ウロボロスは星を捜す 【後編】

  [chapter:5. 怠惰の探求]

  肺の奥から、破裂音のような吸気が喉を突き抜けた。

  「ひゅっ、は、ぁ……ッ!?」

  跳ね起きた拍子に、背中の筋肉が痙攣し、視界がぐらりと回転する。

  心臓が早鐘を打っている。肋骨を内側から叩き壊さんばかりの暴力的な拍動。

  全身の毛穴から冷たい汗が噴き出し、麻のシーツにじっとりと張り付いている。

  埃と古紙の匂いが充満する、薄暗い部屋。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、空気中を舞う塵を白く浮き上がらせている。

  見慣れた天井。積み上げられた魔導書。机の上に散らばった羊皮紙。

  アタシの、工房だ。

  「……な、んで」

  自身の指先を見る。

  震えている。けれど、ある。

  あの純白の極光に灼かれ、原子レベルで分解されたはずの肉体が、ここに存在している。

  数秒前まで、満天の星空の下で夜気の甘く澄んだ空気を覚えていたはずの味蕾には、今は乾いた唾液の味しか残っていない。

  夢?

  いや、違う。あんな鮮烈な「死」の感触が、夢であるはずがない。

  視界が白一色に塗り潰された瞬間の、あの絶対的な無力感。ロード魔法の詠唱はおろか、悲鳴を上げる暇さえ与えられなかった、圧倒的な破壊のエネルギー。

  あれは、世界そのものの終わりだった。

  なら、ここは地獄か? それとも、アタシの妄執が見せている走馬灯の続きなのか?

  (……声が、聞こえた……?)

  耳の奥に、微かな残響がある。

  意識が途切れる寸前、あるいは再構築される狭間で、誰かがアタシの脳髄に直接語りかけてきたような、粘着質な感覚。

  だが、内容を思い出そうとすると、霧がかかったように思考が滑る。思い出せない。

  今は、そんな不確かな幻聴に構っている場合ではなかった。

  「ミーティア……ッ!」

  思考より先に、足が動いていた。

  彼女はどうなった?

  あの白い光は、アタシの隣にいた彼女をも、等しく飲み込んだはずだ。

  生きているのか。それとも、この世界線ではまだ出会っていない他人に戻っているのか。あるいは、肉体ごと消滅してしまったのか。

  (記憶は……どうなってるのよ)

  扉を蹴破り、杖をひったくるように掴む。

  もし、これまでのループと同じように記憶が引き継がれていたら?

