死にかけ人間と黒柴

  昔から人間として誇りを持ち、その血を絶やさないようにと教わってきた。獣人との恋はご法度というやつだ。

  この世界は人間と獣人がいる。世界の人口半数以上を獣人が占めている。人間は少ない。

  獣人には草食系と肉食系がいる。人間系も純粋な人間と、獣人を先祖に持つハーフなどがいる。透明人間や吸血鬼、食人鬼などだ。

  すべての種族に共通するところは、種族を守ろうとする過激的な一族が一定数いるところ。俺は、そんな家に産まれた。

  入間秋雨、14歳。入間家に産まれた長男で、秋の雨の日に産まれたからだろうか、体が生まれつき弱い。姉や妹はいるものの男だから、一番大事にされた。古い人間の家らしく両親や親戚は長男だと、俺の誕生を喜んだらしい。その日を境に、女の子である姉を見ることすらなくなったと、姉は呪いのように俺に言うのだ。

  「いいわね。あんたは誕生日を覚えていてもらえるんだから。」

  2人いる姉はどちらも俺を恨んでいる。その2人に面倒を見てもらっているのだから、当たり前のように妹2人も俺を恨んでいた。

  「病弱なくせに、大切にされていいわね。」

  「どうせすぐ死ぬくせに。」

  「私達は飾りみたいに、このパーティーに立ってればいい。」

  「まったく、楽だわー。」

  4人の呪いは俺を蝕む。両親は興味のない4人の声など聞こえないのだ。故に、俺は4人の言葉に丁寧に返すが、それを見える人はいない。俺は家族全員の言葉をしっかり拾わなければならない。なぜ、産まれてきたのかと理解できない。

  「すいません。」

  「あらあら、素敵な一人息子様は謝らなくていいのよー。」

  「そうそう。そんな頭を下げないでー?」

  「今日はおめでとうございます。」

  「ありがとうございます。」

  「いえいえー。で?こんなに素敵なパーティーに、素敵なごちそうだというのに、青い顔してどうしたんですの?」

  「ご飯食べてるのー?」

  同じような恨みの笑みを浮かべる姉妹4人の言葉に、冷えた汗が落ちる。これは感情から出た汗ではなかった。姉と妹の言葉通り、青い顔をしている俺はその日も食べ物を体が受け付けなかったのだ。

  「お姉様たちはわかっているでしょう。」

  俺は助けてほしいと期待をしていた。けれどいつも、その願いは届かない。無駄な期待なのだ。

  「お姉様?」

  目をキッと釣り上げたのを見て、俺は姉に謝る。

  「ごめんなさい。」

  視線を落としてまた頭を下げる。きれいな分厚い布のスーツは、なぜかそれでも体温を逃してしまう。どんどん寒くなってきた。ふらついてしまいそうな俺に、4人の冷たい視線が刺さる。

  「バッカみたい。こんなのが…一族のための男だなんて。」

  一番上の姉がそう言うのをきっかけに、妹が口を開く。

  「お姉様、行きましょ。」

  「そうね。」

  「せっかくドレス着て嫌なところに来たんだし、食べないともったいないわよ。」

  4人は目の前を去って行く。どうか、食べられない自分の分も食べてほしいものだ。

  「秋雨。」

  ふらついてしまった時、いつも柔らかい毛の手が俺の手を包み込む。

  「クロ…」

  「無理すんな。」

  「今は仕事中だろ、敬語。」

  「あ、つい…。悪い…あー、いや。すいません。」

  俺はつい微笑んだ。目の前に立つ大きな体の肉食獣人。大きな犬歯に大きな爪。フサフサの尻尾。裏切らないとわかる瞳。日本犬の黒柴のクロは、俺の家に代々使える芝山家の一匹だ。クロは俺と同い年。だから俺の執事と、産まれたときに決まったのだ。

  「気を抜くなよ。」

  「はい。」

  俺はそう言いながらも、クロの肩に頭を落とした。寄りかかる俺を、クロは拒めないと知っていて。

  あくまでもクロは俺の付き人なわけで、よく言う幼馴染ではない。クロも柴犬という種族を絶やさないようにと教えられてきた。一族の血を絶やしてはいけない、二人ともそう教えられてきた。

