【新春けもケ2】まぼろしコーディレフスキー【『フルクトース』】
[[rb:虎屋 > とらや]]先生と再会したのは、俺の研修医としての1年が終わろうという頃。俺が生まれて初めて、自分が担当した患者が亡くなる場面に遭遇した夜。
俺は誰にも顔を見られたくなくて、屋上に逃げたのだった。
その患者は末期の肺病を患った70代の狸獣人だったが、病室で本人と会ってみると俺にはそんな風に見えなかった。
着流しを着て身なりのきちんとした狸の老人は、鼻につけたチューブから酸素は吸っていたものの、
(へぇ、今回のワシの先生はえらく若ぇんだねぇ)
そう大声で言い放ってだっはっは、と呵呵大笑するような性格で、俺が朝の回診に行く度に
(よう先生。今日こそタバコ吸ってもいいかい?)
なんて笑顔で尋ねてくるくらいに元気で、ちょっと食えない爺さんだった。
秋田犬獣人の俺にとって煙草の匂いは天敵だし、何より狸は常に酸素を吸っている身である。病院で煙草なんて言語道断だ。
だから顔を顰めた俺が毎朝のように、
(何言ってんすか。そんなのダメに決まってるじゃないですか)
と返し狸が、
(……ちぇっ。アキタケ先生に言われちゃあ仕方ねえなァ)
などとわざとらしく肩を竦めて残念がるのが二人の定番の挨拶だった。
狸が入院した呼吸器内科の病棟は、悪性の病気に対する化学療法を受けている患者がほとんどで経過の長い人が多い。そのため緊急の症例は滅多に無く、だから俺は手が空いた時間を大抵病棟で過ごしていて自然と入院患者と話す機会も多かった。
狸の爺さんは
(よう先生、今日も元気にしてるかい?)
などとよく絡んできて、俺も仕方なくそれに応じることが多かった。
時には彼に菓子を貰うこともあったし、小遣いをくれようとしたことさえあった。
今思えば、俺は狸に孫みたいに思われていたのかもしれない。研修医の俺は決して暇だったわけではないのだが、狸のペースに巻き込まれてついおしゃべりに興じてしまうことが多かった。
そして俺も、それが嫌じゃなかったのだ。
……だから、彼が弱っていくのを傍で見るのは忍びなかった。
入院から一ヶ月。
それだけの期間で狸の病状は劇的に悪くなった。
両肺に溜まった水が増えるにしたがって呼吸苦が酷くなり、酸素の投与量が日に日に増えた。狸の食事量は減り、彼はみるみる痩せてしまった。
そのうち夜中に強い痛みを訴え始め強力な麻薬が使われるようになると、効き過ぎなのか狸はぼんやりとした目で過ごしていることが多くなった。
がくりと体力の落ちた狸は歩けなくなり、点滴と酸素のチューブに繋がれて日中ほとんどをベッドで過ごすようになった。
(……よぅ、先生……)
俺に挨拶をする声にも力が篭らなくなった。
そして今日。
二日前から狸へ投与される酸素量は限界まで増やされていたが、夕方にはとうとう血中の酸素濃度が上がらなくなってきた。血圧が下がり意識も朦朧とし始めたために、ついに狸の家族が呼ばれた。
狸の主治医であり俺の指導医でもある狼が、おそらく今夜が峠でしょう、と低い声で家族に話し、俺は後で電子カルテに打ち込むために狼の話した内容や家族からの質問をメモに書き留める。
狼が家族を病室へと案内する。俺は一番後ろからそれについていく。
主治医の狼、そして家族に続いて俺は狸の病室に入る。大勢の陰に隠れて、俺の位置からでは狸の顔は見えない。
ベッド脇に置かれた心電図モニターからはピーピーと警報音が鳴り響いている。狸の耳に装着したセンサーで、彼の血液中の酸素濃度が足りないことを知らせているのだ。だが俺たちにはもうどうしようもなかった。狸への酸素の投与量はとっくに限界なのだ。
