妾の子と巫女の子

  水の大陸、ワイワイタウンの港に停泊したレシラム教の帆船は、強い雨と風に晒されていた。船が入港する数日前からワイワイタウンは嵐にみまわれ、住民達はそれぞれの家に閉じこもっていた。時に落雷の音も響き、それを耳にしたレシラム教の司祭、牝のエースバーンのエリースは大きな耳を畳み、船室で縮こまっていた。そんな友人の姿を見た牝のマフォクシー、ヘレンは笑いながらタバコを蒸すと、煙を吐き出しながら船室の窓の外を見た。

  「相変わらず雷が苦手よね…昔から変わらないわ」

  エリースは白い司祭服のベールで頭を隠すと、指摘してくるヘレンを恨めしげな眼差しで見た。子供のように机の下に頭を隠したエリースは、僅かに顔を出すとヘレンを見上げた。

  「仕方ないでしょう…こればかりは慣れないのですから」

  昔から変わらない友人の姿にヘレンはニヤニヤと笑みを浮かべると、タバコの煙を吐き出した。船室の空に煙は溶けていき、それを見たヘレンは視線を窓の外に向けた。

  「この嵐だと…草の大陸への出航は見合わせかな」

  船室の窓からは激しい暴風雨が見えており、港や街を襲っている。レシラム教の教会まで移動しようにも、馬車や荷車もひっくり返りそうな勢いで風が吹いている。当然、嵐が吹く中で帆船が出航できるわけもなく、嵐が止むまで帆船は足止めを喰らうことになる。

  落雷の轟音が響いた。

  エリースは身を小さくさせると、仔ウサギのようにガタガタと震えている。友人の姿を見たエリースは笑い声をあげると、タバコの煙を吐き出した。

  豪雨と強風で船体が微かに揺れ、テーブル上のグラスが僅かに動いた。

  それを手で抑えたヘレンは視線を窓の外に向けると、ぽつりと呟いた。

  「オズワルドとゼーンは、よく眠れるわね…」

  別室のベッドで眠りにつく仲間達の顔を思い出し、ヘレンは呆れたように言った。ヘレンの呟きにエリースも頷くと、怯えた表情でヘレンを見た。

  「私も嵐の中で眠れるようになりたいですよ…」

  涙目で呟くと、エリースは机の下から顔を覗かせた。そんなエリースの姿を見たヘレンはクスリと笑うと、視線を部屋の隅にあるベッドに向けた。

  「それなら、久しぶりに一緒に寝ない?」

  子供の頃からの付き合いであるヘレンの提案にエリースは破顔すると、何度も頷いた。子供のように喜ぶ友人の姿を見たヘレンは口角を緩ませると、「シャワーを浴びてくるわ」と言い、浴室へと姿を消した。ヘレンの背中を見届けたエリースはベッドのシーツを整えると、嬉しそうにベッドの端に腰かけた。

  船室の扉を小さくノックする音が聞こえた。

  エリースの大きな耳はその音を聞き逃さず、彼女は扉を開けた。その隙間から船室内に入ってきたのは、エリースの付き人である牡のインテレオン、レオンであった。姿を透明化させたレオンはヘレンが浴室に移動するのを待ち、エリースに報告に来たのだ。

  「ご報告があります」

  姿を元に戻したレオンの言葉を聞き、エリースは「続けて」と返した。水タイプのレオンは豪雨の中でも活動できるため、平然とした態度で室内に入るとエリースの側に立った。

  レオンは滴り落ちる水をタオルで拭うと、声を低くして話した。

  「巫女様が産気づき、産婆や侍女達の動きが慌ただしくなっています」

  その報告を聞いたエリースは「そうですか」と応えると、薄く笑った。エリースの予想通り、リラはオズボーンの子を産み、巫女もまたオズボーンの子を産もうとしている。それはレシラム教の内部での派閥争いを生むきっかけになる可能性がある。

  リラの子はオズボーンと同じくヒトカゲ種の牝である。レシラム教としてはレシラムの眷属たるリザードンに進化するリラの子を、次期教皇として指名したい。だが、リラは正妻ではなく妾であり、加えてリラの子は牝である。次期教皇として指名されるには、決定打に欠ける。

