♯1
セッション、という言葉がある。三つ程、意味があったか。思い返す、あの春の日を。仲間さえ幸せなら、俺もまたそれでいい。いいんだ。
些か不安定さを孕んだ風に惑わされて、桜の花弁が舞い散る花冷えの折のこと。俺と朋和は、間に横たわる微妙な距離感を、超えられずにいた。
“あの、俺”
云ってはみたものの、二の句が継げない。向かい風が吹き荒れる最中、煽られて俺は、よろめいた。
朋和は幼い。顔もそうだし、人となりもだ。本人も気にしているようで、でも背中を押してやれない。あまり自信を持たせても、俺の手元からは擦り抜けてしまうから。
“ね、先輩、今度さ”
朋和が何かを云いかけた。口の端から溢れた中途半端なままのフレーズは、巻き取られることもなくそのまま放置された。心奥に刺さる棘。
結局、それは俺の心を掻き乱したままで、俺らは上野駅前まで到着した。今日のところはこれでジ・エンド。
別れ際、踵を返したのち、振り向いて、朋和の思いの外深刻な憂いを帯びたその横顔に動悸がして、眩暈で俺はよろめきながら駆け出した。
“好きです!”
何がとは云われなかった。俺は背中で、手を振って返した。あの日の後悔が、今もヒリヒリと胸に焼け付く。
♯2
五本の指を真っ直ぐに伸ばして、左手を空高く掲げた。短い指の隙間から零れ落ちた陽光が、目の端に留まって眩しい。
朋和が結婚をしたらしい。俺は止めなかった、俺にはそんな資格はなかったからだ。彼奴には、幸せがよく似合う。達者で、それだけを願った。
披露宴には呼ばれなかった。仕方のないことではある。ただ、ほんの気紛れだったかも知れない、それでも少し、寂しかった。
バーでマティーニを頼んだ。少しの酒で酔いたい、そんな気分には打ってつけの酒。カクテルの王様とも呼ばれるその少々退屈な酒を、俺は一気に流し込んだ。心なしか、指先に血が漲る感覚を捉えた、そんな気がした。
隣の席に、横にばかり大振りな男が、腰を掛けた。朋和かと思ったが、隣に居たのはその弟。顔は知っていた。よく似ている。一度、挨拶を交わしたことがあった。
弟はその名を雄司と云った。此奴は俺を唆した。
“お前さんは、俺に抱かれる気はあるか?”
自信満々の目付きで迫る雄司のガタイは、朋和のそれよりもひと回りは大きかった。俺は眩暈がして、しなだれかかった。夏、一夜の情事、そんなこともあるーー。
♯3
つむじ風に乗って、落葉したばかりの樹々の葉が舞い始めた折のこと。朋和からのメッセージが携帯に届いた。
“僕、今子作りの真っ最中! いつかウチの子を、先輩に見せに行きます。待っててください!”
当たり障りのない文面に、内面の成長が滲み出ていた。間違いない、彼奴はいい男になる。上野公園の噴水前。俺は独りごちて、泣き崩れた。
その夜、雄司と抱き合った。刹那の快楽に溺れることで、傷口は一時的にせよ、塞がった。
“なぁあんた、何で彼奴ばっかりに気を遣うん? 俺にだって、ちっとは優しくしてくれてもいいんだけどな”
不意の雄司の愚痴とも取れる発言に、俺は押し黙った。シガーを一本吹かす。燻る煙に思いの丈を乗せてみる。何かは伝わる、そう思ってのこと。次の瞬間、雄司は再び、猛々しい雄へと姿を変えた。
通り雨が降る夜、隣り合わせで、ふたりきり。サッシの向こう側では、水滴がアスファルトを叩き続けていた。俺は、春に戻ったつもりで、二の句を継いだ。相手は異なるが、この際似たようなものだ。
“あの、俺、お前のこと、好きだよ”
やっと云えた。こんなひと言が、ただそれだけが、朋和には遂に云い出せなかった。俺には何故だか、この時の雄司の横に広い筈の背中が、幾らか小さく見えたーー。
♯4
六花の煌めく空模様、その日は冷え込んで、上野も一面の銀世界と化した。まだ気温が下がり切っていないからか、或いはここが東京だからか、積もった雪は半分溶け掛けていて、それは涙混じりにも見えた。
朋和からメッセージが届いた。妻が妊娠したようだと、淡々とした文面でのこと。
“僕、仕事終えちゃいました。もう用済みかな”
だから俺は電話を掛けた。ネットワーク越しに、互いのくぐもった声が伝わる。ひと言だけ、それで俺は云いくるめようとした。
“まだまだこれからだよ!”
