【二次創作】虎狐恋花 ~サクラマチ~

  彼──石隈悠仁(いしくまゆうじん)がその二人に出会ったのは、ある春の日のことだった。それはちょうど桜が散り、葉桜になり始めていた頃のことである。

  いや、正しくは出会ったわけではない。

  イシクマが勝手に二人のことを知っただけで、向こうはイシクマのことなど知らなかったはずだ。もっと正確に言うならば、イシクマはそのうち一人のことをそれより少し前から知っていたし、もう一人の方とちゃんとお互いに顔を認め合うのはもっとずっと後のことになる。

  とにかく、イシクマがその二人を一対の「セット」で認識したのはその春の日だったという話だ。

  最も、彼とその二人が互いの名前まで認識し合った時にはもう全ては取り返しがつかないことになっていて、あの結末はどう転んでも避けられないものだったのだけれど。

  だがあれから何年も経ってしまった今でも、イシクマは時々考えるのだ。

  …自分にはあの時もっと出来ることがあったのではないか、と…

  [chapter:虎狐恋花 ~サクラマチ~]

  とある町の駅の帰宅ラッシュの時間帯。上り列車も下り列車も混んでおり、大勢の人々と獣人たちがホームと駅舎、そして駅前の町並みを行き交う。

  その駅に今しがた到着したばかりの電車から、人ごみに紛れて一人の黒い毛並みの熊獣人が降りてきた。

  石隈 悠仁(いしくま ゆうじん)。

  青いマウンテンパーカを着た25歳の熊獣人である。ジッパーを一番上まで閉めたパーカに口元を隠した熊の両目は真っ赤に充血し、頭の黒い被毛はボサボサに乱れていた。

  それもそのはず、本日の彼は夜勤明け。さらに、そのまま朝からぶっつづけで夕方まで働かされていたものだから、自宅の最寄り駅で電車を降りた熊の青年はフラフラとしていた。

  一睡もせずにおよそ36時間の連続勤務である。どう考えても身体によくない。

  (…はぁ。さすがに、疲れたな)

  元々無口なイシクマはあまり感情を表に出す方ではなく、この時も胸の中だけで深々と溜め息をつく。ホームから上りエスカレーターに乗り込み横を見ると、壁にある窓ガラスに顰め面をした熊獣人の姿が映った。徹夜で風呂にも入れなかったせいで黒い毛並みは脂ぎっており、撫でつけても頭の被毛が逆立ってしまっていた。

  決して見栄えはよくないが仕方ない。自分の業界の多忙さを考えればこれくらいは当たり前。皆そうなのだ。

  良好とはいえない労働環境であったが、イシクマはそう考えて自分の現況には納得していた。それを覚悟の上で今の仕事に就いたのだから。

  とはいえ、イシクマはまだ社会人になってからやっと一年が経ったところである。しかもこの春から研修のために多忙な部署へと変更となったため、慣れない業務に手いっぱいになっていた。

  たとえ夜勤でなくても彼は疲れていたのである。

  (とにかく今日は早く帰って寝よう。飯を作るのもめんどくせえし、駅前で牛丼でも食ってくか…)

  などとイシクマが考え、エスカレーターを降りた時。

  「…お」

  見覚えのある人物が自分の数メートル前を歩いていることに気づいて、黒熊は小さく声を漏らした。

  イシクマの前の集団の中をのそのそと歩く大柄な人影。

  それは肥満気味の虎獣人だった。

  身長は190センチに近いだろうか。熊獣人の割に中肉中背のイシクマと違い、その虎は帰宅ラッシュの人ごみの中でも頭二つ分くらい飛び出て見えるくらいにデカい。そしてその身体は、高さだけでなく幅も厚みもある。学生時代にラグビーだか柔道だか相撲だかをやっていたのだろうか、筋肉質な厳つい身体にそのままむちっと脂肪がついてしまったというような、ずんぐりとした立派な体格…というよりは丸みがついてやや可愛らしい体型をした虎獣人だった。

  彼のことは何度かこの駅で見たことがあった。

  あの大虎、ただでさえデカくて目立つというのに、いつも上下揃いの色褪せたジャージに、草臥れたスニーカーというどう見てもオシャレとは言えない恰好なので、イシクマの中でも印象に残っていた。

  イシクマは不自然に見えないくらいの早足で人々を追い越し、ヒト二人分くらい空けて大虎の横に並んで歩く。

  自分より背の大きい虎の顔をそっと見上げると、不機嫌そうな仏頂面だった。イシクマがこの大虎を見かける時はいつもこの表情なので、これが彼のデフォルトなのかもしれない。

  そのおっさん然とした顔と中年太りのような体型から、イシクマは自分よりこの虎は年上なのだろうと思っていた。30代前半から半ばというところだろうか。

  (…こんばんわ、お疲れさんです)

  熊の青年は心の中だけで大虎に挨拶をする。

  相手の職業も名前も知らなかったが、イシクマにとって大虎の姿を見るのはちょっとした楽しみだった。

  虎という種族の持つ本来の勇猛そうなイメージとは全く違う丸っこい姿に、イシクマは勝手に親しみを感じていた。いつもむすっとしている顔もよくよく見ればその瞳は穏やかだし、丸みを帯びたずんぐりとした体型のせいか、定期をズボンのポケットから取り出すようなちょっとした仕草もマスコットキャラクターのような愛嬌があって、イシクマは彼と出会えるとなんとなく嬉しくなってしまうのだった。

  だがそんな熊の気持ちなど露知らず、肥満虎は改札を抜け、右手に曲がり階段を下りていく。駅を出るところまではイシクマと同じ方向なのだった

  少し遅れたイシクマは、大虎に続こうと小走りに階段を降りようとした。

  しかし。

  疲れていたせいか、踏み出した熊の右足はちょうど階段手前のところでつまずいてしまい、彼の身体は大きく泳いだ。

  「…あ。やべ」

  咄嗟に呟いた声は割と冷静だったが、前のめりになったイシクマの身体は止まってくれなかった。

  慌てて手すりを掴もうとした右手が空を切る。

  後ろに残っていた左足が地面から離れる。

  熊の身体は完全に空中に投げ出されてしまい、心臓が跳ね上がる。

  スローモーションのように、イシクマの身体は重力に引かれて顔から真っ逆さまになる。

  熊の青年の視界いっぱいに、前を歩くヒトの背中が迫る。

  それは色褪せたジャージを着ていて――

  次の瞬間、ジャージの裾が翻った。

  それを着ている人物がこちらを振り返ったのが見えた。

  「…おっと…」

  少し驚いたような低い声が聞えたかと思うと、イシクマはぼふん、という柔らかな感触と共に巨大なクッションに衝突していた。

  真っ暗な視界の中を星が飛ぶ。イシクマは、真っ先に突っ込んでしまった鼻を押さえつつ顔を上げた。

  「…大丈夫だったか?」

  そう言って熊の青年を見下ろしていたのは、先程の大虎だった。クッションだと思ったのは虎の丸い腹だったらしい。階段から落ちたイシクマを、振り向いた虎が咄嗟に受け止めてくれたようだ。

  成人の熊獣人であるイシクマの身体だって決して小さくはないはずなのに、大虎の身体は根が生えたようにその場から全く動いていなかった。

  「あ…。だ、大丈夫、です」

  見知らぬ大勢の前で階段から落ちかけ、さらにいつも自分が見るばかりだった虎に近くで見つめられているという状況にイシクマは頬が熱くなるのが分かった。彼は顔まで真っ黒い被毛で覆われているので、傍からは赤面していても分からなかったが。

  「それなら良かった。…まあ、気を付けてな」

  大虎はそれだけ言うと、イシクマに背を向けて階段を下りて行ってしまう。イシクマはまだ礼も言えていないというのに。

  「あ、あの」

  熊は呼びかけながらその後を追うが、驚いたせいか声が掠れて上手く声が出せない。

  ごほん、と咳ばらいを一つして、イシクマはもう少し大声を出そうとしたが…

  「──待たせたか?」

  「ううん!おかえり、ヒロ」

  駅をすぐ出たところで、大虎が誰かと話していることに気付き熊は足を止める。

  虎と話しているのは、すらりとした狐獣人の青年だ。

  それは美男子と言っていいほどに整った顔つきをした狐だった。被毛に艶があってイシクマより少し若いようだ。20代前半くらいだろうか。身に着けた浅葱色のシャツと色の薄い穿き古したジーンズは、取り立てて派手なわけではなかったが狐にはよく似合っていた。

  「夕飯、大根とジャガイモの味噌汁と、鱈の粕漬け、あとヒジキの煮物にしたけど、良い?」

  「お前が作る飯なら、何でも」

  狐の言葉に”ヒロ”と呼ばれた大虎が応じる。口調はぶっきらぼうだが、しかしその声に込められた暖かさに気付いて、イシクマはなぜかショックを受けた。

  大虎と狐はどちらともなく並んで歩き出す。

  その姿はまるで長年の親友のようにも、血のつながった家族のようにも見えた。種族も体格も全く違う二人だったが、並んで歩く後ろ姿はそれが当たり前だというように至極自然だった。

  イシクマはどうしてか動けなくてその場に立ち尽くす。

  二人を見送りながら。

  すると大虎も少し離れたところで足を止めて、傍らにある大木を見上げた。

  …それは駅前の一本桜である。

  この町の風物詩の一つで、花の咲く時期だけ光源で照らされて春の夜を彩ってくれる。だが、もうこの時期には花はほとんど散ってしまっておりライトアップも終わっていた。

  「…散ったな…」

  僅かに花を残し、葉桜となった木を見上げながら”ヒロ”がぽつりと呟く。

  少し先で足を止め、振り返った狐も桜を見上げる。

  イシクマは固まったようにその二人から目が離せなくて、桜と虎と狐の姿をぼんやりと眺めていた。

  「桜、あんまり好きじゃなかったんだっけ」

  狐が虎に尋ねる。

  「…ああ…」

  虎が低く応じる。

  「散るのが嫌なんだっけ?」

  「…たぶん、そういう事だと思う。…なんで、散るんだろうな…」

  少し黙ってから、頷きながら応えた”ヒロ”に、狐は少しだけ寂しそうな笑みを向けてこう返した。

  「ずっと咲きっぱなしも悪くはないけどね。散ってしまった寂しさを知る人は、次の花が咲いた時、凄く嬉しいんだよきっと。人も草木も星々も、変わらないものなんてない。散ってしまうからこそ、失われてしまうからこそ、変わっていってしまうからこそ、掛け替えのない、大切な今を惜しんで、慈しめるんだ」

  それを聞いて“ヒロ”はしばらく黙り込む。その言葉の意味を噛みしめるように。

  「花は咲き、そして散ってく…。そして、いつかまた咲くんだ。…恋と同じでねっ!」

  最後は悪戯っぽく微笑んだ狐を、大虎は笑みを浮かべて見つめた。

  その横顔にイシクマの心臓はまた跳ね上がる。だが今度は恐怖からではない。

  初めて見る大虎の笑顔は、穏やかで、優しくて、そしてまるで春のように暖かな笑みだった。いつもの仏頂面との落差に、イシクマは胸が締め付けられるように感じた。

  …何故だろう?

  “ヒロ”の笑顔を見上げた狐は、

  「お?珍しい顔…」

  と少し驚いたようだった。それを聞いた”ヒロ”も、一瞬驚いたように目を丸くすると、すぐにいつもの不機嫌そうな顔に戻った。

  「あ。ねぇねぇ、もっかい笑ってよ?今の顔で」

  「断る」

  「一回で良いから、ね?良い顔だったよヒロ?」

  「からかうな」

  照れ隠しなのか、足早に歩き出した大虎の後ろを狐の青年が追いかけていく。

  その姿は…とても幸せそうで。

  そう。

  それはとても、とても幸福に満ちた光景だったのだ。

  (…ああ、いいなあ…)

  残された熊は独り言ちる。

  あの二人が互いを好いているのは、今日初めて見ただけのイシクマでも分かった。それが友情か愛情かは分からないが、あの二人はお互いを大事に思っている。

  きっとこれから狐が夕食を作り、それを二人で食べるのだろう。

  そのことが、イシクマには堪らなく羨ましかった。

  …何故だか、身体が重い。

  徹夜明けということもあるが、それだけではない気がする。

  どうしてこんなに身体が…いや、胸が重いのだろう。

  (…やめた。考えてもしょうがねえ、帰ろう)

  頭を軽く振り、イシクマは駐輪場に向かおうと踵を返す。

  だが。

  突然、イシクマの目からぽろりと何かが落ちた。驚いてそっと指で触ると、自分の頬が濡れていることが分かった。

  落ちたのは。

  一筋の涙だった。

  ごしごしと目をこするが、一つ、また一つと涙ははらはらと出て来る。

  街中で涙を流す恥ずかしさに何度も瞬きをしながら、熊の青年は思い出す。

  (…恋と同じでねっ!)

  先ほど聞いたばかりの狐の言葉を。

  自分が大虎に抱いていた想いを。

  どうしてあの“ヒロ”を見かける度に嬉しい気持ちになっていたのかを。

  それらを併せて、熊の青年は一つの考えに行き当たる。

  (…もしかしたら、俺は失恋したのかもしれねえな…)

  と。

  [newpage]

  1.

  昔から、イシクマは自分でも自分が少し変わっている奴だと思っていた。

  小学生の頃、他の皆がハマったミニ四駆にもヨーヨーにもテレビゲームにも興味を持てなかった。

  中学生の頃、皆が夢中になっていた恋愛話にも興味が持てなかった。

  高校生の頃、皆が隠し読んでいたいかがわしい雑誌にも興味を持てなかった。

  だが、まさか自分が女性に興味が無いとは思っていなかった。

  そのことに彼が気付いたのは大学に入ってからである。それまで恋愛なんてものには全く興味が無かった彼であったが、それは単に自分が奥手だからだと思っていた。

  実際イシクマは無口で、不愛想で、顰め面がデフォルトである。そのせいで、本当にいつも機嫌が悪いわけでも無いのだが、そう勘違いされてしまうことが多かった。だからそれほど友人が多いわけでも無く、ましてや女子たちからは距離を置かれてしまうことが常だった。

  また、彼自身があまりそのことに危機感を持っておらず、

  (…ま、そのうちなんとかなんだろ)

  とおかしなところで楽天家のせいで、そのことを棚上げにしたまま彼は成長してしまったのであった。

  だからイシクマが大学時代に部活の先輩を…男の先輩を好きになってしまったときには、彼は非常に悩んだ。彼自身それが初恋であり、さらに困ったことにそれが同性だったのだから。そして散々悩んだ挙句に誰にも相談できず、何も行動を起こせず、先輩は卒業。

  イシクマは自動的に失恋し、恋愛にトラウマを抱えたまま彼は社会人になってしまった。

  (…だから俺は、あのヒロさんに片思いしていたことにも気付けなかったってわけだな…)

  翌日の職場での昼食時。

  空いた時間に食堂にやって来たイシクマは、独りでラーメンをすすりながらそんなことを考えていた。

  “ヒロ”と呼ばれた大虎のことは、社会人一年目の頃から何度か駅で見かけていた。彼と会うとなんとなく嬉しかったのも、気づくと彼を目で追っていたのも、全部自分が大虎を好きになっていたせいだと考えれば合点がいく。

  イシクマは鈍感すぎて、自分の大虎への気持ちにすら気付けていなかったわけだが。

  …そして、あの狐との会話を見て自分が落ち込んでいることもそれが理由だろうと思っていた。

  昨日の会話から察するに、狐の青年はヒロにいつも夕食を作ってやっているようだったし、それに応えるヒロの声にも友情だけとは思えない暖かさがあった。

  あの二人の会話の親密さにはただの友人とは思えない何かがあるように感じた。

  友人よりも、親友よりも、さらに親密な関係。

  …つまりは、あの二人は…

  イシクマは頭を振って、はあ、と溜め息をつく。

  (…なんで名前も知らねえ相手の人間関係を妄想してんだ俺は…。ストーカーじゃあるまいし…)

  そんなことを考えた黒熊が、はあ、と再び溜め息をついていると、

  「イシクマ君。キミの前って空いとる?」

  不意に名前を呼ばれた。

  イシクマが顔を上げると、今の部署の上司である中年の狸がどんぶりの乗ったお盆を手に立っていた。

  イシクマは、

  「お疲れ様です」

  と立って挨拶をしようとしたが、狸はそれを手で制した。

  「いや、ええでええで」

  狸は、羽織っていた白い上着を隣の椅子に掛けながらイシクマの正面に腰かけ、「…しかしイシクマ君、今日もえらい顰め顔しとるなァ?」

  とからかうような声を出した。

  「…前も言ったかもしれませんが、これが俺の通常の顔なわけで…」

  イシクマは憮然として答えるが、元々がムスッとしたような顔をしているので表面上はあまり変わらない。

  それを見て狸が笑い声を上げる。

  「だはは!おもろいよねキミ!くそ真面目でええキャラしとるよホンマ!」

  「…俺はちっとも面白くないですけど」

  「なははは!そういう真面目そ~な対応がおもろいねんて!」

  狸は声を上げて笑うが、対するイシクマはますます眉間に寄せる皺が深くなる。

  この中年狸はよくイシクマに声を掛けてくれるのだが、ぐいぐいと距離を縮めて来るのでイシクマは少し苦手だった。

  黙ってしまったイシクマにさすがに悪いと思ったのか、狸は笑いを引っ込めると真顔になった。

  「…ホンマ、イシクマ君はいっつも表情硬いねんなー。ボクらの仕事ってヒトを相手にしとる職業やし、時にはにっこり笑うんもとっても大事やで?ほら、すまいるすまーいる」

  狸は両手で自分の頬を持ち上げて、わざとらしくにこーっと笑う。

  「そう言われてましても…」

  イシクマは困った声を出すが、しかし表情はやはり顰め面のままである。

  口下手な熊は、昔から自分の感情を表に出すのが苦手だったし、作り笑いはもっと苦手だった。

  「…ふーん、なんやろね。まあキミ真面目やし優秀やからボクは好きやけど。そのコワーイお顔しとるせいで勘違いされてまうんがもったいないと思うんよねー」

  「はあ」

  「あれやなあ、イシクマくんも若いんやし恋人でも作ったらどや?なんや変わるかもしれんし。あれ?恋人、おったっけ?」

  「…いや、いないっすけど」

  「おー!やっぱそうなん?したらあれや、今度合コンでもしたろか?ボクの知り合いやからキミよりちっとばかし年上やけど!10歳か20歳くらい!なははは!」

  「…か、考えときます…」

  なんだか狸の話が妙な方向に進みそうだったので、イシクマはおもむろに席を立つ。

  「…すいません。午後の業務があるのでこれで失礼します」

  「おー!せやな、お互い忙しい身やからな!騒がしくしてごめんなイシクマ君!ほな~」

  狸がひらひらと手を振ってくれたので、イシクマは一礼して背を向けた。

  悪い人物ではないのはわかるのだが、あの明るさがどうにも合わなくて、イシクマはやはり狸が苦手だった。

  (…恋人、ね)