  仮に巫女の子が牡のヒトカゲ種ならば、次期教皇は巫女の子となる。しかし、巫女はゼクロム教から嫁いだ身である。異教徒の血を受け入れる事に対して否定的なレシラム教保守派が良い顔をするとは思えない。異教徒の血を受け入れるくらいならば、リラの子を次期教皇に指名する事を保守派は望む事が予想される。

  仮に巫女の子がゼラオラ種であった場合、保守派は首を取ったように大騒ぎするだろう。しかし、巫女の子が牡であった場合、リラの子より巫女の子に軍配がある。

  異教徒の血を受け入れるか、牝の子を受け入れるか。どちらにせよ、レシラム教の内部で派閥争いが起きる可能性が大いにある。

  オズボーンの性欲の強さに感謝したエリースはくすくすと笑い、レオンを見た。

  「円卓の動きは?」

  「オズボーン様とカウフマン様は巫女様の産屋の隣室に待機しています。ヴィレム様は売春宿に出入りしており、リラ様は産後から軟禁状態です。ルドルフ様とルール様は中立の立場を保っています」

  レオンは即座に報告し、その内容を聞いたエリースはくすくすと笑い続けた。己の欲求に正直なヴィレムの行動や思考は丸わかりである。穏健派のルールが積極的な行動を取るとは思えず、親衛隊のルドルフは巫女の護衛に当たっている。リラは軟禁され、オズボーンとカウフマンは巫女の産屋の隣室にいる。

  実質、円卓内で自由に動けるのはエリースのみである。

  その事を理解したエリースは、カイリューの大陸間郵便で航海中の帆船に届いた手紙の内容を思い出した。それは産婆であるカヌレを通して発送されたリラからの手紙であり、自身が軟禁状態である事やオズボーンからの仕打ちについて書かれていた。

  そしてリラの願いも書かれていた。

  オズボーンに対して嫌悪感を抱くカヌレはリラの願いを素直に聞き入れ、手紙の中を読まずに封をしたまま発送した。その手紙の中身、赤子を外に連れ出したいという内容を理解したエリースは、手紙を燃やして処分すると付き人のレオンにのみ話した。

  そうしてワイワイタウンの港に到着したエリース達は、奇しくも巫女の出産と嵐という好機に恵まれた。エリースはクスクスと笑い、レオンに目を向けると口を開いた。

  「それでは予定通りに…脱出の手筈は整えておきます」

  エリースの指示を聞いたレオンは深々とお辞儀をし、姿を透明化させた。船室内からレオンの気配は消え、扉が僅かに開閉した。

  少し時間が経過した頃、汚れを落としたヘレンが船室内に戻り、濡れた身体をタオルで拭きながらエリースの隣に腰かけた。

  「子供の頃を思い出すわね」

  タバコの臭いを微かに纏うヘレンの言葉を聞き、エリースはクスクスと笑った。

  「子供はタバコを吸わないわよ」

  エリースの指摘にヘレンは苦笑いを浮かべると、エリースの手を引き、寝台に倒れ込んだ。その勢いにエリースは子供のような甲高い笑い声をあげ、船室内に黄色い声が反響した。

  *

  室内に力む声が聞こえた。

  数秒後、全身の力を抜き、息を吐き出した巫女は汗だくの身体を清潔なシーツに沈めた。室内には赤子の産声が響き渡り、カヌレや侍女達の祝福の声が聞こえた。

  「おめでとう御座います!牡の子です!」

  出産のダメージで意識が朦朧としている巫女は、目を薄く開けるとカヌレが処置し差し出した赤子を抱き締めた。腕の中に広がる暖かな感覚と赤子の泣き声を感じ、巫女は破顔した。

  「さぁ、巫女様はお休みください」

  侍女の差し出したグラスを受け取り、巫女は水を飲んだ。その間にカヌレはテキパキと産後処置を行い、赤子の身体を洗い、別室へと移動した。

  疲労しきった巫女の意識はそこで限界を迎えた。巫女は重たいまぶたを支えきれず、ゆっくりとシーツに身体を沈めた。

  別室に移動したカヌレは赤子を清潔なシーツの上に置くと、手早く全身状態を確認した。リラの子と同じく、巫女の子も健康そのものであり、カヌレは嬉しそうに目を細めた。

  直後、扉が開き、隣室にいたオズボーンとカウフマンが室内に入ってきた。彼らの姿を見たカヌレは声をかけようとしたが、オズボーンは意に介さずに赤子の傍に歩み寄ると、寝台の中を覗き込んだ。

