灰色のむこうがわ 02

  たとえどんなに苦しく、逃げ出したくなったとしても、次の日というものはやって来るもので。どれだけ面倒臭かろうが、心臓が動き続ける以上、生命活動は否応がなくともやってしまうもので。

  後回しにしたツケはいつだって己に帰ってくるものだ。

  「めんどくせぇ」

  

  白いポリタンクを前にフリッドは独りごちる。面倒くさがりの彼にとって、たとえどんなに身体が[[rb:痒 > かゆ]]くとも、身体を洗うという行為は手間でしかない。

  さっぱりしたい欲求と横着したい精神を両立するのはどうあがいたところで出来やしないのだ。

  「使い切れ、たってよぉ。飲み水分は残しとかねえとだし、そーなると……一本あるかないか、か。

  洗うのに十分な量かっつーとなぁ」

  腕を組みぶつくさとやらない理由を挙げていく。最終的に狼にどやされやることになるというのに、この虎、全く成長しない。

  とはいえ彼は獣人。短いとはいえ、長らく洗っていなかった[[rb:軟毛 > なんもう]]は汗と皮脂でべたべただ。それをポリタンク一本でどうこうしろというのだ。お湯にするにも労力を費やす以上、ぼやきたくなるのも無理はないのだろう。

  「いっぺん死んだら洗ったコトになんねーかな」

  なるはずがない。

  彼の不死性、再生能力は死ぬギリギリまで発生しない。腕を切り落とした、足を骨折した程度では発動しない。全身を再生させる自殺方法であればもしくは達成されるだろう。しかし、それを実行できるほどの度胸とか勇気など彼は持ち合わせていない。

  このままずっと生きていたくはない。けれど苦痛を[[rb:伴 > ともな]]いながら死ぬのは嫌。フリッドはそういう男なのだ。

  彼自身、望んでこのような体になったわけではない。彼の個人意思とは関係なく、無理矢理このような体にさせられた。不死としての肉体が役に立ったことなど一度もない。むしろ疎ましく思っているくらいだ。

  「……っくそ、気分わりぃ」

  思い出したくないものを思い出してしまった。胸糞悪くなる記憶を、頭を振って何とか隅に追いやろうとする。けれどいったん思い出してしまったものはそう簡単に消し去れるはずもなく、じわりとしみのように残りつづける。

  「しゃーねぇなあ」

  フリッドは数十分の自己問答の末、ようやく体を洗う決意を決めたようだ。ポリタンクをめんどくさそうに引っ掴むと、ずるずると靴底を鳴らしながら屋上へと足を運ぶ。

  今朝起きた時も雨は降り続いていた。雨量にもよるが、狼が言うとおり水を浴びる代わりくらいにはなるのではないか。現在住んでいる建物には彼と自身しかいない、人目に付くという心配はまずないだろう。

  どこまでも変わり映えのない廊下を進み、階段にさしかかる。前日に飛び落ちてしまいそうになったせいか、ここを上り下りするのはどうしても少し戸惑ってしまう。しばらくの間は必要以上に気にして階段を踏みしめる事だろう。……フリッドのオツムは残念な使用の為、割とすぐ忘れてしまいそうだが。

  そういえばこの穴、下はどうなっていただろう。ふと興味を持ったフレッドはちらりと落ちそうになった穴を覗きこんだ。

  「うわぁ……」

  そして一瞬で後悔した。一階まで続くその穴の下は、[[rb:瓦礫 > がれき]]やら手すりの[[rb:残骸 > ざんがい]]が剣山のように積み上げられている。ここから落ちようものなら串刺しになること間違いなし、だ。狼が腕を引っ張ってくれなければ、自身が不死者であることがばれてしまうところだっただろう。

  助けてくれた恩人に[[rb:醜 > みにく]]い自分を、生き汚い自分を知られたくない。もし、もしも知られてしまったら──その時は、何も言わず狼の元を去らなければいけない。こんな生き物のなりそこないとしてではなく、あくまでもヒトとして見られていたい。

  背筋からぞわぞわとのぼってくる恐怖心から逃れるべく、目をそらし階段を上りだす。ただ上るだけ、足元に注意するだけでいい。今この場で地震が起こるとか、足を踏み外すとか余計なことは考えてはいけない。いつもやってることを当然のようにする、それだけだ。

