「エレオノラ」
「人間?」
リリスが声を落として尋ねた。
「分からない。二足であるけど、音が異様に小さい。鶏に似ているけど、鶏にしては大分大きい…」
「もしかして、鶏蛇(コカトリス)?」
「可能性は、ある。リリス、準備して」
シアは手だけをリリスに向けながら言った。
リリスは、「分かった」と頷くと彼女の手を握った。
次の瞬間、リリスの身体は蜜蝋のように崩れ、巨大な刃を持つ長柄の斧に姿を変えた。
シアは大斧と化したリリスを両手で握りなおすと、前を警戒しながらゆっくりと立ち上がった。
〈シア…〉
リリスの声が頭の中で響いた。
「分かってる」
シアはそう言うと、斧の刃先を地面につけた。
「どう?」
〈シアの言った通りね。この間隔だと、目標は四十秒後にここに来るわね〉
「了解。それじゃあ、私は前を警戒しているから、貴方は音の方をお願い」
〈じゃあ、行くよ。三十…〉
二十…十…五、四、三、二、一。
〈来る〉
シアは、斧を握りしめた。
ガサガサ…。
草が揺れる音とともに、それは現れた。
どうやら相手もこちらの存在に気づいていたらしく、長い棒状のモノをいつでも振り回せるように構えていた。
一見するとそれは直立した狐のようであったが、額にツノがあり身に纏った服からのぞく足は狐と言うよりも鶏のそれに近かった。
身体つきを見る限りでは女性のようだ。
〈キキーモラか〉
リリスが頭の中でつぶやいた。
シアは、ホッと息をつきながら斧を握る手を弱めた。
キキーモラは魔物の中でも特に理性的な種族の一つ。コカトリスのように本能的に襲いかかってくることはないだろう。
もしかしたら、マリの居場所を知っているかもしれない。
シアは、まず相手に敵意がないこと示すため斧を地面に突き刺すと両手を相手の見える位置においた。
「誰かと思えば、ウールヴヘジンの方でしたか」
キキーモラは、シアの左腕についた腕章を見ながらつぶやいた。
腕章には、ウールヴヘジンの紋章がついていた。
「ええ、そうよ」
シアは、できるだけ友好的な口調で言った。
だが、キキーモラの彼女を見る目は侮蔑の色を帯びていた。
「リュバンのヒトかと思いましたが、どうやら見当違いだったようですね」
彼女は、それだけ言うと、その場を立ち去ろうとした。
「待って」
シアは、とっさに呼び止めた。
キキーモラは立ち止まると、うんざりしたような顔でシアを見つめた。
「私は、急いでいるんです。人間に媚びうる〝犬〟に構ってやる時間は、ありません」
そう言うと、魔物は再び歩き出そうとした。
シアは、さらに引き下がった。
「ほんの少しで良いの。貴方、この先でヒトを見なかった?人狼の女の子なんだけど。毛は灰色で目は黄色。それから、たぶん赤いコートを羽織っていると思うのだけど…」
「知りません」
キキーモラは、シアに背を向けたまま答えた。
〈嘘〉
その時、突然リリスがささやいた。
〈声が震えている。そのヒト、嘘ついているよ〉
その言葉を聞いた瞬間、シアはさっと表情を変え地面に突き刺していた斧を勢いよく引き抜いた。
「貴方、嘘をついているわね?」
キキーモラは「はあ」とわざとらしくため息をついた。
「交渉が無理なら力づくですか。つくづく、頭の弱いヒトたちですね…」
彼女は、そう言うと手に持っていた得物を構えた。
長い柄の先端には刃と思われるモノが付いていたが、大きな鞘に覆われていて形がはっきりとしない。
〈シア、気をつけて。あの武器、何か仕掛けがある〉
頭の中でリリスの声が響いた。
「うん。分かってる」
その証拠にキキーモラは鞘をつけたまま武器を構えている。
恐らく、あのパーツに何かが仕込まれているのだろう。
〈どうする、シア?〉
再びリリスの声。
決まっている。
「正面突破」
言うと同時にシアは相手に向かって突っ込んでいった。
不意を突かれたキキーモラは、シアが振り下ろした斧を避けきれず肩を切り裂かれた。
鮮血が飛び散り、金臭い匂いがあたりに充満した。
キキーモラも反撃しようと長柄を前に突き出すが、シアは身体にわずかに傾けそれを避けた。
〈シア、後ろ!〉
リリスの声にシアは後ろを振り返った。
