9話 激突、セダッセン号 バルティゴ鉄道乗っ取り事件20
「グレイ…………ベアー」
一等車から二等車に走るイチが見たのは先程斃したはずのグレイ・ベアーであった。
脳の中枢を上手く外したか、それとも彼の執念か、死んだと思われたはずのグレイ・ベアーが再び立ち上がり立ちはだかるように揺れていた。
「ふぅぅぅぅぅ……ごふぅぅぅぅぅぅう、ぼ、冒険………者!! ぼうけんしゃああああああ!!!」
手負いのグレイ・ベアーは既に人間の理性は消え失せ、イチに振り返ると本物の獣になり果てたのか武器である大金槌すら持たずに諸手を突き出し突進をかけてきた!
イチは予想だにしていない事態と疲労の為か銃を抜くのが一拍遅れた。この時のイチは未熟である。後年の機械のような戦闘精神はまだ発達していない。
「ぐぅあるううううううう!!!」
「くそ______!!」
それ以上にグレイ・ベアーが見せた最後の爆発力が凄まじかったのかもしれない。
イチが銃を抜いた瞬間にグレイ・ベアーの手がイチを床に押し倒した!
「があっ!!!」
グレイ・ベアーはイチの喉笛に食らいつこうと咢を大きく開き迫る! その姿はまさに大灰色熊。熊の暴風である。
____こいつ! ………人間か!?
イチは押し倒されたまま膝でなんとかグレイ・ベアーに抵抗しながら、弱点であるはずの目に向け銃口を向けようとするが距離が近すぎる。人を捨てたグレイ・ベアーをインファイトでいなせるほど今のイチでは銃の腕前が追い付いていない。
「なにやってる! はやくこいつをやっちまえ!」
この時もイチはテオドールに助けられた。
身体の制御が狂ったグレイ・ベアーを、テオドールの乗り移った左手が辛うじてイチの喉笛に喰いつかれる前に止める事ができていた。
突然、サイレンが鳴り響く音が車外から聞こえ始めた。
軍の監視塔が無許可に突入してくるセダッセン号に気が付き慌てて蒸気サイレンを起動したのだろう。
あと60秒もしないうちにセダッセン号が基地に突っ込む事は確定的に明らか。すぐさまグレイ・ベアーを退けなければイチもセダッセン号と共にペシャンコになってしまう。
「この野郎!」
イチはこの狂気的な状況に世界が酷く密閉された感覚に陥った。
気を狂わすようなサイレンの高音が響く。
左手のテオドールは巨体を抑えようと何かを叫んでいる。
グレイ・ベアーは最早、熊そのもので涎の糸を垂らして咢を開けている。
イチはそのグレイ・ベアーの口内に銃口を突っ込むと、引き金を引いた。
サイレンの恐ろしい音が更に高鳴る中で銃声が響き、今度こそグレイ・ベアーの頭を致命的に吹き飛ばした。
やはりグレイ・ベアーの魔法は表皮のみを鋼鉄化する魔法だったらしい。
今度こそグレイ・ベアーは完全に絶命し、ワース・ハンマフリーマンの戦いの歴史は終わった。
「くそ! 時間を無駄にした!」
しかしイチにとって何一つ状況は変わっていない。
身体に倒れ込んできたグレイ・ベアーの酷く重い巨体をなんとか退けると、床に伏せられたままのテオドールの身体を支えて立ち上がらせるために走った。
しかしイチも体力の限界である。
完全に脱力した人間を支えて歩くには想像以上の体力を必要とする。
傷つき身体を酷使した少女の身体にそれは荷が重い。
「お、重い! テオドール、もう一度自分の身体に戻れないか!?」
車外から鳴り響くサイレンの音に国防軍の兵士が威嚇の為に射撃する銃声が混じって来た。いよいよ衝突が近いらしい。
そしてこの時、テオドールは恐らく彼の人生で初めて他人の為に自分が損な役回りにつくことを選んだ。
そしてそれは彼の最初で最後の自己犠牲になった。
「テオドール!?」
突然、イチは支えようとしていたテオドールの身体に弾かれた。
弾いたほうのテオドールは失血の為に既に限界を迎えていたのだろう。再び仰向けに倒れると震える手先でイチに向けて「行け」と伝えている。
イチは愕然とした顔を見せた。したが、迷っている時間はなかった。
もう一度テオドールを立ち上がらせて脱出する時間は恐らくもうない。
また、テオドールの様子から彼が既に手の施しようがない状態にある事に気が付かざるを得なかった。
「ち、ちくしょう……、や、やりたかったなぁ……お前と………へへへ」
「くそおおおおお!!」
イチは叫びながら走った。
後悔や逡巡をしている時間はなかった。
サイレンの音が響く中、響く銃声の中、レールを軋ませる音の中、イチはどうにか二等車の後部扉を開け放ち、
そして跳んだ。
「ぐおっ____________ぐううう!!!」
イチは兎に角頭だけは守ろうと身を丸め横に転がるように飛んだ。
加速度と重力が容赦なく彼女の身体を打ちのめした。
ゴロゴロと地面を転がり、その度に骨に衝撃を受けたがイチは無事だった。
無事なまま、何か巨大な質量がぶつかり破壊し破壊される音を聞いた。
「テオ…………ドール……」
イチは上体を起こす。
流石に身体を立たせる気力はなかった。
もうただ目を開けているだけでも辛かった。
何やら国防軍の軍人たちが怒号を発し、事態の理解と収拾に躍起になっている。
セダッセン号は煙に包まれて見えないが、軍事車庫の壁に激突し機関車としての生命を終えたのだろう。
意識を消失しつつあるイチを、バルティゴ国防軍の兵がライフル銃を構え囲んでいた。