温泉施設の暖簾をくぐり、外に出ると冷風が頬を撫でる。陽が沈み、辺りは薄暗くなっていた。
火照るに火照った身体に風が心地良くて、堪らず伸びをする。全身の毛皮に染み付いたのか、温泉の残滓である硫黄が少しばかり香った。しかしその癖の強い匂いはどんな香水や芳香よりも鼻をくすぐり、思わず彼――ゆったりとした浴衣に身を包んだ虎の大男――は腕を鼻へと持っていく。
「あーたまらん匂いだ。ひっく。体の毒が抜けて、いやあ会社のことなんか忘れちまう」
独りごちる彼の顔は赤みが差している。長湯をしてのぼせたのもあるのだろう。しかし、目がとろんとしており、また時折しゃっくりが漏れる。それに足元が覚束ない。
浴衣に合うように彼は下駄を履き、からんころんと耳当たりの良い音を響かせている。しかし普段から履きなれていないせいか何度か転びそうになり、まさに千鳥足だ。
「うー……しっかし飲みすぎちま、いっく、たなぁ。まさか、温泉入りながら酒も呑めちまうんだから。あー気持ちいい」
ほろ酔いどころか泥酔だろう。彼は温泉で湯だけでなく、酒も浴びるように飲んだのだ。温まった身体には刺激的な程に効いて、幸福感に包まれる。独り言の数も増え、身体中にアルコールが巡っているだろう。
また、言葉や態度だけではない。彼の浴衣の帯が緩んでおり、いくらかだらしない恰好を晒している。胸元がはだけ、白い毛皮が連なる胸部が覗けていた。肉の付いた胸は女性的な丸みもあって、彼が男とは言えいくらか注目を浴びるだろう。
そして恰幅の良い虎は酔いが回り、気が大きくなっているために大股で堂々と地面を踏みしめる。一歩ずつ闊歩する度、厚みのある太ももが浴衣の裾からはみ出ていた。むちむちとした太ももの毛皮は艶が出ており、黄と黒の縞模様は蜜と黒檀のように若々しい。まるでそれを見せつけるように彼は歩く。温泉に浸かり、多少は魅力的に映る自身を誇示したい気持ちに駆られるのだろう。
尤も、太ももどころかその付け根近くまで露出している。突風が起これば下着まで見えてもおかしくない。幸いにも、彼の傍に通行人はいないが。
「あー……? 旅館、どこだったっけ……? まぁ、散歩がてらちょっくら歩いてくかぁ。ひっく、どうせそんなに広くはないしなぁ」
虎がやって来たのは温泉街。しかし、戻るべき旅館までの帰り道を度忘れした。馴染みのない場所だから当然ではあるが、彼は適当に辺りをぶらつくことにする。
だが、夜の帳が下りて周辺が真っ暗に染まっていた。街灯だけでは心もとない。近くの建物や宿から漏れる光も、足元を照らすにはおぼろげなものだ。
「んーあー? こっち、いや……ありゃ、道に迷っちまった……? ちょいと道外れただけ、だな」
大通りから外れて入り組んだ路地を抜けると、虎の眼前に広がるのは林。人がごった返して賑わう温泉街から少し離れただけで、まるで無人の街に踏み込んだようだった。
暗くなって先が見通せない。寂しげな風景が続くばかりで見どころもなさそうだ。酔っているとは言え、まだ判断の利く頭を働かせると虎は踵を返そうとした。
しかし、冷風が吹いて彼はその巨躯をぶるりと震わせる。頬だけでなく、胸や下半身にまでひんやりとした空気が撫でられた。
「……ションベン、我慢出来そうにねぇな」
すると彼は再び林に目を向ける。コンクリートのブロックが壁になっており、その上に林が広がっていた。また、彼とブロックの間には用水路を挟んでおり、しとしとというせせらぎにも似た流水の音が響いている。
その音が排尿の音にも似ていたのか、虎は急激に尿意を催した。たらふくに呑んだ酒が既に膀胱に溜まっていたのだろう。じんじんと下腹部から自己主張を始める。
旅館まで持ちそうにない。道に迷っており、また歩くのに不慣れなゲタでは時間がかかる。股間に力を入れようにも、気の抜けた頭では全く締まらない。何より、ひと気がないのだからここで済ませようと、理性が本能に圧し負けた。
「……だあれも見ねぇでくれよ。こんなおっさんの立ちションしてるとこ覗いても文句言うんじゃねぇぞ。ションベン漏らしたくねぇんだから……っと、と」
