月に照らされる狐の面
大きな円を描き、微塵も満月の浮かぶ夜。
あらゆるものを吸収できるとされる満月の夜。
その時を狙って巫女であった私、峯野月子(みねの つきこ)は巫女服を見に纏い、境内のど真ん中でとある面を月に向けて掲げていた。
「ふぅ…遂にこの時が…!」
私が手に持っていたのは、白い狐の面だった。
本物の狐ほどでは無いが口元が尖っていて、長い耳も付いていた。顔は開いてるのかわからない細い目に、頰まで伸びた口の線が描かれ、おおよそ狐だろうとわかる見た目をしていた。
そんな狐の面を両手で持ち、嬉しそうに月に見せつけるようにしてそれを掲げている。
年端も行かない私は恥ずかしげも無くはしゃいでいたのだ。これからこの面によって与えられる強大な力を手に入れられると期待して。
「な〜んで誰もこの面のこと教えてくれなかったんだろ〜
これさえあれば、面倒な修行とかしなくてもいいのにさ〜」
今ここにいない先代の巫女たちに難癖をつけるように独り言を呟く。
この面は私が身を置く神社に古くから奉られていた箱の中に入っていた。その中には面の他に、古びた紙も入っていた。その紙には面の用途が書かれており、要約すると「満月の夜にその面を付け、月を仰ぎ見る事で辺りに漂う気を集め、肉体と精神の活性に繋がる」との事だった。
私の一つ前の巫女に聞いても、特に興味を持っていなかったようだった。そう、今まで誰もこの中身を見ようとはしなかった。そもそもいつからそこに置いてあったのかも知らなかったという。不思議だった。神に仕える巫女が、奉られている箱に一切の興味すら抱かなかったのだ。まるで意図的に箱への意識を向けないようにされているような。
そんな箱に俄然興味が湧いたが、大事なものだろうからと手を出さないように言われていた。しかし、一人で神社を切り盛りするようになった今、私を止める者のいない今日、私は箱を開け、この不思議な面を見つけたのだった。
「さ〜てさて〜、一体どう活性化するのかな〜
筋肉が付いたり?疲れ知らずになったり?…ちょっとだけ大きくなったり…?」
私はどんな効果が得られるのかを想像し、その想像が膨らめば膨らむほどに期待も高まって仕方がなかった。
これを使えば、若輩だと私をバカにする参拝客を見返して、巫女としての実力を身につけられるのだと信じていたのだった。
「よ…よ〜し……」
意を決して私はゆっくりその面を顔の前まで運ぶ。
期待も大きかったが、共に何が起こるのかわからない恐怖もあった。何せ得体の知れない面をかぶるのだから。目を瞑りながら近づけ、顔に密着させていく。
カポッ
面が顔にはまった。まるで私に合わせて作ったかの様に大きさは私の顔にぴったりだった。
「…あとはこのまま」
面をつけた私はそのまま顔を満月に向ける。
説明の紙によると、顔に付けたら面に月の光を当てると効果が現れるとの事だった。
その内容を微塵も疑うこともなく、私はどんな力が手に入るのか内心ワクワクしながら月を見上げていた。
「……」
しばらく月を眺めていたが、何の変化も感じなかった。
この後もどうしたらいいのか分からず、紙に従って私はただ面の穴から月を見つめる事しかできなかった。
(…何も起きない……)
あの紙に書かれていた事は迷信か、或いはおまじない程度のものだったかと思い始め、落胆気味になっていた。
(はぁ…どうせお祭りとか催しで使うものだったんでしょうね……)
そう思って顔に乗せただけの面を外そうと両手を添える。
「……あれ?」
手から伝わる違和感。
木製で顔に載せても負担には感じなかったお面が、何故か顔から外せなかった。
「変ね……んんっ!」
