたらすものは安堵ではなく、言い知れぬ不安だけだった。

  「ふぅぅ……ッ、ふぅ、ふぅ……ふぅぅ……ッ、うぅ……ッ」

  やがて雄叫びは止み、荒げた息だけが手術室に響き渡る。それは、全身を隈なく貪り尽くすナノマシンの侵蝕に、白竜の身体が順応し始めていることの証明。しかし、躰を内部から作り変えるその毒牙に晒されても、武蔵の眼差しが曇り切ることはない。

  想像を絶する痛みに身を浸され、増大する不快と不安に弄ばれてもなお、自我の炎を絶やすことだけは頑なに拒む。悪意の白濁に穢されてなお残る、長き時を戦い続けてきた英雄の矜持が、今の武蔵の精神を辛うじて支えていた。

  「うーん……『クライアント』の説明ではもう汚染完了しているはずなんですが……」

  左腕に装着したデバイスのコンソールに目を落として、繫殖者は溜息を漏らした。画面に躍る時間表示、およそ十五分。事前に伝え聞いた性能によれば、ナノマシンによる体内汚染は五分もかからず完了するとのことだったが、如何せん今回は相手が相手である。竜人族が元来備える桁外れの治癒力に加え、武蔵自身の異能の一つ――『竜魂再生』の作用によるものか、投影式モニターに刻まれた進捗率の数字は遅々として進まない。

  「仕方ありません。うちの子たちにも手伝ってもらいましょう」

  それはそれで検体としては面白いのではないか、と思い直して、繫殖者は白衣の胸裏に隠したカプセルを取り出した。握り潰した透明な器から零れる緑色の粘液は、繫殖者の掌から発せられた怪光を浴び、見る見るうちに黄色い触手を備えた軟体生物へと成長する。一つ目のような中心核を幾重にも分裂させて、瞬く間に増殖する生物兵器の群れ。五指をすり抜け、深い呼吸に上下する竜人の腹を目掛けて落下したその魔手が、汗に光る鱗の一枚まで貪り尽くさんと一斉に伸び上がる。

  「んんぅ……ッ、ふぅ……此奴ら、め……ま、また……ッ」

  地獄の責め苦のような苦痛と不快に晒され、消耗しきった武蔵の精神を、押し寄せる触手の一群がまったく別のアプローチで責めたてる。鱗の奥の肌をぞわぞわと撫で上げられたかと思えば、太い首筋に絡んだ粘液塗れの触手が舐めるように腹を擦り付ける。神経の集中した胸板を締め上げるもの、内腿を執拗に舐めしゃぶるもの、固く閉ざされた雄の秘割れの周囲を突きまわすもの――そのいずれも、まるで一つの統制された意思の元に制御されているかの如く正確に性感帯を刺激してくる。ただでさえ翻弄され尽くし、今なお身体を内側から冒さんとする侵蝕に耐えるばかりの身体では、到底堪えきれるはずもない。牙をすり抜ける苦しみの声は次第に熱を孕み、零れる息が喘ぎに変わってゆく。

  「貴方の汁という汁を吸い尽くした子たちから、分裂して生まれた個体です。生まれつき弱いところを知り尽くしていますので――格別でしょう?」

  身を左右に捩らせる白竜を細めた瞳で凝視しながら、繫殖者は高らかに口上を述べた。虱潰しに性感帯を探り当てるような荒い動きはなく、初めから武蔵の感じやすい箇所を知っているかのような一点集中の刺激。その成果が如何なるものかであるかは、煩悶のうちに痴れてゆくばかりの熟れた雄竜の肉体が如実に示していた。

  外側から与えられる精緻極まりない刺激と、内部から細胞単位で肉体を作り変える超科学の脅威。都合よく神経節を増設され、今や敏感な部位を一撫でされただけでも達してしまうほど吊り上げられた性感に、武蔵は背を強張らせて懸命に耐えていた。

  「んぬ……ぅ、ッ……ふ、んぅッ、あっ……ぬぁ、あ、んぁ……ッ」

  革のベルトで床に繋ぎ留められた長大な尻尾が、ぎしぎしと軋む音を立てながら激しく揺れる。滴る唾液に濡れた唇を閉じることもできないまま、武蔵はとうとうあられもない嬌声を漏らした。這い回る触手の先端は、さながら弦楽を奏でるように雄竜の肢体を隅々まで舐め尽くし、薄暗い室内に艶やかな夜想曲を響かせる。峡谷のように窪んだ腋や、迫り出した胸筋と胴の僅かな隙間――意識の埒外にある秘所ばかりを、執拗に突き回す柔肉の群れ。粘液に塗れたその潤滑に慄く肌を擦り上げられ、快感に濡れた竜の吐息が辺り一面に充満してゆく。

  白い鱗を覆い隠す緑の粘液から、黄色い触手が伸び上がる。その猛威に肌という肌を蹂躙されながらも、武蔵はある一点だけは断じて譲るまいと目を見開いた。股座でぬるぬると秘蜜を溢す、雄の縦割れ。齢百を超える歳の割には瑞々しい桃色を保つ裂け目の奥で、硬く張り詰めようとしている肉棘を体外に露出させることだけは、どうしても避けたい。

  秘すべき恥部を隠したい、などというごく個人的な感傷に基づくものではない。無防備な陰茎を飢えた粘液共の前に晒し、屹立した肉塔をひと握りでもされたが最後、なけなしの理性は完全に崩壊してしまう――脳内にけたたましく鳴り響く警鐘が、最後の一線を頑なに守護する決意を奮い立たせている。

  しかし、頭上で口角を歪める狩人の薄ら寒い笑みが、守るべき最後の壁を突き破るとどめの一撃を告げる。

  「いい塩梅になってきましたね。そろそろ始めましょうか」

  繁殖者が左腕のデバイスを操作すると、物々しいモーター音と共に二つのマニピュレータが姿を現した。今まさに武蔵の身体を蹂躙している触手にも似た、細長いボディ。先端に噴射口と思しき穴を備え、茸の笠のように膨れた特異な形状のアタッチメントを装着したその姿は、竿を伸び上がらせた異形の男根を想起させる。

  仰ぎ見た瞬間、直感する。

  あれは、我が身を貫くために用意された楔なのだと。

  「ダークコア移植の被施術者専用に組まれた人格改造プログラムです。次に目が覚めた時、貴方はもう貴方ではなくなる」

  さも当然のことのようにすらすらと述べる声の末尾が、頭上に木霊するモーター音に掻き消される。物々しくも自我の消去を謳う無慈悲な通告と、冷たく光る鋼鉄の魔手が上げる唸り声が、武蔵の鼓膜に幾度となく反響して離れない。

  今や決壊寸前の理性の堤防に、躊躇いなく流し込まれる最後の一滴。決して破るまいと念じた誓いを呆気なく吹き飛ばす極上の快楽が、著しい振動と共に武蔵の股座に近付く。内奥からの分泌液にぬらぬらと光る肉色の縦割れと、その下でひくつく肛門。鋼の剛直が、雄の二穴めがけて一ミリずつにじり寄ってくる。

  悦楽に溺れ、制御もままならない身体を懸命に捩らせても、物言わぬ機械腕の接近は止まらない。一度でも触れれば絶佳の愉悦をもたらすであろう性具の振動が、肉襞との間に差し挟まれた僅かな空気さえも震わせて迫る。

  「では――どうぞ、じっくりとご堪能ください」

  やがて、感覚の中で永遠に等しいほど引き伸ばされた一瞬が過ぎ去り、白銀の張り型による掘削が始まる。それは、『天導 武蔵』という人格に対する死刑宣告。

  「んおぉぉぉッ!? おッ、おおッ、んほぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!」

  まず襲い来るのは、暴力的なまでの圧迫感。

  先走りと潤液にそぼ濡れた雄の秘裂はともかく、元来排泄器官である肛門に剛直を迎え入れるには相応の準備が要る。それにもかかわらず、締め付けを和らげる緩やかな拡張の手順も経ないまま、機械腕は強引に先端を突き入れてくる。

  噴射口から申し訳程度に漏れ出す粘液の滑りだけを頼りに挿入される、雁の張った人工の亀頭。常人をはるかに上回る大きさのそれを一息に捻じ込まれれば、極限まで拡張された不浄の穴は痛みに呻くばかりで、興奮など到底感じるはずがない。

  そう。こんな強引な凌辱で、感じるはずなどない。

  ――この期に及んで、武蔵は己の肉体がどこまで堕とされたのかを見誤っていた。

  「おッ、あッ、あぁ……ッ! やッ、やめ……んあぁッ! んほぉ、おぉぉぉッ!!」

  一突きごとに臓腑から脳天へ駆け上がる電流が、武蔵の口からあられもない喘ぎを溢させる。常時ならば到底上げるはずのない、上擦った情けない声。長い口吻を中空にもたげ、大きな口を限界まで開いて、堪えようのない悦楽を部屋の隅々まで響かせる。

  腹の奥で収納されたまま激しく屹立した逸物は、前から挿入されたバイブによって塞がれ、体外にまろび出ることを許されないまま振動に晒されて狂い悶える。無機質に振動する先端と、なすがままに震え悶える尖端が激しく擦れ合う度に、随喜の汁と愛液の混合物が洪水のように流れ出す。その滴りは、秘裂からまろび出た花弁をずぶ濡れにしてなお溢れ、まるで失禁のように内腿を伝って尻たぶにまで流れ落ちてゆく。

  「あッ、あんッ、あぁんッ! いッ、いかんッ、んんッ……こんな、ことで、ェッ」

  閉じることを許されない股の真ん中で、武蔵の雄穴が雌のように悦びの蜜を垂れ流す間にも、もう一本の機械腕による尻穴の掘削は続く。獲物を内蔵の奥まで貪り尽くす捕食者のように、指や肉棒では届き得ない更なる深部までを一気に貫く鋼鉄の剛直。亀頭に擬された先端のみならず、太く括れた竿までもが上下左右に振れ回り、絡みつく肉襞を隅から隅までこそぎ取る。

  肉割れと後穴を一息に貫く、二本のバイブレータ。内臓を挟んで連なるその振動が、武蔵の体内で互いに共鳴し、雄の急所を一斉に嘶かせる。割れんばかりに開いた喉は、一突きごとに喘ぎを垂れ流すだけの器官と化し、意思とかかわりなく滲む温い雫が頬を濡らす。垂れ流される涎を周囲に撒きながら、汗に塗れた胴を痙攣したように上下させるその姿は、最早狂乱の二文字で表すことすら生温い。

  全身を内外から犯す悪の科学の賜物に感覚を狂わされ、二孔をまとめて貫かれる。鱗の奥底まで這入り込んで全身を巡る触手の感触が、すでにあって当然のものとなっていることに、武蔵は気付く由もない。許容量を遥かに超える快楽を脳髄の奥に矢継ぎ早に叩き込まれ、擦り切れかけた自我が悲鳴を上げる。

  「……ふふ。やはり貴方は、いい表情をされますね」

  見開いた瞳をあらぬ方向に向け、連獅子のように髪束を振り乱す武蔵の顔を覗き込んで、繁殖者はうっとりとした様子で言い放った。全身これ正義の塊とばかりに設えられた端正な顔立ちが、生命原初の欲求に支配されて見る影なく崩壊する有様は、見れば見るほど味わいの増す超一級の芸術品。汗、涙、唾液――凡そ顔面から分泌され得るあらゆる液汁を垂れ流し、表情筋がはち切れそうなほどに貌を歪める白竜の姿を見るにつけ、細長い陰茎がタイツの下で体積を増す。一寸たりとて身体から離れることのない特殊素材は、見る見るうちに膨れ上がった勃起に沿って伸び上がり、スーツの股座から黒艶に覆われた肉欲の化身が姿を現した。

  「なんだか私も、催してきてしまいましたよ……」

  俎板の鯉のようにびくびくと跳ねる肢体をつぶさに観察しながら、鬣犬は体に張り付くタイツの胸元を弄った。取り出したカプセルを潰し、中から生まれ出でた『我が子』たる粘液生物を股座に這わせると、スーツ越しの肉棒を粘液諸共握り込み、激しく揉み扱く。粘液と機械腕に貪られる武蔵の腰ががくがくと前後に揺らぐたび、鬣犬の握る淫欲の塊に血流が注がれ、その身に宿す熱を更に増してゆく。

  「おの、れぇ……ッ! 某は……ッ、決して、屈さ……ぬ……うぅ……ッ」

  口先だけの拒絶など、最早何の役にも立ちはしない。

  非情な現実を思い知らせるかのように、体内を抉る二つの鉾が歩調を合わせる。絶え間なく振動するバイブが、前立腺の表裏を一斉に突いたその瞬間、武蔵の中で最後の壁が崩れ落ちた。

  「んふぅッ!? うおぁッ、あッ、ぬあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」

  身体を内側から突き破らんばかりに隆起した竜の宝刀が、歓喜に咽び泣く。すでに垂れ流しの様相を呈した先走りのぬめりを押しのけるように、雄の本懐が股座の奥から湧き上がり、溶け堕ちた矜持と共にだくだくと音を立てて溢れ出始める。

  「いかんッ、もう駄目ッ、出るぅッ! んぁ、あ……あぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」

  白竜のあられもない絶叫と共に、股座から勢いよく噴出するのは、栗花の臭気を漂わせる白い溶岩。銀の機械腕に散々に甚振られ、襞のはみ出した肉割れを鮮やかに彩るように、濁った種汁が沸々と泡を吹く。

  体内で暴発した逸物が嘶くたびに。しゃくり上げる絶頂の高揚。二度三度では到底収まらない放出の勢いに押し流され、喘ぎ哭く武蔵を嘲るように、仕組まれた『プログラム』は更なる興奮の階へと誘う。

