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# 茜の輪郭
## 一 指先
最初の異変は、左手の薬指だった。
北原湊(きたはら・みなと)、二十三歳。祖母の四十九日を終えた翌週から、彼は兵庫県の山あいにある祖母の家に一人で住み始めた。大学を出て、就職して、十一か月で辞めた。理由を訊かれるたびに「合わなかったので」と答えたが、本当のところは自分でもよく分かっていなかった。満員電車の中で、ある朝ふいに、自分の輪郭が溶けてなくなるような感覚に襲われた。周囲の人間の体温と呼吸に押し潰されて、どこまでが自分でどこからが他人なのか分からなくなった。その日のうちに退職届を書いた。
誰も住まなくなった祖母の家を「風を通すだけでいいから」と母に頼まれたとき、湊は内心ほっとした。逃げ込む先に、ちょうどいい名目がついた。
家は谷あいの集落の一番奥にあった。背後はすぐ山で、杉と広葉樹の混じった斜面が屋根の上まで覆いかぶさっている。隣家までは二百メートル。夜になると、闇は都会のそれとはまるで別の物質だった。墨を流し込んだような、重さのある闇。最初の一週間、湊はその闇が怖かった。二週間目には、慣れた。三週間目の夜、左手の薬指の先が、燃えるように熱くなった。
湿布を貼って寝た。翌朝、湿布を剥がすと、爪が変わっていた。
伸びたのではない。形が変わっていた。根元から先端にかけて、爪が左右から巻き込むように丸まり、薄い筒のような、樋(とい)のような断面になっている。色も、健康な桜色ではなく、煙がかった鈍い色——黒に近い灰色をしていた。
「……巻き爪?」
声に出してみたが、自分でも信じていなかった。巻き爪というのは爪の縁が肉に食い込むものだ。これは違う。爪そのものが、別の設計図に従って作り直されたみたいだった。先端は鋭く、指の腹側へゆるやかに湾曲している。試しに机の天板を引っかくと、こり、と木が削れる感触が指の芯まで伝わった。
その感触が、嫌ではなかった。それが一番おかしかった。
病院に行こう、と思った。思っただけで、行かなかった。町まで車で四十分。それが理由だと自分に言い聞かせたが、本当は別のことを恐れていた。診察室で爪を見せたとき、医者が浮かべるであろう表情。「これは何ですか」と問われて、答えを持っていない自分。会社を辞めた朝と同じだ。説明できないものを抱えて他人の前に立つことが、湊には何よりも難しかった。
三日のうちに、左手の残りの爪が同じ形になった。五日目には右手も終わった。十本の指先に、灰色の鉤爪が並んだ。
不思議なことに、痛みは最初の夜の熱だけだった。むしろ指先は以前より敏感になっていた。畳の目の方向、湯呑みの釉薬のわずかな凹凸、ページをめくるときの紙の繊維。世界の解像度が、指先からじわじわと上がっていく。
夜、布団の中で天井を見ながら、湊は両手を顔の前にかざした。闇の中でも、爪の輪郭がぼんやり見えた。それも変だった。以前の自分は、こんなに夜目が利いただろうか。
「……なんなんだよ、これ」
呟きは闇に吸われた。怖い、という気持ちは確かにあった。あったのだが、その怖さの底に、もうひとつ別の感情が静かに横たわっているのを、湊は見ないふりをした。それは、安堵に似ていた。説明のつかないものに、自分が「なっていく」ことへの——まるで、ずっと届かなかった場所から、ようやく迎えが来たような。
その夜、湊は夢を見た。茜色の毛皮が風になびく夢。四つの足が落ち葉を蹴り、世界が匂いでできている夢。目が覚めたとき、枕に顔を押しつけて、自分が泣いていることに気づいた。悲しかったからではない。夢の中の世界が、あまりに——あまりに、正しかったからだ。
## 二 匂いの地図
爪の次は、鼻だった。
ある朝、味噌汁を作っていて、出汁の匂いに殴られた。比喩ではなく、本当に一歩後ろによろめいた。鰹節の燻香、昆布のヨード、味噌の麹、その奥にある大豆の青さ。今まで「出汁の匂い」というひとつの塊だったものが、何層もの地層に分かれて、一斉に鼻腔へなだれ込んできた。
それからの数日間、世界は匂いで再構築されていった。
雨が降る三時間前に、湊はそれを知った。空気の中に、濡れた石の匂いの先触れが混じるからだ。集落の誰かが風呂を焚けば、薪の樹種まで分かるような気がした。夜、縁側に座っていると、山のほうから獣の匂いが下りてくる。鹿は乾いた草の匂い。猪は土と脂の匂い。そして時折、それらとは違う、どこか懐かしい匂いが杉林の縁を流れていった。麝香(じゃこう)に似た、けれどもっと乾いて野性的な——後になって、それがキツネの匂いだと知ることになる。
