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第5問

  ###########

  「はい、はい!いただきましたー!皆さんお疲れ様でした!」

  そう現場監督が告げるのと同時に、僕とハナ氏を照らすために向けられた照明が消え、カメラ撮影のクルーたちが貼り付けられたようにカメラに添えた手をだらりと下に垂らした。

  それに合わせてハナ氏の肩から力が抜けて背が丸くなると表情もテレビ用の柔和な笑顔から息をつきながら目を閉じる安堵のものに変わる。

  皆が皆、一様に「役」から戻ったようだ。

  そして今後の擦り合わせ、打ち合わせをするスタッフが入れ替わるように集まって、紙の束を持ちながら今度は役へ入っていく。

  「お疲れ様でした。」

  僕がハナ氏にそう声をかけると、彼女はこちらに首を勢いよく振り回して反応したと同時にふにゃ、と崩れた表情を隠しきれずに口元を手で抑える。

  どうも役柄から降りてきたばかりのところに不意打ちをしたものだから反応と反射が追いつかないらしい。

  その不器用な様も愛らしい。こういうところも含めて、お茶の間の人気者たる所以なのだろう。

  「お!ハナちゃん褒められて嬉しいねぇ!…すみませんフリムさん、それでは当初の通り最後の5問目だけはセットを変えさせていただきまして…それまでの間少々お待ちください。」

  そう言いながら、映像の総指揮を務めていたプロデューサーがこちらに寄ってきた。

  「いえいえ、丁度自分も緊張で少し喉が乾いていたところでしたので。」

  「おい、フリムさんに水!…あっ、それじゃダメなんでしたっけ?」

  「?」

  「いやぁ、ハハ…実は自分のボディメイク担当の方から食事内容だとか定時のサプリやプロテインの摂取なんかを言い含められてまして…」

  「え?そんなところまで管理されてるんですか!?」

  疑問の表情を見せるハナ氏に理由を話すと、差し出された自らのミルクティーのボトルを後ろめたそうにチラチラと見ながら、驚きの表情を見せた。

  「えぇ、ハンスって年齢不詳という設定なので。それを実現するためには見た目を1作目の頃からあまり変えないようにしろという意向なんです。特に毛並みや毛のツヤは化粧で誤魔化すのも手間がかかりますし世間に溶け込むエージェントがそんなのにお金かけるのも変な話ですから。…触ってみます?」

  「えっ!」

  そう言って手を差し出しながら微笑むと、ハナ氏はミルクティーの飲み口を牙にぶつけながら鼻を膨らました。

  「すいません、これは冗談でした。控え室で少し休んでますので準備が出来ましたらまたお呼びください。」

  大事なファンなのだし、一つぐらいいい思い出を作ってあげようじゃないか。

  赤らめた頬を抑えながら照れる彼女を背に、エスコートも断ってマネージャーと合流する。

  「どうだったかな?」

  「ん、いい感じだね、バッチシ。まぁ、ヘタなこともネタバレもしてないし十分でしょ。ホエイプロテイン…ちょっとダマ作っちゃった。」

  「栄養とれりゃなんでもいいよ、君はプロテインのプロってんじゃないんだからさ。」

  「ギャグで言ってる?それ。」

  「………」

  全て上手く回っていた。

  あと1問。

  控え室に入り、ソファーへと腰掛け天井へと目を向け、少しばかり深呼吸して、そのまま目を閉じる。

  調息。

  吸って、少し吐いて、溜めて、吐き出す。

  繰り返し、準備が整うのを待った。

  吸って、少し吐いて、溜めて………………

  ##########

  店を出た後、俺はいつものコインランドリーに向かうことなく、かといって行き先を決めているわけでもなく、フラフラと深夜3時の繁華街を歩いていた。

  今まで追い続けてきた役者という夢。

  誰かに認められたいという願望。

  これまでの俺はどっちも欲していて、尚且ついっぺんに得ようとしていた。

  それが今、おそらく安易でそれでいて現実的な手段で片方手に入ろうとしている。

  『ウチで正社員やってみない?』

  『フリムくんと働けると嬉しいんだよ』

  突然のことでぐるぐると色んなことが頭を回り、上手く思考が定まらない。

  ぐるぐる、ぐるぐる、言葉が湧いては出て、巡る。

  今までの俺、これからの俺、名前、意味、

  可能性、あの時の衝撃、彼との出会い、

  才能、スタートライン、周囲との差、汚れ役、

  年齢、良くならない環境、見えない先、

  暮らし、古アパート、変わらない食い物

  金のこと、正社員、バイト漬け、

  ……いつまでこんな生活を続けられるか?

  さっきの話を聞いた時にも俺が過ごしてきた様々なこれまでが頭を巡って、かといって手放したいと思えるほどのものでもなくて、とにかくあの時絞り出して店長にした答えは、

  「正社員の件は少し考えさせて欲しいです」

  という選択の先送りにしかならないものだったけれどそう伝えた時にも店長は

  「ハハ、分かる、わかるぞぉ!」

  と快活に笑いながら俺の背を叩いて外に送り出してくれた。

  店長にも、過去に追いかけていたものがあったんだろうか。

  というよりも、テレビや舞台じゃない、こんな普通の街で生きている大人たちにだってきっと何かを追いかけていた時期があったはずなんだ。

  俺も、あんな風に、普通の大人みたいに何もかも忘れて暮らせるんだろうか?