  数秒後、オズボーンの目が見開かれた。

  「おめでとう御座います。ゼラオラの牡の子ですよ」

  寝台の中には泣き声を上げる白い赤子、色違いのゼラオラの姿があり、カヌレは慈愛に満ちた目で赤子を見ていた。だが、オズボーンの顔は少しずつ青ざめていき、彼の心情の変化を見抜いているカウフマンは微かに口角をあげた。

  カウフマンは至極穏やかな声でオズボーンに話しかけた。

  「凄いですね…レシラム様と同じく純白の御体とは…まさしくレシラム教を導く御姿ですね」

  穏やかなカウフマンの言葉を聞いたオズボーンは、覇気のない声で応えた。その姿を見たカウフマンは自身の狙いを悟られぬように言葉を選ぶと、オズボーンに話しかけ続けた。

  「リラ様の赤子と巫女様の赤子…これでどちらがレシラム教を導くのか、はっきりとしましたね」

  グレーテの指示でリラの子を狙っているカウフマンはオズボーンの意識が巫女の子に向くように誘導していた。だが、オズボーンは心ここに在らずといった雰囲気のまま応えると、赤子に触れずに部屋から出て行った。その背中を見たカヌレは、生まれたばかりの我が子に喜びを示さないオズボーンの反応に不審な目を向けるが、閉口したまま深々と礼をした。

  オズボーンを追ったカウフマンもまた、部屋を後にした。

  廊下に置いてある革張りの椅子に腰掛けたオズボーンはタバコを取り出すと、口に咥えていた。カウフマンはオズボーンの隣に歩み寄ると、何も言わずに待機した。

  タバコの煙が空に消えていき、長さが半分ほどになった頃、オズボーンが声を漏らした。

  「…牝のヒトカゲと牡のゼラオラだぞ」

  オズボーンは呟くと、タバコを指の間で挟んだ。

  「レシラム教の教皇は代々牡が受け継いできた…だが私の子は牝のヒトカゲと牡のゼラオラ…牝の子と異教徒の姿をした子だぞ」

  そう呟くと、オズボーンは火の点いたタバコを握り締めた。オズボーンの手中から火の消える音が微かに聞こえたが、炎タイプのオズボーンは意に介さずに話を続けた。

  「牝の子と異教徒の姿の牡の子から、後継を選べと言うのか…」

  異教徒とは相容れない保守派であるオズボーンの発言を聞いたカウフマンは微かに口角を上げた。レシラム教とゼクロム教の対立による不和、そしてディアルガ教の拡大を目論むカウフマンとしては、レシラム教の内部争いの火種は、何としてでも火事に繋げたいものである。そのためにもリラの赤子の誘拐を企んでいるカウフマンは、オズボーンの保守的な思考と異教徒への対立的な思考を煽るべく、言葉を選びながら話した。

  「レシラム教は代々、教皇の牡の子を後継者としてきました。教皇の子が牡でない場合や子がいな場合は、円卓から次期教皇が選出されます」

  「…」

  「巫女様は処女でした。それはオズボーン様にお届けする前にフルトと私が、この目で確認しました。そして巫女様はオズボーン様専属の夜伽を務められた。間違いなく巫女様の子はオズボーン様の子でもあります」

  数ヶ月前に砂の大陸ラムルタウンから水の大陸ワイワイタウンへと巫女を移送した際に、医師とフルトの立ち会いの下、カウフマンは巫女の股間にクスコを差し込み、目視で処女である事を確認した。公式の記録として文書でも残っているため、カウフマンの発言は事実そのものであった。

  カウフマンの発言を聞いたオズボーンは項垂れると、ポツリと小さな声で呟いた。

  「…華族か、貴族の娘を孕ませて、新たに赤子を産ませるか」

  オズボーンの言葉を聞いたカウフマンは即座に首を左右に振った。

  「それはいけません。これ以上、オズボーン様の直系の子が産まれると、それこそ権力争いの火種になります」

  表向きは穏健な言葉を口にするカウフマンであったが、腹の中では「貴族の娘が牡のヒトカゲを産んだ場合、レシラム教が一枚岩になってしまうのは困る」という本音を抱いていた。それをレシラム教内部の権力争いという理由で誤魔化したカウフマンの口車に、オズボーンはまんまと乗せられてしまった。

