皆様こんにちは、もしくはこんばんは。猫背と申します。
この度新春けもケット10にてサークルスペースを頂けたので、初めての本を出すこととなりました!
『夜は短し恋せよ獣』というタイトルになります。詳細は画像の方で見ていただけたらと思いますが、純愛小説です。真っ直ぐな純愛です……
嬉しくもありながらまさか受かるとは思っておらず、実は参加が決まってから作り方などを調べる完全なゼロからのスタートだったので、死に物狂いで書き進めました。そんなお話なので正直言うと内容に不安が残ってはいますが、まあ、初めてだから…という暖かい目で読んでいただけたら嬉しいです……。
もし当日来られる方いらっしゃいましたら、ぜひお手に取っていただけたらと思います。おどおどしている私がいます!
また現時点で紙媒体での通販は考えておりませんが、データでの販売は考えています。いつになるかは未定ですが、参加できなかったという方へもなんとかお届けできるようにしたいと思っています…!
ここでは販売する本の全5話のうち、シークレットを除いた4話の冒頭部分を公開します。冒頭だけで心を掴めるような文章力はまだまだ持っていませんが、少しでも興味を持っていただけたら嬉しいなと思っております。なので買う買わない関係なく、お気軽に目を通してくれたら幸いです!
よろしくお願いします。
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①喫茶・走馬灯
思えば、コーヒーは嫌いだった。
でも香りは好きだ。独特ながらも頭が冴えていくような清涼感が不思議な、何とも言えない心地になれるから。だからといって、自分から飲みたいとは思わないけど。舌の上にやけに残る苦みや渋みは強いし、ミルクを入れたとしても飲むのに時間がかなりかかるし。
なのに、僕の目の前には『喫茶』と書かれたお店が佇んでいた。というか、それ以外に何もなかった。
周りを見ても霧のような白い煙がどこまでも広がっているだけで、向こう側に何かあると思って歩いてみても何も現れてこない。どの方向へ歩いてみても、必ずあの喫茶店に行き着いてしまう。既に現実を超越していた現象に少し驚いたが、同時にこれは延々と繰り返されるのだろうと理解した。
だからきっと、この店に入る以外の道はないのだろう。
改めてその店を見ると、見たことも行ったこともない外観だった。なのにここは何回も来た覚えのあるような懐かしい店だと、そう思えるほどの雰囲気を醸し出していた。入口の上部を守るオレンジ色のドーム型の屋根に、かなりの年季が入っているであろう煤けたレンガ造りの壁が、いかにもなレトロ感を漂わせている。
ゆっくりと歩みを進めていくと、自分の身長と同じくらいの高さのドアが近づいてくる。はめ込まれた曇りガラスの下にある、ゆるやかなカーブを携えた鉄製のドアノブを掴み、深呼吸をする。開くのだろうか。
そもそも営業しているのかどうかすら分からないが、なぜか自分にはここへ入らなければならないような気がした。
意を決してドアノブを押し、喫茶店の扉を開ける。カランカランと小気味よいドアベルの音が頭上で聞こえ、店内からふわりと香るコーヒー豆の匂いに思考が浮つく。
目に飛び込んできた店内の様相は、やはり喫茶店らしいものだった。アンティークというか、古っぽいイギリス調の装飾が施され、全体的にかなり色が褪せている印象を受ける。しかも客が食事をする場所はいわゆるカウンター席しかなく、五つほどの丸椅子が並んでいるだけだ。狭い空間であることには変わりないのに、なぜか広く感じられた。
厨房になっているであろうカウンターテーブルの向こう側に、一人で棒立ちになっているスーツ姿の人物が見える。おそらくあの人が、この喫茶店を営んでいる人なのだろうか。
立ち止まっていた足を少しずつ動かし、警戒するように進んでいく。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりましたよ」
「……はいっ!? あ、どうも、こんにちは…」