  「やめッ、否ッ、出てッ、達して……いるのにィッ!! んぎぃぃぃぃぃッ!!」

  びくびくと尖端を振り乱し、放精を続ける逸物に、ますます調子づくバイブが真っ向から押し当てられる。射精を終えるどころか、今まさに弾けている最中の雄槍に刺激を加えられれば、いかな偉丈夫とて悶絶せずにはいられない。

  「と、止まら、ぬゥ……ッ! それッ、がしのッ、逸物がぁッ、爆ぜてぇッ!!」

  本来ならば一瞬のうちに爆ぜ飛び、打ち上げ花火のように掻き消えるはずの強烈な快楽が、絶え間なく続く――種族特有の旺盛な精力を精神力で抑え、常日頃から自慰にすら縁遠い武蔵にとって、その刺激はあまりにも強烈すぎた。

  「んおッ、おッ、おほぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!」

  窄まった口からまろび出る汚く濁った声は、英雄たる者にあるまじき醜態の集大成。押し寄せる白濁の津波に攫われて、身も心もばらばらに弾け飛んでゆくその刹那、残された最後の良心が懸命に絞り出した、断末魔の絶叫。

  「駄目ッ、もうッ、出な……ッ……あ、んあぁぁぁッ!!」

  いつ果てるともない絶頂の連続は、時間にして数えればほんの数分程度。だが、そのほんの僅かな時間の内に、竜人の益良雄は見る影もなく堕落しきっていた。雄裂からバイブが引き抜かれ、入れ替わりに突き出した肉茎。その表面を艶やかに飾る黄味がかった白濁の色濃さが、その陥落ぶりを如実に示す。

  「あんッ、あっ、あぁ……んッ、あ……はぁ………………ッ」

  一度離れた機械腕が、先端部のアタッチメントを換装して再び武蔵の股間目掛けて舞い戻った。緩やかに回転しながら迫る新たな刺客は、女陰に擬した薄橙の性具。内側から染み出す潤滑液に濡れそぼつ人工の肉襞が、痺れて鈍感になった逸物を包み込む。

  「ふぅ……ッ、んぅッ、ふぅッ……」

  それは握り込まれるよりも優しく、咥えられるよりも温かい、極上の名器。地獄のような絶頂の嵐の中で摩耗しきった粘膜の感覚が、慰撫と欺瞞に満ちた機械仕掛けの淫筒の中で徐々に回復してゆく。振動を停止し、ただ緩やかに蠢くばかりに成り果てた後孔の機械腕が、無理矢理凪に引き戻された雄の身体を擽るように突き回す。

  あれほどの叫びを上げ、壊れんばかりに身体を振り乱して拒絶に藻掻いたというのに。ようやく与えられた休息に阿り、疲労のままに横たわっていればいいというのに。

  ――白竜は、求めてしまう。身体ごと昇天するかのような、あの快感を。

  「達、する……ッ、もっと、もっと……」

  恥も外聞も殴り捨て、へこへこと腰を突き上げる度、拘束台が音を立てて激しく軋む。腰の上に吊り下げられたオナホールに、逸物を押し挿れては抜き放つ武蔵の顔には、英雄たる者の矜持などひと欠片も残されてはいない。ここにいるのは、だらしなく開いた口から舌を突き出し、会陰を震わす放精の一瞬だけを求める、発情に蕩け切った一匹の獣。

  内部に仕込まれた収縮機構によって時に優しく、時に激しく締め付ける内奥が、白竜の精を旺盛に搾り取る。襞と竿の隙間から滴る白濁が垂れ落ちるほどに、武蔵の脳内から大切なものが抜け落ちてゆく。

  百年余りを鍛錬に費やしてきた、剣士としての誇り。

  人々の営みを守りたいという、素朴な願い。

  そして最後に霞み消えるのは――想いを寄せる恋人の、朗らかな笑顔。

  「もっと、某に――――――――否」

  己を形作るものをすべて手放した今、彼は最早『天導 武蔵』ではない。武蔵という存在の内側から、殻を破るようにして姿を現した、本能に忠実なもう一つの人格。

  「我に……快楽を、寄越せェ……ッ!!」

  血走った眼を真円に見開いて、『天導 武蔵』だった者は高らかに叫んだ。内奥から溢れ出す衝動のまま、下腹部に響く極上の愉悦だけを求めてひた走り、そして――

  すべてが、淀み濁った白に塗り潰される。

  ※

  「おはようございます、天導 武蔵さん。ご気分はいかがですか」

  「――疼く……ッ」

  地を這うような重低音と共に、掃う腕が鋭い刃となって振り翳される。伸ばした手に直撃せんとするその軌道を察して、繁殖者は文字通り手を『引っ込めた』。

  「おおっと」

  いかなる技術によるものか、丸ごと溶けてなくなるようにしてその場から消えた掌を掠めて、二刀を構えて堂々と振り回すほどの膂力を秘めた逞しい腕が空を切る。あからさまに面妖なその光景を目の当たりにしても、白竜は顔色一つも変えはしない。ただ己を充足させる戦いと交わりを求め、血走った瞳を見開いて言い放った。

  「そこの何某、疾く我が剣を持て。肉を裂き、血飛沫を啜らねば、この疼きは収まらぬ」

  そう語る白竜の心は、すでに尋常ならざる狂いを発した新しい人格に成り代わっていた。淫蕩を求めるぎらついた欲望を肉割れの奥に潜ませた、白濁の邪竜。真っ赤に染まった瞳を爛々と光らせ、触れる者すべてを斬り裂く殺気を無遠慮に撒き散らす。

  「誰ぞ、この昂りを鎮める者はおらぬか。強者を斬り伏せ、組み敷いて逸物を捩じり込む――蹂躙と陵辱こそ、我が喜悦」

  「……それは結構なことで」

  以前の彼ならば決して表に出すことはなかったであろう、剥き出しの欲望。異様な熱を帯びた身勝手な夢想に若干気圧されながら、繁殖者は武蔵だった者の正面に悠々と歩み出た。保険のセールスのように掌を差し出し、滔々と説いてみせる。

  「ご安心ください、『クライアント』がその喜悦とやらを保証します」

  繁殖者の雇い主たる『クライアント』は、こと己の欲望を満たす充足感を与えることにかけては大らかを通り越して過保護すぎると言ってもいい。繁殖者には心ゆくまで生物兵器の研究に浸れる費用と施設を、拳闘士には生身よりも力強い機械の体を授けて英雄たちへの復讐の手助けを。無論、英雄の殻を抜け出て邪竜に生まれ変わった彼にも、求められる働きに分不相応なほどの対価が約束されている。

  「我々と共に『クライアント』に従うと宣誓されるのであれば、貴方と戦うのに相応しい強者――貴方が犯し尽くすのにぴったりのお相手をご用意しましょう」

  『犯し尽くす』の一声を聞いただけで、邪竜の股座の秘裂から逸物の先端がぬぷ、と音を立てて顔を出した。精悍な口吻が先端から大きく開き、唾液を滴らせた長い舌が艶めかしく口周りを舐めずる。

  「良かろう。我が戦場と褥のためならば、この身は喜んで修羅に堕ちようぞ」

  「では、契約成立ということで」

  沸々と湧き上がる喜悦に目を細めて、痩身の鬣犬はひらひらと手を振った。薄暗い部屋の中、暗赤色の光を発する漆黒の結晶体を視界に収めると、止まない笑いに喉が鳴る。

  ああ、愉しい。

  正義正論を笠に着て、他者のみならず己の本能にさえ蓋をするカワイソウな奴らの化けの皮を剥いでやるのは――本当に愉しい。

  「期待していますよ――元S級ヒーローの、天導 武蔵さん」

  未だ蠢く粘液生物がまとわりついたままの身体を拭いもせずに、変わり果てた元英雄は悠然と歩み出した。白衣を翻して足取りを浮かせる繁殖者の背を追って、無造作に開く自動ドアの向こう側に消えてゆく。

  後に残されたのは、あらゆる分泌液に塗れた拘束台。窪んだ座面に残る激しい抵抗の痕跡だけが、消え失せた本来の『天導 武蔵』――日本一と謳われたS級ヒーロー・刃竜の存在を、哀切のうちに物語っていた。

  ※

  『狩人』を名乗る二人組による刃竜の略取から二週間後、ヒーロー協会本部。

  日夜繰り返される戦いに倦み、暗澹とした雰囲気に包まれた待機ロビーに、荒れ狂う若獅子の咆哮が響き渡った。

  「くそッ! 何から何まで見世物にしやがって……!」

  「逸るな、拳士」

  氷牙の厳然とした制止も、滾る怒りの奔流を堰き止めることはできない。種族特有の鋭い牙を剥き出しにして、激しく歯噛みする獅子――轟 拳士の分厚い拳が、渦巻く無念に音を立てて軋む。

  拳士をここまで激情に駆り立てたものの正体は、今朝方協会に届けられた一通の手紙である。目が焼けるほどの真紅に彩られ、丁寧にも蝋で閉じられた封筒の中には、ひどく手触りの良い紙切れが一枚。形式ばったゴシック体で『S級ヒーロー・刃竜 公開処刑のお知らせ』との題が記されたその内容は、拳士のみならずあらゆるヒーローを憤慨させて余りあるものだった。

  『二日後の夕刻、指定座標にて刃竜こと天導 武蔵を処刑する

  処刑にあたり、刃竜の共鳴者である天導 優醒の参列を要求する

  天導 優醒が参列に応じない場合、夕刻を待たずして刃竜を殺害する

  なお、他ヒーローの参列も歓迎する 以上』

  差出人の名は繫殖者。卑劣な策で刃竜を下し、奪い去った『狩人』の片割れである。

  「協会本部からは、ヒーローの威信低下に歯止めをかけるため、なんとしても公開処刑を阻止せよとの指示が下っている」

  胸元まで伸びた長い鬣を指先でしゃくりながら、もう一人の獅子――獅子塚 豪は集まった面々の表情を見遣った。漲る闘志の裏側に、見え隠れする沈痛の気配。数々の修羅場を共にくぐり抜けてきた勇士たちも、連日連夜繰り返されるヴィランとの戦いに滲む疲労、そして最強のS級ヒーローである刃竜を失った不安と動揺は隠せない。

  まして、この一大事を前に、集められた人員は僅か四人のみ。たとえ国内トップクラスのS級ヒーローが三人、加えて準S級と目される気鋭のA級ヒーローが一人の布陣といえども、無数の生物兵器を使役する敵との対峙が確実な当作戦において、数的不利は否めない。

  「他支部からの援護はなし――厳しい戦いになりますね」

  「望むところ……! 師匠を助けられるなら、どんな修羅場でも飛び込んでやるッ!」

  手元の携帯端末の画面に映る指定座標の地図を眺める大鷲――鷲宮 輝重の呟きに被せる勢いで、拳士が激しく息巻く。しかし、突き出した拳は小刻みに震え、吠え猛る頬の片隅は微かに歪んでいる。そこに宿る一抹の悲観を感じ取ったかのように、一同は継ぐ言葉もなく黙り込んだ。

  湯気一つ立たないカップの水面は凪いだまま、秒針の音だけが無機質に鳴る静寂の一時。海底に横たわる二枚貝のように口を噤んだ四人の丈夫の間に、淀んだ空気が流れる。

  勝ち目がないと目された苦闘も、無謀と評された作戦も、星の数ほど潜り抜けてきたはずの英雄たちの胸に去来するのは、遅行毒のようにじわじわと心を蝕む、言い知れぬ不安。誰もが憧れ、無意識のうちに頼り、縋っていた大英雄をも絡め取った相手に、果たして打ち勝てるのか。

  答えを見出せぬまま蹲る一行の背に、自動ドアの開閉音が響く。

  「――冬樹」

  わずかに驚きを交えた氷牙の声を一身に浴びながら、大神 冬樹は一行の前に堂々と歩み出た。人種の差を考慮に入れてなお余りある体格差をものともせずに胸を張り、しかと見据える。

  緊張に湧き出す唾液を飲み下す音さえ高らかに響き渡りそうな、張り詰めた沈黙。恐れも躊躇いも打ち払って、青年は己の想いをありったけの声に込める。

  「お願いします。僕を同行させてください」

  はきはきと言い放つと、冬樹は勢いよく頭を下げた。上体を腰から直角に折る、最敬礼の姿勢を保ったまま、湧き上がる言葉の奔流を叩きつける。

  「優醒さんの異能で僕のセイクリッド・オーブを強化すれば、皆さんがどんな傷を負ってもすぐに治せます。氷牙さんも、僕がいれば強化形態でより長く戦えるはずです」

  冬樹が持つ治癒の異能たるセイクリッド・オーブ。加えて、二人の絆が生み出す、氷牙の更なる力。冬樹が自ら前線に出ることで、これらの能力を最大限に発揮し、氷牙たちをより強力に支援できる。それ自体は、この場の誰もが頷ける事実であった。

  「護身術の訓練だって受けています。足手纏いにはなりません、だから――」

  だが、身体変異を伴わない異能者が戦場に出ることのデメリットを、ヒーローたちは決して無視できない。

  「冬樹さん。気持ちはわかりますが、それは承諾しかねます」

  輝重の宥めるような声に、冬樹は思わず顔を上げた。こちらを見つめる猛禽の瞳は、戦士ならざる者を慮る慈しみに満ちている。

  「ただでさえ優醒くんの同行を要求されている中、君まで危険に晒すことはできない。各ヒーローの共鳴者は指定座標付近の支部からマインドエナジーの供給にあたるようにと、すでに上の命令も出ている」

  「でも……!」

  あくまで理知的に却下する豪の明朗な語りにたじろぎながらも、冬樹は反駁の姿勢を崩さない。かけがえのない番の力を最大限に引き出す権能に恵まれながら、あくまでも『護られる者』としての立場を脱し得ない共鳴者という立場がもたらす、如何ともし難いもどかしさ。悔しさに奥歯を噛み締め、なけなしの拳を握る青年の肩に、不意に大きな掌の温もりが寄り添った。

