ライカンスロープ 第16話

  薄暗い部屋の中で、瀞は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。

  (いってぇ)

  寝心地のいいベッドの上で、体の節々に走る痛みに顔をしかめつつ、脱力して大きく息を吐く。

  (あー、めんどうくせぇ)

  疲労と痛みに耐えながら、寝転がってベッドの脇にある棚に視線を向ける。時刻は、6時半を過ぎていた。

  途端に、痛みと眠気が消え、体毛をぼふっと立たせながら跳び起きた。

  (やっべ、寝過ごした!目覚ましならなかったのか!?)

  絶望しつつベッドから降りようとしたが。

  (あ、今日、日曜日だ)

  今日は訓練が休みであることを思い出し、安堵してベッドに倒れ込んだ。

  (びびったぁ・・・・・・目覚まし自分で消したんだったわ)

  安堵した途端に、再び猛烈な睡魔に襲われた瀞は、目を閉じて眠気に身を任せた。

  連日の訓練でたまった疲労もあり、すぐに寝息を立て始めた。

  だが、静寂と安寧は切り裂かれた。

  「ィマァァァァァァジベンナァァァァァァ!!!!!」

  耳元で放たれた雷鳴により脳を貫かれ、瀞は逃れるべくベッドから転がり落ちた。

  「づうっ!」

  身体の痛みにに加え頭痛に襲われ、さらに睡眠を妨害されたことで怒りに震える瀞は、ベッドにしがみついて起き上がり、棚の隣で笑っている猿を睨みつけた。

  「志龍。てんめぇぇぇぇぇ」

  「瀞、さっきのお前、すごかったぞ!ほら、こないだテレビで見た、ヘビメタのベースの人みたいに!めちゃくちゃ頭振って演奏してたろ!?まさにあれだった!ビクッてすっげえ頭振って、脚も曲げて!体毛も一気に逆立ってたぞ!」

  「笑ってんじゃねえよ。てめえ、人が疲れて寝てんのに、耳元でライオンキングのあれ歌いやがって!」

  「お、やっぱり分かったか。流石」

  「嬉しくねえし」

  寝起きで不機嫌な瀞は、再びベッドに寝転がった。

  「おい、起きろよ」

  「もう少し寝かせろよ。昨日も遅かったんだし」

  瀞はタオルケットを頭からかぶり、腕の代わりに尻尾を振って志龍に退室を促した。

  しかし。

  「ビュ!ビュ!うっ!」

  「あんだよ」

  「瀞、俺、誰かに狙撃された・・・・・・」

  「ビュってなんだよ」

  「サプレッサーだ・・・・・・」

  志龍の声はやけに芝居がかかっており、本当に苦し気だ。

  「あっそ。じゃ死ね」

  「もう、だめだ・・・・・・」

  そう言い、志龍は瀞に向かって倒れかかり、疲労が蓄積されたその体に圧し掛かった。

  「ぐっ!」

  瀞の呻きを無視し、志龍はそのまま瀞の脇下に手を入れくすぐり始めた。

  「ぎゃははははああああああ!!!」

  「おーっと、瀞選手、くすぐり攻撃により悶絶している!こうかはばつぐんだ!」

  くすぐったくて、息が苦しくて、体が痛くて。悶絶しながら絶叫するも、志龍は瀞から離れず、くすぐりと実況を続けた。

  「志龍選手、容赦がありません!瀞選手、これは危険だ!筋肉が泣いている!限界か!?」

  「や、やめてぇぇぇ・・・・・・」

  涙を流しつつ、しかし笑顔を顔にはりつけ、大きく開けた口から舌と唾液を零し、瀞は容赦ないくすぐりに苦しみ続けた。

  「ぐうう・・・・・・!」

  歯を食いしばって呻き声を抑えつつ、瀞は急坂を駆け上がっていく。

  草木のせいで視界は悪く、細長い枝が進行を阻むように左右から伸び、雑草や木の根で足を取られそうになる。加えて、腰には刀剣、背中にはバックパック、手には小銃があり、防弾具も身に着けているため体は重い。ヘルメットも、呼吸の妨げになるだけだった。

  (き、きつい・・・・・・)

  キメラとの苛烈な戦いに生き伸びるため、その訓練もまた苛烈である。肉体と精神に負荷を掛け、それを跳ね返すほどの強靭な心身を身につけなければならない。

  だが、数か月前まで学生だった瀞にとって、訓練はただの苦行でしかない。オーバーワークではないのか、筋トレやジョギングの方が効果的ではないのか、剣の修行をした方がいいのではないかと、不平不満が溢れて来る。

  「うわっ!!」

  不意に、左方から訓練用のペイント弾が跳んできた。それをかがんで躱し、射線から敵の位置を予想し、小銃を発砲して再び駆け上がる。

  (離される・・・・・・急げ!)

