Introduction : 春を待つ人
冬の終わり、悲しみの只中にあっても、まだ立っていられた。あの子との絆が、僕をより強くした。まだやれる、まだ頑張れる、そう思えた。ずっと憧れていた、想いは通じると、何時の頃からか、そう信じられた。僕は意固地だ、会津の血が流れる分からず屋だ。だから、何があろうとも、あの子のことは諦めなかった。
そうは云っても、僕は湯島の生まれだ。会津には両親各々の実家があるだけで、よくは知らない。あの子の気が遠くなるようなヒップラインを思い出しながら、僕は今夜もマスを掻く。また抱いてやりたい、ここのところいつもそんな調子だ。イライラする。己の体調に神経が翻弄されているようで、僕は舌打ちをするのだった。
何時でも側に居たかった。本当はそんなだ。でも、それが叶わずとも、また逢えればそれでいい。春になったらきっと楽しいことがたくさんあるから、今夜は孤独を抱き締めながら眠ろう。そんな内省の時間だって、時にはいいものだからーー。
*****
家族なんて要らない、そう思って生きてきた。あの子に逢うまでは、本当に独りぼっちだった。間違いなんて何度でもあった、あの子とのことだって間違いだったのかも知れない。二月の末、母と訣別した季節、父が居なくなった季節、また巡って来た季節。まだ小さなこの肩に、他人からの軽蔑の念が一身に降り注いだ。それでもいい、誰と家族になるかなんて、自分で決めていけばいいから。しがらみなんて要らない、前に進めればそれでいい。
雪が降る、今年初めての雪は、結晶の跡形もないような、人肌で崩れてしまったかのような、無残な成れの果てだった。それも東京らしい。あの子との思い出が全部詰まったこの街から出て行くことなんて、僕にはできそうにもない。あの子の存在なしでは、僕はこの冷酷な世界との繋がりをもう保つことができない。家族なんて、僕には関係なかった。それでもどうにかやってこられた、生かされているからといって、何処でだって媚び諂うわけではないんだ。もう一度チャンスがあるなら、今度は思いの丈を全部仕舞い込んで、明るく笑ってみるから、また抱き締めて欲しくて、それでこそまた生きて行けると思うから、だから愛している、何処までも往こうーー。
今年、十七になった。少年でなくなった、そんな歳の頃だった。生意気だった。来る者は大抵拒んでいた。それでも、あの子にだけは違った。僕は本当は弱々しくて、女々しくて、哀れで、愚かだ。あの子だけはそんな僕を真っ直ぐに受け止めてくれた。そんなことは初めてだったから、裏切らないでいようと思った。生まれて初めて湧き起こった感情。僕の生きている証をあの子の中に刻み付けたくて、僕はそのためだけに生きていた。求めているのは何も、そんなに難しいことではないんだ。ただ、自分で選んだ子とともに生きて行きたい、それだけだった。
春が近い。季節の終わりに降る雪は、やっぱりどうしようもなく往生際の悪い形をしていた。なんだ、僕みたいだな、そう思って、泣いたーー。
タクシーを捕まえて、待ち合わせの場所に急ぐ。車内は狭い。暖気で眠くなる。結露した車窓からは、煌めくような灯りだけがポツポツと見えていた。僕は親類の家に身を寄せていたが、彼等は僕にあまり関心がない。伝統的な家族観だなんて、笑わせる。そんなものは少なくとも僕の身の回りでは、とうに崩れ去っている。それでいい、誰の助けも要らない、そう信じている、ただあの子と繋がっていられれば、他に何も要らない。
一人前への道は、まだ遠い。秋葉原、アトレ前、18時。あの子の背中を見つけて、物怖じする。また負けそうになる。
でも、振り向いたあの子は、笑っていた。それだけで崩れ落ちそうで、思わず抱き締めていた、往来の中我ながらよくやる。
「ショウちゃん、どうした?また寂しいの?それなら、俺が居るよ!」
同い年、背丈も似ている、左利きなんて今どき珍しくもないけれども、僕とあの子は揃って左利き、それは流石にちょっと珍しい。目の前のあの子の笑顔が予想よりもこそばゆくて、でも嬉しくて、珍しく名前で呼んでみた。
