自分の顔が良いことにコンプレックスを抱く狼のラブコメを本気出して書いてみた

  

  いつか……穏やかで心に余裕があるような、すてきな大人になりたいと思っていた。でも、歳はとっくに大人になっているはずなのに、思っていたのとは全然違っていて……

  大人になれば、寂しく思ったりすることなんてなくなると思っていたのに、まったくそんなことはなかった。でもそれはオレだけではなく、みんな同じなんだと思う。不安だし、寂しいけど、それを口にはせず、明るく笑い飛ばそうとしていた。

  それが、大人になる、ということなのかもしれない。

  でも――

  寂しくない大人なんていない。

  つまり、人生ってやつは、もともと寂しいものなのかもしれない。

  狼という種族に生まれたからには、昔から、容姿を褒められることが多かった。

  どういうわけだか、日本には狼の獣人がとても少ない。つまり少数派ということで――それはそのまま、オレたちが[[rb:弱 > 丶]][[rb:い > 丶]]ということでもある。

  オレたち狼は、多くの場合、犬の獣人に紛れて生きている。その方が、周囲との摩擦が圧倒的に少ない。数少ない種族の生き残りといったって、そのこと自体に価値があるわけではない。狼であることに誇りなど、持てたためしはない。そう生まれたというだけのことでしかない。

  ルックスを褒められるのも同じことだ。努力して獲得したものではない。継続や維持に苦心したこともない。そこを評価されるのは、それほど価値のあることではない。生まれ持ったもののことを、我々にはどうしようもない。

  もちろん、いろいろと便利なことはあった。「顔がいい」というだけで許されてしまうことは様々とあって、醜悪に生まれつくくらいであれば、オレはどんなにか得をして過ごせたのだろう。ただそれでも、なにを努力しても、失敗しても、ふた言めには顔の良さが付け加えられるのも、それはそれで辛いものだった。

  ――あのイケメンはこんなこともできるのか。

  ――かっこいい人は心まできれいなんだね。

  ――それだけ美形なら少々の失敗はなんとでもなるだろ?

  ――ちょっと顔がいいからって図に乗るなよ。

  みんながオレの顔を見ている。形のよいマズルや耳、毛並みの色。そこにはいろんな感想がくっついてくる。あらゆる表現で褒めそやされる。でも、本当の意味で「オレ」を見ているヤツなんて、どこにもいない。

  そんなもんだ。

  狼に生まれたからには顔の良さなど、もはや個性ではない。ほとんど種族特性だ。誰かがオレを好きになってくれたって、それはオレの行いや、性格や、主義・主張が秤を動かしたわけじゃない。なにをしようとしまいと、「あの美形が」という評価がつきまとう。

  オレは思う。見た目って、そんなに大事なものなんだろうか?

  重要、なのだろう。それを追い求めて、いろんなヤツが努力を尽くしているくらいだから。

  そういうものを……誰もが求めてやまないほどに価値あるものを……オレは、ただ狼であるというだけで手にしている。気まぐれのように。神の寵愛のように。

  そしてそのことに、オレはいまいち愛情を感じない。今日この時に限っては、恐怖すら覚えている。

  彼は――[[rb:オ > 丶]][[rb:レ > 丶]]を見てくれるだろうか? オレの顔なんて無視してくれるといい。これまでと、これからのオレのことを見てほしいと思う。

  待ちあわせ場所に指定した時計台の下には、[[rb:人気 > ひとけ]]はまばらだった。幸いなことに、オレと同世代の者もいなかった。彼も、すぐに見分けがつくだろう。

  約束の時間まで、残り十分ほど。待ち人は、まだ来ない。

  過去、オレはふたりの男を愛した。どちらもそれなりに、オレのことを気に入ってくれていたと思う。オレの顔ではなく。

  最初に言ってしまうと、そのふたりの男のどちらとも、オレはうまくいかなかった。どちらの場合も、相手に落ち度はなかったと思う。オレの自爆で終わってしまった男たちだ。

  それは、ちょっとしたトラウマでもある。でもオレはもう、失恋に悩まされるだけのガキではない。大人になった実感など欠片も持たないが、自分で自分を「若い」というのもためらわれる年齢にはなってしまっている。それなりに、気持ちの整理もついた。

  辛いことは辛いが、いくらか冷静に彼らのことを思い出せる。オレはある時期、ある期間において、彼らと親しくなれた。そのことを掛け値なし、愛おしく思う。そしてそれを継続できなかった自分の馬鹿さが、残念だとも思う。

  それでもあの恋を――そう、オレは彼らに恋をしていたのだ――、[[rb:最 > 丶]][[rb:後 > 丶]][[rb:の > 丶]][[rb:恋 > 丶]]にはしたくない。オレはまだ、「これでいい」と納得できるほどには恋を知らない。できるなら、また恋をしてみたい。誰かに胸をときめかせてみたい。そういう欲望が、いつも胸のどこかにある。

  だから、改めて向き合う必要があるということなのかもしれない。オレにとって最後の……あるいは、[[rb:最 > 丶]][[rb:後 > 丶]][[rb:か > 丶]][[rb:ら > 丶]][[rb:二 > 丶]][[rb:番 > 丶]][[rb:め > 丶]][[rb:の > 丶]][[rb:恋 > 丶]]について。

  ひとりめの男は、虎だった。歳は俺のひとつ下。オレは決して小柄な方ではないが、虎はオレよりも長身だった。なにかジムにでも通っていたらしく、大袈裟な筋肉がついているわけではなかったが、引き締まった美しい体をしていた。頑丈そうで、負けん気の強そうな、力強い顎が特徴的で、なかなかセクシーな男だった。

  虎とは大学時代に出会った。オレはテニスのサークルに所属していたのだが、虎は二年の四月になってから、新入生たちに紛れて入部してきた。とりたててテニスが好きなわけではなく、とにかく体を動かせるサークルを探していたと、虎は言った。テニスで大会を目指すつもりではないが、しかしうちの大学の野球部やサッカー部は、どこまで本気でやっているのか怪しくて、いくらなんでも張り合いがなさすぎた。

  入学式の日、部室棟に入部希望者を招いた新人コンパが開催された。ただ、このコンパ、会費が高い割には毎年たいして面白くない。先輩たちに紛れることで、未成年である一年が大人に隠れて酒を飲む。どちらかといえば、そういうことを楽しもうという向きが強かった。

  虎はけっこうビールを飲んでいたが、飲む量とは裏腹に、ひどくつまらなそうに見えた。話しかけられれば、そつなく対応する。笑い話やバカ話にも率先して参加する。でも、ふと場が静まる瞬間があると、虎はひどく退屈そうに視線をさまよわせるのだった。

  オレは虎に共感した。俺の方から寄っていって、耳打ちした。

  「つまんないだろ。無理せずに抜けてもいいぞ」

  虎はきょとんとオレを見た。それから言った。「えっと……先輩、ですかね?」

  「三年だよ」と、オレは答えた。「だいぶ飲みなれてそうだな?」

  虎は笑った。お愛想の笑みだ。でもなかなか気持ちのいい笑い方をする男だった。ニッと牙を見せるみたいに、男らしく笑う。

  「ビールとか酎ハイじゃ、なかなか酔えなくって」

  「酒に強いんだな」

  「本当はもっと飲みたいんスけど。先輩は? それ、その瓶、なんスか?」

  「スパークリングワイン」と答えた。それから言った。「ちゃんと飲みたいなら、どっか店、行くか?」

  [[rb:伸 > の]]るか反るか……六分四分くらいだろうと思っていた。しかし虎はオレが考えていたよりは乗り気だった。

  「いい店、あります?」

  「もちろん」

  オレは虎を連れて大学を出た。オレの好きな、雑居ビルの飲み屋まで案内した。全体に照明が暗めで、雰囲気が落ち着いている。酒の種類は多く、料理が旨い。なにより、高級感のある店構えとは裏腹、値段が抜群に安い。

  半個室のテーブル席で、オレは虎とゆっくり飲んだ。

  「学生が来るようなところじゃねッスね」と、焼酎のグラスを揺らしながら虎は言った。「先輩も、だいぶ飲みなれてそうだ」

  「親に付き合わされてな。そっちは?」

  「実は、ゲイバーで働いてて……」

  なんの気ない問いだったのだが、虎のよこしてきた答えに、オレはそれなりに驚いた。

  「ゲイなのか」

  へへ、と虎ははにかんだ。「まあ、そッスね」

  「ゲイの男と話すのは初めてだな」

  「引きます?」

  「別に」と、オレは言った。「そういうのは珍しいことじゃないだろ」

  本心だ。自分でも意外なくらい、目の前の男が同性愛者であることに、オレは嫌悪感を覚えなかった。

  「なるほど。それで、学生ノリの飲み方なんか退屈だったわけだな」

  「そんなにつまんなそうにしてました? おれ」

  「思いっきりな」オレはちょっと笑った。「バカと酔っ払いにはわからなかったんだろう」

  「あそこはバカの集まり?」

  「罰ゲームで氷結を三本、イッキさせられた」と、オレは言った。「おかげで今も氷結が飲めねえ」

  あそこの流儀は、人数が集まってしまえば潰れるまで、ひたすらに飲むことであった。なぜって、潰れないとずっとやかましいが、潰れてしまえば静かになるからであった。鳴き続ける郭公は、酒で殺すのが常であった。

  「なんつーか、飲み方がガキっぽくって……」

  「言うね」

  「ゲイバーの店員なんで」

  虎にとって、大人に囲まれて飲むのが日常なのだった。からあげをつまみながら、オレは言った。

  「おまえ、絶対トシ誤魔化して働いてただろ」

  「あ、バレた?」

  茶目っ気のある、悪びれない笑顔が広がる。

  「飲み方がエグすぎ。どう見ても二、三ヶ月前に飲み始めましたって感じじゃねえ。今も、それ、ウイスキーだろ」

  「そッスよ」

  「グビ、って聞こえたぞ。喉鳴らして飲むもんじゃねーから」

  虎はケラケラ笑う。虎を笑わせながら飲ませるのは、オレも楽しかった。

  その日、オレと虎はけっこういろんな話をしたと思う。でも酔いすぎて、内容なんかろくすっぽ覚えちゃいない。虎にしたところで、先輩との接待など一回経験すればじゅうぶんだろう。学生は多忙だ。この日、この場所で飲んだ記憶ごとき、歴史的遠近法の彼方へ瞬く間に消え去ってゆく。オレもそれでいいと思った。つまらないコンパに参列させられるより、どんなにか上等だ。

  それでもオレの記憶力はたいしたものだった。オレは虎と交わしたもっとも重要な会話を翌日になっても覚えていた。

  「おまえの働いてる店、オレでも行けるのか?」

  「えっ? 先輩、ノンケッスよね?」

  「のんけ?」と、オレはたずねた。

  「異性愛者のこと」と、虎は答えた。

  「その、ノンケは行っちゃいけない決まりになってるのか?」

  「そんなことはないけど……来たいんスか?」

  「一度、ゲイとしてのおまえを見てみたい」

  「変なの」と、虎は笑った。でもちゃんと店の名前をオレに教えてくれた。

  満足いくまでふたりで飲んで……結局、家に帰ってきたのは明け方ごろだった。うざったい服を脱いでベッドに入ると、オレはあっという間に寝た。

  昼に起きると、虎からのLINEが届いていた。酔いに任せて、いつの間にか連絡先なんか交換していたらしい。それで昨晩のことを思い出したオレが最初にやったのは、水を飲むことでも、シャワーを浴びることでもなく、パソコンを立ち上げて虎の働くゲイバーを検索することだった。

  ある時期、オレはTwitterに耽溺していたことがある。数十バイト程度の短文のやりとり。これは、ある種の簡易型メッセンジャーであり、短文の問いかけを世界中に発信して、その問いかけへ無作為に、ほぼ独り言のように発信を返す機構である。

  チャットのように、面倒くさい人間関係を構築しないのがよかった。誰でもたいてい三行ほどしか集中力が続かない。それ以上は読む気もない。読む能力もない。

  そんなもんだ。

  ――みんな、死んでるのか?

  ある日、オレは問いかけてみた。応答はない。こんな意味不明のつぶやきに、誰が反応するものか。

  オレの実感として、現実はそれほどつまらないというわけではない。が、ときどきふっと「みんな死ねばいいのに」と思うことがある。いや……正確には「ああ、死にたいな」かもしれない。いずれにしろ、形のない空想だ。それはもはや意味もベクトルもない思考で、どこの誰にも偏在しているものだと思う。

  ああ、死にたい。現実世界は緊張感のない幸福と不幸が充満していて、どちらもガス状に噴霧されている。

  意味もそうだ。あらゆる価値も……イデオロギーも……信仰も……祈りも……あるいは、愛だってそう。

  この世界では、誰かがつぶやけば言葉がたちまち相対化される。肯定と否定がほぼ同時期に行われる。ガス状に混ざりまくり、そのガスで窒息死する。

  そういうが、みんなの……オレの……生き方なのかもしれない。

  誰か、と思った。

  誰か応えてくれ。いや、応えなくてもいい。自分の感情がどこから湧いてきたのかも、あまりわからない。自分はそれなりに幸せに生きていて、幸せに人生している。

  だから――

  そういうことを思わないはずだ、というのは理性の儚い反抗に過ぎない。結局、意志はとくにベクトルもなく分布化されているのだから、偶然、オレがそういう意志を有していても仕方ない。

  神は意志をもたない。神は遍在する。つまりガス。

  ――ぼくは生きてるよ。

  神からの応え。

  オレは神へアクセスする。機能的には、ダイレクト・メッセージと呼ばれる一対一の会話方式を選択した。蜘蛛の糸を手繰る気分で。下には亡者どもがうようよいる。誰も寄せ付けたくない。神様の救いを得るのは、ひとりでいい。オレだけ救われれば、それでいい。

  ――おまえ、誰だ?

  ――こんな不完全なコミュニケーション・ツールで名前にどれほど意味があるの?

  オレは、確かにそのとおりだと思った。それはただの文字列に過ぎない。もっと精確にいえば、液晶が光っているに過ぎない。でもカーテンを閉め切った部屋の中で、その文字は天啓のように輝いて見えた。オレには、今まさに神が降臨したかのように感じたのだ。

  もっと会話をしたい。そう思った。

  急いでキーボードに打ち込む。返事が返ってこないことも考えられた。

  ――おもしろいことを言うんだね。ぼくもあなたのことが少し知りたくなった。ここに来てくれる?

  彼からURLの提示。

  チャットのようだった。チャットは少し緊張する。でもオレはすぐにそこへアクセスした。

  チャットには誰もいなかった。背景は、宇宙を思わせる黒い空間と光の瞬きがあった。オレは、そこがまるで荒涼とした砂漠であるようにも感じた。圧倒的な孤独。

  釣りか?

