[chapter: 【前編】]
ひやりとした空気に薄靄をまとった早朝の森を、一人の狼獣人が歩いていた。
「ふわああ、眠ぃ……」
彼は近くの村落に住む、二十歳を迎えたばかりの青年である。深緑の上に浮かび上がる鮮やかな赤毛、細身だが無駄なく引き締められた強靭な体。そんな鋭い風貌とは裏腹に、寝ぼけ眼をこすり、巻き尾を力なく垂らしたまま、ふらふらと歩を進めている。
皆を支える男衆の一員として、森で獲物を狩り、畑を荒らす害獣を退け、時には他の部族と衝突することもある青年。空いた時間も、熟練の戦士である父の指導のもと鍛錬に励み、安穏とは言えない暮らしをしている。そんな彼の原動力は、二歳下の弟だ。生まれつき体が弱く、満足に戦えない弟を、彼は何より大切に思っていて、口ではしばしばからかいながらも、心のうちでは一生守り抜いてやろうと決めている。不器用だが優しい兄である。村の大人たちにも一目置かれる立派な若者だが、数少ない欠点の一つが、朝に弱いという点なのであった。
「すんすん……んー、なんか鼻が利かねえな」
寝起きで鈍った鼻をひくつかせながら、青年は森をさまよう。溺れそうなほど濃厚な土と草の香りの中に、あるにおいを探しているのだ。それは狼獣人の習性だった。集落を築き、柵と壁で縄張りを示すようになってもなお、やめられずにいる。
「ここは、ちっ、ヘロンの野郎か」
悪友の痕跡を嗅ぎつけて、ぼやく。すぐに思いつくような場所は、あらかた仲間の誰かに使われてしまっている。においが薄れていれば上書きしてもいいが、ここはまだ新しい。場所を毎日変えるものだから、三百人前後の集団になると、どうしても奪い合いになってしまう。
朝のマーキングとは、なかなかに難儀なものなのであった。
「――よし、やっと見つけた」
半時間ほど歩き続けて、青年はようやく、先客の痕跡がない場所を見つけ出す。獣道から少し外れたそこには、草木が行く手を遮るように濃く生い茂っている。しかしその奥には、用を足すのにちょうどいい空間が隠されていることを、彼は知っていた。
この森は、子供の頃から駆け回った庭のようなもので、少し足を伸ばせば、このような穴場はたくさんある。不精ゆえに村の近場を優先したせいで、無駄な時間を使ってしまった。
「ちっ、早く戻らねえと、オヤジにどやされちまう」
緑の壁をかき分けて進むと、記憶のとおり、子供がぎりぎり横になれるくらいの小さな空隙が現れる。青年はそこに陣取ると、右手を無造作に股間へと寄せる。そこにあるのは、体毛の赤を濃縮して青みを足したような具合の、鮮烈な紅色の褌だ。柔らかな膨らみの縁に、青年の指先が滑らかに滑り込む。そして、実に慣れた手付きで内側をまさぐり、その中身を露出させた。
細い体に似合わずぷっくりと太い陰茎が、木々の隙間から射し込む朝日に、血色豊かな橙色を浮かび上がらせる。青年はそれに左手も添えて、堂々たる姿勢で、草むらのわずかな隙間に狙いを定める。緊張がたちまち漲って、肉筒を微かに震わせた。
「……ふうっ」
そして、深く息を吐く。それに合わせて、半分だけ露出した亀頭の突端から、小便が勢いよくほとばしる。柔らかな土を小気味良く穿つ音が、すぐに湿り気を帯びて、どぼどぼと豪快なものへと変わっていく。青年は目を閉じて、やっと訪れた解放の感覚に浸りながら、今日がどんな一日になるのか思いを巡らせていた。
村に戻ったら、まずは朝食。物心つく前に他界した母に代わり、食事の用意はもっぱら弟の担当だ。凝った料理が出てくるわけではないが、香りの良い草と、砕いた木の実をまぶしてこんがり焼いた肉など、青年の旺盛な食欲を刺激してやまない。娯楽に乏しい集落で、家族一緒の食事は何よりの楽しみだった。その後は状況に応じて狩りに出たり、鍛錬に勤しんだり。楽ではないし、いつだって危険と隣り合わせだが、飽きることのない大切な日常。
――それが間もなく終わりを迎えることなど、青年には知るよしもなかった。
***
このどこまでも広がる大森林には、数多くの動物と獣人が、互いに争い、あるいは支え合って生きている。そしてその中に、少し変わった生物も混じっていた。スライムと呼ばれる、水色の透明な粘体で構成された、不定形の生物である。
大きさは平均的な獣人の頭部ほどで、性別はなく、時折行う分裂によって、ゆっくりと数を増やしている。特徴的な粘体は、自由自在に収縮して地を這うことを可能とするだけでなく、簡易的な神経細胞網としても機能する。つまり、筋肉と脳の役割を兼ねるのだ。もっともその知能水準はそれほど高くなく、基本的には、ただ一つの行動原理に従って行動するのみである。
その行動原理とは――飢えを満たすこと。
森に暮らす生物を襲い、溶解液で体を溶かして吸収する。一応雑食ではあるが、もっぱら動物や獣人を狙う。とりわけ好むのは、雄の獣人だと言われている。より正確に言えば、性的に興奮した雄の匂いに惹かれるのだ。理由は明らかではないが、性欲旺盛な雄獣人は力も強く好戦的な傾向があり、種の生存を脅かす存在であるため、積極的に排除するように進化した結果、そのような性質を持つに至ったという仮説が有力である。
もっとも、スライムの個体数は多くない。狩りの時を除いては常に物陰に身を潜めているし、捕食された獲物は跡形もなく消えてしまうため、その存在や性質を知る者は限られる。そして情報は力。貴重な知識を軽々しく他者に漏らしはしない。だから、恐るべき捕食者に狙われているとも知らず、不用心に一人で森の中を歩き回る雄獣人が後を絶たないのだ。
「あー……」
草木の壁に閉ざされた小さな空間で、間の抜けた声を漏らしながら放尿を続けている狼獣人の青年。その振る舞いは、近くに敵はいないという確信によるもの。実際、彼の鋭敏な鼻と耳は、害意ある者の接近を確実に捉えられるから、あながち油断とも言い切れない。相手が、肉の体を持たず呼吸もしないスライムでなかったならば。
青年の左後方で、一体のスライムが、草陰の奥に潜みじっと様子を窺っていた。
その特異な生物は目も耳も鼻も持たないが、艶やかな体表は感覚器の機能を備えており、光や空気の震え、匂いをわずかに感じ取れる。それを活かして、派手な水音を隠れ蓑に、スライムは滑らかに地を這い、青年のすぐそばへと近づいていく。
「ぶるっ、ああ、すっきりした」
スライムが草むらと空間の境目に到達したタイミングで、青年の膀胱がちょうど空になった。もうもうと立ち上る湯気のなか、ひとしきりの身震いを終えると、豪快に陰茎を振るい、褌の中にしまおうとしたのだが、そこでふと、彼の動きが止まる。
「んん……」
青年はしばし考え込む。ここを見つけるのに時間をかけすぎた。だから早く戻らなければ。そう思ってはいるのだが、一度それを意識してしまったら、心臓の鼓動は速まり、体温は上がっていく。もはや止められそうにはなかった。だから彼は、早々に抗うのをやめる。
「せっかくだし、抜いてくか」
独白に合わせて、指と指の間に収まっている男根が、むくむくと膨らんでいく。
わざわざ排泄のためだけに、人目につかない場所を探すのではなかった。思春期を過ぎた村の雄たちの多くは、マーキングの時間に、溜まった情欲の発散も行っているのだ。青年の友人たちは皆そうしているし、弟も、そして父すらも、例外ではなかった。
「ふっ、く……ぅ」
手早く済ませようと、青年は立ったまま、右手を小刻みに動かし始める。半剥けだった亀頭が速やかに露出し、赤黒く染まっていく。昨晩にも抜いているのだが、若い雄獣人の性欲には限りがなく、青年自身も少し戸惑うほどだった。愛を注ぐ番が見つかれば、少しは変わってくるのだろうか。そんなことを頭の片隅で思いながら、彼は高みへと上っていく。
この行為が命取りになるとも知らずに。
スライムは、興奮した雄の匂いに惹かれる。狩猟本能とも呼ぶべき機構を刺激されるのだ。
自慰にのめり込む青年の足元に、スライムは這い進むと、扁球状の体をぷるぷると震わせる。するとその天辺に、こぶのような丸い膨らみが現れた。それは速やかに拳大へと成長し、本体の相似形となって分離する。分裂を繁殖様式とするスライムが作り出した、小さな分身である。
「はっ、くっ、はぁっ」
足元で起こっている異変にも気づかず、青年は息を荒らげている。いっそう濃く漂う香気に、スライムの興奮も高まっていく。この美味そうな男を喰らいたい。噴き出す大量の子種ごと、一滴も残さず吸い尽くしてしまいたい。もし言葉を操れるなら、こう叫んでいたことだろう。
「……んん……っ!」
狼が我慢汁を撒き散らし始める。いよいよ、絶頂が訪れようとしていたのだ。その喰ってくれと言わんばかりの挑発的な姿、猛烈なフェロモン。たまらなくなったスライムは、ついに行動を起こす。体を瞬時に収縮膨張させて、頭上の分身を、勢いよく打ち上げたのだ。
「ひえっ!?」
突然何かが尻臀に張り付いて、青年は頓狂な声を上げる。反射的に振り払おうとするが、小さな粘体は獣毛にべったりと絡みつき、容易には剥がれない。混乱する青年を意に介することもなく、分身は、目的地への侵入経路を求めて這い回る。
固く締められた褌が、尻にがっしり食い込んで行く手を阻む。しかし、股間をくぐり前に出てみれば、ぎんぎんに怒張した肉棒の根本に隙間を見出した。滑らかな体は、ためらうこともなくするりとその中に潜行する。
「うげっ、き、気持ち悪ぃ!」
陰嚢を揉みしだかれる感触に慌てふためく青年だが、それでもまだ、これが危機的状況であるとは考えていなかった。ちょっと大きい虫がたまたま入り込んだのだろう。そのくらいの生理的な嫌悪感だけだったのだ。しかし次の瞬間、彼は戦慄することになる。
「な、んだこれッ、ケツに……!?」
