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第三話 商都にて:黒い犬と白い虎、気まずい事になる

  ――耳が痛いほどの、喧噪。

  通りを蠢く人の波。

  バザールの其処此処で始まるオークションに、殺到する人々。

  足音が、物と物のぶつかる音が、歓声が、嬌声が、罵声が、悲鳴が。

  言語とは認知が難しい程に混濁した音の波が、雷火のようにボクの耳を打つ。

  「うう、耳が…」

  左手で左耳を抑え、右手に抱えた荷物で右の耳をかろうじてかばうように。

  ボクは音の飛沫から逃れようと、少しでも人が少ない道を選んで駆けていく。

  

  やがてバザールの端まで到達し、ようやく一息つく。

  ここはまだまとも…というか、割と静かな場所だ。

  辺りには人間に比べ五感が鋭敏な獣人が、眉根を潜めてたむろしている。

  彼らの殆どは、この街に来たばかりの旅人や、商いで訪れた商人だ。

  皆、この喧噪で耳をやられたのだろう。

  

  それにしても、熱い。

  「ふぅ、少し休もう…」

  腰の水筒を手に取ると、一息に飲み干す。

  陽光に照らされたせいか、それは生ぬるく、不快だ。

  燦燦と輝る太陽が、石造りの街並みを容赦なく焼いていく。

  喧騒が、熱気が、この町に渦を巻いている。

  ここは、アルデハイド。

  ハルモニア大陸において、首都であるハルモニアを凌ぐ人口と、規模を持つ巨大な都市だ。

  古今東西、ありとあらゆる物品が取引される、広大なバザールを擁する商業区画。

  生と死、栄光と絶望が交差する大拳闘場。

  肉欲と堕落に塗れた、富豪達の享楽の場、歓楽街。

  

  この三つの要素によって成り立っているこの都市は、日々人の欲で湧き、満ちている。

  人間、獣人、亜人…皆が『金銭』という一つの絶対的価値の元、平等に生きる都市。

  ここは、全ての者が成功の機会を得る、夢と好機の町だ。

  目の前の商機さえ逃さなければ、ここでは誰もが勝者たりえる機会を得る。

  

  だけど、それはあくまで表の姿。

  一歩日陰の道に入れば、襤褸切れを身に纏って地べたに座り込み、恵みを乞う物の姿。

  彼らの多くは、自らの手足や臓器さえ投げうって金銭を得、そしてそれでも成功を掴めかった者。

  敗北を重ねた結果の、なれの果てだ。

  そして、表のバザールでは扱うことが出来ない、『面白いもの』を高額で取引するブラックマーケットでは、法外な金銭と引き換えに、手に入らない物はない。

  ここには、道徳や倫理観なんて退屈な物は存在しない。

  あるのは、求める者と、手放す者の姿だけ。

  さて、この都市に。

  一人の犬人の姿があった。

  

  薄汚れた服に、漆黒の体毛。

  顔立ちはまだ幼く、成長期の体躯はひょろりと頼りない。

  頭に小さな帽子をかぶり、手にはがま口の財布と大きな紙袋を持っていた。

  

  彼の名はルート・クレイモア。

  やがて『剣』を巡る因果に、ガイトと共に巻き込まれる定めを持つ少年だ。

  

  彼の物語は、ここから始まる。

  「うう、耳栓を忘れてきちゃったボクが悪いけど…

  あんなにうるさくっちゃ、食材の買い出しも出来ないよ…」

  耳をパタパタを動かしながら、ため息をつく。

  人いきれで呼吸すら難しいあの喧噪に、もう一度紛れなければいけない不幸を呪う。

  「クラス、お腹空かせてるだろうなぁ…」

  右手に持つ紙袋を覗き込み、ため息。

  中には長大なパンと、干し肉、香辛料。

  野菜や果物も必要なのだが…先ほど青果市場で始まった、初物のアルカトフルーツのセリのせいで人だかりができてしまい、耳栓を持ってくるのを忘れていたボクはその人々の声に圧されて逃げてしまったのだ。