さらに力を入れて取り外そうとする。漏れ出る声が面の中で籠りながら響く。
だが、外れるどころか全く動きすらしなかった。
まるで体の一部にでもなったように、面は私の顔にくっついてしまった。
「…っはぁ…っはぁ……あれぇ?全然取れない……」
月を見上げたまま一旦力を抜き、乱れた呼吸を整える。
どれだけ引っ張っても全く取れる気配はなかった。
「紐とか結んでないのに……って、ん?」
後頭部に手を回し、無いはずの結び紐の存在を確認しようとした時、妙に手が届きにくい感覚に私は違和感を覚えた。
今までも面を付ける事はあり、そのために紐を結んだ事もある。解く際には無意識に顔を下に向けて結び目を手の届く角度に持ってきていた。が、今はそれが出来なかった。
私は、頭を固定されていたのだ。
「え…な…何これ……め…目が離せない……?」
顔だけでなく視線も動かすことができない事に気づいた時には手遅れだった。
夜空にただ一つだけ浮かぶ満月に、私の体は魅了されてしまっていたのだ。
「こっ…このっ……んんっ……ぐぅっ!?」
原因はこの面だと分かってはいても、やはり面を外す事も、また顔を上に向けたまま助けを呼びに行く事もできなかった。
体の自由は満月に照らされる狐の面によって支配されていた。
そして、面を付けていた私には見えないところでも変化は起こっていた。
月明かりに照らされている白い狐の面は少しずつ、滲んでいく様に狐の毛の色へと変化していっていた。
その色が面を覆っていき、より狐らしい面へと変わっていく。そして色が目元まで来た時…
ドクン
「うぅ…?!」
私の鼓動が大きく高鳴った。
同時に、両目に熱が帯びていくのを感じていた。
満月の光は狐の面を満遍なく狐色に塗りつぶしていく。それは目元の隙間に見える私の瞳すら塗り替えてしまっていた。
ドクン…ドクン…ドクン…ドクン……
「うぅ…ふぅ…うっ…うぅ…!?」
それを皮切りに私の鼓動は何度も高鳴った。私の中に流れる血以外にも何かを押し流す様に、何度も、何度も力強く高鳴った。
(なに…なにが……私の体に……)
体中を何かが駆け巡り、ジンジンと痺れる感覚が走り、満月から目を離せない私は唯一動かせた両手を持ち上げて、月に透かすようなしながら見つめた。
ビキッ
「えっ……」
ビキュ…グギグギッ
不気味な音と共に、逆光で影になった私の指先が鋭く尖っていくのが見えた。
爪が剥がれる痛みと何かが手首に向かって流れていく感触よりも、爪を剥がしながら這い出てくる硬い何かに意識が向いた。
明らかにそれが私の手を人では無い何かへと変えていっていた。
「あっ…な…何こ…れ……」
驚いた私から漏れ出る声は、次第に弱々しくなっていった。
グヂュグキッミキミキミキッ
さらに膨らんでいく手を見てしまったからだった。
影しか見えず細かい変化まではわからなかったが、私の手は痛みを交えながら禍々しい形へと膨らみ、変わっていっていた。
「っ……ぁ………?」
理解の追いつかない私には、声を出す気力は無くなっていた。
面の隙間から入り込む満月の光によって黄色く変色した瞳からは一筋の涙がこぼれ落ちる。
興味本位で力を得ようとした事を後悔し、恐怖で何も考えられなくなっていた。
ビリッ
そんな私の耳に音が投げ入れられる。
履いていた足袋を破き、手と同じく足の指先から爪を剥がし、先端から何かが突き出してくるのを感じる。
足も同じような変化が起こってるのだと強引に認識させられると、その後は何もかもがあっという間だった。
ビキッ……ビキッビキッビキッ……
「あ"っ…あ"あ"あ"っ……?!」
(か…体が……痛い……!)
