男子学生のみなさん:○○の提供にご協力ください(前編)
「――[[rb:犬房 > いぬふさ]]さんに、[[rb:男虎 > おのとら]]さんですね」
俺たちが案内されたのは、六畳足らずの小さな部屋だった。
ほのかに消毒薬のような匂いが漂い、昼白色のLED照明が、壁や天井の無垢な白さを際立たせている。そんな清潔で無機質な雰囲気を隠すように、部屋の両脇には、柔らかなベージュ色をした合皮のソファ。一人がけにしてはゆったりと大きく、座り心地も良さそうだ。
「今回担当をさせていただく、[[rb:兎耳川 > とみがわ]]と申します」
一人の兎獣人が、部屋の中央でぺこりとお辞儀をして俺たちを出迎えてくれる。白衣の縁から薄桃色の繊細な毛を空調の風にたなびかせ、真っ白な長い耳をぴんと立てた青年は、中性的でとても愛らしい声と顔立ちだ。そんな彼のそばには、ステンレス製と思しき円筒形の物体が設えられている。天面は腰ほどの位置にあり、椅子にしては高いが、テーブルにしては小さすぎる。
「えっと……お二人とも、今回が初めてですね。学部生の方ですか?」
「あっ、は、はい。俺も男虎も、工学部の三年生です」
子供のように小さな白い手で書類をめくりながら、可憐な声音で問いかける兎耳川さん。俺はすっかりどぎまぎしていた。妙に心臓の鼓動がうるさくて、ひどく喉が渇いてくる。それは隣に立つ虎獣人も同じなのだろうか。なにせ、普段は元気だけが取り柄の男なのに、今は俺の傍らで黙っているのだから。
「ふふ、そんなに緊張しないでください。二人はご友人同士でしょう?」
「やっぱ分かるっすか? へへ、俺が犬房を誘ったんすよ。一度試してみないかって」
いや、やはり俺の勘違いだった。柔らかな笑顔に調子づいたのか、いつも以上に馴れ馴れしい調子で男虎がずいと前に出る。もう冬だというのに青のタンクトップなんか着て、擬似白色光に誇張された黄色の毛が、視界の隅で目障りなほど鮮やかにちらついた。
「なるほど。虎獣人も犬獣人も全国的に不足しているので、とても助かります」
「へえ、そうなんすね。ほら犬房、やっぱ俺の言ったとおりだったろ」
こいつは一年の頃から、なんだかんだでずっとつるんでいる友人だ。学科は違うのだが、同じ講義でたまたま隣の席になったのがきっかけで知り合った。悪いやつではないのだが、誕生日が数ヶ月早いというだけで年上ヅラし、主導権を握ろうとするからたまにウザい。
「……虎は分かりますけど、犬獣人のなら有り余ってると思ってたんですが」
「確かに供給は多いのですが、需要も多いので結局足りないんですよ。犬獣人なら誰でも同じというわけではなく、体格や毛質、耳や尾の形状などでも細分化されていますし」
俺の疑問に、兎耳川さんはさらりと答えてくれる。ああ、なるほど、言われてみれば確かに。血筋に拘泥する価値観は廃れつつあるとはいえ、多少は父親に似た特徴を子供に残したいと考えるのは自然なことだろう。異種族婚であってもそれは変わらないのか。
「犬房さんのように全身真っ白の犬獣人は、結構珍しいそうです。虹彩のダークグリーンも特徴的ですし、喜ばれる方はたくさんいらっしゃるのではないかと」
「兎耳川さんっ、じゃあ俺はどうっすか? この青い眼もなかなかのもんっすよね?」
「ええと、確かに僕はあまり見たことがないですね。毛色との対比が素敵ですよ」
「やっぱそうっすよねー。補色、でしたっけ、服も青いのよく買ってるんすけど――」
男虎のしょうもない話をよそに、俺は少しだけ安堵していた。猫と並んで数の多い犬獣人の俺にだって、必要としている人はたくさんいる。つまり、俺が今からやることは間違いなく立派な社会貢献なのだ。それなら、何もやましく思うことなどない。
ぐっと唾を飲み込み、深く息を吸って心を落ち着ける。
「――さて、順番を待っている方もいるので、そろそろ始めていきましょうか」
無駄話を滑らかに切り上げると、兎耳川さんが表情を少し引き締めて、告げる。まるで、俺の覚悟が決まるのを待っていたような、そんなタイミングだった。
「では改めて……本日は、精液提供にご協力いただきありがとうございます」
***
俺があの衝撃的な文言を初めて目にしたのは、およそ二年と八ヶ月前のこと。
地方の県立進学校で上の下といった成績だった俺が、それなりに苦労して合格した、首都圏近郊の国立大学。周辺は適度に発展していて暮らしやすく、娯楽もあるし交通の便も良好、そんなちょうどいい環境も魅力だった。そこそこの価格できれいな部屋も見つけられ、一抹の寂しさと大きな期待を心に抱きながら、ついに迎えた大学生活初日――そう、初日だった。
全学の新入生オリエンテーションが終わり、これで解散かと思いきや、なぜか男子学生はその場に残るようにとのアナウンス。このご時世に性別限定とは、いったいどんな話が始まるのだろうか。誰もが怪訝に思っていると、一つの人影が壇上に現れた。大柄の白熊獣人。入学式でも見かけたその初老の男性は、誰あろう、この大学の学長である。
「皆さんも御存知のとおり、私たち獣人は、犬や猫をはじめとし、たくさんの種族が一つの社会でともに生活しています。そこには当然、異種族間のつながりが生まれます。互いに愛し合い、生涯を共にすることを望む人たちも、たくさんいるのです」
そんな感じで、学長は話を切り出した。この国では、およそ六千万の獣人と四千万の人間が、別々の街で暮らしている。単一の生物種で構成される人間と違って、獣人の社会は、学長が言うとおり結構複雑だ。種族によっては、都会に出たら同族が一人も見当たらない、なんて笑えない話もままある。その点について言えば、俺は犬獣人で本当によかった。
「そのような人たちが差別や偏見にさらされる悪しき時代もありました。ですが今は違います。皆さんの中にも、異なる種族の学友に恋したことのある人が、少なくないでしょう。そしてそれは、ごく自然なこととして受け入れられています。いい時代になったものです」
他種族どころか、よりどりみどりの犬獣人とすら恋愛と呼べるような経験のない俺には実感が湧かなかったが、周囲を見渡すと、うんうんとうなずく男子学生がちらほらいて。くそ忌々しいリア充どもめ。爆発しろ。
「……ですが、まだ一つの問題が残っています。異種族の夫婦を苛む最大の問題。それは、子を成すことができないということです。犬と狼など、一部に例外はありますが」
それはそうだ。若い頃はいろんな種族と遊んでいても、大人になるとほとんどが同種族に落ち着くのもこれが原因。まあ、俺はゲイなのでそもそも最初から関係なかったんだけどな。ヘテロの人たちには深刻な問題なんだろう。
「もちろん、それだけが恋愛の目的ではありません。ですが生き物である以上は、血を次世代に残していくことを避けては通れないのも、また事実です。皆さんが今、本学の一員となってこの場にいられるのも、そうした営みのおかげなのですから」
耳は痛いがこれはそのとおりだと思った。獣人には同性愛者が多く、その比率は三割とも言われるが、それでも人口を保てるのは、主に異性愛者が多くの子を産み育てているからだ。
「近年、獣人の出生率は急速に低下しています。人間と比べれば高い水準を保っていますが、低下のペースを見れば、獣人の方がより深刻なのです」
獣人の同性愛比率の高さは、生殖能力の高さと関わりがある。俺たちは子供の頃からそう教えられてきた。人口爆発を防ぎつつ、いざとなればすぐに子孫を増やせる巧妙な仕組み。しかし、そこに綻びが生じつつある。学長の指摘は、そういうことなのだろう。
「種族の壁を越えた自由な恋愛と、出生率の維持の両立。この重大な社会的課題に、本学は率先して取り組んでいます。解決のため、ある実証実験を進めているのです。これからその資料を配ります。少し衝撃的な内容かもしれませんが、落ち着いて聞いてください」
前の方の席から、パンフレットが配布される。それに合わせて、ざわめきが波のように広がってくる。それが俺のところにまで押し寄せるのに、さほど時間はかからなかった。
【男子学生のみなさん:精液の提供にご協力ください】
はあ?