  つまり、クロへの恋心は一生叶うことがないのだ。

  けれど、やはり、彼は一番特別な男だった。

  「おい、秋雨…呼吸が早いぞ。」

  「ふっ…主人の呼吸の異変すらわかるとか…さすがの犬だな。」

  「俺は嗅覚が鋭い種族なんだ。種族の健康状態くらい匂い嗅いでわかるさ。」

  忠犬である日本犬の血筋を発揮して、クロは完璧に俺を守る。守るためには時に歯を見せて唸ったりもする。そして、時には俺を喜ばせるためにイタズラも、一緒に悪さもしてくれる。俺の家での悪さと言ったら習い事をバックレるくらいだったが。

  そんな犬の美しさに、惚れないわけがなかった。

  「大丈夫か、薬なら…」

  「いや、いらない。」

  「じゃあ…きゅうけ…」

  「いらない。今は仕事中だ。」

  「でも、」

  「クロ、心配はいらない。」

  今は俺の誕生日会という仕事中だ。大きな体のクロがかがんでまで心配してくれても、逃げるわけにはいかない。クロは忠犬だ。嫌そうにしながらも、命令は絶対だ。

  「わかった。」

  「ありがとう。」

  クロはピッシリと立ち直した。背筋を伸ばして視線を外に向けても、それでも気配でわかる。ずっと俺を見ていると。

  音はないけれど、心の中で人生何度目かの「好きだ」と言った。

  [newpage]

  秋雨という名前は呪いだ。誕生日会の後に降り出した雨は、俺の熱を酷くさせた。

  「おい、大丈夫か。」

  クロは心配になるとなかなか部屋から出てくれない。いくらフカフカのベッドだろうと、寝付けないほど苦しい夜はある。うなされている俺を見ると、クロはどうしても離れられないらしい。

  部屋には主治医が処方した薬も、飲水も何でもある。けれどいくら物があろうと、治らないものは治らない。

  愛されているのだろう。けれど、

  「淋しい…」

  「わかった。」

  手を伸ばせば、クロは必ず握り返してくれる。

  「ありがとう。」

  お金をいくらかけられても、いくら教育をくれても。両親はどこか…見てくれていなかった。

  必要な時に必ず応えてくれたのはクロだけ。

  本当に欲しいのは。

  「帰りたくなったら、帰ってくれていい。」

  「え?淋しいんだろ?」

  「ああ。」

  「じゃあ、帰らないよ。」

  クロはいつもそう言ってくれる。しかし、いつか彼の帰る場所には違う誰かがいて、それは俺じゃなくメスの柴犬なのだ。

  「俺がお前を縛るわけにはいかない。いずれ、お前はお前の家を守らなければならないんだ。」

  自分にも言い聞かせるように言った。クロは少しだけ寂しそうな目をする。

  そんな顔するな。そろそろ解放するのだから。

  主人は変わる。俺はそこまで長くは生きれない。あと僅かな時間なのだ。だから、少しだけ。少しだけのワガママを許してほしかった。

  全寮制の学校を選んだのは父だ。その理由はその学園が世界的にも有名な、あらゆる種族が一緒に学ぶ学校だったからだ。同級生は草食系、肉食系、人間系すべて。

  だからこそ、クロも同じ学園に通うことが叶った。朝の登校も、夕方の下校も一緒に学園内を歩いた。授業も同じものを受けることができた。

  俺の家は人間という種族を大切に守る家であり、経営している会社も有名なものだ。親戚も違う会社を経営しており、いわゆる金持ちだった。学園内でも、俺は有名になってしまっていた。