  食堂を出ながらイシクマは考える。

  自分も、皆と同じようにそのうち好きな人ができて、恋人ができて、結婚して、家庭を持つのだと漠然と思っていた。それが普通なのだと思っていた。だが、数年前にそうではないことに彼は気付いてしまった。

  自分は同性しか好きになれない。だから恋人なんて持てようはずがない。きっと自分は、ずっと独りでいるしかないのだろうと顰め面の熊は考えていた。

  だから、あのヒロという大虎に親近感を覚えたのもそれが関係している気がする。

  あの大虎は、まるで自分の服装に気を配っているようには見えず、駅で見かけるときはいつも独りだった。

  まるで誰も自分を気遣ってくれる人などいないかのように。

  仏頂面で独りぼっちの大虎は、顰め面をして独りぼっちの熊と…イシクマ自身と似ているように思えたのだ。だから惹かれたのかもしれない。自分と似た者同士に思えたから。

  だがそれは間違いだった。ヒロにはあの狐の青年がいたのだから。

  昨夜見た虎と狐の幸せそうな後ろ姿は、イシクマにとっての理想でもあった。

  はあ、とイシクマは小さくため息をつく。

  (…やっぱり、俺はあの二人を羨ましいと思っちまってるんだろうな…)

  エレベーターに乗り込んだ熊は、小さな箱の中で独り、こつん、と頭を壁にもたれかけた。

  *

  その後一週間くらいは駅で見かけた二人のことを引きずっていたイシクマだったが、次第に彼らのことは思い出さなくなっていった。

  新しく変わった部署での研修は多忙を極め、大虎と遭遇する時間帯に帰れることなど全く無かったし、何よりイシクマ自身が努めてあの二人のことを忘れようとしていたからだ。

  だから次に熊の青年が彼らを思い出したのは、それから一か月以上が経った後のことだった。

  ある週末の休日のこと。

  イシクマは駅前のスーパーへと買い出しに来ていた。

  片手に持ったカゴにぽいぽいと食材を放り込み、冷房の効いた店内を熊はのんびり歩く。

  (あと買うもんは…。えーっと、そういや卵を切らしてたよな…)

  空っぽに近い冷蔵庫のことを思い出しつつ、イシクマは目的の売り場に向かう。

  野菜や果物の並んだ青果コーナーを抜け、肉・魚売り場を歩いていると目的のものが置いてある棚が目に入った。

  (あ。1パックしかねえじゃねえか。あぶねえあぶねえ)

  ちょうど特売の日だったせいか、棚には10個入りのパックが一つしか残っていなかった。

  運が良かった。

  イシクマは内心で胸を撫で下ろしつつ最後の一つに手を伸ばそうとした。

  その時。

  「…お」

  「あっ」

  イシクマと反対側から、同時に黄金色の毛皮に包まれた腕が伸びてきていた。二つの手が卵のパックに触れる直前の宙で、互いに遠慮したように止まる。

  反射的にイシクマは手の主を見た。

  (えっ)

  目に入ったものに、イシクマは驚いて息を呑む。

  そこにいたのは、あの狐の青年だったのだ。

  「すみません。ちょうどタイミングが重なっちゃいましたね」

  狐は熊へにこやかに笑いかけてきた。

  イシクマは目を見開いて、ついまじまじと狐の顔を見つめてしまう。間違いなく、あの時大虎と一緒にいた狐だった。近くで見ると彼の美青年ぶりが余計に際立った。

  自分よりも小柄な狐の笑顔にイシクマは何故かどぎまぎしてしまって、くるりと踵を返した。

  「あっ。卵、いいんですか?」

  狐が驚いたように声を掛けてきたが、イシクマは振り向かず、

  「…俺は大丈夫。アンタが買っていい」

  とだけ言って足早にその場を後にした。咄嗟のことで何と言っていいかわからなかった。

  あの卵は、きっと狐の青年と大虎の二人の口に入ることになる。

  自分一人が食べるよりずっといい。

  そう考えたイシクマは会計を済ませ、すぐにスーパーを出た。なんだか、あの狐と顔を合わせたことが気恥ずかしかったのだ。

  その夜、熊はオムライスを作るつもりだったが予定を変更し、チキンライスだけ作って食べた。

  そしてそれからさらに一週間後のこと。

  食材を切らしたイシクマは、再び駅前のスーパーに来ていた。

  店内に入ってすぐにぐるりと辺りを見回してみるが、あの狐の青年の姿は見えない。それでよかったような、少し残念なようなそんな気持ちになる。

  熊の青年は拍子抜けして、ふしゅう、と鼻から息を吐き出す。

  別に狐がいたとしてもどうというわけでもない。あの狐の名前すら知らないのだし、同じスーパーで買い物しているというだけの他人同士である。特に身構える必要も無いのだ。

  前回出会えたのは本当に偶然だったのだろう。イシクマは頭を一つ振るとカゴを取り、いつも通りに買い物を始めた。

  (…野菜は独りだとなかなか使いきれなくてすぐダメにしちまうからな…そろそろ暑くなってくるし…保存がきくもの…)

  仕事であまり家にいないこともあり、自炊があまり得意ではないイシクマが眉間に皺を寄せながら冷凍食品を物色していると、

  「あの…」

  後ろから声を掛けられた。

  「ん」

  顰め面の熊は振り向き、思わず口をあんぐりと開いた。「…あ」

  今度は自分のすぐ後ろに、あの狐の青年が立っていたのだ。

  狐は不機嫌そうな顔で振り向いたイシクマに一瞬ぎょっとした顔をしたが、またすぐににこやかに笑うと、

  「よかった、また会えましたね。先日は卵を譲っていただいてありがとうございました。私、ずっとお礼が言いたくて」

  と言ってぺこりと頭を下げた。

  そんな普通の仕草さえ、美青年の狐が行うとまるでドラマか映画かのようにサマになっていて、熊の青年はまた鼓動が速くなるのを感じた。

  「…べ、別に大したことじゃない。気にしなくていい」

  イシクマは苦虫を噛み潰したような顔でそう応える。

  頬が熱くなるようだった。狐に会えて嬉しいのか嫌なのかそれさえもわからず。しかもお礼を言われて混乱した熊は、狐に対しどんな顔をしていいかわからなかった。

  だが狐はそんな熊の様子を特に気にもせず、肩から斜め掛けにしていたカバンから何かを取り出すと、それをイシクマに差し出す。

  「これ、受け取っていただけますか?私の手作りなんですけど」

  「え」

  イシクマが慌てて手を出すと、その上にぽん、と丁寧に包装された小袋が置かれた。

  狐の青年は嬉しそうにニッコリとする。

  「この前の卵で作ったパウンドケーキです。すごく上手く出来て友人にも喜んでもらえたので。お返しの、美味しさのおすそわけです」

  狐はそう言ってニシシ、と少し悪戯っ子そうな顔で笑った。

  イシクマは目を瞬かせる。

  ちょっと意外だった。

  狐がこんな子供っぽい顔で笑うとは思っていなかった。大人びた美青年としての狐も目を引いたが、少年のような狐の笑顔もまた眩しく見えた。

  「…あ、ありがとう」

  イシクマがかろうじて礼を言うと、狐は満足げに頷き、

  「昨日作ったばかりですけど、傷んでしまうといけないので早めに食べてくださいね!では!」

  と言い残し、颯爽とスーパーから出て行った。

  イシクマは呆けたようにその後ろ姿を見送る。

  何も買わずに出て行ったところを見ると、もしかすると狐はわざわざイシクマのことを探すためにスーパーに来ていたのかもしれなかった。前回と同じく週末に来れば会えるかもしれないと考えて。

  イシクマは頬を掻く。

  (…いい人、だな…)

  なんだか胸の辺りが暖かかった。あの狐の青年の朗らかさがまだ自分の周囲に残っているようにさえ感じられる。あの時、駅前で大虎が狐の青年に向けていた柔らかな笑顔の理由が分かった様な気がした。

  あの狐には、周りにいる人々を優しくさせるような不思議な魅力がある。

  イシクマは貰った小袋を大事そうに上着のポケットにしまうと、買い物を再開した。

  (“おすそわけ”か…)

  熊は店内を歩きながら、狐に言われた言葉を思う。

  (…今日はなんだか幸せな気持ちを分けてもらった気がする…)

  いつもイシクマの眉間に刻まれている皺がこの日は消えかけていたが、当の本人はそれに気づかなかった。

  

  その夜。

  食後のデザート代わりに食べた一欠片のパウンドケーキは、確かに美味しかった。生地に桜の花を混ぜてあるのか、かすかに香る桜の匂いが春を思い起こさせてくれた。

  そのおかげか、イシクマはそのまま暖かな気持ちで眠りにつくことが出来たのだった。

  (…あの二人の幸せが続けばいいな…)

  そんなことを想いながら。

  *

  それからも何度か、イシクマは街の中で大虎と狐の姿を見かけることがあった。

  大虎と同じ電車に乗り合わせて帰ってくることも何度かあった。

  そんな時、駅ではあの一本桜の下でいつも狐が出迎えていた。

  イシクマは、仲睦まじく帰る二人の姿を離れたところからそっと見送った。

  件のスーパーで狐を見かけることもあった。

  そんな時、狐の青年はあの大虎へ作る献立を考えているのか難しい顔をして食材を選んでいた。

  卵の一件以降狐と会話をすることは無かったが、そんな姿からも狐が大虎を想っていることがわかって、なんだかイシクマも優しい気持ちになった。

  その年のクリスマスの夜には、大通りの反対側を歩く二人の姿を見かけた。

  大虎は珍しくスーツ姿で、狐の青年は白いロングコートと赤いマフラーを身に着けていた。

  向こうはこちらに気付いている素振りも無く、イシクマはちらちらと横目で二人の姿を見ていた。

  (…ん?)

  スーツを着た“ヒロ”の尻尾に何かくっついているのが見えた。よく見れば、それは蝶々型に結ばれた赤いリボンであることが分かってイシクマはくすりと笑う。

  あの仏頂面の大虎には、あんな可愛らしいモノは似合っていなさすぎた。

  (ヒロさんが似合うと思って自分でやってんのか、それとも狐の彼が悪戯でやったのか…)

  どちらにしてもおかしくて、イシクマは二人の姿が見えなくなった後まで、くつくつと笑っていた。

  

  

  そしてまた季節は巡り、春。

  自転車を飛ばしていたイシクマは、桜並木の河川敷を歩く大虎と狐の姿を偶然見つけた。

  満開の桜の木々の下、狐はあの悪戯好きそうな顔で何かを話しかけ、大虎はいつもの仏頂面で返事をしている。

  狐が十喋る間に大虎は一言二言しか発していないようにも見えた。もしかしたら以前駅まで見かけた時のように、大虎は狐の青年にからかわれているのかもしれなかった。

  だが、大虎は…ヒロは、決して嫌そうではなかった。時折見える虎の横顔は、確かにあの時駅前で見た優しい笑顔と同じだったから。

  それに安心して、イシクマは虎と狐から視線を外し再び自転車を漕ぎ出した。

  イシクマは考える。

  あの二人を見て羨ましいという気持ちが無くなったわけではないが、初めて狐と大虎を認めた時に感じた胸の苦しさはいつの間にか無くなっていた。

  むしろ、幸せそうな彼らを見ていると自分も幸せになれるような気がする。

  あの二人は本当にお似合いだから、その姿をずっと眺めていたいとさえ思う。

  結局、自分は二人の本名さえ知らないが、あの二人と同じ町に住んで、こんな風に時折その姿を見かけて、きっとそれでいい。それで十分に幸せのおすそ分けを貰っている。

  あんな風にいつか自分も誰かと幸せになれる。

  彼らを見ているとそんな気さえしてくる。

  

  そんなことを考えた熊の青年は、桜の花びらが舞う中を自転車で走りながら、暖かな気持ちに包まれていたのだった。

  *

  …だが、その数か月後。

  イシクマは狐の青年の本名を、全く予期しなかった形で知ることになる。

  というのも、狐が彼の勤める職場へとやってきたからだった。

  熊の勤める職場、すなわち。

  ──彼が医者として働いている、病院へと。

  [newpage]

  2.

  「イシクマ先生、今の患者さんは帰宅でいいですか?」

  「…あ、はい。一本点滴を入れてもらったら、そのまま帰ってもらって大丈夫です」

  まだ梅雨が明けきらない頃のことだった。

  二年間の研修医生活も終わり、晴れて一人前の医者となったイシクマはその日は当番として新患外来に出ていた。

  新患、とは言葉そのままに新しい患者のことである。

  イシクマが研修医時代から勤めている総合病院は、地域でもそれなりの規模があり外来に来る患者はほぼ予約制に限られている。そうしなければ、押し寄せる患者でパンクしてしまうからだ。

  だが、開業医から紹介されてきた患者が連絡なしで来院することもあれば、具合が悪いので突然診てほしいと言う患者が来ることもある。明らかに病名がわかっていればそれに応じた専門科で診てもらうのだが、もちろんそうでない患者も多い。

  そんなまだ行き先の決まっていない患者を診療するのが、新患外来だった。

  そこへやって来るのは、予約制の外来と違ってどんな疾患を抱えているか分からない患者がほとんどだ。風邪だとか胃腸炎だとか非常に軽症の者から、肺炎や腸閉塞などの入院治療が必要な者、虫垂炎などの緊急で処置をしなければ生命に危険が及ぶ可能性がある者、また漠然とした苦しさだとか気怠さだとか、何の検査をしていいかわからないような訴えで来る者などなど、幅広い患者が受診するのである。

  患者一人一人に時間がかかり予定外の負荷がかかることもあるので、なかなか敬遠されがちな当番でもあるが、イシクマのような経験の浅い若手医師にとっては勉強の場でもあった。

  「…ふぅ」

  白衣を腕まくりしながらイシクマは小さくため息をつく。

  朝から診察を初めてそろそろ昼近く。十数人も診察するとなかなか疲れて来る。やってくる患者は大抵軽症のことが多いが、中には重大な疾患が隠れていることもあり、簡単には気が抜けない。

  もちろん、そもそもイシクマが口下手だということも疲労には関係しているのだが。

  (…初対面の人と話すっつーのは、何回やっても慣れねぇよな…)

  がりがりと頭を掻きつつ黒い毛並みの熊はパソコンへと向かい、前の患者のカルテをキーボードで打ち込む。先程まで診察室にいた人間の若い女性は、げえげえと派手に吐いてはいたが恐らくただの二日酔いだ。

  たまにはそんなとても病気とは呼べないような患者が来ることもある。手間ではあるが、重症の患者が来るよりはまあいい。

  「イシクマ先生、次の患者さんのことですけど」

  外来ブースの後ろから、猫獣人の看護師が顔を出す。

  「ん」

  イシクマが振り向くと、猫の看護師は患者から訊いた情報を記入したメモを、彼に向けて差し出す。

  「主訴は数か月前から続く倦怠感。特に血圧や脈拍に問題は無いです」

  「熱も?」

  「36.7度。平熱ですね」

  「ふーん」

  熊の医師は猫に渡された用紙に目を落とす。

  (…桜居 和成(さくらいかずなり)さん、ね…。27歳ってことは俺と同い年か…)

  倦怠感という症状はなかなか医者泣かせだ。それを症状とする疾患は多岐にわたる上に、通常検査では異常が指摘できない特殊な疾患も多く、診断に苦慮することもままあるからだ。逆に、単なる過労や睡眠不足だなんてこともある。

  何も異常はない、というのは簡単だがその証明は難しい。ある病院では異常なしと言われたが他の病院へ行ったら重大な疾患が発見された、なんていうのはよくある話だ。

  (ま、診察してから検査はおいおい考えるか)

  「…分かりました。じゃあ患者さんを呼んでください」

  イシクマは猫にそう言うと、顎まで下げていたマスクをくいっと上げて顔の下半分を覆う。医者と患者、双方の感染予防である。

  猫の看護師が待合室へと出ていく。

  「サクライさん、サクライさーん。五番の診察室へどうぞー」

  患者を呼び出す声を聴きながら、イシクマは用紙から読み取った事前情報をカルテへと打ちこんでいく。

  (主訴、倦怠感。既往、特になし。内服薬、市販の風邪薬。それから種族はっと…)

  病院において、患者の種族は非常に重要だ。

  人間と獣人ではかかる疾患が異なることもあるし、獣人の中でもある種族だけがかかる疾患なんてものもある。人間には問題ない食材や薬剤が獣人にはとんだ毒物だなんてこともある。もちろんその逆も然りだ。

  (…えーっと、種族は…、狐獣人…きつね…?)