表紙に当然のように鎮座するその文言に、俺の思考が停止したのは言うまでもない。
「ご覧いただいたとおり、本学医学部では精液の提供を受け付けています。学生に限らず、教職員や事務職員も含め、本学の男性構成員であれば原則として誰もがご協力いただけます」
俺たちの困惑を意に介さず、いや、あえてスルーしたのか、白熊は落ち着き払った様子で話を再開した。その場に残った司会やその他の職員たちも、顔色一つ変えなかった。
「皆さんの多くが、自慰などで日常的に射精されていることでしょう。これまではただ捨てられてしまっていた、たくさんの貴重な子種。その一部だけでもご提供いただければ、多くの悩める夫婦に喜びがもたらされ、社会に大きく貢献できるのです」
言いたいことは分かった。まあ筋も通っていた。しかし、新入生全員にいきなり伝える話とは思えなかった。いくら獣人の社会が性に対して比較的オープンであるとはいえ。
「興味のある方は、お気軽に保健センターの二階にお越しください。予約等は不要です。精液の採取は、専用に開発した器具による陰茎刺激で、安全かつ衛生的に行われています。もちろん、皆さんに不利益がないことは、学長であるこの私[[rb:樫熊 > かしくま]]が保証しますよ」
やや芝居がかった力強さで胸を張りながら宣言すると、学長は一礼して微笑み、そのまま降壇し去っていった。拍手の代わりに、止むことのないざわつきで満たされた講堂から。
大学では研究の多様性こそが命と言うから、変なことをする人がいてもおかしくはない。ところが今回出てきたのは、他の誰でもない学長だ。後で調べてみたら、大学の公式ウェブサイトにも写真がでかでかと掲載されていたから間違いない。ついでに数年前まで医学部長だったということも分かったが、ともかく、一部の変わり者が暴走しているのではなく、大学公認のプロジェクトだということは確かだった。
俺はとんでもない大学に入ってしまったのではないか?
そんな不安に襲われもしたが、その後始まったキャンパスライフは、入学前に思い描いていたとおりのものだった。つまり、高校の詰め込み授業から解き放たれ、講義とレポートをそれなりにこなしつつ、バイトに飲み会にと、忙しくも充実した楽しい日々。
さらに後日、例のプロジェクトの特集がテレビで組まれているのを目撃。精液の提供を受けて子供を授かった異種族夫婦の喜びの声が流れ、なんと関係省庁が他の大学にも導入を働きかけているとか。その頃には大学に愛着が湧き始めていたこともあり、思ったより悪くない仕組みなのではないかと感じるようになったのだった。
***
――とはいえそれは、あくまでも他人事としての話。
ボランティア活動に傾倒した一部の学生や、多忙で性欲を持て余した一部の教員が参加しているだけで、自分も含めた大多数には無関係だと思っていた精液提供に、俺がこうして臨むことになったのは、そう、友人の男虎にしつこく誘われたからだ。
「部の先輩に聞いたんだけどよ、みんな結構しょっちゅう通ってるらしいぜ? なんか、すっげえ気持ちいいらしくてさ。な、俺たちも一回行ってみねえ?」
こんな感じで。
最初は「気が向いたらな」なんて流していたが、それ以降顔を合わせるたびにこの話題が出てくるようになり、さすがに辟易して、ついに折れてしまったのだ。まあ俺も雄だし、「すっげえ気持ちいい」なんて言われて、興味が皆無というわけでもなかった。学長が言っていた「専用に開発した器具」に、全く期待しなかったと言えば嘘になる。
男虎に誘われたというのは口実で、俺は自ら望んでここにいるのかもしれない。
「では改めて……本日は、精液提供にご協力いただきありがとうございます」
兎耳川さんの澄んだ声音とは対照的に、俺の心は結局、欲望まみれというわけだ。
「問診票にも記入いただきましたが、念のために改めてお伺いします。精液を提供していただくためには、原則として前回の射精から二日以上、七日以内である必要があります。お二人とも、その点は問題ないでしょうか?」
「大丈夫っす! 金曜日にヤッたのが最後だから、今日で四日目っすね」
「はい、俺も――」
流れで肯定しようとして、そこで唐突にフリーズする俺の頭。
あまりにも自然すぎてスルーしそうになったが、今、男虎が何か変なことを口走ったような気がする。だっておかしいだろう。俺たちモテない工学系雄獣人が射精するなら、手段は一つしかないはず。こう、右手でやるあれだ。それを「ヤる」とはあまり言わない。
「お、おい男虎っ……何だよ『ヤッた』って」
「んあ? いや何って、陸上部の豹藤先輩と飲んでたら、そういう流れになって。前にも話したことあるだろ? ここのことを教えてくれたのも豹藤先輩」
「いや、その人のことは知ってるけど……え?」
豹藤先輩というのは、薬学部四年生の豹獣人だ。会ったことはないが、とても気さくで頼りになる人で、よく世話になっているのだと男虎がいつも話しているので、名前だけは知っている。しかし、「そんな意味」でまで世話になっているなんて話は初耳だ。
しかもそれを、俺だけならともかく、他人のいる場所であっさり喋るだなんて。
「なるほど、豹藤さんと親しいんですね。彼はご自身の精液提供に留まらず、多くの学生さんを紹介してくださるんです。明日いらしたらお礼をしておかないと」
しかし兎耳川さんには動揺の欠片も見られない。普通にセクハラだと思うのだが、むしろ顔をほころばせて喜んでいる始末である。大丈夫なのか、この人。
「犬房さんはいかがですか」
「あ、ええと、その、日曜の朝に……なので、ギリギリ二日は経ってます」
「マスターベーションですね。若い方なら二日あれば全く問題ありませんよ」
恥ずかしいからぼかしているのに、なぜわざわざはっきり言い直す。嫌がらせなのか。男虎がにやついた顔で俺を見ているのに気づき、牙を剥いて睨み返す。
「それでは早速始めましょうか。お二人は今回が初めてですから、丁寧に説明しますね」
「了解っす!」
「……はい」
快活な男虎の返事と違って、俺は声に少しの不機嫌をにじませていた。そんなささやかな反抗心は、しかし、次の瞬間には容易く打ち砕かれることになる。
「まずズボンとパンツを下ろしてから、こちらの布を敷いてお掛けになってください」
「えっ」
どこから取り出したのか、真っ白で柔らかそうなタオルを差し出しつつ、何やら奇妙なことを言い出す兎耳川さん。それも、さも当たり前のことであるかのように自然な調子で。