  知られていないこととしたら、俺が死にかけであるということだけ。

  クロも俺の付き人として学園内で認識されていて、誰もが俺達の主従関係を疑わない。俺もクロも女の子を愛すると思われている。

  しかし、クロはそうかもしれないが、俺は違う。昔からずっと、初恋も。

  「え?デート?」

  「そ、そうなんだよ…。困るよな…。」

  クロはうつむいて言う。どうやら告白されて、返事はデートの時にと言われたらしく、その気がないので困ると言っていた。俺はつい笑った。

  「いいじゃないか、学生らしくて。」

  「でも、俺は言ったんだよ。許婚がいちおういるんだって。」

  俺はきっと、一瞬だけ笑顔を忘れてしまった。そう、クロには許婚がいる。それは俺もだ。許嫁候補が数人いて、いずれはその中で父が選ぶのだ。

  「でも、学生のうちにそういう恋愛も経験しとくといいんじゃないか?」

  「それは!…秋雨も…そういうこと…いずれは、するって…こと?」

  「は?」

  「あっ!い、いいや!その…秋雨は勉強第一だもんね…ご、ごめん、変なこと聞いて…。」

  なぜ怒っているのかと驚いたら、いつものナヨッとした柴犬に戻った。クロは真面目すぎるところがあって、学園に入学してからは少しだけ周りの友人に揶揄われていたくらいだ。少しでも遊ぶということを経験してほしいから、たまに俺が背中を押すように「遊んでこい。」と言うようにしていた。

  そうしなければ、この忠犬は羽目をはずすということもできない。彼は犬なのだ。主人のことばかり考えるような種族なのだ。

  「いいや。俺は家のことがあるから、恋愛はいいんだよ。諦めてるさ。それより、クロは時間もたっぷりあるんだから、遊んでこいよ。」

  「時間って…」

  クロは俺と同い年。まだ言ってしまえば子犬。だから、俺の体のことは知っていても、死ぬことまでは考えていないと思う。どこまで忠犬が察しているのか、俺はそこまで気にしないようにしている。あえてなにも言葉にしないように気をつけている。

  「気にすんな。」

  俺はいつものように背中を押した。無情な奴だと思われてもいい。主人の気配を察知するのが犬だ。苦しげな顔をしているクロに、俺は聞くなと目で返す。それが、どれだけ傷つけているかは、わかっていないふりをする。

  嫌な飼い主になりたかった。

  「女の子に失礼なことしないようにな。」

  笑ってドアを閉めた。この学園は人間系の寮と、肉食系、草食系の寮はバラバラだ。

  「わざわざ了承を得るために人間系の寮に来るあたり、さすがの忠犬ぶりだな。」

  ドアを閉めて、暗い部屋につぶやく。寂しい部屋に落ちているのは薬の袋だけ。[newpage]

  「秋雨さん、今日こそ…。」

  布団の上に寝かせられて、上にまたがる婚約者が困った顔をする。相手は年上の人だ。当然、14歳の俺が命短い男だから用意されたのだ。

  たった一人の跡取り息子が短命ならば、さっさと繁殖させておかなければ血が絶えると思われているのだ。人間という種族と、一族の築き上げた企業を誇りに生きている両親や親戚たちが用意した婚約者。彼女も遠く遠く血が繋がっている。

  選ばれた彼女が俺が死んだ後に子供を宿してくれていたら、それだけで家は安泰。彼女は遠縁なので裏切ることもしないだろう。

  そう、俺はただ血を残せばいいだけの存在なのだ。

  けど、だとしても。

  好きでもないんだ。

  「ごめん…なさい。」

  泣きながら頭を横に振った。

  落胆したような彼女の顔が頭にこびりついて離れない。

  何度も拒否されたら、そうなるだろう。

  家に帰ることが嫌いなのも、女が好きじゃないことも、誰にも言えない。

  「秋雨…大丈夫か?」

  「大丈夫だよ。」

  部屋を出たら、クロが心配そうに顔を覗き込む。クロは体がでかい。さっき跨がっていた彼女を思い出すと、小さかったなと感じるくらいには大きな違いがある。けれど、恐怖は不思議と感じない。

