二人の××志願者の

  とうとう、虎は飛んでしまったらしい。

  

  虎とはもちろん、私の自殺仲間だった虎獣人のことだ。

  

  

  それを私が聞いたのは、仕事から帰宅し夕食も取らずにシャワーだけ浴びて、疲れ切った身体をベッドに横たえた時で、虎に先を越されたという悔しさよりも、ああ遂にやったのかという感慨に近い感情が先に立った。

  電話でそれを伝えてくれたのは、当時クラス委員長をしていたA子だった。A子は人によってあからさまに態度を変える人間で、私は昔からあまり好きではなかった。

  

  「――そういえばさ、中学の時同じクラスだったあの虎、覚えてる?飛び降り騒ぎのさ。…あいつが、遂にやったんだって…」

  

  互いに近況を少しだけ話した後、A子はかすかな涙声でそう切り出し、ニュースか何かで知ったのであろう事の顛末を話し出した。いかにも、旧友がこんなことになって気持ちが高ぶってしまった、というような演技がかった話し方だった。中学時代、大して仲良くもなかった私のところへ、どうしてA子が突然電話してきたのか見当がつかなかったが、これを伝えるためだったのかと気付いた。

  

  ――この偽善者。

  

  私は心の中で毒づく。

  A子は中学時代、率先して虎をいたぶっていた連中の一人だった。笑いながらあいつの教科書をゴミ箱に捨てていたこともあったし、取り巻きと一緒にあいつの悪口を聞こえよがしに話したりもしていた。

  今更こんな奴に涙など流されても、虎も迷惑だろう。

  

  「そう」

  

  だから私は、精一杯気のない声で返事をした。お前の話になど、興味はないのだと。

  

  「――もしかして、もう知ってた…?あれだけテレビで言っていれば、そうだよね…」

  「いや、別に知らない。最近忙しくてテレビなんて観てる暇無かったし」

  

  私はできるだけA子が不愉快になるように話した。

  

  ――そうなのか、あいつはそんなに騒がれるようなことになってしまったのか。

  

  三年前に会った時の、虎の顔がふと浮かぶ。テーブルを挟んで私と向かい合ったあいつは、私と意見が食い違ってしまったことに、別れるまで落胆した顔をしていた。

  

  それが、最後だった。

  

  ――あれから、やり遂げてしまったのか。

  ――せめて、せめて笑顔で別れればよかった。

  

  ふと目頭が熱くなり、ぐにゃりと周りの空気が歪んだような気がした。

  A子はそんな私の様子に気づかず、自分の話に興味を示さない私に気分を害したようで、

  

  「なんだ、あんたと虎は仲が良かったから、びっくりすると思ったのに」

  

  そっけなく言って電話を切った。

  

  

  確かに、私と虎は仲が良く見えたのだろう。

  だがA子も、私と虎の本当の関係は知らない。

  

  

  

  

  

  私と虎は、一緒に学校の屋上から飛んで、死のうとしていたのだ。

  

  

  

  [newpage]

  

  

  1

  

  私と虎は中学三年で初めて同じクラスになった。

  あいつは都会では珍しい獣人で、しかも虎の獣人で、学校でも制服から覗く縞々の柄がよく目立っていたから、私でもその存在は知っていた。同学年に、虎獣人の男子がいる、と。しかし、あいつの周りの状況までは全く知らなかった。

  

  だから新しいクラスになって最初のうちは、ただの悪ふざけだと思っていた。

  その小柄な虎獣人は、休み時間になると以前からのクラスメイトたちによく小突かれ、からかわれはしていたが、それでもヘラヘラと笑っていたから。

  そのうちに、虎が授業中に指されただけでクスクスと笑いが起きたり、給食当番が忘れたフリをして虎の分の配膳をしなかったりということがあって、何だか嫌だな、と私は思った。

  五月に入ると、朝の黒板に獣人の悪口が書かれるようになり、頻繁に虎の所持品が消え、無くなった体操着と運動靴の燃え残りが焼却炉で見つかるようなことがあって、私は確信した。