  あんな理不尽な死の記憶を、あの小さな精神が耐えられるわけがない。アタシが会いに行くことで、彼女にその地獄を思い出させてしまうかもしれない。

  論理的な思考が、「行くな」と警告する。お前が関われば、また彼女を不幸にするだけだと。

  「うるさい、うるさいッ!」

  アタシは警告を怒鳴り散らし、杖に魔力を叩き込んだ。

  自分勝手なエゴだということは分かっている。

  けれど、確認せずにはいられなかった。あの日だまりのような笑顔が、まだこの世界に存在していることを確かめなければ、アタシの精神が崩壊してしまう。

  一人では、この巨大すぎる絶望に立ち向かえない。

  ……

  重力制御の術式など、今の錯乱した頭では組み立てられなかった。

  ただ魔力の放出だけで無理やり身体を浮き上がらせ、弾丸のように空を駆ける。

  風が頬を切り裂き、眼球が乾くのも構わず、眼下の景色を睨みつけた。

  住宅街の区画にある赤い屋根。煙突。

  ある。家は、ある。

  着地とも言えない勢いで庭先に降り立ち、アタシはドアを拳で叩いた。

  「ミーティア! いるの!? ミーティアッ!」

  ベルを連打し、ノブをガチャガチャと回す。

  数秒の沈黙の後、鍵が開く音がして、隙間から中年女性の困惑した顔が覗いた。

  「あ、あの……どなたです?」

  「ミーティアの友達よ! 彼女はどこ!?」

  「えっ、あの子のお友達? でも、まだ寝ていて……」

  「緊急事態なのよ!」

  母親の返答も待たず、アタシは廊下を駆け抜けた。

  階段を二段飛ばしで駆け上がり、一番奥にある彼女の部屋のドアを勢いよく開け放つ。

  「ハァ、ハァ、ッ……ミーティア……」

  部屋の空気は、澱んでいた。

  朝だというのにカーテンは閉め切られたまま。

  薄暗い部屋の端にあるベッドに、彼女はちょこんと座っていた。

  「…………」

  視線は、虚空を向いている。

  いつも丁寧にカールされている桃色の髪は、寝癖で爆発したまま。

  パジャマのボタンはずれていて、布団はずり落ちているのに、直そうともしない。

  その瞳は、窓の外――あの方角、あの丘があった北の空を、ガラス越しにただ呆然と見つめていた。

  まるで、魂の抜け殻だ。

  「……アンタ、聞こえてる?」

  恐る恐る近づき、その細い肩に手を置く。

  暖かかった。体温はある。生きている。

  安堵で膝が折れそうになるのを堪え、アタシは彼女の肩を揺すった。

  「ミーティア! アタシよ、ラミアよ!」

  名前を呼び、強く揺さぶる。

  その振動が伝わった瞬間、彼女の瞳孔がゆっくりと収縮し、焦点がアタシの顔に結ばれた。

  「……ラ、ミア、サン……?」

  掠れた声。

  彼女の視線が、アタシの顔を彷徨い、やがて自分の手足を確認し、再びアタシに戻る。

  

  その瞬間。

  彼女の顔が、くしゃりと歪んだ。

  「あ、ああ、あぁぁ……っ!」

  悲鳴のような慟哭が、喉から迸る。

  彼女は弾かれたようにアタシの腰にしがみつき、ドレスの生地を握りしめた。

  「こわ、怖かった、デス……っ! まっしろに、なって……なんにも、聞こえなくなって……!」

  「ッ……!」

  やはり、記憶はある。

  あの穏やかな日常を、クッキーの甘い匂いを、星空の輝きを。

  その全てを無慈悲に塗り潰した白い閃光の記憶が、この小さな身体に刻み込まれてしまっている。

  「ミーが、ミーが死んじゃうとこ、見えまシタ……! 熱くて、痛くて、ラミアサンの声も聞こえなくなって……うあぁぁぁん!」

  子供のように泣きじゃくる彼女の背中を、アタシは震える手で抱きしめ返した。

  伝わってくる体温は、小刻みに痙攣している。

  体毛越しに感じる背骨はあまりに細く、少し力を込めれば折れてしまいそうだ。

  (……なんてこと)