汗で張り付く布地を力任せに押しのけながら、分身は門渡りを伝って進み、たちまち青年の肛門へとたどり着く。繊細にうごめく冷たい何かが、具合を確かめるように恥部に触れる感触に、さすがの狼も、ただならぬ事態に陥っていることに気づいた。もはや、手遅れなのだが。
「ぐがああぁあッ!!」
青年が褌に手をかけるよりも早く、小さなスライムは親の意思に従い、雄穴への突入を開始する。粘体を一箇所に集め、高まった圧力を一点にねじ込んだのだ。括約筋の抵抗も、粘液をまとい形を自在に変える外敵には無力だった。わずかに一筋侵入を許した途端、勢いに任せて残りがなだれ込む。生まれて初めて感じる激痛に、青年は悲鳴を上げた。
「が、ぁっ、いで……ぇ、よぉ」
それでもうずくまることなく立ち続けたのは、鍛え上げた精神力の為せる業である。しかし、スライムがそれに感銘を受けるようなことはない。
「ぐほっ!」
突然腹の中に膨満感を覚え、思わずうめき声を漏らす青年。すっかり腸内に収まった分身が、体内に蓄えていた液体を、一気に解き放ったのだ。
「あ……なんだ、か、体が、動かねえ……っ」
それは、特殊な麻痺液。呼吸や心拍といった生命維持に必須の機能は保ちつつ、全身の筋肉を速やかに麻痺させるはたらきを持つ。少量では効果が弱く、吸収も悪いのが欠点だが、こうして体内に直接注入できるのならば、何の問題もない。
ふらつきながらも必死にバランスを保とうとする青年であったが、それは無駄な抵抗だった。間もなくその足はもつれて、受け身を取ることもできず、草むらの中、自らの作った尿溜まりの上に青年は倒れ伏した。黄色の飛沫が、木漏れ日を浴びてきらめきながら、独特の臭気となって周囲に広がっていく。
「ぐえぇっ! ち、くしょ……う!」
いつもどおりの平和な朝が、どうしてこんなことに。悪臭に塗れながら、痛みと恐怖に震える自分がひどく惨めで、青年は涙を流す。それは、獲物が無力化されたことを示す合図。スライムが、いよいよ動き出す。二本の引き締まった脚の間を悠然と進み、その先、薄黄色の陰嚢と地面の間で萎えかけている雄の象徴に、そっと触れたのだ。
「ひぃっ!?」
驚愕して体を震わせるが、後ろを振り向くことすらできない青年。姿かたちも分からぬ敵に、自らの最も脆く秘すべき箇所を晒していることは、恐怖以外の何物でもない。
「な、なにを……」
尻を侵された時の耐え難い痛みが脳裏に蘇り、細い体をぎゅっと強張らせる。しかし、次の瞬間に生じた感覚は、彼の想像とはまるで違うものだった。
「うあ……ぁ」
場違いな、甘い声。それをもたらしたのは、陰茎を何かが優しく包み込む感触だった。
柔らかくも確かな弾力があり、一瞬感じた冷たさも、すぐに自分の体温と馴染んでいく。そして極めつけは、とくん、とくんと伝わってくる頼もしい脈動。それらの快い感覚は、打ちひしがれていた青年にもたらされた救済であるかのようである。
循環器を欠いたスライムに、脈などない。相手を安心させるべく、獣人の心拍を模した振動を加えているのだ。そして、青年を蝕む麻痺液にも秘密があった。それは緩徐な抗不安作用と、催淫作用。不信感を与えない程度にゆっくりと、しかし確実に、スライムの望む状況を作り出していく。進化の過程で身につけた、巧妙な技なのである。
「ふうっ、くう……んっ」
青年の息が荒くなる。鼓動が強く、速くなっていく。それに呼応して、粘体の脈動も高まる。まるで愛する人と体を重ねているような一体感が、未だ童貞である彼を襲う。絶頂の直前でおあずけを食らっていた性欲が、再び勢いを取り戻すのにさほど時間はかからなかった。
「ぐるぅ、ウウ」
興奮とわずかな苦痛が混じった唸り声。硬く勃った狼茎が粘体を貫き、うつ伏せの体を支える第三の足となろうとしていた。細身といえども決して軽くはない体を、ぐぐっと押し上げているのだ。しかし、石混じりの硬い土を抉る亀頭は、大きな負担に曝されていた。それを見て取ったスライムは、腹の下にぐいと潜り込み、豊富な弾力をもって体重を受け止める。
不快が退き、純粋な快のみが残る。ここにおいて狼人は、正常位で腰を引いた雄の体勢であった。彼はこれから、人生最初で最後の性交に臨むことになるのだ。その相手が、同族どころか獣人ですらない、得体の知れない生物であることは、蕩けた脳にはもはや理解できなかった。
「あっ……ぐ、がうぅううッ!」
咆哮じみた声とともに、狼がよがる。腹の下にいる誰かの奥深くへと、自らを力強く引き入れられたために。外側から内側へと巻き込むように、スライムが体組織を流動させたのだ。ぬめりを帯びた粘体が、全身が麻痺する中で一点だけ研ぎ澄まされた性感帯を、艶めかしく愛撫する。そして、地面にぶち当たるぎりぎりまで咥え込むと、次は流れを反転させて青年を押し上げた。体が浮いて、いきり立った逸物がひやりとした外気にさらされる。
「ふぐっ、んあああ!」
そして重力に引かれ、淫らな音とともに再び柔らかな粘体の中へ。それは彼が未だ知らぬ肉壷の感触そのもので、脳が焼き切れるほど鮮やかな快感に、声を上げずにはいられなかった。
「んっ、あ……ぁっ」
さらに追い打ちをかけるように、青年の胸に生える二つの小さな突起を、しっとりした表面で撫で始めるスライム。それはこそばゆくも、思わず身震いしてしまうような、初めて味わう心地よさで、青年の上ずった喘ぎは途切れることがない。
肉筒から小便のように溢れ出す我慢汁を吸い込んで、スライムは喜びを表すかのように、ピストンの速度を高める。締まった赤色の体が、何度も何度も宙に跳ね、そのたびに青年は嬌声を上げるのだ。俺は一体何をしているのか――微かに残ったそんな疑問は、快楽の濁流に呑まれ、遠い遠い意識の果てへと消えていく。
「あっ、ダメ……だ、もう、もうっ、イクッ、イっちま……う」
自慰でもともと射精寸前だったところに、この刺激。限界は、あっという間に目前まで迫ってくる。青年は、自ら腰を振りたくてたまらなくなっていた。初めての体験でも、自らの種を確実に残そうとする本能は確かにはたらいていたのだ。しかし体は麻痺して動かない。されるがままのもどかしさが、快楽に歪む狼の表情をさらに歪ませる。
「くそ……ぉ、あぐっ……!」
雄のプライドが、まだ早すぎると叫んでも、彼にはどうすることもできない。
「出る、出っ……んぐううぅうッ!」
そのままあっけなく、青年は絶頂を迎えた。体躯に見合わぬ極太の茎から、意識が吹き飛びそうな莫大な快感を表す大量の白濁液が、透明な青の中に噴き出す。それは大粒の珠となって一時留まり、そして靄のように拡散していく。狼の若々しい滋味を堪能して、スライムは体をぷるぷると震わせた。もっと味わいたい。ただの一滴すらも残さずに。
「があぁ! やめ、激し……かはあぁッ!!」
粘体の締め付けが強くなる。界面に無数のひだを形成し、竿を絡め取ると、もはや獣の腰振りでは到達できない速度で攻め上げる。たまらず青年は絶叫し、二度目の射精に至る。昨晩抜いたばかりで蓄えの少なかった陰嚢は、中身を絞り尽くされ、すっかり縮こまってしまった。これ以上の吐精は、もう物理的に不可能である。それなのに――
「お、おいぃ、もういいだろぉッ!?」
スライムの動きは止まらない。もっと擦れば、三度目のご馳走が出てくるはず。そう思って、すでに萎えかけている性器に、ますます激しい攻撃を加え始めたのだ。
「ひっ、やめっ……! たのむ、出ねえ、もう、出ねえってッ!」
狂ったような勢いで体液を強請る存在に、青年は慄く。回転運動まで加え、ねじ切ろうとするかのような動きに、彼は射精直前とは似て非なる、切迫した圧力の高まりを感じていた。だが、感じただけだ。なにせもう、出すものが何も残されていないのだから。
結局、陰茎はしなしなと萎み、本来以上に短く丸っこい姿へと戻っていった。
それでも駄々をこねるように暴れていた襲撃者だが、反応がないことを理解したのか、徐々にその動きを緩やかにし、やがて静止する。さらには、下腹部を支えていた弾力が、まるで溶けるように緩んで存在感をなくしていく。あとに残されたのは、そよ風吹く森の静寂だった。
「たす、かった……?」
拷問じみた時間から解放されて、安堵の表情を見せる青年。疲れがどっと溢れて、未だ小便が乾ききらない地面に顔を預けたまま、深い溜め息を吐く。
ひどい目にあったが、これでようやく村に帰れる。父親に怒鳴られるだろうか。いや、不器用なところもあるが、自分と弟を一生懸命に育ててくれた、家族想いの優しい人だ。困憊したこの姿を見れば、血相を変えて飛んでくるに違いない。その後は体をきれいにして、少し休んで、それから弟が用意してくれているであろう朝食に舌鼓だ。ああ、腹が減ったなあ。
脳いっぱいに広がった抗不安成分と、認めがたい現実から目を背ける防衛機制がもたらした、一時の安息であった。
「えっ」
しかしそれは、容易く壊される。霧散したと思っていた敵――薄く潰れて、胸から陰部までを覆っていたスライムが、再び動き出したことによって。太腿からふくらはぎ、そしてつま先へ。あるいは脇腹から背中、脇から腕、そして指先に至るまで。粘性生物が膜状になって、青年の全身を呑み込むように広がり始めたのだ。
「ひ、ひぃぃっ!」
性器を弄ばれていた時のような、暖かくて心地よい感覚ではなかった。ねちゃねちゃと不快な音を立てながら、ナメクジが這うように、体中を覆い尽くしていく。ついには頭部も、口や鼻、黄色の瞳、そして耳先まで余すところなく青色に染められて、本能的に青年は理解する。自分を包む明確な殺意を。自分がこれから辿ることになる、末路を。
「いや、だ……た、すけ……っ」