  たった一人であったなら、心は折れ、手を抜き、遅いペースで走っていただろう。

  だが、瀞の前方には同い年と青年、志龍が同様の条件で走り続けている。彼に負けてなるものかと、闘争心が芽生え、それを原動力にして走り続けることが出来た。

  やがて、志龍が先に山頂に付いた。少し遅れて、瀞もたどり着く。

  「はぁ・・・・・・」

  志龍はヘルメットを脱ぎ、バックパックから水筒を取り出して飲み始めた。黄金色の体毛は、汗でぐっしょりと濡れている。瀞も水分を補給しようとしたが。

  「おい、銃口、気を付けろ」

  「あ、ああ」

  何気なく銃を置こうとして、志龍に睨まれた。

  銃口は決して、味方に向けてはならないと、教官からきつく言われている。もし守らなければ、延々と腕立て伏せをしなければならない。連帯責任により、瀞だけでなく志龍もだ。ドローンにより上空から監視されているため、二人きりの状況でも気は抜けなかった。

  「銃、当たらねえな」

  「そうだな」

  瀞は、射撃がいかに難しいか、訓練を通じて実感した。それは、志龍も同様らしい。

  「ほんと、こういう訓練すると、アクション映画がどんなに・・・・・・」

  「おしゃべりしてる場合かよ。行くぞ」

  瀞の無駄口を制し、志龍は下山の準備を整えた。瀞がそれに倣い、ヘルメットを被り、バックパックを背負うと、志龍は再び駆け出した。瀞は慌てて銃を取り、志龍の後を追った。

  訓練中の志龍の豹変ぶりには、毎回驚かされている。普段の陽気な態度が嘘のように、ストイックな一人と兵士と化してしまうのだ。彼を見ていると、自分の覚悟が如何に不足していたか、痛いほど分かってしまう。

  (遊びじゃねえからな)

  反省しつつ、自分より一回り小さい背中を追いかける。

  彼に追いつこうと。兵士に近づこうと。

  羨望の眼差しを目標に向け、瀞は走り続けた。

  訓練終了後の夜。

  武道場には明かりが灯され、その中心で犬と猿がにらみ合っていた。

  瀞は竹刀を手にしているが、志龍はグラブをはめているだけだ。総合格闘技用のオープンフィンガーグローブである。

  初めは、素手で戦うなんて舐められていると思っていた。だが、今では素手の志龍がどれほど脅威か分かっているので、瀞は極限まで警戒心を高めている。

  すり足で接近し、志龍を間合いに入れる。

  次の瞬間、瀞は上段に構えた竹刀を振り下ろした。

  志龍はバックステップで躱す。

  そのまま突きを打ち込むと、志龍は右に跳びつつ半身になって避けた。

  志龍はすかさず踏み込みつつ前蹴りを放つが、瀞は後方に跳び辛うじて躱した。

  着地と同時に、瀞は袈裟に打ち込む。

  後方へ逃げる志龍を追いかけ、薙ぎ払い、打ち下ろし、切り上げる。

  志龍は素早いステップでそれらを躱しつつ、反撃の機会を狙っている。

  少しでも連撃のペースが落ちれば、その隙に志龍の蹴りが跳んでくるはずだ。

  だから、瀞はあえて空振り後に動きを止めた。

  ここぞと言わんばかりに、志龍が踏み込んでくる。

  (ここだ!)

  それを読んでいた瀞は、右前方に踏みこんで志龍の蹴りを躱した。

  そして、竹刀を手放し反撃の拳を志龍目がけて打ち込んだ。

  「ほら」

  瀞は志龍に、たった今買ってきたスポーツドリンクのボトル1つ手渡した。

  「おう。こっちも」

  志龍も同様に、2つのアイスパックの内、1つを瀞に渡した。

  「サンキュウ」

  数分後、二人は武道場の隅にて、アイスパックで頬を冷やしつつ、スポーツドリンクで失われた水分と塩分を補給していた。

  瀞の策にひっかかった志龍は、蹴りを空振りした後すぐに右拳を打ってきた。

  一方の瀞は、志龍を策にかけたのはよかったものの、蹴りを避けた後に僅かに体勢を崩していたため、パンチを即座に打てなかった。

  結果、互いに相手の拳を左頬で受けることとなってしまった。

  「フェイントに引っかかるとはなぁ」

  「ああ。わざと動きとめるのは、ちょっと怖かったけど」

  「一瞬怪しいと思ったけど、速攻で蹴れば間に合うと思ったんだ」

  「俺も、蹴り避けた後、絶対パンチ当たると思ったんだけどな」

  二人は試合の記憶を反芻し、自分の動きと相手の動きを確認し合い、反省点を述べ合った。

  訓練後、二人は寝る前に短時間だがトレーニングをしている。以前は瀞も志龍も単独で行っていたが、ある日瀞がトレーニングルームで筋力トレーニングを行う志龍を目撃して以来、共同で行うことにした。普段は素振りと筋力トレーニングだが、定期的に試合も行っており、技量を高め合っていた。

  「座学の試験、来週だよな」

  「ああ。また、勉強、頼むな」

  「いいけど、教官にも聞けよ」

  「お前の方が聞きやすいし」

  「俺の勉強の邪魔になるんなら、一緒に勉強しないからな」

  瀞は、座学が苦手だった。対照的に、志龍は得意である。

  「勉強、あんま得意じゃなかったからな」

  「あんま、じゃなくて全然だろ」

  「そんなことないし。こっちの座学は専門的なことなんだから、分かんないって」

  「それは甘えだろ。もう兵士なんだぞ、俺ら」

  「まぁ、な」

  「給料だってもらってるんだし」

  「そうだな、すげえ額だった」

  「早ければ来年には、実戦だぞ」

  「ああ」

  志龍の言う通り、自分はもう兵士だ。訓練生という身分ではあるが、それが終われば実戦に出て、キメラと死闘を繰り広げなければならない。今のうちに、実力と知識を十分に身につけなければならないのだ。

  訓練の成績で常に瀞の上を行く志龍を見ていると、自分にはその覚悟が足りなかったと思わずにはいられない。自分はあの時、丈一の話で興奮し、興味本位で、つまりはその場の気まぐれで獣人になったのではないかと、そんな気持ちになる。