  牝のヒトカゲと牡のゼラオラ、2人の赤子によるレシラム教の内部争いという構図を望むカウフマンの言葉を鵜呑みにしたオズボーンは頭を抱えた。

  「…では、どちらの子を後継者にすれば良いんだ」

  小さな声で悩むオズボーンの姿を見たカウフマンは、腹の中で大笑いしながら穏やかな声で応えた。

  「今後、赤子の成長を見ながら決めていけば良いと思います」

  答えを先送りにし、その間に2人の赤子を神輿に使い、レシラム教の内部争いを誘発する。カウフマンは長期的な視座で思考すると、表面上は穏やかに保ちつつ、腹の中で大爆笑していた。

  オズボーンとカウフマンの会話が交わされていた頃より少し前、巫女が産気づいた頃、レシラム教の教会内にある塔に軟禁されているリラは耳を澄ましていた。階下の産屋からは巫女やカヌレの声が聞こえ、嵐の音に混じり、リラの耳にも届いた。同時に侍女達が巫女の出産に駆け付けており、兵士達も塔の出入りや産屋の入り口の警護に駆り出されている。

  リラの居る塔のフロアの警備が、非常に薄くなっていた。

  そして、外は夜半で嵐となっている。

  「…これはレシラム様の啓示かしら」

  絶好の機会を迎えたリラはポツリと呟くと、窓を開けて、雷鳴の鳴り響く外に向かってランプの灯りを突き出した。ランプにタオルを掛けると数回ほど明滅させ、遠方にいるであろう協力者の返事を待った。

  以前、団長がリラと面会した際に調査団で使っていたモールス信号で意思疎通を図った。それにより侍女達に勘付かれることもなく、リラは団長に計画の内容を伝えた。

  計画、それは巫女が産気づいた日の夜にリラの赤子を逃すというものであった。

  侍女や兵士達が巫女の方に駆り出されて、かつ円卓の面々の目が巫女に向くタイミングでもあり、絶好の機会であった。加えてカヌレを通じてエリースに助けを求めたリラは、準備を重ねてその日を迎えた。

  奇しくも、嵐と雷が重なり、リラにとっては非常に好条件であった。

  リラの瞳に街の方から明滅する光が映った。

  その回数と長さから意味を読み取ったリラは手早く牝のヒトカゲをタオルで包むと、冷えないように小型の湯たんぽを入れた。

  同時に、リラはメモ紙に何かを記すと赤子の胸元へと入れた。

  準備を終えたリラは赤子を強く抱き締めて息を吸った。鼻腔に我が子の匂いが広がり、それを感じたリラは目尻に涙を浮かべた。

  数秒後、轟音と振動が響いた。

  *

  レシラム教の教会には礼拝室がある。オズボーンの子を孕んだ巫女が産気づいた事もあり、礼拝室には数多くの信者の姿があり、その中には円卓の一員である牡のラウドボーン、穏健派ルールの姿もあった。ルールの周りには穏健派の信者の姿があり、礼拝室内に設けられた主神レシラム像に向かって跪き、オズボーンの子が無事に産まれるように祈っていた。

  ルールもまた、目を閉じて祈りの姿勢を取ると、静かに祈り続けた。

  何者かがルールの隣に腰掛けた。

  その気配に気づいたルールが視線を向けると、そこには見知った顔があった。調査団の長である牡のデンリュウ、団長はルールに向かって小さくお辞儀をすると、静かに祈り出した。

  「…これは珍しいですね。レシラム教徒以外の者が祈りに来るとは」

  ルールは小さな声で呟いた。周りには聞こえない声量だが、隣に座る団長の耳には届いていた。団長は薄らと目を開くと、横目でルールを見た。

  「巫女様のお子様はレシラム教とゼクロム教の架け橋となる存在です。平和主義な私としても、無事に産まれて欲しいと思いますよ」

  団長の返事を聞き、ルールは小さく頷くと共に祈り続けた。

  外では豪雨と落雷の音が響いているが、頑丈な煉瓦造りである教会には何ら影響を与えない。それでも冷気が煉瓦越しに広がるが、室内には暖炉と絨毯が設置されており、幾分かマシになっている。