いきなり話しかけられてびっくりした僕は変な声をあげてしまう。てか気付いてたならもう少し早く言ってくれればとも思ったが、状況的にどう返せばいいのか分からず、店主の顔も見ずにそそくさとカウンターの椅子に座ってしまった。
木製テーブルの木目を眺めながら沈黙が続き、膝に置いた手が忙しなく動く。初対面とはいえ、状況的には店に来たのと何も変わりはない。
けれどそう考えても埒が明かず、観念しつつ顔を上げた僕の目に映ったのは…一人の猫獣人だった。
つづく
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②萎れた花には雨粒を
「じゃ、行きますか」
俺の目の前にいるハイエナ獣人はそう言って、すたすたと入口へ向かって歩き始めた。繁華街から少し離れた場所にあるも、しっかりとした佇まいをしたそれは、いわゆるラブホテルというものらしい。生まれてから一度も入ったことのない場所に不安と躊躇が生まれ、足が止まる。
「何今更怖気づいちゃってんの、普通のホテルとそこまで変わんないよ? おじさん」
「……っ…」
振り向きざまに揶揄うようなにやけ顔を見せる彼に多少の苛立ちを覚えるも、ここまで来た以上、俺も引き下がることはできなかった。というより、ここで今逃げても何のメリットもないのだから。
そうだ、俺はもう何もかもがどうでもよくなったからここにいるんだ。全てを失った行き場のない俺が選んだ、そういう道なのだ。曲がりなりにも泥臭く生きてきた体質もあり、自分で一度決めたことに対して目を背けるにも抵抗感がある。
俺は躊躇しつつも足をゆっくりと動かし、青年の待っている入口へと歩き始めるのだった。
「まさか本当に普通のホテルと変わらないとはな…」
受付を数分余りで済ませ、あっという間に部屋へと案内された俺は、思わずそう呟いてしまった。それほどまでに、見た目以上にやましいことをするとは思えない場所だったのだ。無意識にシンプルな内装に目を移していると、ベッドの方で声がした。
「でしょ? 意外とこういうの知られてなくて避ける人多いんだけど、来てみるとちゃんと設備整ってたりするんだよね」
少しだけ嬉しそうな上ずったハイエナの青年が話しかけてくる。自然とした会話の流れだったために俺はその方をふと見ると、何ともうすでに服を脱ぎ始めている青年の姿があった。
「……なっ!? お、おい! ちょっと、早すぎじゃないのか…!!」
「え、シャワー浴びるだけなんだけど? ってかそういう目的でおじさんもメッセージくれたんだから、オレの裸見たって別に気にしないでしょ?」
そう言いながらもするすると上着やらシャツやらを脱いでいく青年。あまりの抵抗感のなさに呆気にとられていた俺は急いで目を逸らし、あたふたと手を振り回しながら大声をあげてしまった。
「いっ、いや……それはそうだが、その……脱ぐならせめて脱衣所で脱いでくれないか!?」
「あれ、もしかしてそういうのが見たくないタイプの人? なんか変わってるね」
激しく動揺した俺を白々しく見ながら、彼は渋々と脱衣所へ向かっていく。しばらくしてシャワーの音が流れ始め、ようやく一息つけると思った俺は、どっかとソファに腰を下ろした。
「はぁ………」
力の抜けたため息が漏れる。まさか本当に連れて来られてしまうとは思わなかった。しかもあんな若造とだなんて、どうしてあの時承認ボタンを押してしまったのだろうと、あの時の自分に激しく後悔している最中だ。
今どきの技術というのは本当に凄いものだと感心すると同時に、この先の未来に大きな不安を感じていた。
初めて大きな挫折を味わったのは、二十代も終わりに差し掛かった頃のことだ。仕事もそれなりに板についてきて、俺は職場の同僚と結婚した。真面目な恋愛をしたことのなかった俺だったが、あの頃は本当に必死だったんだと思う。
なんとか期待に応えようとたくさん努力して、相手も少しずつ近づいてきて、やっとの思いで願いを叶えることができたのだ。好きな人がいる生活は夢のようで、毎日何をしても、大変なことも、全てが楽しかったように思えた。
そろそろ子供も欲しい、そんな希望を抱き始めた冬の初めのことだった。出張終わりで疲れ果てた俺が帰路についている途中、俺と同じ会社に勤めている人と妻が高級店に向かって行くのを見てしまったのだ。