麻痺を越える恐怖が、うつ伏せの体を震わせる。しかし懇願は届かない。そもそもスライムに命乞いという行為は理解できない。結局、獲物は栄養源に過ぎないのだ。とりわけ精の味を好むようにできているから、まずは快楽を与えてやるが、それが終わってしまえば――
「ぃがあぁああああッ!!」
溶かしてしまうだけだった。
スライムの全身から分泌される、溶解液。強力な酸と耐酸性の酵素を含み、たいていの生物の肉体を、少量でも容易く腐食し溶かしてしまう。ふさふさした赤毛が黒く変色し、湯を沸かすように泡立ち始める。体からもうもうと白煙が立ち上り、刺激臭が周囲に広がっていく。
「オヤ、ジ、オヤジぃっ! たす、助けてっぐおぁああっ」
必死に声を絞り出して助けを求めても、離れた村にいる父には聞こえない。眼がどろりと形を失って、何も見えなくなる。鼻腔が侵されて、匂いも消え失せる。被毛が流れ落ち、むき出しとなった地肌が酸に曝露されると、もはや痛みすら、感じなくなってくる。
「かは……ぁっ、こ、んな、死に方、って……」
肛門から入り込んでいた分身もまた、腸内で活性化し、溶解液をばら撒き始める。外と内の両面から、壊されていく体。溶けた中身が赤黒い靄となって、全身の穴という穴から溢れ出してくる。もはや崩壊は脳の直前にまで達し、青年の意識は闇に呑まれつつあった。
「ラーク、ごめん。守ってやれ、なくて、ごめん……な」
最期の言葉は、一生守り抜くと誓っていた弟への、謝罪だった。
ついに溶解液が脳内に侵入する。その瞬間、体が溶けていく時とは比べ物にならない激痛が、青年の中で弾けた。苦悶なき死、そんなせめてもの慈悲すら、与えられることはなかった。最期に断末魔の叫びを上げて、哀れな若者の人生は幕を下ろす。
命果てた残骸は瞬く間に骨だけとなり、その骨すらも崩れ消えていく。スライムは、取り込んだ狼獣人の成分を淡々と分解し、自らの一部へと作り変えていた。その奇妙な体を形作り、思考回路としてもはたらく粘性物質。そして獲物を麻痺させ、あるいは溶解する物質――そういったおぞましいモノへと、青年は変貌していくのである。
スライムには、共感と呼べるほどの高度な精神の営みはない。だから、たった今吸収した男の悲嘆や無念は理解できない。養分を取り込んで巨大化した青い怪物は、ぶよぶよと震えながら、早くも次の獲物の訪れに備えて、動き出すのだった。
***
恵み豊かなこの広大な森林には、様々な種類の獣人たちが暮らしている。その生活様式もまた多岐にわたるが、概ね共通しているのは、犬なら犬科、猫なら猫科といった具合に、近しい種族の者たちが寄り集まって集落を形成しているという点である。
世界的には数を減らしつつある狼を中心に、犬や狸といった種族を少数交えた、三百人ほどの獣人が生活するこの集落も、その一つだ。肉を好むものの基本は雑食である彼らは、狩猟採集を主としつつ、生活の安定のため、小規模な農耕も試み始めている。自然の恩恵だけでなく、脅威にも曝される森は決して平穏な環境とは言えないが、狼ならではの強い絆で結ばれて、住人たちは助け合いながら幸せな日々を送っていた。そして今日も、普段と変わらない一日が過ぎていく――誰もがそう思っていたことだろう。
この壮年の狼を除いては。
「すまない、バンタさん。息子を……アルバを見なかっただろうか」
落ち着いた色調の赤毛に、誠実を蓄えた黒の瞳。四十代も半ばとなりわずかに脂肪を帯びつつも、なお筋骨隆々とした体躯は、彼が今でも一線の戦士であることを表す。十八年前に妻に先立たれてからは独り身を貫き、二人の息子を男手一つで育て上げてきた。強靭な肉体と精神を備え、村人からの信頼も厚い、立派な男なのである。
そんな彼が、太い尾をだらりと垂らし、ひどく落ち着かない様子で話しかけてきたのだから、その相手――バンタという名の豊かな肉を身につけた狸獣人が、面食らってしまうのも無理からぬことだった。
「うん? アルバなら……ああ、しばらく前に森に入っていったが、まだ戻ってねえのか」
「ええ、朝飯前には稽古をつけると伝えていたのに、未だ姿が見えぬのです」
「ふうむ……」
狸は顎に丸っこい手を当て、考え込む仕草を見せる。
「お前の扱きが堪えたのかもしれんぞ。あいつにも遅い反抗期が来たんだろうな」
そしてにっこりと笑うと、結論を装って軽口。五十を過ぎ、元来の肥満体型も相まって満足に働けなくなった狸は、倉庫の整理といった雑用だけこなしつつ、悠々自適の隠居生活だ。悪く言えば穀潰しだが、その持ち前の愛嬌とユーモアで、どこか憎めない立ち位置を確立している。ただ、今回その長所は活かされなかったようで、狼の表情は硬いままだが。
「まっ、あいつも雄だかんな。ちょいと離れたとこで隠れてシコってんだろうよ」
それでもめげることのない狸。わざわざ右手で輪を作り、ぽっこり出た腹にも負けない股間の膨らみに添えて、上下にこすりながら意地の悪い笑みを見せる。その視線を、相手が身につけている濃紺の褌に注ぐことも忘れずに。
「それはないでしょう。あれは昨晩寝る前に抜いていたはずですから」
父親は首を振る。狼族の中でもひときわ鋭敏なその嗅覚をもってすれば、息子たちの自慰を看破するなど造作もないこと。昨夜森から戻った息子が漂わせた匂いは、彼自身の精液のものに違いなかった。しかし狸は「分かっちゃいねえな」と、苦笑とともに肩をすくめる。
「おいおい、おれたちと若者の精力を一緒にしちゃいけねえぜ? お前さんも若い頃を思い出してみなよ。たった一度じゃ済まねえ日くらい、あっただろ」
「う、む……そう、かもしれませんが」
「それに、な」
不意にちゃらけた雰囲気を潜めた狸が、微笑し柔らかな調子で言葉を紡ぎ出す。
「この村は昔より人が増えた。滅びかけのとこも多い中、ありがてえこった。ただそのせいで、窮屈な思いしてる連中も多いだろうさ。真面目なアルバなら、なおさらだ」
そのどこか間の抜けた愛らしい丸顔にも、よくよく見れば老いの影が差していることに、狼は気づいた。その視線の先には、数十人の狼獣人から成る小さな群れに過ぎなかった、在りし日の思い出が映し出されているのだろう。
「窮屈……ですか」
狸の言うとおり、他の群れや類縁種族までも巻き込んで、集落はそこそこの規模に成長した。それなのに統治の仕組みは旧態依然で、若者たちには大きな負担がかかっている。優秀な努力家であるがゆえに、皆の期待を背負う立場にある、長男アルバ。無意識のうちに、過剰な期待を押し付けてきたのではないか。体が弱く狩りにも出られない、次男ラークの分まで。
「確かに私があれぐらいの頃は、もっと羽目を外していた気がしますね」
「そうだろう、そうだろう」
「では……あと少しだけ、大目に見てやることにします」
からからと笑う狸。一口に笑顔と言っても様々なものがあるのだと、このわずかな時間に思い知らされる狼であった。
「まあ、なんだ! 嫁さん亡くしたぶん、ガキが大切なのは分かるがよ。あんま過保護なのは、アルバにも良くねえぜ。もちろん、ラークにもだ」
「……肝に銘じます。それでは、私はこれで」
軽く頭を下げて、狼はその場を後にした。
アルバは二十歳を迎え、ラークももう十八。年齢で言えば立派な大人だ。もう、庇護を与える必要はないのかもしれない。朝の鍛錬をちょっとすっぽかしただけで、心配になって村を探し回る父親など、確かに、過保護の誹りを免れまい。
そんなことを考えながら歩いていると、家にたどり着くのはあっという間だった。愛する妻の夢を、狼が仲間たちと協力して具現化した、小さな木の家。不格好で、あちこちガタも来ているけれど、二十年以上の思い出が詰まった、狼の宝である。
「おかえり、父さん」
「ああラーク、ただいま」
帰宅した彼を、もう一人の息子が、ぱたぱた尻尾を振って出迎える。
兄アルバと比べると、体重も身長も同じくらいなのに、立体感の乏しい体はひどく頼りない。父の血筋を表す赤毛も白味が強く、陽の当たり具合によっては桃色に見える。くりっとした緑の瞳は、まるで幼い子供のようだ。
「もう朝ごはんできてるよ、って……あれ、兄ちゃんは?」
「……ああ、森に行っている」
「ええっ、冷めちゃうよう」
生まれつき、激しい運動をするとすぐに体調を壊すラーク。大人しくしていれば生活に支障はないのだが、雄は体を張ってこそ一人前と言われる世界で、父は末男の将来を案じた。それで、荒療治を試みたことは一度や二度ではない。けれどそのたびに、ラークは熱を出して寝込み、兄のアルバは、いっそう鍛錬にのめり込むようになっていった――。
「私は……焦っていたのだろうか」
子供は親の感情には敏感なものだ。きっとアルバは、弟を守らねばと重責を感じながら生きてきたのだ。そしてそれは、守られる側のラークも同じ。声すら知らぬ母の代わりとばかりに、炊事や掃除、洗濯と、いつの間にか一人で全部こなすようになっていた。彼は彼なりに、父と兄の役に立たねばと努力してきたのだろう。
「え、どうしたの?」
「いや。なに、すぐに戻ってくるさ。だから、私たちで先に食べていよう」
「兄ちゃんの好物だから、作りたてを、と思ってたのになあ……」
自分の気楽な青年時代と比べ、息子たちは多くの荷物を背負わされている。だからたまには、父の言いつけを破って、一人ゆっくり溜まったものを発散させる機会があってもいい。帰ってきたら、小言くらいで済ませてやろう。そうだ、今晩は連れ小便がてら、久方ぶりに腹を割って話をするのもいいかもしれない。そんなことを思いながら、狼は褌を緩めて腰を下ろす。
その息子がもうとっくに絶命していることなど、知りもせずに。
[newpage][chapter: 【後編】]
「――アルバが、まだ帰ってこないだと?」
老朽化した村人の家の修繕作業に従事していたオストは、昼休みに家に戻るなり、ラークから予想外の状況を告げられた。