  「そろそろセリも終わってるかなぁ」

  いつも懇意にしてくれている、猫人の八百屋の顔を思い出しながら、何度目かの独り言。

  …このままこうしていても、埒があかないし、

  「行くしかないかぁ…」

  ボクは帽子を目深に被りなおすと、青果市場の方へと歩き始めた。

  ――このアルデハイドでは。

  かつて、黒毛種差別という風潮が流行っていた。

  読んで字の如く、黒い毛色や羽根を持つ者を、悪しき存在として排斥する差別行為。

  

  黒とは、あらゆる色を濁らせる死の色である。

  黒とは、闇を司る色であり、人々を脅かす暗澹とした負の色である。

  黒とは、欲望の色である。災厄の色である。悪魔の色である。

  言い分は各々によって違ったが、共通してその勢いは烈しく、黒毛を持つ、というだけの理由で、どんなに高貴な生まれであっても恐ろしい迫害を受け、人として生きる事を許されなかった。

  ただそこに居るだけで他者に蔑まれ、いつ冤罪をかけられ、死罪とされてもおかしくない存在に、手を差し伸べるものはいなかった。

  ルートは、そんな差別が最も盛んな時期にこの世に生を受けた。

  生まれはクレイモア家。

  宝石取引により莫大な財を得た、ダイスターグ・クレイモアの実子として生まれた彼だったが、突然変異的に備えたその黒毛により、忌み子として捨てられた経緯を持つ。

  彼がこうして今生きているのは、彼を育てたとある虎人の尽力によるものだ。

  「ありがとう、おじちゃん!」

  「おうよ、坊主!気を付けて帰んな!」

  元気な猫人の声を背に受けながら、市場を後にする。

  ようやく人の数も落ち着き、獣人が歩きやすい状況になってはいるが…またいつここが戦場になるかわからない。

  ボクは速足で市場を後にすると、クラスの待つ家へと向かう。

  ボク達が住んでいるのは、商業区の外縁にあたる。

  俗に金物通りと呼ばれるエリアで、鍛冶師や刀剣を扱う商店が軒を連ねる場所だ。

  あちこちから鉄を打つ音が響く中、家に近づくにつれ、ガン、ガン、という硬質な音がボリュームを増していく。

  そのリズミカルな音に安心感を感じながら、足を速める。

  

  「――ただいま!!」

  帰宅すると、奥で剣を打っている虎人に声をかける。

  虎人は、ふいと作業の手を止めると、

  「おかえり!」

  と、声を弾ませ、いつもの見慣れた笑顔でボクを迎えた。

  クラス・ゲイルブロウ。

  ボクを男手一つで育てた、男気溢れる虎人だ。

  

  「晩飯の準備、頼めるか?」

  「うん、出来上がったら声をかけるよ」

  そんなやり取りをすると、おう、と言ってクラスは再び作業に没頭する。

  その背中を見つめながら、ボクはこのいつも通りの平穏な日常に喜びを覚えていた。

  クラスは、世にも珍しい白地の毛を持つ虎人だ。

  筋肉質で大きな体、少し頑固そうな厳めしい顔。

  太い尻尾と逞しい上半身がトレードマーク。

  年齢は、ボクより一回りと少し上。

  性格は…ガサツでちょっと口が悪いけど、とても優しい。

  親として、兄として、どんな時も頼れる最高の家族だ。

  黒い毛を持つボクと、白黒の縞模様の毛を持つクラスは、周囲から奇異の眼で見られている。

  クラスともども見世物小屋に誘拐されそうになった事もあったそうだ。

  だけど、ボクらはそんな逆風の日々の中でも、お互いに支え合い生きてきた。

  

  「いよーし、いいぞいいぞ…」

  大きな槌を手にしたクラスが、肩で息をしながら額の汗を拭っている。

  その目の前には、赤熱した鉄の塊。

  パンと干し肉を手に、ボクはその背中を見て微笑む。

  

  クラスは、アルデハイドでも指折りの腕を持つ鍛冶師だ。

  元々は乞食に近い生活をしていたらしいけど…とある恩師の様な人に出会い、鍛冶の技術を継承したそうだ。

  その後独り立ちした頃に、捨てられていたボクを拾ったらしい。

  当時はまだ誰にも知られていない新米鍛冶師だったので、家々を回って金物の補修をしたり、包丁を研いだりして日々の稼ぎを得る、爪に火を点すような生活をしていたらしいが。