  いやな気分になったが、すぐに彼は現れた。

  ハンドルネームは「名無し」となっていた。

  「はじめまして、犬のひと」

  入室から二十秒ほどあって、オレの画面に白い文字が浮かんだ。とくに色をつけないあたりが、彼の飾らない性格を思わせた。

  「犬じゃない」と、オレはリアルでずっと隠し続けてきたことをあっさりと明かしてしまった。「Twitterのアイコンじゃわからないだろうけど、オレは狼なんだ」

  「そうなんだ。でもどっちもいいんだ。ネット上での種族なんて流動的で、簡単に偽れるから。そんな属性に意味はない。意味は置き換えの不可能性から導かれるものだから。逆にいえば、代替可能性が価値を下落させるともいえる」

  「ごめん。オレは頭が悪いからよくわからないが、おまえは」

  カツカツとキーボードを打って、途中で送信してしまった。

  そこでふと思う。オレは肝が冷えるのを感じた。

  「おまえおまえって、初対面の相手に失礼だったな」

  顔文字なんかもつけてみる。愛嬌を出すためだ。計算的だなと思いつつも、誰だってやっていることだし、たいした効果はないかもしれない。でも気休めにでもなればいいと思った。

  「名前も代替可能性があるから、価値はないよ。だから、あなたがぼくのことをどう呼ぼうと問題はない」

  「ありがとう」

  「感謝されることも、まだしてない」

  「そうだな」

  気まずい。というより、オレはひとりで舞いあがっていた。なにしろオレにとってはまさに神と知り合えたかのような感覚だったから、神の機嫌だけは損ねたくなかった。

  そこからの話は細切れ化されて、とりとめのない談笑に終始した。

  オレは、彼との会話をやめたくなかったので(正確にはパケットと呼ばれる断片化された情報通信である)、ともかく多くのことを打ち込んだ。彼はとくに大仰に応えることもなく、自然体で対応してくれていたように思う。それがまさに甘美な語らいのように感じられたのだ。

  無上の陶酔に、オレは下着の中で勃起していた。

  それでもよかった。どうせ先走り汁の気持ち悪さは伝達されることはない。伝達されない情報の価値はゼロに等しい。神にとっての移動とは、人間というユニット間の情報伝達に他ならない。よって、伝達されない情報は神にとっては無やデッド・スペースに等しい。

  「また、おまえと話せればいいと思う」

  「毎週土曜、この時間にいることにする。あなたがよければ、また会おうよ」

  「かならず」

  濡れた下着を脱ぎ、シャワーを浴びた。オレは小躍りしていた。鼻歌なんぞも唄っていた。

  どうせ誰も見ていないし、聴いていない。だから、その踊りも歌も、神の立ち場で見ると存在していないのと同じなのだ。

  「いらっしゃ……げえ!」

  よりによって、コスプレイベントの日だった。虎はフリフリ衣装のメイドさんに扮していたのだ。

  オレと虎はLINEでのやり取りを続けて、割と頻繁につるむようになっていた。付き合いの中で、虎がバーで働いている日時もあらかた知れた。気が向いたとき、暇で時間を持て余してしまったときにでも、ふらっと遊びにいってみようと思っていた。

  オレは、虎にもそれとわかるように思いきり露骨に観察してやった。

  「ふうん。そういうのもやるのか」

  「ちが……こ、これはイベントの衣装で!」

  大慌てする虎はフリル全開のスカートの裾を抑えている。反して、尻の側の裾が持ちあがっているのだが、そちらからはどう見えるのだろう?

  「下着も女物だったりするのか?」

  「は、はあ!?」

  「そんなにかわいい格好で、まさかトランクスってことはないんだろ?」

  口元がわななく。視線がふらつく。ヒゲや尻尾が忙しなく跳ねる。虎は目に見えてうろたえていた。ゲイであることを公開はしても、女装を見せびらかして客を飲ませる自分を見られることには、また違う羞恥心を覚えると見えた。

  念のために言っておくが、長身の虎がロリータ風の衣装を着たところで、虎特有の地柄の派手さもあいまって、まったくもって似合っていない。短すぎるスカートから覗く太腿や、ざっくり開いた背中の引き締まり具合によって、オレはこの日、虎がそこそこ体を鍛えていたことを知った。それもまた、きわめて倒錯的な女装といえた。

  カウンター席に通された。客入りはぼちぼちというところだった。その客のうちのほとんどが虎に熱っぽい目を向けていた。虎は客の相手をしながら、キッチン仕事のためにときどき背を向ける。すると背中や、虎特有の太くて長い尻尾はもちろん、角度によってはスカートの中身までも見えてしまいそうなことがあった。客たちはそのたびに口笛を吹いたり、「ブチ犯してえなあ」「ガン掘りしてえ」と本音か冗談かわからない恐ろしいことを言った。「バカ言ってんじゃねえよ、おっさん」と、虎は軽やかに応対していた。

  あるタイミングで、店中にダンス・ミュージックが流れた。照明もミラー・ボールを思わせるように、色とりどりに明滅しはじめる。虎は[[rb:ぴ > 丶]][[rb:ん > 丶]]と耳や尻尾を立てて、さほど広くもない店の中央に設置されたテーブルへ飛び乗り、ポール・ダンスじみた踊りを披露した。

  虎目当ての客は、グラス片手にこぞって席を移動する。ふつうに座って見あげるだけで、思いきりスカートの中身が覗けるようになっていた。破竹の勢いで客たちは盛りあがる。虎の方も、強いて下着を隠そうとはしていなかった。

  異様な空間だった。それでも、ゲイの男たちはこのようにして夜を満喫しているのだということを嫌悪する気持ちはなかった。学校では見られない、活き活きとした虎の姿が、そこにはあった。そのことがなにより眩しい。

  オレも好奇心はあった。ゲイの男たちを興奮させるような、スカートの中身がどんなだか。しかし過剰な偏見がないにしろ、オレはゲイでもない。わざわざあそこまで行って覗きにいくのは照れくさく思われた。

  そんなことを思っていたら、虎の顔がこちらに向いた。何の気なし、手を振ってみる。虎はウインクを飛ばしてきた。片足をポールに絡ませたかっこうのまま、太腿に手を沿えてスカートを捲りあげてゆく。

  男たちの歓声が爆発した。虎は舌なめずりまでしてみせた。見ているだけで、あんまりにも気恥ずかしい。「バカかテメーは!」、歓声紛れに叫び、オレは目を逸らした。それでも虎が穿いている下着の一部がうかがえた。フリルがたくさんついていた。美しくて細かい刺繍が見えた。白と黒とピンクの色をした、なかなか気合いの入ったパンティーらしかった。狭い面積に押し込まれた蒸れたペニスのにおいまで嗅ぎとれてしまいそうな気がして、たまらなかった。

  オレなんかには直視もできない姿だったが、なるほど虎のダンスは色っぽいもののように思えた。腰をくねらせ……ポールに絡みつきながら開脚し……スカートの捲れ方を加減する。そのようにゲイの男を魅了する虎は、どんなふうに男を抱くのだろう。いや、あるいは抱かれる側なのか。

  オレは、自分が虎を抱く光景を、かなり具体的に想像することができた。女装を恥ずかしがる虎をベッドへ引っ張ってゆき、はしたない姿をからかいながら、スカートに手を入れる。男からどんなふうに扱われたいのかを問いただす。虎のペニスはどんなだろう? オレに体を触れさせることを、虎は許すだろうか?

  場の空気のあてられたか――オレはズボンの中で勃起していた。虎に対して素直な欲情を抱いていたのだ。男が男を誘惑する……そのような世界観があることを、オレは無抵抗に理解させられた。

  その日から、オレは虎に恋をしていた……かもしれない。

  大学の先輩後輩として交流を深めながら、オレは虎のことを、恋愛可能な相手として了解していた。ふざけながらエロいスキンシップをしたことがあった。そういうじゃれあいを虎も楽しんでいた。虎の何気ない表情や眼差しの、ひとつひとつの輝き方を愛おしく思った。虎とLINEをやり取りする時間はかけがえないものだった。しかし、そうして相互理解を深めてゆくうちに思い知ったのは、オレは虎にはあまりにも相応しくないということだった。

  虎はどうやら、かなり裕福な家庭に生まれたようだ。どこかの国とのハーフで(ダブル、というタームを虎は使わなかった)、出身は海外らしい。幼いころから日本語を学ぶ学校に通い、大学入学の際にひとりで日本へ渡ってきた。身につけているものも、露骨ではないものの高価なものばかり。実家からは当然のように高級なブランデーやウイスキーが送られてきて、それをオレや友人たちに忌憚なく振る舞った。

  虎は――あらゆることに[[rb:そ > 丶]][[rb:つ > 丶]]がなかった。大学の授業など問題にもしていないような好成績を常にキープしていた。オレではどんなに頑張っても苦労したような設問も、虎はごく簡単に理解し、クリアしてのけていた(ように、少なくともオレには感じられた)。どんな相手とでも短い時間で仲を深めることができる虎は、どこへ行っても友人やファンが多かった。大学入学と同時にバンド・メンバー募集に惹かれてドラムを始め、そちらでも大勢のファンを獲得していた。大学のサークルでテニスを適度に楽しむ傍ら、ジムにも通って体を鍛えていた。それほどの多忙の中にありながら、下宿で生活する虎は家事全般を自分だけの手でこなしていた。学校に着てくるPaul Smithのシャツには、いつもおろしたてのようにアイロンがかけられていた。

  虎にはカリスマがあった。ゲイであることとは無関係に、虎のスター性は老若男女に通用するものだった。そういう虎をそばで見ているオレは、ひどく惨めだった。オレなどはただ、虎の生涯というシナリオに登場するエキストラのうちのひとりに過ぎない。オレにできることで、虎にできなことなどなにもない。人生でもっとも輝かしい時代を、力いっぱい謳歌している虎にとって、オレのような凡人は重たくぶらさがるだけの足枷にしかならない。

  それでも――今さら距離を置くには、オレは虎のことが好きになりすぎていた。別に、虎とゲイな関係になりたいと本気で思っていたわけじゃない。虎の近くにいて……格好いい男だな……素敵だな……そう思わせてくれるだけで、じゅうぶんに刺激的だった。ややもすると、性的な接触を拒もうとしない虎の危うい言動にも、オレはまんまと転がされていた。しかしそういうことを本気にはできない。虎には片想いの男がすでにいたのだ。

  ある日、虎が下宿している部屋でふたりで宅飲みになった。ブランデーなど飲み慣れないオレは、一足先に潰れてしまい、床で雑魚寝した。虎の下宿している部屋は、普段の身ぎれいな姿からは意外にも雑然としている。男の部屋らしい散らかりぶりが、かえって居心地がよかった。金持ちの息子でも、一人暮らしの部屋は特別きれいでもないのだ。それでも部屋干ししている洋服は、ひと目見てオレがふだん着ているものとはランクが違うものばかりとわかる。いっしょに酒を飲んでいても、いきなり「寿司が食いてえ」と出前をとったりする。

  オレが寝ているあいだ、虎はSkypeで男と話していた。オレはその話し声で目が覚めた。

  「何時だ?」と、オレは尋ねた。寝起きの声はひどくしゃがれていた。

  「三時過ぎだな」と、虎は言った。「寝ててもいいぞ」

  「いや……起きる」

  オレたちが宅飲みしていたことを知っているらしい通話相手の声が、パソコンのスピーカーから聞こえてきた。

  「目覚めのキスでもしてやれよ」

  オレは絶句してしまった。なにを言っているんだ、こいつは? というか、見ず知らずのオレに虎をけしかけようとするこいつは、いったいどこの誰だ?

  オレは画面に表示されている通話相手の、Skypeのアカウント名を見た。それは、虎との会話の中に日ごろ何度も登場している名前だった。すなわち、虎の想い人の男だ。

  「するわきゃねーだろ、バカだな」

  虎は笑っていた。

  当然、それらがふざけたやりとりであることなど、オレにも理解できていた。虎がオレとキスなんかするわけない。いくら虎がゲイだからって、男なら誰でもいいわけじゃない。虎には虎なりの物差しがあり、恋愛する相手をきちんと選んでいる。そんなことくらい、今まででも重々承知している。

  しかし……駄目だった。オレは存外、虎のひと言に傷ついていた。

  「ちょっと、コンビニ行ってくる」

  寝起きの不機嫌さを装って、オレは虎の部屋を出た。そうして歩きながら、あの居心地のいい、キッチン付きのワン・ルームのことを思った。風呂とトイレがユニット・バスなのがなんだが、いつだって気安く上がり込んできた部屋だ。オレはあの場所で、虎といっしょに短くない時間を過ごした。しかしもう、あそこはオレがいていい場所ではない。そもそも最初から、虎のそばにはオレ専用のスペースなどどこにもありはしなかった。あるのは共用スペースだけ。誰でも自由に利用できるその場所に、オレは頻繁に出入りしていただけに過ぎない。

  虎の声が、何事かを言って追いかけてきた気はした。オレは無視した。自分の家に帰るのだ。ほとんど競歩のような足取りで、オレは虎から少し速くでも遠ざかりたかった。

  「おい、先輩! 待てっつの!」

  虎は走って追ってきた。慌てて出てきたのだろう、サンダル履きで足音がペタペタうるさい。それでも虎は足が速かった。オレなど逃げる隙もなく追いつかれる。

  「どこ行くんだよ」と、虎は言った。虎はいつしか、オレにタメ口をきくようになっていた。オレはそのことが不快ではなかった。虎はオレを決して見下しはしない。先輩としてではなく、友としての敬意と尊重を向けている。でもそれは、ただ、それだけだ。

  「コンビニ」と、オレは返した。

  「嘘つけ。逆方向だろが。財布も置きっぱなしで」

  ポン、と長財布を頭に置かれる。

  あんな嘘で、この虎を一瞬たりとも騙し抜けるなど、オレも思いはしなかった。そして不服ながら、想い人とのSkypeよりもオレの方を優先して追いかけてきてくれたことも嬉しくはあった。

  しかし、そこではオレの女々しさばかりが浮き彫りになってしまっていた。恥ずかしい……みっともない……歳下に心配させて、サンダルで追いかけさせるオレは、誰の目からも、ひとつも魅力的な男じゃない。

  虎の顔さえ、まともに見られないのだ。本来のオレは。

  「ごめん」と、虎は言った。

  「なにがだよ」と、オレはそらっとぼけた。

  「その……なんだ。男同士の色こいた通話なんか、寝ながら聞きたくなかったよな。うるさくして、悪かったよ」

  ――そうじゃない。

  オレは、そんなことでおまえに怒ったりしないんだよ。おまえは、頭がいいくせに肝心なところでバカになる。

  「そんなんじゃねえよ」

  失望と落胆が声になる。

  [[rb:そ > 丶]][[rb:ん > 丶]][[rb:な > 丶]][[rb:ん > 丶]][[rb:じ > 丶]][[rb:ゃ > 丶]][[rb:な > 丶]][[rb:い > 丶]]。オレは頭の中で復唱する。だけどだったら、オレはなにに対してこれほどショックを受けているのかと言われたら、自分でもわからなかった。オレは虎に、どのような意味においても可能性など感じてはいなかった。そうした想いが血の通った感情になる前にライフラインを断ち、切り離しても血を流してしまわぬよう自制してきていた。