「えっ? 僕、直接みんなのところに行ったものとばかり――」
「いや、来ていない」
「そんな……」
互いの顔が、被毛越しにも明らかなほどに青ざめていく。特にラークは、今にも泣き出しそうな表情だ。父もまた、極力外に出ないよう押し留めているが、その内心には、後悔と焦燥が渦を巻いている。油断すれば、呑み込まれてしまいそうなほどに。
「ねえ父さん、兄ちゃんに何かあったんだよっ! 僕、探しに行ってくる」
「駄目だ、おまえには危険すぎる。私が一人で行くから、ここで待っていなさい」
そう告げるなり駆け出そうとする父の腕に、ラークはしがみつく。
「僕も行くっ!」
自分とは似ても似つかぬ太く強靭な腕を、力いっぱい握りしめる小さな手は、震えていた。いつだって無力感に苛まれ、己の全てを呪い続けていた少年を、必死に守ろうとしてくれたのは、兄だけだった。他の何より大切で、絶対に欠くことのできない存在。だから、兄に危機が迫っていると想像したとき、ラークはもはや冷静ではいられない。
「……分かった。だが、何かあったらすぐに村へ帰すよ。いいね」
振り払うことなど造作もないが、そうすれば単身森に入っていくだろう。そして発作を起こし倒れるまで、この広い森を駆けずり回る。自分の不甲斐なさが、この子を兄にひどく依存させてしまった。そのことについて自覚があるオストには、こうする以外の術はないのだ。
「うん、分かった」
こうして二匹の狼は、森の中に飛び込んでいく。真昼だというのに、不気味なほど冷ややかで淀んだ空気。それが己の心情を映す錯覚なのか、それとも、この先に潜む脅威を告げる警鐘なのかも、分からないまま。
「アルバの匂い……こっちだ」
オストに生まれつき備わる並外れた嗅覚は、息子が今朝辿った軌跡を、視界に一筋の線として浮かび上がらせた。それを追いかけて、獣道を駆け抜ける。時折匂いが不鮮明になると、決して逃さぬように四つん這いに。恥など意識する余裕はなかった。
そうしてひたすら森の奥へと進むと、やがて父の鼻には、アルバの体臭に加えて異なる臭気が届き始める。微かに刺激があり、狼の一族にとって重要な役割を持つもの。
「……ここだな」
深い青緑の向こうから漏れ来る尿臭は、まだ濃厚ではあるが、すでに角が丸く、真新しいとはいえない。耳を澄ませてみても、聞こえてくるのは森のざわめきと、ラークの荒い呼吸音だけ。不吉がじっとりと、父の背筋を伝っていく。
「私が先に行く。おまえは、合図をするまでここで待つように。いいね」
膝に手をついてうつむくラークが、一呼吸置いてうなずいたのを確認し、オストは草木の中へと踏み込んでいく。視界が濃緑に閉ざされて、そしてすぐに開ける。そこには、どうにか両手を広げて立てる程度の、小さな空間があった。足裏に伝わるわずかな湿り気と、間違いようのない息子の残り香と、そして、奇妙な違和感。
「アルバ……いったい、どこに?」
においの軌跡は、ここで途切れている。それなのに、アルバの姿がないのだ。
大型の獣に喰われたのでは。そんな最悪の可能性が頭をよぎるが、骨の一本どころか血の痕跡すらないのは不自然だ。そして次に浮かんだのは、子供の頃に聞いたおとぎ話――森の精霊にさらわれて、忽然と消えてしまう少年少女の物語。だが、現実にはそのようなことは起こらない。必ずどこかに、手がかりがあるはずだ。
「……これは」
それはことのほかすぐに見つかった。草むらの一部が、地面から腰ほどの高さまで、不自然に押しのけられている。まるで、猪かなにかが匍匐前進でもしたかのような具合で。
「ラーク、おいで」
呼びかけに素早く応じ、ラークが草壁をかき分けてくる。父よりはるかに劣る嗅覚にも、狭い空間を満たす兄の気配は明確なようで、しきりに鼻をひくつかせながら。
「ねえ、兄ちゃんは?」
「分からない、だが……」
オストが残された唯一の道標に目を向けると、ラークはすぐに、意図を汲み取った。
「まだ動けるか」
「……うん、大丈夫。大丈夫」
「そうか。なら、行くぞ」
二人は再び歩き出す。もはやそこには道はなく、ただひたすら草が生い茂るばかり。嗅覚にも頼れず、何者かが残した微かな跡だけを頼りに、神経を尖らせて進む。
「頼む、アルバ、無事でいてくれ」
「兄ちゃん、どこ? どこにいるのっ!」
底なし沼に沈んでいくような恐怖に呑まれそうになりながら、たった一つの希望にすがるしかない親子。こすれ合う草の青臭さが鼻を突き、細々とした虫が全身にまとわりつく。覆い隠された地面は起伏が激しく、大小の石が容赦なく肉球をかきむしる。独り言すらも徐々に数が減り、彼らの精神はみるみるうちに削られていく。
そしてついに、狂気が全てを圧倒しようとする。まさにその瞬間だった。暗緑色の闇が唐突に晴れて、開けた空間が二人を迎え入れたのは。
「よかったあ……やっと、出られ――」
「なんだ、あれは」
一時の安堵に浸りかけたラークの声を、父オストが遮る。その視線の先には、奇妙な物体――扁球状の大きな水色の塊があった。腰ほどの高さと濡れたような光沢を持つ透明な体で、木々を歪ませながらぷるぷると佇むそれは、森の有機的な風景からひどく浮いている。そして、自分たちが恐怖と戦いながら辿ってきた軌跡は、まさにその物体へと続いているのだ。
「父さん、あれは一体……?」
「分からない。生き物、なのか」
経験豊富な戦士であるオストにも、スライムの知識はなかった。彼は警戒しながら、こちらに気づいているのかどうか、気づくという概念があるのかどうかも分からない相手に、じりじりと近づいていく。危険なようには見えないが、森において油断は決して許されない。その教えに、実直に従っていたのだ。
一陣の風がスライムの方から吹きつける、その時までは。
「嘘だ。そ、んな。まさか……ぁッ!」
オストは慄然とし、立ち止まる。そして全身の赤毛が、ざわざわと炎のように逆立っていく。肩から背中、そして尻尾の先に至るまで。
普通の生物ならば必ず持つ固有の体臭が、スライムにはない。狼の嗅覚をもってしても、普通は全くの無臭としか感じられない。ところが、類まれなる鋭敏な嗅覚を持つオストは、無臭であるべきその粘性生物から、わずかなにおいが漂っていることに気づいた。
それは愛する息子、アルバのものだった。
体の隅々まで知り尽くした、若く雄々しい被毛と肌の匂い。そして唾液や汗、血液、さらには排泄物や精液まで。自慢の息子を構成していたあらゆるものが、ぶよぶよと揺れる奇怪な物体の中で、まぜこぜになっていることに、気づいてしまったのだ。
「貴様、アルバを、アルバをぉおっ!!」
「父さんっ!?」
爆発的な怒りに突き動かされ、父親はスライムに猛進する。彼は丸腰であった。それは油断によるものではない。その強靭な肉体から繰り出される拳打は、たいていの猛獣を一撃のもとに葬り去る威力を誇っているがゆえのことだ。
しかし、不定形の粘性生物が相手では、あまりにも分が悪かった。
「チッ、この、バケモノがああッ!」
全力で叩き込んだ一撃は、ほとんどが受け流された。わずかに残った衝撃が吹き飛ばした一部の体も、すぐに結合、再生されてしまう。もし彼が、もうこの世に存在しない息子のように身軽であったなら、あるいは手数で押してダメージを与えられたかもしれない。だが、分厚い筋肉と少なくない脂肪をまとった男には、それは不可能である。
「アルバを、私の息子を、返せえぇええ!」
敵わぬ相手なら、一旦退いて、助けを呼ぶべきだ。しかし、怒りに我を忘れた父親の頭から、そのような選択肢は失われていた。アルバに依存しているのは、ラークだけではなかった。何度も無意味な拳を叩き込み続けるこのオストもまた、アルバなしでは心の安定を保てない。
だから、背後に分裂したスライムの断片が迫っていることにも、気づけないのだ。
「なっ……!?」
ふくらはぎを這い上がる冷感に、ようやく危機を自覚するが、もう遅い。重力が反転したような勢いで、内腿を経由し、スライムは股間へとたどり着く。濃紺の褌は、闇雲な乱打により緩んだところを、内側から彫刻のように明瞭な輪郭で押し上げられ、その左右に無防備な隙間を晒していた。滑らかな粘体は、そこからいとも容易く侵入を果たす。
「おのれっ、何を企んで――」
股座を柔らかな感触に満たされ、思わず動きを止めるオスト。しかし、その静止は一瞬のことだった。侵入者が、ある一点に殺到するのを感じたからだ。
「やめ、ろっ、そこは……ぐぅうッ!?」
その直後、排便時と似た、しかし決定的に異なる不快な感覚が、爆発的に生じる。オストは反射的に褌の紐に手をかけ、力任せに脱ぎ捨てると、恥部にまとわりつく異物を払いのける。だがこの一瞬の間に、かなりの量の粘体が、すでに腸内に入り込んでいた。
「ぎっ、ぃいいいっ」
狼は両手を自らの尻穴にあてがい、顔をひどく歪めながら、左手、右手の指を、交互に奥へと突っ込み始める。傍から見ればひどく滑稽な光景だろうが、彼に恥じらう暇などなかった。体内に侵入した怪物を、一刻も早く掻き出さなければならない。さもなければ、自分がいかにおぞましい末路を辿ることになるか、本能的に理解していたのである。
しかし、普段から尻で遊び慣れているのでなければ、その太く硬い指を肛門に挿入するなど、簡単にできるものではない。どうにか押し込めたところで、多量の粘液をまとった不定形の物体を取り除くことなど、不可能だった。
「忌まわしい化け物がっ! 私の、中から、出ていけ……ぇっ!」
それでもスライムは、何の抵抗もされずに仕留められた朝の獲物と違い、必死になって自らを排除しようとする敵に脅威を感じたようだ。
「うぐっ!? あ……ああ、ぐがぁアアアアァッ!!」