脳が私の体の変化を理解すると硬直した様に体が動かなくなり、手足以外の全身での変化が始まった。
腕や腿の筋肉は熱を帯びながら膨らんでいき、腹筋も引き締められる感覚が走った。
筋肉の膨張に伴って身長も段々と伸びていっていた。身につけていた巫女服では入りきらず、少し窮屈に感じた。
「あ"あ"…つっ!んんっ!!」
プルッ…ブルンッ…
筋肉だけでなく、部分的に脂肪も膨らんでいく。
胸や尻に明らかに重量が増えるのを感じ、豊満な体に変わっていってるのを感じた。
さらに服が窮屈になり、苦しさで声が漏れ出る。
ビキッ…ビキビキッ……
次は顔の側面から痛みが走った。
耳が頭のてっぺんに向かって引っ張られる痛みだった。その痛みは幼い頃に叱られた時の事を思い出した。が、痛みはその時の比ではなく、千切れるかと思う程だった。
「こゃ…やあ……ああっ!!」
(えっ…なに今の声……)
思わず出た声を、引っ張られる耳が拾って驚いた。
一瞬自分の声とは思えない声が出た。今になって思うと、あの声は狐の声とそっくりだった。
「はぁ…はっ…はっ…はっ…!」
体のあらゆる箇所から走る痛みと込み上げてくる力に緊張と恐怖が交錯する。
何よりも怖かったのは、今の体がどうなっているのかがわからなかった事だ。
月しか見ることが出来ない今、私の体に起こっている変化を確認できない。それが今の私にとって一番の恐怖だった。人間ではなくなってしまうのではないかと恐ろしい想像をしてしまい、考えるのが怖くなってしまった。
モゾモゾ……
「んっ…んやっ……」
すると痛みとは打って変わって、全身を針で突く様な感覚と、掻きむしりたくなる痒みが皮膚の表面に出始めた。面を付けた顔にまでその感覚はあり、鼻の先端も違ったむず痒さを感じた。
痛い時とは違った甘い声が漏れ、内心恥ずかしかったのを覚えている。
グニュッ…
仕上げと言わんばかりに腰辺りから大きな違和感を感じた。
「ひぐっ…うっ…ううっ!?」
グググッ…
骨から響く痛み、まるで皮膚ごと尾てい骨を引っこ抜こうとしているような苦しい痛みが続いた。
ズルッ
やがて腰から衣服の隙間を押し除けてそれは飛び出した。
骨の形を浮かび上がらせながら皮膚で包まれた小さな突起が、衣服の間から顔を出していた。
ピクッ…ピクピクッ…
しかも私の意思と無関係に勝手に動く。
グニュッ…グギギギッ……
これで止まらず、突起はさらに布を押し除けながら木の芽のように伸びていった。
伸びるにつれて私の全身を覆うむず痒さも纏いながら伸びてく。
ファサッ
フリフリッ
腰から飛び出し、全身を露わにすると意思を持ったようにその黄色い尻尾は一人でにうねった。
「えっ…え…えぇ?」
腰から伝わる未知の部位が震えている感覚。
もう一つの手か足でも生えたかの様に腰から伝わる謎の部位が、その恐怖が私の思考を奪っていく。
キイイィィィィィィィイイイイン
大きな耳鳴りと共に面が激しく光り出した。
満月の様に金色に輝き始め、耳鳴りも次第に大きくなっていく。
「やああああああああああああっ!?!?」
その光を直視してしまい、私の視界には満月すら映らなくなった。
視界が一面金一色になり、少ない情報量の風景が頭の中をかき乱す。
シュウウウゥゥゥゥゥゥゥ……
次第に光は音と共に収まっていった。
私の視界には再びあの満月が入り込んできた。
「はっ…はっ…はっ……」
まだ鼓動が大きく鳴り、必死に呼吸を行っていた。
短時間で様々な情報が流れ込み、私の脳は一刻も早く酸素を必要としていた。
何一つ理解出来ていない私は、安易な理由で面をつけた後悔を感じる余裕すら無かった。
カポッ
すると、面と顔の隙間から空気が入る音が聞こえた。
「ぁ…あぁ……」
ドサッ
そのまま私は拘束を解かれたように膝から崩れ落ち、境内の山道の上にへたり込んだ。
「はぁ…はぁ…はぁ…はぁ……」
(な…何が起こったの……?これで…終わったの…?)
私は少し楽な体勢になったことで落ち着きを取り戻し、深く呼吸をしながら今の状況を考え始めた。
スルッ…
カランカランカラン…
「あっ……」
(取れ…た……んっ?)