  そうして黙々と上り続け、ようやく最後の段に足を踏み込む。

  「っだ~! やった、やったぞこんチクショー!」

  階段を上るという、ただ普通の行為にここまで喜ぶような奴もなかなかいないだろう。登山をしたわけでもないのに虎はもうくたくた、すべてやり遂げた感でいっぱいだ。

  しかし目的を忘れてはいけない。あくまで彼は身体を洗いに来た。こんなところで登頂気分を味わってハイ、おしまい。というわけにはいかない。

  「……うん、やろう。やってさっぱりしちまおう」

  気持ちを切り替え、自身を[[rb:鼓舞 > こぶ]]すると、いそいそと衣服とブーツを脱ぐ。冷や汗で変色したそれらを扉のそばに寄せ、ポリタンクを片手にドアノブへと手をかけた。

  「あ……。雨、落ち着いてきちまってる……」

  昨晩まで打ち付けるほどひどい雨が、今は静かな霧雨まで落ち着いていた。一歩外へと脚をだすと、コンクリートにひとつ[[rb:波紋 > はもん]]が作られる。そのまま進めと細かな水の粒子がフリッドの獣毛に降り注ぎ、地肌までしっとりと濡らしあげた。

  深く息を吸えば冷えた空気が肺を出迎えてくれる。しみついて離れなかったモヤモヤとした気持ちも、きれいさっぱり奪い去ってくれそうだ。が、さすがにこの雨量では、何日も放置されたしつこい毛の脂っぽさを拭い去るのは無理がある。

  「アテ、はずしちまったかぁ。いやどうしよ、もっとザーザーぶりだったらよかったんだけどなぁ……」

  もっと、洗い流せるくらい雨水を浴びるにはどうすればいいか。できればポリタンクの中身は最後にざばっと頭から被りたい。

  床をゴロゴロ転がってみるのはどうだろう。……いや、ヒトが見ていないとはいえ、そんなしょっぱいことをしたくはない。

  では毛を舐めるというのはどうだろう。こう、先祖よろしく毛づくろいをしてみるのは。……ヒトとしての尊厳とかプライドとかが『それはいけない』と[[rb:囁 > ささや]]いている気がする。そも自分自身とはいえ、身体を舐めるというのは……いかがだろう。届かない場所がある、という問題ではなく、こう……いかがだろうか。

  「あ゛ー! ぐっそ、都合よく隠されたチカラに目覚めるとかねえかなー! 天候を自在に操れたり出来ねえかなー!」

  ないものを天に願ったところで都合よく与えられるはずもない。たとえそれが不死者だったとしても同じこと。ヒトを辞めている、ヒトという基準から外れている存在だからといって、世の摂理がそう簡単に変えられるわけがない。

  「……ん? いやまて。なーんか思いつきそう」

  天候が変えられない。万物を捻じ曲げるような超能力など発現しない。霧雨から土砂降りに変えるなど天地がひっくり返ってもヒトの身ではできるはずがない。

  では、自身が土砂降りの状態に近づくというのはどうだろうか。具体的には、この霧雨の中、突風を受けている状態に近づくという事ができたなら。

  幸いフリッドが現在いる屋上はそれなりの広さがある。障害物らしいものは何もない。

  屋上の入り口から対面のフェンスまで走れば、それこそ突風を受けているのと同じ状況を再現できるのではないか。

  「やっべ、俺天才か? もしや降ってきた? 才能、降りてきちゃったかー?」

  思い立ったが吉日、すぐさまフリッドは身をかがめ両手を床に付ける。右足を前にだし、クラウチングスタートの体制を整えると、キッとフェンスを[[rb:睨 > にら]]みつけた。