オストの上げた小さなうめき声が、たちまち絶叫へと変わっていく。体内の分身が、麻痺液にわずかな溶解液を混ぜ込んで分泌していた。命を奪うような量ではないが、腸壁を侵し、外部の神経までをも強烈に刺激する。本来体験するはずのない激痛に、さしもの戦士も抵抗する意志を奪われてしまう。そしてその間に、ただれた粘膜から麻痺液が速やかに吸収され、全身へ。
「く、そ……なぜ、だ、急に、ち、から、が……」
何者にも動じぬような隆々たる肉体が、風前の灯のように頼りなく揺れる。後ずさりながら、腕と尾を振ってどうにか体勢を保つオストだが、やがて小さな石ころにつまずいてしまう。もはや為す術もなく、ただぐらりと倒れていく体。
「がはぁっ!」
そのまま背中を叩きつけられ、狼は苦悶の叫びを上げる。両手両足を大の字に開き、全裸で陰部をさらけ出したまま、もはや身じろぎもできない。そんな無防備な壮年に、巨大なスライムは泰然たる様子で滑り寄ると、足の肉球にぴたりと触れる。
「よせ……何を、するっ」
力なき制止の声など意に介さず、柔らかな粘体は、筋肉を固めて作ったような頑強な脚、丸太のごとき太腿を覆い隠すように包み込んでいく。そしてそのまま狼の秘部、褐色の豊かな陰毛の上に鎮座する、全身の威容にふさわしい存在感を誇る男根へ。
「んぐ、ぅああ……」
深々と剥けた赤黒い亀頭に触れられた瞬間、オストは悩ましい声を漏らす。この絶望的な状況下で、普通なら感じるはずもないもどかしい快感が、どろりと溢れ出したからだ。甘やかな刺激に困惑している間にも、スライムは侵食を続ける。割れた筋肉の谷間にわずかな脂肪が見え隠れする腹、雄雌問わず誰からも羨望を集める厚い胸板、そして鋭く大きい突起を持つ喉まで。頭と腕を除き、オストの全身は、水色の物体にすっかり覆い尽くされてしまった。
「と、父さ、ん。父さん……っ!」
異様な雰囲気に包まれる場に、甲高く裏返った声が響く。あまりに突然の出来事に、尻もちをついて震えていたラークが、ようやく我を取り戻したのだ。家族が、得体の知れない生物に呑み込まれようとしている。助けなければ。狼の本能が、弱い体を突き動かす。
「父さん、大丈夫!? ねえっ!」
「く、るな。ラーク……にげ、ろ……!」
絞り出した声は届かず、青年は父親の体をすっぽり覆う巨大な異形にすがりつき、無我夢中で取り除こうとする。さながら犬の穴掘りのように、両手をひたすら動かして。そこに敵への警戒は全くなく、隙だらけ。戦いの矢面に立ったことのないラークは、スライムが放つ明確な殺意に気づくことができなかった。
「ひゃああッ! なに、これっ。あ、ぅう、お尻に、入って……っ!?」
かなり緩めに締められた、兄とおそろいの紅色の褌。気づいた時には、その内部はべたつく粘体で埋め尽くされていた。もはや分身をけしかけるまでもなく、スライムは若い狼の内部へと侵入を果たす。真っ先に肛門括約筋を麻痺させて抵抗を封じ、するすると流れ込んでいく。その小さな大腸内は、あっという間に異物で満たされてしまった。
「うぷ、っ……! ぐぅ、おええぇ……っ!」
そして、腹が膨れ上がるほどの大量の麻痺液を分泌される。内容物の一部は逆流して耐え難い嘔気を生じさせ、また一部は腸内に収まりきれず、尻穴からどろどろと溢れて、ラークのお気に入りだった褌を汚していく。
「あ……ぅ、きゅう……ん」
たちまち全身の自由を奪われて、情けなく鼻を鳴らしながらラークはよろめき、そのまま眼前の青の中につんのめる。
「ぐぉ、ッ」
スライム越しに息子の全体重を受け止めて、父がうめいた。
「あ、あっ、ごめ、父さんっ――」
「いや、私なら、大丈夫だ。それより、これは……」
うつ伏せのラークが、全裸で仰向けのオストの上に、巨大なスライムを挟んで浮かんでいる。腕一本にも満たない距離を隔てて体を重ねる、狼の親子。顔だけは覆われていないから、互いの不安に満ちた表情が、恐怖を帯びた荒い吐息が、はっきりと伝わってしまう。
「……ねえ父さん、僕は、ここで死んじゃうんだね」
「諦めるな。こんな生き物を見たのは私も初めてだが、どうやら、すぐに殺すつもりはなさそうだ。時間を稼ごう。きっと助けが来る」
全身が麻痺し、抵抗する術はもはやない。それでも父親は、希望を捨ててはいなかった。アルバはもういないが、全てを失ったわけではない。ラークもまた、愛する息子なのだから。
「だけど、もう」
しかしそのラークの表情に、緑の瞳の奥に、光はなかった。
「兄ちゃんはもう、食べられちゃったんでしょ?」
「ラー、ク……」
「だったら、僕も、一緒に逝きたいよ」
ああ。オストは残された希望が潰える音を聞き、嘆息する。自分には、兄を失ったラークの悲哀を埋めることはできないのか。全身から、抗おうとする気力が抜けていく。
そして、それを見計らっていたかのように、スライムがついに動き出す。
「ぐ、はぁああっ」
巨大な粘体の内部が、オストの股間のあたりを、もみほぐすように流動する。褌という防具を失い、催淫効果も全身にたっぷり行き渡っている彼には、たまらない刺激だった。
「おのれえ、こんな、やつに、私はっ……ぐるるるぅう」
息子を殺した悪魔に、性器を擦られて快感を覚えるなど、絶対にあってはならない。だが、理性を保とうと獰猛な唸り声を上げても、彼の立派な逸物は徐々に頭をもたげ、確実に硬度と体積を増していく。スライムはその様子を楽しむように、攻めのペースを緩める。
「ラーク、見るな、見ないで、くれ……」
わずかな残り香が、アルバがいかなる最期を迎えたのかを物語っている。だから、自分が何をされようとしているのかも分かる。抵抗したところで結末は変わらないことも、理解している。それでも父親は、必死に欲望と戦っていた。目の前にいるのは、認めてもらえなくても、確かに自分の息子なのだ。勃起している姿を見られるなど、耐えがたかった。
だが、そんな父の懇願をよそに、ラークの視線は一点に釘付けになっている。
「やめろ、頼むから――」
「父さんのが大きくなったの、はじめて見た……すごいね」
与えられたのは、軽蔑の視線ではなかった。何かが吹っ切れたのか、それとも壊れてしまったのか。幼さを残した狼は、今や熱に浮かされたように、とろりと扇情的な表情で凝視しているのである。血管を生々しく絡ませた、極太の肉の凶器へと変貌を遂げたそれを。
「ふ、ふざけないでくれ、こんな時にっ」
「ふざけてなんかいないよ。今も、今までも。父さんは、分かってくれないだろうけど」
「何を、言って――」
臆病で従順なラークが、こんな態度をとることは信じがたかった。しかし、それ以上にオストを驚かせ、絶句させたものがある。そそり立つ自らの男根目がけて、紅色の褌が、円錐形にくっきりと膨らんでいたのだ。スライムの攻撃は、まだ及んでいないのに。
「おまえ……」
「ごめんね、父さん。僕は昔から、こういう種類の獣人だったんだよ。雄が好きで、それどころか、家族の体にすら欲情してしまって」
みるみるうちに高まっていく、ラークの背徳的な興奮。やがて布は限界まで張り詰め、行き場を失った膨らみは、徐々に左側へと滑っていく。
「そう、だったのか。アルバは……このことを?」
「もちろん兄ちゃんは知ってたよ。何度も話を聞いてくれたし、落ち込む僕を、慰めてくれた。そう、たまには……違う、意味でも」
突端は、間もなく布の縁に達する。その途端、淡い赤色をした細長いものが、勢いよく飛び出した。未だ手指の刺激しか知らないが、それでも立派に成熟し、長さは父をも上回る、紛うことなき雄の証だ。露出した亀頭へと向かい、しゅっと絞り込まれる姿は刃物を思わせる。
「ああ。おまえはずっと、苦しんでいたのだな」
体を鍛え、屈強な戦士となれ。いつかは妻をめとり、良き家庭を築け。お仕着せの幸せの形を語るたび、この子は傷つき、自分はそれに気づきもしなかったのか。
「私は自分の愚かさに腹が立つ。すまない。本当に、すまなかった」
「ううん、いいんだ。父さんは何も悪くない。それに……もう、どうでもいいことだから」
「そんなことを言わないでくれ、ラーク」
オストは、もはや涙声であった。雄は人前で涙など見せるものではない。そんな類の価値観を持つ父が、泣いている。そのことに気づいて、全てを諦め自棄になりかけていたラークに、再び微かな火が灯る。それは、生への執着であった。
「父……さん」
「もう一度だけ、チャンスをくれ。私に、おまえの本当の父親になるチャンスを。アルバの代わりにはなれない。だが、おまえを守りたいというあいつの願いを、私は……」
スライムは、緩やかな刺激を局部に加え続けている。だから二人の狼茎は、今も萎えることがない。父と子が、勃起したまま見つめ合っている。しかし、その肉欲を煮詰めたような有り様にもかかわらず、彼らの心は、純粋な愛に満たされ始めていた。
「だから、ラーク。生きて帰るぞ。アルバもそう願っているはずだ。そうだろう」
「うん、うん……っ!」
この極限状態において、不器用な親子は、ようやく心を通わせることができたのだ。
しかしこの美しい展開が、スライムにはただ不快でしかなかった。この生物が求めるものは、雄の性的興奮だけで、愛などはただの雑味に過ぎない。言うなれば、ゆっくり味わおうと思っていたご馳走が、突然腐り始めたようなものだ。
だからスライムは、仕方なく、食べ方を変えることにした。
「ぐぁ、がおおぉッ!」
「んあっ、あっ、あああぁっ……!」
甘やかな叫びが、二人の喉からほとばしる。弾力豊かな粘体が、一直線上に並んだ彼らの陰茎を軸に、渦を巻くように回転し始めたのだ。それも、収縮と弛緩を艶めかしく繰り返しながら。暴力的な快楽の奔流に、穏やかな精神は一瞬で押し流される。
「ラー、ク、っ! 耐えろ、イッてしまったら、私たちはっ……んがぁあ!」