左右と後方を確認し、改めて周辺に人の気配はない。彼は裾を広げるとブロック前にふっくらとした白ブリーフの下着を晒した。ボクサータイプの締め付けの良いものではなく、股間に余裕があり、使い古して更に今日一日穿きっぱなしだったためにしわくちゃの白ブリーフだ。
それに指を掛けるが、すると今度は支えを失った浴衣の裾が足元に下りてくる。浴衣に小便を引っ掛けるわけにはいかないと、浴衣を再び捲るが、ブリーフを下ろそうとすればやはりひらひらの浴衣が少しの風に煽られて位置が定まらない。
「あーめんどくせぇ! どうせ人いねぇんなら、だったらこうしちまっても……よっ、とっと」
埒が明かないと踏んだ虎は業を煮やして思い切った行動に出る。
彼はゲタから足の指を抜いた。そしてようやく白ブリーフを脱いだかと思えば、ずるずると足首まで下ろすどころか、そのまま外す。彼の手には脱ぎたての白ブリーフがあり、下半身は何も身に着けていないすっぽんぽんの状態だ。
尿意が限界で縮こまっていたせいもあるのだろうが、その白ブリーフに隠されていた股間には大柄な図体から想像もできない短小包茎が現れた。
亀頭が露出しておらず、すっぽりと皮に覆われている。しかも亀頭まで被せていても尚、余っており、先端には渦巻き状に皮が寄せ合っていた。流石にそこはいくら温泉に浸かろうとも年相応のままで、加齢と共に刻まれたしわとくすんだ黄褐色が目立っている。
またサイズも可愛らしいもので、豆粒よりはあろうかという程度。下手をすれば親指サイズも無いだろう。彼の立派過ぎる体型に埋もれているのだろうが、元々控えめなのだろう。むしろ、その下にぶら下がる陰嚢の方が大きく、狸の置物を連想させた。
「こんな赤ちゃんちんぽこじゃ人にゃ見せらんねぇし、温泉じゃタオルで隠してたけどここじゃ仕方ねぇよな……。あーもう駄目だ、限界っ……んっ……」
自虐的に自身の逸物をなじると、彼は腰を突き出した。そして大きく股を開き、そして皮余りの愚息を摘まんだ。その瞬間、虎のでっぷりと体格の良い全身が大きく震え、逸物の寄せ合った皮の隙間から二本の細い水流が漏れた。
ちょろちょろ、と用水路に向かって緩やかな曲線を描いて小便が放たれる。しかしその勢いはすぐに増し、ものの数秒で激しく飛沫を上げ始めた。
「おー……すげぇ出ちまってるなこれ、全然止まらねぇぞ」
虎の言う通り、膀胱がパンパンに膨らんでいてまさに爆発寸前だったのだろう。皮がだぶついて二本に分断された真っ黄色の尿は、堰を切って全く途切れない。用水路に向けて照準が定められていた着地点も、角度が上がってその先のブロックにびちゃびちゃと大きな水音を立てていた。
まるで蛇口から放水されているかと見紛うくらいの奔流に、雨のように激しい音。そして周辺に人がいないとはいえ、音を聞きつけて誰か来るのではないかと、虎は顔を赤らめながら動揺する。
浴衣を羽織っているとはいえ、下半身丸出しで立ち小便。もはや露出狂とそう変わらない。しかし下腹部の重みがすっと抜けていき、虎は深く息を吐いて穏やかな顔を浮かべていた。
「あー…………こんな気持ちいいションベン、初めてだ……あー……そしたらちんぽの皮も剥いて……んっお……」
虎は指をずらし、包皮の先端を摘まむとそれをゆっくりと引ん剥く。するとフィルターの役目を果たしていた包皮が取り除かれ、小便が一直線に伸びた。勢いは最高潮に達して、まるでブロックを削ろうとする水圧だ。
やがて彼は硫黄に混じるように鼻を刺すアンモニア臭を覚える。それが自分の出したものだと気づくと、虎は苦笑した。
「すげぇくせぇなぁ俺のションベン。あーこりゃ笑っちまうなぁ。どんだけ飲んでたんだよ」
膀胱と尿道が開きっぱなしで身体中の水分が出ていくかのようだ。温泉で温められた熱も抜けていくようで、頭を包むふわふわとした感覚も失われていく。
そしてようやく、小便が少しずつ途切れ始める。再び用水路に向けてじょぼぼぼと着水の音を立てるが、すぐにじょろ、じょろ、と切れの悪い音に変わる。やがてちょろちょろ、と年齢の割に鮮やかなピンク色の亀頭から雫がこぼれた。
