雪とネロの子供に名前が付いて一週間。双子の伊織と彩葉はスクスクと成長している。
「ネロ様!伊織がハイハイし始めました!」
雪は仕事中のネロに声をかけた。まだ日本に滞在中のネロの両親も、隣の部屋からすぐに駆け寄る。
ネロと雪の使っている寝室。二つのベッドの間にあるベビーベッドを手入れしている時だった。
赤ん坊が転んでも痛くないようにと敷いたカーペットに、赤ん坊用のおもちゃをたくさん置いて、布団を敷いて寝かせていた。すると、男の子の伊織が突然ハイハイし始めたのだ。
雪は寝室にやって来た夫のネロとその両親に、詳しく伝える。
「まぁ、本当?」
ネロの母ネオンは首を傾げる。最近は子育てに忙しい雪を手伝うため、家の家事を手伝ってくれている。しかし、毎日のように子供の様子を見ているが、ハイハイしているのは見たことがない。
「見たことないけれど…」
「俺もだ。」
「あなたは、おもちゃを買っただけでしょう。」
ネオンは夫のイオに、苦笑いで言う。イオは屋敷でのんびりと過ごしているが、孫バカでたくさんのおもちゃを買ってきた。
三人で寝室に向かいながら話して、雪は必死に信用してもらおうと口早になる。
「本当です!僕…驚いて…。だって、産まれてから一ヶ月経ったばかり…。」
雪は驚いて息が上がっていた。ネロはそんな雪の背中をさすって微笑む。
「落ち着いて、雪。廊下を走っていたけど、危ないよ。」
雪は弱視だ。走ることはまずしないが、慌てていた。ネロは雪が転んだり、怪我をすることを心配していたのだ。
「す、すいません。」
「驚いて当然よ、雪さん。」
ネオンが口を開いた。雪のことを信じているから、疑っているわけではないらしい。
「獣人の子供はね?先祖が獣だから、獣の特性を持っているの。一ヶ月したらハイハイするのは当然なのよ。」
「そ、そうなんですか?」
「ええ。健康な印!良かったわねぇ。」
ネオンは笑顔でそう言った。雪はホッとして、やっと心臓の脈が落ち着きを取り戻す。
「そろそろ一ヶ月だから、来るだろうとは思ってたわ〜。」
ネオンのそんな言葉を聞きながら、ネロが寝室のドアを開ける。
子供たちを見ると、黒毛の伊織も茶色の毛の彩葉もハイハイをして、カーペットの上を動き回っていた。布団から出ることに苦労したのか、布団はぐしゃぐしゃになっている。
「さっき見たときはまだ、布団の上だったのに…。」
「可愛いわねぇ〜!!!」
雪が唖然としている横で、ネオンとイオは孫に興奮していた。ネロは苦笑いを浮かべて両親を見つめる。
「私もこうだったのかな…。」
呟くネロに、雪は尋ねる。
「ネロ様は知っていましたか?獣人の子供がこんなに成長が早いなんて…」
「知らなかったよ…。これは…寝室では狭いかな?」
「そうかも…しれないですね。」
雪は微笑んでそう答えた。ネロもやっと頬が緩んで微笑み返した。
「最近は雪もこの子達の世話で寝室にばかり居たから、これからの昼はリビングに居よう。」
「午前中はこの子達をリビングで遊ばせるんですか?」
「そう。私も仕事中は会えないけど、なるべく家ではリビングに居るようにするよ。」
「わかりました。」
ネロの提案に、雪は微笑んでうなづく。その時、ネロが雪の肩を優しく掴んでいたから、ネオンとイオはジーッとその様子を見つめる。
「あらあら。アツアツねぇ。」
「若い夫婦の家に、私たちがずっと居るのは良くないな。」
「そうですね、あなた。」
両親がそう言っているのを聞くと、ネロは恥ずかしそうにうつむく。雪は慌てて口を開いた。
「あ、あの…!えっと…イオ様も、ネオン様もいつまでもここに居ていただいて…。」
「いいのよ、気を使わなくて。でも、そうねぇ…。子供たちの世話がもう少し楽になってから、帰ることにするわ。」
ネオンは少し考えてからそう言った。
「獣人の子供はね、一ヶ月経てばハイハイし始めて、個性が出る。二ヶ月経てば立ち上がるし、短い単語なら話すようになるわ。」
「そ、そんなに…早く…」
「そうよ。獣の特性ね。だから子育ては大変なの。あなたが、もう助けはいらないって思ったら言って。そしたら私たちも安心できる。」
「はい!」
雪はうなづいて、決意を固めた。体調も戻ってきた今が踏ん張りどころである。ネロは雪の輝く瞳を見て、ホッとため息をついた。
「体調は良くなったようだね。」
「はい!」
「よかった。」
夫婦でそんな会話をしていると、イオが口を開く。
「体調が安定したということは、Ωにはヒートが来るだろう。」
みんなが忘れていた。イオはΩが嫌いだ。それよりもっと人間が嫌いだ。だからこそ、覚えていた。
「雪さん。ヒートが来たらネロにすぐに言いなさい。」
「は、はい…。」
