高いビルや車の長蛇の列などの無い、広い草原や生い茂った森が大部分を占める異なった世界。
魔物が蔓延り、平和な日常と命の危険が隣り合わせにとなっていた。人々もそれと戦う術として身につけた技術、体術、魔術などを駆使して、身を守りながら暮らしていた。
そんな満月の夜。
「まずい…早く帰らないと……」
薪拾いをしていた少年:アルトは、途中木陰で一休みに居眠りをしてしまい、気づけば夜まで眠っていた。
アルトは駆け足気味に森を抜け、草原に入り真っ直ぐに村へ向かっていた。
満月の夜は魔物達の動きが活発になる時間。人々にとっては最も恐怖に怯える夜でもあった。遠くのいたる所から不気味な遠吠えが聞こえ、アルトは急いで草原を抜けようと足を動かす。
草原を抜ければすぐに彼の村がある。あと少しと自分を急かしながら走る。
ゥルルルルルルルル…
突然、低い唸り声が後ろから聞こえた。
アルトの心臓は強く締め付けられ、動かしていた足を止めてしまう。
「はっ…はっ…はっ………」
アルトは息切れとは違う、恐怖によって息を乱し、体を震わせた。
握る拳からは汗が滴り、歯をガチガチと鳴らしながら、彼はゆっくりと音のした方へと目をやる。
ゥルルルルルルルル…
「あ……」
そこには大きめの狼が、四本の足で体を支えながら構えていた。
その大きさと漂う形容し難い雰囲気からただの獣ではなく、満月によって活性化された魔物である事が、子供であるアルトでも理解できた。
「やっ…やだっ……来ないで……」
獣を前にしてアルトは震えた足で一歩、二歩とゆっくり後退りする。
だがそれに合わせて獣も前へ、前へと足を出しながら少年に近づく。その満月のように黄色く輝く瞳は決してアルトから視線を逸らさず、じっと見つめながらじりじりと距離を詰めていった。
「あっ!」
ズサッ
後ろが見えず、小石に足をぶつけたアルトは尻餅をついた。
背負った薪の重さでうまく受け身が取れず、腰を打ちつけてしまった。
グルルアアアアアッ‼︎
その隙を見逃さなかった獣は、アルトを見据えたまま大きく飛び上がり、立ち上がれない彼目掛けて襲いかかった。
「うわああああああああ!!」
アルトは受け入れられない死を察し、恐怖で目を瞑りながら叫んだ。この世にまだしがみついていたいと、未練を断ち切れずに死を恐れた。
ガキンッ
嫌な未来を想像しながら獣が襲いかかるのを恐怖しながら待っていたが、硬い音が響いただけで何も来なかった。
アルトがゆっくり見開くと、誰かが立っていた。満月を遮るように立つその背中に、彼は見覚えがあった。
「アルト君!大丈夫?!」
背中の主である女剣士:ソラは、両手で持った剣で獣の顎を防ぎ、押し負けないように力を込めながら後ろで倒れている少年の心配をした。
ソラはアルトと7つ歳が離れていて、彼が生まれた時からよく面倒を見ていた中である。
「ソ、ソラお姉ちゃん…」
「帰りが遅いっておばさんが心配してて、来てみたら…あそこの岩陰に隠れてて!早く!」
「う、うん…!」
獣の威圧を上回るソラの迫力。
アルトも見た事がない剣士としてのソラの一面。
普段は面倒見のいい、剣以外不器用な優しいお姉さんだが、いざ戦闘になればそんな温かい笑顔をしまい、守るもののために戦う顔になっていた。
そんなソラの迫力に動揺しながらも、アルトは彼女の指差した方向にあった大きめの岩に身を隠す。
ガキンッキンッ…ザクッ…ズバッ‼︎
剣と牙がぶつかる音、何かが裂ける音、様々な音が飛び交っていた。
アルトはそんな音を聞きながら、ソラの無事を岩陰で祈る事しか出来なかった。
キャインキャインッ
しばらくすると、弱った鳴き声と共に草原を走り去る音が聞こえてきた。
アルトはその音から戦闘が終わった事を察し、ゆっくり岩陰から顔を出した。
そこには片腕を押さえながらも、満月を見上げて堂々と立つソラの姿があった。
「あ、お、お姉ちゃん!」
アルトはその光景を見てソラが勝利したと確信し安堵した。
そのまま岩陰から出てきて、立ち尽くすソラに向かって走っていく。
「アルト…君……」
ソラが怪我をした腕を押さえながらゆっくりとアルトの方へ振り返る。
次第にアルトの走る音が遅くなっていき、ソラの元に辿り着く前に彼は足を止めた。
いつもと何かが違うように見えた。見慣れた彼女の背中と首元まで伸びた髪、そこまではいっしょだった。
では、頭上から飛び出たあの山のような二つの影は何か、とアルトは疑問を覚えて足を止めた。
「お姉…ちゃん…?」
「……ご、めん……ね……」
彼女の頰を一筋の涙が流れる。その涙を流す瞳は、いつもと違い満月のように黄色く輝いていた。