  まだ、今日はまだコインランドリーに到着したくない。

  消えたネオン、遠くで聴こえる夜間工事の音、悪酔いで吐き落とされた吐瀉物の形、壁面にびっしりと付けられた室外機の駆動音。

  普段通らない路地に曲がってみたり、意味もなく信号を2回待ってみたり、とにかく考える時間が欲しかった。

  バイト中、たまにガサツな面を覗かせたりもするけど皆からも慕われている店長の遠慮ない手のひらの感触がまだ背中にじんじんと残っていて、温かくも感じるそれはそこから俺の全身に向けてじんわりと広がっていく。

  人を誘うネオンも入り乱れる人々の姿も喧騒も徐々に消えていく、まるで演目を終えたあとの舞台のような暗がりをとぼとぼと歩き、誰に見られることも構われるなくコインランドリーまで歩く生活を何年送ってきただろう?

  俺のことを認められたい。

  自分のことを見て欲しい。

  そういう気持ちで、今日の今まで役者になるための研鑽を積んできた。

  それは俺が連れ子で、友達もいなくて、何も持っていなかったから。

  何も持ってなかったからこそ、誰でもなかったからこそ、何にでもなれて、この暗がりに溶けてしまいそうな黒い毛並みすらも輝かせて見せることのできる、舞台俳優に憧れたんだ。

  名前も知らないウサギの彼は俺の演技を好きだと言ってくれた。

  俺が勝手に思っているだけなのかもしれないけれど彼は人生で初めてできた友人で、それでいて役者としての俺を初めて認めてくれた人だ。

  でも、そんなところとは関係ないところで俺の事を見てくれてる人物もいた。

  想像の中で漠然とした顔の観客に歓声を上げられることよりも、はっきりとした顔の誰かと結びつくことの感覚、その歓びを知ってしまった今、俺はとにかく揺れている。

  俺にとっての役者の夢って、こんな簡単に揺らいでしまうほど適当なものだったんだろうか?

  いや多分、そうじゃない。12歳の頃に見たあの感動だって、これまで努力してきた時間だって紛れもなく本気だった。

  全部、俺の延長線上にあるってだけのことで、全部が全部大切なんだ。

  …でもいずれ、どちらかを選んで、答えは出さなきゃいけない。

  どうしたって明日の生活があるように、今日だって洗濯をしないわけにも寝ないわけにも、あそこに行かないわけにも…

  …………彼に会わないわけにもいかない。

  揺れたまま、罪悪感にも似た重たい感情を抱きながら俺はいつものコインランドリーへ入る。

  街は暗くとも誰かしらが生きている雰囲気が感じて取れるが無人コインランドリーは機会の駆動音がただ1人であることを意識させるか、すぐ側に居る誰かの存在をより際立たせるものになるかの2つだ。

  一層際立つ彼が、きっと今日もいる。

  すでに中ではもくもくと白煙が踊っていて、俺が入る今の今まで空気の流れがまるでなかったことと長い間彼が1人だけだったということを示していた。

  自動扉が開くのを皮切りに、煙の向こうから彼が赤い瞳を俺に向ける。

  「おっ、来た来た、今日遅かったじゃん。残業?」

  あまり男性的な要素を感じさせない細い手脚に薄い身体、それを艶めかしく映す薄いネグリジェ。

  名前も何をしているのかもまだ聞けていない友人。

  彼はいつも、軽快な笑いを俺に向けるのだった。

  「もしかしたら売れっ子になっちゃったかも、なんて思っちゃったよ、ハハ。」

  「っ…」

  いつもの調子の、少しシニカルで明るい声。

  「……………」

  彼は……左頬を腫れ上がらせ、白い毛では到底隠しきれない内出血の痣を浮かび上がらせながらも何も変わらず、いつもの笑顔を俺に向ける。

  綺麗な身体をしている分、膨らんだ顔がより歪なシルエットを現していた。

  まさか俺が見てない間に何かあったんだろうか?