「トウヤ、好きだ」
気付くと雪は止んでいた。でも風がまだ冷たい。前髪があおられて乱れ舞う、もうそろそろ切らないといけない。長い髪は嫌いだ。ふたり揃って、短くしていたい。
思い出を作りたい、記憶に残したい。トウヤのあの柔肌に、爪痕を残したい。
久々に居酒屋に入った。歳なら誤魔化せる、そう踏んだ。テーブル脇のタブレットで注文をする。レモンサワーのジョッキをふたりして頼んだ。乾杯をする。ここでは湿っぽい話はなしだ。砂肝や酢の物といった当たり障りのないメニューが、程なくしてテーブルに彩りを添えた。トウヤは云う。
「春休みになったら、何処か遊びに行こうよ!泊まりがいいけど、もう予約なんて無理かな」
泊まりはね、と返しながら、そういえばトウヤとはまだ一度しか抱き合っていないことを思い出す。今夜あたり、頑張らねばならない。厚かましく親類の家に寄生する身の上で、バイト代を叩いてこんなところに来ている。でも、構うもんか。頼れるものになら何にでも頼って、時に甘え寄り掛かりながらでも、二本の脚で立って歩きたい。トウヤとなら、それができると信じている。
三時間が経って、もう肌が擦れ合っていた。相変わらず刺激が強い。酔いが回っているのもあって、今夜はちょいと甘えそうだ。
「ねぇショウちゃん、今夜は僕が挿れるね。特別だよ!」
ぎこちない触れ合い、そこはまだ子供だ。家族なんかより、この温もりがいい。たまには貫かれるのもいい、正直痛い、でもそれもまたいい。
悔しいので今夜は無言だ、ただ涙が堪えられない、我ながら情けない。それからはあっという間のこと、果てるのは早かった。未熟なのかも知れなかった、ただ目の前の温い塊だけが愛おしかった。
築六十年は経とうかという、湯島の一戸建て、その離れが僕の部屋だ。段々と気持ちが解れてきた。親類は僕のことを、彼等なりに甘やかしているのかも知れない、たぶんそうだと思う宵闇の最中。突っ張っていた気持ちが、やっぱり幾分かは解れてきていた。まだまだ子供だったんだな、やっぱり寂しかったみたいだ。
翌朝、雪はあらかた溶けてしまっていた。抜けるような青空が広がる。今朝は芯から冷える。学校は、今日はフケようか。
9時、上着を引っ掛けて手を繋いで、揃ってなだらかな坂を上る。途中、トウヤの着ていたメルトン地の朱赤のショートダッフルが、気紛れな向かい風を孕んで、大きくはためいた。並んで歩く背中はたぶんそんなに大きくはないのだろう。ただ丸くて、揃って頼りない。似たもの同士、寄り添い合って生きて行こうと誓った。
僕等は世間的には、いわゆるボンなのだろう。ただトウヤの家にしても、姉が母代わりになっていて、足りない分の人手は祖父母が買って出ていた、そんな状態だった。
トウヤの姉さんとは、一度会ったことがある。トウヤと同じように透明な目をした、可憐な人だった。ただ言葉は悪いが、少しばかり人たらしなのではないかと、そんな気がしたのも覚えてはいた。女であることに頼って生きているとしたなら、それはそれで切ないと思った。余計なお世話だったかも知れない。
気紛れで、カフェで軽食を摂ることにした。サンドイッチとラテ、オーソドックスなメニューだ。アンニュイな10時前、こんな時、トウヤの一挙手一投足が眩い。
アナログレコードのモダンジャズが静かに鳴り響く中、携帯で、春休みの予定を立てたかった。そんなことをしながら、昼までここで時間を潰す算段だ。春はすぐそこまで来ている、明日は春一番が吹くらしい。目まぐるしい気候の変化の中にも、日常の楽しみは潜んでいるもの。今夜一旦別れて、明日はトウヤは何を着て来るのか。赤はよく似合う。春らしい格好がいいなら、ピンクのニットというのもいいだろう。僕は地味に纏めよう、それでいい、それくらいがちょうどいい。
店の奥まった席、誰の視線もない中ふたりして携帯を弄り倒す。今時の光景には違いない。ラテが冷めてしまった。飲み干して、また注文をする。ハートのラテアートが可愛い。この感じだと、店の人にも知られているかも知れない。僕等は隠さないのだ。