視覚にも変化が出た。色が、おかしい。
正確に言えば、赤と緑の区別が曖昧になっていった。郵便受けの赤いペンキと、その横の山茶花の葉が、同じようなくすんだ黄土色に沈んで見える日が増えた。代わりに、青と黄色はやけに鮮やかになった。そして薄暮——夕方と明け方の、世界が青く沈む時間帯になると、湊の目は本領を発揮した。人間なら懐中電灯が要る暗さの中で、彼は新聞の見出しが読めた。
調べ物は、もっぱら夜にやった。古いノートパソコンで、湊は検索を重ねた。「爪 変形 灰色」「色覚 変化 成人」「嗅覚 過敏 突然」。出てくるのは病名ばかりで、どれも当てはまらない。当てはまるはずがなかった。彼の症状を全部まとめて説明できる病気は、人間の医学には存在しない。
ある夜、検索ワードを変えた。震える指で、こう打ち込んだ。
「人間 キツネ 変身」
画面に並んだのは、民話と、創作と、人を化かす狐の話ばかりだった。当然だ。それでも湊は朝方までスクロールし続けた。そして気づいた。自分は答えを探しているのではない。仲間を探しているのだ。世界のどこかに、同じことが起きている人間がいないかどうかを。
いなかった。少なくとも、見つからなかった。
夜が白み始めた頃、湊はパソコンを閉じて、台所の小窓から外を見た。霧が谷を埋めていた。その霧の向こう、杉林の縁に、ぽつんと橙色の点があった。
キツネだった。アカギツネ。霧を背にして、まっすぐにこちらを見ていた。
距離は五十メートル以上あったはずだ。なのに湊には、そのキツネの黒い前脚も、喉の白い毛も、風に揺れる尾の先の白さも、すべてがはっきり見えた。キツネは逃げなかった。ただ見ていた。観察でも警戒でもなく——強いて言えば、確認するように。
湊は気づくと、窓を開けていた。冷気が流れ込む。キツネの匂いが、霧に乗ってかすかに届いた。あの、懐かしい匂い。
「……おまえも、こっちが分かるのか」
キツネは答えなかった。ひとつ、ゆっくりとまばたきをして、霧の中へ溶けるように消えた。
窓を閉めたあと、湊は長いこと台所に立ち尽くしていた。心臓が速かった。恐怖ではなかった。それは、長い間音信不通だった家族から、手紙が届いたときの動悸に似ていた。
## 三 社(やしろ)
集落の外れ、棚田の上の斜面に、小さな稲荷社があった。
鳥居は朱が剥げて木肌が見え、社殿は人の背丈ほどしかない。湊は子供の頃、夏休みに祖母の家へ来るたび、この社の前を通って山へ入った。祖母はいつも、社の前で立ち止まって頭を下げた。「ここの神さんはな、うちの家とは古い付き合いやから」——その言葉の意味を、湊は深く考えたことがなかった。
爪が変わってから二十日目。湊は祖母の家の納戸を整理していて、一冊の帳面を見つけた。和綴じの、表紙が飴色に焼けた帳面。開くと、祖母のものではない、もっと古い、几帳面な筆文字が並んでいた。日付は昭和の初め。書き手はおそらく曾祖父か、その上の代の誰かだった。
大半は農事の記録だった。種播き、雨、収穫高。だが、ところどころに、奇妙な記述が挟まっていた。
「三月十六日 弟、また山に入りて三日戻らず。母、社に油揚げを供ふ」
「三月十九日 弟戻る。手の爪、まだ戻りきらず。本人は笑ひてをり、母は泣く」
「四月二日 弟と長く話す。『苦しうない、むしろ楽になる』と云ふ。ただ戻るたびに、戻る場所が少なうなる、とも云ふ」
湊は土間の上がり框(かまち)に座ったまま、動けなくなった。
「五月廿日 弟、これにて仕舞ひにすると云ふ。家のことは頼む、と。母には言ふな、と」
「五月廿一日 弟、山に入る。見送りは我ひとり。振り返りし顔、すでに人の顔にあらず。されど目は弟の目なり。怖ろしとは思はざりき。ただ、達者で、とのみ言へり」
その先、「弟」の記述は二度だけ現れる。
「十一月三日 稲架(はさ)の下に茜色の獣をり。我を見て尾を振る。弟なりと思ふ。誰にも言はず」
そして、数年後の頁に、最後の一行。
「裏山に雪。茜色、雪の上を行くを見たり。息災なり。それでよし」
帳面を閉じたとき、湊の手は震えていた。けれどその震えの中心にあったのは、やはり恐怖ではなかった。系譜、という言葉が頭に浮かんだ。これは病気ではない。事故でもない。この家の血の中を、何代かに一度、川の伏流のように流れてきたものだ。曾祖父の弟がそうだった。そしておそらく、祖母はそれを知っていた。「ここの神さんはな、うちの家とは古い付き合いやから」。
湊は帳面を抱えて、稲荷社へ向かった。