  「――俺からも、頼む」

  いつの間にか歩み寄っていた冬樹の伴侶――氷牙が、恭しく頭を下げた。常に冷静沈着を貫き、感情を表に出すことを抑制している彼らしからぬ、はっきりとした意思の表明。豪をはじめとする仲間たちも、灰狼の思いがけない姿に驚きの色を隠せない。

  「冬樹は俺が必ず守る。天導 優醒も、絶対に武蔵さんの前で死なせはしない」

  視線を上げ、胸に拳を握り締めながら表明する、力強い宣誓。冬樹と出会う以前の氷牙なら、とても考えられなかったような言動に、一同は深く感じ入る。

  使命のために己を殺し、氷のように冷徹な戦闘機械として振る舞うこともできる氷牙が、熱を込めた声を張り上げてまで我を通そうとする。その意味を胸の深い場所で咀嚼してから、豪は太い首を前に傾げて頷いた。

  「――わかった。共鳴者二名の同行を前提に、改めて作戦を練るよう打診しよう」

  次の瞬間、張り詰めていた二人の表情が崩れる。蕾が綻ぶように膨らむ冬樹の笑顔と、徐々に解けてゆく氷を彷彿とさせる氷牙の緩やかな破顔が、喜びのうちに並び立つ。

  「ありがとうございます、獅子塚さん!」

  「戦略的判断を下したまでのことだ。それに――」

  含みを持たせた口ぶりを続けながら、豪は氷牙と冬樹の前に悠然と歩み出た。片眉を上げて辟易としながらも、どこか嬉しそうな表情で、髭先を揺らして微笑んでみせる。

  「番が揃って頭を下げてくるのでは、とても断れんよ」

  雪解けの季節というよりは、真夏を思わせる二人の熱さ。その熱に中てられてしまっては、道理よりも人情が勝るのも致し方ない。揶揄う視線の動きに促され、顔を見合わせた大神の番たちに、ほのかな照れ臭さを宿したはにかみが浮かぶ。

  「輝重、拳士。異論はないか」

  「当然、従いますよ。貴方が決めたことですから」

  「師匠を助けたいってんなら、断る理由はないぜ!」

  深く頷く鷲と若獅子の応答を受けて、豪は口角を微かに上げた。一同の前に整った足取りで歩み出ると、威厳に溢れた鬣をなびかせ、高らかに決起の鬨を上げる。

  「これが如何なる罠であろうと、我々の総力を以て打ち破り、必ず刃竜を――我らが英雄を救出する! 皆、覚悟はいいな!」

  こうして、四人の英雄と二人の共鳴者による共同作戦は、意気軒昂のうちに始動した。その行く手に待ち構える、信じがたい脅威の正体など、誰一人知る由もないままに。

  ※

  指定された座標は、工場跡地に広がる広大な廃墟の一角。取り壊しの最中で土地所有者が破産し、管理者不在のまま捨て置かれた敷地内には、骸骨のように骨組みを晒した建造物が数多く鎮座している。乱雑に積まれた瓦礫を踏みしめ、吹き散る粉塵をその屈強な肉体で払いながら、四つの雄姿が風を切って進む。

  刃竜に次ぐS級ヒーローにして、威風に溢れた獅子・グレートレオンこと獅子塚 豪。

  同じくS級ヒーロー、天を舞う大鷲・フェザードブレイブタイガーこと鷲宮 輝重。

  冷静沈着に悪を討つS級ヒーロー、氷結の灰狼・ブリザードヴォルフこと大神 氷牙。

  そして、滾る拳で邪悪を打ち砕くA級ヒーローの若獅子・剛拳こと轟 拳士。

  「――まもなく所定の座標に到達する。二人とも、俺たちの傍を離れるな」

  「はい、氷牙さん」

  横並びで悠々と歩む英雄たちの背に続いて、頭部と胴、腕脚を覆う防護プロテクターを着用した冬樹と優醒が周囲を警戒しながら進む。分析・探知機能を備えたゴーグルが映す周囲に敵影はなく、爆弾や生体兵器といった罠の類も見受けられない。どんよりとした曇り空の下、足踏みだけが響く静謐な空間が、かえって空恐ろしい。

  「――任務中は『ヴォルフ』だ」

  「そうでした。すみません、氷……ヴォルフさん」

  指先にひりひりと染み入るような戦場の空気に圧され、冬樹は唾をひとつ飲み込んだ。常日頃なら到底犯さないはずのケアレスミス。覚悟はしてきたつもりだったが、遠隔からマインドエナジーを送信する平時の任務と、最前線での任務はまるで違う。隠しきれない慄きに粟立つ肌は、物言わぬまま隣を進む優醒も同じようで。

  やがて、敵が指定した座標が近付く。下卑た手段でヒーローに屈辱を与えるのみならず、その光景を世間に晒すことに固執する『狩人』たちの性質からして、刃竜を無惨に担ぎ上げる十字架の一つでも立っているのではないか――豪と輝重が言い合っていた予想は裏切られ、瓦礫の山の向こう側には幟の一本すらない手つかずの荒野が広がっていた。

  「あれは……!」

  細かく砕かれたコンクリートが撒き散らされた不毛の大地に一人立つ、袴姿の偉丈夫。夕焼けの朱色に映える純白の鱗に、背を覆う大振りの翼。目を凝らすまでもなく視認できる特徴的な姿は、紛れもなく一行が探し求めた天導 武蔵その人であった。鼻面に刻まれた大きな傷が目立つ厳めしい風貌を見るにつけ、拳士の瞳に少年のような輝きが宿る。

  「師匠! よくぞ御無事で……!」

  駆け出さずにはいられなかった。二週間前、悔恨に拳を握りながら見送ることしかできなかった師の姿が、確かな像を結んで目の前にあるというだけで、拳士の心は飛び跳ねるように軽くなる。上ずった声で呼びかけながら、一直線に白い原野を駆ける巨躯の獅子。その背に、もう一人の獅子から諫めるような叫びが勢いよく浴びせられた。

  「待て、剛拳!」

  何故、と振り返ったその時にはもう遅かった。数十歩はあったはずの間合いは一瞬にして詰められ、身を屈めた白竜の残像が背後に割り込む。刹那、側面から伝わるのは、身の毛もよだつほどの著しい殺気。今にも得物を屠らんとする獣の牙のようにぎらつくその気配の主が、尊敬する師匠であるなどとは、再会の喜びにのぼせ上がった拳士には到底信じられるはずもなく。

  「――え……?」

  確実に首筋を狙い、横薙ぎに振り抜かれた刃。必中の軌道をすんでのところで逸らしたのは、弾丸のように割り込んできた猛禽の爪だった。

  「不意打ちとは、随分とらしくない手を使われるのですね」

  居合の一振りをジャックナイフのような足蹴りで弾かれ、白竜の巨体が咄嗟に飛び退く。呆然と立ちすくむ拳士を背の翼で庇い、尽きぬ殺気の主へ向けて手刀をかざしながら、輝重は毅然と言い放った。

  「よりにもよってその姿を悪用するとは……正体を現しなさい、恥知らず!」

  「何を囀るか、雛鳥。某は天導 武蔵――そなたらが探し求めるその者なるぞ」

  「黙れッ!」

  いつにもまして時代がかった口調が孕む、形容しがたい違和感。鼓膜にじっとりと絡みつくような不気味な声色を根拠に、輝重は眼前でほくそ笑む白竜の正体を推し量る。

  自分が知る天導 武蔵は、あんな下卑た形に唇を歪ませるような雄ではない。姿形だけを写し取った偽者か、あるいは作り物の道化人形――そうだとすれば、断じて許せない。誰もが慕う大英雄の姿で、同じヒーローを傷つけようなどとは、あまりに卑劣がすぎる。

  「その化けの皮を――剥いでさしあげます! フェザードスクリュー!!」

  巨木の幹を思わせる両腿をしなやかなバネのように躍動させて、輝重は偽りの白竜へ向けて頭から飛び込んだ。背の翼で体を包み、空力抵抗を極限まで減じた流線型のフォルムは、銃身から打ち出された弾丸のように回転し、文字通り空気の渦を纏って猛進する。直撃は勿論、掠っただけでも旋風に身を裂かれる隙のない一撃――フェザードスクリュー。音を飛び越えるスピードで突き抜ける大鷲を、白竜は悠然と迎え討つ。

  瞬きをすれば見逃してしまうような、ごく一瞬の交錯。

  その中で、決着は自ずとついていた。

  「……天技・鏡花水月」

  「が…………ッ」

  無数の羽根が吹雪のように舞い飛ぶ中で、大鷲のシルエットだけが大きく崩れ落ちた。がくりと傾いたその身体には、一瞬のうちに繰り出された大量の斬撃による傷が無数に刻まれている。いずれも急所を外れ、致命傷にこそ至らない。しかし、噴き出す鮮血と共に殺到する痛みは、常時はレスラーとしてリングに立ち、苦痛には耐性があるはずの輝重にさえ膝を突かせるほどのものであった。

  荒い息を吐きながらどうにか体を起こしても、背後で不敵に頬を吊り上げる竜剣士の脅威が去ることはない。なけなしのファイティングポーズを構え、迫り来る見慣れた脅威と対峙する大鷲の背を、夕方の寒々しい風が徒に叩く。

  「あ、あの技は……そんな、まさか…………」

  周囲の介入を許さぬ、緊迫感に満ちた緒戦。その一部始終を目の当たりにした拳士の口から、驚愕に震える声がまろび出た。嘘だ、あり得ないと叫ぶ自我を押さえつけて、ただ眼前に繰り広げられた事実だけを反芻する。

  見間違えるはずもない。

  あの動き、あの刃の冴えは、紛れもなく――

  「えー……お集まりの皆様、百点満点のリアクションをありがとうございます」

  「正義の味方気取りのクソどもが揃いも揃って、口おっぴらいてアホ面こいてんじゃねえよ馬~鹿ァ!」

  思考を遮る、荒々しい罵声。振り返る先にそびえる廃墟の一室には、哄笑に揺れる二つの影が揺らめいている。解体一歩手前のあばら屋の合間から堂々と姿を現したのは、対照的な姿の二人――細身に白衣を羽織った猫背の鬣犬と、縦横に大きく引き伸ばされたような筋肉質の巨体を誇る半機械の[[rb:蜥蜴人 > リザード]]。刃竜略取の下手人、憎き『狩人』たちであった。

  「貴様ら……!」

  「なかなか面白い趣向でしょう? これも『クライアント』の宣伝活動の一環です」

  左腕のコンソールを手際よく操作しながら、繁殖者は至極明るく言い放った。顧客相手に新商品をプレゼンでもしているかのような癪に障る口調に、拳士の大きな拳がぎりぎりと擦過音を立てる。

  「『クライアント』謹製・ダークコア。これ一つで如何なる大英雄も悪の戦士に早変わり。内なる邪心と欲望を刺激し、制御下に置きやすい『新しい人格』に作り変えます」

  映し出されたホログラフに描かれたワイヤーフレームの簡略図は、武蔵に施された処置を視覚的にわかりやすく示していた。変異者の力の源であるエナジーコアを除去し、代わりにダークコアを埋め込む。欲望に訴えかける人格改造プログラムによって精神を、全身に蔓延らせたナノマシンによって肉体を内側から作り変え、能力を損なうことなく邪悪の使者に作り変える――尊厳を砕き、誇りを穢す、文字通り悪魔の所業。

  「どうです? 興味深いでしょう?」

  「こいつを使ってよォ! てめえらヒーローは、チンポの先っちょからケツの奥まで俺たちに弄ばれるオモチャにすぎねえってことを証明すんだよ。今日ッ! ここでェ!!」

  息巻く蜥蜴人――[[rb:拳闘士 > プグヌス]]の下卑た叫びに、繁殖者がきょとんと首を傾げる。

  「……それだと下半身しか弄ばないことになりません?」

  「うるせぇな! 言葉のアヤってぇやつだろうがッ!!」

  単細胞の割にはウィットに富んだ返しだ、と心中に独り言ちながら、繫殖者はなおもコンソールに指を滑らせた。廃墟全域に発信された指令電波を受けて、瓦礫の端々から次々とローターの羽音が響き、中継カメラを備えた小型ドローンが姿を現す。

  「と、いうわけで。モニターの前の皆様方、大変長らくお待たせいたしました」

  眼下で歯噛みするヒーローたちなどどこ吹く風で、繫殖者は眼前を飛ぶドローンのカメラに悠々と話しかけた。刃竜を辱めたあの日のように、司会者気取りで口上を述べる。

  「只今より『S級ヒーロー・刃竜 公開処刑特番』改め――『新ヴィラン・修羅 デビュー記念 S級ヒーロー公開処刑特番』をお送りいたします」

  「5ちゃんの実況盛り上がってっか~!? チャンネルはそのまま、ってなァ!!」

  狩人たちを正面から映すドローンを鋼鉄の義手で掴み寄せると、拳闘士はカメラに向けて喜悦に歪めた顔面を押し付けた。汚言をがなりたてる荒々しい大声が、無線通信に乗せてネットワークに送信され、日本中のあらゆるメディアを揺るがす。

  「くだらない冗談も大概にしろッ!! 師匠が……悪に屈するはずが……」

  「ない、とは言えませんよね。事実、天導 武蔵は貴方がたの敵に回っていますよ」

  拳士がどれだけ声を荒げても、眼前に物証が実在している以上、慇懃な鬣犬の言葉に反論することはできない。肩を怒らせ、軋む牙を剥き出した憤怒の形相も、冷ややかな物笑いの種として虚しく消費されるばかり。