普段ならば人前では決して使わないような表現を、押し留める余裕すら失ったオスト。精悍な顔立ちは醜く歪み、歯石の蓄積で黄色を帯びた牙の隙間から、唾液がだらりと垂れ落ちる。
「あぅっ、でも、気持ち、い……! 何日も、抜いて、ない、から……っ?」
その上では息子ラークもまた、目を細めながら嬌声を上げている。昔のことだが何度も性交の経験を持つ父と違い、空想上の触れ合いしか知らない彼には、並の男を軽く凌駕するスライムの性技は、あまりにも刺激的だった。
「違う、ふぐ……っ、尻から入っ、た体液、のせいだ。まやかしだ。本当のまぐわいは、ぐるぅぐるるっ、こんなものじゃ、ないぞっ! だから、頑張れ、ラーク!」
「そうだ、僕も、恋人作って……っ、くう……ん、そうだ、兄ちゃんみたいな、人が、いいな、それで、子供はできないけど、いっぱい、愛し合う、ん……だ」
「ああ、おまえはこんなに、可愛いじゃないか。寄ってくる雌も、雄だって、たくさんいるさ。体も心も預けられる、ひとが、きっとおまえにも、はっ、はああ……っ!」
汗と先走りが粘ついた淫音を響かせる中、向かい合った父と子は、生まれて初めて率直な猥談を交わした。永遠に打ち明けられず、永遠に受け入れられないはずだったラークの秘密を、命の危機が些細な問題に変えてくれたことは、彼らにとっては僥倖であった。
「ふぅっ、はっ、はあぁ……ッ!」
必死の形相で、二人の狼は本能に抗う。紅潮した顔や、怒張した男性器が目に入らぬように、目線は森の木々へとそらす。溜まり続ける熱を逃がすため、また欲情した雄の匂いから逃れるため、呼吸を慣れない口呼吸に切り替える。そして意識を、昨夜までの穏やかな日々、アルバが死んだ事実、それでも二人で生きていく未来で埋め尽くす。
「兄ちゃんを、殺した、やつにっ、僕は……負けない、負け、たくない、っ……」
彼らは全力で、生にしがみつこうとしていた。
しかし、獲物の抵抗を嘲笑うように、スライムの旋回運動は止まらない。大小様々な突起をまとって竿や睾丸を揉みしだきつつ、雁首を中心に緩急をつけてねじり、刺激する。だから二つの肉棒は、確実に膨張を続けることしかできなかった。
そして追い打ちをかけるように、最悪の事態が迫りくる。
「おい、ラ、ラーク……まずい、それは、そんな!」
ラークの体を支え、オストとの間に十分な距離を確保していた粘体が、両者の異常な体温と、スライム自身の振動で徐々に軟化し、押し潰され始めていたのだ。
「え、なに? なんなの、父さ――」
「よせ、来るなっ、やめっ……」
一直線上に並んだ二本の陰茎が、じりじりと近づいている。それは、薄氷を踏む思いで耐えるオストを戦慄させるには、十分な光景だった。だからといって、彼にはもうどうしようもない。陰影豊かに赤黒く染まる熟れた亀頭と、鋭い切っ先に鮮紅色をまとった若い亀頭が、水色の中で距離を詰めていく。やがて、鋭敏な先端にじわりと温もりが伝わり始め、そして――
「あッうがァアア!!」
「や、っ、ひゃああぁあッ!?」
焼けるほどの熱とふくよかな肉の実体感が、爆発的に広がり、狼たちを呑み込んだ。形状不定の流体からは決して得られない快感が、喉を抉るような絶叫となって飛び出す。ちっぽけな希望はたちまち消し飛び、二人は今にも、理性のない獣へと堕ちようとしていた。
一方スライムは、意図せず獲物の状態が好転したことに喜び、この機を逃すまいと、陰茎への蹂躙を強める。旋回し脈動するたびに、体重の乗った鈴口同士が擦り合わされ、密着し、まるで一本の長大な男根のように、オストとラークをつなぐ。痛みすらも余すところなく快感へと変換され、硬度がさらに増し、そして快感はますます強まる。
「あ、あ……わた、しは、ここで……こんな、とこ、ろで……」
歳を重ね、雄としての衰えを感じ始めていたからこそ、蘇った性欲は鮮烈だった。イキたい、イキたい、イキたい。頭の中がその思いだけで埋め尽くされ塗り潰されていく。
「駄目、だ。ラークを、私が、私が守らねば……ぁっ」
今にも決壊しそうな意識の中、オストは残された全ての感覚を研ぎ澄ませる。人並み外れた嗅覚と聴覚を、村の方角へと駆け巡らせる。アルバが消え、それを追った自分とラークも戻って来ない。そろそろ、誰かが捜索に出ている頃だろう。きっとそうだ。そうに違いない。
「……ああ、そんな」
しかし、最後の希望にすがる狼を、運命は冷淡に見放した。人の気配は全くなかった。当然のことだ。村人たちは今、平和な昼下がりを満喫しているのだから。二人が永劫の責め苦に苛まれていることなど、知る由もなく。
「終わり、か……」
視線を真上に向けると、ラークが、愛らしい表情をひどく歪ませて、絶頂への誘惑に必死に耐えている。麻痺したはずの筋肉を精一杯はたらかせ、歯肉をむき出しに小さな牙を噛み締めて。いつの間にか、犬歯や臼歯の一部は欠けてしまっていた。大きな緑の目は血走り、溢れた涙と鼻水が、唾液と混じってぽとぽと垂れ落ちてくる。それでもなお、劣情が収まることはない。
「うが、ぁっ、僕は、絶対、ぜ、ったい……生きて、帰る……んだ」
息子のそんな不憫な姿が、オストの心から力を、生への執着を、奪い去った。
「ラーク、よく頑張った。もう、十分だ。もう……諦めよう」
「なに、父、さん……なにを、言ってるの?」
「助けは、来ない。私もおまえも、どうやらここで、おしまいらしい」
諦めていた自分に希望を与えておきながら、今度はそれを捨てろという父。ラークはただ混乱し、打ちひしがれ、それでも涙声で懸命に食い下がる。
「いやだ、ダメだよ、だって、僕たち、これからっ――」
「許してくれ。父さん、もう我慢できそうに、ないんだ。おまえも……そうだろう」
ラークの叫びは、届かなかった。堅固なオストの精神は、ひとたび限界を越えてしまえば脆いものだった。凛とした相貌が知性を失い、低俗な性感に崩れていく。
「だから、せめて最後は……最後は気持ちよく、終わろう。二人で、一緒に」
「え? それって、どう、いう――」
「初めての相手が父さんで、ごめんな」
すっかり上気したオストが、笑う。そこに威厳はもはやなく、ただ背徳的な快楽に身を委ね、苦痛から解放される瞬間への熱望だけがあった。
そして次の瞬間、ラークは体の突端に、強い脈動を感じる。圧着された父の逸物から、どくんどくんと、これまでにない興奮の高まりが伝わってくる。すでに巨根としか表現しようのないそれが、ひときわ長く太く膨らみ、赤黒く染まっていくのだ。
性体験の乏しいラークでも分かる。それは紛れもなく、射精の前触れ。
「やめ、て、父さん、待って、やめ……っ!」
「出、る、イクぞ、ラークぅ! おまえも、一緒に……ぅぐ、グオオオォオンッ!」
絶頂に至った瞬間、獣に堕ちたオストの歓喜の咆哮が地を揺るがす。かつての情交の記憶など瞬く間に消し飛ぶ、獣人の身には過ぎた強烈な刺激。濃厚な精液が強い圧力を得て、尿道を一気に駆け上がっていく。そして、その出口には。
「あ、あ……ッ」
密着するラークの亀頭に、迸る欲望がそのままの勢いでぶち当たる。一部は横から溢れ出していくが、残りは間隙に押し込められ、たちまち圧力を増していく。そしてついには、そこにある唯一の逃げ場へとなだれ込んでいくのだ。ぽっかりと空いた、尿道口へと。
「アオッ、アオオオォ……ン!!」
最も敏感な箇所を容赦なく穿たれ、抉られ、犯されて、幼い理性は脆くも消し飛んだ。本能のままに遠吠えし、睾丸にたっぷり蓄えられた子種を、力強く送り出す。若い自分こそが、相手を孕ませるにふさわしいのだ。そう言わんばかりに、入り込んだ精液を押し返していく。
「ガアァアッ!? い、いいぞ……ラークぅ、また、イ……グゥウウッ!!」
雄との交わりなど考えたこともなかった父狼だが、生命力の溢れる熱を注ぎ込まれると、これまでに味わったことのない快い感覚が生じ、すぐさま二度目の絶頂に至る。雄の証が豪快にびくびくと震え、激烈な快楽が、麻痺した筋肉をも動かし腰を突き上げさせる。
「は……ぁっ、父さん、と、うさぁ……んああっ!」
手淫とはまるで違う直接的刺激を亀頭に加えられ、為す術なく再び精を噴くラーク。こんなことは、決して望んでいなかったのに。そんな虚しさも後悔も、この破滅的な歓びには敵うはずがなかった。
こうしてオストとラークは、何度も何度も、交互に射精を繰り返した。地響きのごとき咆哮と甲高い遠吠えを重ね、森に響かせながら。いつしか、二人が抱く水色の粘体には、陰茎の接点を中心に、拳の大きさを優に越える白濁液の塊が生じていた。透明度の高い澄んだ白と、淡黄色を帯びた特濃の白が、複雑な模様を描いて混ざり合う。
「ぐぅっ……が、はっ、はぁっ」
「あ、あぅ……っ、あ、あ……ぁ」
絶頂の連鎖はやがて勢いを失い、二匹の狼は汗に塗れ息を荒らげて、およそ普通ではない疲労と恍惚に浸っている。そしてそれは、スライムも同じだ。熟成された雄の旨味に、軽やかな青い香りが加わった混合液は、限られた思考能力を圧倒して余りある美味。巨大な白珠はみるみる水色の中に取り込まれ、体積を減らしていく。
「なあ、ラーク。気持ち、よかったか」
「……うん」
「そうか。よかった」
陶酔が晴れるにつれて、親子にはいくばくかの冷静な思考が戻り始めていた。
「これで、おしまい……なんだよね」
「……大丈夫、父さんも一緒だ。二人で、アルバのところに、行こう」
不思議と彼らに、恐怖はなかった。麻痺液の作用と、射精後の虚脱と、ともに逝く人がいるという安心とが合わさった諦観の境地にて、死の訪れを静かに待っている。
だが、それがいかに甘い考えであったかを、二人は思い知ることになるのだ。
「なっ、なに、を……んぐぅううっ!?」
「あぅっ! そんな、もう、終わったんじゃ、ひ……っああぁあ!」