二月の午後の光は薄く、棚田の枯れ草が銀色に光っていた。社の前に立つと、供え物の台に、誰かが置いたらしい油揚げの干からびた欠片があった。集落の年寄りが、今でも供えているのだろう。
頭を下げた。何を祈ればいいのか分からなかった。治してくれ、とは言えなかった。それが本心ではないことを、もう自分で知っていたからだ。代わりに、口をついて出たのはこんな言葉だった。
「——教えてください。俺は、何を手放して、何を持っていけるんですか」
風が杉の梢を鳴らした。答えはなかった。ただ、社の裏手の藪で、かさりと小さな音がした。見ると——あのアカギツネが、藪の縁に伏せて、顎を前脚に乗せてこちらを見ていた。まるでずっと前からそこにいて、湊が来るのを待っていたかのように。
近づいても、キツネは逃げなかった。三メートルの距離まで来て、湊は腰を下ろした。キツネの琥珀色の目が、湊の目を見た。
その瞬間、匂いが——情報が、流れ込んできた。
言葉ではなかった。キツネの体表から立ちのぼる匂いの濃淡、耳の角度、瞳孔の開き、尾の毛の立ち方。それらが全部まとまって、ひとつの「意味」になって湊の中に落ちてきた。人間の言語に無理やり訳すなら、こうなる。
『はやかったな。おまえの代で来るとは』
湊は息を呑んだ。自分の口から出た声は、掠れていた。
「……あんた、誰だ」
キツネは立ち上がり、ゆっくりと身震いして毛を整えた。そしてもう一度、湊を見た。
『誰でもいい。先に渡った者だ。——怖がるな。おまえはもう、半分こちら側の匂いがする』
キツネは身を翻し、藪の中へ消えた。あとには麝香に似た匂いだけが、冬の空気の中に細く残っていた。
湊はその場に座り込んだまま、自分の両手を見下ろした。灰色の爪。その付け根に、いつからか、橙色の細い毛が、産毛のように生え始めていた。
## 四 夜目
三月に入ると、変化は加速した。
まず、夜ごとに体毛が広がった。手の甲から手首へ、手首から前腕へ。最初は産毛だったものが、密度を増し、長さを増し、やがて誰が見ても「毛皮」としか呼べないものになった。色は燃えるような茜色——夢で見た、あの色だった。腹側と、喉元だけは白かった。
風呂に入るたび、湊は自分の体の変化を点検した。それは奇妙な儀式になった。怯えながら、同時に、どこか見入ってしまう。濡れた毛皮が肌に貼りつき、湯から上がると水を弾いてふっくらと立ち上がる。その機能の完璧さに、感嘆してしまう自分がいた。人間の皮膚は、こんなふうに雨を弾けない。こんなふうに冬の夜を抱きしめられない。
耳が動いたのは、三月の半ばだった。
夜、布団の中で、遠くの沢の音を聞いていた。水音の中に、何か小さい、規則的な音が混じっている。それを「もっとよく聞きたい」と思った瞬間、頭の横で、ぞわり、と何かが持ち上がる感覚があった。
飛び起きて、洗面所の鏡の前に立った。
耳が、頭のてっぺんへ向かって移動を始めていた。人間の耳の位置に残っているのは縮みかけた名残だけで、頭頂部寄りの側頭部に、毛に覆われた三角形の耳が、左右ひとつずつ。鏡の中でそれが、ぴく、と独立に動いた。湊の心拍に反応して、ぴく、ぴく、と。
「うわ……」
声が出た。けれど次の瞬間、その新しい耳が、洗面所の窓の外の音を拾った。屋根を渡る風。瓦の下で身じろぎする雀。沢の水音の中の、あの規則的な音——ネズミの足音だ、と、考えるより先に「分かった」。新しい耳は、古い耳が一度も聞かせてくれなかった世界を、当然のように差し出してきた。
湊は鏡の前で、長いこと立っていた。鏡の中の自分は、もう「異変のある人間」には見えなかった。「途中の何か」に見えた。茜色の毛皮が首筋まで上がってきている。瞳は琥珀色に変わり、瞳孔は縦に細い。頭の上には獣の耳。
不気味なはずだった。鏡の中のそれを、湊は——綺麗だ、と思ってしまった。
その自覚は、恐怖よりもずっと深く湊を揺さぶった。彼は洗面所の床に座り込んで、膝を抱えた。毛皮に覆われ始めた腕が、自分の体を抱く。その毛皮の温かさに、慰められてしまう。慰められてしまうことが、いちばん怖かった。
——俺は、戻りたいのか?
初めて、正面からその問いを立てた。
戻った先には何がある。満員電車。説明を求める顔、顔、顔。「で、今後どうするの?」という、善意の形をした刃物。輪郭が溶ける感覚。あの世界で、湊はずっと、自分が「うまく組み立てられなかった人間」だと思って生きてきた。部品は揃っているはずなのに、どこかネジの規格が合っていない。
でも、もし——最初から、設計図が違っていたのだとしたら?