それはあまりにも唐突で、決定的な光景だった。
見間違うはずがない彼女の顔は、俺といる時よりも輝いているように見えて。見たことがない服に、見たことがないピアスとネックレス。見ただけで高級品と分かるものだった。
だというのに、俺自身が彼女の浮気どころか、その気配にすら全く気が付けなかったことが余計に腹立たしかった。
結果、俺から離婚を申し出た。探偵を雇って証拠を確実にした上で慰謝料をぶん取るつもりだったが、裁判には勝ったものの証拠不十分で財産はこれっぽっちしか貰えず、気づいたら俺は一人になっていた。 勢いで家を買わなかっただけでも不幸中の幸いだったと思うが、深く刻み込まれた心の傷は、しばらく癒えることがなかった。
時は流れ、過去の悲劇もようやく受け入れられるようになってきた三十代半ば。仕事だけを真面目に取り組み続け、それなりの地位にも就いた頃。部下を連れた合コンと称した飲み会で、結婚を前提に付き合いたいと言う人がいた。
普通に嬉しかったし、この年齢でも好きになってくれる人がいるのかと素直に舞い上がっていた俺は、そのまま流れるように半年ほどで再婚。あの時ほど若さも気力も減ったが、それでも恋の力は凄まじく、毎日が素晴らしい日々だったと今でも思う。
だがやはり、神様は俺には微笑んではくれなかった。外面は良いが年を追うごとに生活が荒くなる妻に嫌気が差し始め、気付けば喧嘩をすることが日常茶飯事になった。一緒にいる方がストレスが溜まり、どちらかが家にいればどちらかが外へ出かける。
埋まることのない距離感はどんどん離れたまま、一年も経たないうちに二度目の離婚となった。
後になって分かったことだが、女の方はただ一時的な結婚ステータスが欲しかっただけらしく、離婚した時には既に別の男がいたらしい。また裁判に引っ張り出して慰謝料だけでも貰おうと考えたが、もはやそれすらも酷く惨めでバカバカしく思えてしまった俺は、もう何もしなかった。
年齢的なことを考えて新築ではなく少し年季の入った状態で買った家だけを残された俺は、また独りになったのだった。
その後の人生は語ることも何もない、ただただ残るローンを返済するために仕事を続ける日々だ。それでも職場環境はそこまで悪くないし、給料も悪いとはいえ恵まれているのだろう。しかし、俺の心はもう確実に死んだも同然だった。
だからあの時見かけた怪しげな広告にも、警戒心を持たずに応募してしまったのだろう。惰性ながら老いていく肉体に反比例して有り余る性欲を発散するために見ていたアダルトビデオサイト。そこには、『三十代の雄獣人の方募集中!! ビデオに出るだけでお小遣いがもらえます』と書かれていた。
胡散臭い、ありふれた広告だった。どうせこんなもの詐欺に決まっている。しかもそこに映っているのは雄獣人二人が腕組みをして誘うような写真があり、明らかにそっち側に向けた募集だろうと思った。
雄が雄を犯すのか? そもそも同じ性なのにどうやってそういうことをするのか甚だ疑問だったが、全く興味のなかった俺はそれを無視しようとした。
なのに、俺の指は不思議とそのサイトのページを押していた。気づけば指が動いて、応募のページに黙々と情報を打ち込んでいたのだ。どうしてかは分からないが、もう俺には何もない、失うものも存在しないという窮地の状況が逆に好都合となり、謎の自信が湧き上がっていたのかもしれない。
やりたいこともなく、生きる気力もない人形のような俺の思考回路は狂っていた。どうせこのまま野垂れ死ぬなら、いっそのこと何でもやってやると。
そんな軽はずみな気持ちと勢いだけで申し込みを終え、今日を迎えたのだった。
「……い、おーい。おじさん! ねぇ、聞こえてる?」
「………んっ!?」
青年の言葉で我に返った。どうも年を取ると記憶を振り返る癖が抜けなくて困る、と思いながら顔を上げると、そこには数台のカメラがベッドの周りに設置されていた。
それは俺の座っていたソファにもあり、まるで自分が記者会見の現場にでもいるような錯覚を覚えた。
「なっ…なんだこれは!?」
「いや、撮影用のカメラだよ。大丈夫おじさん? 酔ってないよね?」
