暗がりの中、遠くの方にぼんやりとした明かりが見える。その中心に佇む、夕陽の影が、灯籠の灯りに照らされて揺らめいていた。
目の前の光景に、朱雀は思わず息を呑んだ。
夕陽が、刀を手に、立っていた。
足元には血塗れの死体が横たわる。それは――
夕陽とよく似た面影の、父、母。そして、幼い弟の亡骸だった。
視界の端で銀郎が息を呑む気配がした。
朱雀の胸を、怒りとも恐怖ともつかぬ感情が焼いた。
いや、違う。これは――幻覚だ。夕陽様の見られたくない記憶を俺たちに見せてるんだ……!
「見ないでくれ……」
ぽつりと、夕陽が呟いた。
手にした刀が、かすかに震える。夕陽の目には、涙すら浮かんでいる。
その姿に、朱雀も銀郎も、声を失った。
「夕陽様!!」
二人の叫びが重なった瞬間、世界が砕けた。
ハッとして、朱雀が跳ね起きた。
だが、両腕には冷たい拘束の感触。鉄の手枷が、壁の鉄具に繋がれている。
「ちっ……!」
銀郎もまた目を覚まし、同じように拘束されていた。
夕陽の姿を探して視線を彷徨わせると――その姿は、遠く、部屋の奥。
静かに横たわっている。昏睡状態のまま、まるで人形のように、眠っていた。
その傍に立っていたのは、先ほどまで丁寧な口調で応対していた狩谷晴継だった。
彼は、嬉しそうに目を細め、ふたりに語りかけた。
「お目覚めですね。安心なさい。彼は今、とても穏やかで、美しい夢を見ておられる」
冷たい石の床に、打ち捨てられるように座らされた銀妖たちを、狩谷は愉悦の滲む目で見下ろした。
朱雀の目が細められ、銀郎の声が静かに落ちる。
「……お前、“狩谷”ではないな。――篠宮だろう」
一瞬、場が静まり返る。だが次の瞬間、狂気すら滲む笑みを浮かべて、男は言った。
「ご名答。でも……気づくのが遅すぎましたね? 主ひとりすら守れないとは……無力で愚かですね。その鋭い牙も爪も、縛られていてはただの飾り物」
その声音は優雅に微笑んでいるのに、言葉の端々には嘲りと侮蔑が濃く滲む。
朱雀は怒りを剥き出しにして睨み返すが、銀郎は無言のまま伏し目がちに座り、口を閉ざしていた。
篠宮はゆっくりと銀郎の前に歩み寄ると、面を寄せて覗き込む。
「……ああ、その顔。どこかで見たと思ったら――なるほど。お前の母親は、実に良い素材でしたよ。あの銀色の髪、清らかな霊気。加工に少々手間はかかりましたが……結果は上々だった」
静寂が、場を支配した。
朱雀が「てめえ……!」と声を上げるより早く、銀郎の身体が音もなく動いた。
両手に嵌められた封印付きの手枷が、ミシ、と軋む。
俯いたままの銀郎の表情は見えない。ただ、重く垂れた長髪の隙間から覗く金の双眸が、すでに怒りを通り越した冷たい殺意に染まっていた。
「……貴様……絶対に、許さない」
篠宮はその視線に微笑を深めると、背後の薄闇に一つの気配が蠢いた。
それはかつて彼らが討ち滅ぼしたはずの、夢喰いの瘴気――しかし、今や篠宮の気配と溶け合い、まるで影のように従っている。
「……ふふ、あの子には“居場所”を与えてやったのですよ。役に立つでしょう? 私の眷属としては、なかなか優秀でしてね」
篠宮は、前方の石造りの祭壇を見つめていた。
その祭壇の上には、夕陽が静かに横たえられている。昏睡したままの身体には、薄布のような白い衣がかけられ、その上から丁寧に外套が被せられている。
まるで神聖な供物のように扱われながらも、そこにあるのは生ける人間だ。
篠宮は恍惚とした表情で、夕陽の頬に手を添え、狂おしいほど甘やかな声で囁く。
「……美しい。ようやく私の手に戻ってきてくれた……。これからは、永遠に私の傍にいるんですよ、夕陽君……あなたは、飾られているだけでいい」
その頬に指を這わせ、口元に唇を寄せた――
「やめろっ!!」
朱雀が吠えるように叫ぶ。壁に繋がれた手枷が、軋みをあげた。