  なのに、とてつもなく胸が苦しい。息ができなくなりそうなほどに。

  泣き出したい気分だった。でも虎の前で、そんな真似はもっとも見せられない。

  「機嫌悪そうにしてごめん。今日は帰るわ」

  忘れ物があったら学校で届けてくれとかなんとか、通りいっぺんのことを言った。たったそれだけのことが、オレにはすでに必死だった。

  返事も待たず、オレは自宅まで逃げ帰った。虎ももう追いかけてはこなかった。追いかけてくるなと願いながら、そのくせオレは虎のことばかりを考えていた。

  そういえば――虎はオレの顔のことなんて、一度も褒めたことがなかったな。服選びとか、毛並みのカットとか、そういうことに感想を述べることはあったが、顔そのものを褒めはしなかった。

  なによりそれが嬉しかったのかもしれない。大学ではオレと虎がつるんでいると、イケメン二人組だ、みたいなことを言われたことはあった。イケメンと呼ばれることよりも、虎の相棒として自分が成立しているようで、オレはいくらかいい気になっていた。でも、違う。成立なんかしているわけがなかった。

  虎がオレの顔を褒めないのは、当然のことなのだ。本当に格好いい男から見て……さまざまな熱意とエネルギーに満ち溢れる虎から見て……種族に甘やかされたオレの顔の良さなど、取り立てて持て囃すほどのものではない。

  虎は美形だったし、頭も切れた。オレは虎に対して何度も、「こいつは本当に天才なんだな」となく感じてきた。しかし虎はそれ以上に、持って生まれた「才能」とでも呼ぶべきものを、上手くコントロールしていた。有効に活用してみせた。腐らすことなく努力していた。虎は真に魅力ある男であれるよう、研鑽を絶やさない。

  でもオレにはなにもない。努力して獲得したと胸を張れるものなど、たったのひとつもありはしない。やりたいことや将来のビジョンなど、オレの中からは出てこない。就職の足掛かりになればと大学へ進学し、親のすねをかじりながら、モラトリアムをただのモラトリアムとして消費しているだけだ。そんなどこにでもいる、無気力な男の顔など、見てくれが少々整っていようが取り立てて格好いいものであるわけがないのだ。少なくとも、虎に通用するほどの魅力を放ってはいなかったのだろう。

  結局のところ、オレは最後まで虎に恋をしていたのかどうか、自分でもよく理解できなかった。羨望の矛先が、たまたまゲイの男だったというだけに過ぎないのだろうか? もしあの時の気持ちが恋だとするならば、オレの恋は告白さえしないままに終わった。あれ以上、望むべくもない愛情を虎に求め続けることは、オレには耐えられはしなかった。虎のそばにいることが苦しかった。

  それでもあれは、間違いなく「愛」ではあったと思う。あれほど誰かを愛おしく感じたのは、生まれてはじめてのことだったから。オレは今でも、虎のことを尊敬しているし、あのころの思い出を大切に思っている。

  忘れ物などなかった。オレの持ち物など、財布とスマホくらいのものだった。サークルも辞めた。どうせ名ばかり部員だったのだ。そのうえLINEをブロックしてしまえば、オレは虎と出会うまでの日常をそっくり取り戻すことができた。

  天才は、才能に仕える生き方をするべきだ。凡人には眩しすぎる。少なくとも、オレは虎と離れたことで平穏を得た。それもまた女々しいやり方には違いないが……

  そんなもんだ。[[rb:そ > 丶]][[rb:ん > 丶]][[rb:な > 丶]][[rb:も > 丶]][[rb:ん > 丶]]がオレの身軽さの証明だった。

  オレは虎のステージから退場することを選択した。

  

  そもそも、彼のことがどうして神のように感じてしまうのか、自分なりに考えてみたことがある。

  インターネットにおいては、パソコンやスマホを使ってやりとりをするわけだが、当然のことながら相手と話すときもキーボードによる打ち込みと、液晶に表示される文字列が用いられる。もちろんSkypeやDiscordやZoomなど、音声による通信もある。

  が、相手のことが見えないのだから、相手が神だろうと悪魔だろうと、どうでもいいのだ。この場合、神と神以外の存在すべては等価知的だ。問題は、インターネットという神の神経を用いた通信を行うことだ。そこでは「神」は召喚される。まるで無限を内包する有限の図書館のように。インターネットは無限を含む図書館のエミュレーターであり、無窮の宇宙であり、神の御座なのだから。

  「バベルの図書館のことかな?」と、彼はメッセージを返してくる。「あなたの話のモチーフは」

  「そのとおりだ」

  彼は十八歳だと自称していた。高校三年生。年齢などインターネットでは何の意味もない属性だが、それが本当だとすると伸びしろのデカそうな高校生もいたものだと思った。

  彼とのチャットにおいて、オレは天にも舞いあがってしまいそうな気分だった。なにしろ神がオレの話を認めてくれている。なにもかもが空虚なオレにとって、これほど嬉しいことはなかった。

  だのに、オレからは絶対にしないような書き込みがテンポよく返ってきたものだから、仰天した。

  「ぼくは、あなたに生で会いたい」

  「リアルでってことか?」と、オレはたずねた。

  「迷惑でなければ」と、彼は返してくる。

  「別に迷惑じゃねえよ。ただおまえ、高校生なんだろう。少し警戒心がなさすぎる。オレがむさくるしい五十代のおっさんだったらどうする気なんだよ?」

  「それでもぼくはかまわないから」

  「失望したって知らねえぞ。それでもいいなら会うか?」

  「ぜひ」

  書き込みながら、オレは自分の胸中に言い知れぬ不安感も同時に募ってゆくのを感じた。

  彼に会うこと自体は、きっとどこかでオレも望んでいたことではある。しかし、神とネットを介することなく通信してしまうと、神性が失われてしまうのではないかという恐怖があった。

  彼は……オレを受け入れてくれるだろうか? 狼として恵まれたオレの顔を見てから、評価や関心を変えてしまわないだろうか?

  オレはただオレであるだけなのに……顔を見た途端、ひとびとはありとあらゆる印象をオレに抱く。「これほどの美形ならきっと素晴らしい人物のはずだ」とか……「さぞ恋愛経験が豊富でエスコートしてくれるだろう」とか……

  そのうえ、オレは自分が犬ではなく、狼であることを明かしてしまっている。日本に数少ない狼の一族。顔に加えて、珍しい血筋ともなれば色眼鏡は避けられない。オレなど、決して褒められたヤツじゃない。意志らしい意志がなく、これという夢も目標ももたない。オレは上昇も下降も目指しはしない。場当たりでじゅうぶん。基本的には怠惰を望む。

  そうした怠惰さすらも、顔を理由に許されてしまう節まであるのだ。なにをしようとすまいと、正当に評価されないのであれば真面目に生きるのも馬鹿らしい。

  彼が、本当に「オレ」を見てくれるのかどうかという恐怖。

  しかし――神の不在に耐えられない。オレは神の神性よりも神の肉体を欲した。それは信仰の堕落だと気付いてもいたが、もはや肉への衝動を抑えることはできなかった。

  「触れ合いたい……」

  オレは薄暗い部屋の中で、自分の体をかき抱いた。

  ふたりめの男は、鷲だった。歳は……よく知らない。フルネームさえ聞いたことがなかったように思う。なんとなれば、オレたちはリアルでは一度しか会ったことがなかった。

  大学を卒業し、社会人になったオレがまず会社で教えられたのが、Slackの使い方だった。Slackというのはビジネス用メッセージング・アプリである。社員との繋がりをデスク内で完結させ、連携性を高める。必要資料のファイルや先方への連絡先、果てはWi-FiのSSIDなどもこのアプリ内で共有される。業務上の重要なやり取りはすべてこのSlack内でなされるため、新入社員にはまずアプリの使用方法を覚えさせるのだ。

  ひと通りのレクチャーを受けた段になり、すべてのセクションが集められたグループに、テキストで自己紹介することを求められた。簡単な挨拶。趣味や休日の過ごし方。当たり障りのないメッセージが送信されると、それを見た先輩たちから絵文字によるリアクションが殺到した。驚くが、社員にとっては恒例行事というわけらしかった。

  そんななか、グループを通さないオレ個人へのチャットにメッセージが届いた。開いてみるとそれは、オレがアプリ内のアイコンに使っていたアーティストのジャケット画像への言及だった。

  「きみもファンなのかな?」

  オレはその人の名前と、オフィスのホワイト・ボードに書かれた座席表を確認した。同じ名前は見つからない。

  「すみません」と、オレもメッセージに返信する。「違うセクションの方ですか?」

  「うん。よその支社だよ」

  Slackでは東京、大阪、名古屋など、オフィスごとのグループが設置されていた。鷲は同じ企業の社員だが、勤務地もセクションも違うという、言ってしまえば赤の他人も同然の同僚なのだった。

  「うちは昼休みが十四時からでね。そっちは十三時からだったかな」

  「はい。そういうふうに聞いています」

  「普段は話す機会もないかもしれないな」

  互いによろしくと挨拶を交わし合い、件のアーティストについて少し談笑した。けっしてメジャーとは言えないバンドの話題を、思わぬところで共有できたことが嬉しい。向こうも同じことを言っていた。会社という戦場で巡り合った同志よ。まさしく貴重な出会いだった。

  一応、勤務中のことなので怒られないか、ヒヤヒヤした。しかしその日は新人に与えられた業務もなく、とりあえずSlackを通して業務内容を見学するということになっていた。ある程度、Slackでのコミュニケーションも自由にさせてもらえた。

  「私はそろそろ戻るよ。お疲れ様」

  「お疲れ様です」

  オレのメッセージにピース・サインのリアクションが付き、十五時になる十分前を境に鷲からの返信は途絶えた。昼休みの時間を使って、新人と話をするなんて、気さくなひともいるものだと気が軽くなる。初の出社日ということもあり、やはり気持ちは強張っていた。

  定時まで業務に関する講習を受けて過ごした。ほとんどのひとは一斉に退社するようだったけれど、終礼後もちらほらとデスクに戻るひともいた。

  帰り際、もう一度、鷲へメッセージを送った。「昼間はありがとうございました。お先に失礼します」と、これもまた端的に済ませる。

  そして翌日。出勤してタイム・カードを押し、自分のデスクでパソコンを立ち上げる。社員は出勤後、最初にSlackへログインする。オレも教わったとおり、全体への周知や進捗状況など、ちんぷんかんぷんながらに目を通して朝礼までの時間を過ごすのだが、不意に鷲からのメッセージがポップアップで通知される。

  「おはよう。今日から本格的に仕事だね。頑張って」

  気づかなかったが、昨日の最後のオレのメッセージにも「お疲れ」のスタンプでリアクションが付いていた。

  そんなような次第で、オレと鷲の交流は細やかに続いた。十三時の昼休憩にオレがレスを残し、だいたい十四時を過ぎたころにレスが付く。最初こそ、新人のどうでもいい話に付き合わせてしまうのが申し訳なかったのだが、鷲の方からあれこれと話題を振ってくるのだから、向こうも楽しんでいるのだろう。

  それから一ヶ月、二ヵ月と瞬く間に時間は過ぎた。教えられたことをメモに取り、フローどおりにやっているつもりが、さっぱりわからないことが後から後から出てくる。でもこういうとき、Slackはいい。オレについてくれた先輩にチャットで質問すれば、向こうは余裕のあるタイミングで応えてくれる。そのタイム・ラグの間は、自分でなんとかできないものかと考える時間ももらえる。慌てて書きなぐった汚いメモとにらめっこしながら、オレはほとんどすべてのフローについて、「すみません、すみません」という気持ちになりながら、質問を繰り返した。先輩は適宜、レスで指示をくれる。必要があればオレのデスクまで来てくれた。

  「何度もすみません。ありがとうございます」

  「ううん。俺も最初はそうだったからねえ」

  むしろ、進捗状況が順調なうちに訊いておいてくれと言われた。オレたちのような新人にはしばらく関係のないことだが、繁忙期はまさに戦争だという。主にSlack外での、先方との連携が求められる時期が、とてつもなく微妙なのだとか。

  「俺なんかもっと物覚えが悪かったよ。メモなんかまめなモン書きゃしなかったしな。先輩に何度、尻ぬぐいさせたことか」

  気を遣って言ってくれたのだろう。オレはお愛想の笑みで、曖昧に相槌を打つしかない。

  それでも、三ヶ月めにもなればいい加減に勝手も掴める。口座に初任給が振り込まれていることに感動したり……「税金ってこんなに取られるのかよ」と憤懣を味わったり……五月のゴールデンウィークで溜まってしまった負債を切り崩すのにオフィス全体で躍起になったり……そんなことをしているうちに、あっという間に六月だった。二ヵ月前はまだコートが必要だったのに、オフィスには冷房がかかりはじめている。

  鷲との連絡は、少しずつまばらになっていった。先輩から聞いた話だが、こちらが忙しいということは、向こうはさらに忙しいはずだということだった。とはいえ、詳細はわからない。業務の性質上、別のセクションの話はSlack上であってでさえ漏洩防止を徹底する。直接的なプロジェクト名なども口には決して出さない。すべてのハードに監視用のソフトが入っている。オフィス外へのデータの持ち出しには許可が必要だし、その際、ソフトをインストールするパソコンを提出して、ファイル交換ソフトが入っていないことを確認してもらう。その後も、社員は数ヵ月に一度はパスワードを変更していることを上司に報告する義務がある。けっこう厳密な情報管理だ。我々の会社はそういう場所なのだった。

  向こうの状況はわからない。しつこくメッセージを送るのも、催促するみたいでいやらしい。違うオフィスのひとのことだし、このままなんとなくフェード・アウトかな……

  そんなことを思っていたら、ある日の朝礼の前にレスが来た。実に六週間ぶりの連絡だった。

  「久しぶり。実は八月のフェスのチケットが当たったんだけど、友達にドタキャンされちゃってね。もしよかったらどうかな?」

  例のバンドの、前から二列目のチケットを確保したのだという。オレは思わずモニター前で声なき雄たけびをあげた。

  「ぜひ! チケット代は?」

  「そんなのいらない。ホテルももう支払いは済ませてあるしね」

  細かい連絡はLINEでしようと、QRコードが送られてきて、以降の連絡はSlackに頼る必要もなくなった。その日からしばらく、オレはフェスが待ち切れずに狂おしい気持ちのまま過ごした。大学生になってからアルバイトを始め、自分の小遣いを稼ぐようになってからはライブやコンサートにも足を伸ばしはじめたのだが、就職してからは仕事を覚えることに手いっぱいで、チケットの抽選のことなど頭から抜け落ちていた。それがまたついていない。今回は目当てのバンドがはじめて出演するフェスだったのだから、オレは愕然としてしまっていたところだった。鷲からの誘いは願ってもないものだ。