オストがくぐもった叫びを上げ、ラークの悲鳴が後を追う。
スライムは、まだ満足してなどいなかった。精液こそは最大のご馳走であるが、それで終わりではない。メインディッシュの後には、デザートが待っているのだ。吐精後の雄たちにさらなる刺激を加え続けることで得られる、一味違った楽しみが。
萎えかけていた二つの男根のまわりで、青白く霞んだ粘体が、勢いよく循環を始めていた。それぞれの竿を強く締め付けながら、前方へと引きずりこむ激しい流れ。雁首の段差が乱流を生み出し、敏感の極みにある亀頭を、無数の渦が絶えることなく刺激し続ける。
「おねが、やめ、てっ、やめてぇええッ!!」
もはや快楽という次元を通り越し、発狂しそうなほどの苦痛に襲われて、ラークが絶叫する。しかし、スライムにとってはどうでもいいことだ。今日は三匹も獲物が獲れた。普段は、一週間以上待ち続けることも珍しくないのに。だから、この幸運を一滴残さず味わい尽くしたい。朝の狼は、間が悪いことに放尿直後で、最終段階にまで至らなかった。今度こそは。
「な、んだ、尻の中に……っ!?」
性器への攻めだけでも拷問じみているのに、突如腹の奥底で何かがうごめく感じを覚え、オストが目を剥く。入り込んでいたスライムの分身が、再び動き出したのだ。大腸全域に広がっていた粘体が、まるでオリジナルと意識を共有しているかのように、直腸へと逆流していく。肉壁の奥に隠された、雄にのみ存在する小さな臓器の感触を探りながら。
「ガオォオオッ!!」
狼が吼える。加齢によりわずかに肥大し、硬めの弾力を帯びたそれをぐにぐにと押し潰された瞬間、外性器への刺激によるものとはまるで異なる、長く尾を引くような痺れが、神経を巡って全身に広がったのだ。かつて体験したことがなく、ゆえに対抗のしようもない、快感。
そしてスライムの魔手は、当然のごとく、真上で喘ぐ息子ラークにも及んでいた。
「とう、さ、がっ、ごほ……ッ! 僕っ、ぼ、く、おかしく、なるうぅ!!」
肛門からの侵入に素早く対応できた父と違い、ラークの腹は、スライムの組織でびっしり埋め尽くされている。それらが一斉に、柔らかな前立腺を右から左から、膀胱ごと荒々しく揉みしだくのだから、もたらされる性感の大きさは計り知れない。
「ラー、ク、ラーク……ぅっ」
息子の様子がおかしいことに、オストは気づいた。赤らんでいた顔はいつしか青紫に変色し、呼吸もひどく乱れている。体に負荷がかかると、ラークはこのようになってしまう。若い雄なら毎日やりたいであろう自慰すらも、彼は、調子を見ながら慎重に行うことを強いられてきた。こんな異常な興奮に曝されて、平気なはずがないのだ。
それでもスライムは容赦しない。亀頭、陰嚢、そして前立腺。逃げ場もなくなぶり尽くされ、二本の陰茎は真っ赤になり、ぐんぐんと膨張していった。それが射精前に迫るほどの水準に達した瞬間、彼らは下腹部に、何か異常な圧力が生じ始めたことを自覚する。
「はっ、ハァ……ッ! この、感覚は……まずい……まず、い……ィッ」
「も……う、ダメ、ゲハッ、出る、漏れるっ、いやだ、兄ちゃん、助け……っ」
股間が弾け飛びそうなほど、高まり続ける切迫感。達してしまえば、全てが壊れて、終わる。哀れな親子に残されたのは、そんな無情な確信だけだった。スライムが、暴れ狂う。粘液を溢れさせながら、胸の突起を滑り、汗に塗れた脇をくぐって、背中まで艶かしく覆っていく。染み込んだ麻痺液で、全身は性感帯へと作り変えられ、そして――
「ひぐッ、ぎぁ、アアアアッ」
まず崩壊したのは、ラークの方だった。華奢な身体がガクガクと痙攣し、鋭く突き出した先端から、おびただしい量の透明な液体が噴出する。それはスライムの粘体を一直線に貫き通し、その先にあった赤黒く熟れた亀頭を、目視できるほどに深く抉った。
「グフッ――」
オストの絶叫は、もはや声にもならなかった。のしかかるスライムと息子が跳ね上がるほどに激しく体を震わせ仰け反って、力強く激しく潮を吹く。ラークとは異なる濃い黄色が、歪んだ青の中で一気に膨れ上がり、速やかに溶け合って、美しい緑色へと変わっていく。それはまるで、満たされたスライムの心情を表すかのようだった。
潮吹きとは言うが、その実体はただの尿である。それなのに、壊れ逝く雄たちの興奮をまとうことで、塩味に混じり、ほのかに甘やかな香味を呈する。それはスライムにとって、濃厚な精の後味を優しく解きほぐす、至高の贅沢なのである。
巨大な粘体は、悦びに打ち震え、液体に近くなる。これにより、上に乗っかっていたラークの身体が少しずつ沈み、また下敷きになっていたオストの身体が浮かび上がる。きらめく緑の球体に取り込まれ、もみくちゃになって乱舞する、二つの狼の裸体。行き過ぎた快楽は、苦痛と何も変わらない。もはや麻痺は効果がなく、彼らの全身の筋肉はでたらめに収縮し、意味をなさない叫びとともに、四方八方に潮を撒き散らしている。
命を快感に変えて絞り尽くされる、永遠のような責め苦――。
「……がぁ……ぁ」
果たして、どれほどの時間が流れたのか。オストは虚ろな目をして、息も絶え絶えにうめく。力なく横たわる肉体の中心では、少年のごとくに小さく萎びた男根が揺らめいている。
「ラー、ク……?」
ぼやけた視界の中、眩い青空を背に、細いシルエットが浮かんでいる。スライムの上で微動だにしない体。だらりと垂れ下がった両手両足と尻尾。ぽかんと開いた口からは青紫色の舌がはみ出し、唾液が糸を引いている。愛らしかった緑の瞳はほとんどが上瞼に隠れ、濁った断片がただ虚空を見つめるのみ。
「ああ、ラーク……」
ラークは絶命していた。
麻痺液のもたらす異常な興奮の下で、生まれて初めて性欲に身を任せ、何度も射精し、大量の潮まで噴いた。中身が底をついてもなお、ドライオーガズムを繰り返した。その莫大な負担に、彼の小さく弱い体は耐えられなかったのだ。
「ラーク、すまない。許してくれ、どうか、どうか」
決してひとりでは逝かせない。そう決心していたのに、結局孤独に死なせてしまった。見方によっては、ラークは幸運だったのかもしれない。最後の一瞬まで激痛にもがき苦しんだ兄とは違い、快楽に溺れ、何も分からないまま息絶えたのだから。しかしオストにとって、そんな想像は救いにもならない。悔恨が感情を塗りつぶし、涙となって溢れ出す。
せめて最後に、息子の死に顔に触れたい。瞼を閉じ、柔らかな毛並みを優しく撫でて、恐怖と苦痛に必死に抗った勇敢な息子を労ってやりたい。オストはそう願って、残された力を右腕へと注ぎ込む。強い想いで麻痺した筋肉を動かして、震えながらもゆっくりと、息子の亡骸へと手を伸ばす。あと少し、あと少しで――。
だが、現実はどこまでも非情だった。オストの指先が痩せこけた頬に触れようとした瞬間、獲物は決して渡さぬとばかりにスライムが動き出し、ラークの全身を包み込む。美しい赤毛がどす黒く泡立ち、皮膚ごと溶け去って、たちまち筋肉が露出する。
「あ、あ……そんな……っ!」
父狼の目の前で、ぼろぼろに崩れ輪郭を失っていく、ラークの体。真っ赤な靄が、広がるそばから粘体と混じり合い、身の毛もよだつ黒紫色に染め上げる。そしてその向こうには、骨と臓物が無秩序に散らばっているのだ。まるで、捕らえた獣を捌いた時のように。
「うぐ、ぉおッ」
猛烈な嘔気がこみ上げる。仰向けで身じろぎもできないまま、嘔吐などすればどうなるか。分かっていても、惨たらしい成れの果ての姿は、止めることを許してはくれなかった。
「がぁっ、あぐ、ご……ふッ」
胃がひっくり返るようにして、内容物が全て逆流する。気道は完全に閉塞し、口腔や鼻腔までもが嘔吐物で埋め尽くされる。吐き出す力も残されていない。脈が速く強くなり、襲い来るのは死への本能的恐怖。徐々に痙攣が始まり、意識が白み遠のいていく。
「あ……が、っ……」
だがオストは、確かに感じてもいた。胃液の不快な酸味の中にも確かに残る、ラークが家族のために、愛情を込めて作った朝食の風味を。いや、その愛情の向く先はアルバであって、自分は対象に含まれていなかったのかもしれない。それでもかけがえのない、幸せな時間の欠片。二度と返ってこない、遠い記憶。
「ア、ルバ……ラ……ク」
このおぞましい化け物に溶かされて死ぬくらいなら、窒息する方がずっといい。もう、生き延びても意味はないのだ。早く、愛する二人のもとに逝きたい。ひょっとすると、昔に亡くした妻にも会えるかも。そう思うだけで、絶望も恐怖も緩やかにほぐれていった。
視界が色を失い、白とも黒ともつかないモノトーンに呑まれていく。誇らしかった嗅覚や聴覚も、すでに奪われた。何もない世界。そこは穏やかで、とても心地がいい。惨く理不尽な現実はもう終わりだ。狼は家族との再会を夢見ながら、静かなまどろみに身を委ねた。
――そして本当に、奇跡は起きる。
「ああ、ああ……っ!」
息子たちだ。まっさらな空間の最奥で、アルバとラークが寄り添いあって、満面の笑みで手を振っていたのだ。残念ながら、妻はそこにはいない。それでも、可愛い息子たちとまた会えただけで、この上もなく満たされて、オストは感涙にむせぶ。
「やっと来たな、オヤジ。もう待ちくたびれたぜ」
「父さん、おかえりっ。さあ、早く早く」
彼らは全裸だった。そしてその股間には、なぜか勃起したままの陰茎。蔦のように血管の絡みついたアルバの極太と、色のない世界を鮮やかに貫くラークの長槍。死ぬ前の快楽が染み付いてしまったのか、物欲しそうにひくついている。ああ、可哀想に。オストは心を痛める。だがもう大丈夫だ。もう、あの化け物からは解放されたのだから。
「……ラークから聞いたけど、その、オヤジのも……すごいんだな」