  それでも、赤子だったボクが飢える事の無いよう、血のにじむような研鑽を積み、鍛冶師としての名を上げていったそうだ。

  ボクは、そんなクラスの事を心から尊敬している。

  今のボクと同じくらいの年齢で、捨て子を拾って育てるなんて、普通は考えない。

  そのまま見て見ぬふりをして通り過ぎるのが当然だ。

  しかも、不吉な黒毛の子を。

  関わるべきではない、と判っていながら、目の前の消えゆく命に手を差し伸べるなんて、常人には出来ない。

  

  ――ボクは、そんなクラスの事が、大好きだ。

  クラスはボクの親で、兄で、保護者だ。

  いつだってボクを庇護し、守ってくれる盾だ。

  どんなに寂しい夜も、震えるボクを温めてくれる灯火だ。

  ボクは今まで、そんなクラスの背中をずっと追ってきた。

  きっとこれからも…死ぬまでボクはクラスの隣にいるのだろう。

  成長してもっと大きくなって、体格も…いまのようにひょろっちくなくて、クラスの様にゴツゴツとマッチョになって。

  そして、二人で肩を並べて、剣を打つ。

  それが、ボクの夢だ。

  ふんふん、と鼻を鳴らしながら。

  そんな未来を夢想し、ご機嫌にナイフを動かす。

  今夜は、根菜と獣肉のシチューを作ろう。

  クラスの大好物。

  火事場の熱気がこちらにも漂ってくるので汗が止まらないが、そんなのは些細な事だ。

  そして、半刻が過ぎたころだろうか。

  作業を終えたクラスが、傍らにやってきた。

  「お、もしかしてシチューか!?」

  鍋を覗き込み、声を弾ませる。

  「ごめん、出来上がる前に作業終わっちゃったね」

  ボクが謝ると、クラスは大きな手でボクの頭をぐしゃぐしゃと荒々しく撫でた。

  「何言ってんだ、俺が急いで仕上げただけだぜ?気にすんな!」

  その手の暖かさに安堵しながら、ボクは鼻をヒクつかせ、こっそりと辺りの匂いを嗅ぐ。

  鍋の中から漂う香辛料と牛乳の匂いとは別に、クラスの上半身から漂う、汗と錆が混じったような匂いが鼻をくすぐる。

  いつだって、クラスからはこの匂いがする。

  四六時中武器を打っていれば、そうなるのだろう。

  世界で一番大好きな匂いだ。

  「ん、どうした?なんか顔についてるか?」

  ボクがその顔をじっと見ていると、鼻のあたりを指でごしごしと擦りながら、不思議そうな顔で虎人が言う。

  

  「ううん、今日もクラスが家にいて、良かったなって思ってただけ」

  そう返すと、

  「なんだそりゃ」

  目を細めて、ボクの頭を今度は優しく、クラスが撫でた。

  夕食は、思っていたよりも上手に出来た。

  

  「うまい、うん、いや、あいかわらず美味いな、うん」

  うんうん唸りながら、目の前でクラスがガツガツと食べ進める。

  ボクはさりげなく…そう、気づかれないように、自分の分のビーフサンドを一切れ、そっとクラスの皿に移した。

  

  「喜んで貰えてよかったよ」

  言いながら、シチューをすする。

  ふわりと香るミルクの風味、歯ごたえがあって味わい深い野ウサギの肉。

  塩加減も悪くない。

  猫人の商人から買ったスパイス…名前忘れたな、なんだっけ、名前…まぁいいや、奇妙な形の種や香草なんかを混ぜてある。

  自分で自分を褒めるのもアレだけど、これは絶品だ。

  そうして食事を終えると、先端が尖った木片で歯に挟まった汚れを取りながら。

  「おし、んじゃぼちぼち風呂に行くか?」

  

  クラスが提案する。

  皆が仕事を終え、静かになった夜の気配を感じ、目をつむっていたボクは、目を開いて頷いた。

  「それじゃ準備するよ。クラスはそのまま座ってて」

  「いや、毎度悪ぃよ。今日くらいは俺が」

  「いいからいいから。座っといて」

  立ち上がろうとする虎人を手で制しながら、ボクは立ち上がった。

  クラスは鍛冶師としての腕は一流だが、それ以外の作業…つまり、掃除や調理、洗濯等の、要は家事一般に関しては望的に手際が悪い。

  掃除をすれば余計に汚れるし、調理すれば生焼け黒こげ当たり前。

  洗濯をしたときなんか、洗濯板で強く衣服を擦り過ぎて、洗濯もののほとんどが穴だらけになっていた。

  だから、身の回りのことは全てボクが仕切っている。

  せっかく二人で暮らしているのだ。

  互いの得手不得手を補いあって生活できていれば問題ない。

  