「……ッ貴様、何をしている……!」
銀郎もまた感情を隠しきれずに睨みつける。静かな怒気がその瞳に宿る。
「滑稽ですね。喚くことしかできない獣は。これが“銀妖”ですか。いや、“素材”と呼ぶべきか……」
篠宮は薄く笑い、夕陽の頬に口づけを落とした。
「ご安心を。貴方たちもいずれ、我が最高傑作の一部として生き続けるのです。美の殉教者として、ね」
朱雀の目が、猛る獣のように爛々と光る。
「このッ……このクソ野郎おおぉぉ……ッ!」
全身の力を込め、朱雀が鎖を引きちぎろうとする。鉄の軋みと共に、壁の石が砕け、手枷がぐらついた。
次の瞬間――バァン!と、鋭い破砕音が響いた。
「朱雀……?」
銀郎が目を見開いた。
鎖に縛られていた朱雀の腕が、壁ごと吹き飛ばされていたのだ。紅蓮のような髪が逆巻き、瞳は燃えるような深紅に染まっている。
朱雀の全身から、黒紫の瘴気が立ち昇る。
それは本来の霊力に、夕陽から分け与えられた呪詛の一端が混ざり合った、異質で強大な力。
「ッ……ッあああああああっ!!」
叫びと共に、背後に生えた尻尾が膨れ上がる。まるで蛇のようにくねりながら、獰猛な刃となって空を裂いた。爪は野獣のように変異し、牙も僅かに伸びる。
理性が、意識の底に沈んでいく。
「夕陽様に、指一本……触れてみろよ……」
低く唸るような声。
朱雀は、祭壇の前に立ちはだかると、主人を護る獣のように背を丸め、牙を剥いた。獣性に呑まれながらも、ただ一つ――夕陽を守るという意思だけが、辛うじて彼を繋ぎ止めていた。
その様子に、篠宮は眉をひそめ、忌々しげに舌打ちした。
「これだから、品のない獣は嫌いなんですよ」
懐から取り出したのは、漆黒の[[rb:経巻 > きょうかん]]。それは夕陽すらも一目置いた、古の祓い師の道具。
篠宮が呪を唱えると、経巻に宿った禍々しい気が黒き刃となり、朱雀の爪を弾き返した。
「だが、それだけの力……美しさを否定してなお得た力か。滑稽ですねえ、実に哀れだ」
その刹那、獣のように跳躍する朱雀。爪が風を裂き、篠宮の頬をかすめた。流れる血に、朱雀の瞳がギラリと光る。
――まだ、自我は残っている。
だが、このままでは朱雀がまずい。
完全に自我を失ってしまったら、何をしでかすか分からない――。
篠宮の呪詛と、それを受け止めた夕陽から分け与えられた“力”。
性質の異なる二つの呪が朱雀の身を通して共鳴し、彼を獣の咆哮と共に染め上げていく。
暴れ狂う力は、壁を穿ち、結界を揺らす。
――だがそれは、朱雀自身を破壊する衝動でもあった。
銀郎は唇を噛みしめ、拳をぎゅっと握り込んだ。
(このままでは、本当に──)
視線は、台座に横たわったままの夕陽へと向かう。
夕陽様を目覚めさせることが出来れば、あるいは。……しかし、どうやって? 夢結びの符はここには無い。通常の手段では精神世界へ接触できない。
――だが。
自らの胸にそっと手を当てる。
まだ微かに残る、あの人の気配──呪詛の余韻が、心の奥を温かく揺らした。
一度でも魂が触れ合ったのなら、きっともう一度、辿り着けるはず。
銀郎は静かに目を閉じ、深く、意識を沈めていく。
(行ける……これは、“導き”だ)
光も音も届かない、深淵の闇。
その奥に──懐かしい匂いと、優しい気配が待っていた。
――揺れる障子の影。
座敷の奥、縁側には小さな夕陽が、誰かの膝枕で眠っている。
父も、母も、兄も弟も、皆が揃っていた。
穏やかすぎるほどの幸福。
それが、夕陽の“最も大切な夢”。
銀郎は、ただ立ち尽くしていた。
なぜだか分からない。
けれど、目の奥が熱くて、頬に伝う涙が止まらなかった。
戸を開け、近づくと、夕陽がゆっくりと目を開ける。
まだあどけない表情。茶色の瞳が、まっすぐ銀郎を見つめた。
「……誰……?」
銀郎は夕陽の前に片膝をつき、震える声で答えた。
「……銀郎です。夕陽様」