  突風に近づけるならば全力で駆け抜けなければいけない。途中で手を抜くなど許されない、ただ目標を見据えてまっすぐとゆくのみだ。

  大丈夫、俺にならできる。フリッドは細く息を吐くと、フェンスへ向かって足を蹴り出した。

  一歩、バシャリと踏み鳴らすたび、湿気を帯びた風がフリッドに降りかかる。けれど彼は気にも留めず、さながら発射された弾丸のように駆け抜けていく。

  走る、はしる、はしる。息が切れそうだ。目を開けていられない。それでも走って、はしって、そして──

  ガシャリ、フェンスが鳴る。時間にしてわずか数十秒。何も考えずに走り切った。自身が出せるであろう全力を出し切った。

  フェンスを背に寄りかかり、肩で息をしながら呼吸を整える。一気に火照った身体が徐々に冷めていく中、フリッドはなんとも不思議な感覚に囚われていた。

  「はぁっ……はぁっ……ん、なんか、なんだろ。なんつーか、こう、なんだ」

  ただ走っただけだ。無心になって、ただひたすら目標へ向かって走りぬいた、ただそれだけ。

  ……なのに、なぜだろう。疲労感でいっぱいのはずなのに。なんでこう、なんでこんなにも、

  「なんか……すっっっっげーー楽しい!!」

  胸の奥をくすぐる高揚感。何かを成し遂げたという達成感。そして、なによりしがらみから解き放たれたかのような、自由をつかみ取ったかのような感覚。それらすべてがフリッドの心を満たしていた。

  自然と脚が動く。フェンスに沿うように、腕を広げ、ぐるぐると周る。

  「あっははは! すっげ! なにこれ楽しい、笑いとまんねー!」

  彼が走り去った跡が水の波紋となってアスファルト一面を揺さぶる。[[rb:幾何学 > きかがく]]模様のアートが生み出されては崩される。

  今この瞬間、彼はすべてから解き放たれていた。空は灰色で埋め尽くされていて、あたりは旧時代の繁栄の跡を、無情な滅びを訴えているのに。

  それでもなぜだか楽しい。屋上の、この廃墟群のたった一角で走り回ることが、どうしようもなく。

  フリッドの笑い声が遠くまでよく響く。とても気持ちがいい。なんだかこの世のすべてに祝福されている気分だ。身体を吹き抜けていく風も、足元で跳ねる水しぶきも、扉から眺めてくる狼でさえ。

  「はははは……は……う、うん?」

  フリッドが急に足を止めた。待ってくれ、なにかがおかしい。胸を埋め尽くす感情が一気に冷めてしまった。

  当初の目的どうり全身ぺったりと濡れている。やはり天才。何も問題はないはずだ。

  ……ではなぜ? 何かを見落としているのだろうか。

  自身の行動を軽く振り返ってみる。まず屋上まで無事にたどり着き服を脱いだ。身体を洗う以上何もおかしくない。次。

  全身を濡らすため屋上を駆けまわった。……なるほど、冷静を取り戻しつつある今なら礼節さに欠けていたとも取れる。しかしこの行為を誰かに見られていなければ何の問題もないはずだ。

  

  そう、誰も見ていなければ。

  「……」

  「あ、あは、アハハ、」

  暫しの熟考の末、彼はようやく気づく。凍てつく冷気を感じさせる視線が己に注がれていることを。ちょうど、扉の前の方に。

  静止したまま首だけをそちらへ向けようと試みる。この霧雨で[[rb:錆 > さ]]びついたのか、ギギギと[[rb:軋 > きし]]む音が聞こえてきそうだ。……フリッドはブリキの人形とかでは決してない。ただの悪あがき、気のせいだ。

  「は、ハハ……」

  「よう。ずいぶん楽しそうだな、[[rb:蛮族 > ばんぞく]]」

  彼が、狼が、いた。生気を感じさせない、氷点下を下回るんじゃないかというほどの突き刺すような白い目で、フリッドを見ていた。

  「あのよ、」

  「おう」

  フリッドの声がわずかに震える。もしかして、いや、もしかしなくともそうなんじゃないか。確証はない、そうじゃない可能性だってわずかながら残っている。

  聞き出さなくてはいけない。もしかしたらワンチャン、今来たばっかりかもしれないのだから。

  「い、何時からそこに?」

  「お前がすげえキレイなフォームで柵の方に走ってくトコから」

  つまりほぼノーカット、フル視聴。

  「よく、ここにいるって、分かった、な?」

  「お前気づいてねーのな」

  「何に!?」

  「……」

  「ノーコメント!?」

  ヒトにもよるが、一人でいると時折気が大きくなり、つい独り言がデカくなるもの。最近まで一人だった狼だからこそ、そこの辺りに理解がある。触れずにそっとしておくのが花、というもの。フリッドの独り言が下らなすぎて止める気が失せている、という理由もあるが。