突然びくともしなかった面が重力に引っ張られ落ちていった。
私がその面に視線を向けると、広くなった視界から様々な情報が目を通じて入ってきた。
まず真っ先に入ってきたのは私の手だった。
茶色い毛で覆われ、手首から肩にかけてだんだん黄色な変色していた。
形も私の知ってる手よりも少し大きくなっていたが、今までと同じ動きはできる様だった。
指先からは黒い爪が生え、手のひらには肉球の様に柔らかいものが膨らんでいた。
視線を落とすと、ピチピチになった巫女服と、その下から膨らんでいる私の胸が見えた。
慎ましい大きさだったはずの胸が山の様に膨らんでいて、今にも着ている服が張り裂けそうだった。
そして、満月によって浮かび上がった影には、大きなリボンのように2つの尖った耳が私の頭上から出ているのが見えた。
「うそっ…やっぱり…私……」
念願の豊満な肉体を手に入れて喜びながらも、私は明らかに人から逸脱した体に恐怖した。
自分の頰に手を当てて確認しても、やはり私の顔も毛で覆われていた。
改めて自分の手をくるくると回しながら何度も見る。擦ってもやっぱり茶色い毛は取れる気配は無かった。
「はぁ…はぁ…はぁ…はぁ……!」
自然と涙が溢れながら呼吸が早まる。
このまま人間に戻れない恐怖、安易な気持ちで取り返しのつかない事をしてしまった後悔。
そんな思いが今になって私の心を締め上げる。
面が私に何をしたのかはどうでも良かった。
私は人間に戻れるのかだけが私は知りたくてたまらなかった。
ピクン
「はっ…!?」
何かが私の背後で跳ね上がった。
音は無かったが何かが動いたのは確かだった。
もしも人だったとしたら、この状況を見られたらどうなってしまうのか。そんな予感が巡り黄色い毛で覆われた私の顔は青ざめる。
私は恐る恐る後ろを振り向いた。
ピクッ
そこには同じく黄色い毛で包まれた柔らかそうな尻尾が跳ねているだけだった。
「なんだ尻尾か…って尻尾?!」
初めて認識する自分の尻尾に私は二度見した。
音もしないのに後ろに何かあると思ったのは、そもそも私の一部であったからだった。
そんな人から生えるものではない代物を見た私は内心焦りこそあったけど、この状況ではあり得ない感情もあった。
「……ちょっとモフモフしてみようかな…」
安心だった。
柔らかそうな見た目と艶やかな毛並みを見ていると、どこか緊張もほぐれて安心する気持ちが芽生えていた。
モフッ
「わっ、モフモフ〜…」
案の定モフモフ案件だった。
自分の腰から生えた尻尾を前に寄せ、少し筋肉質になった腕で持ち上げながら優しく撫でる。
「あ〜、なんかどうでもよくなりそ〜」
(そういえば私、だいぶ力ついてない?スタイルもボンッキュッボンな感じだし、見た目が狐なの以外、ある意味理想通りなんじゃ……)
何はともあれ尻尾のおかげで私は平静さを取り戻し、面の力による恩恵をいただいてご満悦だった。
あの面は確かに紙の通りに肉体と精神…はよくわからないがともかく活性を促した事は事実だった。
「は〜しっかし本当にモフモフね〜、両手に花ならぬ尻尾なんつって……」
両手に尻尾を抱えた私は満足そうにしていた。
しかしここでおかしな事に気付いた。
私の腰から生えた尻尾は一本のはずなのに、私はいま二本の尻尾を抱えていた。
「……あれ?」
私は違和感に気づいて我に返った。
両手に抱える尻尾には明らかに触られている感覚があり、自分の一部である事は確実だった。
「なんで二本…も…?」
尻尾の元を辿っていき、後ろを振り返って腰に目をやる。
そこには腰を中心に割けるようにして生えた2本の尻尾の根元が見えた。
ビキッ
そして、その根元からもう一つの突起が生えてきているのが見えた。
「えっ…ま…また……っ?」
三本目の尻尾が生え始めると、一瞬思考が乱れた。
まともに考えられなくなり、異常な事態が起こっているのにどこか危機感が薄くなったように感じた。
「っ…っは…?!」
その後、突然体の自由が効かなくなり、抱えていた尻尾を離し、前に倒れ込む体を両手で支えた。
足も膝をつけた体勢になり、四つん這いのような構えをとっていた。
グギッ…ゴキゴキッ
「がっ……あ"あ"あ"っ…!」