  それとも…

  「………………」

  彼が俺の視線の先に気づいたのか、少しバツの悪い表情を浮かべながら頬を撫でる。

  もうとっくに忘れてしまったかのように。

  「あ~…気にしないで…ってのはムリか、でも別になんも聞かんでいいよ。こんな仕事をしてりゃさ、たま~に乱暴な客に会うこともあるさ。」

  立ち尽くしている俺を気遣ってか、彼はそう言っていつもの調子で足を組みかえながら目を細めて軽快に笑った。

  「今日、叔父さん役の本番だったんでしょ?どうだった?俺は結構イケてると思ったけど。」

  「あぁ…うん…」

  彼がなんでもないと思ってたとしても、彼がこんな目にあっていることに大して彼のことよりも辛いと思うのは俺の傲慢だろうか。

  彼の隣の丸椅子にゆっくりと腰かける。

  「………」

  「…そっか。」

  なんとなく、彼に嘘はつきたくなくて。

  宙に放った彼の言葉を皮切りに、何も知らないけど俺のことを知ってもらえている彼にぽつりぽつりと話していく。

  観客はまばらだったこと。

  これからの不安。

  自分の境遇。

  役者になろうと思ったきっかけ。

  正社員にならないかという話を受けたこと。

  とにかく、頭を整理するかのように色んなことを話した。

  「…そんで、受けるの?その話。」

  「分からない。でも、受けた方がいいのも、そうした方が安心だっていうのも本当は分かるんだ。」

  「……そうだねぇ…。」

  そう言って、彼は少し考えた後にタバコを咥え、もう一本を俺に差し出した。

  今日吸った小道具とは違う、重たくて、苦い味がずしずしと内臓を降りてくるような感じがする。

  「…なんにしたってアンタの人生だし、オレが口出す資格はないさ。」

  「…君は、どうなんだい?なにかに傷つけられてたりとか、そういうことはあったりしないの?悩み事とかあったりしないの?」

  「オレのことがイヤに気になるんだな。」

  考えることが憂鬱になりそうな、自分のことから目を逸らしてそれを誰かの為ということで誤魔化したいのを見透かしたような、彼の言葉。

  少しだけ言葉が詰まった。

  「俺、その…君にいつも助けられてばっかりいるからさ…その…なんか助けになれるようなことがあれば、って…思うんだけど…なんか…ある…かな」

  誤魔化しもある。

  でもやっぱり彼の顔に対する心配もある。

  つっかえてどもりながら、それでも伝えたかった。

  観客であり、初めてできた友人でもあるから。

  誰かの目を見てこれほど長い言葉を紡ぎ出すのは初めてだったかもしれない。

  そんな俺をみて、彼はゆっくりと煙を吐き出しながら微笑んだ。

  少しだけ意地悪に口端を歪めて。

  「怪我したオレのためにあんたができることね…。ふぅん…なかなか自信満々なこと言うじゃん?」

  「あ、いや…」

  「あぁごめん、責めてるわけじゃない。ただ、勘違いしないで欲しいのは別にオレはこの生活に絶望してる訳じゃないし、借金とかあるわけでもないんだ。なんなら自分の才覚でやれてる分充実も感じてるよ。ほら、オレって結構可愛い顔してるだろう?」

  指でほっぺたを上げておどけながら言う。

  女性らしい格好に身を包んではいるものの、この無邪気っぽい表情が彼の本当の顔なのだろうか?

  「でも、現に殴られているし多分、これまでにもそういうのがあったってことだろう?…君は、怖かったりしないのかい?…今日みたいな怪我とか…肉食の奴に殺されたりするかもとか…」

  そういえば彼に向かって踏み込んだ話をするのも初めてだっただろうか?

  俺の話も今までしたことがなかったのに。

  「君がそういう目に遭うのは、嫌だ。」

  それでも、言葉を選んで絞り出す。

  配役をこなすようにはなかなか上手くいかないけれど、間違いなく俺の言葉だ。

  驚いたような表情を見せた彼は、俺の顔を見ると少しだけ照れくさそうにしたあと悩むような、迷うような目をする。

  「そりゃ君の考え過ぎ…というのとは少し違うか。考えたってしょうがないことさ。消防士や漁船に乗ってる連中だって危険な仕事と引き換えに高い給料や手当を貰ってるだろ?それと似たようなもんだよ、税金だって誤魔化してるんだし付き纏うリスクは承知の上さ。」

  「…ごめん。余計なこと聞いた。」

  「気にするこたぁない。俺はお前のこと全部分かってるから、なんてオレのこと口説くやつもいるけど、あんたみたいなやつの方がよっぽど可愛げがある。」

  彼が笑いながら俺の背にぽんと手を当てる。

  奇しくも店長に叩かれたところと同じ場所だった。

  「マトモに見える仕事だって激しい競走の蹴落とし合いだったりするし、一見ヤバいオレの仕事も草食肉食関係なく、どっちかと言えばあんたみたいに優しい客の方が多かったりする。現実なんて案外そんなもんだよ。」

  そう言ってゆっくりと紫煙を吐き出した。

  いつもの調子で、負い目など何もないかのように。

  「そんなもの…なのかな…。」

  「そんなもんだよ。そんでさ、それでいいんだよ。」

  優しいんだね、アンタ。

  そう言ってまた笑った。

  「だからさ、その正社員の件、受けてみなよ。アンタの演技力活かしてさ、客を沸かせるスーパー店員!みたいなのやれば、それだってアンタの言う、皆に認められたいって願いを叶えることなんじゃない?」