  今まで、アタシは彼女に救われていた。

  底なしの善性。聖母のような包容力。

  勝手にそんな幻想を押し付け、彼女ならアタシの罪も孤独も受け止めてくれると甘えていた。

  けれど、違う。

  彼女は、ただの少女だ。

  アタシと同じように、死を恐れ、痛みに怯え、理不尽な暴力の前では為す術もなく泣き叫ぶ、か弱い存在なのだ。

  「ごめん……ごめんね、ミーティア……」

  涙で濡れた彼女の頬を、アタシの胸に押し付ける。

  アタシの心臓の音が、彼女の耳に届くように。ここにいるよと、生きているよと伝えるように。

  その華奢な重みを感じながら、アタシの中で何かがカチリと音を立てて切り替わった。

  救ってもらうんじゃない。

  アタシが、この子を守るんだ。

  あの白い光から。理不尽な死から。

  たとえ、世界そのものを敵に回したとしても。

  その日は結局、アタシは一歩もその部屋から出ることなく、泣き疲れて眠る彼女の手を、ただひたすらに握り続けていた。

  ……

  古びた柱時計の刻む規則的な音が、静まり返った部屋の中でやけに大きく響く。

  隣のベッドでは、ミーティアが泥のように眠っていた。時折、ヒクッ、と喉の奥で小さな痙攣が起こり、そのたびにアタシの心臓は万力で締め上げられたように痛む。

  真紅の表紙を持つ魔導書を、音を立てないように閉じた。

  記述内容は、残酷なまでに前回と一致している。

  今の世界線は、あのアタシたちを蒸発させた白い閃光に至るまでのレールの上を、正確になぞっているということだ。

  「……あと、一日もないわね」

  唇を噛む。鉄の味が広がるほど強く。

  ロード魔法を使えば、時間を巻き戻せる。別の可能性へ逃げることもできる。

  だけど、その選択肢を脳裏に浮かべた瞬間、アタシは首を横に振った。

  目の前で不規則に上下するミーティアの背中を見る。これ以上、彼女の海馬に死の記憶を焼き付けるわけにはいかない。

  それに、根拠のない確信があった。逃げても無駄だ、と。この世界線で、あの光の正体を暴き、へし折らなければ、アタシたちは永遠にあの白い地獄から抜け出せない。

  思考を加速させる。

  脳漿が沸騰しそうなほどの熱量で、情報を精査する。

  ロシアーニャの兵器? あり得ない。あそこは魔導技術よりも物理的な火薬に頼る野蛮な国だ。都市を消滅させるほどの純粋魔力兵器など、開発に百年はかかる。

  なら、あれは間違いなく魔法現象だ。

  それも、一人の魔術師が扱える規模ではない。大気中の魔力、地脈、ありとあらゆるエネルギーを一点に凝縮し、飽和させた結果の「崩壊」。

  前の周回で聞いたラジオのノイズが蘇る。『計画停電』。『魔力不足』。

  符号が一致しすぎている。何者かが、ソルシエ中の魔力を掃除機のように吸い上げ、爆発させたのだ。

  「……でも、おかしいのよ」

  アタシは爪先で床を苛立たしげに叩いた。

  魔力には流れがある。水が高いところから低いところへ流れるように、大量の魔力が動けば、それは奔流となって感知できるはずだ。

  特にアタシのような魔力体質なら、肌が粟立つような違和感を覚えるはずなのに。

  二日かけて、擬態魔法でネコネコ族の姿になり、鼻を利かせてソルシエの街を探し回った。路地裏、下水道の入り口、貴族街。

  けれど、成果はゼロ。

  不自然なほどに「凪」だった。それが逆に、不気味なほど完璧に隠蔽されている証拠にも思えた。

  「……クソッ」

  毒づきながら、アタシは脱ぎ捨ててあったドレスを手に取った。

  延々と飛び回ったせいで、裾が泥と煤で汚れている。

  明日の探索に備えて、清浄の魔法をかけようとした、その時だった。

  右のポケットが、不自然に垂れ下がっている。

  布地越しに触れる、ゴツゴツとした硬質な感触。

  小石? いや、もっと重く、冷たい。

  「……何?」

  指を突っ込む。

  ひんやりとした金属糸の感触が指紋を擦る。

  掴み出し、ランプの明かりにかざした瞬間、アタシの全身の血液が逆流した。

  黒色の刺繍。禍々しい意匠。

  『ゴール旗』。

  対象の魔力を666倍に増幅させ、強制的に暴走状態へと導く、最悪の呪物。

  「は……?」

  喉から、乾いた音が漏れた。

  手が震える。旗を持つ指先が、痙攣したように小刻みに揺れ、刺繍が明滅して見える。

  なんで。どうして、これがここにある?

  前の周回で、アタシは確かにこれを机の引き出しの最奥に放り込み、厳重に鍵をかけたはずだ。

  こんなものが手元にあれば、またろくでもない誤作動を起こしかねないからと、自ら封印したはずなのに。

  (アタシが……持ってきたの?)

  記憶をまさぐる。

  ループ直後の混乱。ミーティアの安否を確認するために飛び出したあの一瞬。

  アタシは無意識のうちに、引き出しを開け、これを掴んだというのか?

  心のどこかで、まだ復讐を望んでいる?

  この平和な寝顔を守りたいと思いながら、その裏で、世界ごと彼女を吹き飛ばすための引き金を、本能が求めていたとでもいうの?