最後にぴっぴ、と虎は逸物を縦に振る。まだ尿道に残ったままの最後の一滴を搾り出す。亀頭が湿っており、包皮を剥く前に出した小便で濡れたのだろう。しかし野外であり拭く物もない。そのまま彼は指を離すと、包皮がつるりと亀頭ごと覆い、再び未成熟な子供の性器に戻る。
一分以上続いた放尿が終わり、目の前には彼の出した小便の跡がこれでもかと広がっている。夜だから暗闇に紛れているものの、バケツの水を引っ掛けたかのようなびちゃびちゃの波跡。近くを通りがかれば小便のアンモニア臭と誰もが察するだろう。
しかし当の虎本人は非常に満悦な顔を浮かべていた。すっきりとした顔立ちで、また自分の行いが無事に秘匿出来たことによる達成感を覚えている。
「さぁて旅館に帰っかなぁ。……またパンツ穿くのもめんどくせぇ。浴衣の下にゃパンツなんて穿かねぇでいいんだ、どうせばれねぇだろ」
脱いだ白ブリーフをそのまま帯の下に仕舞い、虎はその場を後にする。それでも自分がマーキングした跡が気になって振り向きはするが、やはり誰かが近づく様子もなく、彼は胸に一切引っ掛かりを覚えず旅館へ戻っていく。
「へへ、しっかしこんなに寂れてんなら、ちんぽ丸出しにしても問題ねぇかもな。……ほれ、皮つきのお子ちゃまソーセージだぞぉ」
すっかり虎は気分を良くしていた。むしろ、地に足が着いていない。彼は路地に入ると浴衣を前開きにし、逸物を摘まんでぷるぷると振り回す。いくら酩酊とは言え、まるで露出願望があったかのような変態行為を晒す。
僅かに目撃でもされたら言い訳はできない。だが、夜の暗がりが視界を遮っており、それが後押しして安心感を覚える。思考が著しく低下している虎は、歯止めが効かない。
「もちっとでっけぇちんぽならタオル要らずでぶらぶらしてたんだけどなぁ。こうやって、ちんちん持ってほうらぶーらぶらだ」
逸物を剥いては戻し、自慰行為と変わらない動作を繰り返す。加えて根元を摘まんだまま左右にぴたぴたぴた、と振ってまるでおもちゃの様に扱う。包皮内に付着していた尿が路地に飛び散るが、もう酒浸りになった頭では規律やマナーなど吹っ飛び、逸物で遊ぶちびっ子のようだった。彼を大人たらしめるのは、その巨体だけだろう。
「んっ……やべ、またションベン……いやもう、誰もいねぇんだし、だったら歩きながらしちまうか。っと、ほれほれー」
留まることを知らぬ虎はまたも催すと、逸物を摘まんだまま足を止めすらしない。物陰に隠れたり、人目を気にもしなかった。
それも全く通行人と遭遇しないからだろう。温泉街の外れで、夜中だと言えどその不思議な状況に違和感がない。そう疑問に感じる前に、多幸感が邪魔をする。
再びこじんまりとした、発育前と思わんばかりの短小包茎から小便が迸った。じょろろろ、と地面に飛沫を上げて彼の周囲が濡れていく。
それだけに限らず、大仰に逸物を振り回して小便溜まりが広がっていた。つん、とした臭いがあちこちから立ち上り、とうに悪戯では済まない所業だ。
「あー……しっかし、何だって人がいねぇんだ。確か……あぁそうだ、俺、社員旅行に来て……社員旅行……んあ?」
すると虎の視界がぶれ、自分の意識が身体とかけ離れていくような感覚を覚えた。逸物を振って雫を切るが、やがて身動きが鈍くなる。手がもたつき、足が上がらない。
不穏な気配を感じ、帯に挟んでいたブリーフを取り出す。それを急いで穿こうとするも、間に合わない。ぐらぐらと定まらない視界と足元。やがて、虎の目の前の景色が一瞬にしてすっと切り替わったところで彼の直感が働いた。
「あー……夢か、これ……」
そう自覚するや否や、頭の芯まで痺れていた心地良さに、とろけるような浮遊感が失われる。ずず、と己の自重が圧し掛かり、独り占めしていた極楽から追い出されるかのようだった――。[newpage]