  クロの方が食べられそうなほど、大きな口と牙と爪を持っているのに。

  「うわ!な、なに。」

  彼の手を握ると、肉球がある。彼の手は温かい。

  「クロは…温かいな。」

  「秋雨は…冷たい…?え?」

  「最近、倒れること多いわねぇ。」

  「早く跡取りを作ってもらわないと。」

  最近倒れることが増えた俺は、目を覚ますたびに襖の向こうに聞こえるささやき声を聞く。痩せるたび、血を吐くたびに冷ややかな目を向けられる。

  きっとみんなと違うテンポで減っている時間を感じるたびに、クロと離れていくことを止められない実感が湧く。何をしても、クロの幸せを見るたびに心の中で叫ぶ。

  いなくなっても、忘れないで、と。

  「なんで…獣人と人間って違うんだろうな。」

  「な、なにその…解決しなそうな疑問。」

  「たしかに、そうだけど。不思議に思うだろ。何もかもが違うのに、何もかもが近すぎだ。」

  「え?」

  「種族を守ろうとする、俺の一族のようなものがある。種族を守るということは、他種族との違いを守ろうとするということだろ?混じらわないようにしているんだろう?

  けど、違うのに…愛するということも…守ろうとすることも同じ。違いなど、意外とないんだ。その共通点も違いも知るたびに、俺は魅力を感じてしまう。」

  好きになることをやめられず、女を知ることを嫌がって、一族を守るための男としては不能だ。それを痛感するたびに昔の夢を見る。

  獣人の男を好きになるなんて、人間の男だとしたら特殊性癖以外に言いようがない。

  自由に恋することを許されない身分に産まれたのに、なぜこんなにも諦められないのか。なぜこんなにも悲しいのか。なぜこんなにも、情けない男になってしまったのか。

  「泣いてはいけない。早く…早く…」

  子供を作りたくないのならば、さっさと死ねばいいものを。なぜこんなにも生き長らえようとするのか。

  手放せない薬を握りしめた。

  「クロに話しておけよ。」

  「クロ…」

  「お前のために今まで頑張っていたんだぞ、感謝くらいしなければな。」

  「はい。わかっています。」

  「お前には飽きれた。こんなに金も時間もかけたのに…情けない。」

  父は今年までの命にため息をついた。俺の中に流れる人間の血はやはり脆かった。

  「さっさと逝くならば、残す者たちに挨拶をしてから逝けよ。」

  「はい。」

  「何者にもなれないお前は、なんのために…」

  なんのために産まれたのだ、と言いたかったのだろう。ここまで言っておいて、それだけは躊躇う意味がわからない。

  あれだけにこやかに話しかけてきていた両親は、もう冷たい視線しかくれなかった。[newpage]

  「うふふふ!」「あはは!」

  庭の外は明るく、俺の部屋は暗い。外に出る元気すら失くなった。

  過剰なほど寄越してきたお小遣いは奪われずにすんだ。勉強机に残った分厚い封筒だけが、残った両親の愛の形だ。

  泣いても仕方がない。封筒に落ちる雫を、気が付かないふりをした。

  子も残せなかった子に、興味などないのだろう。手のひら返しのように、両親は4人の姉妹に夢中だった。

  この世界に、自分だけがいないようだった。

  淋しい。心の中に乾いた冷たい風が吹き抜けるようだった。

  誰か、覚えていてくれますか。

  ここで生きたよ…

  なんて、言っても…仕方がないか…。

  「秋雨…!俺、今日!突然!」

  ガタンゴトンと音を立てて、ドアを蹴破るようにクロが部屋にやって来た。俺の顔を見て、忠犬はまた時を止める。こうなれば喋る許可を貰わなければ話さないだろう。視線を送ると、今回ばかりは喋りたいのだと、震える口で続けた。