  やる、演じる…か。

  彼の言葉にだんだんと胸のつかえが取れていくようだった。

  「そっか…」

  「…?」

  「コインランドリーも劇場も関係なく現実こそが、俺の生きる『舞台』ってことか。」

  「………なんか深いこと言ってんね?」

  「…ハッ。」

  大真面目に放った格好つけたセリフを頭の中で反芻しながらお互いに見つめ合って、少しした後2匹、しばらく笑った。

  ひとしきり笑ったあと、機械音が洗濯乾燥の終わりを告げ、祭りの終わりかのように2匹の笑いもかすんでいく。

  「ハハハ…はぁ。まぁ、殴られるのは覚悟してるとさっき言ったけど別にされたいわけでもないんだ。」

  「それは、そうだろうね。」

  「でも今日はあんたのいい話も聞けたし、さっきのセリフ、結構笑えたし。おかげで良い日…とまでは言わないけどトントンで終わりそうだよ。」

  「フリム」

  「?」

  「俺の本名…フリムって言うんだ。」

  「フリムね。…結構可愛い響きの名前してんね?」

  君の名前は____

  そう聞こうとした瞬間、ゆっくりとした動作でありながらあっさりと距離を詰めて座ってきた彼が俺の太もものあたりを白い指で撫で回す。

  「…………」

  「…………」

  数瞬流れた無言の間はこれ以上を許すか許さないか選択する猶予の時間のようだったけど、俺はとっさの事だったのと彼の放つ芳香に意識を奪われ、何も言えなかった。

  …それは、今まで誰にもされたことの無い未知の感触でありながらこれから何が起こるか想起させるのがそう難くない触れ方。

  「フリムくん………オレのが歳上だしフリムでいいか。そうだな…さっき俺に出来ることがないかって言ったね?」

  そう言って彼は、さらに距離を詰めて身体をピタリとくっつけるのと同時に、侵食するようなゆっくりとした勢いで俺の肩に腫れた自らの頬を擦り付けてくる。

  服越しでも分かる、 熱い頬だった。

  やがて、細い手の指がゆっくりと脚を這い上り、そのまま俺の中心へと到達する。

  雰囲気がもたらすものなのか、なんなのか。

  否応なく身体が反応していた。

  どくどくと跳ねる心臓に合わせて、膨らむモノを抑えられない。

  街の音も機械音もない、衣擦れの音だけがランドリー内を満たしている。

  「…生憎、こんな顔だ。しばらくは仕事にも出られそうにないし___そろそろオレもこの街を出てくんだ。そこでだけどこんな顔でも良ければ、というかフリムさえ良ければ…少し生活費の足しを作らせてくれると助かるな……サービスするからさ。」

  そう言いながら今度は俺の足に跨り、首に腕を回して笑いかける。

  「……え、と…」

  何も言えず、彼の顔をじっと見つめることしか出来ない。

  「…男とするのはやっぱしんどい?顔は、なんなら全部隠したっていいし。」

  結構可愛くしてるつもりだけど。

  そう言って俺の手を取り自分の顔に添える。

  「いや、その…誰かに見られたら…」

  「今まで誰も通ったことなかったろ?それにほら…」

  体重を預けて、小ぶりな尻を揺らして俺の膨らみを刺激する。

  …もう結構やる気じゃん。

  そう言っていつの間にチャックを下ろされたのか、ズボンから取り出されたそれを彼があてがった。

  やがて、やわらかな肉が俺を飲み込んでいく感触とともに首の後ろから頭のてっぺんにかけてぞわぞわしたものが登ってくる。

  彼もまた、熱い息を吐きながら俺を沈めて、繋がっていった。

  繋がった感触を慣らすかのように、味わうかのようにぴったりとくっついたあとヒラヒラした薄いネグリジェの奥に透けて見える接合部から目を離せない俺の顎を持ち上げられ、彼と目が合った。

  そのまま唇を重ねられて、柔らかい舌が捕食するかのように俺の口内を舐る。

  さっきまでぐるぐると考えていたことが全部熔けて、彼の感触で塗りつぶされていく。

  「はあぁっ…ふぅっ…」

  無意識に彼の腰を掴んで抱き寄せるとより俺のモノが彼の奥へと入り込み、彼が甘く熱い声を上げ、本能と征服欲が刺激された。

  呼応するかのように小さな力で俺の背を抱きしめると彼の指の感触がそれを加速させる。

  「フリム、抱き方優しいんだね」

  頭を撫でられながら抱きしめられるのと同時に、脳が真っ白に染まっていく。

  就職おめでと。

  遠くで、そう聞こえた。

  彼の名前は、結局聞けずじまいだった。

  ##########

  

  ばつん、という何かが切れるような音。

  それを合図に調息を止めて目を開けた時、あたりは暗闇に包まれていた。

  廊下の外の非常灯だけが頼りない光を発していて、排煙機が起動したのかガタガタと音が鳴り響く。

  控え室の外ではバタバタと走る音が聞こえて軽い騒ぎになっていた。

  「すいません、トラブルですか!?」

  マネージャーが扉を開けてスタッフに声をかけると、焦った様子で急な停電が発生しており、なぜか非常灯まで消えているというスタッフの返事が聞こえた。

  どれくらいで復旧しますか?

  詳しくは…それになぜか局の電波まで…フリムさん達はとにかく安全のためこちらで待機をお願いします!