  「しっかり、しないとな」

  「当たり前だ。しっかりしてないのかよ」

  「いや、そういうわけじゃねえけど。まだまだダメだなって」

  「だったら、今のうちに根性叩き直しておけばいいだろ。今は、そういう時間なんだから」

  「そうだな」

  志龍の言う通りだと、瀞は思った。

  この訓練生の時間が重要だ。来年までに心身ともに鍛え上げ、確固たる覚悟を持たなければならない。キメラと戦えるほどの覚悟を。

  志龍の横顔を見た。その鋭い視線は、おそらく実線で戦う自分を見据えているのだろう。既に兵士としての覚悟を持つ志龍ならば、その光景が見えるはずだ。

  未熟な自分にはまだ見えない未来へ向けて、これからも走り続けよう。

  「ブッーーー!」

  「うぎゃあ!」

  新たな決意を胸に秘めた瀞に、霧状になったスポーツドリンクが容赦なく降り注いだ。

  濡れた顔の体毛を拭って顔を上げると、笑い転げる志龍の姿があった。

  「お前、すげえリアクションいいなぁ!昨日の朝みたいに、体、ビクンッってなって、一瞬跳びあがったぞ!」

  「てんめぇぇ・・・・・・」

  自分は心の底から真剣に将来を考えていたのだが、志龍はもう普段の状態に戻っているようだった。

  お返しをしてやろうと、瀞はボトルの口を咥えた。

  「とう」

  しかし、中身を口に入れた途端、志龍は身を乗り出して瀞の喉を指先で突いた。

  「ぐぶっ!」

  その衝撃で、口中に溜めようとしていたドリンクを瀞は飲み込んでしまう。しかし、一部は胃でなく肺へと向かってしまった。

  「ぶふぉあ!!」

  瀞は大きく切らいた口から、噴火のようにドリンクを吐き出した。

  しかし、志龍は獣人特有のスピードを最大限に発揮し、既に射程距離の外に避難していた。

  「げほっ!うげっほぁ!!」

  四つん這いで何度もせき込む瀞。ボトルは落としてしまったので、床はドリンクまみれだ。

  その光景を安全圏で眺めつつ、志龍は笑い転げていた。鋭い視線は将来でなく、悪戯で苦しむ親友を見据えていたようだ。

  回復後にボコボコにしてやるという新たな決意を固めつつ、瀞は何度もせき込んで肺の中に入ったドリンクを吐き出し続けた。

  「ぐううううううう!!!」

  瀞は歯を食いしばり、激痛に耐え、抵抗を続けていた。

  目の前には、アラクネがいる。2つの顔は、どちらも自分に向けられていた。

  下のアラクネは、両手足と両腰の脚で地面を踏みしめており、左肩の脚を瀞の腹部に突き立てていた。

  それに背負われて蘇生したアラクネは、右肩の脚を瀞の胸に突き刺している。

  瀞は家の壁に磔にされ、胸と腹に脚を打ち込まれている。また、背負われているアラクネの左肩の脚が喉仏に迫っていた。瀞はなんとか両手でそれを掴み、進行を止めているが、穂先は今にも喉に届きそうだ。

  幸い、アラクネは筋力が落ちているらしく、脚による刺突も威力は低く、瀞の肉体を貫くことが出来ないでいる。力を込めれば、骨が無くとも筋力だけで止めることは出来た。

  だが、瀞も毒の効力で力が落ちつつある。力を込めている両腕と腹筋の力場抜けてしまえば、即座に射貫かれるはずだ。

  (やばい、やられる・・・・・・)

  その時、アラクネの背後の物置から棍を手にした志龍が飛び出した。

  先程、アラクネの脚を躱して懐に飛び込もうとした際に、脚の薙ぎ払いをくらって物置まで吹き飛んでいたのだ。

  親友を救うべく志龍はアラクネの背後に突きを打ち込もうとした。

  しかし、アラクネはあざ笑うように跳躍し、それを躱した。

  志龍は舌打ちをして、アラクネに向き直り、庇うように瀞の前に立った。

  先程から、この繰り返しだった。

  二身一体となったアラクネは、脚による刺突の威力は低下したものの、数が増えたために容易に接近できなくなった。加えて速度の低下は見られず、瀞と志龍の攻撃はアラクネに届かない。一方、アラクネの攻撃は二人を確実に捕えており、致命傷はないが確実にダメージを与えている。

  このまま消耗戦が続けば、間違いなくアラクネが勝つだろう。

  「気をしっかり持てよ」

  志龍にそう声を掛けられた瀞は、親友の心遣いに感謝しつつも、歯ぎしりするほど悔しい思いを抱えていた。

  毒と疲労と怪我により満足に動けず、志龍に気を遣わせている。つまりは、脚を引っ張ってしまっている。

  目の前にいるのが和虎ならば、ここまで強く思わなかっただろう。だが、今自分を助けてくれている兵士は、互いに切磋琢磨してきた志龍だ。

  (何やってんだ、俺は!)

  自分の無力さに怒りが湧いてくるが、瀞はそれを必死に抑え込み、落とした刀の元へ歩いた。

  アラクネは、弱々しい足取りの瀞を黙って見下ろしている。

  無様にもがく獲物を見て、内心ほくそ笑んでいるのだろうか。

  その想像で更に怒りを激しく燃え滾らせ、瀞は刀を拾った。

  直後、アラクネが飛び降りて接近してきた。

  瀞に近づけまいと、志龍が飛び込む。

  しかし、脚の数が多く、やはり接近できない。

  アラクネを中心にサイドステップを繰り返しつつ回り、隙を伺っているがチャンスがない。

  無理に飛び込めば串刺しにされるだけだ。

  (立て!二人掛かりならいけるかもしれねえだろ!)