父親の顔を近くで見ようとしたのだろう、狸の息子がさらに奥に足を踏み入れる。
彼の身体に隠れていた狸の爺さんの顔が、俺の目に入った。
心臓を鷲掴みにされたような気がした。
狸の顔は別人のようだった。
力なく閉じられた瞼は半開きで、出会った時は艶々としていた毛並みはぼさぼさになってしまっていた。酸素マスクの下でぜえぜえと喘ぐ様は、見ている方が苦しくなってきそうだ。
――ああ、きっともう長くないな。
たとえ医学の知識が無くても、一目でそうわかる顔つきだった。
俺は思わず奥歯を強く噛みしめ、身体の横で拳を握りしめる。
だが仕方がない。
狸だっていい歳なのだ、元々悪性の病気だったのだ、分かっていたことじゃないか、年上の者から逝くのは自然の摂理なんだ、そうだ、仕方ないのだ、当たり前のことなんだ――
俺が心の中で独り言ちていると、突然、狸の爺さんの目が開かれた。
家族が声を上げる。
狸は定まらない視線を室内に彷徨わせたが、ある場所でそれが止まる。
だがそれは彼を囲む家族ではなく、少し離れたところにいる俺にぴたりと据えられていた。
そしていつものように狸は。
口の端をひん曲げるようにして、にやりと笑った。
そして掠れた声でこう言った。
「――よぅ、先生……」
虚を突かれた俺は返事が出来なかった。バカみたいに口を開けて突っ立っていた。
そしてその次に言われた言葉を、俺はきっと生涯忘れないだろう。
「……今まで、ありがとうなァ……」
苦しそうに。声を絞り出すように。
その瞬間、部屋から全ての音が消えたように感じた。
――なんで、と思った。
――どうして俺にそんなことを言うんだ、と思った。
――何バカなこと言ってるんすか、と言おうとした。
――爺さん。タバコを吸いたいって、懲りずに毎日言ってたじゃないですか……。
気付いたら俺の両目から涙が溢れていた。
俺は慌てて俯き、白衣の袖でごしごしと目元を拭う。
家族の誰も泣いていないというのに、俺が泣くなんておかしい。場違いだ。
だが涙は止まらなかった。我慢出来なかった。
俺の目からボロボロと涙は零れる。嗚咽を抑えられなくて俺は下を向いたまま肩を震わせた。
「アキタケ先生? どうした?」
狼医師が俺の様子がおかしいことに気付いて、怪訝そうな声を出す。
「……すいません……っ。ちょっと、俺……、し、失礼します…っ」
俺だけ泣き出してしまったのがみっともなくて恥ずかしくて、胸が苦しくて悲しくて、俺は顔を上げられず途切れ途切れにそれだけ言うと、一目散に病室を飛び出した。
「おいっ」
狼医師が制止する声も、
「……あれ、アキタケ先生? 大丈夫ですか?」
廊下で待機していた看護師の心配する声も無視して、俺は顔を見せないように病棟から逃げた。
頬を拭いながら暗い廊下を独り走る。
情けねえしカッコわりい。
いつかこういう日が来ることは前から分かっていたはずなのに。
あんなに冷めた振りをしていた癖に。いざという時、俺には何の覚悟も出来ていなかった。
一人になりたかった。誰もいないところへ。
階段を駆け上がる。
西病棟の端に、屋上へと続く鍵の掛かっていない扉があるのは知っていた。指導医にこっぴどく叱られた時や仕事が辛くて仕方がない時に、俺みたいな研修医が一人になるために向かう秘密の場所。
ばん、と金属製の扉を勢い良く開けて外へと飛び出すと、晩秋のひんやりとした空気が俺の頬を撫でた。空を仰げば満天の星空が広がっている。
俺は思わず溜め息をつく。口から吐き出された白い塊が夜の闇に溶けていく。
――こんなに。こんなに、星が綺麗な夜なのに。
あの狸の爺さんは、きっと今夜逝ってしまう。
そのことが哀しくて、狸が可哀想で、俺の目からはまた涙が零れた。視界の中の星が滲む。