「酔ってないが、こんなに必要なのか…?」
「必要だよ。あ、一台数万はするから壊さないようにね」
急な金額の公表に背筋が伸びて緊張してしまうが、冗談だよと青年に言われた時は一発殴ってやろうかと思った。だが、すぐ頭に血が昇るのは年を取った証拠だと言い聞かせてやめた。
「じゃ、服脱いでベッドに座って。見た感じおじさんはバリタチっぽいし、今日は特別にオレがお尻貸してあげるよ」
「…え? 俺は風呂に入らないのか? しかもなんだその、ばり…たち?」
次から次へと投げかけられる若者言葉についていけない俺は、まだ服も脱げないまま状況を把握できずにいる。青年はそんな俺に驚きつつも、呆れたような表情を見せながら返答した。
「え、まさかそれも知らないで今までヤってきた人? そういえばプロフに書いてなかったけど、おじさん何歳?」
「……さ、三十八だが」
「ふーん。それなら知っててもおかしくないと思うんだけど…まあそういう人もいるのかな」
いきなり年齢を聞かれたと思えば、何も知らないのかと首を傾げられる始末。思えば彼と出会ったのはあのホテルの入り口で、互いの素性を明かさずにここまで来てしまっていた。俺はここに来て自分がとんでもない事件に巻き込まれているんじゃないかと不安になったが、どうも青年にはその気配が見えなかった。
「あ、もしかして初心者だったりする? 今まで男の人と交わったことないの?」
「…………悪いか?」
「いや、悪いも何も……あの広告見て応募したんならソッチの人だと普通思うじゃん」
あたかも冗談を言っているような雰囲気で話すが、完全に図星だった俺は黙って青年を見つめるしかなかった。少しの沈黙を経てようやく察したらしい青年は、眉をひそめながら口を開く。
「………え、ガチでそうなの?」
「そうだ、俺は今まで男なんて抱いたことなどない。撮影だか何だかあるらしいが、お前の思った通りの人じゃなくてすまんな」
「えーマジで…? ちょっとそれは想定外だなぁ…」
その言葉を聞いて、初めて青年の顔が曇ったように思えた。まあそれもそうか、ビデオの撮影に応募してきた奴がホモじゃないなんて、向こうからしたら意味不明なのだろう。
ようやく一矢報いるような気持ちになれたような気がするが、どことなく申し訳なさも感じていた。どうせならここで終わりにして、帰されても構わない。
何しろこんな若い奴が体を売るような行為をしていることが分かった時点で、俺の中にあった常識の価値観が崩れかけていたから。
だが、やはりそう簡単に俺の思う通りに事は運ばないものだった。
「じゃあ、結婚してる感じ?」
その言葉にチクリと胸が痛む。いや違う、既に縁を絶って忘れたじゃないか。今さら思い返しても取り戻せやしないし、俺にはもうどうでもいい過去だ。
その現実から目を背けるように、俺は嘘をついた。
「結婚は…していない。独り身だ」
「奥さんもいない…と。うん、それなら好きにしていいって訳だ。それなら、『三十代半ばの未婚独身イノシシおっさん、初体験で尻の気持ち良さを知る!』って言うタイトルはどう?」
「…………えっ」
つづく
[newpage]
③我儘な鰐と従順な僕
五月蠅い歓声が、耳の奥にある鼓膜を破らんとしていた。鳴りやまぬ拍手喝采、響き渡る激励、頭が痛くなるような怒号。煌々と真上から照り付ける無数の明かりは瞼を焼くような痛みを感じさせ、視界はうっすらと薄く白んでいる。
だが目の前に設置されたそれは、視線をどこへ逸らしても消えることはなかった。立っている僕の目線にまでせり上がった床と、それを取り囲むように張り巡らされている太いゴム製の線。僕や観客のいる世界と完全な境界線を示すその先には、鍛え上げられた肉体をボロボロになるまで酷使する、獣人の姿があった。
両手にはグローブを装着し、上裸という自らの弱点をあえてさらけ出しているような試合着。何度も何度も見てきた、人間の僕なんかでは到達できない筋骨隆々の男が二人。両腕を顔面に構えて防御しつつ機会を伺う者と、それをものともせず一心不乱に攻め立てる者。