  瀞は歯を食いしばり、刀を握りしめ、こちらに背を向けているアラクネへと走った。

  (あいつがこっちに注意を向けたら、その隙に志龍がやってくれるはずだ!)

  左右のいづれかを向いて、脇の脚で攻撃するか。

  もしくは、四つん這いの姿勢から立ち上がり、両肩の脚で攻撃するか。

  いずれにせよ、アラクネが自分に脚で攻撃を仕掛けた瞬間、志龍がその隙に棍を突き出せばいい。

  親友を信頼し、刀を上段に構える。

  すると、瀞の接近を察したアラクネは、立ち上がって両肩の脚を背後に伸ばしてきた。

  瀞はそれを右に跳んで躱す。

  着地に失敗し、派手に転んだ。

  それに合わせて、志龍はアラクネの喉元目がけて突きを打ち込んだ。

  アラクネの間合いに入らないよう、棍の先端付近を右手で掴み、リーチを最大限に活かした突きだ。

  喉を抉るはずの攻撃だったが、アラクネは突きを左腕で受け止めた。

  骨に亀裂が入ったが、アラクネは構わず右手で根を掴み取り、薙ぎ払う。

  雨水で濡れていることも要因となり、志龍の手から棍が離れた。

  (誘われた!?)

  立ち上がって急所を晒し、攻撃部位を予測したアラクネは、志龍の武器を奪うことに成功した。

  そして、起き上がった瀞目がけて、右手一本で棍を薙ぎ払った。

  「ぐっ!!」

  辛うじて防御に成功したが、瀞は軽々と吹き飛び、綾子の家の壁に激突した。

  「くぁ」

  背中と後頭部を強く打ち付け、脳と内蔵に衝撃が走る。

  瀞は立ち上がれず、壁を背に崩れ落ちた。

  アラクネは棍を林の方へ放り投げ、再び志龍と向き直る。

  素手となった志龍だが、臆することなく構えた。

  (志龍・・・・・・やべえよ・・・・・・流石にお前でも、素手じゃ無理だ)

  瀞は何とか立ち上がったが、軽い脳震盪を起こしており、視界が歪んでいる。志龍がアラクネと戦っている様子が、辛うじて確認できた。

  (助けに、行かないと、志龍が・・・・・・)

  このままでは、二人ともやられてしまう。

  最悪の状況を打破するには、アラクネを倒すしかない。

  だが、満身創痍の状態ではそれも叶わない。

  (どうすりゃいい?どうすりゃ・・・・・・)

  「あっ」

  衝撃と絶望でまともに機能しない脳で必死に思考する瀞の耳が、ピクリと揺れた。

  瀞は振り返り、左に二歩ほど進んで、窓ガラスから家の中を覗いた。

  「ひっ」

  そこには、綾子の姿があった。

  心配になって身に来たのだろうか。

  その顔は、恐怖一色に染め上げられていた。

  しかもその目は、恐怖は、自分の顔にしっかりと向けられている。

  犬の顔を持ち、傷だらけで、血を流し、刀を持つ自分に。

  その瞬間、瀞の心もまた、例えの様のない恐怖に襲われた。

  「馬鹿野郎!!早く戻れ!!隠れてろ!!」

  思わず瀞は叫んでいた。

  口を大きく開き、眉間に皺を入れ、牙をむき出して威嚇するかのように。

  綾子の身を案じたから。顔を見られるわけにはいかないから。

  そして、恐怖と同時に生まれた羞恥を払いたかったから。

  「うっ!?」

  叫んだ後、瀞は窓ガラスに映るアラクネの姿に気付いた。

  四つん這いの姿勢でこっちに向かってくる。

  綾子は恐怖で固まってしまったのか、動けない。

  (そうだ、助けないと)

  忘れていたわけではないが、綾子の姿を見て、自身の成すべきことを、使命感を瀞は再確認した。

  すると、思考が止まった。

  アラクネは、標的である瀞の背中に向けて、左肩の脚を突き出した。

  

  キェッ!

  直後、アラクネは悲鳴を上げた。

  攻撃が命中したと確信した瞬間、凄まじい激痛に襲われたためだ。

  激痛の発信源は、背負われて蘇生したアラクネの頭部だった。

  そこには刃が突き刺さり、脳が射貫かれている。

  攻撃したのは、無論瀞だ。

  振り返りつつアラクネの刺突を躱した瀞は、踏み込んでアラクネの頭部に反撃の突きを放っていた。

  その動きはアラクネの想像を超えるほど速く、さらに洗練されて無駄が無く、確実に狙った箇所を貫いていた。

  「フゥゥッ!!」

  怒りに満ちた瀞の表情は闘争中の獣のようであり、野性的な凶悪さを秘めている。

  しかし動きは和虎と共に構築された技術を正確に発揮しており、非常に理性的なものであった。

  アラクネは後退し、再び攻撃に移る。

  背中に取りついたアラクネによる右肩の脚を刺突は、しかし切り上げられた瀞の刃によって断たれた。

  アラクネが驚愕した時、既に瀞は懐へと飛び込んでいた。

  踏み込みは速く、一刀の後に全く動きを止めることはない。

  アラクネは左肩の脚を突き出す。

  しかし刺突は空を切り、先端は再び瀞によって切り落とされた。

  ギイイッ!!