「ネロも、雪さんにヒートが来たら…仕事より優先するように。」
イオの厳しい目に、ネロは息を呑んでうなづく。雪はイオの言葉から、家族として認めたという意思を感じた。
「雪さんの体調は、ネロがいち早く気が付かなければならないぞ。雪さんは隠したりしがちだからな。」
「よく知ってるね…」
驚いた顔のネロに、イオは続ける。
「お前の手紙、惚気話ばかりだったからな。」
「あら。あなた…ちゃんと読んでたのね。」
「あたりまえだ。日本に来る前に読んだ。」
ネオンの言葉に、イオは胸を張って言う。ネロも雪も恥ずかしくなった。うつむいた雪に、イオは優しく声をかける。
「子供たちが動けるようになったら、今よりも大変になるだろう。雪さんは、無理しないように。」
「は、はい。」
うなづいて返事しながら、雪は顔を見上げた。狼の獣人であるイオの大きな体には、貫禄があり、男らしさもあった。これが父親だと、心の中で思った。
最近はイオとネオンに家族として認められたと感じられる事ばかりが起きていて、雪は初めての家族との日常を噛み締めていた。幸せだと心から感じている。
しかし、そんな頃に事件が起きた。[newpage]
『犬の獣人の青年が〇〇大臣を刺し、捕まりました。犬の獣人の国、ワンディ国との関係悪化が起こりかねない事態です。』
ラジオは男性の声でそう伝えた。
『日本とワンディ国の貿易での、日本の不利な条約に、青年は憤りを覚え、犯行に及んだと主張しております。しかし、青年は狼の血の濃い獣人であり、兄弟が奴隷として闇市で売られた様子。我が国では密売はありませんが、犯行の理由としてはこの説が濃厚です。』
カチャン
イオが紅茶の入ったティーカップを置いた。雪はリビングで子供の相手をしながら、ラジオの内容を頭の中で繰り返した。イオは狼の獣人だ。色々と思うところがあるはずだ。
「最近、犬の獣人が人間に対して酷い行動をすることが多い様子だったが…ついに…。」
「え、そうなのですか?」
イオの言葉に、雪は驚いた。イオはうなづいて、雪に話す。
「海外のある人間の国では、獣人の密売が多い。これは、獣人よりも人間が強い立場にあるという、人間たちの考えから起きている。それを許せないと思っている獣人たちは、人間相手にだけ無理な貿易をしたり、差別行動に出るんだ。」
「そんな…知りませんでした。僕の周りは素敵な獣人さんばかりなので…」
雪はうつむいた。出産してからは家で子供たちの相手をしてばかりだったので、世の中のことから離れていた。獣人の酷い行動というものも、見たことがないし体験したこともない。
「日本はどちらかと言うと、獣人の方が強い立場にある。日本の産業などは獣人によって広がり、発展したからな。余計に獣人たちは日本の人間を下に見ているんだ。」
「でも…なぜ…人を殺してしまうなんて…」
「日本でしか人間に対する鬱憤を晴らせなかったんだろう。」
雪はイオの言葉に震えた。身近に獣人がいるからこそ、明日は我が身と思った。思わずギュッと抱きしめた子供たち。男の子の伊織が「うー」と声を出してハッとした。
「あ、ご、ごめんね。」
子供たち二人に謝った。すると、女の子の彩葉だけは嬉しそうに雪を見上げる。隣の伊織は「ふー」とため息をつく。最近は個性が色濃く浮き出ている。言葉も理解しているように、しっかりと反応を見せている。
「あなた、政治絡みの話をいっぱいして…雪さんを怖がらせないでください。」
イオのティーカップにおかわりの紅茶を入れたネオンが、腰に手を当てて言う。イオは尻尾をシュンとさせて、言葉だけは強めに返す。
「世の中のことを知るのは大事なことだ!」
見た目と言葉の違いに、雪は笑ってしまう。その時、仕事からネロが帰ってきた音が、玄関から聞こえる。雪だけでなく、イオとネオンがハッと顔を上げた。
「雪…父さん、母さん。」
ネロがリビングのドアを開けて、声をかけた。深刻そうな顔をしている。雪は弱視で遠くにいるネロが見えていないが、声で様子がわかった。
「ラジオや新聞で知っていると思うけど…」
「大臣を獣人の青年が殺したことか?」
イオが尋ねる。ネロはリビングの真ん中にやって来てうなづく。雪はリビングの真ん中に敷いてあるカーペットの上で、子供たちを抱えて座っていた。ネロは膝立ちになって雪の横に来ると、ギュッと雪の手を握る。かすかに震えていた。
「これはまだ、新聞でもラジオでも報道されていないと思う。獣人を排除せよと、暴動が起きている。人間たちが獣人に攻撃的だ。」
「本当に…?!」
ネオンは驚いて、口に手を当てる。ネロはコクリとうなづいた。雪は事態の深刻さをまだよくわかっていない。オロオロとしてネロを見つめていた。