薄目に飛び込んできた光景は、見慣れないものだった。夢からシームレスに移った現実。ぱちぱちと瞬きすると、もやがかかっていた輪郭がはっきりと形作られる。瞼を擦り、大欠伸をするとようやく飛び込んできたのは自宅の寝室とは異なる天井。
口の中がべっとりする。くちゃくちゃと唾を溜めてそれを飲み込むと多少は不快感が拭えた。だがしかし、ずしりと来る頭痛に彼――浴衣姿の大虎――は顔を歪ませる。
「あづっづ……なん……い、てて……。んぁ……ここ、は……」
まだ頭が覚醒しきっていない。寝起きなのもそうだが、それ以上に全身が重い。そして何より強烈な頭痛。割れるような痛みにガンガンと響くような音。
頭部を押さえつけて唸る虎だったが、少しだけ床につく前のことを思い出した。
「あー……いてて……。そう、だ……社員旅行に来てて、確か、明け方まで同僚連中と飲んでて、んで……あだだ……完っ全に二日酔いだ……」
脳内にあった記憶を探るとようやく彼は状況を理解した。
昨日、会社の社員旅行として温泉旅館へとやって来たのだ。見慣れぬ和室。硫黄の匂いが立ち込める温泉。また羽目を外して同期と夜通し続いた宴会。
回想すればするだけ頭痛がひどくなり、苦悶の表情を露にする。視点は天井のまま、布団に縫い付けられたかのように身体も首も動かない。起床するにはまだ時間を要するようだ。
「にしても、何だあの夢は……まんま変態じゃねぇか。……ちっちぇえちんぽ見られたくねぇなら、んなことするなよ、俺……あー……」
夢まで思い起こし、虎は顔を赤くした。頬がじんと熱くなり、声を上げる。いくら夢だとは言え、自身の行いに羞恥心を覚えた。酒に酔って抑圧が一気に解放されたせいなのか、それとも願望が露になったのか。彼ですら知るところではないが、目を覆いたくなるほどの場面だったのは間違いない。
「……そういや部屋に誰もいねぇのか? 四人部屋で部下と同じだったはず……。それに、なんか冷てぇのとあったけぇのが……」
少し動くようになった首を回して部屋を見ると、他に布団が三組あるがいずれも空っぽだ。まるで夢の続きのように一人、虎だけが部屋に取り残されている。
「そろそろ起きるか……しっかし、なんか濡れてんのか……? それに、くせぇぞこれ……」
妙な違和感を覚えながらも虎はおもむろに肘を立て、それから手をついて上半身を起こす。見れば彼は寝相が悪かったようで、掛布団を飛ばし、浴衣も帯を外して乱れている。ぽっこりと膨らんだ胸と腹に、愛用しているブリーフがはだけており、ほぼ素っ裸で寝ていたのだろう。
だが、彼は足を動かした際にびちゃ、と場違いな音を耳にした。そして太ももやふくらはぎ、すねと言った足全体に走る不快感。
「ん……あー……? 俺の布団のシーツの色、他のと違うような……」
もう一度瞼を擦る。まだ頭が現実に戻って来ていないのか、錯覚を起こしているのだろう。そう考えた彼は目ヤニを取って改めて自分の布団を確認して――素っ頓狂な声を上げた。
「う、うおっ……!? ま、まさか、これ……おねしょしちまった!? お、おい、俺……こんなときに、寝ションベン垂れたのか!?」
虎が寝入った布団のシーツは、明らかに黄色く染まっていた。彼の股間を中心に、まるで洪水が起こったかのようだ。小便の水溜まりという他なく、地図を描いたという比喩を軽々と超えている。
彼が少しでも足をずらすとぐじゅ、と湿った音と共にシーツからアンモニア臭のする水がこぼれる。その尿はまさに大量で、シーツが吸いきれなくなったのだろう。
何せ寝小便の浸水は敷布団にまで及んでいる。純白だったシーツが黄色く透けており、敷布団の柄まで浮かび上がっていた。
「や、やっちまった……! 飲んだ後にションベンしねぇで寝たから……あぁこりゃ……夢ん中で立ちションしてたときにこっちでも……ケツまで濡れてんじゃねぇか……!」
浴衣と虎の白ブリーフも被害を免れない。腰から下が濡れており、彼の両足が汚水とアンモニア臭に染まっている。白ブリーフもほぼ薄黄色の柄になっており、びっちりと股間に張り付いていた。密着する不快感は尻もだ。少しばかり時間が経ったのか冷たく感じるが、まだ出したてだったのか逸物を包む小便は生温かい。