  

  あの虎獣人は、虐められているのだと。

  

  その頃になると、暴力がふるわれることもあったようで、虎が顔に痣を作って登校してきたことがあった。さすがに担任に顔の傷について問い質されていたが、あいつは、転んだ、としか言わなかったようだ。

  それからは一度もあいつの顔に傷ができることはなかったが、教師の目につかないようなトイレや校舎裏で、跡が残らないようにやられていたらしい。学校側には言えないように、脅されて。後ほど本人から聞いたから、間違いはなかった。

  

  それから、私はずっと虎を観察した。

  あいつに友人と呼べるような存在はおそらくいなかったのだと思う。クラスメイトは、積極的に虐めるか、傍観するかのどちらかしかいなかったし、休み時間に他の教室から虎を訪ねてくるような生徒もいなかった。

  

  そうして気づいた。彼がへらへらと弱気な笑顔でいる意味に。

  虎の目は、決して笑っているのではなかった。全て、諦めているのだ。

  

  

  ある日、独りになりたくて夕方の屋上に侵入した私は、そこで虎が柵に身体を預けてぼーっと空を眺めているところに遭遇した。その傍らには、学校指定の革製の鞄が切り傷だらけでずたずたになって落ちていた。恐らくそれは虎のもので、カッターか何かでやられたのだろう。肩掛の部分は、すぱりと切られて無くなっていた。

  あいつの大きな茶色の瞳には、燃えるような夕焼けが映っていたが、あいつは何も見てはいないようだった。尻から伸びた尾は力なく垂れ下がり、いつもはぴんと立っている耳も怯えた犬のように畳まれていた。背中は丸まり、見えない重荷を背負っているかのようで、顔はいつものように笑ってなどいなかった。私にはそれまで獣人の知り合いはいなかったが、彼の表情には色濃く影が差しており、疲弊し切っているのがわかった。

  

  それこそ、今すぐにそこから飛び降りても全く不思議がないくらいに、その時の虎は、暗い暗い雰囲気を纏っていた。

  

  

  

  ――絶望、という言葉が浮かんだ。

  

  

  私と同じだ、と思った。

  

  だから、誘った。

  

  「ねえ、君さ――」

  

  突然声をかけられ、虎が驚いてこちらに顔を向ける。

  

  

  

  

  

  「――私と一緒に、死なない?」

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  当時の私には、何もなかった。

  

  何の役に立つかもわからない勉強、子供っぽい級友たち、疲れるだけの部活、くだらないことで騒いでいるテレビ、増えていく犯罪、世界中での環境破壊に戦争や紛争。

  こんなもんか、と私は十四歳にして人生を悟ったような気になっていた。

  あと少しで受験に向けての勉強が始まる。大人たちは皆、口を揃えたように大変だけど頑張れ、と言う。その先は、また高校に入学して同じことの繰り返しだ。勉強して、くだらない級友とどうでもいい話をして、また大学受験で追い詰められて、今度は就職して、また仕事に追われて。

  何故、そんなに頑張らなければいけないのか、生きていても辛いことだけで、これから先には展望など何一つない。そう思った。

  どうでもよかった。こんな無駄なもの、さっさと終わればいいと思っていた。

  

  だから、毎日死ぬことばかり考えていた。

  

  

  一方の虎は、獣人であることを理由に中学一年から虐められていたそうだ。曰く、臭いだの、毛がまき散らされるだの、汚いだの、牙が怖い、だの。小さな頃は皆仲が良かったはずなのに、何故か中学に入った途端、虐められるようになった、とあいつは寂しそうに笑った。

  あいつは虎獣人の癖に体が小さくて、間近で見ると身長は私と大して変わらなかった。黄と黒の毛並みは何故かいつもぼさぼさで、縞模様が薄汚れており、少し不潔な印象を与えた。少し糸がほつれたところのある制服は、親戚からもらったものだと言っていた。背の低いあいつには丈が長過ぎるようで、いつも学ランの袖とズボンを幾重にも折って着ていた。そういうところも、虐める側にとっては“気に入らない”ところだったのかもしれない。