  「あー、あのよ? その……なんつーか、出来心でさ。ほら……な?」

  「おう」

  「つーか居たなら声かけろよなー! なんか俺バカみてーじゃん。もー!」

  「そ れ で 場 を 流 せ る と で も ?」

  「えぇ……?」

  今この場においてフリッドは受刑者だ。彼に発言権はあれど話題の変更は許されない。絞首台の上で首縄が絞まるその瞬間を待つだけの囚人──無様なお前にとってこれほどいい扱いはないだろう? 心底小汚いものを[[rb:侮蔑 > ぶべつ]]するように狼は見下す。

  あくまでこれはたとえ話、実際に絞首台に立っているわけではない。けれどこの状況を例えるのに最も適しているだろう。フリッドに掛けられた羞恥心という縄を、狼は好きなタイミングで絞められるのだから。

  「あの……ユルシテ……?」

  「なにを」

  「いわせんの……?」

  「申し開きがあんなら、どうぞ」

  「真っ裸で走り回ってごめんなさい!!!」

  「うわ……いいやがった……」

  じゃあほかに何を求めた! 絶対これ言えって雰囲気だったろうが!

  すでに何もかも間違えているフリッドだが、出入り口を狼に[[rb:塞 > ふさ]]がれている手前、彼には余裕がない。ヒトというものは追い込まれるほど視野が狭くなるもの。逃げられないというのはそれだけ彼に選択肢をせばめさせている。

  かかなくていい恥をかいたフリッドはそのまま立っていられなくなり、その場にしゃがみこむ。なんだよ、いいじゃんか、チョットくらい気が大きくなっちまっても。俺だって色々とため込んでんだっての。

  床にバッテンを描きながらいじけている虎のなんと情けない事か。ダメ男と化したその背中に、狼がため息交じりに声をかけた。

  「まあ、お前が問題児なのは知ってたし」

  「うぐっ」

  「お前の裸体なんざ見飽きるくらい見たし」

  「え、何それどういう」

  「見るに堪えない租チンぶら下げて走り回っててもまあ──」

  「おいまてやゴラァ!!」

  フリッドが急に立ち直る。自身の状態? 関係ない。むしろ聞き捨てならない。

  俺の裸体を見飽きた? 見る価値がない? あげく、残念仕様だって?

  不死の身体であることは彼にとって最大の汚点。いくら恨んだって仕方ないくらいだ。しかし、しかしだ。己の男を馬鹿にされるのは別問題、[[rb:我慢 > がまん]]できるはずがない。

  「俺のどこが恥ずかしい身体だっっゴハぁ!?」

  「こっちくんなバカが!」

  襲い掛かってくるフリッド目掛け、狼が四角い物体を[[rb:投擲 > とうてき]]。見事、顔面へとクリーンヒット。怯んだスキに狼が扉を閉める。遅れてフリッドが扉をこじ開けんとドアノブへ手をかけた。

  「っぐ、この、馬鹿力が……!」

  「ふふふ、俺に力勝負を挑もうなんざ百年はえーんだよ……!」

  じりじりと、ぎりぎりと、扉が開かれようとする。流石力仕事を任されているだけはあって、狼では彼に叶わない。

  元々の肉食動物としての違いだろうか。純粋な腕力なら、狼より虎のほうに軍配があがるようだ。

  狼の細腕が悲鳴を上げている。このままでは扉が全開になるのも時間の問題。

  「さあ、諦めろ……! 諦めて、俺の身体を隅々までみるんだなァ……!」

  悪訳みたいなことを言っているが、彼は今真っ裸である。

  「俺の男らしいトコ、ちゃぁんとみろよな……?」

  「……きっしょ」

  「あ゛?」

  真っ裸である。

  「つか、よ? お前、わかってンの?」

  歯を食いしばり、扉の横の壁に足を掛け、踏ん張りながら狼が言う。この下らない小競り合いに終止符を打つために。変態に成り下がった虎にトドメを刺すために。

  「どんだけ立派なモン持ってようが、よぅ? 使いどころねーんじゃ、無能と大差ねーだろうが……っ!」

  バンッ! と勢いよく扉が閉まる。反動によろけ、狼が尻餅をついた。

  終わった。むしろ決まった。どうしようもない男に、どうしようもなさを自覚させた。

  「お、おれの、ハハ……」

  無様だなと、狼は思う。賭け値なく、やつはアタマ空っぽだと。

  「俺の使いどころさああぁぁぁん!!!」

  世界で一番情けない男の嘆きがこだまする。

  敗北者が[[rb:醜 > みにく]]い姿を[[rb:曝 > さら]]すなか、霧雨は静かに振り続けた。

  [newpage]

