千秋さんと女性のキスを見てから、ちょうど重なったテスト期間を利用して俺は病院を避けるようになっていた。
顔を合わせれば普通にはできないし、まだ頭が混乱している。
ぐるぐる考えるせいで眠れなくなり、薄くなっていたクマがまた濃くなった。
テスト期間が終わった日、冬の眩しいほど青い空に背中を押されて、久々に病院へ足を運んだ。
院内で月守先生達を探していたら、廊下の向こうから歩いてきた2人を見つけた。
2人も俺を探していたようで、3人で東棟の方まで歩いていく。
道中、2人は無言だった。
硬い表情から千秋さんに何かあったのだろうと予想する。
少しの不安と多くのモヤモヤに苛まれ、覆われている心は、そう簡単に晴れることを知らなかった。
「……それで、話って?」
東棟の一室に入り、俺が腰を下ろしたのを見届けた愛斗先生は、俺の正面に座り口を開いた。
「…実は、ここ1週間で、神代さんの記憶が、速いペースで…また失われているんだ」
「……?失われ、て……」
言葉にして、その意味に気付いた。
つまりそれって…
「……逆流性記憶喪失。
昏睡から目覚めた時と、あまり変わらないくらいにまで、失われてる。」
海斗先生の言葉に、俺は引き攣った笑みすらも、上手く浮かべられないまま首を振る。
「…………嘘だ…そんなこと……あるわけ…っ」
哀しみ、怒り、絶望……ごちゃ混ぜになったそれが胸を貫く痛みに、俺は瞳を震わせた。
「……黒木くん…」
辛そうに俺を見る愛斗先生に、俺は暫く何も言えなかった。
混乱していたし、まとまらなかった。
千秋さんは女性とキスをしていた。
記憶もまた失われ始めてて
俺は、どうすればいいの?
俺は、どう生きていけばいいの?
俺は……何を待ってたんだろう…。
奇跡か。そんなの起こるわけもないのに。
「……少し…」
長い沈黙の後漸く口を開いた俺に、2人の視線が向けられる。
「……少し…考える時間をください…」
家に向かいつつ、色んなことを考えた。
キスのこと、記憶のこと、これからのこと…。
どうしたらいいとか、よかったとか、もうよく分からなくて。
考えるうち、1つの結論が出た気がした。
今の千秋さんの恋愛対象が女性なら、俺のことをまた好きになることはない。
このまま、千秋さんが俺を忘れるなら、俺と千秋さんの過ごした日々は消える。
それなら、もう、いいんじゃないか。
このまま千秋さんの傍にいれば、俺は、今の千秋さんの人生の邪魔になる。
これから先もずっと、今の千秋さんのままなら、彼のために離れよう。
あの人が俺を忘れていくのが運命だったなら、俺はそれを、黙って受け入れよう。
ここまで必死にもがいてきた。
でも、もう、疲れてしまったんだ……。
そう結論を出した時、俺は空から降ってきた雫で、びしょ濡れだった。
それでも、その冷たささえも感じないほど、胸が痛い。
「っ………ふ……ぅ……」
千秋さん…千秋さん…千秋、さん………
「ふ、ぅぅ………」
言葉にできない思いが涙となって溢れ出す。
とめどなく溢れる涙を、俺は拭うこともせず、その場に蹲って泣いていた。
通行人の嫌悪の目がいくつか向けられる中、雨だけが優しく俺を包み込んでいた。
ガチャ。
「……っくしゅ……」
ただいまという気力もなく、黙って家に上がろうとした瞬間に、くしゃみが出た。
別に、きっとそんなことはないんだろうけど。
千秋さんに、挨拶くらいちゃんと言いなさいと、ポンとお尻を叩かれた気がして。
またひとつ、涙が零れた。
そんな日常が懐かしかった。
もしも記憶が戻ったなら、今の俺を見て千秋さんは凄く怒るんだろうな、と思う。
無理してるし、あまり寝てないし、ご飯も上手く食べれてないし。
でもそれ以上に、その原因が自分だと分かってるから、きっと自分を責めるんだろう。
優しい、あなたのことだから。
お風呂に入り、本棚からフランスの旅行雑誌を引っ張り出す。
遠くへ行くなら、母国のフランスが良いだろうと思ったからだ。
しばらく帰ってないから雑誌を見ながらなら向こうを回れるだろう。
まずは、荷物をまとめて、先に向こうに送らないとな。
そんなことをぼんやり考えた。
胸は痛むけど、千秋さんが幸せになるなら、それでいいと思った。
きっと、思おうとしているんだろう。
だけど俺は、叫ぶ心を無視して、その日はソファーで寝た。
続く