  「と、突然旦那様に、秋雨の世話は終わりだって…秋雨の付き人じゃなくなるって…」

  「クロ…」

  「え…」

  「海とか…行こうか。」

  そう。お小遣い、最後にすべて使わなくては。もったいないから。

  俺は失敗したのだ。役目を果たせなかったのだ。

  この世界では種族がすべて。

  でも解放された気分だ。やっと終わる。

  恋は叶わなくても。

  「あ、秋雨!」

  「ん?」

  「う、海なんて入ったらまた…」

  「大丈夫。熱は出ないよ。」

  「なんでそんなこと、言い切れるんだよ!」

  心配されたのだろう。必死な顔のクロは俺の手を掴む。裸足で海に入ったことがそんなに心配なのだろうか。もう、終わるのに。

  クロは知らないからだ。少しだけ遅れてそう気がつく。自然と笑ってしまった。

  「お前はいっつも心配しすぎだなー。」

  この1年、体調が良いと思った日は一度もなかったけど、クロの顔を見れば幸せだったように思う。

  最後に、少しでも恋人の時間が過ごせたら、14年間の人生で一番おっきな夢は叶ったのに。

  「なあー、クロ…一人の時間、少しだけくれるか?」

  「え?い、嫌だ!」

  「えっ…、」

  クロが命令を背いたのは初めてかもしれない。

  驚いて顔を上げると、クロは黒柴と言うには弱々しい顔をしていた。

  「な、なぁ…なにがあったの。教えて。」

  クロは涙目で言う。

  大きな背中で大きな腕で、大きな爪に犬歯に。たくましい獣人の男。それが小さく見えるような気がする。

  決して弱さを見せない日本犬が、甘えたような、喧嘩に負けたような、情けない顔。

  あー、そうか。こんな一面も、お前は見せてくれるのか。

  余計に好きになってしまうじゃないか。

  違いも共通点も見つければ見つけるほどに魅力的に、瞳に映ってしまう。

  「大丈夫。クロには、迷惑かけない。」

  「そんな、迷惑だとか、そんな話してない!大丈夫は信用できないよ!」

  犬らしくない言葉だった。けれど、クロと俺は主従関係だけじゃないんだ。少なくとも俺は、それ以上に大切だった。大好きだったから、突き放したんだ。それが相手を傷つけるとしても、役割を果たせなかったから。

  「クロ…どうか…信用しなくていいから、言うことは聞いてくれ。」

  クロの顔が傷ついていると伝えてくる。顔だけじゃない。あの可愛い尻尾も落ち込んでいた。

  「俺は…」

  クロは無視して声を発する。俺は、クロが忠犬だとしても、ただの忠犬じゃないことくらいわかっている。遮ってその言葉の続きを言えるくらいには、ずっとクロを見てきた。

  「お前は、気づいている。だから、ありがとう。さようならって、言いに来たんだよ。」

  「ヤダ、ヤダよ…これには言うこと聞けない。」

  クロの「嫌だ」が主人に対するものならば、俺は傷つく。

  貰った小遣いでできるだけ遠くに来た。クロの帰る小遣いくらいは残したはずだ。一人分の運賃くらいはある。そろそろ太陽が見える時間が来るだろう。

  初めて来た2人だけの旅だ。これがもし、愛し合っている関係だったら、どんな味のする時間だっただろうか。叶わない想いを忘れずにその時を迎えるために、怖くない瞬間を作るために来たのだ。

  「できるだけ、酷いことは、言わないで。」

  最後にワガママを言うことくらいは許してほしいものだ。

  面白いことに、人は死ぬ前までに手紙を書く余裕や文書を考えつく頭の回転は起きないらしい。死ぬ前だからわかった新しいこと。

  遺言なんて、意外とないものだ。

  いつもはうるさい犬の声も、今は小さくなっている。

  意外と精一杯生きていた。だからそんなに悲しい顔をしないでくれよ。

  俺の可愛い犬。カッコイイ憧れの男。

  そんな顔をさせていたのは誰でもない俺だ。そうか、君を不幸にさせていたのは俺なのか。

  「やめてよ、そんなに優しい笑顔しないでくれよ。」

  「湿っぽい最後は嫌なんだ。だから、一人にしてって言ったのに。」

  海に連れて行ってと言ったのも、精一杯のワガママ。道中に具合が悪くなっても、クロを困らせるために「行く」と言った。せめて最後くらいは、怒らせるくらいにワガママな悪い子になりたかった。