やがて拳の衝突は激しくなり、それに伴って歓声が一層大きくなる。目の前で繰り広げられる攻防に飛び散る汗がライトに反射し、うっと鼻を突くような汗の匂いが漂ってくる。それももうすっかり慣れたものだが、同時にそれは僕の体を変に火照らせてしまうものでもあった。
この会場でおそらく僕一人だけだろう、こんな反応をする人は。
それでも、この戦いはそれすら忘れさせてくれるほどに熾烈で、鳥肌が立っては血が騒ぐような光景に目を奪われてしまう。真四角の戦闘場を見上げ、事の行く末を見守る。やがてその闘いは、数分のうちに決着がついた。
膝をついてひれ伏すのは、豊満な鬣を蓄えた獅子獣人。体格も大きく申し分ないほど完成された体だが、ぼさぼさになった獅子の証が悔しくも敗北を表しているようだった。
それでも彼は抗議などせず、苦渋を超えていっそ清々しいような表情を見せながら、まだ立ち上がっているもう対戦相手を見ていた。彼の視線の先には、片腕を審判に挙げられてガッツポーズをする獣人。
その体に毛皮は一本もなく、流れる汗とライトが彼の艶やかな肌を際立たせていた。鮮やかに映える翡翠色の鱗を背中や腕に纏い、その反対側には餅のように滑らかな真っ白の前面を晒している。彼は鰐獣人だ。
大きく肩を動かして呼吸を整え、獅子獣人から与えられた傷跡を携えながらも、一人静かに勝利を噛み締めていた。
しかし、彼の勝利を称賛するものは、この会場にはほとんどいなかった。先ほどまでの熱狂は落胆に変わり、罵倒するような言葉すら聞こえてくる。むしろ、崩れ落ちた獅子獣人に激励をする人までいる始末だ。試合はとっくに終わっているというのに。
しかしあの鰐獣人は、一切表情を崩さずにチャンピオンベルトを審判から貰い、見せつけるように片手で掲げる。その腕には、鎖骨から肩周りを超え、肘のあたりまで広がった見事な刺青が施されていた。藍色に染まった龍にも見える古風な絵柄で、緑色の鱗とちょうど良い色彩を醸し出している。
一見すると物騒にも見えるだろうが、見慣れればそれはある種の勲章のようにも見えてしまう。
まごうことなき王者誕生の瞬間であるにも関わらず、それでも避難囂々の嵐は止まないどころか、彼の勝利を意地でも認めようとしない。
そのまま試合のインタビューを行おうとしたキャスターがリングへ上がるが、それと入れ替わるようにして鰐獣人はすぐにその舞台を後にした。試合に勝ち、貰うものだけ貰い、それ以外は興味などないと態度であからさまに示す彼に、さらに嫌悪の叫びは激しさを増す。
だが、やはり鰐獣人は耳でも聞こえていないかのようにずんずんと歩を進め、控室へと続くカーペットを踏みしめていた。
「行くぞ」
怒声にかき消されてもおかしくないほど一瞬だったその一言を、誰に向かうともせず言い放つ。だがそれは、確実に僕へと向けられたものである。その言葉に返答すら追いつかなかった僕は、急いで荷物をまとめ始めた。
試合用の治療具や道具やらが詰め込まれたバッグを肩にかけ、スポーツドリンクのホルダーを両手で持ち、試合相手のマネージャーの方々に挨拶をしてから僕もそのカーペットを進んでいく。
そこにはすでに、くしゃくしゃになったこの試合のチケットやごみが散乱していた。試合をしたのは僕ではないのに、僕にまで怒号や罵倒が飛んでくる。これも慣れてはいるが、例え矛先が自分ではなくても怒りを露わにしている人からの大声は怖い。現に今も腰が抜けそうなのを必死に耐えているし。
必死に足を動かしてなんとかその場から逃げるように会場を後にした僕は、自分の体重と同じくらいある荷物を抱えながら、大きくため息を吐いた。
控室へと向かうと、さっきの鰐獣人は椅子に座ってクールダウンをしている最中だった。汗まみれの方にタオルをかけ、まだ興奮状態の収まっていない体を落ち着かせるように呼吸を繰り返している。グローブを脱げば岩石のような凹凸を携えた指々が見え、それを覆うのはボロボロに剥げたテーピング。試合前にしっかり巻いたはずのその布の痛みようには、彼の拳の強さと試合の激しさを表すものがあった。
結構巻いたつもりだったんだけど。それでもあんなに消費してくれたのはまあ、サポートした僕も少しは嬉しさを感じるが。