  「貴方もなかなかいい顔をされますね……ではその表情に、更に彩りを加えましょう」

  重苦しい雰囲気を吹き飛ばすように、軽やかに響くフィンガースナップ。その響きに促され、かつて武蔵であった邪竜は腰の双刀を静かに引き抜いた。立ち姿一つで輝重を威圧する白竜の周囲に渦巻く、ひりついた闘気。刀の届かぬ間合いを取ってなお肌を粟立たせる鋭い悪意が、ますます尖りを増してゆく。

  「――邪剣、[[rb:増悪 > ぞうあく]]」

  唱える呪いは、更なる悪夢への前奏曲。

  十字に組み合わせた双刀の構えから放出される莫大なライフエナジーの奔流が、身に纏う虚飾の衣服を瞬く間に弾き飛ばす。屈強な裸体を、股座から染み出すように溢れる漆黒の澱みが覆うと、光沢を帯びて伸縮する布地が白い鱗肌を隈なく覆い隠してゆく。

  全身に密着し、雄の秘裂さえ克明に浮かび上がらせた淫猥なラバースーツ。その上に装着されるのは、紫の怪光から現れた禍々しい鎧。大袖と手甲、脚絆だけの心許ない拵えにもかかわらず、異常なまでの威圧感を示す防具が装着されると共に、蛇のように鎌首をもたげた縄目が剥き出しの胴体を縛り上げ、倒錯的に飾り立てる。仕上げとばかりに、どこからか伸び上がった赤い六尺褌がひとりでに腰に締め込まれると、揺蕩う土煙の向こう側に冒涜的なシルエットが浮かび上がった。

  光沢を孕んで艶めく漆黒のスーツに覆われ、隆起する鱗肌。

  その上から戒めのように絡みつく、菱縄縛りと六尺褌。

  そして、鮮血の真紅に染まって光る、鋭く尖った邪悪の眼差し。

  「我は修羅。我が前に立つ全てを斬り伏せ、其の尊厳を穢し尽くす者也」

  反英雄と化した刃竜――修羅の声が、戦場を這うように響き渡る。信じがたい、信じたくない光景を目の当たりにして愕然とした優醒が、その場に膝から崩れ落ちた。

  「獅子に、鷲に、狼か。ふふ……喰らい甲斐がありそうだ」

  「しっかりしてください、師匠! 貴方は俺たちの――」

  背筋を震わす昂奮の予感に首を回し、徐に歩み出す剣鬼・修羅に向けて、拳士は肩に羽織った上着を靡かせて勢いよく駆け寄った。たとえどれほど姿形が変わろうと、精神を惑わされようと、きっと胸の奥には清新な真心が宿っているはず――儚い願いは、横薙ぎに振り抜かれた一撃によってあっけなく砕け散る。

  「ごふ……ッ」

  横面に柄頭を抉り込まれ、若獅子の屈強な体が宙を舞う。全身を瓦礫の地面に強かに打ちつけ、擦過傷を負ってもなお、拳士の心は目の前の現実を理解できないままだった。起き上がれないまま蹲る体に、氷柱のように冷たい侮蔑が突き刺さる。

  「――我が獲物は強き者のみ。汝如き木端に用向きはない」

  鼓膜に反響するその一言を脳内に反芻して、ようやく思い知る。

  彼はもう、自分の知る偉大な先達――我が師ではなくなってしまったのだと。

  「剛拳くんッ!」

  「来るぞ、フェザード! 構えろ!」

  並び立つ獅子と大鷲を目掛け、殺気の塊となった邪竜の足音が一つ、また一つと迫り来る。だが、声を張り上げ、開いた両掌を前面に構えて迎え撃つ豪とは対照的に、輝重は未だ立ち竦んだまま。背に負う翼も失意にしな垂れ、瞳は困惑に揺れている。

  本当に、戦う他に道はないのか。ほくそ笑む狩人どもの思惑通り、かの大英雄と刃を交えることしかできないのか。募る疑念が、大鷲の戦意を削ぐ。

  「し、しかし……」

  「躊躇うなッ! 手加減して勝てる相手ではない……!」

  それでも耳朶を打つのは、戦友の強烈な檄。どんな過酷な戦いの中においても余裕を保ち、広く戦場を見定めて皆を導く『偉大なる獅子』たる豪らしからぬ焦燥した叫びが、ようやく輝重を惑いの中から引き戻す。

  だが、時すでに遅し。

  邪竜の俊足を前にしては、ほんの僅かな隙さえ命取りになる。

  「――然り」

  「ぐぁ……ッ!?」

  突如レオンの眼前に現れた修羅の斬撃は、双刀による斜め十字の一閃。咄嗟に展開した形あるオーラ――豪の異能・グローリーブライトを容易く貫通した刃の冴えが、構えた腕にわずかに傷をつける。続けて繰り出される追撃をすんでのところで躱してみせても、反撃を挟む暇など与えられるはずもない。少しでも踏み込めば互いの間合に入るギリギリの領域で、睨み合う三人の瞳が夕闇に光る。

  「我が望みは、総力を尽くす極限の死合い。興を削ぐ加減など不要ぞ」

  「……どうやら、本当に全力で戦うしかないようですね……!」

  事ここに至って覚悟を決めた輝重の翼が、決意を示すように大きく開く。沈む夕陽に照らされた白亜の廃墟を舞台に、最強の三人――日本が誇るS級ヒーロー同士の過酷な死闘が、今まさに幕を開けた。

  ※

  「それにしても、マジでヴィランになりきっちまったんだな。刃竜」

  眼下に繰り広げられる戦いを他人事のように眺めながら、拳闘士は黒鱗と機械部位の間に残る手術痕をぼりぼりと掻き毟る。見つめる先で大立ち回りを決めるのは、かつて拳闘士を破り、苦い敗北をもたらした大英雄・刃竜の成れの果て。傍目に見ても美しかった太刀筋はすっかり荒れ果て、型破りの足蹴りや口から吐き散らす竜の吐息も躊躇いなく用いるその戦いぶりは、まさに『[[rb:悪漢 > ヴィラン]]』の形容が相応しい。

  「あれが彼の本来の姿ですよ。聖人ぶったヒーローも、一皮剥けば欲望の奴隷です」

  「――けっ。つまんねぇの」

  一度は自らの体で組み敷き、股座に聳える二つの巨塔で泣き喚くまで汚し尽くした相手が、まるでこれが天職とでも言わんばかりに生き生きと剣を振っている。眼前に繰り広げられる現実がたまらなく忌々しく思えて、黒蜥蜴はため息混じりの嘲りを吐き捨てた。

  「さて……私たちも仕事に取り掛かるとしましょうか」

  やけに背を曲げた相方の内心など気にも留めず、繁殖者は半壊した建物の一室から軽やかに飛び降りた。頭脳労働が本懐とは思えぬ身のこなしで、細くしなやかな体を躍動させ、もう一つの戦場へと鮮やかに姿を現す。

  狙うは、『クライアント』から与えられたもう一つの使命。

  前回は惜しくも逃した、刃竜の共鳴者――天導 優醒の確保。

  「まさか共鳴者をもう一人連れてきていただけるとは。サンプルが増えて助かります」

  修羅とヒーローたちの激戦の合間を縫い、一時前線を逃れた共鳴者たちの前に、狩人たちが立ちはだかった。舌を舐めずる繁殖者の品定めするような視線と、拳闘士の加害性に満ちた笑みが、戦う力のない二人を脅かす。

  その時、迫る魔手を阻むかのように、共鳴者たちを分厚い氷壁が取り囲んだ。

  「――冬樹も、天導 優醒も……貴様らには渡さん……!」

  藍色の瞳を闘志に揺らめかせ、蒼い鎧に包まれた身体をもって悪の行く手を遮る、氷結の灰狼――ブリザードヴォルフ。構えた片腕に氷を纏わせ、鋭い刃に変えて差し向けても、対する黒蜥蜴の厭らしい笑顔は消えない。それどころか、ますます喜悦に口端を歪めながら、右腕を大きく振り翳す。

  「その強がりをいつまで続けていられるか……なァッ!?」

  直後、拳闘士の拳から放たれた不可視の衝撃波が、氷牙の胸元を直撃する。

  「ぐお…………ッ」

  「氷牙さんッ!!」

  透き通る氷の壁の向こう側で、次々と叩き込まれる遠隔の拳を懸命に捌く氷牙を見つめながら、冬樹は悲痛な叫びを上げた。手を伸ばせば届くはずの背中は、吐息さえ凍らせる冷気の彼方。孤独な戦いに身を捩らせる番の姿を、共鳴者たる己はただ祈りながら見つめることしかできない。救いがあるとするならば、勝利を願うその想いこそが、ヒーローを支える精神の力――マインドエナジーとなり、激闘の一助となることだろうか。

  「ひゃーッはっはっはっはァ! 楽勝だぜェ! 惨めで弱っちいニンゲンどもを狙ってりゃ、自ずとてめぇに拳が当たるんだからよォ!!」

  「く、ぅ……ッ」

  しかし、マインドエナジーによって増幅された力をもってしても、氷牙の劣勢は決して覆らない。絶え間なく降り注ぐ拳だけでなく、足元から密かに迫る繁殖者の傀儡――粘液生物の侵蝕をも防ぎ続けなければならない制約と、冬樹たちを守る氷の壁を保つ重責は、一人の背に負うには些か重すぎる。

  「彼の拳と、私の可愛い子たち。その両方を、いったいいつまで防げますかね?」

  仲間たちはいずれも豹変した武蔵との交戦に縫い留められ、救援など望みようもない。まさしく孤軍奮闘――やるせない唸りを一つ溢して、氷牙はなけなしの氷塊弾を拳闘士に向けて投げつける。迎撃の拳に打ち砕かれ、塵芥のように散らばった氷の結晶が、暮れなずむ夕陽の赤を映して虚しく輝いた。

  ※

  日本を代表するS級ヒーロー同士の戦い。

  それは、ごく一瞬の呼吸の乱れが勝敗を左右する、極限の領域。

  一切の隙を見せない修羅の二刀流を前に、豪と輝重は踏み込む契機を見つけられずにいた。二人の身を守る豪の異能・グローリーブライトの輝きも、『斬るべきを斬る』修羅の異能・絶剣の前には紙切れも同然。一度斬撃を受ければ、光の防壁は容易く霧散し、迫り来る切れ味を肉体そのものの強度で受け止める外はない。プロレスで培った、体一つでぶつかる戦闘スタイルを持ち味とする二人にとって、一撃必殺の刃を両手に構えた邪竜はこの上なく相性の悪い相手であった。

  突破の糸口があるとすれば、相手の間合いの外から仕掛ける奇襲。

  そのための手段を、豪はすでに掌中に構えていた。

  「グローリーブライト……インパルスッ!!」

  大地を揺るがす獅子の雄叫びは、己の異能を腕先に集中させて撃ち放つ必殺の一撃。突き出した拳から溢れる橙色の光の奔流が、打ち倒すべき邪悪へと一直線に向かってゆく。

  並大抵の相手ならば、一撃どころか掠っただけで吹き飛ばす、形ある光の一閃。だが、刃竜――否、修羅の異能の前では、如何なる攻撃も見切られた時点で無意味。双剣の軌跡が目で追えぬ速度で宙を切ると、端から切り裂かれた光帯が虚しく霧散する。

  ここまでは、想定通り。

  「はぁぁぁぁぁぁッ!!」

  光の合間を縫って低空飛行で接近したフェザードブレイブタイガーの掌が、迂闊に突き出した修羅の腕を狙う。一度身体に触れさえすれば、輝重の異能――グラビティマスターの重力操作によって、俊敏なる邪竜の動きを大きく制限できる。邪竜がどれほど素早いとしても、その動きを封じられれば、傷つけることなく無効化することも不可能ではない。

  連発の難しい大技をあえて隠れ蓑にした、ベテラン二人の渾身の策。あと一歩で掴めるはずのチャンスは、予想外の一撃によって脆くも崩れ去る。

  「ぐぁ……ッ」

  構えなどあったものではない崩れた姿勢から、不意に蹴り出された足裏。無惨にも頭を真っ向から踏みつけるのみならず、振り抜いて鋭い爪を突き立てる残虐な一撃が、大鷲のマスクの隙間から血を滴らせる。

  「フェザードっ!? ……ぐあぁぁぁぁぁッ!!」

  思いがけぬ迎撃にたじろぐ間もなく、レオンの眼前に漆黒の影がぬるりと這い出る。咄嗟にグローリーブライトを腕部に集中させたところで、修羅の刃の前には張子の虎。鎧袖一触の光の壁を二枚重ねにした程度では、到底防ぎきれるはずもない。過たず振り下ろされた一閃に掻き消えた光の盾の向こうから、赤々と輝く邪竜の眼が浮かび上がる。

  「くっ……!」

  「――遅い」

  直後、豪の腹部を鋭い痛みが襲う。

  すれ違いざまに二刀をまとめて振り抜かれたのだと認識した時には、偉大なる獅子の肉体はあえなく地面に倒れ伏していた。

  「が、はぁ……ッ」

  致命傷は免れたものの、スーツには横一閃の傷跡が痛々しく刻まれ、深々と刃が食い込んだ肉体は著しい痛みと熱に悲鳴を上げる。俯せに伏せたまま立ち上がることもままならないレオンの脇に、上機嫌の邪竜が大きく寛げた足を曲げて腰を下ろした。

  「我が居合を受けて腸の一つも溢さんとはな。気に入ったぞ、獅子よ」

  地に沿って流れる鬣を掴み上げて仰向けに転がすと、修羅は土埃に汚れ果てた獅子の顔を覗き込んだ。湧き起こる屈辱と悔恨に歪むその表情を見るにつけ、黒いスーツの奥から湧き上がった欲望が前袋を大きく膨らませる。