  「……しにてぇ」

  身体を洗い終え、いつもより身綺麗になったフリッドがトボトボと居住スペースに戻る。

  怒りで我を見失い、あれだけの所業をやってのけたのだ。身はさっぱりしたがココロの方はまったく。むしろ悪化した風でもある。

  「終わった……全部、おしまいだぁ……」

  たとえ不死であろうとも精神的な死はどうともならない。社会的ならなおさらだ。この壊滅したセカイにおいて社会的に死ねるとは、案外彼は器用な男なのかもしれない。

  しにたい。このまま恥で押し潰されてしんでしまいたい。もしくは恥で身体を燃やし尽くし、灰になってサラサラ吹き流されてしまいたい。

  この世の終わりに相応しい絶望の表情を浮かべる彼。そこに、ふわりといい香りが漂ってきた。

  ぐるると鳴る腹に、そういえば今日はまだ何も胃に入れていなかったと思い出す。ほんの少し前はおなかがすくことが忌々しかった。自身がどうしようもなく生きていることを実感させられたから。

  今では量が少ないとはいえ、満たせるようになった。生命活動をしなければいけないのは[[rb:癪 > しゃく]]だか、お腹の音がやむなら万々歳。

  ふらり、導かれるようにフリッドの足取りがそちらへと向かう。

  「……ん、きたのな」

  「……おう」

  向かった先では狼が鍋をかき回していた。珍しく火をつけ、調理をしているらしい。普段は保存食をかじるだけの味気ない食事。手のくわえられているものなどいつ振りだろうか。

  「料理なんてできたのなー」

  「一応文化人だからな。

  だ れ か と ち が っ て」

  「あ、はは……ハァ」

  狼の放つとげのある言葉にフリッドは乾いた笑いしか出せない。

  気まずい。非常に気まずい。先ほどのこともあってか、狼は虎の方を全く見向きしない。

  「……あー! そういやさ、コレ、あんがとな。こういうのあると思ってなくて」

  無理やり空気を換えようと、先ほどのやり取りで顔面にぶつけられた固形物──石鹸を取り出す。

  「あとタオルも。びしょびしょのまま降りてくるとこだったわ、へへ」

  「蛮族だしそれもアリだろ」

  「ごめんて……! 反省してっから……! お願いだから引きずんないで……!」

  ここで謝っておかなければ今後の生活に支障をきたしてしまう。ただでさえ信頼されていないのだ、これから先ずっとキワモノ扱いされるのは辛抱たまらない。

  すでに手遅れ感はある。しかし、フリッドは今までまともなヒト付き合いというものをしたことがないのだ。終わっているとはいえ、まだ挽回できると信じている。

  「できた」

  「へ?」

  「こい」

  狼が[[rb:顎 > あご]]で示す。有無を言わさぬ高圧ぶりに及び腰になりながらも、フリッドは言われたとうりに近づく。

  「食え」

  ずいと器を突き出された。きつね色の透き通ったスープに、申し訳程度の干し肉が入っている。

  これは、受け取ってもよいものなのだろうか。フリッドはしばらく器と狼を見比べる。が、毛布越しでもキツイ狼の眼光に耐えきれなくなり、恐々と器を受け取りスープに口を付けた。

  「……味がある」

  「なんだその感想」

  「だって、……ハイ。黙って食べさせていただきます」

  不味くはない。だけど美味しいかと言われれば、まったく。食べるのに無理はない、といった感じの料理だ。はっきりいってぱっとしない。

  ただここで文句を言おうものなら舌打ちが飛んでくるのは火を見るよりも明らか。同じように突き出されたパンと一緒にありがたく食べるしかない。

  「……あのさ、」

  「あ?」

  「スゲーのな、お前」

  「お前がダメなだけだろ」

  「もっと素直に[[rb:褒 > ほ]]めさせてくんねーかなあ」

  態度こそあれだが、色々として貰っている手前、せめて労いの言葉くらいはかけたい。それくらいしかフリッドには返せるものがない。施された恩を返せるほど、彼にはできるものがない。