まず背中が大きく盛り上がった。
音を立てながら背筋は曲がり、無理矢理に前傾姿勢をさせられた。
そんな体を支えるために、肘を曲げた腕はさらに強靭な太さになっていく。
グニュッ…シュルルルルルッ
やがて三本目の尻尾も黄色い毛に覆われ、尻尾として形成されていく。
(ま…また体が……言うこと……聞かな……)
グググググッ
三本目の尻尾が生えると、それに影響されるように体が大きくなっていく。
ビリッ…ビリリッ‼︎
いよいよ巫女服も限界を迎え、成長する私の体が収まりきらなくなり悲鳴を上げる。
上半身の服は膨らむ背骨に沿って破れ目ができ、そのまま押し広げて真っ二つに裂けていく。
下半身は三本の尻尾に押され、膨らんだ臀部に押されるようにしてずり落ちていく。
「ぅっ…う"う"っ!」
ビリリリリリッ
窮屈さに苦しみを感じた私は全身に力を入れ、巫女服だけでなく下に身につけていた布類も纏めてただの布切れへと変えていった。
窮屈だった巫女服が破れ、締め付けられていた臀部や胸の肉が弾み、慣れない感覚に少しよろめく。
「はっ…はっ…はっ……」
(まだ…まだ続くの?…でも……)
いよいよ人の姿から離れていく私の体。
だけど先よりも不安は無かった。痛みこそあれど恐怖はほとんど感じなかった。
何故か心は異様に落ち着き、安心感が高まるとまた腰がむずむずし始める。
ビキョッ…メキョメキョメキョ
新しい尻尾が生え始め、今度は足に違和感があった。
グギッ…ゴキッ…パキッ…
爪のはみ出た爪先から足袋の破れ目を広げていき、私の足はさらに大きくなっていく。草履の鼻緒を切り、足袋も使い物にならなくなっていく。
地面につけた膝が自然と上がっていき、気づけば爪先だけで腰を支えていた。さらに踵は上へ上へと上がっていき、獣の脚が私の下半身を持ち上げていた。
(なんか……なんか変……私……)
怖いはず、それなのに私の心は妙な余裕というか、期待するような胸の高鳴りすら感じていた。
ミキミキミキミキミキミキッ……
四本目が生え切る前に五本、六本と立て続けに尻尾が生えてくる。
「あ"あ"あ"あ"あ"あ"っ?!」
一気に生える尻尾の痛みに悲鳴を上げる。
先ほど地面に転がった狐の面が、嘲笑うように口角を釣り上げながらこちらを見上げていた。
「うっ…ああっ…あ?」
体ではなく、今度は五感に変化が現れた。
黒ずんだ鼻は今まで感じなかった臭いを判別できるようになり、辺りに漂う細かな気を感じ取れるようになっていた。
尖った耳には人の時には聞き取れなかった波長が入り込み、目には見えない薄い存在を感じ取れるようになった。
(この臭い…気配……妖気?)
その鼻につく臭い、耳鳴りのような音、敏感になった嗅覚と聴覚から細かく薄い妖気が辺りに漂っているのがわかった。
普段なら妖怪や幽霊のいるところに現れるものだが、それらしい気配は無かった。
(いっ…一体…どこから……)
スン……スンスン……
ピクピクッ
無意識に鼻先と耳を動かした。
気づかないうちに私は狐の体に馴染みつつあった。
(これ……私から出てる?!)
そしてその妖気の発生源が自分からである事に気付いた。
「も…もしかし…でぇ?!」
メキョメキョメキョメキョメキョメキョ
さらに七本、八本と尻尾が生えてくる。
その時、私はあの面と一緒に入っていた紙の一文がふと頭によぎった。
「辺りに漂う気を集め……肉体と精神の活性に繋がる……」
辺りに漂う気には、妖気も含まれているのではないか。
つまり今の私は人間からただの狐ではなく、妖獣:九尾のような存在に近づきつつあるのだと直感で判断してしまった。
そんな想像をしてしまい、私の中には焦りが芽生えた。
「や…やばい……やばいやばいやばいやばい……」
ファサファサファサッ
巫女として力を付けるはずが、妖怪に身を堕としつつある事に気づいて焦る私。
だがそんな私の気持ちなどお構いなしに、腰からは八本の尻尾がゆらゆらと炎のようにゆらめいていた。
「どっ…どうにかっ…なにかっ…しないとっ……ぉあっ?!」
ガクッ
まともの思考も働かず、思った事をそのまま声に出していた私の口から嫌な音が鳴った。