  「ふざ、けるな……ッ!」

  吐き気がした。自分の業の深さに。

  制御できない破壊衝動が、自分の内側に巣食っている事実に。

  こんなもの、今すぐ捨てなければ。

  アタシは窓を開け、夜の闇に向かって腕を振りかぶった。

  けれど。

  「……っ、ぁ、れ?」

  指が開かない。

  まるで、見えない糸で神経を縫い止められたように、筋肉が硬直して動かない。

  捨ててはいけない。これは必要なものだ。

  そんな、アタシ自身の思考ではない何者かの意思が、脳髄に直接命令を書き込んでくるような感覚。

  (何よこれ……気持ち悪い……ッ!)

  脂汗が額を伝う。

  無理やり指をこじ開けようと左手を添えた時、ふと、旗の柄に刻まれた小さな傷が目に入った。

  その傷を見た瞬間、アタシの脳内で、バラバラだったパズルのピースが強引に噛み合わされた。

  そうだ。

  アタシはこれを、どこで手に入れた?

  前の世界線。復讐のために奔走していた日々。

  薄暗い地下。淀んだ空気。魔力の吹き溜まり。

  街の誰もが知覚できず、魔法警察ですら管轄外とする、ソルシエの盲点。

  

  「……あそこだ」

  戦慄と共に、正解が導き出される。

  なぜ魔力の流れが感知できなかったのか。なぜ、誰も気づかなかったのか。

  それは、最初から「流れて」などいなかったからだ。

  都市の地下深くに根を張り、静かに、誰にも気づかれずに腐敗し、膨れ上がっていたのだ。

  アタシは旗をポケットにねじ込むと、ミーティアのベッドへと駆け寄った。

  肩を掴み、眠る彼女を揺り起こす。

  「ミーティア、起きて! 分かったわ!」

  「ん、ぅ……ラミア、サン……?」

  「場所が分かったのよ。あの光の正体が、どこに潜んでいるのか!」

  寝ぼけ眼の彼女に、アタシは確信を持って告げた。

  明日の朝、全てが終わる。

  あるいは、始まる。

  アタシたちは、あの白い地獄の爆心地へと、自ら飛び込むことになるのだと。

  ……

  焦げたトーストの匂いが、鼻腔の奥に居座っていた。

  胃の腑に無理やり落とし込んだパンの塊が、鉛のように重く、逸る心臓を内側から圧迫している。

  「……もう。こんな切羽詰まった状況で、よく『しっかり噛んで食べまショー』なんて言えたものね」

  アタシは前髪を風に乱暴に掻き上げながら、背中に張り付いている小さな体温に向かって毒づいた。

  今朝の攻防は、思い出すだけで頭痛がする。

  一刻も早く、あの記憶にある場所へ飛び立とうとしたアタシの前に、エプロン姿のミーティアが仁王立ちで立ちはだかったのだ。

  『ダメデス! 腹が減っては戦はできまセン!』

  昨日の今日で、よくもまあそこまで図太い神経に戻れるものだ。

  けれど、その頑固さと、アタシの腰に回された腕の力強さは、彼女が昨夜の廃人同然の状態から、日常という足場を取り戻した証左でもあった。

  「ふふ、ごちそうさまでシタ。ラミアサン、耳までちゃんと食べて偉いデスよ」

  「子供扱いしないでちょうだい」

  眼下に広がる、ソルシエの街並み。

  朝霧に煙るその美しい都市が、あと二十四時間もしない内に白い閃光に呑み込まれて消滅する。

  そう考えると、箒を握る指関節が白くなるほど力がこもった。

  風切り音に混じって、脳内の引き出しが次々と開いていく。

  目的地は、記憶の底にある、あの一軒家。

  前の世界線。アタシがまだ「マジリシアを滅ぼす」という妄執に取り憑かれていた頃、不本意にも召喚された、あの狭苦しい部屋だ。

  (……思い出した)

  脳裏に蘇る、湿った空気の感触。

  そこにいたのは、冴えない魔獣の少年と、生意気な口を利く小柄な悪魔。

  当時のアタシにとって、彼らはただの邪魔者でしかなかった。研究を中断させられた怒りで、彼らとの会話など適当に受け答えしていた。

  けれど、アタシの目は、見ていたのだ。

  呪術師としての本能が、あの部屋に充満していた異常な魔力濃度に反応し、無意識に魔力視の魔法を発動させていた光景を。

  記憶の中の映像が、鮮明に再生される。

  あの生意気な悪魔の腹。

  ぽっこりと出た下腹部に備わった、縦に裂けた第三の目――『邪眼』。

  その不気味な瞳孔に向かって、空間の裂け目から無数の『根』が這い出し、突き刺さっていた。

  ドクン、ドクンと脈打ちながら、濃密な魔力を悪魔の体内へと強制的に送り込む、グロテスクなパイプライン。

  (あの時は、手に入れたロード魔法の性能に浮かれて見落としていたけれど……)

