【第三話:山梔子の花】

  夢喰いの一件からというもの、銀郎と夕陽の距離は確実に縮まっていた。

  昏睡から目覚めた銀郎の目はもう、以前のように伏し目がちではなかった。どこか影を落としていた瞳は、まっすぐと夕陽を見据え、言葉の端々には迷いが消えていた。

  「夕陽様、御髪整えますね」

  「夕陽様、羽織をお持ちしました」

  「夕陽様、吸い物の味見をしていただけませんか?」

  何気ないやり取りの中に、銀郎の感情が垣間見える。

  控えめだった距離感も、いつしかごく自然に近くなっていた。

  それが――朱雀には、たまらなく癪だった。

  夢喰いに襲われた時、なにがあったのか聞いても、夕陽様も銀郎も曖昧にはぐらかし、口を噤んで詳細を語ろうとはしなかった。

  夕陽様の一番は、ずっと自分だった。

  夕陽様が最初に名をくれたのも、手を差し伸べてくれたのも、優しく頭を撫でてくれたのも、全部、自分だった。

  けれど最近は、夕陽様の隣に並ぶ銀郎が妙に自然に見えて――その事実が、焦りとなって胸を焼いた。

  夕餉を終え、湯で身を清めたあと、部屋に戻ると、銀郎が灯された燭台の揺れる光の中、畳にあぐらをかき、膝に読みかけの文冊を置いて頁をめくっていた。

  「……おまえさぁ、最近夕陽様にベタベタしすぎじゃねぇ?」

  苛立ちに任せてぶつけた言葉にも、銀郎は揺れなかった。

  その表情には怒りも焦りもなく、ただ真っ直ぐに、朱雀を見据える静けさがあった。

  少しの沈黙のあと、銀郎は視線を手元へと逸らし、ふと微笑んだ。

  「……嫉妬、か?」

  からかうような響きもあったが、その声音はどこか切なげだった。

  「ばっ……、 ちげーよ! いつも俺に対して弁えろだの慎めだの説教垂れてんのは、どこの誰だって言ってんだよ」

  そう吐き捨てながらも、朱雀の声には微かに焦りが滲んでいた。

  拳を握る手には力がこもり、今にも何かを言い足そうと唇が震えた。

  だが、銀郎はその様子に取り乱すこともなく、穏やかな目で朱雀を見つめていた。

  ひとつ深く息を吐いてから、銀郎は静かに文冊を閉じた。薄く響く紙の音が、沈黙の空気を割る。

  「……私は夕陽様に、私の想いを伝えようと思っている」

  「……は?」

  「例え拒絶されてもかまわない。けれど、私はこの気持ちを偽りたくない。夕陽様は、誰よりも優しい方だ。想いそのものを、否定するようなことはしない」

  その目には、静かだが確かな決意が宿っていた。

  いつのまにか銀郎は、ただの同居人でも、仲間でもなくなっていた。

  焦りが、喉元まで込み上げる。

  情に深い夕陽様のことだ。銀郎の想いを、きっと無碍にはしない。

  そんな確信めいた“嫌な予感”が、心を締めつける。

  焦燥と嫉妬で、どうにかなりそうだった。

  ――そして、ある夕暮れのことだった。

  裏庭のクチナシが、白く甘く咲き誇っていた。

  その香りの向こうに、二人の姿が見えた。

  夕陽が優しく頷き、銀郎がその隣で何か囁くように話している。

  近すぎる距離。和やかな空気。

  まるで、ふたりだけの世界のようで。

  サッと、胸が冷たくなった。

  「……夕陽様!」

  呼びかけた声に、二人が同時に振り返る。

  夕陽の瞳はいつものように柔らかく、朱雀を見つめた。

  「どうしたんだい?そんなに慌てて」

  その声に応えるように、朱雀は歩み寄り、拳を握りしめて立ち止まった。

  「……もう、耐えられねぇんだ……」

  夕陽と銀郎の間に立つ。ふたりの距離を裂くように。

  「俺……ずっと夕陽様の傍にいた。ガキの頃から、ずっと……それだけが、俺のすべてだった」

  朱雀の声は震えていた。でも、決して俯かず、夕陽の目をまっすぐに見た。

  「誰にも渡したくねぇって、そう思ってた。でも最近の夕陽様は、こいつの方ばっか見てて……俺のこと、置いていかれるみたいで……」

  その瞳に浮かぶのは、悲しみと怒り、そして恐怖。

  「俺……夕陽様が、好きだ。ずっと好きだった。……夕陽様が男でも、人間でも構わない、これからも、ずっと……夕陽様の一番でいたい」

  叫ぶように、縋るように、ぶつけた想い。

  それは決して子供の感情なんかじゃない。

  今の朱雀が、すべてを賭けて差し出した“本気”だった。

  そして――その隣に立った銀郎が、静かに一礼し、同じく夕陽を見つめる。

  「……私も、同じ想いです」

  柔らかいが芯のある声だった。

  「朱雀のように、言葉にするのが上手くはありませんが……私も、夕陽様を、ただの主としては見ていません」

  夕陽が何かを言いかけたが、それを手のひらで静かに制し、銀郎は続けた。