「精液で汚れるおそれがあるので、陰部がしっかり露出するようにしてください。もちろん全部脱いでしまっても結構ですよ。一番リラックスできる形で――」
「い、いやそういうことじゃなくて、その……兎耳川さんも、一緒、なんですか?」
抑えきれなくなった困惑が、滑らかに流れる案内を遮った。兎耳川さんが目をぱちくりさせているので、まさか俺だけがおかしいのかと不安になったが、男虎に目を向けると、俺と同じように固まっている。よかった、つまり俺は正常だ。
「ご存知ありませんでしたか。国の指針で、他人の精液が混じるなどの事故がないよう、器具の装着まで担当者が行う決まりなんです。どうぞご了承ください」
「へえ、そんな決まりがあるんっすか! うーん、なら仕方ないっすね」
しかしこの虎は馬鹿なので、この説明だけで納得し、グレーのスウェットパンツを恥ずかしげもなくいきなり下ろしてしまう。さらにその勢いのまま、顕になったネイビーブルーのボクサーパンツにまで手をかけようとしたので、俺は慌てた。
「い、いやいや、そもそもどうして相部屋なんです!? 一人部屋にして施錠でもすれば、最初から混じる心配なんてないのに……」
「ご協力いただける方の数に対して、部屋が足りないからですね」
叩きつけた疑問は、あっさりといなされる。
「それに、初期は一人ずつ採取していましたが、相部屋に切り替えてから有意に射精液量が増加したというデータもありまして。それも、性指向に関わりなく一貫しています」
「え……ヘテロの人たちでも、ですか?」
「ええ。大学のデータベースと連携して、僕たち職員も含めて、異なる性指向の人が同じ部屋にならないように配慮していますが、異性愛の男性同士でも、平均約27パーセントの増加が確認できました。ですので、現時点ではこれが最善の形だと認識しています」
ここまではっきり断言されると反論しづらい。確かにこの施設の目的を考えれば、回収効率の改善が重要なのは当然だし、別にやましいことをしているわけでもないのだし。
「そんなことどうでもいいじゃん犬房ぁ。早くやろうぜ」
そして、俺の逡巡にとどめを刺したのは、空気を読まない男虎だった。下着をあっさりと脱ぎ去って、陰部を露出したのだ。けばけばしい全身の黄色とは大違いの、慎ましやかなクリーム色の陰毛が溢れ、そこから一本の赤黒い肉棒が垂れている。その太さは短距離ランナーのスリムな体に似合っておらず、剥け切った亀頭は、くっきりと傘の形状を成してふてぶてしい。
「うわ……」
連れ立ってトイレに入った時に、こっそり覗き見したことがなかったわけではない。しかし、このように正面から直視する機会はもちろん初めてだ。友人の隠された一面に、俺の心臓はたちまち暴れだし、情けないことに、感嘆の声すらも漏れてしまう。
「僕も男ですし、週に一度はここで精液の提供もしています。ですから犬房さんが恥ずかしがることは何もないですよ。もちろん、採取を開始する前には退室しますし」
男虎が堂々と股間を晒し、兎耳川さんも表情一つ変えず平然としている。一人だけあたふたしている自らの滑稽さを浮き彫りにされて、赤面するしかなかった。
「わ、分かりました。俺も、脱ぎます……」
俺はしぶしぶジーンズを脱ぎ去って、内側の赤いトランクスを、ゆっくり、ゆっくりと下ろしていく。男虎とは違って、隠された股間は全身と変わらず白く、シームレスにつながっている。だから薄赤色のそれは、取って付けたように浮いているのだ。
「おおっ、犬房って結構可愛いもん持ってんじゃん、初めて見たぜ」
「……馬鹿にしてるのか」
「え、なんでそうなんだよ? デカけりゃいいってもんじゃねえしさ」
別に小さいわけではない。体つきが少し丸っこいせいで存在感が薄れているが、サイズは犬獣人として平均的だし、平常時に剥けていないのもごく普通のことだ。獣の形質が強く、埋もれてほとんど見えない人もいることを思えば、立派な部類ですらあるはずなのに。
そうだ。男虎がでかいのが悪い。上から目線の余裕な態度にも腹が立つ。
「ありがとうございます。お二人とも、性器の外観に異常はなさそうですね」
そんな俺の矮小な葛藤など知る由もなく、兎耳川さんは両極端な二つの性器を観察し、改めてタオルを差し出す。しぶしぶ受け取ったそれはふんわり柔らかく、ほのかに清潔な香りも漂う、尻の下に敷くにはもったいないものだ。
「では、僕はこれから採取用の器具をご用意しますので、その間に陰茎を軽く勃起させておいてください。萎えたままですと、うまく挿入できませんから」
「……勃ったところも、やっぱり、見られるんですか」
「はい、すみませんが規則ですので」
最後の希望を微笑みとともに叩き潰す様には、もはや苦笑いするしかない。
「完全に勃起しなくても、ある程度硬くなればそれで十分ですので。もし手だけでは難しいようでしたら、ちょっとした動画もご用意していますが」
「あ、いえ、俺は結構です」
「じゃあ俺は使いたいっす! どうすればいいっすか」
そんなものなくても勃起ぐらいできるだろう。この刺激に溢れた状況ならなおさらだ。まさかこいつ、「俺は慣れてるからこの程度じゃ足りない」と言いたいのだろうか。
「男虎さんご自身のスマートフォンから、専用のアクセスポイントに接続していただくと、自動的に専用ポータルが開きます。そこからお好きなものを選んで再生してください」
「おお、なるほど」
まずい、卑屈な考えが止まらないぞ。この虎にそんな高度な心理テクニックがあるはずがないだろう。単に旺盛な性欲を満たしたいだけだ。その証拠に、俺に一瞥くれることもなく、その青色の瞳はスマホのディスプレイに釘付けになっている。
「それでは僕は一旦失礼しますね」
兎耳川さんが会釈をして部屋を出ていく。俺も軽く頭を下げてそれを見送る。少しほっとしたのもつかの間のこと。俺はこれから、友人に勃起の過程を披露しなければならないのだ。
「なあ犬房、これ結構すげえぞ」
しかし、その重い羞恥すらも長続きはしなかった。明らかな興奮を帯びた声に引かれて、俺はそれらを直視してしまう。VRゴーグルかと思うほどの至近距離で画面を凝視する男虎、そしてその股間で、触れられもしないのにむくむくと膨らんでいく肉棒を。
「うげ……っ」
太い。大きい。細い体に引き立てられた、というだけでは説明できない存在感とともに、ぷっくり膨れた亀頭が赤く艶めいている。雁首の返しは、他の雄の精子を存分に掻き出してくれるであろう鋭さ。これで抉られた豹藤さんとやらの様子が目に浮かぶようだ。
「へへっ、俺の逸物もなかなかのもんだろ?」
「は、何言って……ふっ、普通だろ、そんなん」