虎は震えだし、動揺した。あまりにも突然のことで事態を飲み込みきれていない。彼は胡坐をかき、片手で顔を覆いながら己を嘆くことしか出来なかった。
「今年の正月も飲み過ぎて寝ションベンしちまったばっかじゃねぇか……。もう十分いいおっさんなんだぞ俺……」
自分の粗相がもはや身体に染み付いた癖のように感じる。夜尿癖や漏らし癖というほど頻度が高いわけではないが、しかし目の前でありありと突きつけられた寝小便の跡は彼のプライドを揺さぶるには十分すぎるものだろう。
二日酔いと身体の重みを忘れる程だ。虎はあぁでもないこうでもないと考えを張り巡らせるが、そこへ突然の訪問があった。
「すいませんお客様。お布団の片づけ、もう始めてもよろしいでしょうか」
「え、あ、えっ……!?」
虎は思いがけない呼びかけに驚きの声を上げて怯んだ。びくんと肩がつり上がり、思わず膝立ちになった。
声は部屋の外からだ。男性のものだが、虎の知る部下とは異なる。恐らく、旅館のスタッフだろう。
「お連れのお客様がもうお布団を片してよいと仰っていましたので。それと朝食の時間も大分過ぎていますので、起床していましたら宴会場に向かってください」
「い、いやっ……その、えーと……」
しどろもどろになり二の句が継げない。完全にパニックを起こす寸前だ。
虎は壁掛けの時計を見やる。時刻は八時。記憶を辿れば、朝食は七時からの予定だ。とっくに時間は過ぎており、スタッフが布団を片付けるのに都合が良い時間である。
そういえば、と虎は曖昧ながら部下との会話を思い出した。
『係長、僕ら先に朝食行ってきますね。スタッフさんが布団片付けに来ると思うんで、それまでに起きてくださいよ』
それに対してひどく適当に、返事をした覚えがあった。それ以降に、寝小便をしでかしたのだろう。もしも部下に小便を垂れ流している様を見られていたら、今頃大騒ぎだったのは想像に難くない。
だが、部屋の外にスタッフが待機している現状とさほど変わりない。虎はどうにかこの現場を始末しようと考え、スタッフに案を持ち掛ける。
「あ、そ、そのちょっと部屋が汚れて、あぁいや、着替えもしなくちゃいけなくて、もちっとだけ、もちっとだけ待ってくれねぇか……!」
だが、その引き延ばしは無情にも跳ね返された。
「いえすいません、あとの片づけはお客様の部屋だけでして。お部屋の汚れも私どものほうで掃除しますし、お着替えでしたら隅の方でも問題ありませんので」
「うっ、そ、そうか……」
見られる。自分が寝小便したところを見られてしまう。
虎の顔がこれまで以上に真っ赤に染まり、焦って口が震える。自宅で垂れ流したならともかく出先で、それも社員旅行中とあっては誤魔化しようがない。
それに部下がいつ帰って来るかも不明だ。今ここでスタッフが待ったとしても、この惨状をすぐに処理するなど到底不可能だ。
そこまでの考えに至ると、虎は唾を飲み込んで決心する。布団の上に立ち上がり、浴衣も前開きのまま汚れたブリーフが見えるようにして。
「……分かった。入ってくれ。ただ、ちょっと頼みごとがあるから、早く」
「はい。分かりました。それでは布団の片づけを始めますねー」
虎の了解を得ると、すぐさま襖が開かれた。入ってきたのは半纏姿の黒牛。営業スマイルのにこにことした顔だが、部屋の惨状を直視すると途端に彼の表情が引き攣った。
「あ……お客様、これは……」
「す、すまねぇ! あ、あの、寝ションベン、しちまって……クリーニング代は出す、だから、これ、すぐに片づけてくれ! 部下に見られる前に……!」
頭を下げて虎は平謝りする。心底恥ずかしくなって顔から火が出る思いだ。それに子供がする粗相ならともかく、虎は大の大人である。着替えもせず、寝小便の出元が分かるほど黄色いブリーフを見られて、正気ではいられない。
しかし部下に失態を目撃されれば、会社での沽券に関わる。ならば、もう泊まることがないであろう旅館スタッフにだけ暴露し、早々に片付けてもらうしか手がなかった。