無言で視線を鰐獣人に向けると、椅子の上で休息を図っているその背中に浮き上がる陰影は、紛れもなく美しいものに見える。毛皮がない分ハッキリと像を表す彫刻のような筋肉に、ごくりと息が詰まりそうになっていた。汗も拭かずに会場を出たせいで新鮮な水滴が鱗に艶を持たせており、逆にそれが淫猥な感触を僕の脳に想起させてしまう。
なんていい身体なのだろう。無意識に股間へと血が巡ろうとしていたその瞬間、僕の邪推はすぐに消え失せることとなった。
「なに突っ立ってやがる。さっさとドリンクよこせ」
「あ……は、はい…」
ギロリと眉毛のない眉間が力を帯び、鋭い眼光が僕を貫いてくる。それは一切の躊躇いもない、いわば怒りと同じ感情と間違えるほどだった。ヘビのように縦長に切れた瞳と、金色の虹彩が余計に爬虫類の雰囲気を助長させ、人ならざるものからの怒りを買ってしまったように感じる。
突然の命令に慌てながらも、僕は持っていたカゴの中から飲みかけのボトルを取って差し出した。こういう時はいつも思う、この人の半径一メートル以内に入ったら殺されるのではないかと。胃に穴が開くような恐怖心を抱えたまま、僕は苛立ちを見せる鰐獣人へと手を伸ばす。
しかし、渡した手に喰らった強烈な痛みと共にボトルが控室の奥へと吹っ飛ばされるのが見えたところで、僕は全身の毛が逆立つような感覚を味わうのだった。
「……そのメーカーじゃねぇよ、お前が背負ってるカバンの中にあるヤツだ。早くしろ」
「す、すみません」
まだ控室の入り口だというのに。それも荷物を降ろしていない。開いたドアの向こうで廊下を歩く関係者の視線が痛くて、カバンすらまともに開けられなかった。
恥など感じている暇があれば、さっさと手を動かしていた方がマシだ。そう思うことでしか切り抜けられないと思っていた僕は荷物を全て起き、カバンを目の前に置いてボトルを探す。ようやく探し当てた時には目の前で市場でも開いているかのような荷物の散乱があったが、別にこれは後で片付ければいい。
手に取ったペットボトルを、まるで神様か何かに捧げるものであるように、両手を添えて恐る恐る差し出した。
「どうぞ…」
「フン、ノロマがよ」
吐き捨てるような台詞を投げ、僕からボトルを奪い取る鰐獣人。ちなみに、彼から近づいてくることは一切ない。これまで一度もなかった。
そんなこんなでなんとか要求を果たした僕は急いで入口へと戻り、ドアを閉めて荷物を一旦奥へと運ぶ。全部を二本の腕で持てる訳ないのに、この鰐獣人は何も持たずに身一つだけで会場を行き来するから、結局僕が持つしかない。
これを全部持てる持ち方を模索するまで何度も落としたし、他の人に手伝ってもらったこともある。それでもこの人は僕を一度だって助けたこともなければ、会場へ向かう僕の視界に入ったことすらなかった。
「オイ、これ冷えてねぇぞ」
「……冷えてるのは、もうないです」
「チッ、近くのコンビニでいいから買ってこい。なかったらどっか行って探せよ、俺様は試合後はこれしか飲まないって決めてるんだからな」
そしてまた、無茶な要求。今荷物をまとめている最中だし、帰らなきゃいけない刻限もあるっていうのに。それでも僕は反論すらできず、言われたことをただこなすだけの人形のように振舞うしかないのだ。
「……はぁ、分かりました」
「ため息ついてないでさっさと行け」
鰐獣人から会社のクレジットカードを投げ渡され、足早に控室を後にする。おそらくあのメーカーはコンビニでは売っていないだろう、また遠い場所にあるドラッグストアまでひとっ走りしなければならないと分かっていながらも、僕は足を動かした。
とはいえ、初めての頃よりはかなり慣れたものだ。習うよりも慣れさせられたと言った方が正しいだろうけど。
無茶な要求を言い渡され、できないとは言わせない威圧をまき散らす。暴力を振るわれたことはないが、試合中に見せられる無慈悲なまでの強さを見ていれば、自然と脳はその強さを記憶してしまっている。
ゆえに僕は、逆らうこともできないでいた。
子供のような振り回され方に体は酷使され、いつしかそれが当たり前だと骨の髄まで浸透していた。これをパワハラだと言えば、あの人を法的に裁くことができるのだろうか。いや、それすらも無駄に終わるのだろうと思わされるほどの完膚なき圧力に、僕は屈してしまっていたのだ。