言っていて虚しくなってくる。あれが「普通」なら、俺のこれはいったい何なのだろう。下ろした視線の先で力なくうなだれる、縮こまった皮被りのこれは。
「犬房も早く勃たせろよ、兎耳川さんが帰ってきちまうぞ?」
「うぅ……分かってるって」
確かに、萎えたままだと余計に恥をかくことになる。俺はしぶしぶ、右手で自分自身をすくい上げた。そして、汗で湿った肉球と、隙間に残った短い毛で絡め取るように、ゆっくりこする。こんな状況なのに、いつもよりも敏感になった表面からは、甘い痺れが広がった。
「へえ……」
「な、おい男虎、何こっち見てんだよっ」
「先に俺のをガン見しておいて、よく言うぜ……ん、っ」
俺をからかいながら、男虎も自分の逸物に手を伸ばす。左手のスマホと、徐々に勃ち上がっていく俺の股間とを交互に見つめながら、緩やかに扱き始める。高まる心臓の鼓動。俺たちの匂いが、熱を帯びた呼気に乗って部屋に広がっていくのが分かる。
「……ある程度って言ってたし、こんなもんで、いいよな」
「ああ、大丈夫……だと思う」
俺と男虎の準備に、時間はかからなかった。平常時には絶望的に見えたサイズ差も、こうして膨らませてみれば、思ったほど大したことがない。長さ鋭さでは敵わないが、太さならいい勝負だし、包皮も脇に退いて、我ながら雄らしい見栄えじゃないか。
そうやって自尊心を回復していたところで、扉をノックする音が響く。
「犬房さん、男虎さん、失礼します」
兎耳川さんだ。監視されていたのではないかと疑ってしまうほどの見事なタイミング。そしてその左脇には、何やら見慣れない器具が二つ、抱えられている。
「うん、お二人とも亀頭は露出していますね」
「あ、ええと……はい、一応」
「俺は元からっすけどね」
「チッ」
二本の男根をいたって平然とチェックしながら、兎耳川さんは、ぴったりと手袋をはめた両手に器具を持ち直す。それは、透明なプラスチックでできた砲弾型の物体。太さは500ミリペットボトルくらいだろうか。
「これは、当研究室で開発している精液採取用の器具です。陰茎に取り付けると、後は射精から精液の回収までを全自動で行うように設計されているんですよ」
そう説明しながら、器具を近づけて見せてくれる。内側には別の膜があり、二重構造になっているようだ。透明度が高くて分かりにくいが、底部には穴が空いていて、その縁からは柔らかそうな茶色のゴムベルトが均等に三本。ベルトの先端には、金具が取り付けられている。
「お二人は初めてですので、説明も兼ねて、僕が犬房さんに装着させていただきますね。男虎さんはそれを見て、真似しながら付けてください」
「え、えっ?」
疑問を呈する間もなく、兎耳川さんは俺のそばに片膝をつき、驚くべき行動に出た。ためらいすら見せず、俺の半勃ちの肉棒を左手で握ったのだ。手袋越しとはいえ、初めて体験する他人の温もりに思わず体が跳ねる。そんな反応にも慣れっこなのか、彼はいたって平然とした様子で、眼前でぴくぴくと震える陰茎へと、右手に持つ器具を近づけていく。
「見えますか、男虎さん。この器具には向きがあります。縁に赤色の印がありますので、これを上側、へその方に向けてください」
「ういっす」
自分のあられもない姿が友人の見本にされている。無性に恥ずかしくて、顔から火が出そうになる。同じ立場であるはずなのに、心の余裕には天と地ほどの差があるようだ。
「あとは穴を亀頭に当てて、ベルトを巻き込まないようにしながら、まっすぐ、ゆっくりと押し込んでいくだけです。僕に合わせて、くれぐれも急ぎすぎないように」
男虎がうなずくのを確認してから、兎耳川さんの真っ赤な丸目が再び俺を捉える。
「では犬房さん、いきますよ。潤滑剤が塗られているので、少しひんやりするかもしれません。大丈夫だと思いますが、もし痛いようでしたらすぐに知らせてくださいね」
「は、はいぃ……」
すっかり骨抜きにされて、間の抜けた返事しかできない俺。兎耳川さんは、竿を握る力を少し強めて向きを整えると、ついに器具の下部、ぱっくりと開いた開口部を亀頭に触れさせる。
「あ……ぁっ」
次の瞬間――初めて体験する、鮮烈な触感が駆け抜けた。
内側の膜は透明なシリコンか何かでできていて、プラスチック外殻の硬質感からは想像もつかないほど柔らかく、弾力に富んでいる。そして、兎耳川さんが軽く押し込むと、ほとんど抵抗もなく沈み込んでいくのだ。途端に襲い来る、多彩な刺激の数々。ひだのような構造の中に、大小様々な突起があって、厚みや硬さも常に変化する。
「犬房さん、痛みはないですか?」
もはや声も出せず、かろうじて首振りで意思を伝えるしかない。わずかに進むたびにめくるめく快感が生じて、俺を弄ぶ。ひんやりするかもと言われていたのに、内部はとろとろで温かく、半勃ちだった性器が膨らみ続けても、優しく受け入れてしまうのだ。
「んぅ……っ」
「この器具には、採取量を増やすために様々な工夫がされています。ですので刺激も強いかとは思いますが、まだ射精しないように我慢してくださいね」
こくこくと頷く。さすがにまだ暴発するというほどではなく、そのまま無事に最奥まで挿入が完了する。器具の縁が陰部に触れると、ようやくわずかな冷感が伝わって、俺にいくらかの余裕を取り戻させてくれた。
「おい犬房、お前ちょっと敏感すぎるんじゃね?」
そんな俺を見ながら呆れたように笑う男虎。興奮と羞恥とで顔が真っ赤になっていることが、自分でも分かってしまう。男虎の股間にも器具はすでに装着済みで、レンズのように拡大された肉色が、グロテスクなほどの存在感を放っている。
「男虎さんと犬房さんの器具は、全く同じものではないんです。実は中の構造が少しだけ変えてあるので、その違いもあるかもしれませんよ」
「え、そうなんすか? どうして?」
「より多くの精液を採取できるように、我々はシステムの改良を続けています。ですので器具も常に何種類か用意して、どれが一番よい効果をもたらすか統計的に分析するんですね」
「へえ、なんかそういうの授業で習ったかも……」
俺の様子を見かねての助け船だったのか、兎耳川さんのおかげで俺は難を逃れられた。性に敏感な男子学生たちをいつも相手にしているのだ、こういう状況には慣れっこなのだろう。
「さあ、萎えてしまってもいけませんので、次に進みましょう。今度は、器具が外れないようにするための固定ベルトを装着します。見ていてください」
萎える気配などないがそれはともかく、兎耳川さんは俺の股間から生える形になっているゴムベルトの二本を両手に取り、男虎に見えるように位置取りを工夫しつつ、俺の背中に回す。