  イシクマがそこまで打ち込んだところで診察室の引き戸が開かれる。

  「失礼します」

  耳に入ってきた声に、キーボードを打っていたイシクマの手が思わず止まる。

  それは聞き覚えのある爽やかな声だった。ここ数ヶ月は耳にしていなかったが、一度は目の前で発せられたこともあった声だ。

  間違えようも無かった。

  イシクマは確信を持ちながら、ぐるりと椅子を回して身体の向きを変える。

  その場に立っている若い獣人の顔を見上げた。

  …ああ、やっぱりか。

  イシクマは胸の内でそう呟く。

  「…初めまして。内科の石隈です。どうぞおかけください、桜居さん」

  「初めまして。よろしくお願いします、石隈先生」

  その患者は、あの大虎といつも一緒にいるところを見かける、狐の青年だったのだ。

  *

  「うーん…」

  「どうですか先生?」

  「…診察上は、はっきりした異常は無いですね…」

  狐の青年、サクライはイシクマのことを初対面の相手だと思っているようだった。スーパーでの卵の一件は一年近くも前のことである。忘れられていても仕方がないかもしれない。

  もっとも、その方がイシクマにとっては都合が良かった。

  (なんか、俺がコソコソ見ていたことはあんまり二人には知られたくねえし…)

  イシクマは狐と大虎の二人を見かける度に遠くから眺めていたが、いざ本人を目の前にすると何となく後ろめたさがある。自分もサクライのことを初対面だと思うことにした。

  一通り診察を終えたイシクマは、狐の身体所見をカルテに打ち込んでいく。

  顔面・頸部に異常なし、心音・呼吸音に異常なし、腹部所見に異常なし、四肢に異常なし、毛並みも正常、全身の皮膚に異常なし、エトセトラエトセトラ…。

  イシクマは詳細に診察したつもりだったが、サクライの身体には表面上の異常は見られなかった。どこかを痛がったり苦しがったりしているわけでも無い。

  熊は内心だけで首を捻る。

  (これじゃあ鑑別診断が絞れねえな…検査は何にすっか…)

  鑑別診断とは、同じような症状や特徴を持つ疾患のことである。患者の症状や病歴から思いつく限りこれを挙げ、それらを証明・否定するための検査をしていくのが診断の流れだ。だが、サクライの症状からは挙げられる鑑別診断が多すぎて、身体のどこを検査すればいいのかということが判断できない。

  サクライから詳しく話を訊いて、数ヶ月前から感じていた全身のだるさに加え、さらに前の春頃からなんとなく食欲が無いということも分かった。しかし、どちらにしても症状だけで疾患を絞り込むのは難しかった。

  (倦怠感と食欲不振だとどんな病気だってありなんだよな…。かといって風邪が長引いているにしてはちょっと長ぇし。うーん、どうすっかな。見た目からはそこまで重症とは思えねえから、とりあえず血液検査をやって…)

  悩んでいることを患者に悟られない様にイシクマはポーカーフェイスのつもりだが、その眉間には皺が寄っており、大層不機嫌そうである。

  だが丸椅子に座ってそれを眺めている狐は、特に気にもしていないようだった。

  「あ」

  イシクマはサクライに尋ね忘れていたことがあったことを思い出し、再度椅子ごと狐に向き直る。「…サクライさん。もう一ついいですか」

  「どうぞどうぞ。なんでも聞いてください」

  サクライが美男子であることは前から知っていたが、近くで見るとそれがより一層際立つ。本人に他意はないのだろうが、にこり、と狐の青年に何気なく笑い掛けられたイシクマは、ぞわぞわと背中の毛並みが逆立つような気がした。

  ちょっとした笑顔すら、もはや相手をドキリとさせる凶器である。イケメン恐るべし。

  ごほん、と一つ咳払いをして動揺を隠し、イシクマは尋ねる。

  「…身内の方で、何か特別な病気をされた方はいますか?」

  医者の定型句である。

  学生時代や研修医時代に”患者を診察したら必ず訊くこと”と教わってはいたが、家族性の疾患自体が珍しいので、特に何もない、という返答を貰うことがほとんどだった。もしくは、あっても診断に全くつながらない情報であったりして。

  だからこの時のイシクマも、お決まりの質問として尋ねただけのつもりだった。

  念のために聴いただけ。特に何でもない答えが返って来るだろうとそう予想して。

  だがサクライはこう言った。

  「両親が、BLVDです」

  一瞬、耳を疑った。

  「…え?」

  イシクマは目を丸くする。聞き間違いかと思った。

  思いたかった。

  「父も母もBLVD症候群でした。それで、17歳の時に父を、18歳の時に母を亡くしています。…身内の特別な病気っていったら、それくらいだと思います」

  イシクマはごくりと唾を飲み込む。

  喉が固まってしまった様な気がして、声が少し掠れた。

  「…そ、そうでしたか…。それは…、お気の毒に…」

  「いえ。もう昔のことですから」

  絞り出すようなイシクマの声に、返事をする狐の表情は変わらない。

  「…え、えっと…サクライさん、あの、一旦外でお待ちいただいてよろしいですか…?またすぐにお呼びしますので…」

  医師の申し出に、狐は少しだけ疑問を持ったような顔をしたがすぐにそれを打ち消し、

  「わかりました」

  と言って出て行った。

  サクライが出ていき扉が閉まったのを見届けたイシクマは、慌てたように診察室の裏にある本棚に向かった。

  (…BLVD症候群って、まさか…)

  分厚い医学書を取り出すと、索引で病名を探す。

  BLVD症候群…別名、獣因子限定発症型栄素枯渇症候群とも呼ばれるその病は、文字通りに獣人にのみ発症する。遺伝的要因によって発症するこの疾患には感染性は無い。

  初期症状は倦怠感、食欲不振。

  両親がBLVDだったというサクライには、第一に疑わなければいけない疾患だった。

  そして、一度発症したら…。

  国家試験の時に覚えた嫌な知識を思い出し、イシクマはぶんぶんと頭を振る。

  (いや、まだ決まったわけじゃねえ。まずは検査だ)

  医学書で診断のための検査項目を確認する。BLVD症候群であれば血液検査で分かるはずだ。ただし、そこまで頻度の高い疾患ではないことからどの病院でもすぐに出来る検査ではないので、結果が出るまでに一週間はかかる。

  「…サクライさん、もう一度お入りください」

  再度入室したサクライにイシクマは、まずは血液検査を行うこと、BLVD症候群の可能性があること、二週間後に予約を取るので再度受診してほしいことを告げる。

  狐の青年は黙ってそれを聞いていたが、診察室を出るまで特に表情は変わらず、イシクマには彼が何を考えているのかは分からなかった。

  

  *

  …そして二週間後。

  まだ梅雨は明けきらず、肌寒い日だった。窓の外でさああと霧雨が静かに降る中、サクライはイシクマの外来へやってきた。

  以前駅前で見かけた時に来ていた浅葱色のシャツと色の薄いジーンズに、灰色のカーディガンを羽織っている。その少し暗めの色彩が、狐の青年の顔に幾ばくかの影を落として見えた。

  少し表情が硬いのは緊張しているのかもしれない。

  だが、それはイシクマも同じことだった。

  今からサクライに言うことは、決して明るい話題ではなかった。

  「…単刀直入に言います」

  目の前に腰かけた狐の目を真っすぐと見て息を一つ吸い込むと、イシクマは静かに告げた。「サクライさん。…あなたも、BLVD症候群を発症しています」

  自分の語尾が震えたのが、彼自身にも分かった。

  BLVD症候群、すなわち獣因子限定発症型栄素枯渇症候群。

  倦怠感と食欲不振の初期症状で始まるこの疾患の本質は、その名の通り肉体が栄養を吸収する能力を失うことにあった。罹患者の身体からは一年ほどかけて徐々に栄養吸収能力が失われ、疲労感・倦怠感を自覚するようになる。

  食事の摂取だろうが点滴だろうが、あらゆる手段での外部からの栄養吸収が不可能となった身体は、飢餓状態に置かれたときと同じように自らを構成する部位を分解してエネルギーに変え始める。

  最初は脂肪、次に筋肉と分解していき患者はやせ衰えていく。

  そして、最優先で守らなければいけない部位…脳の機能を維持するために、他の臓器の分解を始める。肝臓も、腎臓も、循環器も、呼吸器も…。

  末期になると、発症した患者は多臓器不全による激しい苦痛を伴う発作を繰り返すようになる。発作の度に体力を消耗し、最終的には死に至る。

  発症後の致死率は100%。

  現時点での治療法は皆無。

  生きながら、枯れてゆく。

  BLVD症候群とは、そんな不治の病であった。

  イシクマも医学生時代にこの疾患の概要を学んではいたが、実際にその患者を目の前にするのは初めてだった。

  だが、それほど頻度の高くない疾患にも関わらず強くイシクマの印象に残っていたのは、その経過の悲惨さのせいだった。確立された治療法もなく、発症から一年程度で確実に死に至る病。しかも患者は最期まで意識を明瞭に保ったまま、恐ろしい発作を繰り返すのである。

  万が一自分がかかったら。

  家族がかかったら。

  友人がかかったら。

  そんな想像をすることすら躊躇われる、最悪の疾患の一つだった。

  

  だからイシクマは、告知に際してサクライがどんな反応をするか全く分からなかった。

  否定したり、怒り出したり、泣き出したり…。何が起きてもおかしくはない。血液検査の結果が黒であることが分かってからある程度のシミュレーションはしてきたが、結局はそれも気休めでしかない。

  だからイシクマは、固唾を飲んでサクライの反応を待った。

  だが…

  「…そうですか。やっぱり、ですね」

  サクライは少し困ったように溜め息をついて、残念そうに微笑んだだけだった。「…なんとなく、以前から覚悟はしていたんです。両親ともBLVDですからね。私だけ逃げられるなんて虫が良すぎるなあ、なんて」

  イシクマは前回と変わらぬサクライの声を聴いてホッとする。

  BLVD症候群の患者は、親族が同じ疾患にかかっていることが多いのである程度覚悟が出来ている者が多い、というのは数日前読んだ専門書に書いてあったことでもあった。

  おそらくサクライもそうだったのだろう。

  だが、それはそれで痛ましいことでもあった。

  10代の頃から自分が若くして死ぬことを覚悟していたなど…。

  サクライの胸中を想うと、イシクマの胸も潰れそうだった。しかし自分は医者なのだ。一緒に悲しんでいるわけにもいかない。

  イシクマは歯を食いしばると狐の青年に向き直る。

  「それでサクライさん。ご存知かとは思いますが、BLVD症候群という疾患は…」

  BLVDについての詳しい説明をしようとして、だがそこで目にしたものにイシクマの言葉が思わず止まる。

  狐の青年の瞳から、つう、と涙が落ちていた。

  泣き声も上げず、取り乱しもせず、狐は静かに涙をこぼしていた。真っすぐにイシクマのことを見据えて。

  その姿に、イシクマは心臓を鷲掴みにされたような気がした。

  胸が詰まって、苦しかった。

  自分もじわりと泣きそうになり、イシクマは俯く。

  「…イシクマ先生、教えてください」

  サクライは静かに尋ねる。「…私は、あとどれくらい生きられますか?」

  当然の質問だった。

  BLVD症候群は、発症から一年程度で死に至るというのが通常である。サクライは同じ疾患の両親を見送っているのだから、そのことも知っている筈だった。

  イシクマは強く目を瞑り、気持ちを奮い立たせると顔を上げて再度サクライの顔を見る。

  静かに涙を流す狐の青年の顔は、ひどく、ひどく美しかった。

  イシクマは、その顔を脳裏に焼き付けるように見つめると、静かに口を開いた…。

  *

  サクライが帰った後、イシクマは独りで昼食を摂りながら雨の降る景色をぼんやりと眺めていた。

  本来ならば、あの狐の青年はなるべく早く入院をさせなければいけなかった。

  (自分には、サクライさんと同じ疾患にかかった患者さんたちの平均値での話しか出来ませんが)

  (それで結構です)

  (…恐らく、ですが。来年の3月から4月と思われます)

  (…私の寿命はあと9ヶ月か10ヶ月くらいってことですね)

  サクライの血液検査の結果は、軽度ではあるものの肝臓・腎臓の数値に異常が出ていた。臓器障害が起き始めているのである。倦怠感や食欲不振の症状があることを考えても、入院治療が妥当だった。

  (…それでサクライさん、今後の治療のお話ですが。なるべく早めに入院していただい)

  (先生。申し訳ありませんが、私は入院をしません)

  (えっ)

  (だって先生、入院して何かできることがあるんですか?私に治る見込みがありますか?)

  (…それは…)

  無い。

  BLVD症候群に治療法は存在しない。せいぜい安静にして、体力の消耗を抑えて、少しでも身体の負担を減らすことしか。そしてそれを行ったとしても本当に生存期間が延長されるのかすらも分かっていない。

  入院することに果たして意味があるのかさえも。

  (私は、動けなくなるまでは普通の生活をしたいんです。入院して、ベッドの上でお迎えを待つだけなんて、私には耐えられません)

  (……)

  (お願いです、先生)

  BLVD症候群の患者にはそうした希望を持つ者が多いことも、イシクマは勉強して知っていた。

  どちらにしても死が避けられないならば、少しでも自分の好きなことをしていたいと、自宅で家族と過ごしたいのだと、そう希望して。

  イシクマに、これを拒否する理由は無かった。

  (…わかりました。では、サクライさんのご家族にも自分からお話をさせていただきたいのですが…)

  (私には家族はいません。親族もいません。天涯孤独なんです)

  (それならご親族じゃなくても構いません。親しい友人の方とか恋人とか…)

  (残念ながら、そうした相手もいないんです。…お恥ずかしいんですが)

  嘘だ、とイシクマは思った。

  少なくともあの大虎には…ヒロには話しておくべきだろうと思った。彼はサクライにとって単なる友人なんかじゃないだろうと、そんな浅い関係ではないだろうと。

  彼は、サクライの家族も同然だろうと。

  だがあの時、その場で許される程度に困った様な笑みを作った狐の顔を思い出す。

  …言いたくなかったんだろうな、と思う。

  ヒロには伝えられないと思ったんだろうな、と思う。

  大事だからこそ。

  何も心配をかけずに、気を遣われずに、共に最期を過ごしたいからこそ。

  サクライはヒロに何も言わないし、言えないのだろう。

  そしてイシクマにはそれを嘘だと糾弾する資格も、度胸も、理由も無かった。

  (…わかりました。では、申し訳ありませんがこちらにサインを頂きたいのですが…)

  サクライにサインをして貰った一枚の紙きれ。

  要は、「私は医師の入院の勧めを断って帰宅するが、これで生命に危険が及んでも医師や病院の責任を問いません」という内容だ。

  狐の青年は迷うことなくそれに記名し、最後にイシクマに丁寧に礼を言うと帰って行った。

  (…俺、一体何やってんだろうな…)

  自分が出来たのは不治の病を抱えた患者からこんな紙切れにサインを貰って、自分の責任逃れをしただけじゃないだろうか。

  何の治療も出来ずに。

  何の慰めにもならずに。

  そう考えて、イシクマは強い無力感に囚われていた。

  「…お、イシクマ先生や!これまた今日もエライしんどそうな顔しとるね~。なんかあったん?」

  明るい声で呼ばれたので振り向くと、食堂の入り口で狸の上司が、よっという調子で片手を上げていた。

  「…お疲れ様です…」

  狸はイシクマが研修医の頃は君づけで呼んでいたが、三年目の医師となってからは先生と呼んでくれるようになっていた。狸なりに、イシクマを一人前の医者として扱ってくれているのかもしれない。

  それでも、イシクマが狸を苦手としていることに変わりは無かったが。

  「いや…別になんでもないっす」

  「さっきのBLVD症候群の狐クンのことやないん?」

  言葉を濁そうとしたイシクマだったが、狸がいきなり核心を突いてきたので目を見開いて狸を見上げた。

  「おっ、そんな顔もできるんやねイシクマ先生っ。初めて見たわ~おめめパッチリでごっつかわええや~ん」

  「…茶化さないでください。何で知ってるんですか」

  狸は羽織っていた白衣を隣の椅子に掛けて、イシクマの正面に座る。

  「や、そりゃボクってキミの上司やし。キミ、最近BLVDについてめっちゃ調べとったでしょ?論文が机の上に置いてあったん見たで~」

  この狸、どうにも抜け目がない。イシクマは観念した。

  「…調べてました」

  「んで、ボクが検査室うろうろしとったら、検査技師さんから最近キミがBLVDの検査を出したって聞いたもんやから。あとはカルテ見たら大体分かったわ。ボク、今日はキミの横の部屋で外来やっとったから、狐クンにしとった話も大体聞こえとったし」

  「……」

  「水臭いやんか~。無理せんと、おじさんにちぃっとくらい相談してくれても良かったんやで~?」

  ぐぅの音も出ない。イシクマは別に隠していたつもりは無かったが、サクライの件を自分一人で解決しようとしたのは確かだった。

  「…俺、相談した方が良かったでしょうか。…間違ったことをしてしまったでしょうか」

  若手の自分よりも、この狸のようなもっと経験豊かな医師からサクライへ話をしてもらうべきだったろうか。それは、先程からイシクマが後悔していたことでもあった。

  だがイシクマの問いに、狸はゆっくりとかぶりを振る。

  「いんや、キミの対応はちっとも間違ってへんかったよ。多分ボクが出てっても狐クンは同じこと言うたんやないかなァ。彼、すごいしっかりしてそうやし、あの考えも昨日今日思いついたっちゅーよりは前々から考えとったことやと思うで。BLVDを発症しても自分は絶対入院せえへん、ってな」

