Introduction
これは、人生をかけて猫を愛した王妃さまのお話。
――事の発端は、数日前の目覚めだった。
背中にひんやりとした固さを感じた。昨夜ベッドで寝た時とは、全く異なる寝心地。寝相は悪くないはずだけど……もしかして床に落ちた?
体もなんとなく寒いし、背中も肩もバキバキで嫌なタイプの目覚め。目を閉じたまま、うーんっと伸びをして目を開けたところで、全身の違和感の正体に気付いた。
ここは家の床ではなく大きな教会らしき建物の中央、大理石の祭壇の上。様々な種類の猫たちが二本足で立ち、両サイドから私を好奇の目で見ている。
「村上 清香様」
それは、確かに私の名前。でも、重い瞼を擦って夢から醒めようとしても、私を取り囲む神々しい景色は変わらない。
パジャマは昨日着たままのブラウンのサテンパジャマ。髪は真っ黒で腰まで伸ばしっぱなしの黒い髪。どうやら私自身だけが昨夜眠った格好のまま、この訳が分からない世界に降り立っているという状況らしい。
目の前には、2足で棒立ち状態の――大きな黒猫。
白地に金刺繍の小さなケープとモノクルを着け、重そうな厚手の本を小脇に抱えたその艶やかな毛並みの猫は、尻尾を勢いよく振りまわし、不機嫌のサインを見せつけている。
「今回の王妃様は、また随分と優雅なお目覚めでらっしゃいますな」
驚くほど嫌味な第一声。
気取った服の猫が喋っていることすら理解できないのに、どういうことだろう。ツンデレ黒猫は大好物だけど、流石に夢オチであって欲しすぎる。
今すぐ眠れば次こそはちゃんと目覚めるだろうと、もう一度体を横にして目を閉じようとすると、真横まで歩いてきた黒猫にシーツを奪い取られた。
「……何をしているのです」
「いやコレ絶対夢ですよね? 私早く起きないとサロンが」
個人経営で2年目になるトリミングサロンは、今日も朝から立て続けに4件の予約が入っている。顧客の殆どがリピーターで、こちらに気を許してくれている大切なお客様。私の寝坊ごときで失望させるわけにはいかないのだ。
こちらの事情を説明しても、黒猫は「これは現実です」と言って話を聞かない。猫が喋ったり、二足歩行でコチラを覗き込んでみたり、こんなかわいい現実があるわけがないのに。
「このニャローム王国では王が変わる度、こうして前王と関わりの深い人間を召喚して第一王妃として迎え入れるのが慣わし。誰がなんと言おうと、お前は第35代国王グランディス陛下の王妃になるべく人間なのです」
「関わりが深いって……私別に王様を助けたりはしてないと思いますけど」
「呼ばれる基準や価値は王のみぞ知る事。我々の範疇ではない」
赤銅色の瞳はこちらに終始ジトリとした目線を送っていて、好ましく思われていないことを即時に理解した。ピンと耳を立てる様子は、まるで飼い主以外の人間を知らないタイプの、警戒心マックス猫ちゃんだ。このまま機嫌を損ねる事をしたり、不用意に近付けば、強烈な猫パンチが飛んでくる気配がある。
それに加えて周りの猫たちも、それぞれ眉間に皺が寄っていて気が強そうな顔立ちの子ばかり。こちらに多少の興味はあるものの、警戒心ビンビンに近寄りたくないという顔をしている。
うんうん、わかるよ……知らない人間って怖いよね。
今日1番手に予約の入っている元野良のサバトラちゃんを思い出す。今は甘い声で鳴いてくれるあの子も、最初は洗濯ネットに入れて爪切りしたんだったっけ。
回想を交えながら自分の置かれている状況を確認している間に、白いワンピースを着た三毛猫が近くへやって来た。こちらの理解スピードを無視して、黒猫は「禊ぎの間へ運べ」と声をかける。
両脇をとろふわな毛並みのお手手に掴まれて行き着いた先は、豪奢な浴室。あれよあれよという間に服を脱がされ、浴槽へ浸けられ……私は、足の先から髪の先までしっかりと洗われてしまった。
「まさか生きてる間に聖女様を洗える日がくるなんて、身に余る光栄ですっ」
ミトンの様にまあるい手を器用に使い、泡立てた海綿で私の身体中を触れるたび、その猫は喉を鳴らしていた。
浴室を出てからも、食事の時間も、この世界は見渡す限りの猫、猫、猫の猫天国。
皆が二足歩行で私と同じくらいの背格好。かわいいのと恐ろしいのとが混在する異世界。まるで自分がアリスのように小さくなった感覚で、乗り物酔いに似た眩暈すら感じた。
***
この謎の屋敷へ来て、1週間。
私にやれることはこの王国の歴史書を、あの三毛猫ちゃん――リディアに読んでもらったり、お散歩かお昼寝をするくらい。
初日は流石に現実世界で目覚めてくれと願ったけれど、ここまでぐうたらとした猫生を送る日々を続けていると、案外諦めがついてくる。それに、人間としてキビキビ生きていた時よりも格段に心身の調子がいい。満員電車に食事の準備、掃除片付けなど、とにかくストレスがない。
ただデメリットを挙げるなら、この生活を送っていくなかでひとつだけ、どうしても納得できていないことがある。
グランディスと呼ばれる王猫の嫁になるはずなのに、肝心の結婚相手が一向に顔を表さないのだ。
どうやら深い理由があるらしいけれど、枢機卿と呼ばれていた黒猫もリディアも私には何も話してくれなくて、ただ一日がゆっくりと過ぎていくばかり。私は"猫の国の王妃様になる"という名目がないと、ただ人間社会から隔離された堕落人間でしかない。
「やっぱり社会からの隔離感が辛いよ、リディア……」
「猫の社会ではダメですか? ゆったりまったり、やりたい事をして生きるのもいいものですよ?」
「うーん、それも良いんだけど。誰かのためだったり、何かのためだったり、私は私の目的を持って生きたいの」
「では……キヨカ様の心の平安のため、では?」
「そ、う、じゃ、な、く、て……あぁ、なんて言ったら伝わるんだろう。うーん」
教育・勤労・納税を義務として生きてきた純ジャパニーズとお猫様の生き方は、相容れないのかもしれない。何度話しても、リディアは「はて?」という顔しかしなくて、ただただ働きたい気持ちを理解できないようだった。
「ねぇリディア、王様はどうして私のところに会いに来ないの? 私、王様のために呼ばれたんでしょ?」
「それは王のみぞ知る事ですからねぇ」
「せめて会いに来てくれたら、私も義務を果たせるのに」
「うーんまた難しいこと言って……。今日は何も考えず、キヨカさまも日向ぼっこしましょうよ」
「……今日は、じゃなくて今日も、ね」
もう何度散歩したかわからない、自然のままに作られたお庭を歩く。飛び込んだら全身種だらけになりそうな草木が、絶妙なバランスを保っている庭。高さも、色も、香りも違う草花がギュッと詰まって生えていて、大抵私よりもリディアの方がいつも揺れる葉先に夢中になっている。私のお付きという名目でお散歩やお昼寝を一緒に楽しめるこの仕事を、彼女は目一杯満喫しているようだった。
「キヨカさま、あの木の下なんてどうですか?日光浴すると心地良くて、風に混ざるお花の匂いも最高なんです」
彼女の指す先には、1本の大樹がある。尖った葉の細枝がこんもりと丸