  LINEを交換したことで、オレと鷲のやり取りが再開された。先輩は、オレが業務内容をメモに取ることをまめだと言ったが、それこそ鷲はまめに返信をくれるもので、定時ラッシュの満員電車を降りてスマホを確認したくらいのタイミングで、だいたい新着の通知がある。三十分や一時間、残業になることもあるにはあるが、オレからのLINEが既読で放置されたことは一度もない。

  「最近、やけに嬉しそうにスマホ見てるよね?」

  昼休み、同期の女の子にそう言われてしまった。同期とはいえ別セクションなのだが、入社以来、サロンでいっしょに弁当を食っている。

  「趣味の友達ができたんだよ」

  「あー、オンナね」

  えっ? と思った。「いや、男だよ……たぶん」

  「たぶん?」

  「会ったことないんだよ」オレたちの経緯をひと通り彼女に説明し、「てっきり男だと思ってたから、性別なんかわざわざ訊かなかったな」

  「変なの」と、彼女は笑った。嫌味のない、自然な笑い方だった。「そんなことある?」

  頭の中が軋んだ。「変なの」と、彼女が笑うのとよく似た調子で、虎に言われたことを、不意に思い出させられた。

  あのころのことを……虎に対して抱いていた劣等感と、失恋の悲しみを、オレはまだ過去にできていない。片付けられず、とりあえず箱にしまい込んだはいいものの、ほったらかしている。荷ほどきして整理する作業には、痛みが伴うことがわかっているから。

  本当は、オレは虎と離れたくなどなかった。だけどそばにいるのも辛いから……虎に相応しい自分になろうという上昇志向すらない……無気力な自分が恥ずかしくてたまらないから……はっきりと振られたわけでもなく、勝手にオレから離れた。そんなザマで、気持ちに決着などつけようがない。

  それでも、痛かろうが傷だろうが、少しは落ち着いた。思い出も感情もカチコチに冷凍して、見ないふりを続けている限りは。

  「大学の後輩にも言われたよ。変なの、って。オレはどっか、みんなとは根本的にズレてるのかも」

  「ズレてるって、どんなふうに?」と、彼女は言った。

  「たとえば、関係性において」と、オレは意外と普通に答えられた。

  彼女が訝し気にオレを見る。それは、このような胡乱な表現をされた者の、きわめて真っ当な反応といえた。

  どういう意味でか?

  そうだな。

  たとえば、インターネットは神を内在している……というくらいの意味で。

  想像するに、「神=ネット」に意志はない。

  意志がないというのは不正確だろうか。あらゆる意志があるから、分布的にしか意志を表せないという意味で、意志がないというわけだ。

  神は分裂症に罹患しているから、基本的にはあらゆる意志を内包している。しかし、その意志には方向性がない。現代におけるインターネットは、疑似的に神を内在している。それはあたかもデミウルゴスのような偽神ではあるのだろうが、偽物であっても神は神。そして神の部品であるのは我々なのだから、そこにある神は偽物であっても正当性はある。

  我々との関係性において、そこにおわします神は、我々にとってまぎれもない唯一の神様なのだ。

  とはいえ、神は管上の生物組織に過ぎない。イメージとしてわかりやすいのは、心臓のような感じ。悪意も善意も、いっしょくたに配送する組織体だ。

  悪意については、説明することが容易だ。たとえば――SNSの炎上、5chの祭りなどを挙げることができる。

  それは、一応の原因はあるのだろう。誰かが狂態を見せる。これがはじめの原因だと思えなくもない。ブログの炎上にしても、誰かが社会的に適当ではない行為をすることが端緒となることが多い。

  オレにはその誰かが、ある種のシャーマンのような役割を果たしているようにも思える。儀式と召喚。狂態を演じるのは神を召喚するためだ。

  誰が得をするのかと言われれば、誰も得などしないことは明らかだ。それでもそれは確率的に発生する。ゼロになることはない。

  ここには、理由がない悪意がある。

  純粋な悪。根源的な悪意。凝集された想いは奔流そのものであり、その奔流を個人が止めることはおよそ不可能だ。神様に勝てないのはまあ、当然といえば当然。そこに在る神は、もはやほとんど悪魔なのだが、悪魔もまた神様だから当然。

  いわゆる、「信仰」について。現代社会における信仰は金を集める道具に過ぎないわけだが、観念上の理想的な意味での「信仰」とは、神への愛、アガペー。

  一応、オレも他者を愛した経験があるから理解が可能だ。

  しかし、想像的な領域がすぐさま世界と同視されてしまうと、途端に薄っぺらく感じてしまうものだ。セカイ系、とでもいえばいいだろうか。

  セカイの中心で愛を叫んだところで、それはただの獣の咆哮に過ぎない。そうすると動物的な反応をする畜群は、それで「感動した」とか「泣いた」とか、あるいはもう少し面の皮が厚いヤツなら「こんなに私が泣ける話だから、素晴らしいに違いない」とか言うわけだ。素直に考えれば、それは身体的な反応をそのまま発露しているに過ぎず、言ってみれば「推ししか勝たん」とYouTubeにコメントするのと変わらない。

  そういう遊びが必要なことは、否定しない。物語においても、動物的な要因を削いでゆくと、どんどん公文書化されてゆき、面白みが薄れる。そんな面白みのない本が、そうたくさん読まれるとも思わない。

  だから、読まれることを企図している本は、かならず動物的にならざるをえない部分もある――といえる。

  神経が焼き切れそうな気持ちになったのは、久しぶりだった。鷲とのフェス以来かもしれない。オレは今、久しく生きる目的ができたと感じていた。神は遍在するゆえに意志がなく、意志がないゆえに意味がなく、意味がないゆえに、オレもそうだろうというのが、オレの信仰だった。

  しかし――今は違う。オレには意味があると、胸を張って応えることができそうだ。

  誰に?

  もちろん、彼に。オレの神様にだ。

  スマホを見る。待ち合わせの時間まで、あと五分と十秒ほど。

  神様は、ここに在る。ほかにはいない。オレと彼のほかには誰もいない。有限の図書館に存在するのは、神様ひとりだけ。

  パソコンの前に座っているのがオレひとりであったように……ほかには誰もいないのだ。

  文字を読む行為は、脳内で意味性を再構築する行為であり、創造的な行為だ。椅子に座っているのは大方ひとりであり、読むという行為はネットにしろ紙媒体にしろ、だいたい孤独な行為なのだ。

  そうであるならば、神様はひとりというのもあながち嘘ではない。

  液晶の前に座っている存在は、かならずこの「孤独」を認識するわけだ。それこそがインターネットにおける神を召喚するという行為。すなわち、自分が決して他者と出会うことはないのだという、ありがちな認識。

  体が浮きあがってしまいそうなほど、ソワソワする。風船にでもなったかのように気持ちが不安定だ。オレはもう何十回、スマホの時計を見ただろう?

  こんなふうに……誰かと会うために出かけたのは久しぶりだった。

  本当は今すぐここから逃げ出したい。それでもなお踏みとどまっているのは、ひとえに神をひと目見たいという欲求のため。

  オレのつぶやきに応えてくれたとき、オレは彼を、神のようだと感じた。あの日と同じように、また彼はオレを見つけてくれるだろうか?

  ネットの効用は、今のオレには効果てきめんが過ぎたのかもしれない。ネットは神様になれる装置だ。殺したいときは通信を遮断すればいい。セックスしたければ繋がればいい。そういう両義的な装置は、インターネットだけだ。

  これは、独我論じみた領域の見解だろうか。オレは独我論に溺れるほど堕落してしまっているのだろうか?

  怖い。

  本当は、他者は誰だって怖い。自分ではない者は、自分にとっては異物だから、怖いのは当然だ。

  オレは通信機能がみんなから隔絶しているのかもしれない。もはや住んでいる世界が違うとしか思えないときがある。狼であることを隠しているのもそう。気持ちに隔たりがあることを、顔の良さで誤魔化しているのもそう。オレはみんなが信じるようなオレではなくて……だから重なりあってはいても彼我の境界は明白で、きっとわかりあえることはない。

  犬と狼。その代替可能性が、オレの主体を無数に切り刻む。入れ替え可能。もしかしたら、オレは二重人格なんじゃないか? オレと彼とのやり取りはただの自作自演。神は誰とも出会うことはないのかもしれない。神とはやはり、一義的にはクリエイターなのだから!

  でも――

  オレは、なんというか……もう少しだけ、信じたいのだ。他者と繋がれる感覚を。それさえあれば、オレにはネット神様なんて必要ないって思えるかもしれない。

  あれから、十秒が過ぎた。

  神様が降臨するまで、あと五分――

  鷲とのフェスは、楽しかった。

  当然というべきだろうか、鷲は男だった。当日はポロシャツにチノパンツ。足は動きやすそうなサンダル履きで、鋭いかぎ爪を剥き出しにしていた。

  自分が容姿にある種のコンプレックスを持っているからだろうか。鷲の美醜がどの程度なのか、つい気になってしまった。[[rb:鳥人 > とりひと]]の顔立ちは特殊で、ちょっとわからない。目つきがきつい……というのが可哀想なら、眼光が鋭い。身長はオレより高い。痩せすぎても、太り過ぎでもいない。風体としては、ごく普通の大人の男だった。

  「今日は、来てくれてよかったよ。私はこういうイベントははじめてだから」

  鷲は言った。そうなのだ。鷲はまるっきりライブ初心者だった。はじめてのフェスで推しの二列目などと、とんでもない幸運には違いないが敷居が高い。それもイベント慣れしている友人をあてにしていたはずが、用事だかなんだかで来られなくなってしまった。オレは、チケットを譲ってもらったうえにホテル代まで無料という、ありがたさが過ぎて申し訳なく思っていたものだが、鷲は鷲ではじめてのフェスをどう乗り切ればいいのか、不安がっていたのだ。

  オレにとってリアルで出会うまでの鷲は、大人の気配りができるやさしい先輩という印象だった。緊張でガチガチだったオレに声をかけてくれた、Slackの神様。直接、一緒にいてくれたわけではないにしろ、どんなにか心強かった。そういう相手が、心細そうにオレのような小僧を頼ってくれている。そのギャップに、オレはぐっときてしまった。

  フェスの最中、オレは鷲の手を握って離さなかった。狼の毛並みよりも断然、繊細で羽に包まれた手を、指まで噛み合わせて握り続けた。

  そう――午前中から高速バスに乗り、前日のうちに現地入りした夜、オレはホテルで鷲にカミングアウトした。学生時代、あることがあって以来、男が気になってしまっている。同性同士であっても愛や恋が成立することがわかってから、オレはどうしても男を「そういう目」で見てしまうのをやめられない。そして、出勤初日にあなたからSlackでメッセージをもらい……細やかながら趣味の会話を交わして……LINEでプライベートにやり取りするようになってからも……ずっと、あなたにときめいてしまっているということを。

  できるだけ冷静に、順序だてて話したつもりだ。でも胸がドキドキして、話している間じゅう苦しかった。

  鷲は……というか鳥人は全般、くちばしがあるためか、表情が見えにくい。オレが話し終えるまでコクコク頷いて無言の相槌を打っていたが、それが共感なのか同情なのか、厚意なのか忌避なのか、わからなくて怖かった。

  すべて話しきってしまうと、鷲は羽ばたくように両手の翼を広げた。

  「おいで」

  えっ、となった。それは思いがけない反応だった。

  「おいで」

  ホテルの二台あるベッドにそれぞれ腰かけて向かい合い、そのまま、鷲はもう一度言った。

  オレは鷲の胸へ身を預けた。体は震えていた。こんなことが本当に許されてしまっていいのだろうかと、信じられなかった。

  ぐいと、鷲はオレの背中を抱き寄せた。頭を撫でてくれた。頬を擦り寄せ、囁かれる。

  「よく話してくれたね」

  鷲はやさしい。やさしいひとなんだと思った。でも違う。オレが聞きたい言葉は……聞きたくない言葉は……それじゃない。オレはまだ胸がドキドキしている。ときめきと、同じくらいの恐ろしさに。

  みんな、こんな気持ちをどう理解しているんだろう? この狂おしい感情をコントロールすることなど、本当に可能なんだろうか。

  「飲もうか」と、鷲は言った。

  「へ?」オレは間抜けな声が出た。

  「せっかく買ってきたんだし。こんなときは飲むんだ。酔っぱらって、ぜんぶのことをつまみに変えちゃうんだよ」

  それはとても……刹那的で、大人っぽくて、快楽主義的で、素敵な提案だと思った。オレにもそれが必要だと思った。狂ってしまう時期というのが誰にだって必要だ。

  でも、アルコールを必要としていたのは鷲の方だったのかもしれない。コンビニで買ってきたレモン酎ハイの缶を一本、二本と空けてゆくごとに鷲は饒舌になった。

  鷲がまず言ったのは、天涯孤独の身であるということだった。そのことで、一時はかなり荒れたという。そして、あのころの自分にはもう戻りたくないと言った。あんな思いはもう二度とごめんだと。

  詳しくは訊かない。色々な事情があるらしいことだけはわかる。オレは鷲の悲劇を掘り下げたいとは思わない。思うのは、「あなたも傷ついてきたのだ」ということだけだ。

  「今はもう、寂しくないですか?」と、オレは尋ねた。

  「寂しいよ」と、鷲は言った。「大人だって、みんな寂しいんだ。私だけじゃない。寂しくない大人なんていないよ」

  寂しくない大人なんていない。オレは鷲の言葉を口の中で繰り返した。

  鷲には過去、付き合っていた女性がいたという。今はフリーだ。もう何年も女性の体を抱いていないらしい。鷲は元カノとはそれなりに長く、真剣にお付き合いしていた。そこには確かに愛があった。それでもふたりは、上手くいかなかった。そうして孤独になったとき、気づけば鷲は、もう若さを取り返しようがない年齢になっていた。

  「私はあれを、人生で最後の恋にはしたくないと思ってるんだよ。私はまだ、誰かを愛したいし、愛されたい」

  オレは虎のことを思わずにはいられなかった。思い出さないまま、次の恋に真剣に踏み出すことができるはずもなかった。オレも、あの恋が人生で最後の恋だとは思いたくない。「オレはきみに出会うために生まれきた」と――オレだって無根拠にも信じられるパートナーとの出会いを、信じたい。

  だけど、そんな不確かな信奉だけを燃料に生きてゆくなんて、オレには無理だった。そもそも、信じがたくないことなど、最初から信じるに値しないのだから。信じるとは元来、とても難しいことだ。オレにはまだ、実存が必要だった。そう信じさせてくれる、なにかが。誰かが。