  狸の言葉にイシクマは頷く。

  「…自分も、そんな気がします」

  サクライは、いつかこうなることを覚悟していたのだと言った。

  だから、入院しないということもサクライは以前から考えていたことなのだろうと思う。であれば、それを止める術も理由もやはりイシクマには全く無かった。

  BLVD症候群に有効な治療法が無い以上、入院が彼のためになるとはとてもいえない。

  「でもイシクマ先生、キミはそれに納得しとらん。自分は狐クンに何も出来んかった、何もしてやれんかったと思っとる。それでそんな暗ーい顔しとる。…そんなとこやろ?」

  「…そうです」

  イシクマは狸の鋭い推察に舌を巻く。

  普段はちゃらんぽらんなことばかり言っているように思っていたが、伊達に二十年以上も医者をやっていない。

  イシクマは、眉間の皺をさらに深くして低く唸る。

  「…俺って、そんな分かりやすいですか?」

  「いーや?キミやなくてこの状況が分かりやすいだけやで。イシクマ先生って、若い頃のボクによく似とるしね」

  狸はそう言ってニコッと笑う。

  最後の一言に関しては甚だ不本意だったが、その他の狸の発言は的を射ているのでイシクマは何も言えなかった。

  熊と狸の二人は、しばらく黙ったまま食事を続けたが、

  「…俺は、どうするべきだと思いますか?」

  イシクマの言葉で狸は考える。

  いや、恐らく考えるふりをした。

  狸はイシクマにこれを言うために来てくれたのだろうから。きっと初めから言うことは決まっていたのだ。

  「…狐クンな、またうちに来るで」

  「え」

  「それがいつかはわからんけど、絶対また来る。BLVDはどっかで臓器不全の発作を起こすからな。もしかしたら救急車で来るかもしれん。そうなったらもう緊急入院や。可哀想やけど、発作が起きたら自宅で過ごすんはもう無理やろうから」

  狸の言葉にイシクマは頷く。

  個人差はあるが、通常の経過のBLVD症候群であれば臓器障害を認めてから数か月で発作が出現するようになるはずだった。だが、それがいつ起こるかは誰にもわからない。

  「せやからねイシクマ先生、そん時に自分が狐クンに何を出来るかそれを考えとき。キミのお仕事って一体なんやろね?それが大事やで」

  そう言うと狸は立ち上がり、ぽん、とイシクマの肩に手を置いて去って行った。

  (…俺に、出来ること…?)

  霧雨で白くけぶる町を眺めつつ、取り残されたイシクマは自問する。

  (…俺の仕事は、医者だ…)

  夕方の駅前、一本桜の下で待ち合わせをしていた二人が想い浮かぶ。

  仏頂面で太った大虎と、それとは対照的ににこやかに笑う細身の狐。

  少し離れたところから何度も見てきた光景。

  それが、もう少しで見られなくなるかもしれない。

  永遠に失われてしまうかもしれない。

  イシクマは腹を括る。

  (…だったら、俺がサクライさんを治すしかねえだろうが…!)

  *

  まずイシクマは、BLVD症候群について専門的に研究している機関を探した。そうした研究機関は、小さいものも含めれば国内に数カ所。

  だがそこで行われているのは「研究」であって「治療」ではなかった。あくまでも国内の少数の症例データを集めているだけで、画期的な治療法が開発されているわけではないのである。少なくとも、今はまだ。

  イシクマは該当する研究機関の者と何度かメールでやり取りを行い、最終的にはその施設の責任者と名乗る者とも電話で話もしたが、結局BLVD症候群の治療に関して有益な情報は得られなかった。

  しかも、ある機関の責任者は電話口で「そのサクライという症例のデータが是非欲しいので、亡くなるまでの詳細な経過を送ってほしい」と言ってきた。

  腹が立ったイシクマは

  「まだこれから治療するんだよ!」

  と吼えて電話を叩き切ってやった。

  それと同時進行で、BLVD症候群に関連する論文をひたすらに読み漁った。

  BLVD症候群の症例報告、いくつかの症例の比較検討、食事療法に新薬の研究…。

  だが、やはりあまり芳しい成果は得られなかった。

  分かったのは、BLVD症候群は世界中でも絶対的に症例数が少ないせいで研究があまり進んでいないこと、栄養吸収能力低下の根本的な原因は判明していないこと、そのせいで治療法の開発がほとんど進んでいないこと…。

  要は、安静にしておく、ということ以外に気休め程度の治療法も存在してないということだった。

  発症から一年以上生存した症例報告もいくつか見つけたが、そのどれもが小児期発症の症例だった。子供は成長中であるが故に細胞分裂も頻繁に行われている。そのため機能不全に陥った細胞が次々と新しいものに入れ替わり、疾患の進行が大幅に抑えられるのではないか、という仮説もあった。

  …だがその子供たちも、成人まで生存した症例は一つも無かった。

  成長に従い身体の成長が穏やかになると、病の進行が細胞の入れ替わりを上回ってしまうからだ。そうなれば、結局は成人症例と同じ道を辿る。

  決して逃げきれない死神のような不治の病。

  それがBLVD症候群だった。

  イシクマは頭を抱えた。

  しかし、イシクマもBLVD症候群のことばかりを調べているわけにもいかない。

  サクライ以外の別の患者たちが毎日のように入院してくるし、もちろん予約外来だって新患外来だってある。重症の患者の担当になれば通常業務が深夜に及ぶこともあるし、夜勤で徹夜をしなければならない日もある。

  時間が足りない。いくらあっても足りない。

  めぼしい国内の施設を当たっているうちに、いつの間にか暦は夏から秋へと変わっていた。

  その間にも、イシクマは何度かあの二人の姿を街中で目にした。

  駅前を連れ立って歩く大虎と狐を見かけることもあれば、イシクマが早く帰れた時にはサクライが桜の木の下のベンチに腰掛けてヒロを待っているのを見つけることもあった。

  土砂降りの日も、猛暑の日も、少し肌寒くなってきた日も、サクライはヒロを待っていた。

  その姿は、傍目には健康そうな細身の普通の狐の青年にしか見えない。

  だが毎日顔を合わせているわけではなく、期間を少しずつ空けて見ているイシクマには分かってしまった。ほんの少しずつではあるが、狐の青年が痩せてきていることに…。

  ゆっくりと、しかし着実にBLVD症候群はサクライの身体を蝕んでいる。時間は残りわずかである。一度発作が起これば、おそらくそこから数か月でサクライは死に至る。

  (早く、早くなんとかしねえと…!)

  彼らの姿を見るたびにイシクマは決意を新たにするが、それでもBLVDの治療に関して芳しい成果は全く得られなかった。

  …そして、結局。

  国内ではサクライの治療を行うことは不可能である。

  めぼしい施設の全てと連絡を取り終えたイシクマがそう結論付けた時には、季節は既に冬の初めの12月。

  サクライのBLVD症候群の確定診断から半年が経過しようとしていた。

  *

  イシクマが夜勤の当番に入ったとある夜。

  その日は救急外来を訪れる患者はほとんどおらず、救急車も夕方から一台も来ず。冬にしては珍しく落ち着いた日だった。

  イシクマは自分の机でメールの返信を確認していた。

  それは海外の研究機関に当てたメールである。そこではBLVD症候群についての研究が国内より遥かに進んでおり、新薬の開発はもちろんのこと既に治験まで開始されているという話だった。

  その新薬は国内では未認可であり、もしその治療を受けるならば海外へ行かなければいけない。しかもそれで治るかどうかの保障は無い。

  だが、イシクマが見つけた唯一の希望だった。

  (もしこの研究機関が受け入れてくれれば、の話だけど。サクライさんをここに行かせるしかもう方法がねえ…)

  十二月が始まってすぐ、返信が無かったのでさらにその一週間後、二週間後と、計三回も「こちらのBLVD症候群の患者をそちらへ送るから、新薬を用いた治療をお願いできないか」という旨のメールを送っていたが、当該機関からの返信はまだ無かった。

  (くそっ…さすがに遅いよな…。まさか俺の英語が間違ってたとかじゃねえよな…?)

  あまりに返事が来ないために、そんなことすら不安になってしまって、イシクマは送信済みメールを何度も読み返してみたりもした。

  そうこうしているうちに十二月も後半に入ってしまった。あと二週間もすれば新年がやって来る。半年前にサクライに告げたデッドラインまで、あとたったの三、四ヶ月ということになってしまう。

  イシクマ自身も行き詰まっていた。

  もしこの海外のBLVD研究機関から色よい返事が来なければ手詰まりになる。そうすれば、サクライに対して自分は何も出来ないまま、彼は…。

  嫌な想像をしてしまい、それを振り払うように熊の医師は頭をぶんぶんと振った。

  (…よくねえ、よくねえぞ。…さすがに疲れてる気がする。頭を冷やして来るか…)

  イシクマは自分のデスクから席を立つと、病院の玄関に向かう。

  暖房が効いた室内に一日中いたので、頭がぼーっとしているようだ。コーヒーでも飲みながら外の冷気に当たろうかと思ったのだ。

  途中の自販機で缶コーヒーを買い、正面玄関を出た。冬の夜の寒さにぶるりと身体を震わせつつ、そこで目に入ったものにイシクマは思わず空を見上げる。

  病院前の空を、ひらり、ひらりと、細かい雪が舞っていた。

  道路や植え込みが薄く雪化粧をされているところから見ると、昼間から少しずつ降っていたようだ。

  (いつの間に…。ちっとも知らなかった…)

  イシクマがほぅ、と溜め息をつくと、白くなった息は灰色の空に消えていく。雪は静かに降るせいか、日中は全く気付かなかった。

  この町に、この冬初めての雪が舞い降りたのだった。

  イシクマは片手を白衣のポケットに突っ込み、もう一方の手で、ずず、とホットコーヒーを啜りながらはらはらと降ってくる雪を眺めた。

  こうしてぼんやりと見ていると、まるで季節はずれの桜の花びらが舞い降りて来るような錯覚を覚える。

  (…桜、か…)

  春に咲く小さな薄桃色の花のことを思い浮かべると、どうしてもあの大虎と狐の二人が浮かんでくる。

  出会った時の印象がよほど強かったらしい。

  「桜は散ってしまうからあまり好きではない」と不機嫌そうに言ったヒロと、「散ってしまうからこそかけがえのない今を慈しめるのだ」と応えたサクライの笑顔の印象が。

  (…“散ってしまうからこそ、今を、慈しむ”…)

  ふと思い出した狐の青年の言葉に、やはりサクライは自分が病魔に侵されることを覚悟していたのではないかという不吉なものを感じて、イシクマはぶるりと震えた。

  そんなこと、絶対にさせない。

  散らせるわけには、絶対にいかない。

  サクライの命を。

  (…戻るか)

  冷気に当たって頭はしゃきっとしてきたが、身体も少し冷えてきたようだ。

  うーん、と熊の医師は伸びを一つして、白衣を翻して病院の中に戻ろうとしたところで…

  ぴぴぴぴぴ

  白衣の胸ポケットに入れたPHSがけたたましく鳴り出した。

  イシクマは思わず空を仰ぐ。

  救急車が、やって来る。

  *

  「…患者は27歳男性、狐獣人です」

  PHSから聞こえてきた救急隊の低い声に、イシクマは目を閉じる。

  「…名前はサクライ、カズナリ。バイタルは…」

  なんとなく予感はしていた。時期的にはもう少し早くてもよかったくらいだ。

  ああ、ついに来たか。

  イシクマはそう思った。

  「…特に既往は無く、詳細は不明ですが6月にそちらの病院へかかっていたようです。友人の方が付き添ってくれています」

  「…わかりました、おそらく自分が担当していた患者さんです。すぐ搬送してください」

  「ありがとうございます。15分で到着予定です」

  PHSが切れる直前、救急隊の向こう側で別の声が聞こえた。

  必死に呼びかけるその太い声に、聞き覚えがあった。

  (…無理に喋るな、安静にしてろ…!)

  間違いなく、あの大虎の…ヒロの声だった。

  ヒロが救急車に同乗して、サクライに呼びかけている。

  イシクマは目を見開く。

  視界に映るのは、桜の花びらのように舞い散る粉雪。

  (散るのが嫌なんだっけ?)

  (…たぶん、そういう事だと思う。…なんで、散るんだろうな…)

  脳裏をよぎるのは、大虎と狐の姿。

  (…キミのお仕事って一体何やろね?)

  耳の奥に響くのは、半年前に狸の上司に言われた言葉。

  …俺がやることなんて、一つしかねえだろうが。

  サクライを、なんとしても治療する。

  今のイシクマがやるべきことは、出来ることは、それだけしかなかった。

  [newpage]

  3.

  「先生、救急車来ました!」

  看護師の声が飛ぶ。

  搬送されてきたサクライはストレッチャー上で横になったままイシクマの顔を見ると、

  「…すみません…、イシクマ先生…」

  と苦しそうに息を荒げながら言った。

  その姿に、イシクマはまた胸が詰まる様な苦しさを覚えたが、すぐにそれを振り払う。

  「…謝る必要なんかありません。サクライさん、また来ると思っていましたから。大丈夫」

  安心させるつもりでそう声を掛け、すぐに処置を始める。

  看護師が手早くバイタルをとるのと同時進行で、自分はサクライの右腕に点滴のための針を留置し、同時に採血を行う。

  サクライがBLVD症候群であることは既に診断がついており、今回の症状も多臓器不全による発作がまず疑われたが、イシクマはそれ以外の疾患の否定のために採血に加えて心電図にレントゲンと次々に検査を行っていく。

  同時に鎮痛薬・鎮静薬を点滴から流し始め、サクライの苦痛を取ってやる。

  この日のために、イシクマはBLVD症候群の発作へ有効な薬剤の組み合わせを何通りか頭の中に叩きこんでいた。おかげで薬剤の選択にまごつくことなく、看護師に指示を出すことができた。

  病院へ到着してから30分も経つ頃には、薬が効いてきたのか次第にサクライの表情も落ち着いてきた。

  その頃になると検査の結果も出揃いそろい始めた。報告された血液検査の結果は、サクライの病状の進行を示すものだった。肝機能や腎機能が軒並み悪くなっている。たとえBLVD症候群でなくても、緊急入院を勧めなければならないくらいには、悪い。

  やはりこのまま入院させなければ。

  「サクライさん」

  イシクマは、救急のベッドで横になり瞼を閉じているサクライに話しかけた。

  「…イシクマ先生…」

  ゆっくりと目を開いたサクライの声に力は無かったが、搬送直後と比べれば表情はずっと穏やかだった。「ありがとうございます…、だいぶ身体が楽になりました…」

  イシクマは頷く。

  BLVD症候群について勉強した甲斐があった。投与した鎮痛薬がよく効いているようだった。

  「サクライさん。…今回の症状はBLVD症候群の発作と思われます」

  熊医師の言葉に、今度はサクライが静かに頷く番だった。

  狐の瞳は、6月の告知の時と同じように真っすぐ熊のことを見つめていた。もうその覚悟はできていた、とでも言うかのように。

  「…やっぱり、ですね…」

  サクライは、またあの時と同じように少し困ったような顔で残念そうに微笑む。だが6月の時とは違って、その声にはまるで力が無かった。

  半年前のまだ元気だったサクライの姿が脳裏をよぎり、イシクマは思い出した苦しさに奥歯を噛み締めるが、しかしそれを押し殺して言葉を続ける。

  「サクライさん。今回はこのまま入院が必要です。今夜、家に帰るのは非常に難しいと思います」

  (…今夜だけでなく、おそらく今後も)

  頭の中に浮かんでしまったその言葉も、イシクマは頭の片隅に追いやる。

  「…はい」

  今度はサクライも入院を拒みはしなかった。

  狐の青年は観念したように一度目を閉じ、ふぅ、と小さく息を吐くと、またイシクマの顔を見た。「…イシクマ先生。申し訳ないのですが、外で待っているヒ…寅(とら)という私の友人に病状を説明していただけないでしょうか」

  おそらくヒロ、と呼ぼうとしたのだろう。サクライはあの大虎のことをトラと名字で呼び直した。そのことがサクライとヒロの親密さを暗に示しているように思えて、一瞬イシクマの胸がちくりとしたが、そんな感情にもイシクマは蓋をして、

  「…わかりました」

  と頷いた。

  *

  虫の知らせ、というものかもしれない。

  サクライのいる救急室を後にし、ヒロが待っている家族待合室に向かおうとしたところでイシクマは、ふとメールのことを思い出した。例の、国外にあるBLVD症候群の治験を行っている研究機関からの返事次第では、ヒロへと話す内容は大きく変わって来る。

  もしかしたら、明日にでも国外の大病院へ転院という話も出来るかもしれない。

  念のため見ておいた方がいいだろう、と思った。

  (ヒロさんに話す前に一応確認しておくか…)

  さっと見てくればそれほど待たせることも無いだろう。

  イシクマが急ぎ足で医師の詰め所にある自分のパソコンに向かい、点けっぱなしの画面を覗くと、ほんの三十分ほど前に新着メールが届いたところだった。

  送り主を見れば例の研究機関の主任の名が英語で記されている。

  イシクマはごくりと喉を鳴らした。

  待ちに待ったメールが届いていた。それもサクライが救急搬送されるのとほぼ同時に。

  さすがに運命のようなものを感じずにはいられなかった。

  (これで、サクライさんを向こうの病院に受け入れてもらえれば…!)