  「褒美を取らす。まずは、汝から穢して進ぜよう」

  突き出した舌先に銀糸を滴らせ、喰らい付くように大きく開いた竜の顎が、頽れた獅子の眼前に迫る。今や最強の英雄の肖像など見る影もなく、獣の本能に身を委ねるばかりの醜い邪竜と化した修羅の姿に、豪は思わず顔を顰めた。

  今にも這い寄らんとする重苦しい身体を退かすこともできず、繰り広げられる悪夢のような光景から目を逸らすことも許されない。まさに絶体絶命の窮地に立たされたその時、思わぬ救援が視界の外からもたらされた。

  「ぬう……ッ」

  修羅の巨躯を払い除けたのは、手甲越しに震える若獅子の拳。もうこれ以上凶行を重ねさせまいと、覚悟を束ねて握り締めた、決死の一撃。

  拳士の異能・インビンシブルフィストにより、拳の衝撃を一切の減衰なく受けた修羅の身体が大きく吹き飛ぶ。しかし、そのまま瓦礫の山に黙って突き込まれるような愚鈍を、邪竜は決して演じることはない。翼を翻して空中で態勢を整え、足爪を食い込ませて勢いを削げば、減速した身体は何事もなかったかのように地に足を突く。

  そこに、勢いのままに身を躍らせた拳士が飛びかかった。

  「いけ、ません……師匠……ッ! ヒーロー同士で、戦うなんて……ぐうッ!?」

  真っ向から組み付いた途端、腹部を襲う痛打。すぐにでも斬りつけられる間合いで、それでも刃を振るわぬ言外の侮蔑が、蹲り呻く拳士の心に突き刺さる。

  「……雑魚に口を開く資格なし。そこで無様に這い蹲っておれい」

  続けざまに浴びせかけられた一言も、あまりに残酷なものだった。

  浮き彫りになる、絶対的な力の差。強者との戦いをひたすらに望み、それ以外のすべてを蔑む邪竜にとって、自分は獲物の一つにすら数えられていない――そう思い知ってもなお、拳士は負けじと牙を剥く。

  「嫌、だ……!」

  喉奥から絞り出した叫びを擦り付けるように、拳士は這う這うの体で修羅の足元に縋りついた。無言のうちに繰り出される鬱陶しげな足蹴りに耐え、全身に走る痛みを堪えながら、湧き上がるありったけの想いを叫ぶ。

  「俺は、師匠に憧れて……師匠みたいな、立派なヒーローになりたくて……ッ!」

  物心ついた時にはすでに世間に知れ渡っていた、猛き勇者の伝説。

  ヒーローを志すよりもずっと前から、拳士の瞳にはその壮麗な雄姿が焼き付いていた。幼き頃から己の正義を貫き、信念に殉ずる生き方をしてきたのも、無意識のうちに彼に憧れていたからではないかと、今になって思う。

  「俺だけじゃない……レオンも、フェザードも、ヴォルフだって……」

  武蔵の下で本格的に修行を始め、他のヒーローたちと交流を持つようになってからも、日本最強のヒーローと称される刃竜の存在は拳士の中で大きくなってゆく一方だった。実戦経験すらない研修生も、この道に半生を捧げた大ベテランも、憧れる相手を尋ねれば誰もが揃って名を挙げる。

  見る者全てに勇気と希望をもたらす、まさに英雄の象徴。

  それが、こんな汚濁に身を浸したまま腐り果ててゆくのは、到底見るに堪えない。

  だからこそ、叫ぶ。

  胸が潰れ、喉が引き千切れても。

  最後の一瞬まで、叫び続ける。

  「――黙れ」

  振り絞った力のすべてで喰らい付く拳士の胸に、ふと伝わる震え。見上げれば、目許に影を浮かばせた邪竜の顔貌が、苦虫を嚙み潰したように唇を歪ませている。

  自分の言葉が、届いているのではないか。あえかな希望に全てを懸けて、拳士は動きを止めた身体に手を伸ばした。漆黒のラバーに覆われた身体を戒める赤縄に指をかけ、岩壁を登るように肩を持ち上げると、黙りこくった白竜の顔が徐々に近付いてくる。

  ただ暴虐を楽しむだけのヴィランにはないはずの憂い。

  ほんの一欠片でも残った人間性が、その翳りを生み出しているのだとすれば――

  「この国のヒーローはみんな、貴方の背を追って戦っているんです……だからッ!!」

  「黙れと言うておろうが……!」

  あからさまに焦りを浮かばせた返答。駄々をこねるように上半身を振りながらも、修羅は握った刃を振るおうとはしない。その事実こそが、師に残された人間性の欠片であるはずと頑なに信じて、拳士は一心不乱に叫び続ける。

  「師匠! 聞こえているんでしょう!? 本当の貴方に戻ってください! 師匠ッ!!」

  『本当の貴方』と聞いた途端に、大きく見開いた眼。狂気の紅に染まっていた虹彩が、僅かに元の色合いに戻りかけたように見えて、若獅子は張り詰めた表情を綻ばせた。

  だが次の瞬間、胸元から発したどす黒い発光と共に、浮かんだ黄色は渦を巻いて紅に塗り潰される。

  「我は……汝の、師などでは……ないッ!!」

  鋭利さを取り戻した視線が、拳士の瞳を真っ向から突き刺す。動揺に鬣が揺れた一瞬を見計らい、邪竜は鞭のように体をしならせて巨体を振り払った。よろめく胸に、振り上げた足裏が深々と食い込む。

  「が……ぐふ、ぅ……」

  潰れた肺から濁った息を吐き出しながら、拳士はその場に蹲った。混乱の抜けきらない脳内に苦悶と痛みをまとめて流し込まれ、膝を突いたかと思えば、すかさず叩き込まれた横薙ぎの追撃にあえなく蹴り倒される。

  縋る思いでしがみついた希望が潰え、力なく倒れた背を砂利に寝転がせた今、拳士に反撃の手段はもう残されていない。身悶え、呻くばかりの分厚い身体に、漆黒の光沢にぬめる腰がどっしりとのしかかる。

  「取るに足らぬ木端にしては、随分と手こずらせてくれたものよ。だが――」

  今まで聞いたことのないような不気味な声色と共に、『武蔵だったもの』は拳士の胸ぐらを掴んだ。シャツ上の装束越しにもはっきりと見て取れる剛健な胸板を、刀を手放した掌が強引に握りしめると、嬌声になりきらない苦悶が宵闇の迫る空に響き渡る。

  「ぐ、ぁ……ッ、や……やめて、ください……師匠……ッ!」

  「気が変わった。汝が先だ」

  下腹部を掠める、うっすらと濡れた膨らみの感触。そのあまりの重量感に、拳士は思わず身震いした。苦し紛れに差し伸ばした両腕は頭上にまとめて掴み上げられ、強張った脚は圧し掛かる体重と絡みつく尻尾に封じられている。逃れることは、最早できない。

  「喜べ、若獅子よ。我をここまで昂らせた馳走をしてやろう」

  舌を舐めずる邪竜の熱ぼったい吐息に、目が眩みそうになる。変容した憧れへの嫌悪に肌を粟立たせるその一方、あまりの妖艶さに傾倒しそうになっている己に気付いて、拳士は頬を大きく引き攣らせた。息を荒げれば荒げるほど、頭の中が真っ白になってゆく。

  「し、師匠……嫌です、俺……こんな、風に……師匠ぉ……!」

  頼れる先達たちは倒れ伏し、氷牙の狼も未だ狩人どもに縫い留められたまま動けない。孤立無援の中、やっとの思いで絞り出した声は、夕暮れの空へと虚しく消えてゆく。心の片隅で微かに夢見ていた師との逢瀬が、望まぬ形で叶えられる悪夢のような現状に、生理的な涙が眦を伝う。

  ここは、血風渦巻く決戦場。

  英雄たちの苦境を煽り立てるかのように、黄昏はもうすぐそこまで迫っていた。

  ※

  修羅に挑む三人が窮地に陥る中、孤軍奮闘する氷牙もまた苦しみの淵にあった。拳闘士の不可視の拳と、繫殖者が一帯に仕込んだプラントから発生する雑兵の群れが、休む間もなく押し寄せてくる。氷の壁を隔てた共鳴者の尽力によって賦活するライフエナジーも、決して無尽蔵ではない。湧き出す植物兵の群れをまとめて凍結させ、氷柱を生やして拳撃を防ぐその度、荒げた息と共にひりつく焦燥が込み上げる。

  「殊の外粘りますね……さっさと済ませて、あちらの様子を特等席で拝みたいんですが」

  「クソが……いい加減諦めて、ニンゲンどもをこっちによこせってんだよォッ!!」

  「う――――ぐ、ぬう……ッ」

  まくしたてる悪漢どもの罵詈雑言に呻く灰狼の背が、わずかに傾く。刻一刻と劣勢に追い込まれてゆくその姿を透かして見つめながら、冬樹もまた唇を噛んだ。自分と優醒を守る氷壁にはすでに多くのひびが入り、表面から徐々に融解を始めている。もしこの壁が崩れ、自分や優醒が敵に捕らわれれば、氷牙は勿論のこと、他のヒーローたちまでもあの惨たらしい凌辱の二の舞を演じることになる。それだけは、断じて避けなければならない。

  状況を打開する策はたった一つ――冬樹のマインドエナジーでブリザードヴォルフを超克させ、強化形態を発動すること。しかし、どれほど冬樹が氷牙の傍にいても、互いのエナジーを極限まで高める超克の使用には限度がある。勝利の一手を見出せない今、無暗に力を解き放ったところで、いつ訪れるかもわからない限界までの間に敵を倒しきれる保証はない。

  分厚い霧の向こうに揺らめく、存在さえ不確かな逆転の一手。それでも、今は信じて耐えるしかない。小刻みに慄く左腕を、諫めるように強く握り締めて、冬樹は胸の奥に滾る意志の炎を燃やし続ける。

  一方、冬樹の背後で立ち竦む優醒の視線の先には、もう一つの戦場があった。レオンとフェザードを容易く下した邪竜が、今まさに剛拳の尊厳を穢さんと迫る様子が、潤んだ瞳にありありと映し出されている。想い人の変わり果てた姿を見つめれば見つめるほど、声を失った喉にひりひりと焼けつくような痛みが走る。

  師が弟子を進んで辱めるという最悪の筋書きを前にして、何の打つ手もなく立ち尽くす自分の無力に、優醒は顔を歪めて俯いた。彼の雄姿に憧れた者として、彼と響き合う共鳴者として、そして何よりも彼のパートナーとして、できることはないのか――どれほど考えを巡らせたところで、答えは一向に見つからない。一つだけ確かなのは、今このまま立ち尽くしたままでいたら、一生後悔するということだけ。

  もう、あのような醜い姿に堕した武蔵の姿は見たくない。

  これ以上武蔵に、同胞に刃を向ける罪を重ねさせたくない。

  そして何より――もう一度、あの優しくて強い眼差しに会いたい。

  「…………………ぁ…………ぅう…………」

  叫び出したいほどの思いが、言葉にならない呻きとなって零れ落ちた瞬間、すぐ横の氷の壁が粉々に砕ける。咄嗟に面を庇った両腕の向こうに、優醒は逞しい戦士のシルエットを見た。押し寄せてくる雑兵の群れの前に氷牙が立ちはだかり、壁の代わりに二人を守ろうと必死に戦っている。

  今という瞬間に全力を尽くし、命を懸けて戦い抜く男の背中。仰ぐほど大きく広いその気高い姿を見るにつけ、冷えた指先に熱が込み上げてくる。一つ息を吸い、怯む眉間を固く引き締めると、優醒はその場にすっくと立ち上がった。振り向く余裕すらなく猛攻をいなす氷牙の背をすり抜けて、全力で走り出す。

  「……優醒さん!? ダメです、そっちは……!」

  「待て、行くな! 天導 優醒ッ!!」

  冬樹の縋るような制止も、氷牙の荒げた叫びも、全く耳に入らない。行く手を阻む緑の群れを前にしても、恐れの一欠片すら浮かんでこない。

  サッカーで鍛えた脚力と瞬発力で迫る魔手を鮮やかにすり抜け、縦横無尽に身を翻しながら、優醒はただ前だけを見据えて疾走する。灰狼との戦いに気を取られ、その背を見送ることしかできない狩人たちを尻目に、一陣の疾風と化した青年はとうとう若獅子を組み敷く修羅の傍らにまで到達した。

  眼前にそびえるのは、漆黒の艶めきに覆われた鱗肌の巨躯。擦れる己の肌が傷つくのも構わずに、優醒は思い切り身体ごとぶつかってみせる。

  「う、うぅ……んうう……っ!」

  蹂躙の愉悦に浸る修羅の精神を、突如として現へ引き戻す無粋な抵抗。絞り出すような唸り声の主を一瞥すると、脆弱なヒトが額に脂汗を浮かばせながら組み付いていた。若獅子の身体に伸ばした腕を引き剥がそうとするも、紙一枚分の隙間を開けることすら叶わない非力な身体。やかましい小蝿を掃うように大袈裟な挙動で腕を振ると、太い腕に胴を打たれたヒトの身体が容易く地面へ倒れ伏した。

  「退けい、小童。弱者は嬲るに値せぬ」

  だが、ちっぽけな反抗はなおも止まない。跳ね除けられた身体を強かに打ち付け、ふらふらと揺れながら、それでも腕にまとわりついてくる。その様をじっと見つめる若獅子の瞳に悔しさが浮かんでいるのは好ましいが、こうも横槍を入れられたのでは極上の獲物もろくに楽しめない。しばし獅子の上を離れて、修羅は傍らに放り捨てていた剣を拾った。太腿に腕をかけ、懸命に縋りつく青年を蹴り飛ばして、鋭い切っ先を差し向ける。