  

  そういうものよ、と虎の隣で私は言った。

  人間なんて、昔から自分と違うものを差別することが、大好きなんだから。

  

  私と虎は、柵に寄りかかりながら互いの『理由』を話した。

  校庭では野球部が声を上げながら走り込みをしている。ご苦労なことだ。校庭で部活に励んでいるのは、人間の生徒ばかりだった。それどころか学校にいる獣人は、私が知る限りは虎の他にはいなかったはずだ。

  夕方のそよ風が私と虎の頬を撫でた。あいつの頬から飛び出している長い髭が揺れる。それは、私たち人間には存在しないものだった。

  

  そうかあ、とあいつは校庭を見下ろしながら呟くように言った。

  

  ――俺、みんなと、全然違うもんなあ…。

  

  虎は努めて普通に言っているようだったが、その目に涙が浮かんでいるのに私は気付いてしまって、ふいと目を反らした。

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  ――いいよ、俺、やるよ。

  

  しばらく黙った後で、虎は、そう言った。

  思わず私はその顔を見つめる。

  

  俺もこんな人生、嫌になっちまった。もう、生きているのが、辛い。

  

  …一緒に、死のう。

  

  小柄な虎獣人は、掠れた声でそう言った。

  部活が終わったのかいつの間にか校庭の喧騒は聞こえず、風の音だけが耳の中に響いた。

  夕焼けに照らされ、屋上のコンクリートに人間の私と虎獣人のあいつの影が並んで伸びていた。

  

  今この瞬間、世界には私と虎の二人しか存在しないかのように思えた。

  

  

  

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  2

  

  それから私と虎は、二重生活を送り始めた。ただ昼間は今まで通りの学校生活を送り、放課後になれば、屋上で顔を突き合わせて自殺の計画を練った。

  いつ、どこで、どうやるか。遺書は?道具は?

  

  もちろん、虎への虐めは執拗に続いていた。相変わらずあいつはからかわれ、小突かれ、校舎裏に連れて行かれ、殴る蹴る等されているようだった。だが、私に何ができるわけでもなかったし、しようとも思わなかった。昼間は、今まで通りクラスメイトであるということ以外では全く接点を持たなかった。

  私とあいつは、一緒に死ぬ約束をしただけだ。別にあいつを救ってやりたいとか、そんな高尚な気持はなかった。ただ、あいつが私と同じようにこの世になんの望みもないなら、一緒に死ぬのも悪くはないと思っただけだ。

  

  虎も、別に私に助けを望んでいたわけではないだろう。だが、それでも屋上では私を待ってくれていたようで、後から屋上に来た私の顔を見ると、いつも嬉しそうに尾を揺らしていた。

  今まで長い間、誰ともまともにおしゃべりなどしていなかったのだろう。教室では物静かな虎だったが、屋上での私に対してはよく喋った。私はあいつの話の内容には全く興味がなかったが、虎獣人を間近で見るのが初めてだったから、楽しそうに、時には悔しそうに今日あった出来事を話す虎の顔を観察するのが面白くて、よく話を聞いてやった。

  

  そうしてから、私たちは相談を始めるのだ。

  

  

  ――ねえ、どうやって死ぬ?と。

  

  

  

  

  

  一か月ほどそんな風にダラダラと過ごして、予定は立った。

  場所はいろいろと悩んだが、結局は屋上になった。私はあまり一目につかないところがよかったのだが、あいつは、目立つところでやることで虐めた相手に思い知らせてやりたい、と静かに言った。納得したから、それもそうだね、と私はあいつの意見に従うことにした。

  場所が決まれば方法も自然と決まった。当然、飛び降りだ。恐怖さえなんとかなれば、あっという間だ。うちの中学は六階建てで、高さも十分と思われた。仕損じることはないだろう。