ついに二人を抱擁しようとしたところで、アルバが不意に、そんなことを言う。オストは困惑し、首を傾げる。だが、息子たちの視線の先を追うと、その意味はすぐに分かった。
「これ、は……」
オスト自身の股座。なぜかここまで気づかずにいたが、彼の男根もまた、力強く勃っていたのである。それをひとたび意識した途端、満ち足りていたはずの内側に、焦燥じみて切迫した欲望が、むらむらと湧き上がるのを彼は自覚する。そして同時に、無垢に輝いているように見えた息子たちの笑顔が、実は粘ついた濃い肉欲で形作られていることを、悟る。
「なあ、オヤジも早くこっちに来てくれよ。俺、我慢できねえ」
「もう……兄ちゃんは食いしん坊だなあ。あははっ」
二人の体が揺らめき、歪む。狼の形を失い、不定形の粘体へと姿を変えていく。オストには、何が起こっているのか分からなかった。それでも、恐怖はない。外見がどうなろうと、これらが愛する息子たちであることは、疑いようがないのだから。
「分かった。今、行くよ――」
思い描いた奇跡とは何かが少し違う気がしたが、それでも彼は、幸せだった。
[newpage][chapter: 【エピローグ】]
獣人たちの集落に、恐慌じみた不安が広がっていた。
村の中心である狼たちの中でも、誰より実直で勇敢な戦士、オスト。そして、そんな父の後を継ぎ、一族の未来を率いていくはずだった青年アルバと、その心の拠り所である弟ラーク。皆にとって欠くことのできない存在である彼らが、突然姿を消したのだ。穏やかな午後の空気は霧散し、三人を捜索するため、若い雄たちが急遽かき集められていた。
そんな混乱の最中、単身で森を駆けずり回っている、一人の狸獣人。
「どこだ、オスト……っ!」
アルバを探し回っていたオストをからかい、足止めした男、バンタである。彼は焦っていた。仲間たちにおんぶにだっこで気楽に暮らしている彼だが、その内側に引け目が全くないわけではなかった。そんな自分の行動で、村の支柱とも言うべき存在が失われたとしたら。そう思うと気が気でなくなり、いつの間にか森の中に飛び込んでいたのだ。
「オスト、アルバ、頼む、無事でいてくれ……」
とはいえ、その体は鈍重な脂肪の塊。火事場の馬鹿力は長くは続かず、息は上がり、汗に覆われた灰色の被毛がぬらぬらと光る。頭も働かず、元来鈍い嗅覚はもはや用を成していない。もう帰ろうか。そんな弱音が頭をかすめ始める――その時だった。
「……か……た、いま、行……」
「この声は……!」
風音に混じって微かに聞こえた。間違いなく、オストの声だ。最悪の事態は避けられた。こうして立ち止まっていなければ、絶対に気づけなかっただろう。
「おれだ、バンタだ! オスト、どこだ、今行くぞ」
奇跡のような幸運に、引きつっていた表情をほころばせながら、バンタは駆け出す。鉛のようだった体が、今では不思議なほど軽い。声の出どころも鮮明に分かり、まるで導かれるかのように、鬱蒼と茂る草むらをかき分けて進んだ。そしてついに、視界がぱっと開ける。
「よかった、オストっ、おれはもう心配でしん、ぱ――」
安堵と歓喜に弾む声は、しかし、唐突に途切れた。
外界から切り離された空間の中央に、奇怪な物体が佇んでいる。それは青紫の巨大な扁球で、斜陽を複雑に歪ませながら、生々しく揺らめいているのだ。オストと思しき男の裸体を、顔面を除いて丸ごと内部に取り込んだまま。
「なん、だ、これは……」
呆気にとられたまま、バンタはふらふらと歩み寄る。一足ごとに詳らかになっていく、遠目には分からなかったあまりにも凄惨な光景に、慄きながら。
「ぐえぇ……っ! うぐっ……嘘だ、オスト、そん……な」
狼の魅力溢れる精悍な顔だけは、これがオストその人であることを示している。しかし、他はどうか。誰もが羨んでいた逞しい肉体が、一体何が起きたのか、煮込み続けた獣の肉のように崩れている。四肢のみならず、胴体までもあちこちで骨が剥き出しとなり、股間にあるはずの雄の証はほとんどが溶けて消え、腹部に至っては、赤黒い腸までもが覗いている。
「ああ、バンタ、さん……来て、くれたのか」
「オスト、喋んなっ! 待ってろ、今出してやっから――」
不気味なほどに穏やかなオストの声。一方のバンタは、今にも飛びそうな意識をつなぎとめながら、狼を包む青紫の粘体を取り除かなければと、震える手を伸ばす。しかしオストは、緩やかに頭を振って、それを制した。
「いいんです。もう私は、この中でしか生きられませんから」
「ああ……そんな……」
希望がガラガラと崩れていく音を聞きながら、狸はがくりと膝をつく。
「おれが余計なこと言っちまったばっかりに、こんな、すまねえ」
何が起きたのかは全く分からない。ただ、過保護なほどに大切にしていた息子たちについて、オストが一切触れない以上、彼らはすでに死んでいるのだろう。そしてオスト自身の命も、もはや風前の灯。重すぎる後悔と罪悪感に、バンタは押し潰されそうになる。
「その……どうして、謝るんですか?」
だが、その謝罪の言葉に対するオストの返答は、奇妙なものだった。
優しさからバンタを気遣ってとぼけた、というわけではない。そのような演技ができる男ではないのだ。謝罪する理由が、本当に理解できていない。そうとしか思えなかった。
「お前さん、どうして、って、そりゃ……」
「だってここには、息子たちがいる。アルバも、ラークも……私は、幸せです」
言い切って、オストは微笑む。それを見て、バンタはぞっとした。
生真面目で笑い慣れていないオストは、無理に笑わせると引きつった奇妙な表情を呈することがあり、それを時折からかわれていた。しかし、今の笑顔はどうか。無理に作ったようには見えないのに、ひどく異質。左右バラバラに吊り上げられた口の端に対し、焦点が定まらず、決して笑っていない瞳。それは、常人には理解し難い感情の発露だ。
「ここ……ここって、どこだ。何を言ってんだオスト、なあ――」
「なんだアルバ、少し待ちなさい」
困惑し半ば裏返ったバンタの問いかけを、オストが父親としての声で遮る。
「腹が減った? おいおい、たった今、ラークを喰ったばかりだろう。ああ……そうか、朝食を食い損ねたんだったな」
その視線の落ちる先は、崩れゆく自身の体を包み込む粘体。もう間違いない。あろうことか、オストはこの気味の悪い物体を、最愛の息子アルバだと思いこんでいるのだ。
「アルバだって? これが? いや……そ、それより、誰を喰ったって!?」
「なんだ、ラークまで……なに、狸のおじさんが、気になる? むっちりして雄らしくて、美味しそうだって? はは……おまえはいつも、そんなことを考えていたのか」
腰を抜かして狂乱する狸を気に留めることもなく、オストは愛おしげに話し続ける。どうやら今度はラークの幻覚らしい。どこか腫れ物に触るような扱いだった、体の弱い弟。しかし、今の話し方はとても気さくで、心の壁を乗り越え、真の父子の絆を得たような印象を受ける。そしてだからこそ、意味不明な内容の不気味さが際立っている。
オストは完全に気が触れている。息子たちを亡くし、心が壊れてしまったのだろう。
「な、なあ、オスト。言いづらいんだが、お前さんの息子たちは、もう」
「だが、おまえたちの言うことも分かるぞ。私にも確かに、この体は魅力的に見える。しっかり脂が乗っているし、精力も強そうで……初めてだ、こんな感覚は」
眼前の狸を舐め回すように見つめながら、オストはつぶやく。それは決して仲間を見る目ではなかった。すでに肉に加工された、獲物を眺める時のそれだった。
「息子たちが腹を空かせているようだ。すまないな、バンタさん」
「すす、すまねえって何がだよっ!? おれ分からねえよお、なあオスト――」
言い終える間もなく、オストの残滓がどろりと崩壊した。
「え……? ひ、ひぃいいッ!」
脳や臓物、筋肉に骨の一片に至るまでが溶けて、幻のように消え失せる。理解の範疇を超えた現象に気が狂いそうになりながらも、一歩手前でどうにか踏み止まったバンタ。しかしそれは、彼にとって幸運なことだとはとても言えなかった。
「や、やめっ、来るなぁあ!」
これまで緩徐に揺れるだけだった青紫色の粘体が、オストの消失と同時に、力強く脈動する。そしてナメクジのような動きで、粘着質な音を立てながら地を這い始めたのだ。尻餅をついたまま、恐怖のあまり後ずさることすらできずにいる、哀れな男へと向かって。
「オストっ、頼む、正気に戻ってくれぇええぇッ」
バンタは絶叫する。太くたるみきった両脚の間にある、白褌の豊かな膨らみを、強烈な臭気とともに真っ黄色に染め上げながら。
そしてオストらは、かつて群れの仲間であった狸に尻から麻痺液を注ぎ込み、それから陰茎を暴き出した。それは巨大な睾丸のシルエットとは裏腹に短小で、少し落胆したが、思うがままに動く不思議な体で揉みしだいてやると、それなりの大きさになった。
あれほど怯えていた狸も、数分も経つと丸顔を赤らめて喘ぎ散らし、そのままとくとくと白濁液を吐き出した。長年の不摂生を凝縮した精は、意外にも濃厚で雑味の中にも旨味がある。再び迎えることのできた家族揃っての食事に、歓喜する三人。失禁で量は減っていたものの、潮吹きも堪能できた。そして最後には、汗に塗れた大きな丸い体を包み込んで、きれいに溶かして取り込む。悲鳴を上げているようだが、罪悪感などまるでない。空腹も満たされて、彼らは大満足のうちに、そのまま草陰に隠れて眠りについた。
スライムの体は素晴らしい。敵に襲われるおそれはほとんどないし、近くの村には、美味しい食べ物がまだまだたくさんある。それらを食い尽くしても、少し遠出すれば、虎やら蜥蜴やらの集落がある。屈強で精力旺盛な雄たちが、いくらでもいるのだ。
――生まれ変わった父と子らの幸せな日々は、ここから始まる。