  痛みに苦しむアラクネは思わず後退しようとした。

  だが、瀞はさらに踏み込み、下側のアラクネの左肩の脚目がけて刀を振るい、切断した。

  アラクネの目にも留まらぬ速度にて踏み込み、刀を振り、瀞は肩の脚を全て切り落とすことに成功した。

  思考停止と同時に洗練した瀞の動きは、力も速度も精度もアラクネの想像を超えていた。

  更に瀞は一歩前に踏み出し、アラクネの頭部へ向けて再び切り上げを放つ。

  狙いは下側、死んだアラクネを背負って蘇らせた方だ。

  刃は、アラクネの右頬に命中する。

  しかし、そこで瀞の動きは止まった。

  握力が緩んで手から刀が落ち、前のめりに倒れそうになる。

  アラクネは立ち上がり、両手の爪を瀞に向かって打ち込んだ。

  それぞれが、首と心臓に向かう。

  瀞は、両腕でそれを防いだ。

  切っ先は、各々の腕に深々と食い込む。

  更にアラクネは、両脇の脚の切っ先を瀞に向けた。

  その時、頭部から血を流す志龍がアラクネの左後方に現れた。

  負傷により、アラクネは志龍の接近に気付くのが遅れた。

  背負われている方のアラクネの両脇の脚が志龍へ伸びる。

  志龍が格闘で仕掛けていたならば、アラクネの攻撃が先に届いていただろう。

  だが、志龍の手には先程拾った物干し竿が握られている。

  自身の棍と同様の間合いであるが故に、志龍の突きは阻まれることなくアラクネの左脇腹に命中した。

  そこは負傷している箇所であり、溜まらずアラクネの脚の力が緩む。

  瀞は力が弱まった脚を振りほどき、刀を拾い、アラクネの心臓目がけて突きを打ち込んだ。

  刀身は、重なったアラクネの胴体をもろともに貫く。

  キァァァァァァ!!