  分かりました。

  「…だってさ。」

  「聞いてたよ。」

  厚手の手袋を着用。帽子を目深に被って、尾を服の中へ収納し、顎や肩の関節を外して形を調整した。

  身が剥がされる鈍い痛みが点在し始めるが、我慢できないほどじゃない。

  背をひねり、内臓を押して角度調整。

  手術で背骨に入れた特殊なボルトは自在に背丈を変え、歩き方に出る独特のクセすら隠す。

  「7分ね、いってらっしゃい。」

  「すぐ戻る。」

  「ターゲットはブース中らしい。暗闇とはいえ…」

  「上手くやるさ。」

  控え室の外へ出て、闇の中に身を滑らせた。

  仕事を始めよう。

  ############

  目を覚ますとコインランドリーの中には俺以外の誰もいなかった。

  まさかと思いポケットをまさぐって財布を確認すると、特に現金やカードが抜き取られているということもなかった。

  チャックは開けっ放しだったけど。

  静まり返ったコインランドリー内を見回しても彼の姿や荷物もなく、彼の吸うタバコの銘柄の香りだけがかすかに漂っている。

  テーブルに走り書きで

  “”今までタダ見させて貰った分はサービスしときます、アンタも頑張れ。また会うことがあれば、今度はもう少し長く楽しもうね。男娼ウサギより。“”

  洗濯物もそのままに、ランドリーを飛び出し、暗い闇の中を走り回る。

  もう、二度と会えない気がした。

  それなのに、俺は何も彼に返すことができていない。

  この気持ちは恋なのだろうか?分からない。

  ただただ、あの綺麗な顔を腫らしたままの痛ましい姿で終わりたくはなかった。

  ペンには温もりがあったからまだそんなに離れていないはず。

  この辺りで立ちんぼなんかがいっぱいいる所は…息を切らしながら走っていると、遠目に、ぼんやりとだけど彼らしきネグリジェ姿のウサギと、派手なシャツを着たネコ科の男が見える。

  きっと彼だ。

  ネコ科の、クーガーだろうか?ウサギの彼になにやら食ってかかっているようで指をひっかけてネグリジェの裾をめくるも彼が無視するものだから今度は乱暴な手つきて彼の耳を掴み、そのまま引っ張って路地裏へと連れ込んだ。

  腹の底から煮えたぎるような怒りが込み上げてきて、思わず走り出しそうになった時。

  一瞬、彼と目が合ったような気がした。

  きっと、彼は俺のこの行いを商売の邪魔しないでくれ、なんて咎めるだろう。

  だけど、初めて役者としての自分を見てくれた彼が、暗がりで汚されていくのが耐えられなかった。

  これは愛なのか、好きなのか?そんな簡単な感情で表せるものじゃない。

  ただただ、もう俳優を辞める俺のケジメとしても初めて俺の演技が好きだと言った彼に、めいっぱいのものを見せようと思った。

  勝手だって、独りよがりだって分かってる。

  それでも、思い出をそのまま置いていくことだけはできない。

  相手は細身のクーガー1匹。

  そんな奴を俺はボコボコにしたことがあったじゃないか。

  でも俺は結局最後に喉を撃たれて死んだんだっけ?

  そんなことは関係ない。相手に啖呵を切って、先に1発殴りつけて、彼の手を引いて2匹暗がりの中に溶けていく。

  毛を逆立てて喉を唸らせろ。

  深く息を吸って、筋肉に酸素を回せば自然と体はデカくなる。

  フリム、演技には自信があるんだろう?

  1度くらい、主人公みたいなことしてみたっていいじゃねぇか。

  役者フリムの引退作はファン1号の彼に捧げる。

  これまでのくよくよとしていた俺を全て踏み付けるかのように、だん!と足を鳴らして走り出した。

  俺のこれまでの役者としての積み重ねはきっとこの日のためにあった。

  拳を握って、路地へ駆け込む。

  「お___________」

  

  ぱしゅん、ぱしゅん。

  音がふたつ聞こえて、小さな光が2回点った。

  ###########

  「局の電波全部止まってるってヤバくないすか!?」

  「設備まだかよ!」

  歩く。時に避け、ぶつかりながら。

  「なんで非常電源もつかねぇの?」

  「僕クレーン乗ったまんまですけど大丈夫すかね!?」

  「あんま動くなって!」

  夜目が利く動物も多いだろうが、かといってそれは全部を正しく認識できてるわけじゃない。

  これは毎晩来る夜とは違う、非日常なのだから。

  「トロリーさーん!8スタのトロリーさん!?」

  自分さえもおぼつかないこの暗闇の騒ぎの中なら少々輪郭と骨格、姿勢を変えれば誰も俺が俺でないことを疑うことはない。

  カメラは担当の連中の手で潰してあるだろうが、仮に映りこんだとしても顔を見せるような真似はしないし骨格レベルで変えているから歩哨照会さえ騙せるだろう。

  先程のインタビューをしたスタジオへと入り、ネブライザー吸引器に仕込ませたガスで声を変える。

  そのまま、彼女に用意された椅子の方へと向かった。

  「…ハナさん、すぐ復旧すると思うんですけど、暗い割にみんながバタついてて危険ですからもう一個椅子のある端のほうへ移動しましょう。自分、目が慣れたからリードしますんで。」

