Miracle

  ♯1

  いつか、また逢いたいと願った。あの子の胸の中で、また泣きたいと思った。それがたとえほんの気紛れに過ぎなくとも、今の自分にとってはそれがすべてだと、確かにそう信じられた。夏真っ盛り、モクモクと沸き立つ入道雲のように、章宏のあの子への想いは膨らんでいった。まだ子供だったふたりにとっては、ともに過ごす一秒一秒がかけがえのない時間だと思えて、それはまさに奇跡と云えた。

  *****

  国道沿いの、所々寂れた街並み。歩く、歩く、歩く。まだ小学五年生だった章宏は、夏休み、同級の隆二に逢いに行くために、二十分近くに亘って歩き続けた。家を出てものの一分で、玉のような汗が次々と噴き出す。Tシャツが背中にじっとりと張り付く感触、それは不快だった。それでも、章宏はあの子の顔を今日もひと目見たくて、無心で歩き続ける。

  インターホンを押す。鼓動が騒めく。橙の瓦に白い外壁のその家の、砂のような色目の扉がそっと開くと、冷気とともに、期待したあの丸い顔がにゅっと出て来て、目の前で綻ぶのと同時に、心奥のど真ん中に突き刺さった。章宏にとっては、隆二は漫画に出てくる海の生き物のようなところがあった。ここは海沿いなのでそれも丁度いい。可愛かった。さしずめ子ザメといったところか。

  「上がれよ」

  両脚をもつれさせて三和土に靴を脱ぎ捨てると、章宏は隆二のあとに続いて、玄関を入ってすぐの階段を二階へと昇った。上がると、突き当たりの扉が隆二の部屋だった。いつもそこは、章宏にとっては異世界だった。また来られて、よかった。

  ♯2

  隆二の部屋は十畳ほどあり、天井がとても高く、屋根の勾配に合わせて傾斜していた。大型のウォークインクローゼットの上がロフトになっており、梯子を使って昇ると、そこには無数の本が山積みになっているのだった。ふたりは少年野球のチームに属しており、このロフトには野球に纏わる様々な本や漫画が所狭しと並んでいた。まさに宝の山だった。

  シュガードーナツとメロンソーダをトレイに載せて隆二が再びその部屋にやって来るまで、章宏はロフトで漫画の頁を捲(めく)っていた。

  この部屋が広いのにはひとつ理由があった。元々この部屋は、壁で仕切ってふた部屋とする筈だったのだ。隆二という名前の示唆する通りで、彼には兄が居た。その兄が交通事故で不帰の客となったので、隆二は両親からひとりっ子として扱われるようになったのだ。兄が天に召されて以来、両親は隆二には甘かった。

  隆二の両親は揃って地元で、地方公務員をしていた。職場恋愛の末の結婚、よくある沙汰ではあった。この地域では車は生活必需品だったが、その車が普段使いの白いプジョーとお出掛け用のアウディのクーペだったこともあり、章宏は質実剛健に見えた実家のライフスタイルと対比させて、そのセンスに嫉妬と憧憬(しょうけい)の念を抱きながら、隆二の一家を、複雑な思いで見ていたのだった。

  ♯3

  まだ夏休みは始まったばかりだったが、誰しもが心配事からはいち早く解放されたいもの。ふたりは夏休みの課題を進めようとしていた。遊んでばかりいるわけでもないのである。自由研究や工作、それに絵といった課題は後回しにして、その他の教科の課題を終わらせようというのだ。

  先ずは読書感想文の宿題をやることになって、銘々本を読み耽る。ふたりは本好きではあったので、実はこの課題が一番楽しかったのだ。感想は巻末の言葉やネットのテキストも参照しながら、盗用にならないように慎重に書き進める。

  夕方になって感想文を書き終えると、章宏は帰り支度をする。本当は引き止めて欲しかった。泊まりとまでは行かなくとも、夕食くらいはともにしたかった。だが現実は甘くはない。仕方なく、また明日課題の続きをやろうと声を掛けるも、明日は親類の子が遊びに来るからまた来週と、つれない返事。気落ちした章宏は、抜け殻のようになって玄関へと向かった。

