獣の腹の中は暗く窮屈だったが、不快感を得ることは無かった。あの鋭い歯が並んだ大口に呑まれたときに一瞬感じた生臭さや、密閉された空間で感じるはずの息苦しさでさえ、いつの間にか完全に消え去っていた。先ほどまでは俺を包む大きな胃袋が盛んに蠢いて、液体を分泌していることを、壁に当てた右の手で感じられていた。しかし、今ではもうその右の手の平からは何の情報も伝達されて来ない。大きくて邪悪な獣は……俺と彼女が初めて会った夜のように、俺に嘘をつかなかったようだ。喰われる過程で何の苦痛も感じないというのは、本当の事らしい。彼女が用いる魔法なのか、彼女がそういう体質の魔物なのかは分からないが、きっと俺は感覚の麻痺が齎す甘い平穏に包まれながら溶けて無くなるのだろう。
大丈夫? 苦しくないかしら。獣は腹の中の獲物にそう語りかけてきた。あの夜のように優しくて恐ろしい女声だった。ゆっくりとした鼓動と、穏やかな呼吸音の向こう側から、獣が布越しに腹を摩る音が聞こえてる。固い爪が布を引っ掻く高音が混じった特徴的な音。外側からは何度も聞いた音だけれど、内側から聞くのは初めてだった。俺はため息をついて鈍い思考を巡らせた。結局のところ、俺はどうして自分がこの獣に喰らわれることになったのか、よく解っていなかった。逃げようと思えば、この大きくて邪悪な獣の餌場たる街から出ていくこともできただろうから。獣が密かに何の罪もない人々を、満月の夜が音連れるたびに一人ずつ喰らっていたことを誰にも話さずに許し続けた罪の報いを求めているからだろうか。獣が操る邪悪な魔法に精神を侵されてしまったからだろうか。あの若い日の夜に獣と交わした、二人だけの秘密の約束を愚直に守ろうとしたからだろうか。それとも、俺が、獣が人を丸呑みにして、その腹の中で溶かしていく様子に、溶かされてあの大きくて邪悪な獣とひとつになることに本当に魅了されたからだろうか。……本当に?
結局、答えが出ることは無かった。俺は何に支配されていたのだろうか。応えてくれるのはますます激しくなっていく、湿った肉が擦れる音だけだった。大人しくって、良い子ね。眠らせないで人を喰うのは初めてなのよ。胃袋の中に彼女の声が響く。彼女は、自分は魂を喰らうのだ、と語っていたけれど、その過程で俺の意識はどうなるのだろう。俺はほとんどの感覚を喪失して、いまや身体を取り巻く穏やかな暖かさと遠く微かな音を感じるのみになっていた。もう何もかも溶けてしまったのか、胃袋が動いてその中身を攪拌するのを感じる。喰われて溶ける前の俺に混じっていた空気と、俺が溶ける過程で生じたガスが泡となって浮かんで、弾ける音が聞こえる。しばらくすると、彼女は腹を摩りながら、俺を呑み込んだ直後ぶりに、大きな二度目のげっぷをした。あんなに大きかったのに、すっかり小さくなっちゃったわね。彼女が、はじめは大きく歪だったが、今はもう丸く滑らかな膨らみを宿すだけになった腹を抱えてそう言う。……彼女の感覚と、俺の感覚が不可分になってゆく。
彼女は総てを溶かして自分のものにしてしまうから、食事の後にはいつも何も残らなかった。俺もきっとそうなるのだろう。桶に満たした水へ垂らした不純物のように、意識が希釈されてゆく。長くも短い生の中で積み上げていったものが全て拡散していく。俺はあなたと約束したように喰らわれる価値のある魂になれましたか。そう問うても、答えは無い。