  決行は、週明けの月曜日。朝礼で全校生徒が校庭に並ぶ。そこでやると決めた。学校中が見ている前で、私と虎は飛び降りて、華々しく死ぬのだ。

  六月最後の金曜日の夕方にそれが決まった。この週末の二日間が、私たちに残された時間だった。

  

  

  

  

  

  ――もう、後戻りできないな。

  

  ぽつりとそう言って、虎は少しだけ引きつった笑顔を見せた。しかし、その顔はどこか晴れ晴れとしているようにも思える。

  まあ虎獣人の表情など、私にはよくわからなかったのだが。

  

  別に、やめたかったらやめてもいいけど。私は一人でもやるから

  

  私は冷淡に言い放つ。

  本心からだった。死にたくないのならやらなくてもいい。やらないほうがいい。ここから飛び降りれば、私にも虎にも悲しむ人が間違いなく、いる。それくらいのことは中学生の私にも分かっていた。

  

  いや、やるよ。…俺は、もう決めたんだ。

  

  小さく、しかし力強い悲壮な決意の宿った声だった。

  あいつは私に向き直ると、右手を前に差し出した。

  意図を察した私は無言でその手を握る。思ったより、ずっと大きな手だった。肉球の柔らかな感触と、ふかふかとした毛皮に、私はどきりとした。

  

  ――ありがとう。

  

  虎は、真っ直ぐに私を見つめてそう言って、ぎゅっと私の手を握り返した。体格から想像するより、ずっと逞しい手だと思った。

  虎獣人の二つの大きな茶色の瞳に、動揺した私の顔が写っていた。

  

  ――一緒に死のうって言ってくれて、変かもしれないけど、俺は嬉しかった。何だか、救われたような気がした。この一カ月くらいだったけど、お前と話せて、本当によかった。

  

  その言葉に何故だか私の胸は詰まったようになってしまい、いつものように冷たく突き放せず、私は何も言えなくなってしまった。

  多分、あんまりあいつが私の顔を見つめるからだ。あいつの手が、思ったより大きくて、力強くて、温かったからだ。――多分、あいつが本心から言っているのがわかったからだ。

  

  私は慌てて虎の手を振り払うと、柵に立て掛けてあった鞄を手に取った。

  

  ――それはどういたしまして。それじゃ、月曜日の朝七時半に、ここで。

  

  私はどうにかそれだけ言い残すと、身を翻して屋上を後にした。虎の顔がまともに見られなかった。後ろであいつが何か言った気がしたが、聞こえないフリをして階段を駆け下りた。

  

  

  

  

  それから、三晩、私はほとんど眠れなかった。土日で書こうと思っていた遺書も、全く手がつかなかった。

  何故、私は死のうなどと考えていたのかと思った。

  

  

  怖かった。

  

  

  暗い部屋で一人、屋上からあいつと飛び降りる瞬間を想像するだけで、背筋が寒くなった。

  空へと身を躍らせ、支えるものの無くなった私たちは、重力に引かれ地面へと真っ逆さまに落ちていく。校庭からは大きな悲鳴が上がる。ジェットコースターのように、胃がゆっくりと持ち上げられ嘔気が私を襲う。恐怖で一瞬が引き伸ばされ、体感時間では永遠のようにも感じられる落下時間。

  そして地面が目前に迫り――

  

  そんな光景を夢に見て、何度も大声を上げて夜中に飛び起きた。

  

  物言わぬ私と虎が、血塗れで地面に並んで転がっている様子も出てきた。

  何も食べていないのに、夜中にげーげーと吐いた。

  

  私は、死にたくなかった。

  

  ――虎に、死んでほしくなかった。

  

  

  

  何度虎に連絡を取ろうと思ったかわからない。

  だが、屋上での真剣な虎の眼差しが脳裏にちらついて、あいつの決意に水を差すようなことがどうしてもできなかった。

  

  あいつに、嫌われたくなかった。

  

  

  