  だけどそれは、寂しさを埋めたいからじゃない。今のオレが立脚しているのは、空白を嫌っているからじゃない。

  思い切って言った。オレにはそろそろ、実存としてのレスポンスが必要だった。

  「オレ……あなたのことを、ちょっぴり好きになってもいいですか?」

  「いいよ」

  鷲はゆっくりと言った。表情はわかりにくいが、微笑んでいたのだと思う。

  「きみはきみの恋を、思うぞんぶん育てればいい。全然かまわないよ」

  オレは神に祝福されたのだと思った。緊張が砕けた。嬉しさのあまり、オレは両手にこぶしをつくって思いきり突きあげた。

  その方が人生はパンクだ、と鷲は言った。オレは笑った。鷲も笑っていた。なにがおかしくて笑っているのか、自分でもわからない。でも笑いたかった。感情のメーターが振り切れてしまうと、わけもわからずに笑ってしまうものなのだ。

  そうやって笑って、笑って――顔を上げたとき、鷲の顔が目の前にあった。

  マズルとくちばしの、先端が触れ合いそうな距離。鷲は離れなかった。「全然かまわない」を、鷲は体現していた。

  オレたちは口づけた。見えない匿名の手に導かれるような、ごく自然ななりゆきとしてのキスだった。鷲のくちばしは、鋭い先端が下向きに曲がっていて、キスは難儀した。でもオレはなんとか頑張った。口づけ、というよりは、ついばむ、という感じにしかならなかった。それでもよかった。色々と工夫するところがよかった。鷲の方も、狼のマズルとキスをするのにいくらか困惑していたようだった。

  オレたちはまた笑った。どう頑張っても不細工なキスにしかならなくて、おかしかった。でも気持ちはとてもロマンティックだった。

  「ねえ、きみ」と、鷲は言った。「鳥人というのは割に同性愛者が多いと言われているんだ。どうしてだか、わかるかな?」

  そうなのか、と思った。そんな話さえ、はじめて知る。なぜか、なんてわかるわけもない。

  オレは[[rb:頭 > かぶり]]を振った。

  鷲が距離を詰めた。横並びに、ベッドに座ったオレたちの肩が触れ、腰が触れ……その距離は緊張を孕んだ。

  鷲は座ったまま、いくぶん足を開く。それからオレの手を取った。なにをするのかと思ったら、自分の股間に触れさせるのだ。

  全身の毛が膨らむ。目を見張り、尻尾が硬直する。耳がそちらに注意を奪われた。

  「触ってみて」

  鷲は言った。やっていることの重大さとは裏腹のように、ふつうの調子で言うのだった。オレは言われるがまま、ものごとの流れがよくわからずに、鷲の股間を撫でた。

  「あれ……あれ?」

  ない。どこにもない。男としてあるべきものの手触りが、どこをどう撫でても見当たらない。

  「[[rb:な > 丶]][[rb:い > 丶]][[rb:ん > 丶]][[rb:だ > 丶]][[rb:よ > 丶]]」と、鷲が言った。「鳥の男には、おちんちんがないんだよ」

  鳥人のセックスは、女性同士がするようなものなのだという。

  好奇心が煮えたぎる。鷲の顔と、スラックスごしの股間とを視線が行き来した。

  「見てみるかい?」

  鷲は言った。表情は変化なく、朗らかに。だが、親しみの感じられる誘惑が新たに添加されていた。それは理不尽な……わかっていても、なお抗うことのできない不可抗力のような……なによりも恐ろしい力をもった誘惑だった。

  立ちあがる。カチャカチャ、音をたててベルトをほどき、躊躇など欠片ももたないように、鷲はスラックスを落とした。淡いブルーに細かい花柄のトランクスも、ワイシャツの下でずりおろして……シャツの裾を捲りあげる。

  そこには、オレが想像していたような筒状の肉の管は見当たらない。こんもりとした豊かな羽毛の茂みがあるばかりだった。鷲は股へ手を伸ばし、濃いブラウンの毛を指でまさぐり、かきわけた。毛を寝かせて倒し、隠された部分を露わにした。

  ヴァギナとはまた違う、肉のすぼまりがぷっくりと膨らんでいるのが見えた。

  「これが、私のおちんちんだよ。[[rb:総排泄腔 > そうはいせつこう]]というんだ」

  確かに、その場所は排泄器官であり、生殖器であるらしかった。独特の臭気がフェロモンとなって、むっと立ちこめる。体臭と排泄物の化合物。嗅覚に対する絶対的な影響力。

  目を奪われる。オレは無意識に、そこへ鼻を寄せていた。興奮と緊張に乱れていた鼻息が、今度は[[rb:嗅 > 丶]][[rb:ぐ > 丶]][[rb:た > 丶]][[rb:め > 丶]][[rb:に > 丶]]荒くなった。ふすふす、危ないヤクでもキメるみたいに夢中になって嗅ぎたおす。

  今、オレの目の前に鷲がいること。この、ココが、このひとの性器なのだということ。狼の嗅覚はそれを、視覚とは比にならない確度で感じ取る。鷲はそれを見下ろしていた。性のにおいに惹かれて従順になり続けるオレの浅ましさを、鷲はただ見ていた。

  「あっ」

  べろり、舐めてしまう。唾液をたっぷりと塗りたくって、この場所にオレのにおいを染みつけてしまいたいという、本能の行為だった。

  鷲はかすかに首を傾げて、目を細めた。「汚いよ?」

  そんなことない。というより、そんなことはちっとも問題ではないのだ。オレは舐め続けた。鷲の股ぐらの毛をヨダレで汚して寝かしつけながら、むっちりした肉の蕾の感触を舌で味わい続けた。

  そっと、頭の上に手を置かれる。自分でもはじめてわかったことだが、オレはこんなふうにしてもらえると嬉しくなってしまうらしかった。尻尾を振りたいような気持ちがした。飼い主に撫でてもらえて喜ぶ犬の様を、オレは今、自分を偽るためでなく、素直に「そうしたい」という思いで演じてしまいたくなった。

  尻尾を、振ってみる。うずうずとした衝動に任せて、鷲にもひと目でそれとわかるように、右へ左へ揺さぶる。

  「かわいいね、良い子のワンちゃん」

  恥ずかしい。男のスケベなところを嗅いで、舐めて、それで喜んでしまう下品な生き物になったようで……でもたぶん、そういう部分がオレの中にはアプリオリに存在していたのだと思う。オレがこうして尻尾を振るのはごく自然なことのように、体が……頭が……明確に指向性を持つ。こんなのは、はじめてだった。

  「はあ……はあ……」

  少しずつ、鷲の吐息が熱を帯びてゆく。それは至上の歓びだった。オレはあなたに奉仕したい。あなたが歓んでくれることをしてあげたい。だからそれは、実存を感じられるレスポンスとしての吐息であった。信じるに値する証左としての機能を果たしていた。それがいい。もっとそれが欲しい。

  舐めるだけでなく、次第に舌で表面をこそぐように、ぐいと舌を押しつけながら、下から上にスライドさせる。押された総排泄腔が、きゅう、ときつくなった。

  「んっ……ふう……」

  感じている。オレのような青瓢箪におちんちんを嗅がれて、舐められることで、鷲は性感を得ていた。嬉しい、嬉しい! もっと気持ちよくなってほしい。

  舐めるだけでなく、舌の先でくりくりと穴の表面をほじくったりもしてみる。鷲の穴はそれをいやがるようにすぼまったり、受け入れるように拡がったりした。そんなふうにしていると、ヨダレとは違たトロリと粘度の高い汁が表に溢れてきた。

  我慢汁だ!

  舌を這わし、顔を離してみた。オレの舌と、鷲の股との間に、つ、と透明な糸が伸びる。

  鷲の表情をうかがう。半開きになったくちばしの隙間から、濃いピンク色の舌が覗いている。凛々しかった猛禽の顔を切なげにくしゃくしゃと歪めて、切羽詰まった表情が浮かんでいる。

  「ああ、エッチだ」

  鷲が言った。「ああ、エッチだ」と、オレは思っていた。

  ちゅぷ、ぷちゅっ、くちゅくちゅくちゅ……

  総排泄腔を舌でほじくる行為がやめられない。少しずつ濡れほぐれてきた肉の輪は、徐々に徐々に、舌を内側に受け入れようとヒクヒク蠢く。ときおり、排泄の兆しみたいにぐわっと盛りあがってきたりもする。とても中に入れてほしそうだった。

  なので、そうした。狭いところに舌先をぐりぐり押し当て、唾液と我慢汁のぬめりでくぐらせながら、円を描いて拡げるように肉の管を舐め回す。

  鷲の頭が仰け反った。全身がぶるぶると震え始め、くゅ、くゅ、と独特の甲高い甘え声があがる。

  かわいい……もっとしてあげたい……

  舌をどんどん奥へ伸ばす。汚いところなど気にする必要もなくなるまで、隅々まで舐め尽くしてきれいにお掃除してあげなくちゃいけない。きつい入口をぐるぐる拡げてなだめ、萎んでいる肉壁をまっすぐに伸ばしてゆく。

  ずる……ぬちゅ、くちゅ、ずるるるぅぅ~……

  「くぁああっ……ふかっ、い……! そんなとこ、はじめてぇ……」

  オレは俄然、燃えた。これまでの女性たちは、鷲にここまでのことをしてやったことがないのだ。狼に生まれてきてよかったと感じたのは、生まれてはじめてだったかもしれない。長い舌をたっぷり味わわせてあげられる。

  思いきり舌を伸ばし、硬く強張らせながら、長いストロークでゆっくりと出し入れしてみた。これは、かなり効いたようだった。鷲の両脚がガクガク痙攣する。膝がゆるく曲がり、腰が前後にくねる。

  ずるぅ、ずるぅ~、ずるるるる……

  「あっ……あ゛ッ! すご……すごいっ、腰、抜けちゃう……!」

  チンポを出し入れする本物のセックスのように、鷲の総排泄腔を舌で犯し続ける。こんなことをするにはマズルを思いきり開かなくてはならず、口の部分を股へぴったりくっつけることになる。下顎は足の間から尻にまで至り、鷲の股間に喰らいついているような格好だった。

  奇抜なクンニをしながら、膝が抜けかけてガニ股になっている鷲の両脚の間に、オレはすっかり収まっている。ただの抜き差しでは芸がないと、舌で肉壁をみっちり押し拡げながら抽挿してやると、鷲はイヤイヤのように頭を振って内股になる。

  「それ、だめ、だめだよっ! い、いっ、いっちゃう……」

  マズルが太腿にぎゅっと圧迫される。眉間にぎゅっと皺が寄る。

  途方もない好奇心だけが、常に我々を進歩させ、ついには天の光の袂まで辿り至らせた。それでもまだ、我々は止まらない。いつまでも、どこまでも、陽の導きがあるならば……陰の狂気が照らすならば……行きつくところまで、行くしかないだろう。

  まだ見ぬなにかを見てみたい。誰も知りえないなにかを知りたい。今回のことも、そんな強い意志が働いたからこそなのだ。生来、怠け者であるオレがこれほど強い意志を働かせることは、それ自体が稀だった。そしてどうやら、オレはそういうときの自分の邪魔をする者に、まったく容赦しないらしい。相手が歳上の先輩であるということも、とっくに忘れていた。

  ずっちゅ! ぐじゅ、ぐじゅ、ぐじゅ! ぢゅううう!

  「お゛っ……! あ゛っ! 出ちゃっ……! いくっ、いくぅ!」

  柔らかいふたつの翼が、オレの頭を押さえつける。全身がギクリと波打った。ぎゅううっ……と穴全体が舌を絞るように締めつけながら、鷲は射精した。舌を詰め込まれた穴から、ぷしゅっ、びちゃっ、と青くさいザーメンが勢いよく噴き出る。それを掻きだすようにぐるっと舌を回せば、鷲は弾かれたように激しく身もだえる。離れてしまわないよう、両腕でがっちりと腰を拘束した。

  「あ゛ぁ゛~~ッ! もう、いっ……イッでるっ! からぁ!」

  噴きだした精子はゼリー状でべとべとに硬い。オレの顔の毛に貼りついて重たく垂れさがるばかりで、滴り落ちることがなかった。

  舐めるのをやめて、伸ばしていた舌を引っ込めてゆく。鷲はそれにすら強い刺激を感じたようで、ぴい、ぴい、と弱り切ったヒヨコのような細い声で許しを乞う。

  鷲はぐったりとベッドに沈んだ。オレは開きっぱなしで疲れた顎を擦っていた。びちゃびちゃに股間を濡らして脱力する鷲にも、それはそれで扇情される。

  束の間の休息があり、むくりと鷲が起きあがる。オレの足の間に跪いて、ズボンをくつろげようとした。

  「あ、あの……無理しないで。オレは……」

  「そうはいかないよ」鷲の言葉は跳ねのけるように強かった。「自分だけ後輩に抜かせるなんて、立つ瀬がないだろう?」

  妙なところで負けず嫌いだった。そう言ってもらえるならと、オレは鷲に身を任せた。腰を動かし、ズボンを脱ぐのを手伝う。下着をおろされたところで、足を開いて見せつけた。

  「う……わ。すごいね」

  鷲が感嘆した。

  イヌ科ゆえに、だろうか。オレのペニスは勃起するとそれなりに立派なサイズになる。根元の亀頭球はすっかり膨らんでいた。コブにはまだかろうじて包皮が引っかかっているが、自慰しかしたことのないオレは鷲をクンニしながら、下着の中に思うさま興奮の先走りを吐き出していたものだから、脱げば雄のにおいを嫌でも嗅ぎ取ってしまう。

  「オレは、自分のチンコ、あんまり好きじゃないです」

  「そうなの? どうして」

  「自分で選んだものじゃないから……かもしれません」

  鷲はきょとんとした。自分のペニス越しに彼の顔を見ることに、さすがに恥辱を感じた。目を逸らすと、鷲はふふっと笑った。

  「少しわかった気がするよ。それがきみの性分なんだね」

  あっ、となった。鷲は「変なの」とは言わなかったのだ。オレの……そう、「性分」のことを。

  そこから先は、たいしたことは起こらなかった。なんのことはない。オレがあまりにも早漏だったのだ。

  ただでさえ他人に触られたことがなかったし、興奮して焦れていたチンポは、童貞丸出しに鷲の手コキを悦んだ。

  「うっ、あっ……! なんっ……こ、これ……!」

  「気持ちいい?」真っ赤に勃起して敏感になっているペニスを両手の翼に包みながら、鷲はやさしい声を出した。

  「すっ、すみません……オレ、もう……」

  時間をかけて、鷲とのエッチを愉しむだけの余裕は、オレにはなかった。本格的に触られてしまうと、二分ともたなかった。

  「いいよ」と、鷲は目を細める。「ぜんぶ飲んであげる」

  オレは耳を疑って鷲を見た。イヌ科の射精量は多い。しかし、そんなことは鷲も理解しているようだった。無言のまま、コクリ、うなずかれた。

  鷲がくちばしを開き、下向きに尖った先端を避けてわずかに顔を傾ける。パクリ……咥えられると同時、なまあたたかい舌が裏筋を這いまわり、ぢゅっ、と吸引された。

  「あっ、あっ! もうっ!」

  出せ、とばかりに亀頭球を握られる。オレはベッドに背中を倒した。勃起したイヌ型ペニスが鷲のくちばしの中で体と一直線になる。鷲が両手と一緒に頭をスライドさせる。三度も往復されれば、それがトドメになった。

  びゅうっ、びゅるっ、びゅうう~~っ!