  ぎりぎりのところで首の皮一枚つながったことになる。

  そう考えて胸を撫で下ろし、イシクマは震える指でメールをクリックした。

  だが。

  「え…」

  “died”。

  イシクマの目に真っ先に飛び込んできたのはその単語だった。

  すなわち“死”。

  イシクマは愕然としながらメールから単語を拾っていく。

  死亡。事故。

  新薬。副作用。

  予期せぬ事態。

  昏睡。重体。臓器不全。

  そして…

  「“副作用のために治験は中止”だと…?は…?嘘だろ…?」

  メールの後半には、今回の治験で起きた数々の副作用の詳細と得られた成果、そして今後の研究の展望が記載されていたが、イシクマにはもう読む気にはなれなかった。

  “非常に残念だが、貴方から相談されたBLVD症候群の患者を引き取ることは出来なくなった。力になれず申し訳ない。”

  最後に記されたその一文だけが分かれば十分だった。

  イシクマは目の前が真っ暗になった様な気がして、机に向かって頭を抱える。

  (…そんなことってねえだろ…。一体どうしたらいいんだよ…)

  一瞬見えたと思った光明は、あっという間に消え去ってしまった。

  もう、もう何も考えたくなかった。

  BLVD症候群の治療法はもう何も無い。

  BLVD症候群を治療することはできない。

  つまり。

  サクライは助けられない。

  助けられない。

  助けられない。

  助けられない…。

  今イシクマは、決して避けることのできない現実を突きつけられていた。

  …どれくらい時間が経ったろうか。

  ぴぴぴぴ、とPHSが鳴る音でイシクマはハッとした。

  時計を確認すると15分ほど経過している。いつの間にか気絶するように眠ってしまっていたらしい。

  慌てて通話ボタンを押すと、相手は救急部の看護師だった。サクライを先に病棟に上げたので、付き添いの友人への説明はそこで話してほしいとの連絡である。

  「…はい…、わかりました…」

  イシクマは、重い身体を引きずるようにしてのろのろと立ち上がる。

  サクライの付き添いの大虎…ヒロに、一体何を話せばいいのかもわからぬまま。

  *

  病棟の乳白色のリノリウムの床を歩いて行くと、くぐもった怒鳴り声が聞こえてきてイシクマは足を止めた。

  視線の先には、「桜居和成(さくらいかずなり)様」と記されたプレートのついた病室の扉がある。

  サクライの部屋だった。

  「…お前は…無い!ちっとも…なんか…!俺だって…だ…!」

  扉の内側から、絞り出すように発せられたその低い声には聞き覚えがあった。

  ヒロだ。

  あの大虎が、この部屋の中でサクライに必死に呼びかけている。訴えかけている。

  もしかしたら泣いているのかもしれなかった。そう思えるほど、ヒロの声は感情的だった。

  少し経って、サクライの声も小さく響いてきた。

  …ヒロ、ごめんね、と。そして、ありがとう、と言っているように聞こえた。こちらもまた泣いているような声で。

  とても聞いていられなかった。

  イシクマの視界もジワリと歪んだ。

  熊は白衣の袖でごしごしと目の周りを拭うと、一旦病室の前を離れる。

  イシクマはナースステーションにのしのしと立ち入ると、端にある水道でざぶりと顔を洗った。

  仕事をしていた夜勤の看護師たちが、驚いたような顔でイシクマの行動を見ていたが、イシクマは構いやしなかった。

  「だ、大丈夫ですか、イシクマ先生…?」

  一人の看護師が心配そうに声を掛けてきたが、

  「…別に、大丈夫です」

  イシクマは低い声でそれだけ返すと、ナースステーションを出て再びサクライの病室に向かった。

  病室の前には大虎が立っていた。

  むすりとした仏頂面はいつもの通りだが、彼の両目は真っ赤に充血していた。目の周りの被毛もわずかに湿っているように見える。

  (やっぱり、彼も泣いたんだな…)

  その顔を見ていると、再びきりきりとイシクマの胸が痛んだ。

  自分は、これから彼にさらに嫌な説明をしなければいけない。気が重かった。

  ヒロの悲しむ顔など見たくなかった。

  だが、逃げるわけにもいかない。

  「…イシクマ先生、初めまして。サクライの友人の寅大(とらひろし)と申します」

  ヒロはイシクマの姿を認めると、そう言ってぺこりと頭を下げてきた。

  この時、初めてイシクマはヒロのフルネームを知り、そしてヒロには初めて自分の名前を呼ばれたのだった。

  そのことに気付いてイシクマの鼓動が速くなる。

  (…なにを考えてんだ俺は…こんな時に…!)

  イシクマは何度も見てきた。ヒロのことを。サクライのことを。

  ずっとずっと、遠くから眺めてきた。

  二人の幸せそうな姿に癒されながら。

  そしてほんのわずかな羨ましさも抱きながら。

  だがヒロにとってのイシクマは、今日初めて出会ったサクライの主治医である。

  まだ良い医者かそうでないかも評価できない、それ以上でもそれ以下でもない、単なる他人だ。

  浮ついた気持ちでいる場合ではなかった。

  イシクマは胸の奥を焦がすような複雑な感情を押し込めると、自身のいつもの表情…顰め面でヒロを見上げ、低い声で挨拶を返した。

  「…こちらこそ、初めまして。サクライさんを担当させていただきます、内科医の石隈悠仁(いしくまゆうじん)と申します。よろしくお願いします」

  病棟の隅にある小さな部屋でのイシクマの説明を、ヒロは黙ったまま聴いていた。

  六月に倦怠感を訴えてサクライが来院したこと。

  その時にBLVD症候群と診断し、入院を勧めたが本人が拒否したこと。

  今回の発作はBLVDから引き起こされる臓器不全によるものと考えられること。

  そして。

  今日の検査結果と過去の症例報告から、サクライの身体はおそらく三月の半ばまで持てばいい方だと思われること…。

  あと、たったの、三か月足らず。

  サクライとヒロの二人に残された共に過ごせる時間は、余りにも短かった。

  「…イシクマ先生」

  説明の間はずっと黙っていたヒロだったが、イシクマの言葉が途切れるとおもむろに口を開いた。「なんとか、カズ…いや、サクライを助ける方法は無いんでしょうか…?」

  “カズ”。

  その呼び方には、以前イシクマが感じた暖かさが込められているように思えた。

  きっと二人きりの時には、ヒロはサクライのことをそう呼んでいるのだろう。

  ヒロと、カズ。

  互いに、下の名前で呼び合っているに違いない。

  大虎の口から零れた親しげな呼び方に、イシクマの思考は一瞬止まるが、熊医師は頭を一つ振ってそれを振り払う。

  そんなことに気を取られている状況ではないのだ。

  ヒロに、事実を告げなければいけなかった。

  嘘をつくわけにも、誤魔化すわけにもいかなかった。

  それがたとえどんなに残酷な現実だとしても。

  それがイシクマの仕事だった。

  イシクマは息を一つ吐いて、真っすぐに大虎の顔を見つめるとゆっくりと口を開いた。

  「…トラ、ヒロシさん」

  ああ。

  こんな形で想い焦がれていた彼の名前を呼ぶことになるなんて。

  夢にも思わなかった。

  「…大変申し訳ありませんが、現状ではBLVD症候群に対する有効な治療法は存在しません…」

  *

  

  (…何か…何か方法は無いのか…?)

  サクライ…カズが入院したところで何か治療が出来るわけではない。だが、昼夜問わずに突然襲ってくる発作がある以上、退院させることは困難だった。

  BLVD症候群がもたらす、全身の臓器不全によるこの発作には激しい苦痛を伴う。鎮痛・沈静薬の点滴を行えばある程度の症状の緩和はできるものの、発作の度に救急車を呼ぶわけにもいかない。このまま、年末も正月もカズには入院を続けてもらうほかなかった。

  入院当初は数日に一回起きるか起きない程度であったカズの発作は、次第にその間隔を狭めると共に悪化の一途を辿った。

  一旦発作が始まると、カズは凄まじい苦痛のためにベッドの上でのたうち回った。

  イシクマは看護師から連絡を受ければすぐにかけつけて速効性の鎮痛剤を打つようにしていたが、入院してから二週間も経つと同じ用量では苦痛を抑えきれなくなり、少しずつ使用量を増やすしかなかった。

  一ヶ月が経つと、発作は二日に一回くらいのペースで起きるようになり、それまで使用していた鎮痛薬は徐々に効かなくなっていった。イシクマは薬剤の組み合わせを考え直さなければならなくなった。

  (くそっ…症状の進行が速い…)

  しかしあくまでも彼が出来ることは対症療法…つまり、今目の前でカズに起きている症状に対処することだけだった。根本的な治療は勿論、発作を予防することはおろか、頻度を減らすことや症状を軽減することすら出来なかったのだ。

  だが、それでもカズは病室へ駆けつけたイシクマに対して

  「…イシクマ先生…おかげで楽になりました…。ありがとうございます…」

  と必ず礼を言った。

  辛そうに息を荒げながらも、精一杯に笑顔を作って。

  彼のその顔を見て、何も治療法が無い、などと頭を抱えている場合ではなかった。カズに対して匙を投げることなど、イシクマには出来なかった。

  だが、駄目元でやってみた栄養補助食品はやはり全く効果を示さず、むしろ食事の摂取自体がカズの消化管に負担をかける結果となり、下痢や嘔吐を誘発する羽目になってしまった。

  栄養剤の点滴も同様で、どんなに高カロリーの栄養を入れようがイシクマが頭を捻って栄養成分を調整しようが、カズの血液データは全く改善せず、逆に肝臓や腎臓に負担をかける結果となってしまった。

  カズの身体は、ほぼ完全に栄養吸収能力を失ってしまっていた。

  「くそっ…!」

  週二回の採血の結果を見て毎度のように唸り声を上げる黒熊を、先輩や同僚の医師たちはちらりと見やるが誰も声を掛けようとはしない。

  皆、分かっているからだ。

  知っているからだ。

  BLVD症候群が、治療不可能な疾患だということを。

  桜居和成という狐の青年には、もう何も出来ることが無いということを。

  頑張るだけ、無駄だということを…。

  だがイシクマは到底諦められなかった。

  この頃にはカズは繰り返す発作で体力を奪われ、一日のほとんどをベッド上で過ごすようになり、調子がいい日のみ車椅子を用いて行動するようになっていた。

  まだ完全に歩けなくなってしまったわけではないのだが、一度面会に来たヒロと共に病院の庭へ散歩に出た際に、発作を起こして倒れてしまうということがあってから、カズ本人が歩いて行動するのをやめたいと言ったのだ。

  (もし誰もいないところで倒れて頭でも打ったら大変ですから。…そうですよね、先生?)

  カズは、それがなんでもないことのように、イシクマにそう言った。

  確かに彼の言う通りで、カズのように歩行に危険が伴う患者は入院中の行動に制限をかけざるをえない。だが普通の患者は、自分がまだ歩けるならば車椅子での移動は嫌がるものだ。

  だがカズは自分から歩くことをやめたいと言った。

  わがままを言って、病院側に迷惑をかけないように。

  …そしてきっと、ヒロに心配をかけないように。

  自分が一番辛いはずなのに、この期に及んでまだ周りに気を遣っているカズ。

  そして、毎日のように彼の元へ面会にやって来るヒロ。

  おそらく彼は仕事が終わってから駆けつけてくるのだろう。夕方の回診でカズの部屋を訪れると、息を切らした大虎と遭遇することが何度もあった。

  (…はぁ、はぁ、き、今日のコイツの様子はいかがでしたか、先生?)

  面会時間ぎりぎりに滑り込んで来たと思われる、肩で息をしている大虎にそんな質問をされるなんてこともあった。

  (ちょっとヒロ、先生に向かってコイツなんて言わないでよ)

  大虎の、少々荒っぽい口調をたしなめるカズだったがその目は笑っていた。

  ヒロが病室にいる時のカズは、いつもイシクマが診ている時よりずっと元気だった。活き活きとしていた。

  ヒロには自分の具合が悪いところを見せたくなかったのかもしれないし、ヒロが傍にいるということが、本当にカズに元気を与えていたのかもしれない。

  そしてそのことを、やはり羨ましいと感じてしまう自分がイシクマは嫌いだった。

  (…今日は特に変わりは無かったですよ。発作もありませんでしたし)

  イシクマがそう告げると、ヒロはいつもあからさまに表情を緩め、ホッとした顔を見せた。

  彼もそれが決してカズの病状の改善を示しているわけではないことは分かっている。ただ状態が悪化していないだけに過ぎない。

  だがそれでも、カズが一日何事も無く無事に過ごせた、そのことがヒロにとっては大切だったのだ。

  …何よりも大切だったのだろうと、イシクマは思う。

  だからここ最近、面会に来るヒロに対して悪い報告しか出来ないことが辛かった。

  今日も発作があった、食事は全く摂れなかった、血液検査の結果はまた悪化した…。

  そうしたことを告げる度に、我がことのように痛々しく表情を歪める大虎を見ていると、イシクマはまるで自分が大虎を傷つけているかのような錯覚に襲われた。

  ヒロのためにも、そしてもちろんカズ自身のためにも、BLVD症候群をなんとしても治したい。

  だが、一体どうしたらいいのかイシクマには全く分からなかった。

  国内にも、国外にもBLVD症候群の治療が期待できる施設も薬剤も無い。

  カズの病状は日毎に進んでいく…。

  

  「…イシクマ先生。忙しいとこすまんのやけど、今ええか?」

  ある夕方のことだった。

  病棟で、カズのカルテを前にして、次に使うべき鎮痛薬についてイシクマが頭を悩ませているとすぐ隣からそんな声が降って来た。

  熊が顔を上げると、その傍に立っていたのは中年の狸の医師である。狸はイシクマの直属の上司であり、内科部長でもあった。

  「…なんでしょうか」

  「ちいっと、二人っきりで話したいことあんねん。例の、桜居さんのことで」

  狸が顎をしゃくる。「この辺だと他の目もあるし、ワシの部屋で話そか。な?」

  イシクマは黙って立ち上がると、歩き出した狸の後をついていく。

  なんとなく、何を言われるかは察しがついていた。

  少し前に別の先輩医師に、

  (イシクマ。もうあの患者にそんなに入れ込むのはやめろ。お前には他の患者もいるだろう)

  と言われたことがあったからだ。

  実際、イシクマの患者はカズ一人ではない。他の入院患者もいれば外来に来る患者もいる。予約でやって来る患者もあれば突然急患でやって来る患者もいる。

  だがカズの発作は時間を選ばない。イシクマが他の患者を診ている時だろうが休憩中だろうがお構いなしに発作は起きるのだ。

  その度にイシクマは病棟に駆けつけて鎮痛薬を投与し、カズが落ち着くまで病室で付き添った。

  当然、そのために待たされる患者が出て来る。イシクマの業務が遅れる。他の職種にも迷惑がかかる。

  自分がどうしても手が離せない時は、別の医師にサクライへの対応を頼むこともあった。

  だが、他の医師たちの態度にはどこか“諦め”があることをイシクマは感じていた。

  発作が起きて苦しんでいてもしょうがない。

  そんなに早く駆けつけられなくてもしょうがない。

  鎮痛薬で多少痛みが取れなくてもしょうがない。

  だってもう彼は助けられない患者なのだから…。

  しかし、イシクマにはそれが耐えられなかった。

  だからイシクマは、なるべく自分がサクライに対応するようにした。発作が夜に起きそうな日は、別の当直医が泊まっていても自分も病院に泊まるようにした。

  正直、自分の他の業務に影響が出ていないとは言い難い状況ではある。

  この頃のイシクマは、通常の当直に加えて週三回は病院に泊まっていた。丸一日風呂に入らずに、着の身着のままボサボサの毛並みで診療をこなしていることなどざらだし、机の上には溜めてしまった書類が山積みだし、ロッカーの中には持ち帰れなかった着替えや下着が詰め込まれてもいる。

  もしかしたら、狸には叱られるかもしれない、とイシクマは思った。

  だが、それでもイシクマはカズへの診療に手を抜く気は無かった。

  「ほい。イシクマ君はそこんとこに座ってや」

  狸の部長室に通されると、イシクマは革張りのソファに座らされた。ふかふかとして随分と座り心地がいい。

  「…さて、早速やけど」

  狸はそう言いながらイシクマの正面に座る。「イシクマ君、キミはサクライさんのこと、どうしたいん?」

  イシクマは狸を正面から見返す。

  「…どうしたい、というのは…」

  質問の意味がわからず、眉間に皺を寄せたままおうむ返しになったイシクマだったが、狸は別に気を悪くした様子も無かった。

  狸は、

  「つまりな、BLVD症候群やろ彼。その彼を、医師としてどうしたいのかってこと」

  と言い、一拍置いてから、

  「…イシクマ君。キミ、サクライさんのこと治したいと思っとるんやろ?」

  と続けた。

  狸に先回りされてしまい、しかもまた図星を指されてしまってイシクマは、ぐ、と言葉に詰まる。狸を見つめる熊の眉間にますます皺が寄る。

  中年狸は困った顔になった。

  「そないにボクのこと睨まんでも…」

  「すいません、睨んでるつもりはないんですが。…俺、そんなに分かりやすいですか?」

  イシクマの問いに、狸はゆるゆると首を横に振る。

  「前にも言うたけど、キミやなくて状況が分かりやすいだけや。イシクマ先生やなくても、若い医者がサクライさんを診たら大抵そう考えると思うで。なんとか彼を治してやりたい、元気にしてやりたい、てな」