「片方の金具をもう片方のコネクタに押し込むと、簡単に固定できます。こうやって」
カチッ、と小気味よい音がする。もう兎耳川さんが手を放しても、ベルトは俺の腰にぴったり張り付いたままだ。長さは事前に調整してあったのだろう。
「きつくありませんか、犬房さん」
「あ、はい。ぜんぜん大丈夫です」
「よかった。では残りの一本も接続しますよ。これは股下から通すので、すみませんがちょっとお尻を浮かせてください」
股間から合皮に沿って垂れる最後のベルトを示しつつ、兎耳川さんが微笑む。俺は言われるがまま、上体を前に倒して両脚に力をこめるのだが。
「あぅ……っ」
筋力のない俺には辛い空気椅子状態に、ぷるぷる震え始める俺の体。ようやくわずかに浮かび上がった太腿の隙間から差し入れられた兎耳川さんの手が、ベルトの中ほどを摘まみ、後ろへと引っ張っていく。手袋越しに、俺の玉袋や尻臀と接触しながら。
「す、すみませんっ」
「いえいえ、お気になさらず。まあ、もう少しだけ筋肉をつけることはおすすめしますが」
特段嫌がる様子もなく、尻の割れ目を通り抜け、尻尾の付け根をさらりと撫でてから、再び響くクリック音。その瞬間、股座から突き出す器具ががっちりと固定されたことが、陰茎への圧迫感で分かる。もう逃げられない。そう思うと、心臓がひときわ大きく跳ねた。
「男虎さんは……はい、大丈夫そうですね」
「余裕っすよ。もうこれで準備完了っすか?」
「ええ、あとは最後に、こちらの制御装置と器具をケーブルで接続します。とても重要な作業なので、ここだけは、二回目以降の人も含めて全て担当者が行います」
俺と男虎の間にあるステンレスの円筒が、兎耳川さんがいう制御装置だったようだ。単なる物置台か何かだと思っていたが、側面の一部が回転式の蓋になっていたようで、スライドすると、中から、透明の細いチューブが何本か束ねられたケーブルが出てきた。
「こちらの装置から空気を送り込むことで、器具の内部が前後にピストン運動する仕組みです。また、洗浄液や潤滑液も適宜注入されますが、驚かないでくださいね」
すらすらと暗誦される解説とともに、ケーブル先端のコネクタが、器具突端のくぼみに押し込まれる。ベルトの時よりも少し重い音とともに、両者は嵌合した。俺のいきり立ったままの陰茎は、今や冷たい機械の管理下に置かれているというわけだ。
いよいよ始まる――馬鹿らしいほどの興奮に、思わず唾を飲み込む。
「ちょっ、なんかここ、カメラみたいの付いてないっすか?」
「え……カ、カメラ?」
唐突な大声に俺は困惑する。男虎の指さす先、青色の丸い目が釘付けになっているのは、目前の制御装置だ。目を凝らして見てみると、ケーブルが収められていたスペースの上側に、それは確かにあった。透明な窓と、その奥に隠れた薄緑色の立体的な輝き。
「ほ、本当だ、レンズらしきものが」
「ええ、これは人工知能でお二人の様子をチェックするためのものです」
慌てふためく俺たちにも全く動じず、兎耳川さんが説明する。
「器具内蔵のバイオメトリックセンサーと組み合わせて興奮状態をモニターし、射精量が最大になるように刺激を調整するんです。人は見ていませんので、ご心配なく」
「へー、なるほど、そういうことなんすね。盗撮かと思ってびっくりしたっすよ」
男虎は単純なやつだし、情報系は専門外なのであっさり納得しているが、そんなに簡単なことではないはずだ。画像から読み取った表情なり姿勢なりで性的興奮を見極め、無数にある刺激パターンを最適化し、射精量を最大化する。そんな複雑なモデルを作るには、膨大なデータが必要になる。いったいどれほどの学生や教職員が、このカメラの前で快感に顔を歪め身をくねらせ、ついには絶頂し精を噴き上げてきたのか。
想像の中に広がる無数の映像は、これまで観てきたどんなAVよりも、俺の体を熱くする。
「ご納得いただけたようなので、始めましょうか」
兎耳川さんが、胸元から取り出したIDカードを装置の天面にかざすと、ポーンと、優しくも厚みのある電子音が響く。スピーカーにも結構なコストをかけているようだ。
「あと一分で装置が自動的に起動します。精液はチューブを通って自動で回収されますから、限界に達したらそのまま射精されてください。それでは、僕は失礼しますね」
軽く一礼して、兎耳川さんは部屋を出ていった。扉が閉じるなり、男虎が悪ガキじみた笑みを浮かべて口を開く。どうせまた、ろくでもないことを考えているのだろう。
「なあ犬房、勝負しようぜ。先にイッた方が負けってことで」
「なんだそりゃ、馬鹿じゃないの……」
「ノリが悪ぃなあ。お前は日曜に抜いたばっかなんだから、有利でいいじゃんか」
「知らないし。ていうか、挑発しながら逃げ道作るの恥ずかしくない?」
興奮をごまかすように強気な言葉を返す俺。男虎もおそらく同じなのだろう。逸物は器具ごとせわしなく震え、口調に反して表情には余裕が感じられない。
『このたびは、精液の提供にご協力いただき誠にありがとうございます』
「うおっ、びっくりした!」
突如流れ出した男性の合成音声は、わずかにぎこちなさが残るが、頼りがいのある落ち着いた低い声質で、スピーカーの品質も相まってほとんど肉声同然だ。
『まずは、洗浄液を注入して亀頭の汚れを除去します』
アナウンスに続き、装置から低い駆動音が生じる。警戒する間もなく、亀頭に風を感じたかと思ったら、すぐに人肌程度の温かな液体が流れ込んできて驚く。
「んうっ……」
粘性があるような、ないような。少しピリピリする気もするが、不快感はほとんどない。洗浄液は内側の先端部に溜まって、小さな膨らみを作る。柔らかなシリコンは竿にぴったりと密着していて、液が漏れ出す心配は無用のようだ。
『これから洗浄のため、器具を小さく動かします。もし刺激が強すぎる場合は、カメラに向けて手のひらをかざしてください』
エアポンプの動作音とともに、器具の内部が小刻みに揺動し始める。萎えてしまうことのないように微弱な快感を伴って、空気圧だけで制御しているとは思えないほど繊細な動きで、雁首をめくりあげながら恥垢を取り除いているのだ。
「うへっ、な、なんか、小便漏れてるみてえ」
男虎はふざけているが、俺はそれどころではなくなりつつあった。
単に挿入しただけであれほど気持ちよかった、柔らかで艶めかしい内壁。それが、この見事な制御で俺の肉棒を攻め上げたら、いったいどうなってしまうのか。これから待っているであろう快感を想像してしまうと、否が応でも興奮を抑えられなくなり――