その夜から、湊は走り始めた。深夜、誰も見ていない時間に、山の斜面を。最初は二本の足で。やがて、前傾して、両手を地面につくほうが速いと体が気づいた。掌と足裏には肉球が育ち始めていて、落ち葉の上を走っても音がしなかった。冷たい夜気が毛皮の上を流れ、月のない闇の中で、世界は青灰色に明るく、匂いの川が幾筋も山肌を流れていた。
尾骨のあたりが、ずっと疼いていた。そこにあるべきものが、まだ無い、という疼きだった。
## 五 最初の夜
尾が生えた夜のことは、一生——この先の生がどんな形であれ——忘れないだろうと湊は思った。
三月二十日、春分の前夜。夕方から、尾骨の疼きがいつもと違っていた。熱を持ち、波打つように脈動していた。湊は夕食を作る気になれず、居間の畳に横になって、その熱が体の中で何をしようとしているのかに、耳を澄ませていた。
午後九時を過ぎた頃、それは始まった。
ばき、と、体の内側で音がした。痛みは——あった。あったが、それは怪我の痛みとは違った。成長痛に近い。骨が伸びる、関節が増える、皮膚が追いつこうとして引き伸ばされる。湊は四つん這いになり、ズボンを脱ぎ捨てた。尾骨の先が皮膚を持ち上げ、そこから先へ、先へと、新しい骨が数珠つなぎに形成されていくのが分かった。一椎、また一椎。そのたびに、背骨の末端に新しい「領土」が増えていく感覚があった。今まで存在しなかった方向に、神経が伸びていく。
三十分か、一時間か。気づくと、湊の腰から、ふさふさとした茜色の尾が生えていた。先端の三分の一は、雪のように白い。
恐る恐る、「動かそう」と思ってみた。
尾が、ぱさり、と畳を打った。
「……っ、は」
笑いが漏れた。涙と一緒に。動いた。動かせた。生まれて初めて使う筋肉なのに、体はその使い方を知っていた。左右に振る。持ち上げる。先端だけを器用に曲げる。尾は感情に直結していた。嬉しいと思った瞬間、尾は勝手に大きく揺れた。自分の感情が、隠しようもなく体の外に表れる。人間だった頃、あれほど苦労して読み合っていた「気持ち」というものが、ここではこんなに単純に、こんなに正直に、形になる。
そして、その夜のうちに、最初の完全な変身が来た。
尾の形成が終わって、湊が畳の上でぐったりと休んでいたときだった。体の奥で、何かの栓が抜けた。そうとしか言いようがなかった。今までせき止められていたものが、一気に全身へ流れ出した。
骨格が、組み変わり始めた。
肩甲骨が背中の上を滑り、胸郭が左右から押されて深く狭くなる。腕の骨が音を立てて比率を変え、肘と手首の角度が「前脚」のそれに作り変えられていく。指が短くなり、掌が伸びて足の一部になる。腰が落ち、膝の向きが変わり、踵が地面から離れて、足首から先だけで立つ趾行(しこう)の脚になる。
痛みの波の合間に、湊は奇妙なほど冷静な意識の島にいた。怖くなかった、と言えば嘘になる。けれど体は、湊の意識よりずっと先を歩いていて、一切ためらっていなかった。体は知っていた。次にどの骨が動き、どの筋がどう付け替えられるのか。湊にできるのは、その大工事の真ん中で、息を続けることだけだった。
手が——前足が、できあがっていく過程は、痛みの中でも目を離せなかった。指が短く詰まり、親指が手首のほうへ退いて狼爪(ろうそう)になり、掌の肉球がふっくらと盛り上がって、地面を受け止める弾力のある面になる。灰色だった鉤爪は、もう完全にキツネの爪だった。人間の手の精密さが失われていくのを、湊は確かに惜しんだ。ペンを握る、頁をめくる、味噌を溶く。その全部と引き換えに、この前足は、凍った斜面を掴み、雪を掘り、音もなく大地を走る。交換は、対等だと思った。少なくとも自分にとっては。
鼻先の両脇と目の上に、ちり、ちり、と火花のような感覚が走り、洞毛(ヒゲ)が伸びた。それが伸びきった瞬間、空気が「触れるもの」になった。気流の渦、壁との距離、自分の呼吸の跳ね返り。目を閉じていても、部屋の形が分かる。人間は空気の中を素通りして生きているが、獣は空気に触れながら生きているのだと、湊は新しい器官で理解した。
顔が、最後だった。
鼻と口が、ゆっくりと前へ引き出されていく。視界の下端に、自分の鼻面(マズル)がせり出してくる。頭蓋骨が軋み、歯列が組み変わり、犬歯が伸びる。舌が長く薄くなる。そして——嗅覚が、開いた。
それまでの「鋭くなった嗅覚」は、まだ蕾だったのだと知った。本物の、キツネの嗅覚が開花した瞬間、居間は匂いの大聖堂になった。畳の藺草、五十年分の線香、祖母が使っていた椿油の染み、柱の奥の杉の芯、土壁の藁、自分の毛皮の匂い、その全部が立体的な構造物として、そこに「見えた」。
最後に、体がひとまわり縮んだ。衣服がふわりと緩み、湊はシャツの中から這い出した。
四本の脚で、畳の上に立った。