  「――退けい。素っ首、胴と泣き別れするが本望か?」

  刃を向けられた優醒の頬が引き攣る様を、邪竜は舐めるような視線で見定めた。多少足掻いてみせたところで、所詮人間など脆弱な存在。死の恐怖を突きつければ、付け焼き刃の蛮勇などたちどころに消え去ってしまう――そう確信して、唇を喜悦に歪める。

  しかし、優醒は決して引かない。

  大きく広げた両手を左右に掲げ、震える両足で大地を強く踏みしめながら、修羅の眼前に敢然と立ちはだかった。

  まるで、荒魂を鎮めんとその身を捧げる生贄のように。

  「う、ぁ……あ、あぁ……」

  ぎこちなく開いた口から漏れ出す息が、向かい合う二人の間を流れる。言葉を紡ぐことも、唸りや叫びに変わることもないまま漂うそれが、何故か耳朶に絡みついて離れない。

  「あ……うぁ……っ」

  眦に雫を光らせながらも、決して逸れることのない視線が、修羅の眼に深々と突き刺さる。大きく振り乱す首が、しゃくり上げる震えに耐える姿が、言葉よりも雄弁に訴えかけている。耳の奥で幾度となく反響する声なき声が、邪竜の巨躯を惑いに揺らめかせた。

  もう、やめてほしい。

  貴方はそんなことをする人ではない。

  だって貴方は皆の、そして自分の、大切な――

  「ぐ、が……ッ!? う、うぅ……ぐぅ、あ、ぐあぁ…………ッ」

  掲げた剣を取り落として、修羅は疼く頭を両手で抱えた。頭蓋が割れるように痛み、血走った眼が左右各々に虚空を泳ぐ。とめどなく溢れ出す濁った呻きの奥底から、じわじわと浮かび上がってくるのは、壊されたはずの正心の欠片。膨張した欲望に押し潰され、昏い邪心の隅に埋もれていた、『天導 武蔵』の微かな残滓。

  狂いを発したように不規則に揺れ動く背中を伏したまま見上げて、拳士は師の身に何らかの異常が巻き起こりつつあることを察知した。仔細はわからないにしても、この機を逃す手はないと、痛む全身に檄を飛ばして立ち上がる。

  「うおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!! 師ぃ匠ぉぉぉぉぉぉぉッ!!」

  いよいよ宵闇に染まってゆく空に、若獅子の雄叫びが響く。あまねく全身の細胞にまで響き渡るその咆哮は、身体能力を向上させる拳士の異能・サベージロアーの発動を促す渾身のウォークライ。

  全身の筋肉に隈なく血管を浮かばせて、拳士は持てる力のすべてを振り絞った。なおも止まぬ頭痛に絶叫し、膝からその場に崩れ落ちる修羅を、背後から翼ごと羽交い絞めにする。覚束ない体捌きで抵抗する巨体を懸命に抑えつけながら、腹の底からありったけの声を絞り出した。

  「行け、優醒! 師匠は――武蔵さんは、心ん中でお前さんを待ってるはずだッ!!」

  「ええい、放せ! 放さぬか木端ァッ!!」

  首を振り乱した修羅がどれほど藻掻いても、脇下から腕を戒める若獅子の拘束はまったく緩むことはない。肌に食い込む茨のように、暴れれば暴れるほど締め付けは強くなり、邪竜の身体から抗う力を奪い取ってゆく。

  加えて、修羅の動きを封じるものは、拳士の剛腕ばかりではない。一歩、また一歩と近づいてくる青年の、泣き腫らした瞳。その奥に宿る澄んだ輝きが、穢れに沈み倦んでいた白竜の真の姿を、少しずつ露わにしてゆく。

  「……寄るな、小童。我は修羅……全てを斬り裂く、剣の、鬼……ッ」

  膝立ちのまま、自らに言い聞かせるように呻く修羅の懐にそっと分け入って、優醒はラバースーツに覆われた首元に手を伸ばした。布越しに探る鱗の合間、指に触れるひときわ大きなもの。他の鱗とは逆方向に生えたその鱗――魂鱗を、大切な宝物のように両手で包み込む。

  武蔵と交際を始める前に、竜族の文化や習性について調べる中で、優醒はすでに魂鱗の存在に辿り着いていた。番を見つけた竜人の首筋に、生涯ただ一枚だけ生える美しい鱗。永遠の愛を誓うと同時に、番が如何なる種族であろうと竜族同様の長い寿命をもたらす、神秘の結晶。

  己の人生そのものを変容させるその契りを受け取ることを、優醒は今日までずっと躊躇っていた。武蔵もまた、優醒を慮ってか、契りを勧めてくることは一度もなかった。

  けれど、今。武蔵との大切な絆が蝕まれ、消え去ろうとしている今。

  暗闇に堕ちた彼の精神を引き戻す方法は、これしかない。

  「うぬぅ……ッ!?」

  大仰な反応に怯むこともなく、優醒は白竜の魂鱗にそっと唇を寄せた。修羅の手をすり抜けた剣が瓦礫の大地に転げ落ち、三人の周囲を一瞬の静寂が包み込む。

  代えのないただ一つの鱗を通じ、心の一番柔らかな場所に触れる優しい接吻。それは、たった一滴で枯れ果てた泉を潤す愛情の潤い。邪竜の胸にそびえる失意と無念の壁が崩れ落ち、塗り込められていた本当の想いが顔を出す。

  「――――ゆ……ゆ、う……せ……い…………?」

  頭上に降る穏やかな声の響きに、優醒は思わず顔を上げた。見つめ合った白竜の瞳は、暮れかかる夕日の残照を受けて温かな黄色に輝いている。和らいだ頬、うっすらと上がった口角も、彼がもはや修羅ではないことを如実に示す。

  しかし、優醒と拳士が安堵に息を吐いた次の瞬間、武蔵の首元に飾られた漆黒の結晶が禍々しい輝きを放った。その途端、美しい瞳は再び悪意の色に染まり、邪欲に支配されたもう一つの人格が顔を出す。

  「否……ッ! 我は、修羅……我が前に立つ全てを……斬り、伏せ……ッ」

  苦悶を溢しながら暴れ出した修羅の声は、狩人との交戦を継続していた氷牙の耳にまで届いた。正邪の狭間で揺らぐ胸に宿る不穏な光――あれこそが、尊敬すべき先達を悪の化身に貶めた呪いの元凶。冴え渡る獣の本能でそう察知して、すかさず行動を開始する。

  「冬樹! 掴まれ!!」

  「はい!」

  叫ぶが早いか、氷牙は防護壁の内側へ手を伸ばした。差し伸べられた冬樹の両手を掴んで引くと、身体ごと抱え上げて踵を返す。

  守るべき共鳴者諸共、敵に後ろを見せて一目散に逃げ出す、傍から見れば愚策としか言いようのない行為。あからさまな隙に釣られて、狩人たちがそれぞれの攻撃を構える。

  「まったく、逃げられるとでも思っているのですか?」

  「よそ見してんじゃ――ねぇぇぇぇぇッ!」

  怪光に後押しされて押し寄せる無数の生物兵器と、視界に入ってさえいれば必ず命中する不可視の拳。どちらが先に到達するにしても、氷牙らに逃げおおせる道はない――そのはずだった。

  突如として意識の埒外から現れた黄金の光塊が、狩人たちを包み込むまでは。

  「ぐぅあッ!?」

  光帯を通り越して最早壁となった大いなる閃光が、二人の全身をまとめて殴打する。繁殖者は勿論、山のような巨躯を誇る拳闘士さえ跳ね飛ばし、一網打尽にされた雑兵たちを跡形もなく消滅させた裁きの光。その向こう側から、鬣を怒りに燃やした勇者のシルエットが浮かび上がる。

  「搦手頼りの小悪党どもが……手こずらせてくれる……ッ!!」

  一瞬にして形勢を逆転させた輝きの主は、疼く腹の傷を抱えながらも死力を振り絞ったグレートレオン――獅子塚 豪。先達として尊敬する大英雄を散々に嬲り、今まさに仲間を害そうとする卑劣な輩への憤怒が、獅子の顔面にいつになく険しい表情を浮かばせる。

  「この野郎……! やりやがっ――てェッ!?」

  悪態を吐きながら立ち上がろうとする蜥蜴人の身体が前につんのめり、そのまま地面に叩きつけられる。まるで大地に引き寄せられるようなその不可思議な挙動をもたらしたのは、後背から突き付けられたもう一人のS級ヒーローの足裏。

  「絶命しない程度に重力を倍加させていただきました。これでもう動けませんよ」

  「まっ、たく……貴方がたときたら、往生際の、悪い……っ」

  倒れ伏した二人に、悠々と舞い降りた大鷲による超重力のストンピングが追い打ちをかけた。グラビティマスターの能力を全開で浴びせられ、指先一つさえ満足に上げることができないまま、悪漢どもは動揺と憤りに目を白黒させる。

  ようやく諸悪の根源を捕らえ、輝重は微かに眉を上げた。砂埃に塗れていた嘴に、元の輝きが戻ってくる。歩み寄る獅子と互いに腕を打ち付け合えば、健闘を称え合う二人の視線に、温かな友情の色合いが滲む。

  邪竜に嬲られ、地に伏した二人を立ち上がらせたものは、遠くから戦いを見守る共鳴者から送られ続けていたマインドエナジーだけではない。

  拳士が懸命に修羅に喰らい付いたことで稼いだ、回復までの時間。

  氷牙と冬樹が狩人たちの気を逸らしたことで得られた、反撃の契機。

  いずれが欠けても、この瞬間を勝ち取ることはできなかった。だからこそ、これをただの局所的優勢として終わらせるわけにはいかない。全てを守り、救う――ヒーローとして掴み取るべき真の勝利のために、二人はこのバトンを次の走者へと繋げていく。

  「行け、ヴォルフ!」

  「頼みましたよ、冬樹さん!」

  頼もしい二人の声に見送られて、氷結の灰狼は荒れ狂う邪竜へと一直線に駆けてゆく。その腕の中から飛び降りた冬樹が、左手を氷牙の背に翳すと、金色に輝く腕輪――共鳴者の証たるレゾナンスリンクに、マインドエナジーの光が集中する。

  「やるぞ――冬樹ッ!」

  「はい! レゾナンスリンク、フル・リンケージ!!」

  日頃の穏やかさを感じさせない勇ましい叫びが響き渡ると、腕輪から放出された黄金色の光芒が、氷牙の全身を包み込んだ。光に込められたマインドエナジーと共鳴し、極限まで高められたライフエナジーが体表面に稲光となって迸り、氷牙の肉体をより強力なモノへと変化させてゆく。

  それは、共鳴者との魂の繋がりを最大限に高めた変異者のみが至る更なる頂き。

  生命と魂、二つの力を重ね、己の限界を超える究極の姿。

  「――[[rb:氷牙・超越 > ファング・トランセンデンス]]ッ!!」

  掛け声と共に、氷牙の瞳が光り輝き、鮮やかな緑へと色を変えてゆく。全身にも緑色のオーラが迸り、先端から全身を覆い尽くす氷の中で変貌した装甲はより強固なものへと生まれ変わる。冬樹との心の交流を経た氷牙が、厳しい鍛錬の果てに体得した超克形態――ブリザードヴォルフ・アブソリュート。武蔵を取り戻すための、最後の切り札。

  「我は修羅……! 我は、剣の鬼……! 我は……我はァ……ッ!!」

  剛拳の拘束を振り切ると、修羅は素手のまま氷牙に襲いかかった。得物を失ったとはいえ、竜人の肉体に宿る尋常ではない膂力から繰り出される拳を受ければ、超克したブリザードヴォルフとて無事ではいられない。

  しかし、本来の鮮やかな冴えを失った乱打など、強化された身体能力の前には駄馬の歩みに等しい。止まって見える拳の軌跡を掻い潜って懐に入り、無防備な腹に氷を纏わせた拳を叩き込む。

  「ぐぬッ!? ……貴様ぁッ!!」

  「――そんな腑抜けた拳で、俺の氷は砕けない」

  大きく見開いた眼を爛々と輝かせ、なおも打撃を繰り返す邪竜を、氷牙は舞うような挙動でいなしてゆく。大振りのストレートをひらりと躱し、破れかぶれのアッパーを氷の手甲で滑らせ、迂闊な足蹴りは後ろ宙返りで華麗に避ける。息を切らし、腕を振るわせても、一発たりとて浴びせられない苛立ちが、修羅の胸のダークコアを激しく明滅させる。

  「おのれ……おのれぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」

  怒号と共に放たれたブレスを大きく跳び越えて、超克の氷狼は右足を突き出した。触れた傍から凍り出す絶対零度の冷気を纏った必殺の蹴りが邪竜の顔面にめり込み、その巨体を瓦礫の壁へと凄まじい速度で吹き飛ばしてゆく。

  「ぐほぁ……ッ」

  「ブリザードジェイル・アブソリュート……!」

  背を壁に打ち付けた瞬間、修羅の身体に叩き込まれた極寒の闘気が溢れ出した。周辺の壁ごと翼や腕脚が凍結し、邪竜は氷壁に釘付けになる。

  そして、この一瞬を待っていたとばかりに、ヴォルフの背から大柄な影が飛び出した。

  「やれ……! 剛拳ッ!!」

  「うおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!」

  背に投げた氷牙の掛け声を合図に、吠え猛る獅子が風の如き勢いで駆け抜けてゆく。渦巻く闘気を孕んで肥大化した右手は、サベージロアーを限界まで繰り返した証。傷ついた身体にひしひしと跳ね返る激しい負荷に耐えながら、拳士は大きく広げた掌を突き出し、武蔵の胸になおも鈍く光るダークコアを鷲掴みにした。