  「タオルと、石鹸と、あとは牙磨きと…」

  

  呟きながら、麻袋の中にそれらをどんどん放り込んでいく。

  二人分ともなればそこそこの重量になるが、持てない程でもない。

  さて。

  「準備できたよ~!」

  

  クラスの元に戻ると、よし、じゃあ行くか!と今度こそ椅子から立ち上がって。

  虎人は背筋を伸ばし、ポキポキと背中を鳴らした後、ふぅ、と息を吐いて、

  「いつもありがとな、ルート。

  頼りになるぜ」

  と言ってボクの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

  うれしくて、ついつい目を細めてしまう。

  

  

  ところで、我が家には風呂がない。

  いや、違うな…

  この金物通り全ての家屋に、風呂がないと言うのが正しいか。

  日ごろから汗と汚れにまみれる鍛冶師にとって、風呂は大切な存在だ。

  可能であれば毎日…汚れ具合によっては日に二度風呂に入りたい日もある。

  しかし、通りの家々が皆毎晩風呂を使っていては、資源や水の消費が馬鹿にならない。

  そこで数年前に、市場に住まう人間全員で資金を出し合い、巨大な共用風呂を作った。

  それが今からボクらが向かう大浴場だ。

  

  

  クラスが荷物をすべて持ち、ボクは手ぶらで。

  閑散とした市場の道をまっすぐ進み、二人で大浴場へ向かう。

  

  とはいえ、市場の皆が使う場所なので、そんなに自宅から離れているわけではない。

  歩いて数分でほどなく到着、した…のだが。

  

  「うわぁ、凄い人だね…」

  「もう少し早く来るべきだったなぁ」

  大浴場前の人だかりを見て、二人で肩を落とす。

  大浴場は、最初に資金を出した、つまり金物通りで商いを行っている人々は無料で使用することができる。

  しかし、開放的で設備も整った大浴場の評判は高く、金物通りで働いていない一般の人間でも、お金を払って入浴したい、という人が後を絶たない。

  なので最近、市場を取り仕切る商会主の判断で、入浴料を徴収して市井の人々にも開放されたのだが…

  それ以降客足が増える一方で、本来大浴場を優先的に使うべき金物通りの人々が風呂に入れない事が多々ある。

  今のボクらのように。

  「うーん、待たないと入れないね、これ…」

  「ったく、商売っ気を出したらすぐこれだからよ」

  かゆいのだろうか、耳の後ろをバリバリを搔きながら虎人が苛立った声を出す。

  その姿を見て、近くにいた数人の人が怯えた表情を見せた。

  虫の居所が悪い時のクラスは、人相が少し…いや、だいぶ悪い。

  見慣れているボクですら、たまにドン引きすることがある。

  まあ、何はともあれこうして立ち尽くしていても埒が明かない。

  ボク達は、近くにあった石造りのベンチに腰かけた。

  「客が増えりゃそりゃ儲けになるんだろうが…あいつ等ロクでもないことばかりするからな…」

  眉根を寄せ、ジト目で大浴場を眺めるクラス。

  白塗りの高い壁の向こうから、ざあざあと大量の水が循環する音が聞こえる。

  「うん、そうだね…」

  言われて頷く。

  金物通りで働く人は、日がな一日鉄を打ち、重い荷物を持ち上げ、場合によっては甲冑一式を市場まで運んだりする。

  そのせいで、筋肉質な人が多いのだが…

  

  実は、そんな金物通りの人々の筋骨隆々とした裸を見に来る不届きな輩が、結構な数存在しているそうなのだ。

  特にクラスはそういった手合いの人々にとっては極上の存在らしく、二人で風呂に入る度に、隣にいるボクですら痛いほどの視線を受けている。

  「――俺たちの裸はそんなに安売りしてねえっつの、なぁ!」

  同じことを考えていたのだろう、クラスがボクに向かって言うが…

  「いや、ボクのはどうかな…」

  言って、自分の体を見る。

  筋肉が少ない、ひょろっちい体。

  体力もまるでない。

  金槌を持つだけでふらついてしまう程だ。

  

  クラスはそんなボクの肩に腕を回すと、

  「お前だって、いつかは俺みたいに筋肉モリモリになるさ!