「これは……。そうですねぇ、下手したら畳まで濡れちゃっているかもしれません」
「そ、それは本当に謝る。その分の金も出すから、だから、頼む……!!」
藁にも縋りたい気持ちだ。金で解決できるならと、彼はスタッフに託すしかない。頭を上げられるわけもなく、反省の姿を見せつける。
そうするとスタッフは少し唸った後、口を開いた。
「分かりました。ではお客さんの布団を先に片付けます。ただ、こうなると大きな袋に詰めないといけないので、一旦部屋を出ますね」
「そ、そうか助かる……! なるべく早めにな!」
虎が頭を上げ、ほっと息を吐くと黒牛のスタッフはすぐに部屋を出ていく。事情を汲み、すぐに戻って来ることだろう。
ひとまず最悪の事態は避けられた。一時の恥を選択して正解だったようだ。
「……い、いや着替えもしねぇと! ションベンまみれのパンツなんて穿いてられねぇし、足も濡れてんだから……!!」
まだやるべきことは残っている。虎は大急ぎで、まずは浴衣を布団の上に脱ぎ捨てる。続けてブリーフの裾に指をかけてずり下ろそうとするが、小便を吸水してぴったりと股間に張り付き、なかなか脱げない。加えて彼の手が慌て過ぎて震えているために、ずる、ずると少しずつ脱ぐしかない。
そして虎の股間が露になる。ふくよかな巨躯には不釣り合いな、大人びた印象が欠片もない短小包茎。寝小便に狼狽し、辱めを受けてかそれは縮むに縮んでいた。豆粒ほどに委縮した逸物は包皮の方が長いかもしれない。そして包皮には小便の光沢を帯び、じっとりと湿っておむつを外したばかりの赤子の性器のようだ。
「ったく、何が皮つきのお子ちゃまソーセージぶらぶらだよ……! んなことするわけ……――っ!?」
夢での行為にやけっぱち気味になって自省すると、虎の丸耳がぴくぴくと動く。部屋の外、廊下側から聞き慣れた若い声を拾う。間違いなくそれは、彼の部下と思しき声。
「係長、結局来なかったなー」
「あの人随分イビキかいてたし、まだ寝てんじゃない? 朝、部屋に戻ってきたときにべろべろでちょっとうるせぇって思ったしさ」
「会社だと真面目で硬いのに結構な酒乱なんだな。だからまだ結婚してないのかも」
話の内容も虎を指していた。そうすると、彼はまたも頭が真っ白になり、挙動不審になる。まだブリーフも足首に引っ掛けたままで、全裸のまま布団の上で右往左往していた。
「も、もう来ちまった……! 布団は隠せねぇし、ど、どうする……!? い、いやまず俺、自分のパンツとか、体、拭かねぇと……!!」
脳内で優先事項がぐちゃぐちゃになり、どれに手を付けるべきか混乱をきたしていた。足裏、肉球まで濡れているため畳を踏めばそれだけ小便の足跡をつけることになる。手近に彼の荷物がなく、替えの下着を取り出すことが出来ない。
彼はまるで泥酔時と同じく、判断が効かない頭に陥っていた。だからブリーフも脱がずに、すり足のまま布団の上を行ったり来たりするだけだ。
もう会話はすぐそこで繰り広げられており、部下たちの足音が襖越しに聞こえる。いっそ、ここで大声を出して無理やり制止させるしかない。
そして虎が息を大きく吸い込んだ瞬間、助けが入った。
「あ、お客様。すいません! まだお布団の片付けが終わっていなくて、今から始めさせていただきます。その間、ロビーか休憩室でお待ちいただけますか?」
口に溜め込んだ呼気を、一気に深呼吸として吐き出す。虎は自分の心臓が予想以上に脈打っていたことに気付き、胸の痛みを覚えた。
寸でのところでスタッフが帰ってきたようだ。また部屋の惨状については伏せており、虎の失態に配慮している。
あとは部下が部屋から離れたのち、着替えを済ませスタッフには後片付けをしてもらう。それで威厳ある係長としての地位が守られれば、クリーニング代など釣りが返ってくるものだ。虎は安堵の表情を晒した。
――それが速断に過ぎた結果だということであり、逼迫した彼の頭では最悪の事態までは想定出来なかった。
「いや、だってなんか部屋から変な臭いしてません? 係長~、無事ですか~!」