  全身に漲るライフエナジーのすべてを集め、叫ぶ。

  邪悪を打ち破る、渾身の一撃――地平線の彼方まで轟く、その勇ましき名を。

  「獅吼拳ッ! 破邪! 轟・砕・掌ぉぉぉぉぉぉぉッ!!」

  右掌から流れ出すライフエナジーの奔流が、漆黒の結晶体めがけて集中し、全体を著しく振動させる。拳に集めた力の全てを敵に流し込んで粉砕する剛拳の奥義・獅吼拳を応用した、即席の新技。掌を通じてダークコアのみに伝わる強烈な衝撃波が、黒光りする表面を見る見るうちに傷で埋め尽くしてゆく。

  「――――――爆・砕ッ!!」

  裂帛の気合に砕かれ、手の中で端から崩れる邪心の欠片。その一つたりとて逃さぬように全てを握り潰して、若獅子は終焉の一声を高らかに叫んだ。直後、ダークコアによる精神支配から解放された武蔵の体から修羅の装束が消え去り、大きく前によろめく。駆け寄る氷牙によって両手両足の拘束を解かれると、白竜の裸体はまるで繰り糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。

  「師匠ッ! しっかりしてください、師匠ォッ!!」

  鉛のように重い身体をどうにか抱き留め、拳士は割れんばかりの音量で叫ぶ。しかし、返答はない。ぐったりと頭を下げた武蔵の体から、次第に生命の熱が抜けてゆく。

  彼らは知る由もないが、強制的に植え付けられたナノマシンに対する拒絶反応によって常に甚振られ続けていた武蔵の肉体は、とうに限界を超えていた。洗脳下の肉体を制御するダークコアが砕け散り、内部から施されていた応急処置も水泡に帰した今、白竜の生命は風前の灯と化していたのだ。

  「冬樹、回復を……ッ!?」

  そうとも知らず、氷牙は後背に控える冬樹の異能に頼ろうと振り返る。だが、当の冬樹は息を荒げてその場に跪くばかり。度重なる激闘の中、氷牙にありったけの精神力を注ぎ込み続けていた代償が身体に跳ね返っていることは、火を見るよりも明らかであった。

  「はぁ、っ、はぁ……すみ、ません、氷牙さん……」

  「まずい……このままじゃ、師匠が!」

  慌てふためく拳士を見上げ、冬樹は顔をしかめた。氷牙を助けたい、武蔵を、そして優醒の心を救いたい――その一心で赴いたはずの戦場。それなのに、肝心なところで力尽きてしまう。癒しを司る己の異能が最も必要とされる状況で、膝を突いてしまう己の非力を、ただ嘆いていたその時。

  しゃがみ込んだ冬樹の両肩を、光を帯びた掌が温かく包み込んだ。

  「――優醒さん」

  両掌から伝わる共振は、優醒が宿す異能・アクティブフォースがもたらす活性化の証。振り返り、見つめ合う眼差しのやり取りが、無言の励ましを冬樹の胸に伝える。

  共にヒーローを支える共鳴者同士、心に宿す思いはただ一つ。

  いついかなる時でも――大切な人の力になりたい。

  「わかりました。あなたの想いも、一緒に届けます……!」

  片足を踏み出し、ゆっくりと上体を起こすと、冬樹はレゾナンスリンクが輝く左腕を右手で強く握り締めて前方に突き出した。大きく開いた掌の先、拳士に覆い被さった武蔵の肢体に向けて精神を集中させ、胸中に渦巻く願いと祈りのすべてを注ぎ込む。

  「武蔵さん……あなたの本当の姿を、取り戻してください! セイクリッド・オーブ!」

  凛々しい声と共に発せられる神秘的な光が、闇夜を照らし出す。宝珠のような形に収束した異能の輝きが武蔵を包み込むと、胸板に残る痛々しい貫通痕を塞ぐように、黄色い輝きを湛えた真のエナジーコアが形を成してゆく。

  当人には知らされていないことだが、セイクリッド・オーブの本質は単なる治癒ではなく、対照を望む状態へ改竄する現実改変である。故に、全身を惨たらしく蹂躙したナノマシンによる侵食も、本来ならば回復に数か月を要するコアの破損も、冬樹の――そして、その力を増幅させ共に行使する優醒の願うままに修復され、本来の姿を取り戻してゆく。

  やがて光が収まると、白竜の指がぴくりと動く。拳士にもたれかかっていた上体を起こし、閉じていた瞼を開くと、信じられないとでもいうように両手を見つめた。

  「某、は……」

  自らの身に起きた事態を受け入れられないまま、戸惑うばかりの白竜。一糸まとわぬその裸体を目掛けて、泣き笑いの若獅子が抱き着いた。

  「師匠ぉッ!!」

  煤埃のかかった鬣が、光を取り戻した胸元に縋る。鱗に染み入る温い雫に、拳士の溢れんばかりの想いを悟って、武蔵は震えるその背にそっと手を回した。擦り付けられる額から、益荒男の風格にそぐわぬ青い感情の揺れが伝わってくる。

  「――すまなかった。某が弱さ故、皆を傷つけ、英雄の名を穢してしまった……」

  「いいんです、そんなこと! どうだって……師匠が無事なら、それで……」

  涙と鼻汁に塗れた顔に向き合って、武蔵は目を細めた。胸に滾る憧れと激情を力に変え、英雄への道をひた走ってきたひたむきな後輩。その頬に刻まれた戦傷を指先でなぞると、感謝と侘しさが同時に込み上げてくる。

  そして、拳士に後れてもう一人、武蔵に身を寄せる者がいた。

  「……優醒」

  筋肉に覆われた腹を掠め、僅かに胸に届かない小さな体。しかし、そこに宿る勇気と愛は、最前線で戦いに身を投じる英雄たちにも引けを取らない。

  「感謝する。危機を顧みず、馳せ参じてくれたこと――某を、信じ抜いてくれたことに」

  涙ながらに鱗肌に顔を擦り付ける優醒を、武蔵の大きな腕が抱き留める。潰してしまわないように優しく、もう二度と離さないようにしっかりと、脇を支える掌に力を込めた。

  ※

  「やれやれ……とんだ茶番ですね。おかげで商売あがったりです」

  「クソッ……ダークコアの支配は絶対だったんじゃあねえのか!? 『クライアント』どもめ、不良品掴ませやがって……」

  闇に紛れて逃げられぬようにと点された照明灯が照らし出す、夜の戦場跡。

  各々の恨みつらみに基づいた不満を口々に漏らしながら、狩人たちは協会本部へと連行されようとしていた。氷牙が作り出した氷の手錠に身動きを封じられ、念のためにと手を触れる輝重の無言の重力に気圧されつつも、その顔貌には未だ尽きぬ英雄たちへの敵愾心がひしひしと滲んでいる。

  「命を奪わないとは、随分とお優しいことで」

  「貴様たちが宣う『クライアント』とやらについて聞き出すためだ。温情をかけたなどと、勘違いしてもらっては困る」

  「見くびられたものですね。ビジネスパートナーの情報を易々と漏らすとでも?」

  「協会には優秀な尋問官がいますからね。嫌でも吐いてもらいますよ」

  繫殖者の皮肉めいた物言いにも、S級ヒーローたちはまったく動じない。毅然と吠える豪も、嘴を澄ました輝重も、この手の捨て台詞への対処など今更心得るまでもなく身に染み付いている。脇を固める氷牙と拳士も、聞き飽きたとでも言わんばかりに辟易とした表情を崩さぬまま歩みを進めていた。

  すでに大勢は決し、あとは粛々と後始末を進めるだけ。過酷を極めた今宵の戦いも、ようやく終結の時を迎えようとしている――そう、誰もが思っていた。

  密かに逆転の一手を構える、この男を除いて。

  「――――はあ。本当に、厭になりますね」

  うっすらと開いた口元から漏れ出るのは、背筋を這うような冷ややかな声。

  直後、ヒーローたちの視界から、繫殖者の姿が音もなく消え去った。

  「な……ッ!?」

  驚愕する輝重の足元に、氷の手錠が転がり落ちる。氷牙が異能を解除しない限り決して外れることはないはずの戒めが、いとも容易く破られる異常事態に、大鷲はすかさず周囲を見渡した。

  異常が認められたのは、足元。高輝度の白色灯に照らされた地面に、まるで大きな筆を滑らせたような痕が描かれている。何かしらの液汁に濡れ、妖しげな緑の輝きを反射する不気味な一筆書き。その軌跡を過たず目で追うと、あまりの奇怪さに思わず息を呑んだ。

  蹲った人間一人分ほどの大きさにまで膨らんだ、軟体生物。

  その上で爛々と眼を輝かせる鬣犬――すなわち、繁殖者の生首。

  理解を超えた事態に、一同は声も出せぬまま動揺に顔を引き攣らせる。

  「んだよ、おい! そんな芸当できるなんて聞いて……ひいッ!?」

  伝播する沈黙を引き裂いて、拳闘士の絶叫が木霊する。彼の心胆を寒からしめるのは、足元から這い上る粘液の冷たさと、鱗肌に張りつく粘り気がもたらす極度の不快感。纏わりつく緑の汁の上を滑り、にじり寄ってくる鬣犬の首が、にたにたと笑う。

  「な、なん……だよ、てめぇ……な、に……や、っ……て」

  振り払う暇もないまま、粘液は蜥蜴人の頭部にまで到達した。拳闘士の狼狽などどこ吹く風で、顔面を隈なく覆い始める。機械仕掛けの片眼を浸し、耳穴から頭蓋の内側にまで侵入する緑の魔手――その先端が、拳闘士の脳内に設けられた『スイッチ』を押した。

  「あ、びぃ……ッ!? ぶゥ、べ、べべ……ぶべべべべ……べべべェッ」

  次の瞬間、蜥蜴人の両眼があらぬ方向へ裏返った。山のような巨体は余すところなく痙攣し、引き攣った顔面はおおよそ知性を感じさせぬ形に歪み捻じれる。

  断末魔の叫びに代えて放たれる滑稽な破裂音を伴い、舌を突き出したまま、拳闘士は後ずさる一行へ向けて振り返った。変わり果てたその頭上に繫殖者の頭部を丸ごと載せた、言葉ではとても言い表せない形相で。

  「流石は日本有数のヒーローのみなさんです。まさか、ここまで追い込まれるとは思いませんでしたよ」

  戦慄する英雄たちの眼前で、繫殖者の生首が口を開く。己が肉体さえも研究材料とし、全身を愛する『我が子』に置換したその姿は、常識を破壊し、原初の恐怖を喚起する。

  変わり果てた姿とは裏腹に、その口ぶりに至って変容はない。慇懃無礼を地で行く、気取った物言い。鼻につくばかりだったその言葉尻が、底知れぬ薄気味悪さを醸成し、一同の背筋を凍らせる。

  「しかし、残念です。私がこのカードを切った以上、貴方がたはここでゲームオーバーですので」

  繫殖者の生首が悠々と言い放つと、蜥蜴人の全身に絡みついた軟体生物が一斉に燐光を発し始める。それは、生命活動を促進させ、肉体の限界を超えた急成長をもたらす、恐るべき異能の髄。

  本来、繁殖者の異能は一定の知性を備えた者には通用しない。拳闘士がどれほど考え足らずの荒くれ者であろうと、他の人間相当の自我を備えている限りは、異能による強制的な生命促進は制限される。

  だから、邪魔になるその知能を消し去った。

  改造手術の段階で脳に埋め込んでおいた、人格消去のスイッチを押してやることで。

  「――[[rb:大きく育て > Beanstalk]]」

  刹那、粘液に包まれた『拳闘士だったもの』の全身が爆ぜるように八方に振れ回る。体表に浮かび上がった血管の隆起に添うように、体中のありとあらゆる部位が肥大化を始め、ただでさえ英雄たちを大きく上回る蜥蜴人の巨体をさらに巨大化させてゆく。

  氷の手錠に戒められていた手首は、全身の肥大化につれて千切れ飛んだ。その代わりにと集中した軟体生物が一体になり、五指を備えぬ異形の腕先が形成される。機械に置換されていた腕脚が抜け落ちると、それらも皆粘液によって代替され、緑の液汁が混じった斑模様の肉体が星明りの空へと伸び上がってゆく。

  「逃げないでくださいね。大人しくしていれば、一息に踏み殺してさしあげますので」

  為す術なく見上げる一同の眼前で、狩人たちの融合体はとうとう五階建てのビルほどの大きさにまで増大した。ほんの僅か足踏みをしただけで大地を揺らすその威容を前に、英雄たちは各々飛び跳ねて散開し、状況を立て直さんとする。

  しかし、その隙を見逃すほど、繁殖者は迂闊ではなかった。

  「それとも、こちらの方がお好みですか?」

  巨大な蜥蜴人の全身に纏わりつく軟体生物の体表から、黄色く染まった触手が無数に伸び上がり、英雄たちに向けて殺到する。本体のサイズに合わせるように肥大化し、丸太のような太さにまで膨れ上がった触手は、最早捕縛のための器官ではない。一撃でも喰らえば骨が砕けるほどの質量を湛えた鈍器が、二重三重の連撃を構えて襲い来る状況に、疲弊した一同はあえなく防戦を強いられる。

  「ヴォルフ、奴の動きを封じられませんか!?」

  「――無理だ。出力が足りん」

  辛うじて体を躱す輝重の必死の問いに、氷牙は無念そうに頭を振った。激戦に次ぐ激戦を潜り抜け、奥の手の超克まで用いて戦い抜いた氷牙には、あれだけの巨体を丸ごと凍り付かせる力はない。抱き込んだ腕の中で震える冬樹の消耗も激しく、共鳴による回復は難しい。悔恨のあまり握り締めた拳に、鈍い痛みが響く。