  それに、俺は今のお前の体、嫌いじゃないぜ!」

  陽気な声色で言う。

  分厚い胸板が肩に触れて、圧されたボクの体が前のめりになる。

  「ははは、ありがと…」

  姿勢を正すと、大浴場の入口を眺めた。

  早く人が減らないかな。

  クラスと風呂に入るのは、ボク達にとって一番の癒しの時間なのだ。

  そうして、たっぷり一時間は待っただろうか。

  

  ひとだかりが消え、大浴場からまばらに人が出てくるようになった頃。

  ようやくボクらは立ち上がると、浴場に向かう。

  「おや、クラスとルートじゃないか。

  こんばんは」

  大浴場の門をくぐると、番台のお姉さんが出迎えた。

  長身の猫人だ。

  ヒョウの血が混ざっているそうで、派手なブチ模様がゴージャス。

  「よう、ニキ。

  今日も美人だな」

  クラスが世辞を言うと、いやあ、と頬を染めて猫人はしなをつくる。

  背筋が艶めかしく動き、大人っぽい色気が漂う。

  「ニキさん、まだ中にお客さん沢山いるかな?」

  と聞くと、ニキは首を左右に振って、

  「残念ながら、まだ結構いるよ。

  全く、一般の客なんて入れるんじゃないって、アタシはあんなに反対したのにさ」

  「まぁまぁ、仕方ねぇさ。

  俺らが不甲斐ないのが悪いんだ」

  クラスが少し寂しそうに呟く。

  そう。

  現在、金物市場全体の売り上げが、以前に比べ落ちているそうだ。

  海の向こうから輸入された、安価で大量生産された武具が出回り始めたせいで、コストも手間もかかる鍛冶屋の武器が売れにくくなっているらしい。

  ま、時代だね、と猫人は苦笑して肩をすくめた。

  

  「あ、そうだ!」

  ポン、と何かを思いついたようにニキが手を打った。

  「ちょうどさっき、あそこが空いたんだけど。

  アンタら使いなよ」

  そう言って、脱衣所の入口から少し離れた扉を指さした。

  白塗りの壁に映える、空色の扉。

  あそこは、従業員や一部の関係者専用に作られた小さな浴場だ。

  

  「え、いいのか?」

  「いいのいいの。

  アンタらは特別」

  手をひらひら振ると、ニキは悪戯っぽく笑う。

  ニキはいつも、ボクらに対してとても親切だ。

  

  というのも、以前ニキが働いている間に、道を歩いていたニキのおばあちゃんが病気で倒れているのをボクが発見し、クラスがおばあちゃんを背負って町医者まで全速力で送っていった、という事があって。

  そのおかげでおばあちゃんは一命をとりとめ、ニキはボクらに大きな借りが出来ている、という訳だ。

  「じゃあ、遠慮なく借りるぜ!」

  右手を上げ、ご機嫌でクラスが言う。

  「ありがと、ニキ!」

  感謝を伝えると、二人で歩き出した。

  「――うわ、すっごいねここ!」

  浴場の中に入って、思わず感心してしまう。

  「従業員専用にしちゃ、随分とまぁ…」

  虎人も、口をあんぐりと開けて、目を見張っていた。

  従業員や関係者専用と言っていた割に、あちこちに高級な石材を使用し、水栓や一部の金具は金を混ぜたような黄金色の金属で豪奢に装飾されている。

  

  何はともあれ服を脱ぎ、木製の棚に置くと、そろりそろりと歩き始めるボクら。

  内湯は二つ。

  一つは普通のお風呂で、もう一つはかなりぬるい。

  そして奥の扉を開けると、南国調の木々に囲まれた露天風呂が迎えた。

  