  「俺結構おちょこちょいでさ。料理とか、まずどうすればできるのか分かんねーの」

  「そこに短絡思考も追加で」

  「なんでいちいち挟んでくんの? そうしないと会話さしてくんねーの?」

  「文化人なんで」

  「関係なくね……?」

  狼が自分の分のスープを喉を鳴らしながら飲み干す。お前の事情なぞ知った子とかとでも言いたげに。

  干渉禁止令を敷いているだけあって、虎の言うことに関心自体ないのだろう。言い換えるならマイペースな人柄とも。

  「けふっ……つか、俺はお前の無能エピソード永遠と聞きたかねーんだが」

  「だって、なんも……できねーし」

  「“できない”んじゃなく“やらなかった”ってほざいてるだけだろ。聞いててつまんねぇんだが」

  「だって、俺は!」

  「同じこと言うんだろ? “やれなかった、できなかった”ってよ」

  狼の言うことはかなり攻撃的で、聞いている側は嫌でも神経をすり減らす。しかしそれは、彼がいかに厳しい環境で過ごしてきたかの証明になる。ここまで生きてきて得た絶対の理論なのだ。

  だからこそ、重みがある。経験と努力の上での、彼の在り方。ちょっとやそっとじゃ崩せない。まして、自己否定の塊であるフリッドでは反論などできやしない。

  「ただあるものを貪るだけじゃ只の獣と変わんねぇ。誇りを持つ、なんて柄じゃねーけど、俺はそういう“死にかた”捨ててんの」

  「しにかた……」

  「お前がどうしたいか、どうなりたいかなぞ知らん。けど、望んだものの近づき方くらいなら考えられったろ」

  望んだもの。たどり着きたい場所。叶うことの無い永遠のセカイ。

  醜い、救いようもない虎の胸に幽かに灯る、そんななにかでも生き続ける理由のようななにか。

  (ソラの、向こう)

  きっときれいな場所だ。明るくて、楽しくて、きっとどんな[[rb:諍 > いさか]]いがあろうと[[rb:曇 > くも]]ることのない場所。誰もが赦される場所。

  ……不死者でも、居ていいところ。

  「無理だ、そんなの。ぜったいに」近づけるはずがない。そんな場所、あるはずないのだから。

  「そーいって歩みを止める奴には一生叶わねぇ。踏み出せない、歩み続ける覚悟のない奴にゃ立ち入る権利も資格もねーよ」

  そう言い切ると、狼はすくっと立ち上がる。

  「ちょ、ちょっとまて!」

  「んだよ」

  慌ててフリッドが止める。

  また、行ってしまう。こちらの困惑や願望などお構いなく、去っていこうとする。せめてもの感謝すら無駄なものになってしまう。

  それだけは、ダメだ。

  「俺に、できるかな」

  口から零れたのは不安だった。

  『笑っていればなんとかなる』──それだけでは、いけない。すべてが黒塗りに染まっていた日々に、温かい何かを灯してくれたあのヒトに届くためには、それでは足りない。

  首にかけたドッグタグを握りしめる。[[rb:目蓋 > まぶた]]の奥でいまだ笑いかけてくる人影を思い浮かべながら。

  「知るかバーカ」

  「なっ、そこは『やればできる』とか言ってくれたっていいじゃんか」

  「そも期待してない」

  「ぐはぁ!?」

  期待されていない。せっかくの共同生活なのに、居ても居なくても変わらない。どころか奇行に走るお荷物同然。

  狼のフリッドに対する評価などそんなところ。褒める点が一切見つからない。悪目立ちする部分があまりにも多すぎる。見捨てないだけ、まだギリギリ温情のようなものは垣間見えるが。

  「でも、ま」

  背を向けていた狼が振り返る。いつもどうり、毛布を目深にかぶっていて表情自体読み取りづらい。

  「俺に媚びたいってなら精々態度で示すこったな。なんかを学ぶ機会なんざ幾らでも巡ってくる。そんで役に立ってくれんなら文句は言わねーよ。俺、現物主義なんで」

  「お……おう! まかせとけ!」

  虎のやる気が出たところで、狼は調理器具の片付けに取り組もうとする。

  「あー! もーちっとまって!」

  「今度はなんだっつの」

  「これもまだ言ってなかったから。

  ……これから、よろしく。……な?」

  「……お前になんか教える気ねぇけど」

  「ええぇ……?」