何で弟と、先輩だけ狡い、そんな昔懐かしい甘えた声がひと頻り聞こえた後、最後にひと言、こう添えられた。
“先輩、ありがとう”
朋和よ、お前はよくやったよ、そう思いながら俺は電話を切った。それが彼奴との、今日までで最後の電話だった。もしも人生をもう一度だけやり直せるのだとしても、俺はまたもこうした結末を選ぶのだと思って、馬鹿だな、そんな風にせせら笑った。
その夜、俺は雄司を抱いていた。いつもとは逆だ。偶にはそういうのも、あっていい。雄司は歯を食い縛っていた。痛いのか気持ちいいのかは、測りかねた。俺もまだまだ、下手くそだな。
ベランダの手摺に雪が積もっていた。窓に近寄ると、エアコンの室外機が微かに音を立てている。雄司は眠っていた。俺はその鼻の頭にキスをして、同じ布団に潜り込んだ。胸がこそばゆい、そんな感覚。日付が変わって午前0時、この日はクリスマスイヴだ。ともに居られることが何よりの宝物。朋和よ、俺はお前のことは、或いは愛し過ぎたのかも知れない。そんな柄でもないことを思って虫唾が走った、だから堪らずに、俺は雄司に抱き付いた。温もりで溶ける心も塞がる傷もある、それなら朋和だってもう大丈夫。彼奴には、守るべき人たちが居るからだ。
Interlude
季節は巡って、二年後の春。俺は朋和の連れ合いの遥香さんと、初めて話をした。ふたりの子の篤も一緒だ。まだ幼い篤だったが、俺に云わせれば可愛い盛りだ。俺や雄司の知らない世界を、此奴はもう知っている。存分に楽しめばいい、その姿を目の当たりにすることが俺にとっての贖罪なのだと、そう信じていた。
一同で記念撮影をした。実は朋和は、俺への思いはもう、遥香さんにも伝えてあった。それでもなお、彼女は微笑んでいた。俺は問うた、何故ですか、もっと責めないのですか、そんな風にして。遥香さんは笑っていた。
“だって誰にだって昔の恋話なんて、付き物でしょう?そんなに誰からも好かれないような人のことは、私だって連れ合いにはしません”
腑に落ちた。そして、朋和はいい連れ合いに恵まれて、幸せだと思った。
シャッターが切られる。ストロボが焚かれて、陽の落ちようとしていた宵の口、桜の花弁が舞い散る最中、上野公園で、それはまさに、春爛漫だった。
この日の出来事を俺は、日記として記録にも残すこととした。また会えるとしたなら、今度は篤くん、成人しているかな。春ならではの景色とともに、この日のページは、未来に亘って残るだろう。ささやかながらも誇らしい、そんな仲間同士の描き出す、それはしかし、ごくありふれた光景なのだった。
♯5
雄司は人見知りだ。誰にでも優しいわけではない。俺に見せる顔が甘やかなのには、それなりに理由がある。
或る夜、俺は雄司の癖を数えていた。退屈な時に爪を噛む、夢中になると早口になる、イキそうになると寸止めするーー。そんなことを考えていたら、ホロホロと涙を溢す雄司が視界に入って、俺は焦った。何のことはない、ただ映画を観ていただけのことだったのだが。なるほど、涙腺が脆いというのもあった。癖とは違うのかも知れないが。
翌る日、梅雨寒の折、俺はカーディガンを羽織って、部屋の片隅のロッキングチェアに揺られていた。これは年代物で、俺の曽祖父の代から受け継がれているらしい。俺はゲイだから代替わりはこれで打ち止めかな、大事に使うことには変わりはないが。雄司は観葉植物に如雨露で水を遣っている。後ろから抱き付いてみる。雄司はくすぐったそうに笑っていた。
梟の掛け時計が正午を報せる。雄司は、まだあどけなさを残す顔立ちが与えるその印象と同様に、繊細で家庭的な男だ。料理が得意で、今日はパエリアとビーフストロガノフを作っている。外は雨、こんな日は時間がゆったりと流れる。こんなのもいい、独りではないから、なおのこといい。
“ね、ね、今日の俺の飯、どう?”