静かだった。心臓の音と、自分の呼吸と、夜の家の軋みだけがあった。湊は——いや、いまや一頭の若いアカギツネは、そろそろと歩いて、洗面所の鏡の前まで行った。後ろ脚で立ち上がり、前脚を洗面台にかけて、鏡を覗き込んだ。
茜色のキツネが、そこにいた。
夢で見たとおりの。霧の朝に見たあのキツネと同じ、けれど確かに自分の目をした、一頭のキツネが。
不気味さは、どこにもなかった。鏡の中の獣は、完成していた。間違って組み立てられた部品はひとつもなく、すべてが、あるべき場所にあった。二十三年間、鏡を見るたびに感じてきたあの微かな違和感——「これが自分だ」と思おうとして、思いきれない感じ——が、消えていた。
キツネは口を開けた。人間の言葉を出そうとした。出たのは、細く高い、キュゥ、という声だった。
それでよかった。言いたいことは、ひとつだけだったから。鏡の中の自分に向かって、湊は尾を、大きくひと振りした。
——ただいま。
その夜、湊は生まれて初めて、自分の山を走った。
縁側の戸の隙間から外へ出ると、夜は明るかった。月はないのに、世界は青く光っていた。四本の脚は、考えるより先に地面を読んだ。霜の降りた畦、濡れた岩、腐葉土の弾力。体重はどの脚にどう乗せればいいか、尾はカーブでどう振ればバランスが取れるか、すべてを体が知っていた。
杉林を抜け、尾根に出た。眼下に集落の灯がふたつ、みっつ。風が毛皮を撫でて流れ、その風の中に、山ぜんぶの情報が書かれていた。三つ谷向こうの鹿の群れ。昨日ここを通った猪。沢の水の、雪解けの味。
湊は尾根の岩の上に座り、夜空を見上げた。キツネの目に、星は人間の目で見るより少しにじんで、その分やわらかく見えた。
胸の奥から、何かがせり上がってきた。それは喉を通り、夜気の中へ、長い遠吠えとも鳴き声ともつかぬ声になって放たれた。山がそれを受け取って、谷から谷へ運んだ。
しばらくして、遠くから、同じ声が返ってきた。あのキツネだ。声は短く、こう言っていた。
『よく来た』
## 六 残り時間
夜明けに、湊は人間に戻った。
戻りは、行きよりも静かだった。東の空が白み始めると、体の中の潮が引くように、毛皮が薄れ、骨が伸び、気づけば縁側の戸の内側で、裸の人間がうずくまっていた。寒さに震えながら、湊は最初に自分の両手を見た。爪は灰色の鉤爪のまま。手の甲には茜色の毛が残っている。完全には、戻らない。曾祖父の弟の記録のとおりだった。「戻るたびに、戻る場所が少なうなる」。
それからの日々は、二重生活になった。
日が落ちると変身が来る。最初のうちは午後九時頃だったのが、日ごとに少しずつ早まった。八時半。八時。やがて日没とほぼ同時に。そして朝、人間に戻る時刻は、少しずつ遅くなった。人間でいられる時間が、両側から、静かに削られていく。
砂時計だ、と湊は思った。誰かが砂時計をひっくり返した。砂が落ちきったとき、自分は二度と人間には戻らない。それがいつなのかは分からない。一か月後かもしれないし、半年後かもしれない。ただ、砂が落ちる音だけは、毎日はっきりと聞こえていた。
不思議なのは、夜の自分のことを、朝の自分が完全に覚えていることだった。記憶は連続していた。人格も。キツネの体で山を走っているときも、考えているのは湊だった。言葉は使えない。けれど思考は、匂いと光景と方向感覚でできた、別の文法で続いていた。人間に戻ると、その思考が日本語に「翻訳」されて思い出される。翻訳のたびに、零れ落ちるものがあった。夜の世界の豊かさの大部分は、日本語の網の目を通らなかった。
人間の時間で、湊はやるべきことを始めた。
まず、家の始末を考えた。電気と水道とガス。母に怪しまれずに解約する方法はないか。預金を母に渡す方法は。考えるほどに、「失踪」という言葉の重さが胸に積もった。自分が消えたあと、母は警察に届けるだろう。山を捜索するだろう。泣くだろう。
四月の初め、湊は一度だけ、実家に帰った。
手の甲の毛は長袖で隠した。爪は深めに削り、目は「カラコン買ってみた」で押し通した。耳は——もう人間の位置には戻らなかったから、ニット帽をかぶった。食卓で、母の作った筑前煮を食べた。人間の舌で味わう、最後の母の味になるかもしれなかった。出汁の匂いの地層の、いちばん底に、子供の頃から変わらない母の台所の匂いがあった。
「あんた、なんか顔つき変わったね」
母は言った。湊の箸が止まった。
「悪いほうじゃなくてね。前はずっと、なんか謝りそうな顔しとったから。今は——」母は少し笑った。「山の空気が合うんやろうね、おばあちゃんに似てきたわ」
「……ばあちゃんに?」
「おばあちゃんもね、あの家にひとりでおって、寂しくないんかって皆に言われとったけど、本人はけろっとしとった。『うちは賑やかや、人間がおらんだけで』って」