  「またな!」

  それだけを隆二に云われて、その時の顔が飛び切りの笑顔だったのを確かめて、それでまぁいいやと思い直すことができて、後腐れなく帰路へと就いた。

  ♯4

  辺りは橙色から次第に、夕闇へと沈もうとしていた。ダークブルーのグラデーションがとても綺麗な、ほんの僅かな一瞬。章宏は己の恋慕の念を明らかに持て余しつつあったが、それでもまた逢いたいと願った。

  帰ると、姉が深刻な表情で声を掛けて来る。この人は人を小馬鹿にしながら笑うことしかしない生き物だとずっと思っていたので、こんなにも真剣な表情を浮かべてこちらを見るなんてもう離婚だとかそういう話しかないのではないかと、一瞬で悟って、それが正解だったと知って、章宏はその場に崩れ落ちそうになった。

  姉は心臓に毛が生えている部類の女だったので、やはりというべきか、動じた様子は微塵も見せることはなかった。

  「あんたはどっちに付いてく?私は父さん」

  章宏の父は地元ではよくその名を知られた開業医であり、話によると十度目の不貞で堪忍袋の尾が切れた母が離婚を決めたのだという。それならと、章宏は母に付いて行くことにしたのだった。

  一家離散の時、母は親類の伝手を頼って、東京へと向かった。実家が神田にあるのだ。邪魔になってはいけない、子供心にそんな思いだけは抱いていた。隆二とのことは、忘れ去ろうとしていた。後ろ髪を引かれると挫けてしまうと思い、誰にも明かさずに東京行きの当日を迎えた。夏休みのこと、それはひっそりとした旅立ちだった。

  ♯5

  電車に揺られて、神田へと向かう道程。母は引っ越し荷物とともに、先に神田入りを果たしていた。東京は遠かった。隆二とはもう逢うこともないのだろうか、そう思えてしまって、胸がキリキリと痛み出すから、我ながら往生際の悪いことだとこの時の章宏は思っていた、章宏は道中ずっと、歯を食い縛っていたのだ。

  神田では、何もない日々が続いた。新学期になっても、取り立てて友人ができるでもなく、然りとて苛められるわけでもなく、平和というよりは、本当に何もない、それはがらんどうのような日々だった。

  教室では、いつも窓の外の景色を眺めていた。すっかり落第生になっていたから、教師連中も章宏には何も云わない。諦められていたのだ。

  季節が巡って、四月、小六の春、新学期。転校生がやって来た。恰幅のよい好青年で、人懐っこい笑みにやられた。章宏はこの時、二度目の恋に堕ちていた。こんな人生だって捨てたものでもないと、章宏はこの時確かに、そう思っていた。

  転校生はその名を旭彦(あさひこ)と云った。彼の周りには瞬く間に人が群がったが、旭彦は特に章宏のことは大切に扱った。

  「なぁ章宏、今日の放課後、お前んち遊びに行っていいか?」

  親指を立ててOKのサインを出す章宏は、それは嬉しそうだった。

  ♯6

  章宏の母の神田の実家は、いわゆる雑居ビルだった。祖父の所有する建物であり、七階と八階とを一同の住まいとしていた。築四十年にはなろうとしていたそのビルだったが、頑丈に造られており、まだまだ現役なのだった。

  ふたりは決して痩せてはおらず、狭いエレベーターの中は、彼らが乗り込むだけでぎゅうぎゅうといった風情ではあった。

  八階で降りるふたり。このビルの最上階だ。元々住宅ではなかったためか、エレベーターホールともなっている内廊下の突き当たりの鉄の扉を開くと、いきなり章宏の部屋となっていた。

  ベッドはダブルサイズだった。三和土もないので、入り口で靴を脱ぎ散らかすふたり。鍵を掛けるとそこはもう、完全にプライベートな空間だった。

  「俺、実はお前のこと、隆二から度々聞いてはいるんだ。あいつとは遠縁でな。俺はお前が好きだ! お前はどうだ? もし何だったら、俺が隆二との仲を取り成してもいいけどよ、ちと遠いか」