  てっきり質素な浴場を予想していたボク達は面喰いっぱなしである。

  露天風呂の端には、深めに設計されたバスタブ。

  中には透き通った緑色の液体が満たされていた。

  クンクンと鼻を動かして匂いを嗅いでみると、嗅ぎなれた薄荷のような香り。

  「薬湯まであるたぁ、あいつら贅沢してんなぁ」

  クラスは呆れたように言うと、

  「ま、いいや。

  長居しても悪いし、ちゃっちゃと体を洗って湯船に漬かろうぜ」

  と、壁に面した洗い場へと向かう。

  ボクもそれに続くと、二人並んで身を清め始める。

  持ってきた石鹸を頭に当て、お湯をかけてぐりぐりぐり。

  やがて泡がたったら、今度は胸のあたりの毛に押し当ててぐりぐりぐり。

  最後に、お腹のあたりでもぐりぐりぐり。

  こうやって全身に泡を行きわたらせて、はい、とクラスに石鹸を渡した。

  クラスも同じように、頭、胸、お腹、そして両足の側面に石鹸を押し当てると、二人で無心に全身を擦り始める。

  そうすると、やがて二人の体が、泡立った石鹸でもこもこにになるのだ。

  「クラス、背中」

  「おう、ありがとよ」

  ボクの声に応じてクラスが背中を向けると、ボクは石鹸をクラスの背中にごしごしと押し当て、軽く湯をかけた後に掌で泡立てていく。

  「はぁ~、天国…」

  目を閉じたままで、虎人が呟いた。

  一日ハンマーを振るっているせいで、肩甲骨から腰にかけて、筋肉が目で見てわかるほど張り詰めている。

  それをほぐす様に、丹念に揉む。

  「あ、そこ、そこ…」

  クラスの指示通りに手を動かすと、うん、とかはぁ、と熱い息を吐いていて、ボクはなんだか赤面してしまった。

  「良し、じゃあ交代だ」

  そう言うと、クラスはくるりとこちらを向く。

  泡にまみれた太くて立派なおちんちんと、その下の握りこぶしほどもある二つの金玉が、その勢いでぶるんと揺れていた。

  いいなぁ、と自分のおちんちんと比較して、切ない気持ちになる。

  ボクが背中を向けると、クラスの手が背中に触れる。

  「ちょっとずつ筋肉がついてきたか?」

  「そ、そう?ふふ、あはは」

  ぐいぐいと、確認するように背中や腰のあたりを触るクラス。

  こそばくって、思わず笑ってしまう。

  ボクの背中はクラスほど凝り固まっていないので、少し泡立てて貰ったらそれでオッケー。

  

  たまに親切心でマッサージしようか、と提案されるのだが、下手に力いっぱい揉まれると、その後の揉み返しで翌日動けなくなるので毎回断っている。

  湯船から溢れるざぁざぁという水音の中、体を洗い終えると。

  「じゃあせっかくだし、露天に入るか!」

  というが早いが、クラスは大きな露天風呂に向かった。

  「あ、待って!おしり、泡ついてるよ!」

  ボクが指摘すると、あ、いっけね!と言って、クラスは足を蟹股に広げ、露天の湯船から手でお湯をすくってお尻のあたりにぴちゃぴちゃとかけ始める。

  股の間から立派なものがまたブランブランと揺れていて、いいなぁ、ボクもいつかは、と思ってしまう。

  「……取れたか?」

  振り向かずに聞かれて、ボクが取れたよと返すと、ご機嫌そうにクラスは尻尾をぶんぶか振った。

  露天風呂に二人で漬かると、ぼんやりと空を見上げる。

  