湊は手元の椀を見つめた。祖母は知っていた。たぶん、ずっと前から、ぜんぶ。あの家に湊を呼んだのは母の頼みという形をとっていたけれど、もしかしたら——遺言か何かで、祖母が仕向けたのかもしれない。血の中の伏流が、次にどこへ湧くのかを、祖母は見抜いていたのかもしれない。
帰り際、玄関で靴を履いていると、母が紙袋を持たせてきた。中には油揚げが五枚、入っていた。
「おばあちゃんがね、いっつも言うとった。あの家におる間は、これを切らしたらあかんよって」
母の顔を、湊は見た。母は何も知らない顔をしていた。何も知らない顔で、すべてを手渡してくる。家族というのはそういうものなのかもしれなかった。
「……行ってきます」
行ってらっしゃい、と母は言った。さようなら、ではなく。それが湊には、ありがたかった。
## 七 手紙
四月の半ば、人間でいられる時間は、昼の数時間だけになった。
湊はその時間を、ほとんど手紙を書くことに使った。鉤爪の指でペンを握るのは難しく、一枚書くのに何時間もかかった。書いては破り、書いては破りした。真実を書くわけにはいかない。かといって、嘘で塗り固めた別れの言葉を母に残すことも、できなかった。
最終的に残った手紙は、短かった。
——お母さんへ。心配をかけてごめん。俺は元気です。これ以上ないくらい元気です。事件でも事故でも、自分で命を絶つのでもありません。ただ、ずっと探していた場所が見つかって、そこへ行きます。連絡はできなくなるけど、俺はたぶん、ずっと近くにいます。山を見たら、俺は元気だと思ってください。茜色のキツネを見かけたら、それは縁起がいいやつなので、油揚げでも置いといてやってください。ばあちゃんの家のこと、神棚と、裏の稲荷さんのこと、よろしくお願いします。今まで、ありがとう。湊
ふざけているのか、と思われるかもしれない。でも、これが精一杯の真実だった。読み返すと、キツネのくだりで母は絶対に泣き笑いする、と思った。それでいい。泣くだけより、ずっといい。
手紙は祖母の家の、母が必ず開ける仏壇の引き出しに入れた。預金通帳と印鑑も添えた。
最後の数日、湊は人間の時間を使って、家中を掃除した。畳を拭き、仏壇を磨き、祖母の湯呑みを洗って伏せた。台所の小窓のガラスを磨きながら、ふと、可笑しくなった。会社を辞めるときは、机の中のものを紙袋ひとつに突っ込んで逃げるように出てきたのに。人間という種を辞めるにあたって、自分はこんなに丁寧に身辺を整理している。
たぶん、順番が逆だったのだ。あれは逃亡で、これは引っ越しだから。
夜、キツネの体で、湊は何度もあの先達に会った。古狐——湊は心の中で「センセイ」と呼んでいた——は、山の暮らしの実際を教えた。ネズミの狩り方。雪の下の音の聞き方。人間の罠と毒の見分け方。車道がいかに殺すか。犬の付いた人間と、付いていない人間。教わることは膨大で、湊は自分が赤ん坊からやり直しているのだと知った。けれどその学び直しは、新人研修のあの日々とは似ても似つかなかった。覚えることのすべてが、生きることに直結していた。意味の分からない作法はひとつもなかった。
ある夜、尾根の岩の上で並んで月を見ながら、湊はセンセイに訊いた。訊く、といっても、体の構えと匂いで問うのだ。
『あなたも、人間だったのか』
センセイは長いこと答えなかった。やがて、夜気の中に、ゆっくりと意味が立ちのぼった。
『昔のことだ。もう、どちらが夢か分からん』
『後悔は』
『——おまえは、肺で息をしていることを後悔するか?』
それが答えだった。湊は月を見た。キツネの目に、月はにじんで、大きく、やわらかかった。
## 八 灯(あかり)
片道の夜が来る、その三日前。湊はキツネの体で、初めて山を下りて、人間の町まで行った。
行ってはいけない、とセンセイには言われていた。車道、犬、人間の目。危険の数は山の比ではない。それでも湊は行った。最後に一度だけ、人間の世界を、外側から見ておきたかった。
深夜一時の町は、静かだった。湊は用水路の暗がりを伝い、商店街の裏を抜けた。キツネの目に、町は奇妙な姿をしていた。匂いの層がまるで違う。アスファルトとガソリンと排水と、無数の人間の生活の匂いが、何十年分も折り重なって、地面から立ちのぼっている。山の匂いが川の流れだとしたら、町の匂いは沼だった。深く、淀んで、けれど——嫌いになりきれない、懐かしい沼。
駅前に出た。誰もいないロータリーに、自動販売機が三台、並んで光っていた。
湊は植え込みの陰に伏せて、長いことその光を見ていた。人間だった頃、終電で帰るたびに見ていた光。あの頃は、あの光が嫌いだった。疲れきった夜に、白々と「まだ営業中です」と言い続ける光が。
今、外側から見るそれは、ただ、健気だった。誰もいない夜のロータリーで、いるかもしれない誰かのために、飲み物を冷やして待っている箱。人間の世界というのは、突き詰めればこういうものの集積なのかもしれなかった。誰かのために何かを整えて、待つ。電車の時刻表も、コンビニの灯りも、母の筑前煮も。