  章宏はそっと抱き付いた。それが返事だった。蜜月はその年の夏まで続いた。本当のところ、旭彦には家での居場所はなかった。昨年末にシングルマザーだった母が今の旦那と再婚して以来、徐々にネグレクトが酷くなっていったのだ。

  元々身体の大きかった旭彦ではあったが、もう食事も満足には与えられていなかったから、見る間に痩せていった。夏、章宏がモーションを掛けて、旭彦の服を脱がせた。随分と痩せてしまってはいたが、肌は綺麗で、それは愛おしかった。初体験はぎこちなかったが、互いに、子供なりには愛そうと努力を尽くした。

  ♯7

  旭彦の様子を心配していたのは、章宏だけではなかった。その母も同じ思いを抱いており、章宏から聞かされた話に遂に居ても立っても居られず、児童相談所に通報したのだ。

  旭彦は転校することとなった。その身は、隆二の両親が預かることとなったのである。

  別れ際、電車のホームで、ふたりはいつまでも側に居たくて、抱き締め合った。不思議と他人の目も気にならなかった。胸の中で泣き咽ぶ章宏、またひとつ成長をして、別れの時が近付く。

  章宏はいつまでも手を振っていた。あの子とはいつかまた逢えたら、そんな思いで胸がいっぱいだった。

  恋なんて破れるもの、でも愛なら、きっと何かは残る。そう信じて、章宏は時の流れに身を任せることとした。

  それから三年と八ヶ月だったか。三人は東京で再会を果たすこととなる。旭彦は見違えるようにぽっちゃりとしており、愛くるしさが噎せ返る程だった。

  三人は揃って落第生だったから、章宏の母の伝手を頼って、東京で就職することにしたのだ。

  神田の雑居ビルには空き部屋はなかったが、三人はそこで共同生活を始めた。隆二にはもう男の連れ合いが居たから、迷うこともなく章宏は旭彦に一途だった。

  ♯8

  三人は揃って、大田区の町工場で働いていた。実は三人とも、草野球のチームに所属しており、住まいが一緒だったこともあって、交流は密だった。野球の方は下手の横好きだった三人、芽が出るだとかそういう次元の話ではなく低レベルだったが、毎日が楽しかった。特に旭彦にとっては、辛い日々を終えて幸せがちゃんと待っていたことに、咽び泣く他なかったのだ。

  「ねぇ旭彦、君はどうして僕を待っていてくれたの?」

  「そりゃあお前さんが可愛いからだな」

  その言葉を耳にして、章宏の中には複雑な心境が芽生えた。可愛いと云ってくれるのは嬉しい。でもそれだけでは切ないと思った。だから訊き返した。

  「可愛いってのは嬉しい! でも、他になんかないの?」

  暫しの沈黙の後に、ボソリと旭彦は、想いを口の端に乗せてくれた。

  「愛しちまってる、それはある」

  堪らずに抱き付いた章宏、その胸の中で旭彦は、赤子のように甘えるのだった。野球で程よく鍛えられたそのガタイは脹脛も太腿も太ましく、あどけない顔とは正反対の雄臭さを醸しており、章宏はそれでもう胸いっぱい、旭彦が益々憧れとして煌めくのだった。

  ♯9

  「気張って行こうぜー! かっ飛ばせ、章宏!」

  草野球チームの四番が章宏だった。九回裏、同点で迎えたワンナウト三塁のチャンス。打席が回って来て、腕が鳴る。一球目はボール。その後二球続けてファールで粘る。四球目でクリーンヒット、遂に捉えた。サヨナラである。