  狸はそう言ってから視線を天井に向け、まぁ若い医者はそうでないといかんのやけどね、と小声でぼそりと呟いた。

  それから狸はもう一度イシクマの顔を正面から見つめて、

  「…でもなイシクマ君、それは」

  ──無理なんや。

  と静かに告げた。

  まるで、医師が患者に余命宣告をするかのように、痛ましいものを見るかのような顔で。

  「……」

  イシクマは黙ったまま、何も返せなかった。俯いて、ぎり、と歯を食いしばる。

  狸は畳みかける様に続ける。

  「残念やけどな、今の医学ではBLVD症候群は治されへん」

  「下手に手を出そうとしても、却って悪くしてまうこともある」

  「辛いやろうけど、ボクらがもうサクライさんに出来る治療はあらへん」

  「もう分かっとるやろ、キミも…」

  狸の口調は、優しかった。決してイシクマを叱ろうとしているわけではなかった。

  だが、イシクマは顔を上げて狸を睨み付けた。

  そんなこと、今のイシクマが一番言われたくないことだった。

  カズはもう治せないということ。ヒロが悲しむ結果が避けようもないこと。

  決して認めたくなかった。

  認められなかった。

  「じゃあ…じゃあ、部長はなんであの時あんな…!俺に、サクライさんに出来ることを考えろって言ったじゃないですか…!だから、俺はサクライさんを治そうと…!」

  イシクマの語気が荒くなる。

  だが狸は動じない。

  「“患者さんを治したい”…キミのそれは大事な気持ちやし、そらもう医者の本能みたいなもんや。患者さんかてそれを求めて病院来とるからな。でもなァ、イシクマ君、治らん患者さんも絶対おるで。これからもキミはそんな人を沢山診なあかんのや。そういう時、一体どないすんのキミ?」

  狸に、治らない患者、と言われてイシクマはカッとなった。

  思わず、ばん、と机を叩いてしまった。

  「…サクライさんが治らないとはまだ決まってないでしょうっ!」

  意図せずして声を荒げてしまったイシクマだったが、その眼前で狸もまた咆哮した。

  「何言うとんのや!ええ加減にしろやイシクマ!!自分のわがままに患者さんを巻き込むんやない!!」

  びりびりと被毛の先まで震えるような狸の怒声に、イシクマは固まる。

  黒熊の驚いた顔を見て、狸もはっとしたように咳払いをした。

  「す、すまんね大声出して」

  「い、いえ…先に声を荒げたのは自分ですし…」

  イシクマはそう言って目を伏せた。

  どっどっ、と速くなった鼓動が胸を打つ。

  狸はちゃらんぽらんなことを言っていることが多く、いつもニコニコとしていて怒ったところなど研修医時代から見たことが無かったので、素直に驚いていた。

  だがそれ以上に、狸に言われた“自分のわがまま”という言葉が頭に残っていた。

  自分がカズにやっていることは、ただの独りよがりのわがままなのだろうか…?

  「…なあ、イシクマ君」

  狸が再び柔らかな口調で呼びかけて来る。「キミがサクライさんとそのご友人…トラさんに入れ込んどるのはボクから見とっても分かる。二人ともまだ若いし、ホンマええ人やからな。どうにかしてあげたい気持ちも凄く分かる。…分かっとるつもりや」

  イシクマは床に目を落としたまま狸の声を聴く。

  年長者の、人生と医者の先輩としての、落ち着いた低い声を。

  自分を諭そうとしてくれている声を。

  「…でもな、キミがやっとることってホンマにサクライさんのためになっとるんやろか?BLVD症候群に対して、食事も点滴も無効っちゅーことは前から分かっとったはずやな?キミが頑張っとるのはよく知っとる。知っとるけど、それは一体誰のためやろ?サクライさん?トラさん?それとも…」

  狸はそれ以上言わなかったが、言わんとしていることは分かった。

  自分がやっているのはただの自己満足でしかないのか。決して治らない病気に対して、意味の無い治療をすることで…。

  イシクマは自分の心が冷えていくような気がした。

  そんなつもりは無かった。自分はカズを治したかっただけだった。

  だがそれがカズのためになってないとしたら、結局は同じことだった。

  「俺のやっていることって、わがままですか…?」

  「…治らんと分かっとる患者さんに無意味な治療をするっちゅうこと。それはな、やっぱり医者の傲慢やし、ただの自己満足や。少なくともボクはそう思うで」

  俯いたまま動けないイシクマを見つめながら、狸は続ける。

  「BLVD症候群は不治の病や。イシクマ君ももう勉強して知っとるな?…そしてそろそろ、あの二人に最期の時の話をすることを考えなければならん時期やと思う」

  「最期の、時…」

  イシクマは小さく呟く。

  最期。

  入院時にヒロとカズに告げた余命まで、残り一ヶ月足らず。

  日増しに強まって行く発作と、それによる削られていくカズの体力。

  どこかでそれは限界を迎える。

  その時は…。

  「なぁイシクマ君、医者の仕事っちゅーのは治すことだけやないとボクは思うねん。もう一回、今のキミがサクライさんに出来ることを考えてみ?ええな?」

  その言葉を最後に、イシクマと狸との面談は終わった。

  [newpage]

  4.

  それからも、少しずつ、少しずつ、カズの身体は弱っていった。

  歩くのをやめた当初は自力でベッドから車椅子へ移っていたのだが、次第にそれにも看護師の手を借りるようになり、2月が終わるころには自力で立ち上がることは出来なくなった。

  栄養が満足に摂れないことに加え、重度の臓器不全、そして度重なる発作で体力を奪われ続けた結果だった。

  イシクマは、平日は着替えを取りに家に戻るくらいで、そのほとんどを病院に泊まって過ごしていた。

  あれだけの話をしたというのに、何故か上司の狸はイシクマが病院に連日宿泊していることについては特に何も言わず、むしろイシクマに協力的だった。

  「ボクはキミの上司なんやから書類仕事くらい手伝わせてや。その分キミはちゃんとサクライさんを診ること!」

  と言ってイシクマがため込んでしまった業務は狸が肩代わりまでしてくれ、

  「…はあ!?イシクマくん、寝袋で診察室に泊まっとんの!?…キミ結構アホやね…あそこむっちゃ寒いやろ…。それならボクのこの部屋に毛布とか持ち込んで泊まってええで。このソファの方が診察ベッドより寝心地ええやろし。ま、ボクは家帰るけどな」

  と言って、イシクマが夜に泊まる場所として、彼の仕事部屋である部長室を開放してくれた。

  (あれだけ俺の「治療」について意見してくるんだから、病院に泊まるのも止められるかと思ったけどな…)

  狸の真意はよくわからなかったが、硬い診察ベッドと違いふかふかのソファで休息を取れるのは大変ありがたく、イシクマは素直にそこで寝泊まりすることにした。

  深夜でもすぐに病棟に駆けつけられるよう、PHSを顔のすぐ傍に置いたままイシクマはソファに横になる。

  真っ暗な天井を見上げつつ、いつかやってくる最期の時のことを考えながら。

  カズに、自分は一体何をできるのか。ヒロに、一体何を話すべきか。

  だが結局、結論は出ないまま暦は3月となり…

  

  

  その日イシクマは、平日の夕方にヒロが病院の玄関にいるのを見かけた。あまり見ない時間帯だった。いつもならばもっと遅い時間にやって来るのに。

  「あれ?こんにちは、トラさん」

  呼び掛けに振り向いた肥満気味の虎は、熊医師の姿を認めるとその仏頂面をわずかに崩した。

  「イシクマ先生。こんにちは」

  「珍しいですね、こんな時間に。どうされたんですか?」

  元来無口なイシクマだったが、ヒロと話すときはやや饒舌になる傾向があった。たとえ一言二言でも、ヒロと言葉が交わせることは、嬉しかった。

  イシクマの質問に、ヒロは頭を掻く。

  「ああ、いえ。明日から休職することになりまして。これからは早い時間に来られるようになりました」

  イシクマは驚く。

  「休職…ですか」

  「はい。少しでもあいつの傍についていてやりたいですから」

  あいつ。

  カズのことだ。大虎の口から自然に出てきた親しげなその呼び方に、イシクマの感情がほんの少しだけ揺れ動く。

  だが黒熊は努めてそれを無視する。ヒロに気付かれない様に。初めからそんな想いなど存在していないかのように。

  「…それは、きっとサクライさんも喜ぶと思います」

  いつも通りの表情のままイシクマがそう応えると、大虎はぺこりと頭を下げてカズの待つ部屋へと向かって行った。

  その大きな背中を見送りながらイシクマは自問する。

  結局自分は何をすべきなのだろうかと。

  カズを治療することはできない。そのことは理解している。だが、頭では分かっていても心がついていかない。

  自分が回診へ行く度に笑って挨拶してくれる狐が、もうすぐいなくなってしまうことがまだ信じられない。彼を諦めることができない。

  だが検査データは着実に悪化し、鎮痛薬も効きにくくなってきている。最期の時は確実にいつかやってくる。それも、そう遠くないうちに。

  その時のことをヒロには話さなければいけない。

  しかしやはり、どうしてもその決心がつかない。

  話してしまえば、カズがもうすぐいなくなることを、自分が認めてしまったことになる様な気がする。

  そして何より、そのことを話した時にヒロは確実に傷つき、悲しむ。

  先延ばしにしても何も変わらないことは分かっているが、イシクマは何も出来ずにいた。

  そこへ、

  

  ぴぴぴぴぴ

  急に鳴り出したPHSの音に、イシクマは現実に引き戻される。

  通話ボタンを押して耳に当てると、看護師からカズの発作が始まったことを告げられた。

  「…わかりました。俺もすぐに行きます」

  イシクマは早口でそれだけ言うと、カズの病室へと向かった。

  「かは…っ、かっ…!」

  イシクマが駆け付けると、ベッドの上のカズは激しくむせ返る様な呼吸を繰り返しながら体を痙攣させていた。その顔は苦痛に歪んでいる。

  「カズ…!大丈夫だ、落ち着け…!」

  その横に立ち、両手でカズの顎を押さえて気道を確保しながら言葉をかけ続けているのは、ヒロだった。彼が座っていたらしい椅子がベッドの横に転がっている。

  臓器の機能不全による、苦痛を伴う発作だった。

  「鎮痛薬を!」

  「はい!」

  イシクマは看護師から薬剤の入った注射器を受け取り、その針を外すとカズの腕に繋がれている点滴の管に接続する。注射筒の後ろをゆっくりと押し込んでいけば、そのままカズの体内に薬剤が投与される仕組みだ。

  イシクマは十秒ほどで注射筒内の薬剤を全て入れ切る。これで数分もすれば、カズの症状はだいぶ楽になるはずだった。

  だが。

  (…っ。効いてない…!?)

  目の前の狐の様子は変わらない。むしろ呼吸の荒さや苦悶の表情はさらに増しているかのようだ。

  間違いなく、発作が悪化している。

  イシクマは声を上げる。

  「今の鎮痛薬と同じものを持ってきてください!」

  イシクマは看護師に指示を出し、鎮痛薬をさらに追加することを決断する。これが安全に使用できる上限量だった。

  だが、薬剤を追加投与してもカズの苦痛はほとんど和らがず、やがて彼は苦痛の余り気を失った。

  反応の無くなったカズを見てイシクマは一瞬焦るが、幸いにして脈拍や血圧は崩れておらず呼吸も確保されている。容体が急変したのでなく意識を消失しただけのようだ。

  カズの呼吸は浅く速く乱れており、眉間には苦悩するような深い皺が刻まれているが、一旦様子を見るしかなさそうだった。

  イシクマがその旨をヒロに説明すると、彼は硬い表情で目線をカズに向けたまま小さく頷いた。

  大虎のその横顔を見つめながら、イシクマは退室する。

  もうこれ以上待つことはできない。

  ヒロに、今すぐにでも話さなければいけないことがある。

  *

  数十分後にカズは意識を取り戻した。

  「…ごめん…ねぇ…」

  と、辛そうな微笑を浮かべてヒロに向けて呟く。

  ヒロは無言のまま、いたわるようにそっと、カズの頭に手を当てた。

  大きな手で、ゆっくり、やさしく頭を撫でられたカズは、安心したように目を閉じる。

  発作による疲労も手伝って、程なくカズが眠りに落ちると、小康状態に戻ったと判断したイシクマは、看護師を一人病室に残し、ヒロを促して共に病室を出た。

  イシクマは息を一つ吐くと、ゆっくりと言葉を口にした。

  「…桜居さんの体は、おそらく次の発作には耐えられないでしょう」

  向かい合って座る主治医の熊の宣告に、ヒロは太ももの上に置いた手をギュッと握り込んだ。

  「…次は…耐えられない…?」

  硬い口調で呟いたヒロに、イシクマは目を伏せながら頷いた。

  「体力的な面もそうですが、すでに心機能が弱り切っています。呼吸器系は比較的保っているので、今の所は発声も呼吸も割としっかりしていますが…、次に発作を起こせば…」

  「呼吸器も…やられてしまうので?」

  大虎の声は黒熊の鼓膜を揺さぶる。

  怯えるような声。主治医から次に告げられることを恐れている声。

  イシクマもまた、ヒロから見えない様に机の下でギュッと手を握る。ヒロはきっとこの先を聴きたくないに決まっている。自分だって言いたくない。

  だが、誰かが言わなければいけないのだと、そう自分を鼓舞してイシクマは口を開く。

  「…いいえ、苦痛でショック死してしまう可能性が非常に大きいのです」

  その言葉に、さーっと音を立てて、ヒロの顔から血の気が引いてゆくのが、イシクマにもわかるかのようだった。

  「ショック…死…!?」

  ヒロの声が上擦る。

  今日、鎮痛薬を安全に使える上限まで使用してもカズの発作は全く抑えられなかった。

  それは、一つのデッドラインだった。

  そこまで臓器不全が悪化しているということの。

  これ以上カズの苦痛を取ることを考えるならば、危険域に踏み込んで鎮痛薬を使わねばならないということの…。

  イシクマは低い声で続ける。

  決して話したくはない事柄を。

  いつ話すべきかとずっと悩んでいた内容を。

  「はい。…これは、本当は申し上げるべき事ではないのかも知れませんが…。この疾病に対し、発作の苦痛から救うと言う意味での薬物による安楽死を認めている国もあります。それほどに耐え難い苦痛を伴う発作なわけで…」

  BLVD症候群は、激しい苦痛を伴う発作を繰り返しながら患者の体力を奪い取る。そしてその治療法は皆無。全身の臓器を侵すBLVD症候群だったが、恐ろしいことに中枢神経だけはその例外だった。末期の患者は、明瞭な意識を保ったまま繰り返す発作に苦しむことになる。安楽死を認める国があったとしても、決して不思議なことではなかった。

  だから、死期が目前に迫ったBLVD症候群の患者に医師ができることは…

  「…を使用するべきかと…」

  イシクマは震える声で、ぼそりとそれを告げる。

  「は、はい?」

  衝撃のあまり途中から話が頭に入らなかったのだろう、ヒロはイシクマに聞き返す。

  イシクマは大虎を見つめ、再度口を開く。今度は声が震えない様に。

  「次に発作が起きた際、桜居さんに…」

  イシクマは、同じ内容をもう一度口にする。

  ヒロはイシクマの言葉を聞き、たっぷりと時間をかけてその内容を頭に入れ、やがて、力なく頷いた。

  「それで…、あいつが少しでも苦しまないで済むなら…。俺から話します…」

  カズの次の発作が起きたその時、苦痛を和らげる為に強力な鎮痛剤を使用する。

  末期の患者にしか使う事の許されないその薬は、苦痛の緩和と筋弛緩効果をもたらすが、同時に心臓を始めとした臓器群や脳にまで影響を及ぼす。

  弱り切ったカズにとっては間違いなく死に至る猛毒となるはずのその薬、使用には本人の希望が必要となる。

  使用の是非を問えば、カズにも自分の余命を正確に悟られる。

  イシクマは、カズには主治医である自分から鎮痛薬の話をしようかと申し出たが、ヒロはその問いを投げかける役目を、自分でやると、そう言った。

  それが、自分がやらなければいけない事なのだと、はっきりと悟っているかのように。

  「…お前はもう、十分頑張ったもんなぁ…、カズ…」

  こぼれ落ちそうな涙を堪えるように、天井を仰いで呟いた大虎を、イシクマは痛ましげな表情で見つめることしかできなかった。

  …彼にそんな顔をさせてしまった自分を、心の底から呪いながら。

  その夜。

  イシクマが消灯時間ぎりぎりにカズの部屋を訪ねると、彼は既に小さな寝息を立てていた。その顔を…以前と比べるとだいぶやつれ、被毛の艶も無くなってしまった狐の青年の顔を、熊は静かに見下ろす。

  ヒロから話をされたカズは、何ともあっけなく投薬を受け入れる事を決めたということだったが、イシクマは主治医である自分からも一言話すべきだろうと考え、一人病室にやって来たのだった。

  だが、ベッドの狐に起きる気配はない。

  出来るなら、このまま寝かせてやっておきたい。

  (…なあ、カズさん…)

  穏やかな顔で眠っている狐を邪魔しない様に、イシクマは心の中だけで彼に呼びかける。

  (…結局、俺はあなたを助けられなかったよ。あれだけあなたを治すとか言ってたのに。…へっ、全く笑っちまうよな…)

  胸中の言葉とは裏腹にイシクマの目に涙が滲んできて、じわり、とその視界が歪む。

  (…もう…あなたとヒロさんが…並んで歩くところは…見られないのかなぁ…)