自分はあの仕組みの中で、うまく「待つ側」になれなかった。整えることも、待たれることも、下手だった。けれど今、こうして外から見れば、あの仕組み自体は、責めるようなものではなかった。ただ、規格が合わなかっただけだ。レールの幅が違う車両は、どんなに頑張ってもそのレールを走れない。車両が悪いのでも、レールが悪いのでもなく。
ロータリーの向こうから、足音がした。
若い男だった。スーツ、緩んだネクタイ、片手に鞄。終電のあとに、タクシーも使わず歩いて帰る途中なのだろう。男は自販機の前で立ち止まり、小銭を入れ、缶コーヒーを買って、その場でプルタブを開けた。
そして、ふと顔を上げて——植え込みの陰の湊と、目が合った。
男は固まった。湊も動かなかった。逃げるべきだった。センセイの教えのすべてが「走れ」と言っていた。けれど湊は、その男の顔から目が離せなかった。疲れた顔だった。一年前の自分と、同じ顔をしていた。輪郭が溶けかけている人間の顔。
男が、小さく息を吐いた。
「……キツネ? こんなとこに……」
男はゆっくりとしゃがんで、湊と視線の高さを合わせた。脅かさないように、という気遣いが、その動きの遅さに表れていた。こんな夜中に、疲れきっていて、それでも野生の獣に気を遣える人間。
「おまえ、いいなあ」
男はぽつりと言った。
「身軽でさ」
湊は、立ち上がった。逃げるためではなかった。植え込みから半身を出して、街灯の光の中に、茜色の毛皮を見せた。それから、男に向かって、尾を、ゆっくりと一度だけ振った。
あんたも、と思った。声には、ならない。あんたの規格に合うレールも、どこかにはあるはずだ。俺のは、たまたま山にあった。あんたのはどこにあるか知らない。でも、ないと決まったわけじゃない。
男は、缶コーヒーを持ったまま、ぽかんとしていた。それから、なぜだか分からない、というふうに、少しだけ笑った。
「……なんだよ、おまえ。慰めてんのか?」
湊は身を翻して、夜の中へ走り出した。背中で、男の小さな笑い声が聞こえた。それで十分だった。人間の世界への、それが湊の、別れの挨拶になった。
帰り道、峠の上から町を振り返った。家々の灯り、街灯の列、遠くの国道を行く車のライト。人間だった頃、あの灯りの中に自分の居場所を探して、見つからなくて、ずっと息が苦しかった。
今は、ただ綺麗だった。
居場所を探さなくていい目で見れば、人間の町の灯りは、谷を埋める星のように、ただ綺麗だった。
## 九 満ちる夜
その日が来たことは、朝から分かっていた。
四月二十六日。夜明けに人間へ戻ったとき、戻りきらなかった。
両脚は趾行のまま、踵は地に着かなかった。顔には短い鼻面が残り、全身の毛皮は薄くなっただけで消えなかった。鏡の前に立つと、そこにいたのは人間でもキツネでもない、その中間の——けれど不思議と破綻のない——直立した獣だった。喉を試すと、声はまだ言葉を作れた。低く、掠れて、ところどころ獣の音が混じったが、まだ日本語だった。
「……今夜、だな」
砂時計の砂は、もうほとんど落ちていた。今夜の変身は、片道になる。理屈ではなく、体がそう告げていた。満ちる、という感覚だった。欠けていた月が満ちるように、二十三年と数か月かけて、湊という存在が、本来の形に満ちようとしていた。
最後の人間の昼を、湊は静かに使った。
仏壇に線香を上げ、祖母の遺影に長く手を合わせた。「ばあちゃん、知っとったんやろ」と声に出して言うと、遺影の祖母は、知っとったよ、という顔で笑っていた——ように見えた。
風呂を沸かして、最後の入浴をした。湯舟に浸かる、という行為とも今日でお別れだ。これは少し、本当に少しだけ、惜しかった。湯の中で自分の体を見下ろす。茜色の毛皮、白い腹。もう「変化の途中の人間の体」ではなく、「ほどけかけたキツネの体」に見えた。
米を炊いて、味噌汁を作って、母に持たされた油揚げを一枚焼いて、最後の人間の食事をした。残りの油揚げは、稲荷社に供えるつもりだった。
夕方、湊は社へ上がった。
もう人に見られても構わなかった。どうせ今夜で終わる。それでも集落の道は避けて、山側から回った。社の前に油揚げを置き、剥げた鳥居の下で、深く頭を下げた。
「長い間、うちの家を見ていてくれて、ありがとうございました。——行ってきます」
治してくれ、でも、連れて行ってくれ、でもなく、行ってきます、だった。それがいちばん正しい挨拶だと思った。
日が、西の尾根に触れた。
体の奥で、最後の潮が満ち始めるのが分かった。湊は社の裏手の、見晴らしのいい草地に移動して、服を脱ぎ、丁寧に畳んで岩の上に置いた。これも、誰かが見つけたら騒ぎになるだろうか。いや——畳まれた服は、争った跡には見えない。自分の意思でどこかへ行った跡に見えるはずだ。それでいい。