  途中までは、負けると思っていた。何事もやってみなければ判らないものだ。奇跡が起きることだって、こうして稀にはあるのだ。

  帰り際、食べ放題のすたみな太郎で食事をする一同、肉にがっつく姿は雄そのものだ。

  「ね、ね、今日僕頑張ったでしょ!」

  章宏がそう云うので、周りの人間がくしゃくしゃになるまで、その頭を撫で回す。

  神田に戻ると、雰囲気が盛り上がったところでそこは三人相部屋であり、章宏と旭彦が抱き合っている最中には、隆二は知らんふりをして横になっているのだった。

  その晩も、章宏のくぐもった喘ぎ声が聞こえた。隆二は章宏を決して嫌いなわけではなかった。だから内心は複雑ではあったが、母に孫の顔を見せてやりたいという思いは強く、恋愛にはのめり込めなかった。

  一度、女の子を抱いたことがある。相手からモーションが掛かって来たわけで、ちょうどよかった。好きだったわけではない。それでも嫌いなわけでもなかったから、差し詰め隆二は、ゲイ寄りのバイセクシャルといったところなのだろう。

  何とその一度で子供ができてしまった。その報せが届いたのが、つい先程のこと。驚いたが、それを機に結婚へと一気に舵を切るのだった。

  件の男の連れ合いとは、結局別れたのである。身勝手だとは思っていた。それでも、それが真っ当な生き方だと信じたかった。実のところ、迷いはあった。でもこの子になら旭彦が居るし何ならまた連れ合いなど幾らでもできるだろうという風に、確かにそう思えたから、決断は早かった。

  ♯10

  隆二は近くのアパートへと越すことが決まった。新たな連れ合いの女の子と共同生活をするためである。子育て、それはふたりにとっては経験のないこと。頑張るしかない。

  奇跡は何度でも起きるものだ。連れ合いの女の子が妊娠したのは、一卵性双生児だった。世が世なら、おすピーだろうか。それは懐かしい。

  章宏と旭彦は、正式に同性のパートナーとなった。二人三脚で一歩ずつ、前に進めるといい。

  どうしたら幸せになれる、思春期の頃に、三人は銘々そう自問していた。幸せの形はひとつではない。それぞれが自分らしくあることで、幸せはきっと後から勝手に付いて来る。

  たとえ隆二が純粋なゲイではなくとも、仲間であることには変わりがないから、助け合えればいいと思っていた。最後の晩、章宏と旭彦の交わりに、隆二が混ざろうとした。“それは駄目だよ隆ちゃん”とそう云われて、気まずくなって外に出た隆二、我に帰って人知れず路上で、己の身を抱き竦めて崩れ落ちた。

  本当は、章宏を抱くのは自分でありたかった。ずっと蓋をして来た気持ち、隆二もまた章宏を愛してしまっていた。

  泣いて、喚いて、また泣いて。明け方まで飲み歩いて、憂さを晴らした隆二、それはそれで、可哀想でさえあったろう。

  “章宏、幸せになれ”、そう云いながら、隆二は連れ合いの女の子の元へと帰るのだった。

  

  Conclusion

  それから幾星霜。隆二は想いを押し殺して、よき父親であるように努めた。子供はすくすくと成長して行き、遂に中学卒業を迎えるのだった。

  隆二が最後に妻に掛けた言葉は、“もういいよね”、というものだった。妻はもうすべてを察していたから、黙って頷くのだった。

  実は先だってのこと、旭彦が癌で天に召された。章宏は憔悴し切っており、自分が支えになりたいと思っていたのだ。

  湿り気を帯びた大気が沈澱する濁った街並みを、懐かしい雑居ビルへと向かって歩いて行く。一階エントランス前で、章宏を電話で呼び出した。

  章宏は、変わらず子供のような甘やかな顔立ちで、隆二を迎え入れようとしていた。縋りたかったのだろう。それを察した隆二は、何も云わずにただ抱き付いた。

  ふたりの仲は今度こそ、これで永遠となった。やっと結ばれたその瞬間、天国で旭彦が笑ってくれた気がして、章宏は堪らずにその場に崩れ落ちた。

  ふたりは新たにパートナーとなった。もうこの恋路を邪魔立てする者は、何処にも居なかった。夏の夜、煌めく星々の灯りがふたりを祝福するかのように瞬いて、今、ふたりは幸せだった。

  了