  ルールと団長達が祈り続け、やがて礼拝室の扉が開かれた。

  彼らが視線を向けると、そこには侍女の姿があった。走ってきたのであろう、息も切れつつある侍女はなんとか呼吸を整えると、礼拝室内を見渡し静かに言った。

  「今しがた、健康な牡の子が産まれました」

  直後、礼拝室内には静かな喜びの声が広がり、ルールと団長は安堵の溜息を漏らした。無事に赤子が産まれた事に安心した面々は、互いの肩を抱き、喜びを露わにしていた。

  轟音と振動が響いた。

  それに驚いた信者達は身を小さくさせ、侍女とルール、団長は不思議そうな表情で天井に目を向けた。轟音と振動は数回続き、やがて小さくなった。

  「…落雷、ですね」

  ルールが呟き、団長と侍女は共に頷いた。外は豪雨と落雷の広がる嵐となっているため、街一番の高さを誇る教会の塔に雷が落ちる事は珍しくなかった。

  それ故に、彼らは轟音と振動の原因を落雷による自然災害と決め込んでしまった。

  同時刻、塔の上階で赤子を抱き締めていたリラは轟音と振動が収まった瞬間に立ち上がり、廊下に続く扉を少し開けた。見張りの兵士は落雷による被害の確認のために走り回っており、階下に続くエレベーターのモーター部分は落雷によるエネルギーで破壊されていた。元は電気タイプのポケモンが発電して動かしていたモーターであったが、落雷はモーターが設置された部分に直撃した。

  エレベーターのゴンドラ前には動かなくなり、階下への連絡手段を失った兵士の姿があった。兵士は困り切った表情でモーターを修理できないか見ているが、エンジニアでもない兵士が治せる筈もなく、動かないモーターを見つめる事しかできなかった。

  リラは室内の床に赤子を静かに置くと、果物ナイフを手に取った。そして足音を消しながら歩くと、兵士の背中に近づいた。外の豪雨と落雷の音により、リラの気配は掻き消され、兵士は気づかずにいた。

  兵士はモーターの修理を諦めて立ちあがろうとしたが、背後からリラが襲いかかった。リラは兵士の口元を手で塞ぐと、首筋に果物ナイフを突き立てた。リラの手中に血液の暖かさと肉を刺す鈍い感覚が広がり、兵士の悲鳴が漏れ出しそうになった。だが、リラは全力で兵士の首に果物ナイフを突き立てると、そのまま押し倒し、首筋を切り裂いた。

  エレベーターのゴンドラ前に倒れた兵士は大量の血を流しながら悶え苦しみ、やがて絶滅した。

  リラは荒れた息で兵士の死体を見下ろすと、果物ナイフを死体から引き抜いた。そして残る2人の兵士が戻ってくる前に事を済ませようと、部屋に戻った。血で濡れた手をタオルで包むと、赤子を抱き上げ、廊下に出た。リラは廊下にある窓を開けると、豪雨が降り込んでくる中、何かを探した。

  直後、豪雨の中で透明化していたレオンが窓枠の外側に姿を現した。突然、レオンが現れた事でリラは「うわっ」と驚いた声をあげたが、レオンは人差し指を唇に当てると静かにするように伝えた。

  「お静かに…」

  レオンはリラに指示すると、廊下内を見渡し、生きた兵士が居ない事を確認した。安全を確認したレオンは視線をリラに向けると、静かな声で話した。

  「エリース様の使いの者です。時間がありませんので…」

  レオンの言葉を聞いたリラは息を整えると、腕の中にいる赤子を抱き締めた。眠っている牝のヒトカゲは擽ったそうに身を動かし、リラはその頭に口付けをした。

  「…ごめんね、貴方だけでも幸せになってね」

  リラは赤子に話しかけると、覚悟を決めた顔でレオンに赤子を手渡した。レオンは用意していた黒い防水加工の布で赤子を優しく包むと、リラに向かって深々とお辞儀をした。

  レオンは事前に準備した袋から、医療活動を通じて確保した赤子の死体を取り出すと、レオンとリラは揃って目を閉じた。やがて、レオンは目を開くと、「すまない」と呟き、死体を地面に向かって落とした。

