なんだか、空虚な気がする。
いつも会社で働く日々を送る中で、私は突然そういう思考に突き当たってしまった。もちろん、いつもならそのことから目をそらして働き続けられたかもしれない。いつも本心で生き続けられるわけじゃないことは、そう短くない人生でよく解っていたから。
でも今日だけはだめだった。どうしてかはわからないけど。
私はここで長く働いて、ついには研究部門でひとつの課を任せられるまでには実績を積み重ねた。それでもまだ、私には足りないような気がした。ずっと感じ続けていた曖昧な空虚さを埋めるには。
「チーフ、どうしたんですか? 具合でも悪いんですか?」
その声の方向を見てみれば、同僚がいた。私よりも満たされていそうな、綺麗な目をしていた。そういえば、彼には好きな人がいるんだと聞いたような気がする。
……食ってやりたい。その満たされた心を私のものにしたい。
そういう思考が私の中をよぎると同時に、何かが私の中で膨れ上がるような感覚がした。駄目だ。ただ一瞬気分が揺らいで、落ち込んだだけなのに、他人を犠牲にするだなんて。そんな私の良心ですら、湧き上がる際限のない飢えと食欲に塗りつぶされてゆく。
金属が捻じ曲がるような音を立てて、私の四肢が伸びる。手足に、巨大な鉤爪が生える。肉と骨が伸びて、尾を形成して……
「ち、チーフ……」
私の身体がどんどん大きくなっていき、全身に黒い毛が生えそろう。
「ギシャアアアアアアアアアッ!」
もはや意味も解らなくなってしまった警報音を聞きながら、私は咆哮した。完全に歪な獣のそれになった口から、甲高い咆哮が放たれる。口を開けたまま、私は眼下の何故だか私の食欲を刺激する人間にかぶりついた。そのまま丸呑みにしてやる。腹の中で、じっくり私のものにしてやるために。
「どういうことなんです? セキュリティ部門の俺が情報部門に異動になるって」
小さいが、最低限の機能は備えられたそこそこ快適な事務室だった。ある朝こうやって会社に出勤してきた俺は、すぐに理由も告げずにこの本社の片隅にある場所に呼ばれ……いまこうして、目の前に座っているこれから俺の上司になるであろう女に異動を告げられたのであった。
「文字通りの意味だ。君は今日から新設される情報部門七課で私の部下として働くことになる。待遇や給料に特に影響はないはずだが、何か不満でも?」
不満は無かった。この会社では上層部の意思が末端に伝達されることは少ないから、突然の異動には慣れっこだったし、この会社は扱う技術の特性上ほとんどの部門においてやることは似通っていたから。ただ……
「いや、不満じゃなくてですね。いままで俺はずっと実地戦闘だけでやってきたじゃないですか。社外への情報漏洩の管理と諜報を担う情報部門に送られた理由が解らないんですよ」
セキュリティという言葉が持つ多義性のせいでそこに所属している俺もしばしばややこしく感じるが、セキュリティ部門が担当するのは物理的な安全保障だ。さっき口に出した通り、情報的なリスク管理を担当するのは情報部門。俺がやってきたことと言えば会社が所有する領域への侵入者をしばいて黙らせたり、会社に悪影響を及ぼす犯罪組織を制圧したり……ようするに暴力を振るうことだけだった。デスクワークができないわけじゃないけど、非暴力的な情報収集と整理が主業務の情報部門には俺はどうにも似合わないような気がした。
「なるほどなるほど、確かにそうだな。いままで危険を冒す必要がある業務についてはしばしばセキュリティ部門に委託してきたし。が、今回の事案については少し事情が異なってな。情報部門が独立して、素早く動かせる戦力が必要であるという結論に至った。君は現場で情報を整理して標的を追うのが得意だったから、とりあえず適任だったというわけだ」
「事情……」
部門間の調整を待たずに稼働できる戦力が必要になったから、戦力として俺が引き抜かれたというのはとりあえず納得がいった。そうして思考を巡らせていると、なんとなくその事情というのにも見当がつくような気がした。俺も今まで全く関わってこなかったわけじゃなかったから。