  「はあっ! はあっ……! ああっ、すっ……ご……!」

  だくだくと、どぷどぷと、精液がくちばしに注がれてゆく。どろどろの粘液が尿道を通り抜けてゆく甘美。完全に他者に委ねての射精は、まさしく快楽だった。

  たまらず、オレはベッドの上で身を捩る。鷲にペニスを咥えさせたまま俯せになり、尻合わせの射精を模倣した。後から後から、ザーメンが送り出されてゆく。

  苦しいだろうに、オレの長い射精の間、鷲は呻き声ひとつ漏らさなかった。それどころか、射精を促すように手も頭もゆるやかに動かして奉仕を続けてくれていた。射精しながらも扱かれ、舐められ、吸われ続けるのが、たまらなく気持ちいい。

  オレの射精がどのくらい続いたのか、わからなかった。一、二分くらいのものだったかもしれないし、十五分ほどは続いたのかもしれない。鷲にイかされ、飲精させていることの気持ちよさと興奮に夢中になるばかり、時間の経過など考えられるだけの理性はどこにも残っていなかった。

  最後に、鷲はストローのようにペニスを吸った。ぢゅう、ぢゅう、と尿道に残ったものを啜り、もう出ないとわかると口を離して、オレの横に寝そべった。

  「げふっ……おお、すごい。お腹がたぷたぷしてるよ」

  しこたまザーメンを飲まされた満腹感に、息苦しそうな声だった。

  「すみません、こんなことまで……」オレは肩で息をしながら、なんとかそれだけは言った。

  「これくらいで。まだ第一ラウンドだろう?」茶目っ気たっぷり、鷲は言った。しかし時計に目をやって、「と、言いたいところだけど……」

  時刻は、じきに深夜一時になろうかというところだった。これ以上は、明日に差し支えてしまう。オレたちは夜通し盛りあうためにホテルに泊まりにきたわけじゃない。あくまで目的はロック・フェスなのだ。

  「シャワーは……」

  そう言ったオレは、すでに睡魔に襲われていた。

  「今からじゃ、目がさえてしまいそうだね。明日、早起きして浴びよう」

  鷲はそう言って、布団に潜りこんだ。

  「おいで」

  誘われれば、逆らう理由などどこにもない。オレは鷲の懐に顔を埋めた。大人の男のにおい。鷲の毛並みは、どんな極上の羽毛布団よりも心地よくオレを迎えてくれた。

  「一個だけ、知りたいです」と、オレは言った。「オレたち、恋人ってことで……いいんですか?」

  「そうだね」即座に返答があった。「きみみたいな若い子の彼氏が、私みたいなおじさんでよければ」

  低くささやくような鷲の声に、安堵と心地良さを覚えながら、オレは眠った。身を寄せあいながら、鷲がかけてくれたアラームが鳴るまで、ぐっすり眠ることができた。

  このような次第で、オレたちは翌日のフェスを真っ当に楽しみ、夜は居酒屋で酒と料理を味わって、それぞれの夜行バスで帰路についた。

  別れは、惜しかった。オレたちは大人だし、住んでいる場所も大袈裟なほど遠いわけではなかった。時間さえ合わせられれば、会うのは容易だ。だけど鷲は、オレにとってはじめての恋人だった。LINEで話はできる。ビデオ通話で顔だって見られる。でもそれは、抱きしめて頭を撫でてくれるわけじゃない。同じベッドで眠れるわけじゃない。このときの別れに、オレは身を引き裂かれるほどの寂しさを覚えた。

  鷲は、高速バスの中でのLINEにも付き合ってくれた。オレたちは遠距離恋愛ということになる。有り体に言って、不安だった。一緒にいられないうちに、鷲はオレのことなんて好きではなくなってしまうんじゃないだろうか? 鷲はオレを受け入れてくれて、本番はなかったとはいえエッチもした。だけど元々ゲイだったわけじゃない。なんとか彼の気持ちを繋ぎ止めておきたい。でもしつこくして嫌われるのはいやだ。

  そういうことを、はっきりとメッセージにはしなかった。でもオレの不安をわかってくれているのか、鷲からは慈しみに溢れた言葉がたくさん送られてきた。

  まあ結局――オレが想像していたようなトラブルはなにも起きはしなかった。それでもオレと鷲が恋人らしいことをできたのは、フェス前日のあの日きり。交際とさえ、言えなかったかもしれない。

  トラブルはオレ自身だった。夏の長期休暇に入るためのスケジュール調整で、会社は激務に追われていた。片付けなければならない案件がいくつも重なり、新人といえど残業は避けようもなかった。鷲からLINEの返信が来る頻度も激減したし、オレも忙しさにかまけて返信を忘れてしまうことが何度もあった。「最近話してないな」と思ったら、あとで返そうとしていた返事をそのまま送っていなかったというパターンだ。

  落ち着いたら、ふたりで時間を取ってゆっくりビデオ通話でも……なんて話もしていたのだが、多忙がピークをきわめた時期、オレはストレスのあまり、鷲に八つ当たりめいた暴言を吐いてしまった。しかしそこは先輩、オレが冷静じゃないことを見抜いてやさしく諭してくれる。オレは自分の行いを反省して謝り、それ自体は丸く収まってしまった。

  ただ、その後も仕事の忙しさと、一緒にいられない寂しさは変わらなかった。なにかにつけてカリカリしていたオレは、鷲のやさしさに甘ったれて何度も同じ過ちを繰り返した。一度などはひどい大喧嘩になってしまい、今度という今度こそ破局かと思われた。

  おかしな話だ。オレは鷲を大好きなはずなのに、どうして心にもないようなことを言ってしまうのだろう? 成人して就職し、社会の歯車になったことで、オレも少しは大人になったと思っていた。でも少なくとも、あのころのオレはまるっきり構われたがりのガキだった。

  そういうオレに、鷲も疲れてしまったのかもしれない。

  「本当に申し訳ないと思うけど、私は今、好きな女性がいるんだ。たぶん、うまくいけば結婚しようということになると思う」

  ある日、そんなLINEが届いた。オレたちのコミュニケーションは、フェードアウトしていった。

  夏から秋、冬へと季節がめぐると、オレと鷲との間には、もう繋がりと呼べるほどのものはなにもなくなってしまっていた。八月ごろまでは、休日に同じ映画をレンタルして、時間を決めて一緒に観たり、オンライン・プレイができるテレビ・ゲームで遊んだりして、仲良くやっていた。クリスマスには、またホテルをとって会おうという話だってしていた。でももう、オレたちは駄目だった。オレたちが互いをいちばん愛おしく思えた時期は、ごく限られた短い期間で終わってしまった。

  その原因を、オレは仕事に求めはしない。オレが馬鹿だった。はっきりいって、遠距離恋愛を舐めていた。いや、いっそこのことに距離は関係ない。愛を継続するためには、互いの歩み寄りを欠かしてはならなかったのだ。オレはそのための努力を怠った。鷲からの寵愛にあぐらをかいていた。もっと鷲に気遣って、鷲のことを尊重して、鷲に対してやさしくしてやらなければならなかったのだ。

  そんな当たり前のことを理解したときには、鷲はもう、オレのLINEに既読さえつけなくなっていた。あんなにまめだった先輩が、未読スルーとは。オレがどれほどヒステリーだったか、わかろうというものだ。必要な気づきは、いつだって遅れてやってくる。

  忙しく働いていたものだから、自分で自由にできる金だけは、ある程度の額にまで膨らんでいた。オレが人生ではじめて手にした大金だ。もちろん、本当にぜんぶ使ってしまうようなことはせず、ある程度は貯金に回してもいたのだが、そういう金で空いた時間を好きなことに費やすだけで、当分は充実を感じていられた。

  しかしそんな社会人生活は、三年も続けばいいところ。金で実現できるお遊びは、ひと通り楽しんだ。あれこれと手を出してみたはいいものの、なにかを真剣に極めようとか、なにかを成し遂げようなんて気にはさらさらならず……そうしてふと気がつけば、オレは自分の手になにというものも持たないまま、三十路と呼ばれる歳を迎えていた。

  二十代の終わり。人生の曲がり角。オレはもはや、自分で自分を「若い」と言うことさえ躊躇ってしまっている。

  恋愛じみたことだけは、いつのときも事欠かなかった。なにせ狼というのは顔がいいから。だけど女にしろ男にしろ、なんだかんだとオレの顔を気に入った連中は、オレが容姿に比べてずいぶんしょぼくれた性質をしていることがわかると、おのずと離れていってしまった。

  そんなもんだ。オレの人生なんて、およそ死ぬまで[[rb:そ > 丶]][[rb:ん > 丶]][[rb:な > 丶]][[rb:も > 丶]][[rb:ん > 丶]]が続くのだろう。別に不満というほどでもない。オレだって真面目に働くサラリーマンだから、つきなみな幸福くらいは掴めるだろう。健康で長生きとか……趣味の充実とか……それでじゅうぶんじゃないか。

  そりゃあ、恋人とか結婚とか、憧れないのかと言われたら、心が引きつる。でも、必須だとは思っていない。恋人がいたり、結婚したり……そういうことがなければ不幸だとは思わない。

  まあ、このままひとりで生きてゆくのは寂しいだろうなとは思うし、いつかは一緒にいて楽しい人と、一緒に暮らしたいなと思う。そしてたぶん、そのためのチャンスはあった。オレの人生には、愛した男がふたりもいたのだ。しかしそのどちらも、オレはみすみす不意にした。

  バカだった。

  不幸せだから寂しいのではなく、寂しいから不幸せなわけでもない。オレのバカさ加減が、今のオレを孤独にしている。

  心がざわつくことは、何度もあった。ただ、オレにも誰かを愛せる気持ちがあることはわかった。オレにはオレの人生がある。縁というものがあるのなら、次こそは大切にしようと思うくらいのこともあった。そちら側に行こうと思えば、なにかのきっかけさえあれば、オレは行けるという気持ちもどこかにはあった。

  だけど最近は、そういう自身も心もとない。もしかすると、オレにはもうその線はないのかもしれない。今さら行きたいと思っても、行けない世界になってしまったのかもしれない。

  オレのこの生に、この先、輝かしいことなど待っているだろうか? 気づいたら三十路。次は、気づいたら四十路。そうやって知らぬ間に、段々と終わってゆくような気がしてならない。

  そんなことばかりを考えて過ごしていたら――オレは再会したのだ。いや、まったく、これが笑っちまうくらいバカみたいな話なんだが……オレが愛した男たち……虎と、鷲に……オレは、奇跡のように再会した。

  他者との繋がり。それは、形式化されているプロトコルにのっとっているからこそ、感じ取れるものだ。

  たとえば、大の大人が裸足で外を歩いている。そいつはスーツ姿なのだが、なぜか靴は履いていない。それを見たとき、我々はそいつを不審者だと思いこんでしまうんじゃないだろうか。

  同じことなのだ。他者との繋がりは脆弱ともいえるプロトコルによるものだから、このプロトコルを切断すれば……簡単に、「自分は孤独かもしれない」というような、言い知れない不安に駆られてしまう。

  ただ……孤独だから不幸だとは限らないし、そんなことを言ったら幸福という概念が難しい。

  幸福など所詮はそれぞれの幻想に過ぎないわけだが、我々は生きている限りほとんど全員が、幸福になりたいと考える。これも、プロトコルで一応の規定は存在する。たとえば家族。たとえば愛。たとえば金。たとえば地位。これらの総合成績が高いと、自分は幸福だと思い込みやすい。馬鹿であればあるほど思い込みやすいだろうし、幸せになりやすいともいえる。逆に、頭が良いヤツは「幸福とはなにか?」と考えはじめてドツボにはまる。幸福についてなど、考えれば考えるほどに幸福から遠ざかるだけだ。幸福がゼロへと近づけば不幸へ、そして絶望へと形を変える。

  絶望とは、すなわち魂の死。

  オレは今――幸せなのだろうか?

  これからいったい、なにがあれば、オレは幸せになれるんだろう?

  「ごめん。もう少し早く到着する予定だったのに」

  待ち合わせ時間の三分前になり、彼は、時計台で待つオレのもとへやってきた。

  「はじめて来るところだから、電車の接続がうまくいかなかったよ」

  彼は、小柄で痩せた[[rb:人 > 丶]][[rb:間 > 丶]]の少年だった。休日だというのに、体に合わない大きめのスーツを着ている。ジャケットもスラックスも古びてはいるが、洗いたてのような清潔感がある。銀縁メガネの向こうの彼の表情は、笑っていた。

  彼は、笑うとすべてを包み込むような柔和な表情になるのだった。

  なぜだろう。オレよりひと回りも歳下の少年に、オレは深い優しさと男らしさを感じていた。なんとも魅力的な少年だった。

  ――あれ?

  オレは、急に思い出せなくなる。彼と、あのチャット・ルームで話しているときは、オレはどんなふうだったっけ?