  空には満点の星。

  目を凝らすと、夜を裂いて旅鳥が飛んでいる姿が見える。

  壁にかけられた松明が揺れるたびに、白く塗られた壁をオレンジの光がちろちろと舐める。

  近くに花でも植えられているのか、なんだかオリエンタルな香りが漂っていた。

  ぴゅーぴゅー、とクラスが下手な口笛を吹き始める。

  「いや、こりゃ極上だな」

  「うん、ニキのおかげだね!」

  「ああ、これから毎回ここに案内してもらおうぜ」

  「それはちょっと図々しすぎないかな?」

  湯船のふちに頭を載せて、うっとりと目を閉じる。

  気持ちいい。このまま眠れそう…と思っていると。

  「お、この薬湯、なかなかじゃねえか!」

  いつの間にそちらに移ったのだろう。

  薬湯に満たされたバスタブの中で、クラスがご機嫌な声を上げた。

  「ルートも来いよ!」

  誘われたボクは、露天風呂から上がると言われるがままにバスタブに近づく。

  「ほらほら、入れ入れ」

  「入れって…」

  バスタブに目をやる。

  クラスのマッチョな体で、浴槽内はみっちり詰まっていて。

  深緑色の湯の色が、クラスの白黒の毛によって新緑の色に変わっていた。

  入る隙間もないなぁ、と思案していると。

  「遠慮すんな…よっと!!」

  浴槽の中から、クラスがボクの胴体に両腕をまわし。

  肩の筋肉が隆起するのと同時に、軽い体が宙に浮く。

  「わ、わっ!」

  そのままボクを持ち上げたクラスは、上半身をくるりと半回転させると、自分の上にボクをお尻から落とすような形で浴槽内に迎えた。

  ばしゃ、とお湯が大量に湯船から零れる。

  「わははは、びっくりしたか?」

  「びっくりしたよ、もう!」

  豪快に笑う虎人。

  クラスの上に重なったボクは、

  「ど、どうするのこれ」

  いったいどこに重心をかければいいのか、と困ってしまう。

  すると、クラスの太い腕がボクの胴に巻き付き、

  「こうすりゃいいじゃねえか」

  「え、ええ…」

  後ろから抱きかかえられる様な姿勢になる。

  そりゃ、この湯船に二人で入ろうとすれば、こうなるだろうけど…

  「どうだ?」

  「どうだ?って」

  臀部の辺りに、クラスのおちんちんが当たっている。

  これはなんだか、背徳的だ。

  「このお湯。気持ちいいだろ」

  そんなボクの焦りなんて知らない、虎人の無邪気な声。

  もう、とため息をつくと、頭の力を抜き、クラスの胸板にもたれかかった。

  薬湯独特の強い匂いが鼻先に漂う。

  薄荷のような匂い、と最初感じたが、実際に薄荷のエキスでも混ざっているのだろうか。

  暖かいお湯の中にいるのに、体が少しすーすーと涼しくなる。

  「あったかいのに冷たいね」

  「ああ、面白ぇよな!」

  「なんだかずっと浸かってられそう」

  クラスとボクが入っているせいで、お湯が減ったからか。

  水温は温く、なんというか…人肌より少し暖かいくらいで、とても心地いい。

  ふ、と頭を左に向けると、クラスの穏やかな心音が耳を打つ。

  どく、どく、どく、どく。

  虎人の鼓動は力強くリズミカルで、なんだか眠たくなってくる。

  「きもちいいね…」

  ボクが呟く。

  返事はない。

  「クラス?」

  代わりに、すーすー、という寝息が耳元で聞こえる。

  「…寝ちゃった」

  ……まぁ、疲れてるもんね。

  今日も一日、お疲れ様。

  目を閉じ、ボクまで眠ってしまわないように注意しながらも、ゆったりとリラックス。

  でもいいのかな、長湯しちゃって。

  もう少ししたら、上がらないと…

  そうして、睡魔と戦い始めて、数分経った頃。

  「――ん、」

  お尻のあたりにふとした違和感を感じる。

  「?」

  耳元では、まだクラスの寝息が続いている。

  なんだろ、と思っていると。

  「……!」

  お尻のあたりを、何か棒のようなものがごりごりと押しているような…

  ってこれ、

  (く、クラス、クラス!!)

  思わず小声になる。

  何度も声をかけるが起きる気配がない。

  肩をぺちぺちと叩くが、それでも反応はない。

  

  そうこうしているうちに、違和感はどんどん大きくなり…

  ボクのお尻の割れ目に挟まる様な形で、クラスの…その、固くなったおちんちんが、動くのを止めた。

  というより、膨張をやめた…というのがいいのか…

  ちょっと、これは…流石に…

  

  焦ってしまうが、起こすとそれはそれで気まずいような。

  じゃあどうすればいいのか…

  回転する頭が、お湯の熱と眠気でぼうっとしてくる。

  湯船から出るべきなのだろうが、起こしたくはない。

  とにかく、時間がたてばそのうち収まるだろう、と待っていると…

  今度は、ボクのおちんちんに違和感。

  (ちょ、ちょっと)