『過剰な興奮状態を検知したので、洗浄を一時中断します』
「へ、っ?」
そんなことを思っていると、突然わずかな衝撃音とともに水流が止まる。
『洗浄中に射精されますと、精液を適切に回収できません。深呼吸をし、気持ちを落ち着けて、興奮が強くなりすぎないようにご注意ください』
「……あ」
「おいおい犬房ぁ、何やってんの」
「い、いや、誤動作だよ誤動作、全然平気だし……」
あまりのばつの悪さに目を逸らしつつ、ひっそりと深呼吸をする。興奮をモニターするという話は本当だったのだ。この高性能AIシステムによる完璧な刺激が、これから――いや、もう考えるな。心を空っぽに。そう念じ続けて、俺はようやくいくばくかの余裕を取り戻す。
そうして再開された洗浄動作は、十数秒ほど継続し、男虎に少し遅れて無事完了した。
『洗浄が終了しました。続いて潤滑液を注入します。これは刺激中の痛みを防止するとともに、精液に含まれる精子を保護するためのものです』
しかし、息つく間などない。人肌より少し温かい、新たな液体が投入されたのだ。今度は明らかな粘り気を持ち、敏感極まる鈴口を撫でまわすように広がる。代わりに恥垢でうっすらと白く濁った洗浄液が押し出され、チューブを伝って装置内部に排出されていくのが見える。
その後はゆっくり揉みしだくような動きが始まり、潤滑液を竿の真ん中くらいまで馴染ませたところで、起動時と同じ電子音が鳴る。そして――
『準備が完了しました。それでは、精液採取を開始します。十分な精液量を確保するため、できるだけ時間をかけて射精するようにしましょう』
そんなあっさりとしたアナウンスを最後に、俺たちの理性は消し飛んだ。
「あふぅっ!?」
「え、ちょ、っ、これ、やべえぇっ!」
たっぷりの潤滑液でとろとろになった内壁が、その無数のひだや突起を使い、あまりにも有機的な動きで未熟な二本の雄を絡めとる。複数のチューブから送り込まれる空気で、上下に往復しながら竿を柔らかく揉みしだき、亀頭には精粗合わせた振動まで加えながら。
「んぐっ、がう……うぉおっ」
ほんの少し前まで余裕ぶっていた男虎が、体を揺さぶり獣のように唸り散らす。それも当然だと思う。なにせ、童貞の俺は知らないはずなのに、不思議と確信できてしまうのだ。魅力に満ちた生身の獣人とまぐわう、いや、それ以上の生々しさがここにあることを。素人の先輩とちょっと体を重ねた程度、この快感の前には誤差にもならないだろう。
「はっ、うっ、ああっ!」
俺も獣人の男として人並みの性欲を持っていて、自宅にはそういう玩具もいくつかある。手でやるよりも少し気持ちいいとは思いつつ、手入れが面倒だからほとんど棚の奥底に眠っている。たった今俺を咥え込んでいるこの生物じみた器具は、そんなガラクタとはわけが違う。
「い、いぬふさぁ、俺無理、もう、イキそう……!」
「おっ俺ももう、来てる、ふぐぅう、すぐそこまで、来てっ」
たった一分、いや三十秒か、早くも俺たちの頭は射精欲でいっぱいになる。俺の前にある崩れに崩れた虎の顔は、きっと俺を映す鏡のようなものだ。すでに我慢汁は繰り返し溢れ、潤滑液と混じって内側を満たし、エアポンプの動作音にぬちゃぬちゃと卑猥な響きを重ねている。
「ぅぐううっ……!」
視界に白い星が瞬いて、俺は男虎と同時に絶頂を迎える――はずだった。
「はあっ……な、なんで……?」
どちらからともなく漏れる切なげな声。とどめとなる一歩手前で、装置がいきなり刺激を抑えたからだ。上下動と振動は止まり、竿の根元を痛まない程度に強く締め付けながら、揉みだけを緩やかに継続している。叫び出しそうなほどに、募るもどかしさ。
「まだ、早いって、言うのかよぉ」
「は、早く……ぅう」
俺も男虎も切羽詰まって、ほとんど無意識に、硬いプラスチックの筒に手を伸ばす。無理やり外から扱いて、どんな雄も全てを忘れるあの瞬間を迎えたい、その一心で。
『器具に触れないでください。精液が十分に採取できなくなります』
「う……ッ」
しかし、手が触れるよりも早く、ビープ音とともに冷徹な声が俺たちを制する。
正直、お客様気分だった。精液を提供する代わりに奉仕してもらえるんだと。今になってその甘さに気づく。俺たちは実験用のモルモットなのだ。できるだけ時間をかけて射精しましょう、と言われても、そもそも俺たちにそんな自由など与えられてはいなかった。
「ひぎっ、あおぉっ、また……!」
切迫感が落ち着くのを待って、装置は再び動き出す。嵐のようなスタートダッシュとは打って変わって、控えめでじれったい刺激。それでも哀れな鳴き声は止められない。
「がぁあ、ちく、しょう、まだかよぉッ」
「くぅう……ん」
そして頭が欲望でいっぱいになると、またお預けを食らう。男虎はピンクの鼻から二筋を垂らしながらほとんど涙声だし、俺だって正気を削られ続けている。
自慰にふけるときも、この時間を終わらせたくなくて、寸止めを試みることはある。しかし、だいたい失敗して暴発したり、無理に続けすぎて逆に萎えたりして、なかなかうまくいった例はなかった。だがこの機械はどうか。毎回絶頂を阻止しながらも、少しずつ近づけている。絶妙に期待を煽り、次は、次こそはと思わせる。あまりにも精巧で、悪辣な制御だ。
時間感覚がおかしい。十五分は経っただろうか。臨界ぎりぎりで維持するにはあまりにも長すぎる時間。もうぱんぱんに張り詰めた二本の性器をひくつかせ、快楽と苦痛の狭間でただ救いを求め続けた俺と男虎。そしてついに――懇願が叶えられる時が訪れる。
「あ、きっ来たっ、来た、来たぞ……お」
急に聞こえてきた甘い声に、つむっていた目を開いた俺の視界に飛び込んできたもの。
「がは……ぁ、っ!」
ほとんど吐息だけの叫びとともに、男虎が痙攣するように大きくのけぞる。その黄色の虎顔を紅潮させ、青の瞳でとろりと天を見つめながら。そして、思い切り突き出された器具の内側で、赤黒かった亀頭が、突然白く染まっていった。
「んぐぅううっ、がぉ、ぁあッ」
それは爆発のように、先端から伸びるチューブを伝ってほとばしる。洗浄液と潤滑液を押しのけながら、うっすら黄ばんだ濃厚な白が細い管内を駆け抜けていく。男虎はついに、至福の瞬間を迎えられたのだ。いったいどれほどの快感に襲われているのだろう。細身の体を震わせくねらせて、あんぐりと開いたマズルの両端からたっぷりと垂れる涎で、鮮やかな青のタンクトップを黒く汚していく。そんな様子を見せつけられて、俺は頭がおかしくなりそうだった。
俺もイキたい。早く、早く!