  ああ、そう、そうなのだ。これがネットの効用でもあり、難点でもあるのだ。ネットのプロトコルを、リアルには持ち込めない。繋がる感覚を容易に疑似体験させてくれるまではいい。しかしそこでは自分というものが細分化されすぎていて、最後には霧のように消えてしまう。

  オレは緊張していた。別に人見知りというのでもないのに。

  「今日は、来てくれてありがとう」柔和な笑みのまま、彼は言った。「ぼくは、あなたに伝えたいことがあるんだ」

  オレはまだ戸惑っていた。音を変換し、言葉を頭の中で組み立てるという[[rb:創 > 丶]][[rb:作 > 丶]][[rb:活 > 丶]][[rb:動 > 丶]]に、リソースをうまく割り振れない。自己の脳内と他者の言葉の間に、ズレが生じる。発信側と受信側のコンタクトが、うまくいかない。

  「あ、ああ。そうなのか。それで、伝えたいことって?」

  ほとんど、彼の言ったことを復唱しただけの、バカな返事が精一杯だった。

  でも彼は、それだけでオレの状態を正確に掴んだかのようだった。

  「うん。今日ぼくがあなたに来たのはね。できるだけ、パーフェクトに近い通信がしたかったから」

  ――不可能だ。そんなことは。

  言語を使用している以上、かならずズレは生じる。しかし、我々はそもそも語ることへの欲望がアプリオリに存在するように思える。

  だから……そうだ。オレは神と語ってもいい。神を貶めることになろうとも、神には生きていてもらわねばならない。

  彼がそう願ったように、オレも実存の彼を求めたのだから。

  ズレが生じていてもいい。通信を試みたい。そうしなければ、自分の存在がすぐにでも消し飛んでしまいそうだった。

  「チャットでは、伝えられないことなんだな」と、オレは言った。絞り出したみたいな声だった。

  「ただの文章では、建前が生まれるから」と、彼は朗々と言った。

  「言葉でも行動でも、建前は生まれるだろう」

  「そうだね。でも、ノイズの混じる量は明らかに少ないと思う」

  自我の表れ。その兆しを逃さない。

  そうだ。ネットにはあらゆる意志が内包されている。それらを繋ぎ合わせ、[[rb:創 > 丶]][[rb:作 > 丶]]することでどのような意志も再現できる。

  でも、リアルは違う。

  オレは神と通信できている。楽しい。それでいて怖い。

  「好きだよ」

  意味不明。

  それに尽きた。

  出向先でたまたま入ったバーに、鷲がいたのだ。それも、客としてではなかった。バーテンダーとして、カウンターの向かい側に立っていた。

  「え……」

  オレは、見間違いだと思った。たまたま種族が同じだけの他人なんじゃないかと思った。思おうと、した。オレの知っている鷲ではない証拠を、バーテンダーの中に見つけようとしたのだ。

  「あっ」

  ところが、彼もオレに気づいてしまった。

  クリティカルだ。店を出ようにも、オレはもうカウンター席に座ってしまっていた。

  いや、しかし――オレたちが交際ともいえないような交際をしていたのは、すでに何年も前の話だ。突然の再会で驚いてしまったが、オレも少しは歳を重ねた。年季を積んだのだ。

  普通を装い、話しかけた。

  「どうしたんですか。こんなところで」

  鷲の方も、オレに調子を合わせてくれたのが幸いだった。

  「きみこそ。このあたりには、よく来る方だったかな?」

  「たまたま、出向帰りで」

  「ああ、そうか。私はね、ここ、知り合いの店だから。たまに手伝ってるんだよ」

  「そうでしたか」

  会話が途切れる。気まずい沈黙だった。オレは、沈黙というのは全般、とても苦手だった。沈黙が苦にならないというほどに親しい間柄を、オレはあまり築けたことがないから。それができていたとすれば、それは大学時代の……

  「なにか、飲む?」

  鷲も、おかしな空気にならないよう気遣ってくれているのだろう。そう、オレは客としてきているのだから、とりあえず注文くらいはしなければいけない。

  「ウイスキー、何かありますか」

  「あるよ」鷲は少し横にズレて、背中に隠れていたボトルをオレに見せた。「あいかわらず、強いんだね」

  そうですね、とオレは思った。正直、あのホテルの日も、オレよりあなたの方が酔っていた。

  オレを受け入れてくれたのは……そのおかげだったのかな。

  「スコッチ、ダブルで」

  「少々お待ちください」

  丸くてかわいらしいグラスに注がれたスコッチ・ウイスキーがカウンターに置かれるまで、少しではあるが時間稼ぎができた。オレはいちばん気になっていたことを尋ねることにした。

  「連絡が取れなくなって、心配しました」

  本当は、心配だけではなく寂しくもあった。でも鷲からの連絡が途絶えたとき、もうオレたちの関係はすっかり冷え切っていた。寂しさも、少しで済んだ。寝て起きれば忘れてしまえた。

  「わざわざSlackで話しかけるのも、どうかと思いましたし」

  「ごめんね」と、鷲は言った。「うっかり、マンションのベランダからスマホを落として、壊してしまってね。ちょうど、キャリア変更もしてしまおうと思っていたし。そのときにデータが飛んでしまったから……」

  それが事実かどうかは、どうでもいいことだった。鷲が本気でオレと連絡を取ろうと思うなら、いくらでもやりようはあっただろうから。故意にLINEを無視したわけではないと、そういう配慮を今ここでしてくれた。オレはそれだけで満足だった。

  少なくとも、オレは鷲のことを嫌いになったわけではない。かといって、今さらやり直せるとも、思っていない。そうしたいとも、とくに思わない。それだけの時間が過ぎていた。オレたちの空白は、今から埋めるにはいささか大きくなりすぎていた。

  「元気そうで、安心しました」

  「うん。元気だよ。私は大丈夫」

  「一杯、どうですか?」

  「ありがとう。いただこうかな」

  鷲が自分用のレモン・サワーを作るのを、オレは見ていた。そんなのでいいのか。なんとはなしに微笑ましくなる。あるいは、オレと飲んだ缶酎ハイを思い出したか。

  乾杯して、少しだけとりとめのない話をした。仕事のことは、違うセクションの社員には話せない。恋愛に関することも、そうとうに気まずい。だから本当に、どうでもいいようなことだけを。

  不意に、鷲が店の時計を見た。

  「ごめん。ちょっと裏に行かなきゃ」

  「ああ、はい。おかまいなく」

  「ごゆっくり」

  笑みと言われれば、そう見えるかもしれないという程度の、かすかな笑みを浮かべる。でもオレにはそれが笑みだとわかる。あのひと晩で、オレはこの顔を何度も見たから。

  裏と言っても、店内ではないらしい。鷲はもうひとりのバーテンダーに任せて、店を出ていった。雑居ビルの地下通路を挟んで、店の向かい側の扉が、事務所だかなんだかになっているようだ。鷲が鍵を開けてその扉に入ってゆくのを、なんの気なくカウンターから見送った。

  元々、適当に目についた飲み屋に入っただけだ。ひとり飲みするつもりだった。ただ、運がいいのかどうなのか、オレは鷲と再会してしまった。半端に誰かと飲んでしまうと、今さらひとりで酔っぱらうのも寂しい。

  かといって、もうひとりの若そうなバーテンダーに絡むのも、なあ。

  帰ろうか。いや、最後に挨拶くらいはしたいと思うのが人情だろう。そう思ってグラスを傾けた。スマホを見ながらお代わりをもらい、お代わりを飲み干しても、鷲はまだ帰ってこなかった。

  なにかと忙しいのだろう。待つだけは待った。三杯目まで待ってやることはない。勘定を済ませて帰ることにした。

  そうしてドアをくぐり、店を出たときだ。

  ドタン!

  なにか、重たいものが倒れたような音がした。オレは驚いて肩が跳ねた。それなりに大きい音だった。同時、事務所の方のドアがわずかに揺れ動いたのも見た。

  背後でドアが閉まる。ガチャン。続けて、事務所のドアがまた音をたてる。どんっ。今度はそれほど大きな音じゃない。

  普通に考えれば、無視して帰るべきだっただろう。しかし、この扉には鷲が入っていったのだ。もし、中でなにかトラブルでも起きて殴り合いにでもなっていたら……

  そんな空想に駆られ、無礼きわまりないとは思いつつも、ドアに耳をそばだてた。すると――

  ああ、なんだ。

  そのとき、オレはどうしてそんなことをしようと思ったのか、自分でもよくわからない。いや、理由らしい理由なんてなかった。本当に、なにも考えちゃいなかったのだ。

  オレは、事務所のドアのノブを捻ってみたのだった。

  捻っただけだ。開けちゃいない。しかしドアは勝手に向こう側から開いた。あーあ、バカだな。鍵くらいかけておくもんだ。不用心がすぎる。

  こうなることを、オレは五割ほど予想していたので、さっさと横に飛び退いた。事務所からは絡みあった男がふたり、まろび出てきた。急に開いたドアに転げながら。

  どたどたと、男がふたり連絡通路に倒れ込む。ちょうど、鷲が男の下敷きになって組み敷かれたみたいなかっこうになった。

  しかし――いったいだれが予想できるもんかよ。

  「いッ――てて……なんなんだよ……」

  「えっ?」

  「は?」

  事務所のドア一枚、その向こう側で鷲と乳繰り合っていた男が、オレを見た。オレの顔を見て、見て……みるみる目が開かれてゆく。

  「先輩?」

  オレがやってきたバーは、虎の店だった。

  なぜ? と思った。

  まるで幻想じゃないか。

  「なんだって?」

  「ぼくはあなたのことが好きだ。それを伝えるために今日、あなたに会いたかった」

  なぜって、オレは彼の好意を勝ち取るようなことを、なにひとつしてこなかったはずだ。オレは必死に「ふつうの自分」を装った。彼に聖性を感じていることなど……彼に対する信奉など……決して悟られないようにしていた!

  なのに、なぜ?

  「わざわざ、告白するために来たって?」オレは面食らい続けた。「そんなの、めんどうくせえって思わなかったのか」

  「面倒くさかったよ。両親を説き伏せて、スーツを借りて、乗ったことのないバスと電車に乗って」

  彼は、まだあどけなさの抜けきらない表情でオレを見ていた。まなざしが交差することが恥ずかしくて、オレは目を逸らした。

  「でも、そうしたいと思ったから」

  そんなことは、ありえないと結論づけてしまいたくなる。だけどそれは、彼の言葉がオレの言葉ではないからであって、もともと言葉とは……意志とは……誰かに正しく伝達できるものでもない。

  彼の告白を暫定的な真実としてもいいかもしれない。オレは彼に、自分の言葉を伝えることに専念するのが、正しい態度だ。

  オレは知っている。相手が素晴らしいからこそ、一緒にはいられなくなったり……相手がほんの少しの言葉を尽くしてくれただけで、一緒にいたくなったり……そういうことはあるのだと、今のオレは知っているから。

  寂しくて――

  たとえようもなく寂しくて。

  オレはここにいるのに! オレはここに存在しているのに……オレは「オレ」をこの世界に対して宣言する言葉を持たない!

  自分を偽り続けて、偽らない自分を受け入れてもらえなかったオレは、気づけばいつの間にか……孤独だった。

  オレは「なんでもできるイケメン」なんかじゃない。本当になんでもできる自分になろうとするひとを、オレは応援することさえ拒絶した。

  オレは「心の優しい美男子」なんかじゃない。攻撃的で暴力的で、感情のコントロールもままならない幼稚さで、大好きなひとを傷つけた。

  オレは主体の代替物を無限に積み重ねることによって、もともとの「オレ」というものが得られるような気がしていた。でも、それは結局、亡骸に咲いた花のようなものなのだろう。

  意志とは光だ。

  だけど、オレのようなヤツが今さら光を求めるなんて、間違いであるような気がしていた。光に照らされて、正体がバレることを避けて生きてきたようなヤツなのに。

  でも、意志が光とするならば、先進波と遅延波が重なりあっているはずなのだ。

  オレが幸福を言葉にするとしたら、それは「愛されること」では足りない。誰かを想い、オレが求められてはじめて、それはひとつとして完成する。

  愛し、愛されることを、オレは求めていた。

  オレは「オレ」を、「あなた」に伝えたかった。

  水滴が……頬の毛を滑り落ちてゆく。

  よくわからない現象だった。

  「あなたには今、恋人はいる?」

  彼が言った。オレはしゃくりあげながら答えた。

  「い、いない……」

  愛した男なら、いた。ふたり、いた。だけどオレは、彼らの邪魔にしかならなかった。オレでは彼らを幸せにすることはできなかった。

  「だったら、ぼくをあなたの恋人にしてくれる?」

  おかしな話だ。オレはゲイであることを彼にはまだ伝えちゃいない。なのに、彼はなにか根拠でもあるみたいに可能性を確信している。

  本気なのだ、と思った。なぜって、オレごときを偽るために、わざわざ親にスーツを借りて、こんなふうに会いにくることなんて、ありえない。

  「お、お、お」

  意味不明の嗚咽が止められない。絶対に言葉にはならないし、表現しえない。そういう雫が溢れ続けるのを、どうしようもなかった。

  「オレなんかで、いいのか……?」

  手のひらで顔を覆う。彼は歩み寄ってきて、オレを抱きしめた。

  オレは、神様と内緒話をしているのだと思った。

  この日、オレにとって新たな愛が産声をあげた。

  「バンドの追っかけをしてるんだよ……」

  鷲は言った。今さらオレなんかになにを釈明する義務もないだろうに、鷲は虎を連れてちゃんと店に戻ってきた。

  オレと鷲が推していたバンドが、ライブ・ハウスでお忍びライブをやったのだという。虎のバンドも、そこで[[rb:対盤 > タイバン]]したらしい。

  虎はまだバンドを続けていたのだ。それも、けっこうビッグになりつつある。やっぱりおまえ、天才だったな。昔からそうだった。

  そこで、鷲は虎のバンドのファンになったのだ。

  足しげくライブに通っているうちに、鷲と虎は仲良くなり……虎はゲイであることをカミングアウトして……鷲も、ゲイの男と付き合っていたことがあることを明かし……

  「今に至る、か」

  オレが言うと、鷲は気まずそうに肩を縮めた。なにを遠慮するというのでもなかろう。オレがむかし虎を愛していたなんて鷲にはわかりようがないし、仮にわかったところで気にすることでもない。

  虎も、鷲が居心地悪そうにしているのを気にしたのだろう。

  「もう上がっていいぞ」

  そう言った。

  「え? いや、しかしね……」

  「違くて。普通に退勤時間だから」顎をしゃくり、時計を指す。「明日も早いんだろ」

  「う、ううん……それじゃあ、悪いんだけど失礼するよ」

  なにも悪いことなんてない。鷲は虎との関係性において、オレになんの説明もする必要はない。オレたちはとっくに終わっているのだから。

  「じゃあね」と、鷲は言った。

  「さよなら」と、オレは言った。

  鷲は帰っていった。オレはその背中を見送った。オレはもう、この店には来ない方がいいと思いながら。

  「しかし、すんげえ偶然もあったもんだよな」

  「本当だよ」

  そう言った。でも言いながら、オレはオレで気まずかった。オレは、虎を一方的にシカトして離れたのだ。別離のあり方としてはあまりにも失礼過ぎた。

  虎はそれをどう思っていたのかとか、なんでオレがそんなことをしたのかとか、そういうことは言ってこなかった。それがなによりありがたくて、オレは関係ない虎の話に大喜びで乗るしかなかった。

  こういう卑怯者なのだ、オレは。

  「あのひとと、やり直したいとか思わないのか」

  「思わない」と、オレは言った。「嫌いになったわけじゃ、ないけどな。オレたちはたぶん、もうそういう段階にない」

  「そか」

  結局、三杯目のスコッチをもらった。

  「むしろ応援してるよ。むかし好きだった男たちが、巡り合って仲良くしてるなんて。野次馬させてもらいたいくらいだ」

  冗談で言ったつもりだった。しかし、虎はそれには乗ってこなかった。

  「好き、って?」

  「あ……」

  しまった、と思ったときにはもう遅い。

  「先輩、おれのこと、好きだったわけ?」

  「まあ……そう、だな」

  ポカンとしていた虎が、カウンターの向こうから憤然と身を乗り出してきた。

  「バカ! 言えよ!」

  言えるわけねえんだよなあ。

  「マジかよ、おまっ……はあ~~……」

  「ごめん」

  オレが言うと、虎は空気圧の半端なタイヤみたいになって、カウンターの向こうに戻った。

  「いや……おれも、ごめん。そりゃあ、まずかったよなあ」

  「まずかった?」

  「Skypeで、さ……」

  オレにしてみれば忘れようもない傷ではあった。でも、虎の方が覚えていたのは驚きだ。

  こういうヤツなのだ。だから、コイツは確かに天才だけど、それだけじゃなくて色々なところで好かれる。

  「おまえがゲイだって聞いても、まあ、おれがきっかけだったんだろうなとは思ったけどよ。そうかあ……いや、マジ、最低なこと言った。ごめん」

  「いいんだよ」と、オレは言った。「そんなことは気にしなくていい」

  おまえから離れたのは、オレの勝手だったから。今になって、こんなふうに気にしてくれることさえ、身に余ってしまうほどの身勝手を、オレの方が働いている。そしてオレは、自分からそれを持ち出せない。

  怖いのだ。冷凍しまま放置したものを解凍しはじめたら、オレはまたあのときの気持ちを思い出してしまう。おまえを愛してしまいそうになる。そうしてまた、死にそうなほどの劣等感で頭がいっぱいになってしまう。それがどんなにか恐ろしい。

  なにより、「おまえがいたせいで」という責任転嫁をするほどの卑怯者にはなりたくないから。それはさすがに、度が過ぎる。

  「幸せか?」

  オレは尋ねた。

  「まあよ」

  虎は答えた。

  「よかった。あのひとも、きっと幸せだよ。オレといたときより、ずっとな」

  この時――ここで、止めておけたならと何度も後悔することになる。

  さっき口を滑らせたばかりなのに、オレはもう隠すことなどなくなったような気になって、油断していた。

  口は災いの元。うまいことを言うヤツがいたもんだ。誰なんだ、そいつは? 今すぐここに来て、オレを殺してくれないか?