  そして、レオンは赤子が濡れないように抱え、自身の身体にロープで固定した。続けてリラを一瞥すると、再度透明化し豪雨の中へと滑空した。日中ならば、空を飛ぶ黒い布が見つかるかもしれない。だが、時間帯は夜、加えて豪雨の中、空を飛ぶ黒い布が見つかる可能性は限りなく低い。

  あっという間にレオンは姿を消して、赤子と共に去って行った。その光景を見ていたリラは大きな瞳から涙を溢すと、声を殺して泣いた。リラは窓枠の側に跪くと、赤子を無事に逃がせた事に対する喜びと二度と会う事ができない哀しみを同時に味わっていた。

  「リラ様⁉︎これはいったい…」

  その時、塔の中を巡回し落雷の被害を確認していた兵士が戻ってきた。エレベーターのゴンドラ前には兵士の死体があり、窓の側には雨に濡れるリラが座り込んでいる。兵士は急いでリラの下に駆け寄り、彼女の肩に手をかけた。

  直後、リラは果物ナイフを兵士の脇腹に突き刺した。

  リラの突然の暴挙に兵士は反応し切れず、脇腹を刺された兵士はその場に屈み込んだ。リラはその間に兵士の腰から剣を抜き取ると、兵士の首筋を全力で切り裂いた。

  廊下に鮮血が飛び散り、兵士の悲鳴が響いた。

  首を切られた兵士の身体が床に倒れ込んだ時、もう1人の兵士が戻ってきた。同僚の死体と血塗れのリラと彼女の持つ剣から状況を理解した兵士は、自身の剣を引き抜こうとした。

  だが、リラはあっという間に間合いを詰めると、兵士の構えた剣を自身の持つ剣で叩き落とし、兵士の身体を窓枠へと押し当てた。

  「っ…リラ様、おやめください‼︎」

  兵士はリラを傷付けずに取り押さえようとしたが、リラは大声を上げながら兵士の身体を抱き上げ、全力で窓枠へと叩き付けた。成人の牡、しかも剣と鎧で武装した身体を持ち上げたリラは、力任せのままに兵士の身体を押した。

  直後、窓が割れて、兵士は豪雨の降る中、塔の外へと突き落とされた。

  息の乱れたリラの耳に兵士の絶叫が響き渡ったが、それはすぐに消えた。重たい物がぶつかる音が響き、そして塔の中は静かになった。

  リラは乱れた息を整えようと座り込むと、壁にもたれかかり、息を吐き出した。

  「…ふふっ」

  リラの口から乾いた笑いがこぼれた。

  リラの視界に血に濡れた自身の手と剣、床に転がる死体が映り込んだ。

  「ははっ…」

  リラの視線が割れた窓へと向けられた。窓の下には転落死した兵士の死体と、病死した名も知らぬ赤子の死体があり、レオンと自身の赤子は豪雨の中へと消えて行った。

  「…ごめんね」

  

  リラは小さな声で呟くと、血で濡れた手で頭を抱えた。床には兵士の血が広がり、生臭さがリラの鼻腔を満たす。

  その臭いは、リラが兵士の命を奪った事を意味していた。

  リラは身体を震わせると、涙を流しながら割れた窓に目を向けた。

  「…幸せになってね、エリス」

  出産後、リラは赤子に名前を付けずにいた。カヌレや侍女は不思議に思っていたが、リラはあやす時や寝る時など監視の目が無い状況で「エリス」の名前で呼んでいた。

  リラは赤子を守るため、そして赤子の人生からオズボーンやレシラム教、自身を排除するために。無関係な生き方を送れるように赤子の名前を周囲に教えず、ひたすら秘密にしていた。

  そうして秘密を保ってきたリラは、「エリス」という赤子の名前を呼ぶと泣きながら俯いた。エリスの胸元には名前を書いたメモを忍ばせた。後はエリースの使いの者が何者かにエリスを託し、無事に育ててくれる事を祈るばかりである。

  この先、エリスが誰に託されるのか、リラは知らずにいた。知ってしまうと、会いに行こうとするからだ。何より、この後にオズボーンから拷問にかけられたとしても、所在を知らない以上、答えようがない。