その狂おしい切願を汲み取ったように、突然装置が駆動音を大きくする。摺動、脈動、振動。抑制されていた全ての刺激が一斉に解き放たれ、無防備な俺に殺到して――
「あぉ、オオオンっ!!」
色とりどりの光の粒子が弾けて混じり合い、視界が真っ白になる。ここにいるのは、言葉も忘れて遠吠えする犬がただ一匹。器具の締め付けをものともせず、熱い欲望が竿の中をどくどくと流れていくのが分かる。途方もない恍惚を撒き散らしながら。
亀頭に一瞬の圧迫感を残して、白濁がチューブを突き進む。俺はソファの上で、一滴も残さず吐き出さんと何度も体を跳ねさせ、股座を突き出す。一方の男虎も、すでに終わりつつある快楽にすがるように、太い陰茎をひくつかせている。採取器具は、吐精時には締め付けて絶頂を引き延ばし、それが落ち着いてくるとピストンを再開する。俺はされるがまま、何度も何度も歓びの叫びを上げることしかできなかった。
***
「ぜえ、ぜぇ、マジか……」
「ああ……はあ、はぁっ」
時間にしてたった数十秒、しかし人生で最も濃密といえる時間が終わり、俺たちは肩で息をしながら余韻に浸っていた。目線を下ろすと、少し前まで俺を支配していた性器がゆっくり萎びていくのが見える。そしてその先から銀色の装置までをつなぐ、濃い白の曲線。数え切れない犬と虎の精子が、そこにはぎっしり詰まっているのだ。
『射精の終了を確認しました。潤滑液を注入してチューブの精液を回収し、続いて亀頭を中心に陰茎全体の洗浄を行います』
ようやく呼吸が整ってきたころ、優しい電子音とともにアナウンスが流れ出す。事後のひと時にまで配慮されているとは恐ろしい。案内のとおり、ぬめりのある温かい液体が少しずつ投入され始める。萎えた陰茎の分を内側の層が埋めているから、潤滑液はそのままチューブへ流入し、白濁液を押し出していく。装置の中から、ぼとぼとと粘りのある落下音を響かせて。
チューブが澄明になると、次に注がれるのはさらさらの洗浄液だ。筒内の圧力が少し抜け、空いた隙間を埋めるように広がっていく。最初よりも少し刺激が強く感じるのは、扱きに扱かれて敏感になっているからだろう。根元だけはきつめに縛られているから、股間に液漏れすることはない。間もなく竿全体に液体が行き渡り、蠕動による洗浄が始まる。
「うおっ」
「ん……あ」
開始前のものよりも優しい動きだが、それでも情けない声は漏れてしまう。下から精液の残滓を押し上げ、きれいになった部分にはシリコン膜が密着して再付着を防いでいるようだ。最後に残った亀頭は、液をどんどん入れ替えながら、微細な振動を伴って念入りに。
『精液の回収が無事に終了しました。係員が参りますので、器具には触れずにそのままでお待ちください。本日は、精液提供にご協力いただき、ありがとうございました』
たった一分ほどで洗浄は終わり、装置は最後のアナウンスを発して停止する。
「――犬房さん、男虎さん、失礼します」
間髪入れずにノック音が響き、扉が開く。現れたのは、退出前と全く変わらず穏やかな表情の兎耳川さんだ。魂ごと絞り尽くされたようにソファにもたれる俺たちとの落差に、苦笑せずにはいられない。彼にとっては、これも見慣れた光景なのだろう。
「お疲れさまでした。気分はいかがですか」
「んー、めっちゃだるいけど最高っす。豹藤さんとヤッた時以上かもしれないっすね」
「おいっ、男虎……」
気を抜くと忘れてしまいそうだが、これは悩める異種族夫婦のための純粋な社会貢献活動で、ここはあくまでも医療研究施設で、兎耳川さんは研究に従事するスタッフなのだ。
「ふふ、気にしないでください。快を感じるのはいいことですから」
しかし、兎の愛らしい笑顔にはいささかの陰りも見えない。彼は本当に平気なのか、それとも完璧に隠しているだけなのか、俺には測りかねた。
「では、器具を外しますね。まずは犬房さんから、よろしいですか?」
「あ、いえ、さすがに自分で外しますよ」
「ごめんなさい、固定ベルトのロックは専用のキーを使わないと外れないんです」
さらりと、なかなか衝撃的な事実が明かされる。そういえば、精液を取り違えないように相当神経を尖らせているようだったから、当然か。最中の様子を監視されるよりはマシだろう。あの様子を他人に見られていたら、そう考えるだけで、顔が熱くなってくるのだから。
「……分かりました、お願いします」
「はい、では失礼しますね」
兎耳川さんの華奢な腕が背に回され、カチャリと軽い音がしたかと思うと、股間がすっと楽になる。意識していなかったが、かなりの力で締め付けられていたのだろう。
「あとはご自身で外していただいて大丈夫ですよ」
今度は男虎の方に向かいつつ、目線はしっかり俺に合わせて兎耳川さんが言う。取り付け時のように全てやってくれるわけではないようだ。あれはデモンストレーションに過ぎないのだから当然だが、ほっとしたような、少しだけがっかりしたような。
「んっ……と」
器具をゆっくり持ち上げると、萎えた陰茎がするりと抜け、そのまま力なく垂れ下がる。普段よりもさらに小さく縮こまったそれを晒すのは、ひどくばつが悪かった。優秀な洗浄機能のおかげで、淫液がこぼれ落ちることはなく、それどころか包皮のぬめりすら残っていなかったのが、せめてもの救いといったところだろうか。
腰を浮かせて、ベルトごと引き抜く。尻に敷かれ続けた一本は汗でぐっしょり濡れ、ぬらりと淫らに光っていた。あの怖ろしい快感の名残のように。
「うう、ちょっとスースーするっす」
一方の男虎も、器具を外し終えていた。股間には、揉まれすぎて弛んだせいか、萎んでもなおふてぶてしさは健在で、最初に見た時よりもずっと赤みを増したものが鎮座している。別に巨根というほどではないと思うのに、細い体が異様さを引き立てているようだ。