  イシクマが初めて見た二人。

  並んで葉桜を見上げている姿。

  尻尾にリボンをつけているヒロ。

  からかうように笑うカズ。

  桜並木道を仲良さそうに歩く狐と大虎。

  そんな光景が後から後から浮かんできて、イシクマはぽろり、ぽろりと涙をこぼした。

  「…う…っ」

  思わず嗚咽が込み上げてきて、イシクマは声を押し殺して白衣の袖で顔を拭った。

  悔しくて、悲しくて、切なくて。

  次から次へと涙は流れ、ぱたぱたと病室の床に落ちた。

  そこへ、

  「…イシクマ先生…?大丈夫ですか…?」

  心配そうな声が聞えて来て、はっと見下ろすと、ぱちりと目の開いたカズと目が合った。

  どうやら起こしてしまったらしい。

  イシクマは慌てて、ごしごしと顔を白衣の裾で拭く。

  「…す、すみません。サクライさんを起こす気は無かったのですが」

  イシクマはそう言って頭を下げるが、カズは小さく笑っただけだった。

  「ふふ、大丈夫です。今日は、昼間もよく寝ていましたから」

  カズはそう言うと、ベッド脇の椅子を指さした。「イシクマ先生、お忙しいところ申し訳ないのですが、そこにかけてくれませんか?…少しお話したいことがあるんです」

  そう言われてイシクマはきょとんとするが、特に断る理由も無い。イシクマはベッド脇の椅子に腰かける。

  「…先生。私、思い出したことがあって」

  カズはそう話し出す。何故だか、少し楽しそうだった。

  イシクマは少し首を傾げて話の続きを促す。

  「先生は覚えていますかね?…2年くらい前に、私に駅前のスーパーで卵を譲ってくれたの、イシクマ先生でしたよね…?」

  忘れるはずも無かった。イシクマにとっては、カズとヒロにまつわる印象的な思い出だったから。

  だが、カズの方はとうに忘れていると思っていた。

  イシクマは気まずそうに頭を掻く。

  「…そうです。それ、俺です。特に隠していたつもりもなかったのですが」

  カズは悪戯っぽい顔で小さく笑う。

  「ニシシ、やっぱり。病院にいる先生はいつもマスクをしていたから、私全然気づかなくて…」

  「いや、別に…俺も言ってませんでしたし。…あ、あの時はケーキをありがとうございました」

  頭を下げたイシクマの礼に、カズは目を数回ぱちぱちと瞬かせるが、すぐに思い出したようで

  「…ああ、そうでしたね。私、パウンドケーキを作って、お礼にって渡しましたね。…懐かしいなぁ」

  と言って、目を細めた。

  まだ元気だった頃のことを思い出しているのかもしれない。

  「…あのケーキ、とても美味しかったです。その日のうちに全部ぺろりと食べちまいましたから」

  イシクマがそう言うと、カズはくすぐったそうに笑った。

  「ふふっ、ありがとうございます。確かあれ、凄く美味しく出来たんですよ、ヒロもとても喜んでくれて…。そうだ、良かったら先生にもまた作っ…」

  そこまで言ってカズの表情が固まる。イシクマもまた硬直した。

  思い出に触れて、カズの心もまた昔に戻っていたのかもしれない。

  数瞬の間の後、狐は目を閉じて

  「…また、なんて、もう無理なんですけどね…」

  と静かに言った。

  イシクマは思わず声を上げる。

  「そ、そんなこと…」

  だがそこで彼も口をつぐむ。

  そんなこと無い、などと嘘を言うのと、ここで何も言えないのは、一体どちらが残酷なのだろうか。

  イシクマには分からない。

  分からないから、重苦しい気持ちのまま黙り込むしかなかった。

  何も言えない自分に腹が立ったが、どうしていいか分からない。

  今目の前にいる、死期の迫った患者に何を言ってやればいいのか。それすらも。

  「…ねぇ、先生」

  その沈黙を破ったのはカズだった。「私と、二つ、約束してくれませんか…?」

  「約束…?」

  イシクマは再びカズを見る。

  「ええ。これはヒロにはできない、イシクマ先生にしかお願いできないことなんです…」

  そう言ってイシクマの顔を見つめる狐は、穏やかに微笑んでいた。

  それはきっと生涯忘れられないような顔で。いつだったかイシクマが彼に病名を告知したときのように美しい表情で。

  狐の顔をじっと見て、イシクマは頷く。

  「…俺に出来ることなら、なんでも」

  もし叶えられるものなら、カズにはなんでもしてやりたい。それはイシクマの偽らざる本心だった。

  「ありがとう、先生…」

  カズは嬉しそうに、少しだけ笑う。

  こうしてこの夜、イシクマはカズと二つの約束を交わしたのだった。

  *

  …それから一週間が経過したが、発作は一度も起こらなかった。

  はっきりと死期を告げられたはずのカズも外見上は全く変わらず、穏やかな表情のまま病室で過ごしていた。毎日見舞いに訪ねて来るヒロも、休職し一日中カズに付き添えるようになったおかげか、気持ちに余裕が出てきているように見える。

  病室からは、時々笑い声も聞こえてくるほどで。

  二人は、残されたわずかな時間を大切に過ごしているようだった。

  イシクマも、朝晩の回診でカズの様子を見て、二人に挨拶をする以外はなるべく病室に行かないようにして、二人きりの時間を作れるように配慮していた。

  発作さえ起こらなければ、カズは経過の落ち着いている病人とそう大差は無い。

  ゆっくりと過ぎ去る日々と、三月に入り少しずつ暖かくなっていく気候は、なんだか悲壮感を薄れさせるようだった。

  (いっそこのまま…このまま時間が止まってしまえばいいのに…)

  病室で静かに過ごす二人を見ていると、そんな馬鹿げたことすら考えてしまう。

  そしてヒロとカズは、そんな生活を送りながらあるものを待ち続けている。

  それは、二人で一緒に桜の花を見ることだという。

  だが、カズの発作を考えると間に合わないかもしれない。終わりは近いうちにやってくる。

  そのことをイシクマは恐れていた。

  *

  「…いんだよ…!」

  その晩、ナースステーションで患者のカルテを書いていたイシクマは、どこからか苛立ちを込めたような怒声が聞こえて来て耳を澄ませた。

  夜間の病院では声がよく響く。

  「今の…?」

  「トラさんかしら」

  イシクマと同じように、聞こえた看護師たちが心配そうな声を出す。

  この数か月の入院で、毎日のように見舞いにやって来るヒロは看護師たちとも既に顔馴染みになっていた。同性同士、ということでとやかく噂をする者もいたが、カズとヒロの人柄のおかげか、ほとんどの職員たちが彼らに対して同情的だった。カズの余命についてはイシクマから看護師たちにも周知してあったが、その際には涙を流す者もいるほどだった。

  確かに、先程響いた声はヒロに似ていた。

  「…俺、様子を見てきます」

  イシクマは医療スタッフたちにそう一言残し、廊下へ出て声のしてきた方へと向かう。

  聞こえてきたのは待合室の方だった。

  照明が落とされ暗くなった廊下を歩いて行くと、向こうからぼんやりとした影がやって来るのが見えた。

  黄色の毛皮に黒色の縞々。

  草臥れたジャージに大柄な体躯。

  予想通り、ヒロがうな垂れた様子でこちらに歩いて来るところだった。

  「…トラさん?」

  イシクマが呼びかけると大虎は顔を上げる。

  「あぁ、どうもイシクマ先生。…こんばんは」

  なんとなくその声には元気が無い。少なくとも夕方の回診時にカズの部屋に寄った時にはもう少し声に張りがあった。

  「…なにか、あったんですか」

  思わずイシクマが尋ねると、ヒロは少し逡巡したが、

  「…先生」

  低い声で口を開いた。「カズは…、サクライはあとどれくらい持つでしょうか…?」

  難しい質問だった。

  「それは…わかりません…。ただ、近いうちとしか…」

  そう答えるしかなかった。

  カズは、発作さえ起きなければこのまま長引く可能性もある。だが、今この瞬間にも発作が起こり、看護師に呼び出されるかもしれない。BLVD症候群による発作がどういうタイミングで起こるのかは、全く分からないのだ。

  「じゃあ、あと一週間なら、どうでしょうか…?」

  ヒロに具体的な数字を出されて、イシクマは目をぱちぱちと瞬かせる。

  だが目の前の大虎は真剣な顔つきをしていた。

  「それも…、なんとも言えません…」

  イシクマは正直に告げる。

  だがここ最近、カズの発作が一週間を超えて起こらなかったことは今まで無い。このタイミングで今のような小康状態に落ち着いていること自体が、奇跡みたいなものだった。

  おそらく、もういつ最期の発作が起こっても全くおかしくないとイシクマは考えていたが、それをヒロに言うのは憚られた。

  「そう…ですよね…。すみません、おかしなことを聞いて…」

  ヒロは肩を落とすと、とぼとぼとカズの待つ病室へと戻っていた。

  その背中を見送りながらイシクマは考える。

  ヒロはきっと迫り来るカズの寿命を想い、改めて落ち込んでいるのだろうと。

  この時は。

  「…そういうことか…!」

  いつもの部長の部屋で、休憩がてら独りでテレビを観ていていたイシクマは、思わず声を上げる。

  画面に映し出されているのは天気予報のコーナーだ。

  気象予報士により、桜の開花予想が告げられているが、開花は早くても一週間後ということだった。

  (じゃあ、あと一週間なら、どうでしょうか…?)

  待合室にはテレビが置いてある。ヒロは、恐らくこの開花予想を見たに違いない。だからあんな質問をしてきたのだ。

  一週間。

  今すぐにでも発作が起きてもおかしくない今のカズが待つには、絶望的な期間だった。

  イシクマだって、ヒロとカズに出来れば桜を見せてやりたい。だがそれは、あまりにも儚い願いだった。

  (せめて…せめて、もう少しだけ発作が起こりませんように…)

  祈るだけなら誰も損はしない。

  今のイシクマに出来ることは最早それだけしなく、強く強くそう願いながら黒熊は眠りに落ちて行った。

  翌朝、イシクマはソファの上で窓の外が明るくなっていることに気付き、目を覚ました。夜中に電話で起こされることも無く、一晩中眠りこけていたらしい。

  咄嗟にイシクマは頭の傍に置いたPHSに不在着信が無いかを確認して、ほっと一息をつく。ごく稀にあまりに疲労していると、着信があっても気づかずに眠りこけてしまうことがあるのだ。だが、少なくとも昨夜は一件もかかってきていない。

  つまり、カズの発作はまだ起きていない。そのことにイシクマは安堵する。

  イシクマは自身にかかっていた毛布を折りたたむと、眠気覚ましにコーヒーでも飲もうと、部長室を出た。

  その瞬間。

  (え…?)

  廊下の、窓の外に見えた光景に、イシクマは目を疑う。

  (嘘だろ…、夢かコレは…!)

  だが何度目をこすり、頬をつねってみても目の前の光景は変わらない。

  弾かれたようにイシクマは駆け出す。

  廊下を駆け抜け、飛び降りる様に階段を下り、掃除のおばちゃんにぶつかりかけ、頭を下げながらも足を緩めず、イシクマは正面玄関から病院の外に走り出た。

  建物の裏手に回り、先程見た光景を再確認すると、イシクマの口から思わず笑い声が零れた。

  「ははっ…!なんだ、なんだよ…!開花予想なんか、ちっとも当てにならねえじゃねえかよっ…!はははっ…!」

  イシクマの視界に映るそれは、満開の桜たち。

  駐車場との境に垣根として植えられた桜の木々が、一斉に咲き乱れていたのだった。

  青空の下、薄紅色の霞がかかったかのように。

  少し前まで全く咲く気配などなかったのに。

  院内に泊まり込んでいたイシクマは気付かなかったが、昨夜は季節外れの気温と湿度の高さだった。そのために、たった一晩で桜たちは咲き誇ったのだった。

  思わずイシクマがカズ達のいる部屋を見上げると、ちょうどカーテンを開けたところだったのか、ヒロの姿が窓辺にあった。

  大虎は、先程のイシクマと同じように太い腕でごしごしと目を擦っていたが、目にした光景が夢でも幻でもないとわかったのか、勢いよく全てのカーテンを開け放つと、部屋の奥へとその姿を消した。

  きっとカズに知らせに行ったのだ。

  カズを起こして、二人並んでこの光景を眺めているのだ。

  (…よかった…本当によかった…間に合って…)

  最期の桜。

  二人は、それを見ることが出来た。

  ずず、とイシクマは鼻をすする。その目が少しだけ潤んでいた。

  (これから回診だってのに…。ホント最近涙もろくて良くねえなあ…)

  落ち着いたところで、サクライさんとトラさんのところにも行こう、そうだそういやコーヒーを飲み忘れていたな、売店によって朝飯と一緒に買ってくか…

  満ち足りた気持ちで、そんなことを考えていたイシクマだったが、

  ぴぴぴぴぴ

  それをかき消すように、胸ポケットのPHSがけたたましく鳴り出す。

  「…イシクマ先生…!」

  通話ボタンを押すと、看護師の金切り声が聞こえてきた。「桜居さんが…っ!!」

  カズの最期の発作。

  それが始まったことを告げる電話だった。

  (嘘だろ…、なんでこのタイミングで…!)

  イシクマが病室に駆け付けると、ベッドの上でカズは苦痛に顔を歪めたまま小刻みに体を痙攣させ、喘ぐような呼吸を繰り返していた。

  ベッドの横ではヒロがその手を握り締めている。

  その大虎が、縋るような目でイシクマを見る。

  看護師が、この時のために用意していた強力な鎮痛剤を持ってくる。

  ベッド横のモニター画面からはけたたましくアラームが鳴り響き、カズの脈拍と呼吸が激しく乱れていることを示している。

  …カズが、イシクマの顔を見ている気がする。

  イシクマは彼の顔を見返せない。

  「先生。例の鎮痛薬です」

  「…分かりました」

  指先が震えていることを悟られないように、イシクマは看護師の手から鎮痛・鎮静薬の入った点滴パックを受けとり、薬剤の確認をする。

  そこから伸びた管を、カズの片腕に元々繋がれていた点滴の管に横から接続する。ヒロが握り締めているカズの片腕に。

  …カズが、イシクマの顔を見ている気がする。

  だがイシクマは彼の顔を見返せない。

  あとはこの管を閉めている栓を開放するだけ。

  片手で簡単にできる動作。

  それだけで終わる。カズの体内を薬剤が駆け巡り、彼は苦痛から解放され、…やがて死に至る。

  BLVD症候群の発作。それがもう一度起きた時はこれを投与することになっていた。そう決めていた。カズにも、ヒロにも話していた。

  だが、本当にいいのか。この薬剤を使えばもう取り返しはつかない。二度とカズは目覚めることがなくなる。

  ヒロから、永遠にカズを奪うことになる。

  それで本当にいいのか。

  もし今薬を使わなくても、前回のように意識を失うだけで済んで、またしばらく平穏な日々が続くのではないのか。

  イシクマは逡巡する。

  躊躇する。

  二の足を踏む。

  (…俺が、俺が、カズさんを、殺すのか…?)

  土壇場で、彼は完全に怖気づいていた。

  イシクマの動きが止まる。

  だが、その耳元に小さな声が届いた。

  「…イシ…クマ…先生…」

  カズが、イシクマの名を呼ぶ。息も絶え絶えに。

  イシクマはやっと彼の顔を見る。熊と狐の目が合う。

  …やくそくを。

  カズの口元が、そう動いた。

  イシクマの脳裏を、一週間前にカズと交わした会話が駆け巡る。

  (…先生、一つ目の約束はですね、今度発作が起きたら、例の薬をちゃんと私に打ってほしいんです…)

  (え?)

  (先生は優しいから…私が苦しんでいたら、もしかしたら注射を打てないんじゃないかって…。私が先生だったら、きっと大事なところで、ためらっちゃいそうだなって…)

  (……)

  (私はヒロに、ちゃんとお礼とお別れを言いたいんです。痛みと苦しみの中でショック死なんて絶対に嫌です。だから…)

  …薬を、使ってくださいね。約束ですよ。

  …カズが、イシクマの顔を見ている。

  約束を果たしてくれと、そう言っているように見えた。

  イシクマの頭が真っ白に染まる。

  (あああああああああああああああああああ!!!!)