男は時に猛々しい。欲求不満というのもあるだろう。たぶんホルモンバランスが関係している。僕等は昨夜抱き合ったばかりだから、今はスッキリした心持ちだ。トウヤもそんなところだろう、この子も時折雄らしくなる、そんな時はやっぱりあるのだ。
トウヤの携帯が振動を始める。珍しいこともある。嫌な予感がした。浮気がどうとかではない。トウヤに限ってそんなことはない。そうではない、単なる虫の知らせだ。ただ今回に関しては、これは当たっていた。トウヤの姉さんが倒れたのだーー。
トウヤの姉さんは、上野の飲み屋で働いていた。トウヤとは異母兄弟にあたる。ハーフであり、名をリューシャと云った。実家は老舗の洋菓子店だ。世の中、内情はなかなか解らない。詮索しても仕方ない。ただ働き者で無遅刻無欠勤でよく同伴もしていたと、トウヤは語っていた。過労が祟ったのだろう、それくらいに思っていた。その時は、トウヤも慌ててはいなかった。まさかと思った。
リューシャは肺炎だった。症状が重く、入院を余儀なくされた。我慢していたのだろう、ゆっくり休むといい。
実はリューシャには想い人が居た。背の高い男性らしい。悲恋だという。どうかな、僕等だっていつどうなるかなんて解らない。その日、一旦トウヤと別れて、家の離れで俳句をしたためていた。夕食はロースカツ。親類とはひと言ふた言会話をして、離れに戻った。
人間なんて皆、裏切る。真っ当に生きていたって、陰口くらい叩くこともある。トウヤは裏切るだろうか?僕等は無事で居られるだろうか?世間の風は時に冷たい。そんなことは判っている。それでも、もっと甘やかされたいと願う。いつか見た初恋の人の後ろ姿は、最後に目にした時の父の後ろ姿と、よく似ていたーー。
トウヤには弟が居た。その名はトウジと云った。自動車事故に巻き込まれて夭折したが、才能溢れる子だったという。絵が上手かったらしい。最後に会った時のレストランでの海老フライを食べながらの会話を、僕はよく覚えていた。
「トウジ君よ、トウヤはどんな兄かね?」
「優しいですよ、ただ優し過ぎます。誰も傷付けないで生きるなんて不可能なのに」
「トウヤのことは僕に任せとけ。姉さん、大事にするんだぞ」
「頼りないんですよね、ショウさんは」
はにかんだ笑みが今も忘れられない。兄弟だけに、それは少しばかり似ていたと、惜しいことをしたとつくづく思う。
それから何年か経って、遅ればせながら変わりつつある己の肉体を恨めしく思いながら、久方ぶりに髭を剃るのだった。そういえば声変わりしたのって、まだ昨年のことだったなーー。
リューシャの容体がいよいよよくないらしい。トウヤから電話があった。人の生き死になんて、所詮は運で決まるような不埒なもの。神様ってやつがいるとしたなら、そいつはちょいとばかり不公平で意地悪なやつだと、そう僕は心底思うのだった。
長い夜、僕は心配で寝付けなかった。リューシャに含むところがあるわけではなかった。ただ、トウヤは悲しむだろうな、それだけが心配だった。
石油ストーブの灯油が切れたらしい。今夜はこのままでもいいかも知れない。少し暑いくらいだったから、もう寝てしまおう。
明日、学校で会ったら、なんて声を掛けようか。トウヤのことは、僕が守る。それは、トウジにも語ったあの日からの約束だったから、裏切らない。トウジには、僕はあの日の約束をちゃんと果たしていると、何時だって胸を張って居たいからーー。
朝、朝食も食べずにタイトフィットなブレザーに袖を通す。少し腹回りが苦しい。門扉を開けると、南からの暖かな風にあおられて、ブレザーの上から羽織っていたベージュのショートトレンチが、大きくはためいた。タータンチェックの赤い裏地が顔を覗かせる。陽射しに目が眩んだその瞬間、携帯が着信する。トウヤからだ。リューシャは、頑張ったらしい。女って強いよな、そう思った。もう山は越えたという。いい休養になればいい、いつかまた会えたら、今度はもう少し頑張って仲良くしてみようか。