アルトは獣の瞳と同じ目をしたソラからただならぬ気配を感じ、一定の距離を保ったまま彼女を見上げていた。
ドクンッ
「う"っ…ぅぐっ……ううっ!!」
ソラの心臓が強く鼓動を打つと、片手で持っていた剣を離し、震えながら体を抑えるように体を丸めた。
体の内から湧き上がってくる黒い何か。
それを抑えようと食いしばる歯は、鋭く尖っていき変化の兆候を見せていた。
「だ、大丈夫、お姉ちゃ…」
「ダメ、待って…来ないで!」
心配そうにゆっくり歩み寄るアルトを、強い言葉で止めるソラ。
ビキッ
「あっ…はっ…あぁあっ…」
自身の手から伸びた黒い爪を見て、ソラは震えた声を出した。
彼女の体の至る所が変わりつつあった。その特徴は先ほどの獣と似通っていた。
彼女が押さえていた二の腕には咬み傷のようなものが見えた。先ほどの戦闘で獣に噛まれた彼女は、体内に呪いのようなものが宿ってしまい、その身を魔物に堕とそうとしていた。
グギッググギギギッ
「ぐぁ…ああっ、あああああっ!!??」
軋む音が響きながら彼女の体が歪んでいく。
剣士にしては華奢な方であった彼女の体は筋肉が異常に発達していき、みるみる体が大きくなっていき、サイズの合わなくなった衣服を破り捨てていった。
また手も爪が伸びるだけでなく、指も太く長く形を変えていく。
足は踵が上へ登っていき、靴を破きながら爪と獣のような足を露わにしていく。
グギッゴギッゴキッ
「や…やだっ……やだぁ……」
背骨が浮き上がり、勝手に前のめりになっていき、二足歩行の獣の形へと変わったいく。
涙と涎を流し、痛みから白目を剥きながら彼女は呟いていた。
体が変わっていくにつれて、彼女の思考や心も魔物へと堕ちていっていた。
自分が別の何かに変わっていくのが怖くなる恐怖と戦いながら、目を大きく見開いてアルトに向かって手を伸ばす。
「お、姉…ちゃん……」
「に…にへて……アル、ト…くッ」
人としての自分が無くなる前に、大切なものをこの手で奪ってしまう前に、アルトに逃げるように伝えながら愛おしそうに歪んだ手を伸ばす。
アルトは変わっていく彼女の肉体と、悲しそうな黄色い目を見ながら、恐怖で立ち尽くしながら彼女言葉を右から左へ流してしまった。
グギギッ
「んがっ…?」
そんな彼女の思いを踏み躙るように、最後の変化が彼女を無慈悲に襲う。
口と鼻が前へ伸び始め、言葉も話せなくなった。
グギュゥグギギギギギギギッ
「あ"っあぐっぐぉっお"お"っお"お"オ"ア"ア"ア"ア"ッッ!!??」
容赦なく伸びる口に比例して、彼女の声も先ほどの獣と同じく低く不気味な声へと変わっていく。
白目を剥きながら甲高い悲鳴を上げ、声と共に残った理性も外へ押し流されていく。
「ウ"ゥ"ッ!ウ"ウ"ウ"ウ"ッ!ウルァウ…ゥルルルルルルッ……!!!」
一通りの変化が終わり、うっすらと体毛が生えた人肌の獣人と化したソラは二足歩行のまま体を揺らしていた。
体が落ち着いたが、彼女の頭と心はまだ荒れていた。
塗り替えられていく心、それに伴って書き換えられていく常識。彼女は牙を剥き出しにして頭を抑えながら最後の抵抗のようなものを見せるが、次第にそれもわからなくなり、今の自分に宿る本能に身を任せていく。
「ウウウウッウゥッ…ウッ…フゥッ…フッ…フッ…フッフッ……」
次第に唸り声も大人しくなっていき、呼吸を少しずつ大人しくさせながら、頭を抑えていた腕をゆっくりと下ろし、前に垂らす。
「お姉…ちゃん…?」
「フッ…フッ…フゥッ…クゥ…クゥン…クゥ……」
落ち着いていく彼女を見てアルトはゆっくりと忍足で近づきながらソラを呼んだ。
呼吸を整えながらソラはゆっくりと顔を上げ、アルトの方を見ながら甘えるような声を出した。
人であった頃の記憶は薄れ、いま自分の身に何が起こったか、目の前に立つ少年が誰なのか、理解不能な不安に襲われたソラは大きく上体を起こした。
「ゥアオオオオオオォォォォォォオオオンン……」
不安を消すために、心に浮かんだ方法で解消を試みた。
ソラに浮かんだ満月。自分を見下ろす月に母のような安心感を覚え、甘えるように大きく遠吠えをした。
これをすると安心する様な気がして、彼女は目一杯に声を出した。
「あっあぁ……お姉ちゃん…お姉ちゃん……」
アルトは再び草原の上に尻餅をついた。
変わり果てたソラと満月を見上げながら、届かない言葉を何度も呟いた。いつかその言葉が届いて、ソラが自分を見てくれると思って、何度も呟いた。
が、ソラは満月を見上げたまま吠えていた。守ろうとしていた少年が目の前で倒れた事にも気づかず、愛おしそうに満月を見つめていた。
その心は既に満月の虜になり、獣の本能で生きる事しか出来なくなっていた。