「は、もう大体わかってますって顔だな? 君の想像のとおり、君が引き抜かれた事情であり、新設された七課が担当する事象は、怪獣に関連する事件だ」
「あれに対して、上層部がついに会社として対処することにしたってわけですか」
怪獣。ここ数か月で、この会社の管理領域を含めた広大な範囲で突如発生しだした、巨大な体躯を持つ化け物だ。人間がいるところから生まれ、その巨体から生み出される爆発的な力のままに暴れて破壊と死をもたらす。その危険度は既存の装備でも対処が可能な程度に留まってはいるが、突然現れる性質と大きな体が相まって素人の集団では苦戦する相手だった。それでも、この世界で発生しうる他の数多の恐ろしい怪異に比べれば危険度はそこまででもないが。
とにかく……どうしてかはわからないが、上層部はこの問題に本気で取り組む気になったようだ。
「というわけで、ここが君のデスクだから。とりあえず君の所有物は大まかに移送したつもりだから、今日はそれの整理にでも充ててくれ。不足したものがあればいつでも私に——」
突如、岩が砕け散るような、爆発のような音がビルに響き、揺れが俺たちを襲う。獣のような叫び声が遠く響き、自動警報がそれに続いた。
「社内に侵入者を検知しました。三十秒後に当該区域の隔壁を閉鎖しますので、46B、47T区域に滞在している人員は速やかに避難してセキュリティ部門の人員の到着を待ってください。繰り返します……」
そんな状況の中でも、俺の上司はこちらを見てにやりと笑いながら言った。
「ふむ。まさか今日、この本社での仕事が私たちの初仕事になるとは。驚きだ」
「悲惨だな」
閉鎖されていた隔壁の広い向こう側を見て、俺はそれだけ口に出した。そこは研究室だったらしく、いくつもの機器が床に並んでいる。もちろん、それらは全て乱雑に切り裂かれて破壊されていたが。
「……ヴゥ?」
そして部屋の中央には、窮屈そうに巨大な怪獣が四つ足でうずくまり、警戒するように俺を見下ろしていた。ぱっと見では黒い毛並みの狼のように見えるが、細い手足や鋭そうな鉤爪はあまりにもそれらしくない。怪獣の周辺の天井と床が、まるで怪獣が存在するための空間を作り出すかのように不自然にえぐれていたのが、違和感を覚えさせた。本社ビルの構造材は“あの程度”の怪物が壊せるような代物ではないはずなのだが。
「ヴァアアアアァッ!」
「…………」
怪獣が咆哮と共に大きな口を開きながら突進してくるのを素早くいなしてやると、無数の牙は硬質な音を立てて虚空を噛んだ。手足と口が血に塗れているのを見るに、俺が到着するまでこの怪獣はここで食事を楽しんでいたんだろうな。嫌なぐらいに膨れた腹を見るに、隔壁の閉鎖に間に合わなかった人員を全員食ったんだろう。
怪獣が壁を破壊できていない以上、被害を拡大させたのは隔壁封鎖だが……人間サイズでない侵入者が社屋内に突然発生することなんて、自動封鎖プロトコルの設計時には想定されていないことだろうし。
「ヴルル、グウゥゥ!」
俺を食えなかったことに怒るかのように暴れる怪獣から距離を取り、俺は腰の得物に手を掛ける。ICWT2-LS12、長剣型情報分解切断刃“インテル”。うちの会社が扱う技術である情報操作、疑似物質転送や物質分析に用いられるそれを近接戦闘に転用した兵器だ。
「グルルゥ……ヴガアァァ!?」
切断機構を稼働させ、再び突っ込んでくる怪獣の右脚をすれ違いざまにそれで切り裂くと、無数の硝子片のようなものへと分解されながらそれが切断される。この硝子片こそが、切り裂かれた部分の構成情報だ。こうやって分解しながら切り裂くことで、対抗手段の無い物質なら何であろうと切断できる。もっとも、近頃は金のある企業ならほとんどの軍用素材に情報分解対抗技術を織り込んでいるが。
純粋な情報が硝子のような形態をとる理由は……俺にはまだ理解できていない。情報と質量は不可分であって、情報へと還元された存在が還元される前と同じ質量を保つ、というのはまだ理解できるのだが、それ以上は全然だ。そもそもああやって硝子片として砕け散るのは“インテル”で強引に切り裂いているからであって、正規の手段で分解されれば文字のようなパターンを無数に内包した硝子の直方体のような形態に落ち着く。