  「オレと別れたときは、結婚するって言ってたんだよ。やっぱり女の子には勝てねえよなあって、すっぱり諦めたけど。結局うまくいかなかったのかな」

  「結婚?」

  さあっと、血が引いてゆく音を聞いた。

  二度めの地雷。オレは……あまりにも馬鹿だった。他者との関係性を極限まで希薄にしているから、こういうときに言ってもいいことと、黙っておくべきことの区別もつかないのだ。オレさえ黙っていれば、どこにも波風は立たなかったはずなのに――

  「結婚、してたのか」

  虎は、忘我のように繰り返した。

  「何も聞いてないのか?」

  慌てたオレは、さらに馬鹿をやった。ここまできたら、もう明らかだろう。言うまでもないことを、いちいち口に出すのは馬鹿の専売特許だ。

  「知らねえ。なにも聞いてねえ」

  「いや……オレも本当に結婚したかどうかは、知らないよ。でもおまえと付き合ってるなら……」

  きわめて言い訳がましかった。鷲が虎に話していようといまいと……結婚がうまくいっていようといまいと……鷲のプライベートなど、オレが語るべきではなかった。

  「わり、ちょっと出てくる。先輩は飲んでていいから」

  虎が、カウンターから出てくる。そのまま店も出ていった。

  「ちょっ、おい!」

  さすがに放っておけなかった。オレは三杯目のスコッチの代金に紙幣を置いて、急いで後を追う。

  走って地下から地上に出る。あたりを見回して、デカい虎の後ろ姿を見つける。

  「待てよ。待てって!」

  「ついてくるな!」

  肩越しに振り返り、虎が吠えた。それでもかまわず追いかけると、虎はいきなり走り出した。

  最初は、オレも走って追いかけた。でも虎の後ろ姿はどんどん遠くなってゆく。通行人もまばらな夜の街並みから、大通りのそれなりの人混みに飛び出された途端、あっという間に見失ってしまった。

  虎は、今でも体を鍛えているのだろうか。とんでもなく足が速かった。方や、仕事帰りのスーツとローファー。追いつけるわけもなかった。オレは、割とすぐに諦めた。そうして大学時代の、虎から離れることを決めたあの日のことを思った。あのときはおまえ、サンダル履きでもオレに追いついてきた。それがオレときたら、どうだよ。追いつけないだけならまだしも、ダメ元で追いかけてみることすらあっさり放棄している。

  だいたい……追いかけてなにをどうするつもりだったのだろう。言ってしまった言葉など、もはや取り返しようもないことなのに。

  なんだか、無性に笑えてきてしまった。自分の救いがたさに。

  オレがオレ自身を幸福にしてやれないのは、オレの勝手だ。でも幸福になろうとしている者の足を引っ張るのは、いくらなんでも筋違いだ。かつて愛した男たちが、奇跡のように知り合って結ばれ……そこへさらに奇跡のような再開を果たし……それで、この結果か。

  存在の醜悪さに、笑うしかなかった。なにかを力いっぱい殴りつけたいような気がした。痛くて痛くて、それでも殴り続けて、血を流したいと思った。

  なにもわかっちゃいないのだ。空っぽ同然の生き方をしてきたオレは。わかっていると思っていることすらわからず、だけどわかったようなフリだけはしていたい。わかったようなことは言い続けたい。そんな、心底しょうもない男なのだ。

  だから最初から、誰もオレに期待などしてほしくない! 自分がどれだけ矮小なのか、オレがよく知っている。でも、持ち上げるだけ持ち上げて、そのあとで見捨てるのはなによりも残酷だと思う。それなら最初から、なにもない方が良い。他者となど、必要最低限以上にかかわらなければいい。

  オレは駅に向かった。終電に乗って帰らなければいけない。そうして帰っている間じゅう、ずっと考えた。

  だけど……オレは本当は寂しくてしかたがない。わかりあうなんて面倒だ。相手の気持ちに気付くなんて、どれだけ難しいことか。時間がかかる。回り道だらけだ。わかってもらえやしないと思うし、わかったと思っても間違えていたりする。面倒くさい。だけどオレは……そういう他者と、それでもどうにか繋がりたいと思ってしまう。脆弱なプロトコルでしか繋がれないような、不完全な通信しかできない我々でも、いつかきっと認め合い、分かり合える時がくると信じたい。

  しかしそういう気持ちが……寂しさを埋めるために必死にもがくその行為が……結局まわりを不幸にする。いい加減わかれよ! オレはもう、自分というヤツに愛想が尽き果てた。

  いつか、回転寿司に行ったときにレーンに乗っていた三種盛りのことを思い出す。ずっと……ずっと回っていたのだ。もう三回目だなあと、オレはその三種盛りをぼんやり見ていた。売れ残りだと思って、なんだか切なくなった。後からイキのいいのがどんどん入ってきて、照明の当たり過ぎでクタクタになってしまっている。干からびている。あれじゃあ選んでもらえないよなあ……

  もう、いいんじゃないだろうか。

  自分にもなにかがあるはずだとか……自分の人生を面白くしたいとか……そんなふうにもがくのは、もう。

  そう諦めたヤツから、満員電車に詰め込まれる乗客の顔になってゆく。そうなりたくないと思いはしても、オレにはもう、ベットできるコインなど一枚も残っちゃいなかった。ひび割れから、ザラザラ流れてなくなってしまった。

  もう、疲れた。

  それからだ。オレがTwitterに耽溺するようになったのは。実存が必要とされず、自己を細分化してガス状に分布してしまえるネットに入り浸る行為。そうして、「みんな死ねばいいのに」だとか、あるいは「ああ死にたいな」とか思いながら、ときどき意味不明なつぶやきを送信する。

  それが限界だったのだ。オレにとって、他者とのコミュニケーションは木工用ボンドと段ボールで作られた人形たちと会話するのに等しい。それぐらい、隔絶した存在として自分を扱うより、ほかがなかった。

  でも……一枚のコインもないと思っていたオレにも、まだ「信じること」はできたらしい。その力が残っていたらしい。

  オレは、神様を信じたいと強く願っていた。

  大人になるということは、それだけ多くの選択をしてきたということだ。

  なにかを選ぶということは、そのぶんなにかを失うことで……大人になってなにかを掴んだ喜びは、「ここまでやった」という想いと、「ここまでしかやれなかった」という想いを……同時に思い知ることでもある。

  でも、その掴んだなにかが、たとえ小さくとも確実にここにあるんだとしたら、掴んだ自分に、少しは誇りを持てるかもしれない。

  「おはよう」

  目を覚ますと、目の前の彼の顔があった。

  「おはよう」と、オレは言おうとした。代わりに欠伸が出た。「どうしたんだ? オレの顔なんか見て……」

  「あなたに抱き着きながら、起きるのを待とうと思ったら、起きちゃったから」

  「なるほど」

  抱きしめて、布団の中に閉じ込めてやった。

  マットレスのまわりには、段ボールの山。毎日、荷ほどきしているのに一向に片付く気配がない。

  「お腹のあたり、ゴツゴツしたのが痛いんだけど」

  「まあ、朝だからな」

  「する?」

  「するかあ」

  ――した。

  彼が高校を卒業するまでは、とりあえず普通の交際を続けた。大学に進学する段になって、彼は「友達とルーム・シェアをする」と言って、実家を出た。オレもいい機会だしと思って独立することに決め――

  まあ、こうなっているわけだ。

  オレは彼に、確かな愛情を感じている。ただそれには、かつて愛した男たちへ感じたような……激しく相手を求めるほどの強さはない。彼が大切なことには変わりはないのだが……申し訳ないながら、オレはいまだに、虎や鷲以上に誰かを好きになれたことがない。

  彼の愛は結局のところ、オレが労することなく手にした愛だった。努力し、悩み、戦って獲得した愛ではない。オレはただオレであるだけで、彼から愛された。それはネットで誕生した愛であり、言えばオレがずっと納得できずにいた「顔で判断される」こととは正反対の出来事だったわけだが――

  今一つ、不完全燃焼だ。結局、外見とか内面とか、そんなことは無関係だったという話になってしまう。自分でなにかしたわけでもなく転がり込んできたものを、どれほど愛おしく思えるか……そういう帰結になるのだろうか。

  いずれにせよ、オレのコンプレックスというのはとんだお門違いだったのだ。彼がいなければそのことに気付くのに、いったいどれほどの時間をかけたのやら……

  彼はオレを愛してくれている。オレも彼を愛している。そのことに、オレはどんなにか強い力を与えられている。彼は、オレを幸せにしてくれる。

  だけど……結局オレは、自分の力で恋を勝ち取ったことがないままだ。

  「調理器具、なにから揃えたらいいかな。そろそろちゃんと自炊しないと……」

  下着にシャツにエプロンという、あまりにもかわいらしい姿の少年が、キッチンで動き回っている。オレはコーヒーを作るための湯を沸かしながら、思いきり顔をデレデレさせた。

  「なに。変な顔して」

  「いやあ……同棲、してるんだなあって思ってよ」

  「また言ってる!」彼はフライパンに油を敷きながら笑った。「毎日言ってるよね。何回言ってんだよ。何回言ってんだよって、何回言わせんだよ」

  別に、恋がなければ幸福になれないとは思わない。恋がなくとも幸福な人生は、絶対にどこかにあるはずだ。

  だけど、それはそれとして……オレの最後の恋は、愛したふたりの男たちは、終わりというには、あまりにもあっけない別れ方になってしまった。終わったことには違いないが、どうにもやりきれないというか。

  どんなことだって、突然はきつい。

  オレはまだ、恋を諦めきれてはいなかった。

  「うーん……」

  「どした」

  「サンドイッチ用にパン切るのって、難しいなあ」

  「ラップで包んで切れば、具もはみ出ないぞ」

  「天才かよ……」

  オレは、彼を手放したくない。少々喧嘩することがあっても、なんだかんだ仲直りして、一緒に暮らしてゆけたらいいと思っている。オレは彼のことを、手ひどい失恋の代償行為として愛しているわけじゃない。かといって、あれがオレの最後の恋であり、オレにはもう恋にときめくことがないと思うと、残念だなという気もしてくるのだ。

  勝手だよな。足るを知るということがない。超身勝手なオレだから。

  オレは……必死だった。恋をしているオレは、あんなにも一生懸命だった。現実に打ちのめされながらも、努力などしたことのないオレが、恋に対しては真剣になれた。

  今のオレは、彼とちゃんと向き合えているだろうか? 彼のために必死になれるだろうか?

  そう思うと、とても寂しい。

  だから……それこそオレは、あの恋を、最後の恋と考えるのはやめようと思うのだ。この先もし、だれかに、なにかに恋をするとしたら……その恋はいつだって、[[rb:最 > 丶]][[rb:後 > 丶]][[rb:か > 丶]][[rb:ら > 丶]][[rb:二 > 丶]][[rb:番 > 丶]][[rb:め > 丶]][[rb:の > 丶]][[rb:恋 > 丶]]だ。

  「まだまだ」はいいことだ。大人になってもまだまだってことは、伸びしろがあるってことなんじゃないか? わからないことだらけ、探してるものだらけ。その方が前に進めるというか、このさき成長できるというか……断然、贅沢な生き方だと思うから。

  「学校、今日は昼から?」

  「ううん、二コマ目から。ちょっと急がないと」

  「なにを?」

  「シャワー。誰かさんが朝から大量だから」

  あれから、Twitterはほったらかしだ。今のオレには彼がいるから、ネット神様は必要ない。神様のことなんて、もう心の底からどうでもいいよろしい。

  人生は、自分の未来に恋をすることだ。ひとりでするのがつまらなければ、だれかといっしょに未来に恋をするのだ。

  オレは、彼と過ごすこれからの人生に、恋をしてゆきたいと思う。

  虎は……鷲は……幸せだろうか。あれからふたりで喧嘩して、仲直りして、いっしょに過ごして、旨いものを食って、酒を飲んで、いっぱい遊んで、いい景色を見て、楽しいことを共有して……そんなふうに、幸せに生きているだろうか。

  そうであってほしい。無責任にも、そう願っている。失恋だって恋には違いないのだ。

  「じゃ、いってきまーす」

  「いってらっしゃい……あ、待って。忘れ物」

  「ん? 財布……ある。定期……ある。スマホ……ある」

  「そうじゃなくて」

  だからどうか、オレのことなんて忘れて、とっとと幸せになっちまってくれ。オレもふたりのことを、踏み台にしていきてゆくよ。

  ――オレに失恋を教えてくれて、ありがとう。

  「今日もかっこいいよ!」

  そんなもんだ。

  オレは、幸せになるよ。

  「――おう!」

  エレベーターのドアが開く。箱に乗り込み、玄関から見送ってくれる彼に、オレも手を振った。