なんで僕は今、こんなことになっているのだろう。
つい最近まで、普通に会社員として働いていたはずなのに。可もなく不可もない、それなりに順風満帆な人生を送れると思っていたのに。
どうして僕が、選ばれてしまったんだろうか。
つづく
[newpage]
④四畳半の幸福
「ほい、ココアできたぞー」
淡々と呟かれるその声に反応した青年の目の前に、陶器製のマグカップが置かれる。もくもくと立ち上る湯気には美味しそうな甘い匂いが立ち昇り、鼻の穴が膨らむ。
そんな青年の後ろから歩いてくる大柄の獣人は、体の大きさにそぐわないカップを持って隣に座る。丸みを帯びた耳に、丸みを帯びた顔、丸みを帯びた尻尾。先ほど作ったココアの粉を全身にまぶしたような毛色を持つ、大柄な熊の獣人であった。
冷えた狭い台所から逃げるようにこたつへと向かい、青年の入る布団が大きく捲れる。すぐに温められた空間へと足を入れて隣に座ると、青年は無言で熊の体へと肩を寄せた。
「やっぱりムッちゃんのお腹に座っていい?」
「いいけど…暑くならないか?」
「全然大丈夫」
そう言いながら青年は、わざわざ自分のいた場所から立ち上がって彼の中心へと座る。大きな部屋着の布に腰を押しつかせると、ふんわりとした感触が背中を押し返した。ホームセンターで買った安物のこたつよりも断然温かい彼の体は、冬限定の豊かな毛束付きである。
もふもふと綿あめを集めたような柔らかい反発具合はこの時期だけのものであり、加えて暖房機能も備えているのだからここに入らない理由など無いに等しかっただろう。
すっぽりと体全体を包み込まれるような定位置についた青年。下へ目を向けても彼のつむじしか見えなかったが、人形のような収まりように熊の小さな尻尾は密かに揺れた。
恐る恐るカップに口を近づけ、淹れたてのココアが吸い込まれていく。鼻先から空中へと昇っていく煙が青年の睫毛を超え、熊の黒い鼻へと吸い込まれていく。甘くとろけるような匂いに、二人の空腹中枢は心地良く刺激された。
「ん、おいし」
「そりゃよかった。熱いからゆっくり飲めよ」
「うん。ありがとね」
これといった会話も交わさず、ただじっくりと二人で味わう。音量を下げた正月特番の流れるテレビに紛れて、青年と自分がココアを啜る音が耳に入り込んでくる。他人から見ればかなりだらけた光景に見えるだろうが、熊にとってはこうした時間が大好きだった。
人間の青年は大学生だった。今年で卒業予定、四月から新社会人として働くことが決まっている。一人暮らしの彼の部屋は四畳半と比較的一般的な広さだが、体の大きな熊の彼にとってはかなり窮屈な狭さである。寝そべるスペースもなければ、足を伸ばして座れる場所も一つしかない。それでも彼は、青年の部屋に好んで入り浸っていた。
それは青年も承知していたし、どんな時でも喜んで受け入れてくれていた。
一方の熊獣人は、一足先に社会を経験している、いわゆる年上の社会人である。種族柄体格の良い彼は丸々とした体つきの見た目からゆるい印象を受けがちだが、就職してから三年ほどでそれなりに高い役職を担っている文字通りのエリートだった。
出身大学も誰もが一度は聞いたことのある名門で、今では出世街道まっしぐらの最中である。
そんな場違いにも思える二人が出会ったのは、偶然にもライブ会場だった。同じ好きなアーティストの話で盛り上がり、客席が隣で、二人はすぐに打ち解け合った。酒を飲める年齢だったこともあり食事をすることも多く、不定期ではあるがよく出会っていた。
いつしか親睦は友人以上の深さにまで到達した時、熊の方から提案があった。
「友達のままで終わりたくない」と。互いに結婚願望が無いのは知っていたが、それでも男が好きという本性までも知らなかった上で、勝負に出たのだった。
これもまた偶然か、青年も同じことを思っていたのだという。すれ違いを恐れずにありのままを伝えた熊の一世一代の勝負は、たった三分弱の時間で決着がついたのだった。
「仕事、大変じゃない? 去年も結構飛び回ってたんでしょ?」
「まぁ…そうだな。楽だと言えば嘘になるけど、でも辞めたいとまでは思わないよ」