  「くそッ! あんなデカブツ、どうやって相手すりゃいいんだ!?」

  「怯むな! どれほど図体が大きくなったところで――」

  取り乱す拳士を諫める豪の前に、白い翼が大きく広がる。傷だらけの二人を、そしてその奥に蹲る共鳴者を守るように歩み出た裸一貫の竜。その決意を示すかのように、かざす両手に双刀が形成されてゆく。

  「刃竜殿……?」

  「皆。彼奴の始末、某に委ねてはくれぬか」

  振り返る眼差しには、もはや一点の曇りもない。

  信じて託すには、それだけで十分だった。

  「了解しました。ここはお任せします」

  「俺たちが憧れた雄姿、もう一度見せてください! 師匠ッ!」

  「心得た。……優醒!」

  二人の獅子の後押しを受け、武蔵は迫る巨躯に敢然と立ちはだかる。その背を支えるのは、共鳴者の熱い想い。

  「――参るぞ」

  視線を交わす必要すらない。たった一言頷くだけで、感情が響き合う。心身から湧き上がるエナジーが交錯し、純白の鱗に煌々と闘気が漲ってゆく。これまでにない滾りを全身にひしひしと感じながら、武蔵は両手に構えた刃を交錯させ、高らかに叫んだ。

  「変異・抜刀ッ!!」

  闇夜を照らす光のヴェールを突き破り、菅笠を被った軽装の竜剣士が颯爽と躍り出る。無窮のS級ヒーロー・刃竜の復活を鮮烈に飾るのは、煌びやかな輝きを取り戻した梅花の前垂れ。疾風と化して突き抜ける白竜の軌跡を、金銀の装飾が艶やかに彩る。

  眼前にそびえる邪悪の化身がどれほど高くから見下ろしても、刃竜は決して怯まない。命を懸けて自分を救い出してくれた同志たち――そして、愛する伴侶の想いがある限り、もう二度と悪には屈しないと、改めて誓いを立てたのだから。

  「最強のヒーローも物覚えは随分悪いようですね。その刃は我が子には届きませんよ」

  「貴様こそ、智者を気取る割には策の引き出しがよほど浅いと見える」

  巨体の足元を駆け巡りながら、刃竜は構えた双刀の切っ先で表皮を撫でた。告げられる侮蔑の文言通り、確かに今のままでは触手生物を斬ることはできない。しかし、共鳴者たちの尽力によって活性化した己のライフエナジーが身体の内側に漲ると、武蔵の心中にはただ『斬れる』という実感だけが湧き起こる。刃を滑らせ、腕に伝わる不快な感触と真っ向から対峙する度に、断てぬはずの不定形の闇を断つ太刀筋が脳裏に組み上がってゆく。

  「貴様らの卑劣なる詭計の数々――最早、我が恐るるに足らず!」

  覚醒の兆しを孕んで全身から立ち昇る、真紅の闘気。

  その輝きが、高らかに振りかざした二つの刃に宿り、宵闇を煌々と照らし出す。

  「大見得を切っていただいたところ悪いのですが――隙だらけですよッ!!」

  拳闘士の全身から伸び上がり、一斉に襲い来る触手の嵐に、刃竜は二刀を構えて正面から突っ込んだ。常人には視認できぬほどの速度で繰り出される斬撃が不可視の壁となり、押し寄せる魔手を次々と斬り裂いてゆく。

  逸れた一撃が照明灯の柱を砕き、周囲を暗闇が包んでも、竜の太刀筋は揺らがない。微かな月明かりと、星の瞬きに照らし出された刃の軌跡が、夜の向こう側で華麗に舞い踊る。うねりながら行く手を阻み、背を追う肉縄の群れを蹴散らして、数多限りない剣閃を影の中に散りばめてゆく。

  そして、巨大な悪の周囲をひとしきり巡り終えた頃。

  正義の白竜は高らかに羽ばたいた。

  舞い散る残骸が、花吹雪のように散りばめられた星空へと。

  「な……っ」

  「――絶剣、梅華乱舞」

  振り下ろされた必殺の一撃に呼応するように、突如として無数の斬撃が虚空を断った。鮮やかな闘気によって形成され、触手を斬った傍から不可視状態でその場に留まっていた光の刃が一斉に色付き、巨大な敵目掛けて飛び掛かる。刃を通しても斬れることのないはずの我が子らが、見る影なく粉々に裂き割られてゆく様を目の当たりにしながら、繁殖者は愕然とした。

  絶剣――刃竜が備える、断つべきものを断つ異能。

  斬り裂いた傍から復元する軟体生物には通じなかったその秘儀が、此度に限って再生さえも封じる無双の刃となったことに、当の武蔵でさえもまだ気付いてはいない。ましてそれが、来るべき超克の前触れであったことなど、誰もが知る由もなかったのである。

  「そん、な……馬鹿、な……」

  「未だ頂には遠い我が刃。果てなく高みへ昇りゆくその冴えを――思い知るがよい!」

  やがて、全身に食い込んだ光刃が四肢を裂き、『狩人たちだったもの』は物言わぬ無数の肉片となって無惨に飛び散る。再生も果たせぬまま、無様に瓦礫の染みとなった悪漢どもを振り返って、刃竜はおもむろに刀を収めた。

  あれほど己を苦しめた者たちの、あまりにも呆気ない最期。

  凄惨な血の色に染まった戦場を、一同は言葉なく見つめる。宵闇に包まれた戦場に、拳闘士の身体からこぼれた機械部位の残骸だけが、空しく火花を散らしていた。

  ※

  倒壊した照明塔の灯が僅かに灯るばかりの、熾烈な戦いの跡。

  暮れ落ちた紅い夕陽はとうに消え去り、柔らかな月明かりが周囲を静かに照らし出す。

  「協会本部より入電があった。地上波放送はじめ、全通信ネットワークの平常復帰を確認。現場付近の配信器具も、諜報部が全て発見・破壊したそうだ」

  「やれやれ。悪趣味なゲリラ放送も、これでようやくおしまいですね」

  首を軽く振りながら辟易とする輝重のくたびれた肩に、豪が掌をそっと載せて労う。互いの全てを出し尽くし、今や立っているのすらやっとの身体を支えるのは、遠隔から送られ続けるそれぞれの共鳴者のマインドエナジー。勝利を祈り、心を強く保って応援を続けてくれた彼らに、心の中でありったけの感謝を贈る。

  一同が顔を見合わせて勝利に浸る中、頃合いを見て生成した平服に袖を通しながら、武蔵は一人肩を落として佇んでいた。狩人たちの卑劣極まりない罠を打ち破った充足感が、一切ないといえば嘘になる。ただ、心身に刻まれた深い傷と、それ故に犯した大きな過ちは、湧き起こる喜びを覆い隠して余りある。

  「某を正道に戻してくれたこと、心より感謝する。しかし、此度の醜態……如何様に詫びればよいものか」

  一同へ向き直り、意を決して口を開く。すると、傷だらけの胸を大きく張り上げた獅子が、真っ先に応じた。乱れた翼を背に折りたたんだ大鷲も、しな垂れた白竜の背についてゆっくりと歩み寄る。一様に、慈しみを込めた微笑みを湛えたままで。

  「どうか気に病まず。私たちはヒーローとして、やるべきことをやったまでです」

  「しかし、某が皆を傷つけ、英雄の権威を失墜させたことは事実であるからして――」

  「どうしても、と仰るなら。どうかこれからも、私たちと共に戦ってください」

  恭しい大鷲の礼に目を丸くしていると、寡黙な灰狼と喧しい若獅子が並んで視界に割り込んでくる。滅多に見せない穏やかな表情と、久しくも懐かしい活力漲る満面の笑みが、白竜の心を温かく癒す。

  「――貴方の雄姿は、俺たちの道標です。今までも、これからも」

  「そうですよ師匠ッ! まだ師匠に教わりたいことが、いくらでもありますからッ!」

  英雄にあるまじき醜態を晒し、あれだけの暴虐を振るった己を、それでも受け入れてくれる者がいる。たったそれだけの事実が、どれほど救いになることか。

  「……かたじけない」

  両手を体側に揃え、深々と頭を下げた武蔵の耳元に、背後から微かな足音が響く。顔を上げて振り返るその瞳に映るのは、かけがえのない共鳴者の姿。

  「――優醒…………」

  痛みに呻く片腕を抱えて立つ、たった一人の愛おしい人。顔を合わせた瞬間、つぶらな瞳から堪えきれずに溢れ出した涙を、すぐさま駆け寄って指先で拭う。

  「よく、頑張ったな。辛かったろう。苦しかったろう……」

  抱き留めた体は、止まぬ嗚咽と共に激しく震えている。湧き上がる万感に喉を鳴らしても、未だその思いを言葉にすることの叶わない大切な人。丸めた塵紙のように歪んだ頬に手を添えて、武蔵はその場に膝を突いた。

  「此度のことで、改めて思い知った。某はまだ道半ば。一敗地に塗れ、挫ける日もある」

  最強、不敗と持て囃されても、驕ったことなど一度もないと自負してはいる。それでも無意識のうちに、勝利こそが必然であると思い上がってしまっていたのかもしれない。胸を過る鈍い痛みを強く握り締めて、それでも溢れる想いの丈を告げる。

  「だが、優醒。そなたさえ居れば――某は、如何なる苦境からも再び立ち上がれる」

  悪意に穢され、欲望の塊に奪われた心の中で、それでも聞こえ続けていた声なき声。一度は消え果てた武蔵の真なる意思を、もう一度蘇らせてくれたもの――それは、見つめ合う瞳を通じて響き合う、優醒の強い想いだった。

  だからこそ今、伝えたい。

  いつか来るその日のために、胸の奥でゆっくりと温めていた、誓いの言葉を。

  「優醒――某の、番となってはくれぬか」

  満を持して喉を潜ったその一言に絆されて、優醒の頬がほのかに赤らんだ。満天の星空の下、夜の帳に散りばめられた輝きにも負けないほどの光を放つ青年の唇を、節くれだった竜人の指先がするりとなぞり上げる。

  「未だ果てしなき我が道行を、某はそなたと共に歩んでゆきたい。片時も傍を離れず、立ち塞がるあらゆる脅威を――共に、乗り越えてゆこうではないか」

  一言一言、真っ直ぐに並べて磨き上げるように大切に紡がれる言の葉が、今日まで優醒を苦しめてきた心の枷を一つずつ外してゆく。無力に咽び、罪悪感に呻き、自責に溺れたこれまでの道程も、今この一時のためにあったのだとすれば、傷跡ごと抱き締められる。無意識のうちに優醒の首を絞め続けていた閊えが、僅かに緩む。

  「……その、返事は……そなたの声が、戻ってからでも……」

  気恥ずかしさに額を掻き毟る白竜の腹に、涙に塗れた顔が強く押し付けられる。腰に回った両腕に籠ったなけなしの力を鱗越しに感じ取って、武蔵は優醒の身体を腕の中に深く抱き締めた。人間の中では決して小柄ではない身体も、竜人と比べれば幼子も同然。翻る翼と共に体中を覆い隠し、すっぽりと包み込む温もりが、優醒の心を隅から隅までいっぱいに満たしてゆく。

  「ありがとう、優醒。そなたを……愛している……」

  最早、遮るものなどありはしない。磁石のように惹かれ合う口吻と唇が、月明かりの祝福の下で一つに重なる――そんな美しい光景に、空気を読まずに割り込む絶叫が一つ。

  「う、うぅ……師匠ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!」

  慌てて振り返る二人の視界に映り込むのは、両目から滂沱の涙を滝の如く垂れ流しながら駆け寄る番長服の若獅子。野暮天極まりないその横面を目掛けて、大鷲の鋭い裏拳が蝿叩きの如く叩き込まれた。

  「ごぶッ!?」

  「いけないぞ、拳士くん。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られてなんとやら、だ」

  「うう……ししょォ……」

  ひりひりと痛む頬を擦りながら、拳士は頭を振る輝重の横にうらぶれたようにしゃがみ込む。師として、それ以上に一人の雄として、海よりも深い想いを寄せてきた相手に縋ることさえ許されないのか――と、嘆きに沈んだその肩を、もう一人の獅子の掌が慰める。

  「再会を喜ぶのは後にして、今は静かに見守ろうじゃないか。私たちの憧れたヒーローが、人としての幸せを掴む……決定的瞬間をね」

  豪の朗らかな声に促されて、一同は重なり合う二つの輪郭に目を細める。固く寄せあった身体は、もう二度と離れない。繋いだ掌と、唇に伝う想いの雫が、結ばれてゆく永遠の絆を互いの心に深く刻みつけてゆく。

  「よかった……優醒さん……」

  涙ぐむ冬樹の肩に、番の体温が無言のまま寄り添う。首の裏に触れる腕の温もりに、愛すべき日常が戻ってきたことを思い知ると、ささやかな安堵が胸に込み上げる。伝わる微かな揺れにふと見上げると、氷牙の口元にも、並び立つ皆と揃いの微笑みがうっすらと浮かんでいた。

  こうして、英雄たちの威信を揺るがす壮絶な事件は、ひとまず幕を閉じた。

  悪化の一途を辿る治安の回復と、陵辱のみならず凶行までも世界に曝け出してしまった刃竜の汚名返上――たとえ今日を平穏のうちに終えたとしても、解決すべき懸案は山のように積み上がっている。

  それでも、胸に正義を抱く戦士たちは決して挫けることはない。

  戦い抜く意思を支えてくれる、それぞれの愛しい人がいる限りは。

  <次回予告>

  現場復帰した武蔵を待ち受けていたのは、世間からの苛烈なバッシングであった。

  守るべき市民から白眼視され、愛する優醒にまで悪意の魔の手が迫り来る。

  そんな中、『クライアント』が繰り出す次なる一手が、刃竜と優醒に最大の危機を呼ぶ!

  次回、『いとおしい人のために 刃竜、超克の刻!!』にご期待ください。