  そうして迎えた月曜の朝、私は毛布に包まったまま布団の隅で丸まり、震えていた。

  どうしても学校に行くことができなかった。あいつと飛び降りるのはもちろん嫌だったし、あいつだけが飛び降りる瞬間を見るのも出来なかった。

  

  そんな私の様子を見て、両親は学校を休むように言った。

  時計を見て、私は気が気ではなかった。あと五分で私たちが飛び降りるはずの時間だったからだ。両親に全てを話し、学校に連絡してもらおうかとも考えた。

  

  だが結局、私は何もできなかった。学校に行かないことで既に虎を裏切っているというのに、さらに虎の想いを遂げるのを邪魔するような真似は、できないと思った。

  

  あいつは、自分から望んで死にたいと言ったのだ。あいつの方が、私よりずっと死ぬ理由があったし、私よりずっと決心が固かった。

  

  私は、ごめんなさいごめんなさい、とひたすら布団の中で虎に謝り続けながら時間が過ぎるのを待った。

  

  

  地獄のような時間だった。

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  ――その日の夕方、母親が教えてくれた。

  

  学校でクラスメイトの飛び降り騒ぎがあったらしい、と。

  

  しかし、教師が飛び降りる寸前で止めてくれたおかげで、その男子生徒は無事だとも。

  

  

  

  それを聞いて、私は体から力が抜けていくのを感じた。そして、それから二日間、熱を出して寝込んだ。

  

  

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  3

  

  A子からの連絡があった翌日、私はめったに読まない朝刊を駅で買った。虎のことが書かれた記事は、確かにあった。ただし、昨夜に大きな汚職事件の逮捕劇があったせいで、あいつの記事は隅に追いやられており、結局詳しいことはよくわからなかった。しかしA子の言ったことは、事実だった。

  

  私は上司に無理を言って有休をもらい、仕事を夕方で切り上げると母校である中学校に向かった。

  職員室に寄り、卒業生であることを告げ、見学したい旨を告げる。

  私が中学時代に習っていた教師は一人も残っておらず、5分ほど名簿と免許証を確認されたが、すぐに見学の許可が下りた。

  暇そうにしていた初老の犬獣人の教師が一緒について回ってくれることになった。灰色の眉毛が長く、目元までで隠れてしまっており、優しい顔つきをした教師だった。

  

  目的地はもちろん、屋上だった。私とあいつが、一番多くの時間を過ごした場所。

  犬獣人にそのことを告げると、快く鍵を取りに行ってくれた。

  本当は一人で見て回りたかったのだが、昨今は物騒な事件も多いことだし仕方がないだろう。

  

  犬獣人が屋上に通じる鉄扉を開けると、あの頃と変わらない屋上があった。いや、私が成長したせいか、なんだか狭く感じられる。周りを囲う柵も、低く思えた。

  

  

  空をふり仰げば、夜になり始めの群青色が広がっていた。日が沈んで間もない時間帯だった。

  

  虎と出会った夕焼けの空でないことが、残念なような、それでよかったような、不思議な気持ちだった。

  

  

  

  

  *************************************

  

  

  

  飛び降り騒ぎの後で虎から連絡があったのは、決行日の二日後、ちょうど私の熱が下がり出した夜だった。

  電話を代わると、もしもし、というあいつの声が聞こえて、私は少し涙ぐんでしまった。一時は、もう二度とこの声は聞けないと思ったのだ。

  

  ――ごめん、私、行けなかった。怖くなって、行けなかった。

  

  私は小さな声でそう言った。虎に、何を言われても仕方がないと思っていた。私は、あいつを裏切ったのだ。

  

  だがあいつは、もう別にいい、と言った。

  俺も同じだ、結局、死ねなかった、失敗したんだ、と言った。

  

  電話越しでは、虎がどんな顔をしているのか分からない。今、あいつはどんな気持ちでいるのか。私は無性に虎に会ってその気持ちを確かめたかった。

  

  ――でもそれは、先生に止められたからで――

  