視線の端にキキーモラが突き出した長柄の先端がある。
いつの間に外したのだろうか、鞘はなく代わりに大きな刃が姿を見せていた。
始め斧に見えたそれは、ガチャリと大きな音を立てながら柄に対して直角に傾き大きな鎌の刃になった。
まずい。
そう思った次の瞬間、キキーモラが勢いよく鎌の柄を引いた。
「リリス!」
シアはキキーモラの方に視線を戻しながら叫んだ。
と同時に彼女の手の中の斧が大きな盾に姿を変えた。
シアは盾を後ろに構えると鎌の刃を受け止め何とか真っ二つになるのを退けた。
キキーモラの目に動揺の色が見える。
「隙あり!」
シアは、足に忍ばせていたナイフを抜くとキキーモラの胸に刃を突き立てた。
心臓ははずしたが、戦闘不能にするには十分な一撃だ。
キキーモラは膝をつき倒れると、胸に刺さったナイフを抜こうと柄に手をかけた。
「止めときなさい。失血するわよ?」
シアは、キキーモラに向かって言った。
「貴方が会った人狼について話せば、すぐに治療してあげるわ。言わないなら今より酷い目にあうことになるわよ?」
彼女は、できるだけ残忍な表情で相手を睨みながら反応を待った。
だが、目の前の魔物は口から血の泡を吹きながら唸るだけだった。
緑色の眼で鋭く睨まれた瞬間、シアの中で何かがはじけた。
「リリス」
シアは使い魔の名を呼んだ。
「この狐に地獄を見せてやりなさい」
〈…分かった〉
リリスは気乗りしない口調で答えると、盾から液状の物質に姿を変えた。
物質は再び形を取り戻すと、大きなコウモリのような翼の生えた大蛇に姿を変えた。
「本当に良いのね?」
大蛇はシアの方を振り返って尋ねた。
「早くしなさい」
シアは冷たい響きを含んだ声で言った。
リリスは小さくため息をつきながらキキーモラの方を見た。
キキーモラは鳥の四肢で四つん這いになりながら立ち上がろうともがいていた。
ナイフである程度出血が抑えられていたが、すでに地面には大量の血が流れ出ていた。
人間なら失神しても不思議でないだろう。
「悪く思わないでね」
リリスは目の前の魔物に向かってそう言うと、ゆっくりと口を開いた。
裂けた口の中から牙がのぞく。
牙の先端から紫色の液体がポタポタと地面に滴り落ちる。
リリスは口を開けたままキキーモラに近づき牙を手首に突き立てようとした。
だが次の瞬間、大蛇は殺気を感じ、さっと鎌首を引っこめた。
「何?」
後ろでシアの声がする。
気づくとキキーモラの前にはヒト影があった。
黒いローブを身に纏い右手には細身の剣を握っている。
山羊の頭骨のような仮面を被っているせいで性別はおろか人間であるかどうかすらもも分からない。
仮面のジン物は、どこからか小さな茶瓶を取り出すとキキーモラの前に落とした。
「傷薬よ。飲んだら、さっさと行きなさい」
高い声。どうやら女性のようだ。
どこか懐かしい響きもあるとシアとリリスは感じた。
キキーモラはヨロヨロと立ち上がると、薬を飲みナイフを胸から引き抜いた。
出血はしなかった。それどころか、胸の傷はどんどんと小さくなり、始めからなかったかのように塞がってしまった。
「行きなさい」
仮面のジン物は、再びキキーモラに向かって言った。
キキーモラは、彼女に一礼すると草むらの中に駆けて行った。
「待ちなさい!」
シアは、立ち去ろうとする魔物を追おうと前に進み出た。
だが次の瞬間、仮面のジン物が彼女の首元に向かって剣を上げシアの進路を妨害した。
「悪いけどシア、ここは下がってちょうだい」
仮面のジン物は言った。
シアは目の目の剣からそれを持つ者の顔に向かって視線をずらした。
「どうして、私の名前を…?」
彼女が問いかけると、仮面のジン物は返事をする代わりに左手で仮面をはずした。
シアとリリスは、目を大きく見開いた。
仮面のジン物は、人間の女性だった。
絹のような黒髪、ルビーのような赤い瞳、大きく形の整った唇。
女性はシアに微笑みかけると、突然霧のようになって消えてしまった。
まるで最初からそこにいなかったかのように。
「エレオノラ…」
シアは、女性のいた場所を見ながら呆然とつぶやいた。