  イシクマは心の中で絶叫しながら、点滴を開栓する。

  ぽたりぽたりと、カズの身体に痛みを抑える、ただし猛毒にもなりうる強力な薬剤が流れ込んでいく。

  視界の片隅で、ふっ、とカズが安心したように笑った気がした。

  

  …ありがとう、せんせい。

  と、狐の口元が動いた気がした。

  (俺は…、俺は…何も…)

  イシクマはその場に呆然と立ち尽くす。その肩と膝が震える。

  たった今、イシクマはカズの命の火を吹き消す薬を投与した。その事実に心が押し潰されそうだった。

  薬はカズの体内へ落ちていく。

  次第にカズの表情が和らいでいくのが、イシクマから見ていても分かった。

  苦痛を感じる神経は遮断され、しかし意識状態もやや低下し、ぼうっとした気だるい心地よさがカズを包んでいる筈だった。

  カズがとろんとした目で、おずおずと口を開く。

  「ねぇ…ヒロ…」

  彼が口にした名前を聞いて、ベッドの横に立っていたイシクマは、そっとその場を離れる。

  ヒロに、この場所を譲らなければいけない。

  「何だ?」

  ベッドのすぐ脇に立っていたヒロが大きく身を乗り出す。

  「頭…、撫でて…くれない?」

  カズの願いに応えたヒロが、カズの頭にそっと大きな手を乗せる。その光景を、互いの顔を見つめる虎と狐を、イシクマは看護師と共に無言で見守る。

  二人が最期の会話をするこの場所に、もう自分の出番は無い。

  カズの、ヒロへと送る最期のお礼と別れの挨拶。

  本来ならば自分がいてはいけない場所だと、そう思った。

  二人の仲をうらやんでいた自分は、決して。

  全身が、まるで鉛を詰め込まれたかのように重かった。

  大虎と狐は、途切れ途切れに言葉を交わす。最期の時を惜しむかのように。

  ヒロは労うようにカズの頭を撫で、カズはヒロの顎へと下からそっと手を伸ばす。

  イシクマの位置からは、ヒロの顔は影になってよく分からなかったが、彼の顎に触れるカズの左手へとポロポロと涙が零れ落ちたのが見えた。

  残されたわずかな時間を、虎と狐は互いを慈しみ合うようにして過ごしていた。

  …やがてカズは、長い長い息を吐き出すと、ヒロに向けて小さな声で何かを告げた。

  次の瞬間、狐の手からかくんと力が抜け、その手をヒロが咄嗟に掴む。大虎もまた狐に向けて小声で呟くと、動かなくなった狐の胸に、その細くなってしまった手を優しく乗せてやった。ヒロは一度だけ大きくしゃくり上げたが、声を上げて泣き出しはしなかった。

  その光景に、イシクマの方が胸を締め付けられ嗚咽を漏らしそうになったが、かろうじて耐え、その場で一礼をするとゆっくりとモニターの傍へと立つ。

  やがて、カズのバイタルサインを表示している、弱々しく乱れていた線が穏やかな直線へと変化し、イシクマはそっとモニターを切った。

  イシクマがベッドに歩み寄ると、ヒロが場所を空けてくれた。傍で見下ろすと、カズは安心しきったような穏やかな顔をしていた。

  きっとヒロが看取ってくれたから、彼が傍にいてくれたから、こんなに安らかな表情なのではないだろうか。

  (…カズさん…。本当に、本当に、お疲れ様でした…)

  イシクマは視界が滲むのを感じながら、確認作業に入る。

  呼吸音なし。心音なし。対光反射なし。

  イシクマが腕時計を見て確認時刻を読み上げ、カズの死亡を宣告すると

  「うっ…。ぐっ…うっ…、んぐぅぅううっ…!」

  その背後で低い嗚咽が聞こえた。

  ヒロだった。

  肩を小刻みに震わせ、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、大虎はむせび泣いていた。

  それで、イシクマの涙腺も決壊した。

  ぼろぼろと、熊の両の瞳からも涙が溢れた。拭っても拭っても止まらなかった。

  「うっ…うぅっ…、ぐ…っ!」

  こんな場所で、家族でも友人でもない医者が泣くなんて筋違いだ。分かっている。そんなことは分かっている。

  だが、カズとヒロのことを想うと、涙が止まらなかった。

  「…すみ、ませんっ…、失礼、します…っ」

  イシクマはそれだけ言うと逃げるように病室から出た。

  息を吸っても吸っても、まるで酸素が入ってこないように苦しかった。

  身体が重くてうまく走れない。

  やるせなくて、悔しくて、悲しくて、切なくて、痛くて、どうしようもなかった。

  医師の詰め所にある自分の机にたどり着いたイシクマは、集めたBLVD症候群の資料を手に取ると、床に叩きつけた。

  紙切れが宙を舞う。

  こんなことをしても仕方ないことは分かっていても、そうせずにはいられなかった。

  「…何が…!何が医者だよ…!」

  治せなかった。助けられなかった。

  好きな人の、大切なヒトの一人すら救うことができなかった。

  「畜生…!何が治すだ…!何が、お前が、あのヒトたちに何を出来たっていうんだよ…!」

  イシクマは泣きながら、机の上の教科書を薙ぎ払うようにばさばさと床に落とす。

  通勤時間となり、やってきた他の医者たちが奇異の目で見てきても、イシクマは暴れることを止められなかった。

  「何も、何も、お前はできなかったじゃねえかよっ…!くそっ!くそっ!くそおおおおおっ!!ああああああああっ!!!」

  涙を流しながら絶叫する黒熊を、誰もが遠巻きに見ていたが、その中で一人だけ、つかつかとイシクマに歩み寄る者がいた。

  怒号が飛んだ。

  「このアホ!朝っぱらからアンタ何やっとんねんイシクマァっ!!」

  狸だった。

  大音量の怒声に、イシクマは動きを止めると、はあはあと息を荒げながら狸を見た。

  泣きじゃくった後のその顔はぐしゃぐしゃで、病院に連泊しているために毛並みもぼさぼさだった。

  「…全くアンタは。こんなぼろぼろになるまでようやるわ、ホンマ…」

  狸は大きく溜め息を一つつくと、イシクマに近寄り、ぎゅっと抱きしめた。

  イシクマは目を見開く。

  「…お疲れさん、イシクマ先生。キミの患者さんとの向き合い方、むっちゃ不器用やけど正解の一つやと思う。キミ、よう頑張ったで…。」

  狸は優しくそう言うと、イシクマから身体を離し、ぽんぽんとその頭を叩いた。「…だから、もう自分を傷つけるのはやめえや。…サクライさんはきっとお空の上で、キミに感謝しとると思うで…」

  狸の言葉で、カズが最期に口にした言葉が、イシクマの脳裏に蘇った。

  (…ありがとう、せんせい)

  もう二度と聞くことのできないはずのカズの声が響いた気がして、ポロポロと、再び黒熊の瞳から涙が零れ落ちる。

  だが、もうイシクマに暴れる元気は無かった。

  「うっ…ぐぅ…!ううっ…あああああ…っ!」

  その場にぺたんと崩れ落ちたイシクマは、ただただ、呻くようにして泣き続けた…。

  [newpage]

  5.

  …あれから一度だけ、イシクマはヒロと話す機会があった。

  (イシクマ先生…ですよね?)

  カズの死からちょうど一年が経った頃だったか、休日にあの駅の一本桜の前で声を掛けられた。イシクマの後ろに立っていたのが、あの大虎だった。

  ヒロは、病院に見舞いに来ていた頃よりだいぶ体重が増えたようで、横幅と丸みが増していた。

  そして、どこか表情が柔らかくなっているようにイシクマには思えた。

  (あの時は大変お世話になりました)

  大虎はそう言って頭をぺこりと下げる。

  (お久しぶりです、イシクマ先生)

  (…お久しぶりです、トラさん)

  熊と虎の二人は、立ったままぽつぽつと少しだけ世間話をした。あれからカズの親類がヒロを訪ねてきたことだとか、ヒロは不摂生な生活で体重が増えたことだとか。

  イシクマは、次年度に替わると同時に職場を移り、別の町へ引っ越すことが決まっていた。それを伝えると、ヒロは目を細めて、

  (…そうですか。もしかしたら、これでお会いするのは最後かもしれませんねぇ。先生に、最後のご挨拶ができてよかった)

  と言った。

  最後。

  せっかく久々に会えたのに。

  そのことがじりじりとイシクマの胸を焦がす。

  イシクマはヒロの顔を見つめて改めて思う。

  いつも不機嫌そうな顔で、しかしカズを見つめる時には穏やかな表情を浮かべていた、不器用な優しさを持つ、この大虎を。

  やっぱり、自分はこのヒトが好きだったのだと。だいぶ時間は経ってしまったが、出会った時から、ずっと好きだったのだと。

  だが、これで最後。

  きっと、これが最後。

  …なあ、ヒロさん。

  俺はあなたのことがずっと好きだった。でもカズさんのことも大好きだった。

  二人が揃っているところを見るのが好きだった。俺まで幸せな気持ちになれたから。

  だから、いつまでも二人が揃っているところを見ていたいと思っていた気持ちに嘘は無くて。

  カズさんのことを本当に治したかった。

  あなたが悲しむ顔も、カズさんが苦しむところも見たくなかった。

  だけれど俺は本当に無力で、そのどちらも守ることが出来なかった。

  結局俺ができたのは、カズさんにあの薬を投与することだけだった。彼の苦しみをとることと引き換えに、二人の時間を終わらすことしか出来なかった。

  今でもその時の感触が忘れられなくて、未だにあの日のことを夢に見るくらいに後悔している。

  そして今あなたと最後だということが本当に辛くて、本当は想いを全てぶちまけてしまいたいけれどそんな資格も度胸も俺には無くて、俺はあなたにとっては友人でも恋人でもなくて。

  …そして、俺じゃ、カズさんの代わりには決してなれなくて…

  纏まらない思考と数えきれないほどの言葉が、まるで風に散りゆく桜の花びらのように切れ切れにイシクマの中を舞ったが、結局、彼はそのどれも口にすることが出来なかった。

  イシクマが出来たのは、ただ静かに大虎に向けて頷いて

  (そうですね。…寂しくなります)

  ぽつりと、そう言うしか出来なかった。

  以前と同じく、顰め面のまま、全ての感情を飲み込んだままで。

  ヒロもまたその言葉に頷くと、

  (先生も、また階段で落ちることの無いよう、お達者で)

  と言って微笑んだ。

  イシクマはハッとする。

  まさか、覚えていてくれたのか。

  イシクマが目を丸くしていると、ヒロはまた少し笑って

  (…私も、イシクマ先生とは違いますが、先生と呼ばれる職業なもので。ヒトの顔を覚えるのは比較的得意なんです。…では)

  そう言って、大虎は片手を上げた。別れの挨拶だった。

  それで、本当に最後だった。大虎は駅の階段を昇って行き、イシクマはそれに背を向けて自宅へと足を向けた。

  ふと、イシクマは振り向いてヒロの方を見たが、彼は振り返らなかった。

  それ以来、イシクマがヒロの姿を見ることは無かった。

  *

  …そして、それからさらに数年後。

  あの病院の裏手の桜並木を見上げる、白衣を着た黒熊がいた。

  相変わらず真っ黒の被毛はぼさぼさで、顰め面をしたまま満開になった薄桃色の桜を見つめている。

  まるであの日と同じように、青空の下のけぶる様な桜色が眩しいくらいだ。

  彼も三十路を超え、やや中年太りの気があるのか、上下揃いの青いスクラブの上からでも丸い腹が少々出ているのが分かるが、羽織っている白衣のおかげでそこまで目立っていない。足元はサンダル履きである。

  あれからイシクマは病院を転々とし、様々な経験を積んで来た。

  カズの一件で、医者など辞めてしまおうかと思ったこともあった。

  多忙のために徹夜続きになることもあった。重症の患者を診ることもあれば、決して助けられない患者を診ることもあった。

  だが、それでもここまで続けて来られたのは、カズと交わしたもう一つの「約束」のおかげだった。

  (まあ、「おかげ」っていうか…「せい」っていうか…)

  そう考えてイシクマは苦笑する。

  あんな形で約束を遺されてしまった以上、それを守るために自分はあがくしかなかった。

  「おーいっ、イシクマ先生ーっ!」

  聞き慣れた声がして振り向くと、かつての上司だった狸が、どたどたと駆け足でやって来るところだった。

  「…お久しぶりです、部長。今日からまたお世話になります」

  イシクマは狸に向けてぺこりと頭を下げるが、「なーにかしこまって言うとんの!昔っからのボクとキミの仲やないか、今さら水臭いでイシクマ先生っ」

  そう言って狸はイシクマの背中をばんと叩く。

  「…いやまあ、そうは言っても、また俺は部長の下で働くわけですから」

  「言うてもこの一年だけやないの、この病院におるのは。キミ、また来春には出てってまうんやろ」

  「…まあそうっすけど。なんすか今日は絡みますね。寂しいんですか?」

  「アホ、寂しいわけあるかい!」

  そう言って狸はイシクマの頭をはたこうとするが、イシクマはひょいとそれを躱す。

  「すいません部長。…でも俺には、果たさなければならない約束がありますから」

  イシクマの言葉に、狸もまた真顔になる。

  「…わかっとるよ。桜居さんとの約束、やろ?」

  「ええ」

  狸の返事でイシクマはまた桜を見上げて。

  あの夜の、カズとの会話を思い出す。

  (…先生、もう一つの約束は)

  (BLVD症候群の、治療法を、見つけてほしいんです…)

  (すごく難しいってことは分かってます…今まで誰も見つけられなかったんだから)

  (でも、もう私みたいな患者を、出さないでほしいんです…)

  (大切なヒトと生きたいのに、生きられないヒトを…)

  (お願いします、イシクマ先生…)

  「まーったく、とんでもない約束をしたもんやねキミも…」

  狸は呆れたような声を出す。

  「…本当ですね。今まで誰も出来なかったことだっていうのに。カズさんは無茶を言います」

  そう言いながらも、イシクマの顔は決意に満ちていた。

  もう二度と彼らのような…カズとヒロのような悲しい患者を出さない。それはイシクマの、医者としての目標でもあった。

  だから、来春にはイシクマはBLVD症候群の研究のために、国外の研究機関へ留学することが決まっているのである。

  いつか必ず、あの最悪の疾患の治療法を見つけるのだと、そう誓って。

  自分の代で根治療法は見つけられなくても、その糸口だけでも、必ず。

  狸はそんなイシクマの横顔を見て、少しだけ寂しそうだった。

  「はぁーあ。せっかくまたキミと一緒の職場になったっちゅーのに、また来年には離れてまうなんて…」

  そんなことをぐちぐちと呟いている狸を、イシクマは顰め面のままじぃっと見つめる。

  「職場ではそういうことを口にしないでくださいって、俺、前に言いませんでしたっけ…?」

  イシクマの不機嫌そうな声に、狸は目に見えて狼狽した。

  「や、そ、そうやっけ?やーん、イシクマせんせっ!そ、そんな顔で睨まんといてっ!」

  「まあいいですけど。…そんな寂しいんだったら、部長も俺と一緒に海外に来ればいいじゃないですか」

  「あ、アホっ!んなことできるわけないやろ!ボクかてここの部長さんやしっ」

  「…俺と仕事、部長はどっちが大切なんすか?」

  イシクマの質問に、さすがに狸が固まる。

  「え…、そっ、それは…」

  「…なんて、冗談ですよ。部長。今夜の夕食、久しぶりに部長の手作りなんで、俺すごく楽しみにしてますから」

  その一言だけで、狸の毛並みが嬉しそうに逆立つ。

  「も、もう!ユウくんはボクのこと喜ばせるのが上手いんやから…!」

  「…だから下の名前で呼ばないでくださいって」

  今度こそイシクマが狸を睨み付けると、狸は悪びれもせずに

  「めんごめんご!ほな、また後でなイシクマセンセ!ボクは先に戻るで~」

  と言って病院の方に戻って行った。

  その背中を見送りながら独り残されたイシクマは、再び桜を見上げる。

  さああ、と風が吹くと、ひらひらと花びらが熊の頭上を舞う。暖かな春の朝だ。

  一時は桜が視界に入る度にあの日の…カズが亡くなった日の記憶が蘇り、その悲しみからイシクマは桜を避けるほどだったが、今では穏やかな気持ちで眺めることが出来るようになった。

  辛い記憶も、心の傷も、長い時間の経過が少しずつ癒してくれた。

  救えなかったという、我が身を切り裂かれるかのような後悔とも、次第に折り合いが付けられるようになった。

  だが、果たして彼はどうだろうか。

  熊が胸の中に思い描くのは、一度は好きだったあの大虎の姿だ。

  (…ヒロさん…)

  ヒロは、あのいつも仏頂面ながらも心優しい大虎は、今の自分と同じように、共に桜を見上げてくれる相手を見つけられただろうか。

  自分は彼を幸せには出来なかったが、今の彼は幸せでいてくれるだろうか。

  あの暖かな笑顔で、また笑ってくれているだろうか。

  そうであってほしいと、イシクマは強く、強く願う。

  しばらくそのまま桜を眺めていた黒熊だったが、やがて彼も白衣を翻し、病院へと足を向けた。

  いつの日にか、カズと交わした約束を果たすために…。

  *

  今でも桜を目にすると、その度にイシクマは思い出す。

  昔住んでいたあの町の病院で、桜が咲くことを心待ちにしていたあの短い日々を。

  (桜、あんまり好きじゃなかったんだっけ)

  (ああ…)

  初めてあの二人を認識したとき、散りかけた桜を見上げていた彼らを。

  (あ。ねぇねぇ、もっかい笑ってよ?今の顔で)

  (断る)

  (一回で良いから、ね?良い顔だったよヒロ?)

  (からかうな)

  その下を、からかうようにして笑っていた狐と、ことさらに仏頂面を作って大股に歩いていた虎を。

  狂い咲きしたように、一晩で満開になった桜を。

  あの時窓から見えた、ヒロの心から嬉しそうな顔を。

  部屋の奥できっと笑っていたであろうカズの顔を。

  

  そんな暖かな光景を。

  一度は確かに存在した幸福な時間を。

  イシクマの記憶の中だけでは、小柄な狐と大柄な虎の二人が、桜並木の下を並んで歩いている。

  彼らが息づいている。

  彼らの声が聴こえて来る。

  桜を眺めながらイシクマは願う。

  散った桜が、それでもまた次の春には咲き誇るように。

  あの心優しい大虎に、また大切な誰かが現れることを。

  彼にまた幸せが訪れることを。

  いつか来るはずのその日を待ち続ける。

  狐の遺した約束を胸に抱きながら。

  ──そして今年も熊の医師は、桜の舞い散る向こう側に、虎と狐の幸せな幻を見る。

  (了)