  「あ、はい。助かります!」

  彼女の手を取ってエスコートし、より暗い闇の方へ手を引いていく。

  冷たい匂いのする道具置き場の方へと。

  「もう終わりますから。ありがとうございました。」

  「いえ__今の内に反復しておかないと____」

  彼女と目が合った。

  ##############

  くぐもったような悲鳴は1度。

  1度目、ピストルを握る彼が見えた。

  暗転。

  2度目、彼は、俺を見ていた。

  でも、俺の演技を好きと言った時のあの目じゃない。

  彼と唇と身体を交わした時の甘いものでもない。

  誰にでも向けるような、誰でもいいような、俺の事など知らないかのような。

  「はぁぁ………」

  大きな溜め息。

  「…っ!…っ!」

  薄暗くてよく見えないが、クーガーの男は血がとめどなく溢れ出てくる喉を首を絞めんほどに強く押さえながら虫のように足をばたつかせている。

  彼から逃げようとしているのだろうか?しかし、うまく立てないようで路地の奥へずり、ずりと這って進むことしかできていなかった。

  行き先の見えない暗がりの奥の奥へと身体を溶かしていく。

  一生懸命堪えているのか、それとも声も出ないのか、ぶしゅ、ぶしゅ、と血混じりの息を必死に吐き出す音だけが小さく聞こえていた。

  悲鳴の1つもあがらない。

  誰にも気づかれない、俺のやった舞台とはまるで違う、どうしようもなく静かな、現実なんかじゃないみたいに見える現実の光景。

  「…なんで追っかけてきちゃうのかなぁ?」

  小さな身体、細い手足、透けたネグリジェ。

  何も変わらない、俺のこれまでの日常の中にいた当たり前の存在が、手にした拳銃をゆっくりと俺の顔に向けた。

  路地の闇の中にもかかわらず恐怖感が輪郭を持たせるかのように黒い銃身がくっきりと感じられた。

  毛も、身体も、ありとあらゆる自分が萎びていくのが分かる。

  逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ_____

  聴覚が敏感になっているのか、逃げなければいけないのに遠くで聴こえるはずの夜間工事の音がイヤに頭でガンガンと響き、警報音が頭の中をかき乱して上手く思考できない。

  何より、拳銃の奥に見えるウサギの赤い目が俺を縛り付けるように離さなかった。

  「座って。」

  そう、銃口で促されたものの膝が棒を突っ込まれたかのように張り詰めていて、上手く動かなくて、俺は身を丸めてすくませるのが精一杯だった。

  「いや、キミのが俺よりデカいんだから上に照準合わせ続けんの疲れるだけだよ。ま、いいけど。」

  銃口を向けたまま俺に近づいてきた彼が片手で俺の膝裏を叩くと、呆気なく俺の膝は落ちた。

  「……夢ってさぁ、追いかけてる瞬間が一番楽しいんだよね。だってそれは希望じゃん?実際、アンタもそれに縋ってたわけだし?」

  チンピラ役やってた頃のアンタ、すーごいイキイキしてたよ。

  懐かしむかのようなことを言いながらタバコに火をつけた。

  彼の吐き出した紫煙が、先程のクーガーを追いかけるかのように闇の奥へと進んでいく。

  まるで、死神が追いかけるかのように。

  「…でもさ、夢みたいなことはあっても夢そのものはないんだよ。この世界って現実なわけで、起きてることも全部現実。だから大多数の大人は現実的な生き方に切り替えるの。かつての夢をそのままの形にしとくためにね。そしたら、次は自分の子どもがその希望になるから。」

  彼は、銃口は俺の頭に向けたまま、壁に背をつけて通りの様子をうかがう。

  警戒してるようにも見えるし、思い馳せてるようにも取れる表情だった。

  「だからアンタも諦めて、普通に就職して結婚してさ、『昔はパパも俳優だったんだよ?テレビに出たこともないチョイ役だったけどね』なんて言ってりゃよかったのにさ。…ワンナイトしただけの男のことなんてとっとと忘れてね」

  硬い感触が毛皮を通して感じられる。

  「残念だよ。」

  自分のことなのに何故か俯瞰で物を見ていた。

  劇的でもなんでもない。

  死ぬ時って、こうなんだ。

  何も言えないまま、案外終わるんだ。

  呆気ない。

  ……

  ………俺の人生ってなんだったんだろ。

  ………………そして静寂が訪れた。

  ###########

  暗闇の中、ハナ氏の目が丸くなるのが見える。

  「………え、もしかしてフリムさんですか?」

  残念________________________________《《それは5問目だ。》》

  その瞬間、手袋を付けた手でハナ氏の口を軽く塞ぎ、足を引っ掛けて彼女の胸を軽く押す。

  平衡感覚の掴めない暗闇の中で体勢を崩した彼女は咄嗟に身体を支える箇所を見つけられることも無く、呆気ないほど自然に、壁にかけられた脚立の縁へと後頭部を強く打ち付けた。

  誰も誰かが分からないブースの中でがん!という衝突音が響くも、停電でバタつくスタッフの喧騒に紛れて誰もその異常には気づかない。

  “ハナさんいらっしゃいますかー!”

  “警備の人復旧まだー?”

  垂れ下がっていた暗幕で2人の体を素早く包み、簡易的に目隠しをする。

  後頭部を強く打ち付けた彼女の身体が反射で2、3回びくんと跳ね、弓なりに身体を逸らしながら抑えた口の端から泡をこぼした。

  凶器も台詞も必要ない。

  命を攫うことができるのなら役目が俺だろうと死神だろうと些細なことだ。

  なぜあなたが死ななきゃいけないのかは知らないし興味もないが_____

  少なくとも、せっかくのファンを己の手で殺めてしまうことだけは少し残念だった。

  ###########

  静寂。

  何秒待っただろうか?銃弾は俺の眉間を貫かず、依然として発射もされていなかった。

  かわりに、溜息がひとつ。

  「………でも今回はさすがにオレにも非があるか。潜伏期間が長かったからっつって余計なことし過ぎたし、アンタとの終わりの機会や終わり方を見誤ったのも俺だしね。」

  ………

  ……………?