  双頭のアラクネが同時に叫んだ。

  「っせえ!!」

  志龍は物干し竿でもう一度、アラクネの左脇腹を突いた。

  武具でない物干し竿は耐久力が低く、曲がってしまい十分なダメージは与えられないが、それでもアラクネは激痛に苛まれる。

  しかしアラクネは踏みとどまり、両脇の脚を密着している瀞の両脇に突き立てた。

  「ぐっ!」

  力は落ちているため、切っ先は筋肉で止まったが、衝撃は強く瀞の動きは止まる。

  間を置かず、アラクネは両腕の爪を瀞の首に突き立てようとした。

  瀞は刀から手を放し、アラクネの手首を掴んでそれを止める。

  目の前には、無表情でも、苦痛でもなく、怒りに燃えるアラクネの顔があった。

  身の毛もよだつ顔ではあったが、瀞は気後れすることなく、自身も憤怒の表情で見返し、そして。

  グシャッ

  顎の下に鼻先を入れ、顔を横に傾けて口を開き、喉に噛みついた。

  ブラキオやブラックハウンドのそれと比べると、その肉は柔らかく、抵抗はあまりなかった。

  しかし、味は同じだった。

  ブチッ

  数時間前、ブラックハウンドの喉を噛みちぎった時と同じ感触がした。

  アラクネの両腕と、脚の力が緩む。

  口と手を放して突き飛ばすと、アラクネは喉を抑えてよろよろと後退していく。

  目は見開かれ、口も大きく開き、喉からは大量の血が飛び出ていく。

  志龍がアラクネの左膝を竿で払うと、アラクネは片膝をついた。

  ちょうどよい高さになったアラクネの頭部に、志龍は振り上げた物干し竿を叩きつけた。

  竿は折れ、アラクネは倒れた。

  アラクネの喉から流れる血は、地面に広がる雨水と一体化して大きく広がっていった。

  水で薄められることで、赤黒い血が程よい赤さになっていると、瀞はそう思った。

  「はぁ・・・・・・」

  終わった。

  そう確信した瞬間、張り詰めていた瀞の心身が緩んだ。

  口に残った血の味と肉の感触は、あまり気にならなかった。それよりも疲労と痛みのあまり、瀞はその場でふらついたしまう。

  この不快感の正体は、毒か、疲労か、負傷なのか。もう分からなかった。兎に角、全身が痛くて、だるくて、気持ち悪かった。

  「瀞」

  志龍がすぐに近寄り、支えてくれた。

  「ぐっ!!」

  すると、志龍は体を震わせて呻いた。

  「どうした?」

  たまたま下を向いていた瀞の目に、真っ赤になった志龍の右足が映った。

  アラクネの脚で太腿を突かれたらしく、大きな穴が開いている。

  「お前、脚が・・・・・・」

  「大丈夫だ。大きな傷はここだけだ。すぐにイナバを塗る」

  志龍はそう言ったが、それがやせ我慢であることが瀞には分かった。

  この傷の痛みに耐え、武器を失ってもアラクネに立ち向かった志龍の存在を、瀞は誇らしいと思った。

  そして、そんな親友に恥じない戦いが出来たことに安堵していた。

  どうだ、俺だってすごいだろう、と。

  不謹慎かもしれないが、そのことで感じている喜びは、綾子たちを守れたことと同等の大きさかもしれない。

  「俺は、一人で、歩ける」

  「無理するな」

  「いや、お前がだろ」

  そんなことを言いながら、瀞と志龍は互いに支え合いつつ、綾子の家の玄関へと向かった。

  「ちょっとお邪魔させてもらうか。雨、強くなってきたし」

  「ああ。俺、さっき入ったし」

  「そうか」

  「訓練してた時を思い出すな」

  「訓練の時、こんな状況なかっただろ」

  「いや、一緒にいるだけで」

  「まぁ、確かにそれはあるな。傷口を塞いだら」

  次の瞬間、瀞は志龍に突き飛ばされていた。

  「づっ!」

  「ぐぅっ!!」

  左側に倒れ、激痛に苦しみつつ志龍の呻きを聞いた瀞は、上半身を起こして志龍を見た。

  そこには、跪いた志龍の姿が。左腕には、1メートルほどの細長い気の槍が突き刺さっている。

  「志龍」

  瀞に声を掛けられた志龍はすぐに立ち上がり、倒れた瀞の身体を右腕で抱え、その場から離れようと左足で地を蹴った。

  直後、二人がいた場所を再び槍が通過する。

  「ぐっ!!」

  その槍は、志龍の左大腿部の裏側を掠めた。

  (あともう一歩だ!)

  それでも志龍は、再度左足で地を蹴り、車庫の役割を担う小屋の陰に飛び込もうとしたが。

  ドッ!!

  「がっ!!」

  飛来してきた半月上の石の刃を左脚に受け、倒れた。

  「ぐっ」

  志龍に落とされて地面を転がった瀞は、震える両腕で何とか身を起こし、志龍を見た。

  左大腿部に受けた傷口は深いらしく、右脚の傷とともに大量の血を流している。

  (やべぇ、このままじゃ、志龍が出血で・・・・・・)

  瀞は槍と刃が飛来してきた方向、家を囲む木々の方へ視線を向けた。

  突如自分たちを襲った狙撃手の正体を見極めるために。

  「うっ?」

  その狙撃手は、既に庭に立っていた。

  長く乱れた毛髪。樹木のような皮膚、逆三角形の頭部に薄い目と縦長の口。

  森から現れた不気味な容姿の怪物は、石でできたブーメラン状の刃を手にして、雨の中悠然と立っていた。

  姿を現したのは、既に自分たちは脅威ではないと判断したからだろうか。

  (まずい、志龍が・・・・・・綾子たちが・・・・・・)

  瀞は自分でなく、親友と子供たちのことを思った。

  このままでは、彼らが死んでしまうと、真っ先にそのことを考えた。

  (志龍、すまねえ。俺がちゃっと避けていれば)

  同時に、自分の油断に怒りを伴う後悔を抱いた。

  目の前の強敵を倒して安堵し、達成感を抱きつつ気を緩ませ、警戒心を解き不意打ちを食らうなど、とんでもない愚行だ。

  しかも、その代償を志龍が受けることになってしまった。自分と違い、一時も油断しなかった志龍が。

  自分が油断しなければ、自力で避けられたかもしれない。

  自力で避けられていたならば、志龍は負傷しなかったかもしれない。

  負傷していない志龍ならば、あいつに勝てたかもしれない。

  つまりは、自分のせいで、この場にいる皆が死ぬことになる。

  (俺のせいで・・・・・・俺が、しっかり、してなかったから!!)

  キメラと向かい合っていた時間は短かったが、死に際だからか、自分の愚行を十分に振り返ることが出来た。

  二度の実戦の中で何度も後悔が生まれたが、最後の後悔は、今までで最も強かった。

  その時、キメラが突如動いた。

  無駄なく速い動きで腕を振るう。

  その手から、ブーメランが放たれた。

  瀞は目を閉じた。

  直後、突風が瀞のすぐ横を通過した。

  前方からでなく、後ろからだ。

  (何?)

  「ゴアッ!!」

  瀞が眼を開けると同時に、雨音に負けない大音量で、キメラの断末魔が耳を震わせた。

  雨が眼に入り視界はぼやけていたが、瀞の目には確かに映っていた。

  太刀を切り上げた後の、大柄な虎獣人の背中が。

  「和虎隊長」

  最も見たかった和虎の姿を確認した瞬間、瀞は意識を失い、崩れ落ちた。

  もう、何も出来なかった。

  綾子の家から数キロ離れた民家にて。

  雨の中、空は一人戦い続けていた。

  「ふっ!」

  廻し蹴りでカマドウマを吹き飛ばす。カマドウマは民家の脇に流れる川へと落ちて動かなくなった。

  「はぁっ! ・・・・・・ふぅっ!」

  即座に呼吸を整え、周囲を見渡す。ヘルメットは既に脱いでいるため、息苦しさは微塵もない。

  まだ無数のカマドウマが空と民家を取り囲んでいた。動かず、不動でこちらを見て、長い触覚を揺らしている。いつ動くか分からない恐怖に、空は常に晒されながら戦っていた。

  その手には、愛用の拳銃P229が握られている。既にSG552の弾は尽き果てており、民家の中に置いていた。更にその中には、7人の町民が隠れている。逃げ出すわけには行けない状況だった。

  (もっと、弾、持ってきていれば・・・・・・)

  空は賢士の命令で老夫婦をBATの機動隊の元へ届けた後、弾薬を補給して再び戦場に戻った。綾子の家からあがるスモークに気付いてそちらに向かおうとしたが、再びキメラに襲われている町民を発見したため、保護して機動隊の元へ向かっていた。しかしカマドウマの群れに遭遇してしまい、付近の民家に町民を隠し単独で戦闘を続けていた。

  既にライフルの弾は尽き、ハンドガンのマガジンも残り一つだ。銃の中には10発だけ残っているため、残弾は22発のみ、ということになる。温存しつつ戦ったが、それでもこれだけしか残らなかった。

  体力も、残り少ない。持久力には自信があったが、長時間の戦闘に加え、孤立状態という精神的重圧が更にスタミナの消耗を速めている。

  空はカマドウマ達を見渡し、一時も油断せずに周囲に視線と注意を向けていた。無駄なスタミナを消費しないよう、向かってくるカマドウマを優先的に迎撃しようと、いつでも動けるよう心身の準備を整える。

  (あれ、来ない?)