  「なぁ、クロ。」

  「なに…」

  「この世界では、人間は珍しい種族だ。けど、いなくなる日が来ると思う?」

  「なんの話?」

  「俺の一族が、必死になって守るほどのものかって話だよ。」

  「わ、わからないけど…。獣人よりは少ないのは確かだろ。」

  「そうかぁ…。けど、きっと今どこかで愛し合う人がいるはずだよ。叶わない恋も同じくらいあって…誰かのそれは小さなことに過ぎない。」

  一緒にいることは叶わない。わかっているけれど、今でもこの恋が許されていいものなんじゃないかと、諦めきれない。

  「淋しいなぁー…」

  「秋雨…ねぇ…」

  「クロ、幸せになってくれよ。」

  「ま、まって…俺の主人は秋雨だけだ。命令してくれ。それが犬として産まれた俺の最高の喜びなんだ、きっと、」

  「…」

  「こんなところに連れてきて、なにが言いたいんだよ。言ってくれ、なぁ、頼むよ。嫌だよ、なぁ…」

  「…」

  返す言葉を失って、なんて言えばいいんだろうと不思議と冷たい頭で考えた。14年間、ずっと抱えていた。

  [newpage]

  「愛してた。」

  「…っ」

  「言いたいことは、それだけかな。」

  あれ、聞こえていないらしい。なんで…

  「秋雨、ど、どうしたんだよ、なぁ、なんで……?!」

  気がついたら、血が溢れていた。口から溢れる血に言葉を邪魔されたようだ。また伝えられなかった。

  その事実で、何かプツンと糸が切れたような音がした。頭の中でその音がした瞬間から諦めがついた。

  少しだけ距離があって離れていたから、足がふらついてよろけるけど指を遠くの自販機に向けた。

  「わ、わかった…で、でも…」

  「来なくていい。」と手で表す。ずっと拒絶する言動をしていたから、クロも主人の命令に逆らえずに俺に近づけないんだろう。了承を得ないと、クロは接触しないもんな。

  「く、薬もあるから、飲もう!」

  クロはいつも以上に焦って慌てたようで走って自販機に向かう。しかし、内心それを馬鹿だなぁと思う。もう薬なんて効かないから。

  足がふらつく。力なんてもう入らないんだ。よろけるたびに、海の波が喜んだように足を引っ張る。ドサッと倒れれば、同時に胸を打って呼吸を一瞬止める。それを引き金にして呼吸が荒れて乱れた。

  咳をすれば肺は痛む。心臓は共に乱れて痛みと吐き気を強くさせる。吐けば混じる血液。もう長くないことはわかる。あと数分、数十分だろうか。いや、これはもっと苦しんで死ぬだろう。そんなに早く逝かせてはくれないだろう。

  「なんだ…いい匂い…あれ…?!」

  「ん…」

  「死にかけの、人間だ!珍しいなぁ!」

  目を開けると、クロじゃない。

  あー…喰われるなら…クロが良かった…。

  こんなに…望みの叶わない人生…幸せだったように思えない。

  淋しい。悔しい…。

  「やめろ!うそ!秋雨!秋雨!」

  そう呼ばれた時には、もう意識が途切れそうだった。

  痛かった。

  この世界ではあるあるの事件だろう。喰われて死ぬことなんて。

  けれど、そうやって死ぬのもこの世界の当たり前。

  けれど、食べられて栄養になるならば、愛しい犬の餌になりたかった。

  なにもかも、叶わない14年。

  「秋雨、痛いよな、今すぐ救急車呼ぶから!」

  犯人はもう殴られて気絶しているらしいな。

  でも、喰われたことなんてどうでもいいんだ。痛むごとに血が流れて、寒くて、震えて止まらなくて、また血が流れる。この血も全部、食べられるなら、お前が良かったのに。

  悔しい。淋しい。寒い。冷たい。

  ねぇあと少しの間でいいから。

  「秋雨…秋雨…」

  泣かないでいいから、どうか、その大きな手で包み込んでほしい。

  鼻に少しでも残して、君の獣の匂いを。もう僅かしか肺に空気が入らない。肺に溜まる血が、痛みを感じさせるから、忘れずにいるために、少しでもその匂いを。

  もう、耳もほぼ聞こえないんだ。

  寒くて、淋しいんだ。

  「……あ…………あき……!」

  伝えたかった。

  ずっと、愛していたこと。

  一人にしないで…。

  忘れないで。

  この世界に生きてたこと、どうか、忘れないで。

  君と、恋がしたかった。