  まだ生きている。

  「あぁ、そういえば最近新しい顧客層を取り入れるって話があったっけね、芸能の方。個人的にアンタの顔、結構好みだし演技力もあったし、意外といけるかな?俺もいい加減24だしね。男娼役なんて何年も続けられるもんじゃないし。」

  言葉の意味もよく分からないまま漠然と助かるのか、なんて考えていると冷たい塊が俺の眉間から離れた。

  安堵したのも束の間、彼はトリガーを軸に銃をくるりと回したあと、今度は俺に握らせる。

  「チャンスあげる。もし上手くいったら役者になる夢も叶うし、生きてられるよ。ダメだったら死ぬけど、どの道俺に殺されるかの違いだよ。」

  促されるまま銃を握る。

  肩を引っ張られ、言われるがままに立たされようやく、ようやくこれから何が起きるのか…何を試されるのかが分かった。

  「本物はちょっと重たいでしょ。」

  「…っ、ハッ、ハッ…」

  あの時のセックスと調子の変わらない、囁くような声で俺の指をとり、構えを整える。

  俺との問答の間に逃げおおせたかと思っていたクーガーはそれほど奥には進んでいなくて、怯えなのか、それとも出血多量の凍えからくるのか、身体を丸めて荒い鼻息を繰り返す。

  うずくまって抱え込んだ手の隙間から俺を見る。流した涙が表通りの光を吸い込んで、許しを乞う潤んだ瞳をはっきりと映し出していた。

  「はぁっ…はぁっ…はあっ!はあっ!」

  クーガーの鼻息にシンクロするかのような俺の呼吸。動悸が止まらなくて膝が震える。

  どうしてこんなことになったんだろう?

  やめちゃだめなのか。

  ほっとけば死ぬんじゃないのか?

  逃げればいいんじゃないのか?

  この銃を彼に向ければいいんじゃないのか?

  ………俺が代わりに死ねば?