「い、いえ、その掃除しますので、今は、その……!」
「え、お、おい! まだ、開け――」
がら、と勢いよく襖が開けられた。虎が目にしたのは三人の若い部下たち。その中で、まだやんちゃそうな狼が先頭を切って部屋に踏み込んだ。
「あれ、係長? 今、外から変な臭いがして…………え?」
狼が疑問を口にした瞬間、部屋の時間が止まった。彼の後ろから、もう二人の部下が入室するが、狼と同様にあるものを凝視したまま表情が固まっている。
肝心の虎の姿は、全裸だ。部屋が浴場であるかのように一糸まとわない格好で、しかも股間さえも丸出し。股間に埋もれる豆粒のようなサイズの逸物に、びろんと伸びきった皮は嘲笑の的だろう。
だが皆が注目しているのは彼の足元に広がる黄色い海。足首に絡まったままの、黄ばんだブリーフ。布団はぐしょぐしょに濡れ、子供の粗相と言うものでは済まない。彼の布団の上にだけ土砂降りの雨が襲ったかのように、元の白いシーツの面積はわずかなものだ。それに浴衣にも黄色いシミが浮かび始めている。
そして時間が経ち、空気に触れてむせ返るようなアンモニア臭を放っていた。大量の酒を摂取したために、トイレの臭いよりも強烈で顔を背けてたくなるレベルだ。
「あっ……あのっ……な、これ、は…………」
言い訳など通用するはずもない。自身に突き刺さる視線が痛く、虎は涙目になって声が震えていた。
いい年をしたおっさんが部下におねしょを見られる。そんな体験をしたはずもなく、平静を保てない。部下たちの後ろで頭を下げるスタッフが視界に入るが、彼に非があるはずもなく、虎は言葉が出なかった。
やがて鼻を押さえ、苦笑した狼が虎に問う。努めて冷静な口調で。
「……係長、おねしょしちゃったんですか?」
「…………ごめん、なさい……」
威厳も何もない。虎は、彼に向けるものではないのに、親に叱られる子のように謝った。
ただ口を閉ざし、部下に下げたことのない頭を向けて、泣きべそをかく。
面を上げられない。惨めな自分の顔を見せられず、後は野となれ山となれと、虎はぶるぶると震えるしかなかった[newpage]
その年の社員旅行の領収書には宿泊費、接待費、サービス料の他にクリーニング代と記載がされていた。
社員の間で私物を持ち込んでそれを宛てた、或いは勝手に経費で利用したなどと話題に上がったが、大した金額ではなくすぐに落ち着いた。
それとは別件で後日、真面目で堅いと社内でも噂の虎係長が部下に対して態度が丸くなったという。大方、社員旅行で同じ部屋になって仲良くなったのだろうという結論に至った。
しかし、その真相を知るのは社内でもわずか四名だ。
「おい、この見積もり間違っているぞ」
「すいません係長。すぐに直しますので、時間をいただけませんか」
「お前、こんな簡単な見積もりもなぁ!」
会社のオフィス、虎が部下の狼を叱りつける。狼自身、新入社員であり経験不足なのだが、それに輪をかけて社内でのミスが目立っていた。
そんな彼に説教をするのが上司の虎係長。それが常態化しており、虎はいつも手を焼いていた。周囲の目も狼ではなく虎係長に同情の視線を向けているのだが、社員旅行で彼らが相部屋になってからそのやり取りが激変した。
「……すいません。気をつけます、……“寝小便係長”」
「っ……! それは、頼むから……」
こそっと耳打ちをされ、虎のびくんと跳ねる。オフィスチェアががたん、と音を立て彼も目を丸くした。そうなると決まって彼は屈辱を思い出し、体を硬くして伏し目がちになる。そうならざるを得なかったのだ。
「……わ、分かった。早く、仕上げるんだぞ。あと、その呼び方も、画像も……」
「分かっています。係長の恥ずかしい写真、社内メールに送ったりはしませんから」
「……は、早く、行ってくれ……」
傍から見れば、彼らの関係は良好なものだろう。無論、虎にとってそんな評判などはどうでも良く、今後社員旅行の際にはおむつを携帯するようになるくらいに、反省している。酒は飲むべし、飲まるるべからず、と彼は深く胸に刻み付けた。