頰を幾らか紅くして、俺の顔色を伺うように。いつもの遣り取りではある。俺はこんな時にはいつも、指を立ててやる。嬉しそうな連れ合いの顔を見るのも、楽しみのひとつなのだ。
♯6
雄司は保育士だ。子供をあやすのは大の得意だという、珍しい方かも知れないタイプのゲイ。そういえば朋和は子供のような背丈しかなかったが、雄司は162cmもある。あの家系の人たちからすれば、頑張って成長した方なのだと俺は思うのだが、どうだろうか。薄らと顎髭を生やしているのもあって、流石に子供には間違われない。色んな色の服が似合いたいから、という謎な理由で柔らかな短い髪を茶色に染めているのも、目立つポイントではある。髪質が硬めで短髪黒髪の朋和とは、その点では間違えようがない。
雄司には弱い部分が幾つかある。脇をくすぐれば身を捩るし、胸を触れば大人しくなる。昔実家に居たサモエドを思い出して、そういえば此奴もあれによく似ているような気もして、俺は懐かしさで胸がいっぱいになった。
俺の実家は、職人の家だった。荒くれ者の一族であり、弱々しい俺には誰も、目もくれなかった。ただ出入りのお弟子さんたちが優しくて、俺の子育ては彼らが担っていた。
根岸に本宅があった俺の実家は、純本造りの立派な母家を擁していて、中にはちゃんと大黒柱があった。背が伸びる毎に、柱に印を付ける。そんな営みも、お弟子さんとの間で為されたことだったので、俺にとっては大切な存在だった。
俺は長男だったのに、家の跡を継がなかった。そもそも、誰も継がせようとしていなかった。不向きだと思われていたのだ。職人の仕事はキツい。それは生半可なことではなく、海千山千の中で、身体を張って生計を立ててゆくのだ。俺は158cmしかタッパがなく、身体もずんぐりとしていて、とても職人になれそうな雰囲気にはなかったのは事実だ。
“坊ちゃんには優しさがありますから、沢山お勉強して賢くなって、偉い人になりましょうね!”
そんな風にお弟子さんに諭されて、俺は勉強を頑張るしかなかった。俺は当時、そのお弟子さんたちを誰というのでもなく好いていたから、ええカッコしいの本領を発揮したのか、それは頑張った。
中学は地元の公立校だったが、成績は常に一二を争う位置に付けていた。高校は都立日比谷高校であり、そこでも上から数えた方が早い成績は取っていた。そのお陰か俺は大抵のことは多めに見てもらえるようになった。お弟子さんたちには代わる代わるで奉仕をする日々で、俺の日常は汚れ切ってはいたが、男としての喜びには溢れてもいた。
俺は男の坩堝の中にあって、俺自身も男だというのに、雌のような存在となっていた。
♯7
朋和とは高校で、ずっと同級だった。最初に惚れたのは、俺の方だった。ただ俺が情けなくて、一線は越えられないままだった。
本当のところ、俺の中で、朋和は綺麗過ぎたし、もう少し力強さが欲しかった。それはある。
それに俺はもう汚れ切っていたから、ここから救い出してくれるのは、きっと少し強引なくらいの雄なのだろうと、そんな風にも思っていた。
それは高校三年の、夏の終わりのことだった。朋和の家で、雄司を見掛けたのだ。それは可愛かった。ツンとしたところがあったのか、その時は嫌われてしまったのだと思い、こちらからは挨拶を辛うじてしただけだった。彼は会釈をしてくれたが、直ぐに駆け出して行ってしまった。ただその時から、あの赤茶けた髪の柔らかさをこの手で梳いてやりたいと、何処か屈折した欲望とともに思うことはあった。
大学は俺も朋和も、揃って一橋大学へと通った。俺は学生寮に入った。独り暮らしは、念願だったのだ。
学生寮は個室タイプを選択した。綺麗な部屋で、もっとヌラヌラと妖しげな闇鍋のような雰囲気の場所を想像していたから、拍子抜けしてしまった程だ。
朋和とはよく連んだ。成人してからは、ともに居酒屋へと繰り出すのが日課となっていた。
そういえば雄司とは折り合いが悪いのだと、朋和が零していたことがある。雄司は上野高校から日本大学に進んだ口で、あれはできが悪いと親類から叩かれており、それで拗ねているのだという。日大など昔から人気大学の一角だが、雄司の親類というのも認識が随分と古めかしい。どうしても兄と比べられてしまう雄司の気持ちは解らないでもなかったから、何処かで彼のことは、贔屓目で見てはいたのかも知れない。