「もうすっからかんだなー。見ろよ、タマも豆粒みたいになっちまった」
俺のものとわざとらしく見比べながら、男虎がおどけてみせる。
「……厭味ったらしいやつ」
「へへっ、まあそんな気にすんなって」
そんなこんなで俺たち二人が開放感を楽しんでいる傍ら、兎耳川さんは中央の装置前で片膝をつき、何か作業をしている。円柱の側面、ケーブルやカメラが収まっていたのとは違う場所にも蓋があり、そこに首に提げたIDカードをかざして電子ロックを解除、二本のガラス容器を取り出す。テレビで見たことがある、200ミリリットルの牛乳瓶のような形で、口部には白いプラスチックの逆止弁らしきものが取り付けられている。
「こちらがお二人からご提供いただいた精液になります。男虎さんは13、犬房さんは17ミリリットルですね。体格からすると標準かやや多いくらいでしょうか」
両手に持った容器を交互に確認しながら、説明する兎耳川さん。確かに、底に白濁した粘液の層が見える。出した直後よりも心なしか透明度が増しているようだ。しかし、自分の精液を他人にチェックされるというのは、これほど恥ずかしいものか。
「ええー? 俺の方が長く溜めてたのになんで犬房に負けんだよ!」
「……ぷっ」
「おい何笑ってんだよ犬房っ! あ、まさかお前、何か変なサプリとかやってんじゃ」
「そんなわけないだろ……。まあ、量が多けりゃいいってもんじゃないしさ」
思いがけず巡ってきた意趣返しの機会を、俺は存分に活かすことにする。反撃は想像したよりずっと有効だったようで、男虎は決まり悪そうにそっぽを向いてしまった。
「射精液量には種族差に加え、個人差もあります。犬房さんの言うとおり、量はさほど重要ではなく、大事なのは質ですね。見たところ、濃さは男虎さんの方が上のようです」
「ですよね! ほら聞いたか犬房!」
「はあ、単純で羨ましいよ……」
他人が自分の欲望の証を、ガラス容器を器用に揺り動かしながらつぶさに観察しているという事実の方が、その多寡などよりもよほど恥ずかしいと思うのだが。
「お預かりした精液は、一部が検査に回され、残りは速やかに冷凍保存されます。検査の結果、品質に問題がないようでしたら、そのまま全国の医療機関に配送されることになります」
「検査……ですか?」
「ええ、精子の量や活性の確認、詳細な種の同定や、重篤な遺伝性疾患の有無の判定。そして、細菌やウイルスのチェックも行います。性病の蔓延は防がねばなりませんから」
二本の瓶を小さな箱に収めながら、兎耳川さんが説明する。そうか、俺たちからすれば快楽の残滓でしかないそれが、この国のどこかで、誰かの人生を大きく変えることになるのだ。ただ気持ちよく射精するだけの俺たちと違って、運営する側には責任が伴う。
パンツとズボンを穿きながら、俺はその責任の重さに思いを馳せていた。
「犬房さんは大丈夫だと思いますが、もし検査に異常があればお知らせしますので、センターからのメールは受け取れるようにしておいてくださいね」
「え? あ、はい、分かりました」
「それではお二人とも、今回は初めての精液提供、本当にありがとうございました。またいつでもお越しくださいね。お待ちしております」
恭しく頭を下げる兎耳川さんにこちらも一礼を返し、プロジェクトの紹介パンフレットを受け取ってから、俺たちは部屋を後にした。
***
センターを出るともうすっかり日は暮れていて、冬の鋭利な冷気が、服も被毛も越えて全身に染みてくる。それでも人の訪れは未だ絶えることがない。楽し気に雑談する学生も、すまし顔の教員も、これから股間にたっぷり蓄えた精を、あの建物の中で噴き上げるのだろう。
「来てよかったなー。犬房も気持ちよかっただろ?」
「まあ……思ってたより悪くなかった」
「あんだけ出しておいてよく言うぜ! 素直になれって」
隣を歩く男虎が、肩やら背中やらを小突いてくる。しなやかな筋肉から繰り出される虎パンチは地味に痛いのだが、さすがに反撃する余力は今の俺にはなかった。
「それで病気の検査までしてくれるんだから、一石二鳥だよ」
「ああ、確かにお前は気にしておいた方がいいな……俺には関係ない話だけど」
「お前童貞だもんなー。兎耳川さんにも『犬房さんは大丈夫』って馬鹿にされてたし」
青い目を細めてにやつく虎を見ると、なんだかイライラしてくる。せっかくの快い気だるさを守るように、俺はその不快な感情を、ため息として吐き出した。こいつの下らない優越感に付き合っても気力の無駄なのだ。
「……逆だよ。お前みたいにふしだらじゃないから心配ない、ってこと」
「ふしだらって! 部の先輩と一回ヤッたくらいでそんな大げさな」
「そうだよな、お前はそういうやつなんだよな」
そんなに交尾が大好きなら、先輩とでも後輩とでも、俺の知らないところで好きなだけやればいい。それで病気をもらってひどい目に遭おうが、俺には関係ないが。
「なんか犬房、怒ってる? ひょっとして俺、悪ノリしすぎた?」
「……別に。お前の方が普通だよ。この年にもなって、経験のない獣人の方が珍しいよな」
俺自身、どうしてこれほど苛立ちを覚えるのか分からない。童貞であることについて、強がりでもなんでもなく、俺は引け目を感じたことがなかった。結局、雄同士が交尾したところで自慰と大して変わりがないのだから。それなのに、今はなぜこれほど感情が乱されるのか。
「いや、ほんとごめんな。悪かった」
細い尾を垂らし、不安げに上目遣いで俺を見る男虎。普段は調子者のくせに、こういう時だけ犬科のようになるのがあざといが、それを少し可愛いと思ってしまう自分もいる。
「なあ……男虎」
「ん?」
「怒ってないから。だから、その……また一緒に来ような」
闇夜に咲く、ひまわりのような笑顔。寒さが少し和らいだような、そんな気がした。