  「私が生きている意味は、夕陽様が与えてくれた。命を、心を、救ってくれた方です。私は……その人を愛しています」

  一瞬、微笑むように目を細める。

  「拒絶されてもかまいません。ただ、この想いを知っていてほしかった。それだけです」

  静かながら、確かに響く告白。

  ふたりの想いは、香るクチナシの花よりも濃く、切実だった。

  そして夕陽は、何も言わずにその場に立ち尽くしていた。

  穏やかだった瞳に、揺れる光が走る。

  朱雀と銀郎の視線を一身に受け、夕陽はしばらく沈黙していた。

  その表情は、困ったようにも、苦しげにも見える。

  「……すまない」

  静かに紡がれた声は、まるで風が吹き抜けるように優しく、けれど確かだった。

  「知っていたよ。……おまえたちの気持ちに、ずっと前から気づいていた」

  朱雀が小さく息を呑む。銀郎の睫が静かに揺れた。

  「でも、どうしたらいいのか、わからなかったんだ。私はずっと色恋沙汰とは無縁の生活をしていたからね。

  ただ、こうして一緒に笑って過ごせる今を壊したくなくて……このまま時が過ぎていくのもいいって、そう思ってしまった」

  夕陽はふたりを見つめながら、どこか寂しげに微笑んだ。

  「どちらかを選ぶなんて、私にはできない。……そもそも、そんな資格があるとも思えないよ。おまえたちは、まだ若い。もっと広い世界を見て、もっとたくさんの人と出会って――

  その中で、私なんかよりずっとふさわしい誰かを、見つけてほしい。

  ……だから、私を好きでいる必要なんて、ないんだよ。

  ……私は、そんな風に思ってしまうくらいには――ずるくて、弱い人間なんだ」

  静寂の中、クチナシの花の香りだけが濃く、甘く揺れていた。

  まるで、答えを出すのを先延ばしにしたこの空白を、そっと包み込むかのように。

  「……ふざけんなよ」

  拳を握りしめた朱雀の目には、悔しさと悲しみが滲んでいた。

  「……そうやって全部、あんたが決めるなよ。俺たちの気持ちまで……勝手に」

  唇を噛みしめたまま、夕陽を睨みつける。

  涙が落ちそうになるのを必死でこらえるように、顔を上げたまま。

  「……でも、それでもいい。俺は、選ばれなくてもいい。

  俺のこと、好きじゃなくてもいいから、――ちゃんと、知っててほしかった。

  ……ずっと夕陽様の一番でいたかった。それだけなんだ……」

  悔しさか、哀しさか、もう自分でもわからない。

  ただ胸の奥が、熱く、苦しくて――息を吸うたびに、痛みが沁みていくようだった。

  一方、銀郎は朱雀の言葉に口を閉ざしたまま、じっと夕陽を見つめていた。

  静かな眼差しの奥に、何かを飲み込むような気配があった。

  「……私は、いつの間にか欲張りになっていたんですね……」

  銀郎の声は落ち着いていたが、その奥にほんの僅か、震えがあった。

  「知っていて、何も言わずにいてくださったこと……優しさだとも思います」

  彼は夕陽に一歩、近づく。

  「……それでも、私の気持ちは変わりません。

  たとえ選ばれなくても、あの日――虚ろな夢の中で、私の名を呼んでくれた声だけで……私は、もう十分に救われたのですから」

  その言葉に、朱雀の目がわずかに揺れる。

  銀郎の決意を、優しさを、そして同じ人を想う者としての痛みを感じたのかもしれない。

  ふたりは、互いに何も言わず、ただ静かに夕陽を見つめる。

  その視線はまるで、

  「この想いは揺るがない」と、

  「それでも、あなたを信じて待っている」と、

  そう告げているようだった――。

  誰も、言葉を発さなかった。

  夕陽はただ、視線をそらさずに、目の前の二人を見つめていた。

  朱雀も、銀郎も、その視線を受け止めながら――けれど、ふと目を伏せる。

  言葉ではどうしようもない気持ちが、それぞれの胸に渦巻いていた。

  痛みも、優しさも、願いも、欲も。

  全部が、静かにその場に降り積もっていく。

  チリン――

  どこからか、風鈴が鳴った。

  まるで、それが合図だったように、朱雀が小さく息を吐いて背を向けた。

  「……俺、まだ諦めねぇから」

  声は掠れていたが、その背中には確かな意思があった。

  振り返らず、けれど、まるで心だけはしっかりと夕陽に向けたまま、歩き出す。

  銀郎も、それに続くように一礼しその場を離れた。

  残された夕陽は、しばらく庭に佇んでいた。

  茜色の空が、クチナシの白をやさしく照らしている。

  ――二人の気持ちは、確かに届いている。

  でも、その答えはまだ胸の奥で眠ったままだ。

  それでも。

  今夜、確かに心は、少しだけ、前に進んだのかもしれない。

  静かな夜が、深く、深く、降りていく。

  第三話:山梔子の花 完