  自分のほっぺを抓ったりするが、股間のあたりのムズムズが止まらず。

  ややあって、ボクのまでがちがちに固くなってしまう。

  ――ど、どうしよう…

  固まっていると。

  「む、ん-、寝ちまってたか…」

  気配に感づいたか、クラスが欠伸交じりに目を覚ます。

  だ、ダメだ、今起きたら…

  「…ん?うおっ」

  気づいたのだろうか。

  クラスが小さく声を上げた。

  「く、クラス、あの、その」

  なぜかボクがまごまごしていると、

  「す、すまねぇ…つつ、疲れマラで勃っちまってたみたいだ」

  と、気まずそうに謝られる。

  「あ、だ、大丈夫だよ」

  「ちょ、っとこのままだとアレだな…ルートだけ先に上がってくれ」

  クラスがボクのお腹を抱いていた腕を動かして…

  むにゅっ、と股間に違和感。

  「………」

  「………」

  クラスの手が、偶然ボクのに触ってしまったようで。

  「あ、ご、ごめん…」

  ボクが謝る。

  「な、なんかその、クラスのが固くなってるから、お、お尻に当たってるな、って思ってたら、ぼぼぼボクのもかかか固く…」

  「いや、その、それ以上言わなくていい…」

  クラスが言葉を詰まらせて、沈黙。

  ――気まずい。

  クラスの顔を見ようと、左に頭をずらすと。

  どくどくどくどくどくどくどく、とクラスの心臓がとんでもない速さで早鐘を打っていた。

  「と、とにかく、治まるまでその…」

  「お、おう」

  動かないでいよう、と提案。

  背後の虎人は今どんな顔をしているのだろうか…。

  クラスの行き場のない腕が、おずおず、といった様子で再びボクの胴を抱き込む。

  耳まで真っ赤になりながら、ボクは意識しないようにして…

  ――そうして。

  

  結局30分くらい経過しても、お互い動かず。

  そして、あまりに長湯をしているせいで様子を見てきてくれ、とニキに頼まれた牛人が、バスタブの中で密着しているボクたちを見つけ…

  やいのやいのとからかわれ…

  口止め料として少しの金銭をクラスが牛人に握らせ…

  そんなものより俺のを握ってくれよ、と言った牛人にクラスが本気の睨みをきかせ…

  そんなこんなで、ボクたちはようやく、大浴場を後にしたのだった。

  

  帰宅すると。

  どっと漬かれたボクは、タオルや石鹸を片付けるのも忘れて、ベッドに直行する。

  クラスも同じだったようで、ボクの隣にどっかと倒れこむと、枕に顔を押し付けて、ふーー、と大きく息を吐いた。

  ボクが左、クラスが右。

  これが、ボクたちの定位置。

  

  闇に紛れ、互いの顔色はうかがえないが。

  ……やっぱり相変わらず、少し気まずい。

  「そ、その、クラス」

  「…おう」

  「おやすみなさい…」

  二人とも背中合わせになる。

  ボクは枕元に手を伸ばすと、ランプの明かりを落とす。

  炎が消える瞬間、仄かに焦げる様な匂いがして。

  そして、辺りが闇に閉ざされる。

  

  ――風呂場であんなことがあったから。

  今日はいつもみたいに、腕枕して貰えないだろうな、気まずいし…。

  はぁ、とため息をつく。

  

  子供のようだが、ボクはクラスの腕枕がないと安眠できない。

  二の腕が鍛えられているので、首を乗せると少し苦しいのだが…

  慣れてしまうと、普通の枕では低くて逆に気持ちが悪いのだ。

  ぽふ、と枕に首を乗せる。

  

  

  すると、クラスがもぞもぞと動いて。

  

  無言で、右腕を差し出す。

  「………ん」

  ボクは首を持ち上げると、少し動いて、クラスの右腕の上に首をのせる。

  「おやすみ、坊主」

  クラスが呟くように言って。

  

  ボクは、恥ずかしいような、気まずいような、嬉しいような、複雑な気持ちのまま。

  

  疲労感に意識を苛まれ。

  眠りに落ちたのだった。

  

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