朋和には好かれていた。その気持ちは嬉しくて、両想いの筈だった。でも何故だか、何処かすれ違っていた。それはそうだ、今だから解る。俺はあの時から、ひと目見たあの雄司の姿に夢中だったのだ。密かにそう思っていて、俺は嘘が吐けなかっただけなのだ。ずっと朋和のことが好きだと思ってきた。それはたぶん今でも本当で、でも心の深奥では、雄司に好かれたいとも願っていたーー。
♯8
今、俺は上野御徒町のマンションに、雄司とともに暮らしている。ロッキングチェアは長男の証、それは大切にしてある。六月の曇天の最中、ロッキングチェアに腰掛けて、窓際の観葉植物を眺めながら、タブレット片手に一日を過ごすのが、この梅雨の週末ならではの密かな楽しみともなりつつあった。
午後、買ってきたプランターに、白い花を植えてみた。白は好きな色だ。実家のサモエドも白かったし、雄司の肌も白いのだから、嫌いな筈がない。
俺はこの街で、雄司とともに生きてゆく。俺らは立派な大人の男を気取るには背丈が少し足りない。でも、それでもいい。大丈夫、足りない分は愛嬌と気合いで穴埋めできると信じている。
もう背は伸びないけれども、男としての伸び代は、きっとまだある。青春が終わっても、頑張ればいい、まだまだ折れるような歳ではない、突っ走ればいい。
時折見せる雄司のツンとした表情にやられて、俺はただ、感無量だった。雄司の甘やかな顔立ちや弾けるような身体からは、蒸せ返るような雄の色香が漂っていて、それもまた俺が跪こうと思った理由だ。どうしてだか胸が痛んで、それが恋煩いだと知って、またひとつ勉強をしたな、そう思う梅雨の折のことだった。雨が降り始めた、恵みの雨となるだろうか。雄司よ、側に居るんだ。俺が守るから、約束するから。
Conclusion
俺と雄司は同性婚をすることにした。披露宴はやらないが、ちょっとしたパーティならするのだ。実はその日に備えて、会社のジャズ仲間とは、度々セッションの練習をしていた。その場で曲目を決めるのだから、緊張感がある。アドリブができないといけない。俺は昔お弟子さんたちから仕込まれたので、ピアノが少しは弾ける。お店に銘々楽器を持ち寄って、一期一会の演奏会、その繰り返し。もちろん件のパーティでも披露するのだから、気合いは入る。実はこれ、雄司には内緒なのだ。ちょっとしたサプライズのつもりなのである。その場の雰囲気や盛り上がりに合わせて曲目のチェンジやアドリブができたら、そんなことを考えていた。
パーティ当日、俺と雄司は正装で会場まで出向いた。そこにはグランドピアノが置いてあった。今日は店は貸切だ。俺は商社マンだが、同僚がこぞってセッションに参加する。それにしても、時代は変わったとつくづく思う。昔なら同性婚というだけで、奇異な目線で見られたことだろうから。
ジャズスタンダードの中から幾つかを演奏した。飛び入りでウチの親父も参加した。サックスである。会場が盛り上がる。
深夜までパーティは続いた。親父がジャズに通じているなど、俺は知らなかった。怖いだけの人だと、ずっと思っていた。またひとつ壁を壊せた、そんな気がして、俺は嬉しかった。
この夜のセッションの様子は、手持ちのiPhoneで録画をしてあった。後日朋和にも見せようと思っている。会えなくても、絆はある。雄司が家族なら、朋和は一番の友達だから、どちらも大切にするつもりだ。
どうしたら思いが伝えられるか解らない。俺は朋和には子供を作って欲しかったのだと思う。何故そんな身勝手なことを思ったのかは、俺自身にもよく解らないのだ。ただ。
あの子の子供ならきっと可愛いだろうなと、素直にそう思えたのは事実だ。朋和からは、そんな匂いがしていた。雰囲気が、無理して作られてはいない、ヘテロの人たちのそれだと思った。寧ろ無理してゲイらしく振る舞っていたというか。だから深入りしなかったというのも、実のところはあったのだ。遥香さんとは両想いだというし、末永く仲睦まじく在って欲しい。
皆んな幸せになれるといい。人生なんて、泡沫の夢のようなもの。せめて楽しく、美しく生きたい、そして終えたい。俺は生涯の連れ合いとして、雄司を選んだ。それは正しかったのだと思う。だって今も幸せそうな顔で、それは旨そうに飯を頬張ってくれているから。それは一番のこと。最後に、ありがとう、みんな。
了