  だが、急にカマドウマ達が攻めてこなくなった。道路や木の幹に立ち、こちらを見ているだけで何もしてこない。

  (どうして・・・・・・!!)

  気を緩ませることなくカマドウマ達を見渡していた空は、身体をびくりと震わせた。突如、強い悪寒を感じて。

  (何か、来る!?)

  ァァアアアアアアアア・・・・・・

  予感は的中し、聞いたことのない咆哮が耳に突き刺さった。

  空は弾かれたように、方向の発信源に視線と銃口を向けた。

  それは、道路の上を堂々と歩いてくる。馬の骨格を持つ巨体に、モスグリーンの体毛。鉄製の防具に、蠍のような長い尾。そして、女性のような顔立ち。アバドンだ。

  曲がり角から姿を現したアバドンは、500メートル以上も離れているが、強い存在感を放っていた。

  (新しいキメラ?多分、いえ、絶対に強い)

  予感であるが、空はアバドンが他のキメラより脅威であることを半ば確信していた。カマドウマ達に注意を払いつつも、最大の脅威であるアバドンから銃口を外さず、次の行動に警戒する。

  そして、アバドンはすぐ行動に移った。

  身をかがめ、空に向かって突進してきた。

  かなりの速度で、どんどん近づいてくる。

  (避けられない!)

  空の背後には、町民たちが隠れている民家がある。古い造りでさほど大きくないため、アバドンの体当たりで簡単に大破してしまうだろう。

  偶然か、それとも空が民家を守っていると気づいたからか。いずれにせよ、空は回避の選択を捨てた。

  (受けるなんて無理!銃で怯ませて、蹴るしかない!)

  自分が取るべき行動を決定した空は、拳銃の射程距離までアバドンを引き付けた。

  アバドンが見る見るうちに巨大化していく。遠近法だけでなく、突進の圧力も加わり何倍も大きく見えた。

  (今!)

  空は引き金を引いた。

  

  ドゴン!

  (え!?)

  弾は当たらなかった。

  アバドンは発砲と同時に、突進しつつ右前方へサイドステップし、銃弾を避けたのだ。

  空は再び狙いを定めて発砲したが、今度はアバドンが左前方へ跳んだためまたも当たらない。

  空は続けざまに撃ち続けたが、アバドンは巨体でありながら身軽にステップを繰り返し、銃弾を躱して向かってくる。

  拳銃のスライドが、後退して止まる。

  既に、空との距離は10メートルを切った。

  避けるか、体で止めるか。

  空が究極の決断を迫られたその時。

  「跳べ!!」

  ァアッ!!

  ドスッ!!

  3つの音が同時に聞こえた。

  空への命令、アバドンの苦痛の声、そしてアバドンの首の付け根に飛んできた小太刀の刃が食い込む音だ。

  空は右に跳んだ。

  空がいた場所を、アバドンが駆け抜ける。

  アバドンは、多少減速しつつも突進を止めない。

  このままでは、民家に突っ込む。

  空は着地と同時に振り返ってアバドンを止めようとした。

  だがその時、民家の前には、獣人が一人、アバドンを止めんと立ち塞がっていた。

  和虎と並ぶほどの巨体を誇り、雨で濡れながらも雄々しさを失わない鬣を持ち、長い槍を手にした、金茶色の体毛の獅子獣人だ。

  03部隊の獣人だと、空は即座に理解した。

  「どぉりゃああ!!!」

  03部隊隊長、獅子山氣雷は、渾身の力を込めて愛槍を振るった。

  薙ぎ払われた槍は、アバドンに直撃した。

  槍がしなり、獅子の筋肉が膨張する。

  獅子が耐えきれずに吹き飛ばされる。

  空はそう予想したが、吹き飛んだのはアバドンだった。

  アアアアア!!!

  獅子の槍の一振りにて吹き飛んだアバドンは、絶叫を上げつつ再び空の横を通り、今来た道を逆走し、地面をゴロゴロと転がった。

  「虫は任せるぞ、姉ちゃん!!」

  氣雷はアバドンに走り寄り、再び槍を強振した。

  ホームランバッターのように振るわれた槍を受け、アバドンは野球ボールのように10メートル以上も吹き飛んで林の中へ消えた。

  「すごい・・・・・・ぅわっ!」

  見とれていた空に、カマドウマが体当たりを打ち込んできた。

  空はバックステップで躱し、反撃の蹴りで吹き飛ばした。

  すると背後に2体、カマドウマが接近してきた。

  空は離れつつ手早くリロードした。最後のマガジンだ。

  そして、2体に銃口を向ける。すると。

  「でぃっ!」

  突如現れた獣人が、空により近い方のキメラに槍の一撃を打ち込んだ。

  その刺突は、正確にカマドウマの頭部を射貫いた。

  「っらぁ!」

  そのまま槍を、もう1体のキメラに向けて薙ぎ払う。

  カマドウマという重りがあるにもかかわらず、軽々と槍は振るわれ、2体のキメラを纏めて吹き飛ばした。

  「大丈夫か!?」

  槍を構えなおした獣人は、硬質な灰色の肌を持つ犀の獣人だ。獅子ほどではないが、身体は空よりも遥かに大きい。

  「ええ。家の中に人がいるの」

  「分かった」

  短く答えた犀と背中を合わせ、空は自分たちを取り囲むキメラを見渡した。

  「あのでっけえのは、ウチの隊長に任せろ」

  「うん」

  アバドンは脅威だったが、それを軽々と吹き飛ばした獅子もまた同等の戦闘力を誇ると確信し、空は素直に応じた。

  「俺、純心」

  「私は空」

  03部隊隊員、純心の自己紹介に応じた空は、救援により精神的な重圧が軽減されていくのを実感していた。

  気が緩んでいる訳ではない。緊張感を維持しつつも、判断力を鈍らせ体を強張らせるような枷が消えていく。

  (よかった、まだ戦える)