西の空が、燃えた。
茜色だった。山の端から空の半分まで、自分の毛皮と同じ色が広がっていた。ああ、と湊は思った。この色は、最初からずっと、答えだったのだ。夕暮れのたびに空に掲げられていた、巨大な答え。人間たちはあの色を見て、家路につく。自分はあの色になって、家路につく。
変身が、始まった。
今までで、いちばん穏やかだった。痛みはもうほとんどなかった。体はこの工事を何十回も繰り返して、手順を完全に習熟していた。骨が流れるように組み変わり、筋肉が滑らかに付け替わり、残っていた人間の輪郭が、端から夕闇に溶けていく。
四つ足が、草を踏んだ。
視界が低くなり、世界が匂いの大聖堂として立ち上がり、耳が三百六十度の音の地図を広げた。湊は、何度も確かめた自分の体の中を、最後にもう一度点検した。心臓。速く、軽く、強い鼓動。肺。夜気を深々と吸い込む。四肢。大地を掴む。尾。バランサーであり、毛布であり、旗。
そして——意識。
湊は、いた。ちゃんと、そこにいた。言葉の檻が外れただけで、湊は湊のままだった。むしろ、人間だった頃より輪郭がはっきりしていた。満員電車で溶けかけたあの輪郭が、今は毛皮の一本一本の先まで、くっきりと張っていた。世界と自分との境界線が、こんなにも明瞭で、こんなにも風通しのいいものだったとは。
もう、夜明けが来ても、この形は解けない。
それを思ったとき、胸に来たのは喪失感ではなかった。安堵だった。深い、深い安堵。もう削られない。もう翻訳されない。もう、戻らなくていい。
草地の縁に、橙色の影が現れた。センセイだった。その後ろに、もう一頭——小柄な、若いキツネがいた。初めて見る顔だった。センセイの構えが、夜気に意味を立ちのぼらせた。
『満ちたな』
『……はい』
『行くぞ。今夜は、北の谷の沢ガニが旨い』
それだけだった。儀式も、祝福も、感傷もなし。ただ、今夜の飯の話。湊は思わず、キツネの体で笑った——口角は上がらないが、目が細まり、尾がぱさぱさと揺れた。それが、この体の笑い方だった。
三頭のキツネは、茜色の最後のひと刷毛が空から消えるのと同時に、走り出した。
走りながら、湊は一度だけ振り返った。谷の底に、祖母の家の屋根が小さく見えた。明かりは消してきた。戸締まりもした。仏壇の引き出しには手紙がある。やり残したことは、もうない——いや、ひとつだけあった。湊は走る速度を緩めず、心の中で、谷へ向かって言った。
ばあちゃん。あんたの言うとおりやった。あの家は、賑やかや。人間がおらんだけで。
風が、答えの代わりに毛皮を撫でて過ぎた。前を行くセンセイの尾が、夜目に白く揺れている。若いキツネが、横に並んで湊の匂いを嗅ぎ、挨拶の意味を立ちのぼらせた。北の谷までは、尾根をふたつ越える。空には星が出始めていた。にじんで、やわらかい、獣の目の星が。
湊の四肢は疲れを知らなかった。心臓は歌うように打っていた。二十三年と数か月。長い回り道だったのか、必要な助走だったのかは、分からない。ただ、たしかなことがひとつだけあった。
今、走っているこの体の、毛の一本、爪の一枚に至るまで——間違って組み立てられた部品は、もう、どこにもないということだった。
## 終章 茜
翌年の、二月のことだ。
集落の一番奥の家に、ときどき初老の女性が車で通ってくるようになった。息子が一年前に姿を消した家だった。警察は山を捜索したが、何も出なかった。畳まれた服と、仏壇の手紙だけが残されていた。女性は最初の数か月、来るたびに泣いていたと、近所の年寄りたちは言う。
けれど近頃は、様子が違うらしい。
女性は家に風を通し、仏壇に線香を上げ、それから決まって、台所の小窓の外——杉林に面した裏手に、小さな皿を出す。皿の上には、焼いた油揚げ。
そして縁側に座って、お茶を飲みながら、山を見ている。
あるとき、郵便配達が見たそうだ。杉林の縁に、それは綺麗なアカギツネが出てきて、皿の油揚げをくわえたのを。キツネは逃げもせず、縁側の女性に向かってしばらく座り、それから尾をひとつ、大きく振って、林に消えたという。
女性は手を振り返していた。泣いているような、笑っているような顔で、行ってらっしゃい、と言ったように見えた——と、配達員は語った。
その家の裏山では、今でも時折、夕暮れどきに、茜色の獣が尾根を走るのが見える。冬毛の盛りには、それは燃える火の玉のようで、集落の年寄りたちは目を細めて言う。
「ありゃあ、稲荷さんの使いや。あの色が見られた日は、ええことがある」
茜色は、雪の上を行く。
息災なり。それでよし。
(了)
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