「…そっか。それなら良かった」
「………」
青年の性格は、いつも落ち着いている。というよりかは自分を押し殺しているようにも見えるが、家にいる時はよくくっついてくるくせに変に詰め寄ってこない、その塩梅が熊にとってはちょうど良かった。
それが、彼に対する好感度の減少を表していなければの話だが。
「次はいつ仕事行くの?」
「あー…えっと、明日…かな」
「やっぱそうだよね。まあ、ムッちゃんの仕事には口出しできないからしょうがないんだけどさ」
三が日の最終日である今日が、早くも新年を迎えた今月の最後の別れとなりそうだった。それは二人が付き合い始めてから続いていることなのだが、今年こそはもう少し長い休暇を取れないかと、熊は常々思ってきた。だがその願いは、今年も実現しそうにない。
だが青年もまた、苦みを潰した返答をしながらも熊の仕事の忙しさを理解している。だからこそ今この時間を大切にせんという気持ちは、熊自身にもひしひしと伝わってきていた。
自分よりも一回り小さいのに、大丈夫だと示すように言葉を紡ぐ青年。その健気な強がりを見る度に、彼の心には千切ることのできない鎖が増えていくような気がした。
その呪いをかけるかのように青年はまた一口ココアを啜り、熊の腹に乗せる背中の面積を増やしていく。
思えば、青年の家にはいつでも入れるものの、それらしいことは一度もしてこなかった。もちろん付き合ったからにはしなければならないという義務はないが、自分も興味がない訳ではなかったと熊は思う。
仕事に忙殺されている自分はまだしも、青年はまだまだ若いのだ、溜まった性欲を吐き出すことぐらいはしてきただろう。
遠距離だからこそ、数少ない会える機会を大事にしなければ。そう思いながらも、結局何もできずに過ごしてきた日は数えきれない。
新年を迎えたというのに、今日もそんな後悔で終わりそうな気がしてならなかった。
せめて今日だけでも。年上の自分がリードできないでどうするんだと自らを奮い立たせ、かつ直接的な表現を避けて言葉を選んだ。
「も…もうすぐ、この部屋も引き払うのか?」
「うん、そうなるね。なんかあっという間だったなぁ、もう俺もムッちゃんと同じ社会人なのか、やだなぁ働くの」
「しょうがないだろ? 生きてくためなんだから」
この先に待ち受ける現実から逃げるように、カップをテーブルに置いた青年は熊の着る服に後頭部を沈める。長らく触れていなかった人間の頭の形は、とても小さく思えた。
「……でもさ、やっぱり、一回ぐらいはしたかったんじゃないか?」
「えっ、何を?」
「何って……その、エッチなこととか…」
そう言ってから、熊はすぐに後悔を一つ募らせた。あんなにやんわりと聞こうと思っていたのに、直接聞いてしまったのだから。仕事では相手を説得するための話術なんてスラスラと出てくるのに、青年を前にするとどうも気が狂ってしまう。
自分の発言に狼狽えている柴犬をよそに、青年は視線をテレビに向けて答えた。
つづく。
※お詫びと訂正
サンプル最後の文にあります「柴犬」は誤植であり、正しくは「醜態」の訂正になります。
既に本も印刷作業を進めてしまっているため、取り返しがつかないものとなっている可能性が高いです。大変申し訳ありませんが、ご理解のほどよろしくお願い致します。
このたびは誠に申し訳ありませんでした。
[newpage]
いかがだったでしょうか。サンプルってどこまで出せばいいんだろうと思いながら掲載してましたが、割と多めに出てた気がします。ですが、少しでも興味を持っていただけたらぜひ当サークルまでお越しいただければ嬉しいです。
余談ですが、前ページにあった通りあまりにも大きな誤植が見つかってしまって心に大ダメージを負いました。ですがもう取り返しはつかないので、今回は素直に受け止めるしかなさそうです。
推敲はしっかりやろう、というよりもっと計画的に原稿を進めようねという経験に変えていきたいなと思います…。改めて申し訳ありませんでした。
ですがそんなことでくよくよしてられません。念願叶ったけもケですから、当日はイベントをめいっぱい楽しみたいと思います。
どうぞよろしくお願いします!