「ヴヴッ!?」
目の前の怪獣に再び意識を集中する。踏み込んで再び一撃を加え、ひるむ怪獣の右脚を完全に切断する。切断された組織に“インテル”を刺してやると、それもまた完全に分解された。新鮮なうちにこうしてやった方が、調査をするのも楽だろう。
「アァ……ヴウゥゥ!」
最初はあんなに俺を食おうとしていた怪獣が、敵わないとわかったのか下半身を引きずりながら逃げてゆく。この閉鎖空間に逃げ場などないというのに。
「ギャウゥゥ!」
左脚に二連撃を加えて断ち切る。だんだんと、怪獣の声が苦痛に満ちたものへと変わってゆく。
「ギャアゥ!」
まあ。
「グ、ウゥ」
俺は与えられた仕事をこなすだけだ。対処できるものにはさっさと対処して、もっと面倒なことに手を付けないと。こいつがどこから来たのか、とか。
「ギュウ、ギャウウゥ……」
四肢を切り離された怪獣は、なんとか死から逃れようと胴をくねらせ、命乞いをするように声を上げた。
「……ふう」
断末魔は無かった。胸から頭にかけての斬撃が怪獣を即死させ、そのすべてを分解したからだ。後に残されたのは無数の情報片と、唯一怪獣とは別のものであると認識されて分解を逃れた胃の内容物だけだった。
「いやあ、お疲れ様。見事だったよ。一瞬だったじゃないか! 私が介入するまでもなくて安心したよ」
隔壁が再び開いて、上司が駆け寄ってくる。きっとカメラ越しに戦闘の様子を観察していたのだろう。
「それじゃあ、情報の回収とか事後収拾は私と三課の人たちがやるから、君は事務室に戻って整理でも続けてくれ」
「いや……あんなただの大きな獣程度には苦戦しませんでしたから、まだ全然働けますよ。俺も回収と証拠集めを手伝います。再構成された情報に不足があった時にも、そっちの方が納得できますから」
実際問題、ただの整理なんかをしているよりもそっちの方がはるかに面白そうだった。
「ははは、大発見だな、まさか怪獣の正体が人間だったとは!」
「何とも白々しい言い方ですね。俺は昔からそうだって思ってましたけど」
回収された情報片を纏めて再構築した情報の解析結果を読みながら、俺と上司は事務室で話し合っていた。個人用端末の画面上には復元された生の構成情報から監視カメラの映像に至るまで、あらゆる参考になりそうなものが広げられている。
「いや、こうやって決定的かつ具体的な証拠を、初めてつかめたのは本当にうれしく思っているんだ。ほら、見てみるといい」
「ふむ……」
上司から転送されてきたのは、研究部門のある女性研究員の構成情報と俺が殺した怪獣の構成情報のハッシュがほとんど一致していることを示すデータと、その女性研究員が研究室の中で突如として膨れ上がるように巨大な怪獣へと変貌した様子が記録された映像だった。この女性研究員が怪獣と化して暴れまわり、あの部屋にいた研究員をほとんど食ったのは確定的といっていいだろう。
「これは……物質の構成情報が突然改変されたんですか? どうやって? ほとんど現実を改変してるようなもんじゃないですか」
「それを今から私達で調べるんだろ。今回の件からもっと情報を得るなり、別の怪獣の構成情報を分析するなりして。とにかく三課が全力を挙げて情報のどこが具体的に改変されたのかを精査しているから、私たちは目撃者に対する聴取でもしに行こうか?」
俺の素朴な疑問に対する上司の返答を聞いて、俺はようやくどうして俺がここに移動されることになったのかを理解した。上層部はこうやって俺か、あるいは他の戦闘員が怪獣を情報へと分解し、それを他の情報部門が精査することで怪獣とは何なのかを素早く分析するための仕組みを作りたかったのだろう。そして今、それは完璧にうまくいっているわけだ。どうにも、上層部は怪獣という存在に対して俺が想定していた以上の興味を持っているらしい。
「……そうですね。どういう状況で彼女が怪獣になったのか、もっと詳しい情報があれば大いに参考になるでしょうから」
……いままでの生活も十分に忙しかったが、これからはもっと忙しい毎日になりそうだ。