  ガンガン。ゴンゴン。

  工事の音が思考をかき乱す。

  「はあっ!はぁっ!ハッ!ハッ!ハッ!ハッ…」

  やわらかい手が俺の口元に添えられ、もう片方の手が俺が銃を握りしめていた指を一本ずつ外して手に取り、胸に当てさせた。

  「ほら、落ち着いて息しな、銃は握り込むんじゃない、突きつけて押し出すんだよ。」

  「おれ…おれは…」

  「なんも考えなくていいよ。言われた通りに。さぁ、目を閉じてオレの言った通りに。」

  吸って。

  …吸う。

  少し吐いて止める。

  少しだけ吐いて、ぐっと息を止める。

  また溜めて、最後に全部吐き出して。

  おそるおそる、全部の空気を吐き出す。

  ぱしゅん。

  「………」

  路地がほんの少しだけ明るく照らされたかと思うとまた暗くなり、目が慣れた頃にはとっくに俺の息は落ち着いていて、荒く吹き出すような息の音もしない。

  聞き慣れた夜間工事の音と、嗅ぎ慣れたタバコの香りだけがかすかに感じれる。

  『あぁ、終わったよ。全員始末したから処理よろしく。それで、ボスに取り次いで欲しいんだけど。…いやなに、オレの今後と有望な若手のスカウトについてちょいとね。』

  自分が何をしたのか認識したくなかった。

  どうしてこうなったのかいつからダメだったのか何がいけなかったのか。

  分からないまま、選べないまま、何もかも失くした、そんな感じだ。

  「…オレの名前ね、トゥインクって言うんだ。言いづらけりゃトーイでいい。」

  彼の声がぼんやりとした意識の遠くで聞こえる。

  こんな時にも関わらず俺は別のことを考えていた。

  俺はこの路地の暗がりをよく知っている。

  「付き合いが短いか長いかはアンタ次第だけど__よろしく頼むな。」

  …舞台から見た観客席によく似てるんだ。

  「…夢?」

  「現実だよ。全部、な。」

  ##########

  停電の中をまた歩いて戻り、控え室へと入っていく。

  「終わったよ、もう電気つけていい。」

  外した手袋をマネージャーに手渡すと、慎重にフリーザーパックに入れてカバンの中へとしまった。

  「片道2分か。まぁまぁだな。」

  「そりより、早めに頼むよ。痛いんだ。」

  骨格を戻して、無理をさせた身体をほぐすために腹這いで寝転ぶ。

  マネージャーが俺の背に座ると手をつけ、細かく入った骨格の歪みを正しい場所へと調整した。

  「ボスがな、“ご苦労”だってさ。」

  「…そう。」

  電気が復旧してライトが点灯し、遠くで聞こえる女性の悲鳴が彼女の亡骸が発見されたことを示していた。

  じきに救急隊が駆けつけて、彼女をさらっていくだろう。

  少し待たされた後、トラブルがあったこと、その為ハナ氏抜きで5問目を執り行うことを承知して、俺は用意されたブースへと向かった。

  「とても残念なことです。」

  そう言い残して。

  ############

  ハナ氏の遺体は救急隊に引き取られたあとにあっさりと事故死として処理された。

  目の窪んだプロデューサーが言うには、今日撮影した分は字幕編集で繋ぎ直すらしい。

  代わりがどうとでもなるのなら、彼女が死ぬ必要は果たしてあったんだろうか。

  なぜ殺すのかの理由を聞かされない俺が考えても、少なくとも死者のことを考えたって詮無きことだ。

  「…海だね。」

  後部座席の窓から黒くうねる、広大な闇。

  「いや、この橋の下はまだ汽水域だな、海と川の境目だよ。ボラとかハゼとか、そんな魚ばっかりのな。」

  どっちにもいて、どっちでもなくて、どこにもいけない。

  俺たちにお似合いだなと言わんばかりだった。

  「今後の予定は?………トーイ。」

  「DCの方でボスが呼んでるから明日からそこに行く。何シーンか撮影撮るそうだ。向こうじゃ『本業』はなし。俳優業の方だけってのは久々だからまぁ、楽しめよ。」

  「分かった。」

  「…………」

  “”分かった“”という言葉に俺の自発性はない。

  あの夜から俺の生活は一変して、捨てたはずの夢が戻ってきた。

  とびきりの、悪い夢へと姿を変えて。

  ハンス・マクガヴァンを演じるフリムという役者はハイドランジアという名前で表向き映画監督をしているボスの結成した組織に属する本物のエージェントで、世界を股にかけファンを魅了する作品の主役でありながら指令のままに諜報、暗殺までこなす夢みたいな、現実の話。

  あれほど願い、俺が手にした憧れの理想の姿は、今や枷のようなものとして俺にまとわりついている。

  どこにでも行けるのに、どこにも行けない。

  あの日、あの路地裏に何もかもを置いていってしまった俺は、果たして生きていると言えるのだろうか。

  暗がりから照らされ、賞賛を浴びるだけの舞台装置。

  理由もドラマもなく、感じ取ることもない言われるがままに殺めるだけの道具。

  生きているんじゃなく、

  生かされているだけの存在。

  誰にでも見られるのに誰にも自分を見せることの叶わない、ハンス・マクガヴァンのガワを着た、トルソーのようなただのクロヒョウ、それが今の俺。

  ホテルの部屋へ入るなり服を脱ぎ捨て、バスタブに湯を張って鏡の中の自分を見る。

  洗面台で何度も何度もゴシゴシと顔を擦って自分の肌の感触を確かめる。

  『仕事』の為に造られた身体を、『夢の舞台』で笑顔を振りまく為に訓練した顔をこねくり回す。

  「ウウウゥ!ウオオオオオオ!________!!!」

  それでも、自分の身体を傷つけられるほど強くない俺は力を込めきることができない。

  「__!!!________!!!_______!!!」

  裸になって絶叫する俺を鏡の中の俺自身が観ている。

  喉に腕を突っ込んで、涙を流しながら湯船の中に胃の中の物を吐き出して、思い切り顔から浴びた。

  吐瀉物混じりの湯の中に頭を突っ込む。

  【普通じゃないことして、自分の意思があること確かめてるつもりかよ?】

  冷たく突き放すような彼の声が聞こえた。

  なんだと?

  俺が悪かったって言うのか?

  お前なんかと出会わなければ…

  お前があの街に、コインランドリーに来なければ…

  水底から飛び出して牙を向き、トーイの細い首を思い切り握りしめる。

  それでもなお、トーイは端から諦めているかのような、分かりきっているかのような顔を崩さない。

  そしてその通り、俺は彼をベッドへ運び、体重を乗せて押さえつけても力を込め続ける事が出来ずに首から手を離してしまった。

  「……ぐぅ…あぁっ…」

  「…そうだよなぁ?殺せないよなぁ?もう戻れる場所なんてない…死ぬか、続けるしかない『アンタ』のことを知ってるのは…オレしかいないもんな?」

  お前を本当にフリムと呼んでやれるのは

  世界でこのウサギだけなんだ。

  「…オレだって似たようなもんさ。」

  そう言ってトーイは服を脱ぎ捨て、優しく俺を抱きとめた。

  俺が夢なんて見なければ。

  追いかけなければ。

  思い上がらなければ。

  死んでいれば。

  生まれなければ。

  そんなこと考えなくても良かった、眠たい目をこすりながら夢を演じた深夜3時のコインランドリー。

  彼に抱かれて眠った時、あそこに戻れはしないだろうか。

  全ては夢だったりしないだろうか?そう願いながらトーイの体を抱く。

  生きるのは簡単で、死ぬ時だってあっさり死ねるのもよく知っている。

  ………それでも夢の終わりを迎えるのは

  ………………まだ、怖い。

  #############

  [第5問]

  Q、幼い頃の夢を叶えたフリムさんに質問です。

  やはり、この世で1番で大切なものは夢ですか?

  それとも?

  

  「これは…絶対に〇です。_____________________________________________僕にあるのはこれだけです。」

  

  

  《情報番組『デショデショ』の企画で行われた、

  『CLEAN ORDER2 蜃気楼の牙』公開記念のスペシャルインタビューコーナーより一部抜粋。》

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