その時だった。
「おい。どうしたそこのお前」
屋上の奥から低い声が聞こえてきて俺は驚いた。既に先客がいたらしい。
ぐい、と目元を袖で拭い暗がりに目を凝らす。
誰かの気配がした。
ずんぐりむっくりとした灰色の影が動いているのが見えた。
暗闇に目が慣れてくると、灰色に見えたのはどうやらその人物が着たパジャマのような上下揃いの服で、その袖から黒と黄色の縞模様が覗いているのが分かった。
どうやら正体は大柄な虎獣人である。体型や声から察するに俺より年上の男性。そしてそれは俺にとって聞き覚えのある声でもあった。
――まさか。
向こうからも暗くてこちらが良く見えなかったようだ。虎獣人がゆっくりとこちらに歩いてくる。
そして、俺の姿を認めた虎が驚愕してかぱりと大口を開いたのと、虎の顔を見た俺が「あっ」と小さく声を上げたのはほぼ同時だった。
俺と虎は、互いに見知った顔だったのだ。
「と、トラヤ先生……?」
俺は目を丸くして呟く。
だが、対する虎も相当に驚いたらしい。
彼のトレードマークでもある野太い眉の間に皺を寄せ、ぽかんとした顔で俺を見つめている。
「あ、アキタケじゃねえか。どうしたんだお前、こ、こんなところでよ」
虎屋先生。
この病院の救急科所属で、最初に俺が指導を受けた先輩医師。
俺がずっと会いたかった虎獣人が、闇の中に立っていたのだった。
[chapter: まぼろしコーディレフスキー]
1
――〝鬼の[[rb:虎屋 > とらや]]〟。
そんな渾名の虎獣人の救急医の話は、俺が医学生の頃からよく噂されていた。
[[rb:虎屋仁之助 > とらやじんのすけ]]という少々古風な名のその虎獣人は、患者にも医療スタッフにも医学生に対しても、とにかく怒りっぽくて怖いということで有名だったのだ。
曰く、救急車で搬送されたアルコール中毒の患者を
(ここは酔っ払いの来る場所じゃねえ!)
とボコボコに殴り飛ばしたとか。
曰く、救急救命室で何かの指示を間違えた看護師を
(ヤル気あんのかこのボケ! 辞めちまえ!)
と怒鳴り散らして本当に病院を辞めさせたとか。
曰く、実習で適当なレポートを書いた医学生を
(てめえ、俺が納得するもん書けるまで家にゃ帰さねえからな!)
と日付が変わるまで解放しなかったとか。
とにかくそんな噂の尽きない人物だった。
だから俺の最初の研修先が彼の所属している救急科に決まった時、同期の心配具合は相当なものだった。
「マジかよお前…」「死ぬなよ、アキタケ」「骨は拾ってやる」
そんなことを言われたりもした。
対する俺は
(まあ俺だって医学部を卒業したわけだし、なんとかなんだろ)
などと楽観的に考えていた。
……だが、やっぱり鬼の虎屋は厳しかったのであった。
*
「お前が来週から来る[[rb:秋岳健人 > あきたけけんと]]か。……ちっ。なんだおい、まだ一年目のひよっこじゃねえか」
研修前日に、虎屋先生に挨拶へ行った時のことである。
自分のデスクでコーヒーを啜っていた大柄な虎獣人は、俺の胸に付いた名札を読むや否や、いきなり舌打ちをしてそう言い放ったので、彼の第一印象は最悪で、
(なんだこの人)
と俺は思った。
虎屋先生は体躯の大きな虎獣人だったが、あまり身の回りに気を使っている感じがしなかった。
机の上には医学書や書類が山積みになっており、また病院に泊まる時のための準備なのか歯ブラシや携帯用のシャンプーボトルまで転がっていて、まとまりがなく雑然としていた。
しかもどうも虎屋先生は当直明けらしくほとんど寝ていないようで、黄色と黒色の毛並みはボサボサで脂ぎっているし両目は充血して真っ赤だ。そのくせ太い眉毛はぐいと吊り上がっていて、俺を値踏みするようにギラギラした瞳で眺めてくる。