「ぎんろう……?」
「……はい。貴方を、迎えに来ました……」
「……? どうして泣いてるの?」
「……ここが、とても綺麗で、尊くて……私が守りたかった場所だからです」
幼い夕陽が小さな手を伸ばす。
そして、ふわりと銀郎の頭を撫でた。
「泣かないで……僕は大丈夫だから」
伏せたままの銀郎の目から溢れた涙が地面を濡らす。その時、銀郎の頭を撫でていた手がピタリと止まった。
「……あれ? 変なの……。前にもあなたの頭を撫でたことがあるような気がする……」
その瞬間――周囲の空気が、ぱちりと弾けるように変わった。
光が揺れ、夢の輪郭がゆっくりと歪んでいく。
ふと見上げると、目の前の子どもが、今の夕陽へと変わっていた。
「――ああ、こんなところにまで……来てくれたのか?」
銀郎は言葉を返すこともできず、ただ頷いた。
その目にはまだ涙が滲んでいたが、今度は、安堵に似た微笑を浮かべていた。
銀郎は、そっと手を差し出した。
「お戻りください、夕陽様。先ほどの男、やはり篠宮でした。朱雀が戦っていて、朱雀が危ない」
「分かった、すぐ行く。迎えに来てくれて、ありがとう」
夕陽がその手を取った瞬間、夢が砕ける音がした。
夢喰いの呪縛が解けた瞬間、篠宮の放った禍々しい気配が、再び強く満ち始めていた。
だが、その中心に立つ朱雀の動きが止まる。
「朱雀」
夕陽の声に応じて、朱雀の目に宿っていた赤黒い光が、ほんの一瞬だけ揺らぐ。
それは、意識を取り戻すための、わずかな隙だった。
「朱雀……もういい」
その一言が、朱雀の暴走を止める。
苦しげに息を吐き、荒ぶる妖気が、わずかに鎮まった。
そして――。
「ああ、忌々しいッ、役立たずの夢喰いがッ……!!」
篠宮の苛立った声が響く。腕に巻いた数珠と手にした経巻が再び禍を纏って唸る。
しかし、夕陽は朱雀を庇うように、静かにその前へと立ちはだかった。
「……私を怒らせたな、篠宮」
その声音は、低く、静かで――ひどく冷たい。
「そこをどいてください、夕陽君。君はその獣に惑わされている……!」
懐から取り出した護符が、淡く輝く。
主の手に呼応するかのように光を纏う。
「朱雀を痛めつけ、銀郎の母を奪い……、私の家族を、弄んだ」
その言葉と同時に、夕陽が護符を投げる。
まっすぐ、銀郎の手枷へ。
「――破ッ!」
符が焼けるように光り、銀郎の手枷を締めつけていた呪縛を一瞬で砕く。力の奔流が弾け、銀郎の身体がぐらりと揺れた。
「夕陽様……!」
朱雀は呆然としながらも、夕陽の背に隠れるように動く。なおも震える指先が爪を立てようとするのを、夕陽が静かに手を添えて抑えた。
「もう、いい。私が、戻った。これ以上、おまえたちを傷つけさせはしない」
静かに、けれど確かな光をその瞳に宿して、夕陽は二人の前に立つ。
篠宮は、唇を震わせ、恍惚にも似た笑みを浮かべた。
「……やっぱり……やっぱりだ。君は“美しい”。あの時と、寸分も違わない……いや、今のほうが、もっと……」
血のにじむほどに握られた手が、経巻をきしませる。
「私だけがわかっているんだ。君がどれほど純粋で、壊れやすい存在か……。他の誰にも触れさせたくなかった。なのに……」
夕陽の背後の朱雀と銀郎を、汚いものを見るような目で睨みつける。
「――あんな穢れたものどもに、君を穢されるくらいなら……いっそ……」
その言葉を、夕陽が静かに遮った。
「もうやめてくれ、篠宮。……私は、もう君の幻想ではいられない」
朱雀と銀郎を振り返り、穏やかな笑みを浮かべて言う。
「私は……もう、一人じゃないんだ」
夕陽がそう答えた瞬間、篠宮の唇が歪んだ。笑っているのか、泣いているのかも判然としない。
ぴん、と張り詰めた沈黙が空を切る。次の一瞬には、すべてが動き出す――そんな予感だけが、場に残った。
決着のときは、すぐそこにあった。
続く