  ――俺、飛び降りようと、したんだ。先生に見つかる前に、時間はいっぱいあったんだ。柵を乗り越えて、後ろ手に柵を掴んで、下を見て、体を乗り出した。皆が驚いているのが見えた。あとは、足を踏み出すだけだったんだけど――

  

  私の言葉を遮り、あいつはうわ言のように喋り始める。話すうちに、次第に語尾が震え、早口になっていく。

  

  ――でも、できなかった。足が震えて、手は柵から離れなかった。何度も何度もやろうとしたんだ。でも足は出ない。手も、柵をしっかり掴んだまま離れない。だから、何度やっても、飛び降りられなかった。

  ――そしたら、下にあいつらの、俺を虐めてる奴らの顔が見えたんだ。

  ――あいつら、笑ってたんだ。俺のこと、あいつら、指差して笑って、楽しそうに笑ってやがったのに、俺は、俺は、怖くて飛び降りられなかった!大事なところで失敗したんだよ!!

  

  最後は喉の奥から絞り出すように叫んでいた。私は何も言えなく息を飲んだ。受話器から、押し殺したような嗚咽が聞こえた。虎は、電話口で泣いているようだった。最後の一歩を踏み出せなかった自身が悔しくて、情けなくて。

  

  今すぐにでも傍に行ってやりたかった。

  私も、そうだと。私のほうがずっとずっと卑怯者で臆病者だと。そう言って、あいつの震える背中をさすってやりたかった。

  虎が生きていてくれて嬉しいと、伝えたかった。

  

  

  

  しかし

  

  ――巻き込んで、本当に、ごめん。

  

  虎はそう言うと私の返事も待たずに電話を切ってしまった。ツーツーという電話の音だけが、私の耳に残った。

  巻き込んだのは私のほうなのに、何故虎が謝るのだろうか。

  私は直ぐに電話を掛け直そうとして連絡網を探したが、どうやらあいつの家には固定電話はないようだった。今と違って、中学生が携帯電話などおいそれとは持てない時代だ。あいつは公衆電話かどこかから、私の家までかけてきたのだろう。

  

  明日、学校で謝ろうと思った。

  

  

  

  

  

  

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  4

  

  大人になった私は、屋上の柵の上から下を覗き込んだ。花壇の花が小さな点のように見える。帰宅していく生徒も、私の小指の爪くらいの大きさだ。

  

  高い。

  

  大人になっても、これだけは変わらなかった。

  

  ――あいつは、この柵を乗り越えて、飛ぼうとしたのか。

  

  せいぜい十四歳の少年が、この高さから。

  それも、たった一人で。

  …私のせいで。

  一体どれほどの恐怖であったろう。そして、そうまで彼を追い詰めた虐めは、どれほど残酷なものであったのだろう。

  

  ――飛び降りようとしても、足が震えて最後の一歩が出なかった。

  ――柵を掴んだ手は、離れようとしてくれなかった。

  ――それを見て指差して笑う、虐めた張本人たち。

  

  虎だって、覚悟を決めて、この屋上に上ったはずなのに。

  その時のあいつの気持ちを思うと、胸が締め付けられるような気がした。

  

  「あの」

  

  私は犬獣人の教師へと話しかける。

  

  「昔、十年以上前にここから飛び降りようとした男子生徒がいたらしいんですが、知ってますか。結構騒ぎにもなったそうなんですが。結局、先生方が止めてくれて、その生徒は無事だったと」

  

  犬獣人は首を捻る。

  

  「いやあ、聞いたことないねえ。まあ私も三年前にここに来たばかりだからねえ」

  

  犬獣人は、親切にほかの先生にも聞いてみようかと申し出てくれたが、私は丁重に辞退した。

  次第に濃さを増していく夕空をふり仰ぐ。

  

  もう、この世界中のどこを探しても、決して虎には会うことはできないのだ。

  そう思うと少し寂しいような気がした。だからあいつの話を、誰かと共有したかっただけなのだ。あの時確かにあいつがここに存在したのだということを、確認したかったのだ。

  