着ているのはドラマの救急医が着ている上下の青いパジャマみたいな服――スクラブというらしい――で、その上によれよれの白衣を羽織っている。足下は素足に灰色のサンダル履きで、ごつい足がズボンの裾から覗いていた。白衣の胸ポケットにはボールペンが数本と院内で使う医療用PHSが無造作につっこまれており、『救急科 虎屋仁之介』と書かれた顔写真付きの名札もくっついているが、それは端っこが裂けていた。
要は医者の癖に清潔感が無かったのだ。
さらに虎の太短い首からは紺色の聴診器がぶら下がっていたが、俺の記憶が正しければ直接首にかけるのはよくないと習った気がする。なんだっけ、衛生面の問題とか診察の邪魔だとか、そんな理由で。
そんな俺の訝しげな視線に気づいたのか、虎屋先生はがりがりと頭を掻いてじろりと俺の顔を見た。
いや、睨んだ。
「おい何ジロジロ見てんだ」
「あ、いや。その、先生の聴診器が」
言いかけて俺ははっと口を押さえる。
〝鬼の虎屋〟に初日から意見するなんて狂気の沙汰すぎる。
案の定、俺の曖昧な言葉に虎は眉根を寄せて声を荒げた。
「あぁ? 聴診器がなんだと? はっきり言えや」
「い、いえ、な、何でもないっす」
俺は必死に首を横に振ったが、虎屋先生は鼻の頭に皺を寄せて不機嫌そうな顔になってしまった。
「……おいお前。アキタケっつったな」
「は、はい。そう、です」
強面の虎に剣呑な口調で名前を呼ばれて俺はどもる。恐怖のあまり、背中の毛並みが逆立つのが自分でも分かった。
「てめえ、ERでもそのシャキっとしねえ喋り方しやがったら叩き出すからな。お前の中で自己完結されて勝手なことされんのが一番困るんだよ……!」
虎屋先生はそう唸ると、さらに念を押すように下から俺を睨みつけた。
ERとはEmergency Room――直訳すれば救命救急室のことで、つまり救急車で搬送されてきた患者を最初に診療する場所である。明日から俺はそこで働くことになるのだ。
「は、はいっ!」
俺は姿勢を正して声を上げる。
虎屋先生の尊大な態度はいけ好かなかったが、とりあえず素直に従っておくしかなさそうだった。
長いものには巻かれろ、だ。
「ふん。返事だけは悪かねえな」
そう言って虎屋先生はコーヒーを一啜り。さらに首筋を掻こうとしたのか右手を首に持っていき、その指先が聴診器に触れた。
本人も無意識のうちに首にかけたまま忘れていたのだろう、虎の顔がはっとしたものに変わる。
そして先程の俺の言葉の真意に気付いたに違いない。虎屋先生の顔がゆっくりと苦虫を噛み潰したようなものに変わっていった。
「チッ」
虎屋先生は顔を歪めて小さく舌打ちをし、
「……!」
それを目の当たりにした俺はついに冷や汗をかき始めた。
やはり聴診器のことなど指摘すべきではなかった。一年目の研修医にそんなことを言われて、ベテランの医師がいい気分なわけがない。
しばらく俺たちは気まずく見合うしかなかった。
「――あ、あの」
沈黙に耐え切れなくて俺は口を開くが、虎屋先生もそれとほぼ同時に口を開いた。
「……大方、俺の聴診器を掛ける位置が違うとか言うんだろうが、救急の場では忙しいからな、いちいちポケットにしまってらんねえしこれでいいんだよ! 学校で習ったことなんか現場で使えるか!! てめえはもっとしっかり勉強して来い!! わかったらさっさと行けこのボケ!!」
最後はほとんど八つ当たりみたいな咆哮だった。
「す、す、すいませんでした!」
がおおおっ! と猛獣が吼えているかの如くの怒鳴り声に、俺はほうほうの体で退散した。
そんな風に、俺と虎屋先生の出会いはおそらく互いに最悪のものだったのだ。