  エリスをリラとオズボーンの子ではなく、ただの赤子として育てるためにも、苦渋の決断であった。

  物音と喧騒が聞こえてきた。

  塔から落下した兵士の悲鳴と死体に気づいた者が周りに知らせて、空を飛べる信者の力を使い、塔を上がってきていた。兵士の死体、赤子の死体、血で濡れたリラの姿、それらを見た信者達やオズボーンがどのような反応をするのか。

  それを想像したリラは乾いた笑い声を上げると、タバコを取り出し、咥えた。

  タバコの先端に火を灯すと、深く息を吸い、肺の奥にタバコの煙を流し込んだ。

  数ヶ月ぶりに吸うタバコの味は、格別であった。

  *

  レシラム教の塔から少し離れた場所にある空き家の屋上にライラはいた。彼の傍には調査団参謀である牝のクチート、ウルスラの姿もあり、彼女は双眼鏡で塔を見上げていた。

  ライラとウルスラのいる空き家は、ワイワイタウンでもスラム街に位置しており、廃墟の家屋が多くあった。加えて豪雨もあり、住民の姿はほとんど無かった。それ故に人に見られたく無い活動をする場合には、うってつけの環境であった。

  「…命中、流石はライラだな」

  双眼鏡でレシラム教の教会内にある塔を見ていたウルスラはそう呟くと、視線をライラに向けた。視界を覆う白い布越しにライラは塔の方角を捉えると、ウルスラの測量した距離と高さから塔の位置を導き出し、感覚で電気タイプの技『雷』を放ったのだ。ライラの放った雷はリラの居る塔に直撃し、またリラとの面会時にエレベーターのモーターの箇所を把握した団長からの情報により、ライラはモーターにも雷を落としたのだ。

  落雷で塔の内部を混乱させ、モーターを破壊する事で下層の人員がリラの下に駆け付けられないようにする事がライラの任務であった。

  無事に任務を達成させたライラはウルスラの褒め言葉に対してはにかむと、「余裕ですよ」と返した。とは言え、全盲のライラが正確な箇所に雷を落とすには、並外れた技量が必要となるのは明白だ。

  ライラの発言にウルスラは口笛を吹くと、屋上に彼らがいた痕跡を処分し、ライラを引き連れて家屋を後にした。ライラとウルスラが裏通りに出た頃、教会内の塔から物音が聞こえ、周囲を飛行タイプの信者達が飛び回っている。

  「…露見したか」

  ウルスラは小さな声で呟くと、ライラと共に裏通りを抜け、表通りに出た。ふと、ウルスラが視線を横に向けると、レシラム教の教会がある方角から見慣れた姿が歩いてきた。教会内が騒々しくなり、礼拝室を追い出された団長は落ち着いた足取りでウルスラ達の脇を通り抜けた。

  落雷が原因で起きた騒動である以上、疑われるのは凄腕の電気タイプの住民である。ワイワイタウンにおいて、最高の腕を持つ電気タイプは正しく団長であり、そのためにも雷が落ちた時に礼拝室に居る事で、アリバイを確保したのだ。

  ルールや侍女、他の信者達と共に過ごす事で、事が起きた時刻に団長が技を放っていないという証言者を確保した。

  アリバイと証言者を確保した以上、変に疑われる事態は避けるべきであり、調査団拠点に戻るまで団長とウルスラ、ライラは無関係の振りをして移動した。

  ライラの大きな耳が、微かに動いた。

  視力を奪われたライラの感覚器官は、失われた視覚を補うかのように鋭敏になり、ライラの活動をサポートしている。そしてライラの聴覚は嵐の中で微かに聞こえた風切音を捉えた。

  ライラは音が聞こえた方に顔を向けた。

  白い布越しにライラは夜の雨空を見上げた。視力を奪われたライラが空を飛ぶ何かを視認する事は不可能であったが、そこに何かが存在した事は理解できた。

  それの正体を何となく理解したライラは、閉口したまま教会の方を見ると、小さく溜息をこぼした。

  「昔から不器用だよなぁ、お前は」

  ライラの呟きは団長とウルスラに届かず、嵐の中へと消えていった。