  私は虎との一件があってから、一度も死のう、などと考えたことはなかった。死にたくなるような辛いことはたくさんあったが、それでも、死のうなどとは決して思わなかった。

  

  ――あいつは一体、どんな想いで生きてきたのだろうか。

  

  切なくて、胸が苦しかった。

  

  それでもこの屋上に来られたことで、少なくとも当時の虎の気持ちは僅かではあるかもしれないが、共有してやれたような気がした。

  私があいつの思い出を覚えているならばそれでいいのではないか、と思った。

  

  私は犬獣人の教師にお礼を言うと、母校を後にした

  

  またいつでも来てください、と彼は見送ってくれた。

  

  

  

  

  *************************************

  

  

  

  

  私は、虎の飛び降り騒ぎの二日後に登校したが、教室にあいつの姿はなかった。騒ぎの後からそのまま病院へ入院しているとのことだった。

  しかし、待てど暮らせど虎はやってこず、結局二週間後、あいつは親の都合で転校するのだと担任がクラスに伝えた。親の都合、なんかではないことは誰もがわかっていただろうが。

  

  私は病院にも行ったが、虎には面会させてもらえなかった。

  結局、私とは一度も会うことができないまま、虎は引っ越してしまった。

  そのまま虎への虐めも、あいつの飛び降り騒ぎも有耶無耶になってしまい、私たちは追い立てられるように受験勉強に向かうしかなかった。

  

  

  だが年が明けた正月、虎は私に近況を綴った年賀状を寄越してくれた。あいつは、新しい学校で馴染めないながらも何とか元気にやっているようだった。

  私は嬉しくて、熱心に返事を書いた。

  そうして、年賀状のやり取りは、毎年続いた。

  一年に一度だけ、私とあいつは年賀状を通しておしゃべりをしていたのだ。

  

  それは私が高校、大学と進学してもずっと続いていた。あいつも無事に高校、大学に行ったようだった。

  

  だが、私には一つ心配事があった。

  

  

  

  

  大学を卒業し、社会人になって二年目、街中で偶然あいつと出会った。

  仕事帰り、信号待ちをしていると、交差点の向こうで大柄な虎獣人が手を振っていた。何だあれ、と思いながら、信号が変わったので私は横断歩道を渡った。図体の大きな虎獣人もニコニコ顔でこちらに向かって歩いてくる。変な人だ、と思ったら、それが成長した虎だった。

  私を見て尻尾がゆらゆらと揺れる癖は、あの頃のままだった。

  

  久しぶりだなあ、とあいつは言った。声にも笑顔にも、あの頃の面影があった。

  

  私は驚きで固まってしまった。私と同じくらいの背だった小柄な虎獣人は、二メートル近くの大男になっていたのだから。

  

  ――余りにも変わっているから、びっくりした。久しぶり。

  

  私はかろうじてそれだけ言うと、虎を近くのカフェへと促した。あいつは、嬉しそうに私の目の前に座ってコーヒーを美味そうに飲んだ。

  清潔そうな水色のポロシャツに身を包んだ虎は、中学の頃とは別人のようだった。毛並みは綺麗に整えられて上質な絨毯のようだったし、胸板は厚く、服から飛び出した首も二の腕も太い。なんだか、随分と健康的でごつい男になっていた。

  もちろん同じところもある。

  額の毛だけは昔のようにぼさぼさのままだったし、大きな茶色の目玉も、弱気に見えてしまう笑顔も、相変わらずだった。

  

  私たちは互いに近況を話し、偶然の再会を喜んだ。10年以上会ってないとは思えないような気安さだった。毎年の年賀状のおかげかもしれない。それとも、もともと私と虎は気の合う者同士だったのかもしれない。

  

  

  

  

  ひとしきり話が終わり、話すこともなくて何となく手持無沙汰になると、あいつは次第に暗い顔になりこう切り出した。

  

  ――実は、また、失敗したんだ、と。

  