通学路の途中で、白い花を見掛けた。セリだろうか、どうりで春めいている。そろそろ僕等も子供気分は卒業せねばな。誰にも迷惑を掛けずに二本の脚で立って歩ける、そんな男に早くなりたい。いつかなれると信じている。僕だって時には真っ直ぐなんだ。
学校に着くと、遅れてトウヤがやって来た。同級で、席もいつも隣だった。そういえば小学生の頃から何時でも一緒だったような気がする。思えば、長い付き合いだな。
「やぁ、心配掛けたね!」
「ご苦労さん、姉さん早く退院できるといいね」
ひと言ふた言会話して、それとなく戯れ合って、ふたりして意味もなくケタケタと笑っていると、学級委員のカナミがちょっかいを出してきた。名前のせいで腑に落ちない顔をよくされるらしいが、彼は男なのだった。そんなこと今時珍しくもない、少なくとも僕はそう思っている。
「僕も混ざりたいって!」
「カナちゃんはしつこいからイヤー!」
「ねー!」
授業が始まる。アンニュイな気分だって、もう冬のせいにはできない季節。誰にも見られずに密かに気合いを入れて、今日も変わり映えのしない一日が始まる。
きっかけはなんだっていい。もっと前を向きたい。僕は男らしくなんかないけれども、それはたぶんトウヤだって同じだ。幼馴染のカナミだってたぶんそんな感じに違いない。別に構わない。
僕等は家族なんて作らない、ずっとそう思ってきた。内心のこと。でも今ならきっと、もっと図々しいことを云ってのけたい。家族なんて、きっと男同士だって作れる。なら、今からでもやってみればいいじゃないかーー。家族観なんて、或いは家庭というものの定義なんて、僕等が今からでも幾らでも、書き換えてやるんだ。
春めいたこの日、新しい家族のスタートには打ってつけだ。密かな誓いを胸に、今日も頑張る。色々あるけど、いっちょやってみますか!
Conclusion : アフタヌーンティー
春休みを控えたある平日、学校をフケた僕とトウヤは、カナミやリューシャを交えてアフタヌーンティーを愉しんだ。カモミールティーの香りが悪くない。風に乗ってモンシロチョウがやって来る。こんな日和、誰にも邪魔されないトウヤの家の秘密の中庭で、四人で何をするでもなく、麗かな時間を過ごす。その幸を思って、しかし陽射しのせいか少し眠たい、そんな気分。
このところ、僕がウケに回ることが多い。そんな筈ではなかった。でもその方が僕らしいのかもな。
リューシャは恋はお休みするという。それもいい、まだまだこれから。先は長い、焦らなくていい。
「また四人揃って会えますように」
「会えますとも!」
皆で笑った。こんな時がまたやって来るように、そう願う。風は追い風、巡り合わせもきっと悪くはない、また頑張ればいい。女の子にも、男にだって、きっともっと花がよく似合う、春だもの。そんなんでもいい、出会いはきっと人間を変える、いつかこの縁が支えとなるなら、それもいい、きっと季節は微笑む。この四人だって、もしかしたら家族にだってなれるんだから、なぁ。
話は変わって。
母は僕よりも男を選んだ人だ。父は絶望に負けて失踪した。男だって案外繊細なのだ。振り返って思う。血の繋がりが大切なのは、たぶん偽りなき事実。それでも僕等だって、幸せになっていい筈。世の中は間違っちゃあいないけれども、時に驚く程に残酷だったりもする。
僕は負けない、トウヤを守る。それはもうきっと僕等が家族だからだ。それでいいんだと、負け惜しみかもしれないけれども、確かにそう思えた。
春休み、僕等はカナミも誘って美術館巡りをすることにした。上野には美術館が幾つもあるから、打ってつけなのだ。トウジにも見せてやりたかった。アイツは絵が大好きだったから。
風に身を任せていると、夕暮れ頃には、まだ寒いくらいだ。このまま時が止まればいい、この頃何故だかそう思う。ふと手を握る、汗ばんだ掌、僕等ふたりに掛かった魔法は、まだ解けそうにもなかったーー。
了