「今日、ワンディ国の外交官として大臣殺害事件の対応をしていたんだが…。」
「お疲れ様です。」
雪は一息ついて椅子に座ったネロに、ティーカップを出して言う。ネロは優しく微笑んでうなづいてから続けた。
「外に出て驚いたよ。東京の中心ではデモが起きている。」
「デモ?」
雪は知らない言葉に首を傾げる。
「うん。日本から獣人を追い出せって主張する人々が集まっていた。しかし一歩…路地裏に行けば、攻撃的な人物が暴動を起こしていた。今は小さな暴動だが…放っておけば…。」
ネロは雪に優しくしている余裕もなさそうに、うつむいてしまう。雪が出した紅茶に手を付ける瞬間、その手は震えていた。雪はネロの様子に、心が落ち込んで重たくなっていく。
「私はワンディ国が故郷の外交官だ。犬の獣人の国はワンディだけではない。しかし…今回の事件はワンディ国の青年が起こした。」
「私たちも…日本の人々からしたら、敵ね。」
ネロの言葉に、ネオンがつぶやいた。震えるネオンに、夫であるイオは優しく手を握る。
犬の獣人の国はワンディ国という一国だけではない。イヌールという国もある。猫の獣人の国もニャルラトルという国や、ネーコリアンという国がある。しかし、今回の暴動やデモは、ネロの故郷であるワンディ国に向けて起きている。
「父さんと母さんは国に帰ったほうがいいだろう。ここに居ては危険かもしれない。」
ネロは眉間にシワを寄せて言った。ネロは外交官として対応をしなくてはならない。すぐに故郷には帰れないのだ。
「そうだな。私も軍人だったが、もう現役からは退いている身だ。この事件には何の力にもなれない。」
イオは歯痒そうに言った。
「悪いが、帰らせてもらう。ネオン…心配するな。」
震える妻の手を握り、優しく声をかけるイオ。ネオンの尾はガッチリと下に垂れていた。
「私たちは行く場所があるわ。け、けれど…雪さんと、伊織と彩葉は…。」
ネオンはオロオロと震える声で雪を心配した。イオは困ってしまって、言葉が思いつかない。
「それは…。」
「いずれ、父さんと母さんの住むところに引っ越せたらいいのだけれど…」
イオがネロに視線を向けたとき、ネロも困った口調で言った。しかし、それを遮って雪は口早に言った。
「ネロ様から離れたくありません!」
ネロと、イオ、ネオン夫婦は驚いて雪を見た。雪は慌てて、必死に続きの言葉を考えた。子供たちの安全性を考えると、本当に正しい、この状況の対処がわからない。
「伊織と…彩葉は…僕が守ってみせます…!僕はこの子達を腹を痛めて産んだ母親ですから…!」
「けど…」
「僕はネロ様の番です!あなたのそばを離れるなんて…考えられません!」
「雪!君はどれだけ危険な状態かわかっているのかい?子供たちは獣人の子なんだ…!」
雪の肩を掴んでネロは説得をしようとした。しかし、雪は首を横に振って続ける。
「いざとなれば、僕は日本から出る覚悟があります!けれど…あなたが危険な状態でこの国にいるなら、それを放ってはおけません!」
ネロはおぼつかない雪の瞳の動きを見つめて、雪が不安な思いを抱えながらも話しているのだとわかった。ネロは思わず、返す言葉を失くしてしまう。
「僕は人間です。けれど…僕が一番愛しているのは、獣人のあなたと、子供たちとあなたのご両親です。獣人だから、人間だからなんて…僕はそんなこと言いません!」
「雪…」
「Ωだからって言われてばかりなのに…番が獣人だからって…また差別されるんですか?僕は…そんなことに負けたくない!」
雪は思わず泣いてしまった。雪には難しいことはわからない。今、なにが起きているかもよくわかっていない。けれど、負けたくないという意思だけは確かにあった。
「子供たちと、あなたと…離れたくありません。子供たちは絶対に守ってみせます。だから…君だけ逃げろなんて…言わないでください。逃げるときは、一緒がいい。」
ネロの手を握って、ポロポロと涙を流す雪を見たネロは、うつむいて考え込んだ。獣人の子供である伊織と彩葉が、日本人に敵視されてしまうかもしれない。獣人の番である雪が、暴動に巻き込まれるかもしれない。
「雪…でもね…?」
「ネロ、もう今日は考えなくていいわ。」
ネロの言葉を遮って、ネオンが口を開いた。イオも横で口をつぐんでいる。
「明日の朝、私たちは国に帰るけれど…結論を出すのは明日の朝でいいでしょう?」
「母さん…でも…」
「獣人と結婚するだけでも、番になるだけでも、雪さんは大きな覚悟と決断をしたの。そんな雪さんが、ワンディ国には行かないと言っているのよ?」
ネロはネオンに言われて、再び言葉を失った。
「今日はもう…」
ネオンは泣いている雪を見て、それ以上喋らなかった。