  虎は言葉を濁したが、私は年賀状で、あいつが大学に入ってから『失敗』を二回ほど繰り返していることを知っていた。そして、最近はそれも収まっていることも。きっと一種の病気のようなもので、次第に落ち着いていくのだろうと思っていた。そのうちどこかで止めるだろうと。

  まさか互いに就職するような年齢になって、まだやろうとしているとは思わなかった。

  

  

  私は、もういい加減にやめろ、と言った。何回も失敗してるんだからもういいだろう、いい年なんだから、そんな馬鹿なことを考えてないで真っ当に、生きろ、と。

  正直、虎がここまで執着するタイプだとは思っていなかった。何故なのかその理由も既によくわからなかった。もしかしたら、中学時代の失敗がトラウマになっていて、あいつ自身が意地になっており、やり遂げることそのものが目的になってしまっていたのかもしれなかった。

  

  

  私の言葉に、虎はひどくがっかりした顔をした。

  

  ――結局、お前もそう言うんだな。お前だけは、さすがにもう一緒にやるとは言わなくても、俺のことを否定はしないと思ったのにな。…あの時はそうじゃなかったのに。

  

  心底落胆した顔で言われて、カッとなった。

  あの日の臆病で卑怯な私を見透かされたような気がしたのかもしれない。私は虎のためを想って言っているのに、あいつには何も伝わっていなかったのが、悔しかったのかもしれない。

  

  ――そんなこと、知るか。どうせあんたの人生だろう、私には関係ない。好きにすればいい。

  

  ――…そうだな。…俺とお前は、もう関係ないもんな。…そうさせてもらうよ。

  

  最後は、喧嘩別れのようになってしまった。

  

  

  

  それが、三年前のことだった。あれが、虎の顔を見た最後だ。今思い返すだけでも苦い思い出だ。

  

  それから、あいつからの年賀状も途絶えてしまった。

  

  

  

  [newpage]

  

  

  5

  

  買い物をして家に帰った私は、ビールの缶を手にテレビを点けた。

  ちょうど、夜のニュースをやっているところだった。

  

  そこに、突然、見覚えのある虎獣人の写真のアップが出た。

  

  あいつの事に関する、続報だった。

  

  ――ああ、と私は思わず嘆息した。

  

  画面に映った懐かしい顔を見ていると、途端に胸が苦しくなった。堪えようと思ったが我慢できなかった。

  涙が一筋、私の頬を伝った。

  

  ――久しぶり。三年前は、本当に、ごめん。中学の時も、本当に、ごめん。

  

  変わらない。前会ったときのままだ。額の毛が乱れているせいで、せっかくの縞模様が汚く見える。中学時代、屋上で私を見つめていた茶色の目も、少年のようにくりくりと光っている。

  

  

  ただし、笑顔だけは、違った。

  へらへらした、あんな弱気な笑みではなく、満面の、誇らしそうな顔で笑っていた。

  

  

  ――見てるか、俺は、遂にやったぞ。

  

  

  テレビ越しに、そう言われているようだった。

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  『昨日打ち上げられたスペースシャトルは、本日15時ごろに国際宇宙ステーションとのドッキングを成功させ――』

  

  

  

  

  

  

  

  ニュースキャスターが滑らかに原稿を読み上げる。虎が乗ったスペースシャトルは、無事に宇宙ステーションとドッキングしたらしい。

  あいつは、遂に夢を叶えて宇宙飛行士になったのだ。

  

  私は窓越しに、星空を見上げる。あいつは、今頃あそこのどこかにいるという。なんとも壮大な話ではないか。

  

  私も負けてはいられない。

  あいつが夢を叶えたように、私にも目標がある。それを達成しなくては、あいつに笑われてしまうような気がする。

  

  虎が地球に帰ってきたら、三年前にあいつの夢を否定したことを、謝らなくてはいけない。そして、許されるなら、一緒に飲みにでも行きたいものだ。

  

  あいつと、話したいことがたくさんある。

  

  

  

  

  

  私はビールをグラスに注ぎ、大事な旧友の成功に、一人祝杯を上げた。

  

  

  (了)