毛に覆われた所と鼻が黒ずんだ以外、人の形を保っていた私の顔も変化の前兆を示し始め、いよいよ人としての私に別れを言わなければならなくなった。
「あっあああっ…くゃあ"あ"あ"あ"ア"ァ"ァ"ア"ァ"ァ"ァ"ァ"ッ!!!」
グギッ…パキッ…グジュッグググググッ
口が前へ前へと引っ張られ、顔が前に伸びていくにつれて声も低くなっていく。
痛みと焦り、人でなくなっていく怖さ、それら全てを叫びに乗せて吐き出し、いつの間にか私の中の理性は消えてしまっていた。
「ヘッ…ヘッ…ヘッ…ヘッ……」
舌を出しながら呼吸を整え、開いた口からは涎が滴り落ちていた。
「クャン…ウゥ…コャアァアゥン……」
メキョメキョメキョメキョメキョメキョメキョメキョメキョ
そして再び腰に違和感を覚え、私はくすぐったそうに鳴き声を上げ、腰をくねくねと動かす。
ファサッ
九本目が生え終わった時、私は月のように金色に輝く瞳を開きながら、ゆっくりと体を起こす。
ブルブルブルブルブルッ
後ろ足を曲げ、前足で体を支え、犬のお座りのような姿勢を取りながら大きく体を揺らして体についたあらゆる汚れや未練を振り落としていく。
「…………」
揺らし終えた私の顔の前には鳥居の笠木が見えた。
それくらい私の体は大きくなっていたが、狐となった私の頭の中にはそんな情報不必要だった。
「……クャアァァ」
恐怖も、不安も、怯えも、理性も無くなった私の中に残ったのは、欲望と本能だけだった。
有り余る力、抑えていた欲望、今はそれを止めるものは何も無かった。
今ならなんでも出来ると感じた私は、無意識に口角を上げて鳴いた。
「コ"ヤ"ア"ア"ア"ア"ア"ン"!!
キ"ヤ"ア"ア"ア"ン"!!」
抑えるものが無くなった自由の証として、そしてそれを与えた満月への感謝として、私は月に向かって大きく吠えた。
これから始まるであろう様々な楽しみ、この力を使って何をしようかという期待を込めながら口いっぱいに開いて叫んだ。
唯一人の頃の名残である長い黒髪をたなびかせ、私は妖獣になった喜びを噛み締めた。
頭の中は巫女としての役目などすっかり忘れてしまい、これから何をしようかと子供じみた悩みでいっぱいになる。
さぁ、何をして遊ぼうか…走る?寝る?それとも……いたずら?
そう思っただけで心は弾み、私は口角を上げながら口周りを舌なめずりした。
ブォンンッ
そしてそのまま涎を垂らしながら大きく飛び上がり、鳥居を越え、どこかへとかけて行ってしまった。
そこから先は何をしたのか私も覚えていないが、あの時の風が毛を撫でる感触、なんでも出来るという高揚感、あの感動は今でも私の心をたぎらせる。
[newpage]
「っていうのがあって、私はこの力と魅力的なボディを手に入れたって訳」
と、巫女服を着た人の姿で私はあなたに、あの夜に起こった話をしていた。
あの後、狐になった前後の意識はあやふやであり、気付いたら私は裸になって泥の状態で神社の境内で寝ていたのだった。
狐だった頃の記憶や気持ちも、夢の中のようなふわふわとした感じでしか覚えておらず、いま話した事も所々怪しい部分はある。
「まぁこれで私もとりあえず一人前の巫女に……え?耳?尻尾?」
と言うが完全に人に戻ったわけでは無かった。
後遺症としてぴこぴこと動く耳やふりふりと揺れる一本の尻尾だけは狐のままになってしまった。
つまり半人半妖に近い体になっていたのだった。
「ま、まぁまぁまぁ…一応こう見えても巫女として人のために頑張ってるわけだし…ね!そういうことで!」
と、誤魔化しながら本殿へいそいそと戻っていく。
今日は満月の日。私はいつもこの日になると意識を失う。
そして翌朝には泥だらけになった手と、膨大な量の被害報告書と向き合う羽目に遭う。
そうならないようにこういう日は早めに本殿へ籠り、強力な結界を張って一夜を過ごすの。
まぁ、狐の時の私が結局は壊して外に出ちゃうから意味無いんだけど……
ところで、あの面は今どうしてるかって言うと、今でも神棚の前に奉っているわ。
だって、私みたいに巫女になって苦労する子も出てくるだろうし、その助力としてと……何よりあの開放感を堪能して欲しいからね♡
だからあえて私は興味ないふりするの、先輩方がそうやって私を導いたようにね♡