  純心が巨体であるという事もあり、頼もしさを覚えた空だったが。

  「あとでライン交換しようぜ」

  「え」

  純心のその一言で、頼もしさは一気に減少した。

  カマドウマが向かってくる。

  空は残弾に、残りのスタミナに、民家に隠れる町民達に気を配りながら、前に出た。

  ついさっきまでよりも、脚が軽くなった気がした。

  雨が降る森の中を、怪物が2体、疾走している。

  緑色の髪をなびかせ、荒い呼吸を繰り返しながら。

  2体とも、樹木のような皮膚には所々に銃創があり、どす黒い血がしたたり落ちている。横長の目が、恐怖に染まっているように見えた。

  前を走るキメラの右手には、木の槍が握られている。左手は、狙撃銃の一撃を受けたために武器を握れなくなっていた。

  もう片方は、両手に石のブーメランを握っている。縦長の口から、僅かに吐血していた。

  タン!!

  突如、前を走っていたキメラが銃声とともに倒れた。頭部の左側から鮮血を噴き出しながら、声を発することもなく。

  倒れるのと銃声は、ほぼ同時だった。

  射手が近いと判断したもう1体のキメラは、銃弾が飛来してきた方向を睨むと、それと逆の方向へ走り出した。ジグザグの軌道で、木々の合間を掛けていたのだが。

  タン!!

  銃声と共に、キメラの後頭部に銃弾が命中する。

  数秒前に死んだ相方と同様に、キメラは声もなく倒れて動かなくなった。

  そこから数百メートル離れた場所にて、賢士は茂みの中で愛用の狙撃銃である豊和M1500に次弾を装填し、ゆっくりと立ち上がった。

  敵の発見し、狙撃地点に付き、狙いを定め、発砲し、次弾を込める。その全てが堂に入っており、余計な動作や感情が排除されていた。

  賢士が新たなキメラを探そうと歩き出そうとしたとき、背後の茂みが揺れた。

  「ゴアアアア!!」

  たった今仕留めたものと同型のキメラが、ブーメランを手にして賢士に斬りかかってきた。

  背中を切り裂くはずの一振りだったが、それは虚しく空を切る。

  そして、狙撃銃を手放しつつナイフを抜いた賢士は、振り向きざまにそれを振り上げた。

  ブーメランを握りしめていた左手は手首から切り落とされ、地面に落下する。

  賢士はそのままナイフをキメラの首に突き立てようとした。

  だがキメラは、手首を切断された左腕でそれを受け止めた。

  更にその状態から右腕に力を込めて筋肉を硬める。

  賢士はナイフを抜こうとしたが、刀身はキメラの筋肉により固定されて離れない。

  キメラは即座に右腕を振るった。その手にも、ブーメランが握られている。

  だが、石の刃が届くよりも先に、賢士の左手がキメラの右手首を掴んだ。

  直後、賢士が左手に力を込める。

  「ゴアアアアアアア!!」

  猛禽類の握力は非常に強力で、一度掴んだ獲物を決して話すことはない。鷹である賢士は、当然その能力を身に着けている。

  キメラの手首に賢士の指は食い込み、肉を潰して骨に亀裂を入れた。

  即座に賢士はナイフを手放し、右手でキメラの首を掴み、喉仏を握り潰した。

  キメラは叫び声も上げられず、絶命し倒れた。

  賢士はナイフを抜いて鞘に納め、狙撃銃を拾うと、何事もなかったかのようにその場を後にして。

  次の獲物であるキメラを探して。

  小川沿いの道には、かつてバス停だった小屋がぽつんと建っていた。

  過疎化が進んだために既にこの場所にバスは通っていないが、取り壊されることなく残っている。

  その中に気を失ったままの風丸の亮太が寝かされていた。雨位なら、防ぐことが出来る。

  そして、バス停の前では03部隊副隊長である、灰色の体毛の猫獣人、京香が一人刀を手に佇んでいた。布巾の林から伸びた樹木が道路の上を覆っているため、体はほとんど雨に濡れていない。

  (はぁ。急に出なくなっちゃったなぁ)

  京香の周囲には、カマドウマとバールの死体が無数に転がっていた。

  どれも一太刀で仕留められており、刀傷は急所についている。

  (あんなのが出てきたら、流石に困るけど)

  京香が視線を向けた先、小川の岸には、アバドンの亡骸が倒れていた。

  体中が刀傷まみれで、モスグリーンの体毛はほとんどが地で赤く染まっている。その表情が苦痛で歪んでおり、見るも無残な死体である。

  「あっ」

  京香は空を見上げた。

  雨足が、弱まっていく。

  さらには、小雨が降り続きながらも僅かに日光が雲の切れ間から下界を照らし始めた。

  (狐の嫁入り、久しぶり)

  戦場にいながらも、京香は呑気にそんなことを考えていた。