  今にして思えば、あれは異常だった。

  単なる使い魔のパス供給なんてものではない。

  都市を干上がらせるほどの勢いで、魔力を貪り食っていたのだ。

  あの『根』の先にあるのは、間違いなく、前の周回でアタシたちが辿り着いた、ソルシエ地下の大地脈。

  状況証拠は揃っている。犯人は彼らだ。

  確信と共に、奥歯を噛み締める。

  だが、同時に疑問が浮かぶ。

  あの悪魔――確か『でびるん』とか呼ばれていたふざけた個体に、それほどのキャパシティがあっただろうか?

  見た目はただのマスコット崩れ。魔王級の魔力を受け入れれば、器が耐えきれずに自壊するのがオチだ。

  それなのに、奴は自分の身体を保っていた。なぜか?

  答えは、アタシのポケットの中にあった。

  (ゴール旗……)

  あの部屋の床に転がっていた、黒の刺繍が入った旗。

  対象の魔力効率を666倍に跳ね上げる、禁忌の増幅器。

  あれが、あの『根』の吸引力を増幅させ、同時に悪魔の許容量を無理やり拡張させていたとしたら?

  パズルのピースが、嫌な音を立てて嵌っていく。

  あの部屋は、ただの召喚現場じゃない。

  この世界を終わらせるための、爆弾の起爆スイッチそのものだったのだ。

  「……見つけた」

  思考の海から浮上すると、眼下の住宅街の中に、見覚えのある屋根が見えてきた。

  まだ燃えていない、原形を留めたその家。

  アタシは箒の穂先を急角度で下げ、重力に逆らう内臓の浮遊感をねじ伏せながら、その一点へと急降下を開始した。

  迫りくるのは、ありふれた白壁と手入れされた芝生。

  前の世界線で、アタシが去り際に業火で灰に変えたはずの場所が、何食わぬ顔でそこに鎮座している。

  箒の柄を握る手に、じっとりと嫌な汗が滲んだ。

  魔力視のフィルターを通しても、家そのものから異常な魔力の集中は見て取れない。やはり、本体は地下深くにある地脈から直接吸い上げているのか。

  だとすれば、正面玄関からノックして「こんにちは、世界の敵さん」と挨拶する義理などない。

  「……このまま、家ごと消し炭にしてあげるのが一番安全かしら」

  杖の先端に、灼熱の赤が滲む。

  中にいるのが子供だろうが、関係ない。この街の、いや、マジリシア全土の生命を燃料にくべている元凶だ。慈悲をかける方が罪深い。

  アタシの指先が、杖に伸びかけた、その時。

  「ラミアサン! あそこ! あそこの路地裏、なんか変デス!」

  背中に張り付いたミーティアが、アタシの肩越しに指を突き出した。

  その指先が示すのは、家の裏手。日光の届かない、薄暗い路地の片隅。

  そこだけ、空間が陽炎のように揺らいでいる。

  熱による対流ではない。世界を構成する座標が、内側からの圧力で悲鳴を上げ、歪んでいるような病的な景色。

  「……なるほど。尻尾を出したわね」

  アタシは箒を急降下させた。

  風切り音と共に地面スレスレで制動をかけ、土埃と共に着地する。

  湿った苔と、生ゴミの臭い。

  そして何より、肌を刺すような濃密な魔力の奔流。

  目の前にあるのは、石畳を突き破って露出した、脈打つ濃い紫色の『根』の一部だった。

  周囲の魔力が、渦を巻いてその根に吸い込まれていく。

  ドクン、ドクン。まるで生き物のように収縮を繰り返し、都市の血液を貪っている。

  「気持ち悪い……。これが、街の魔力を食べてるんデスね」

  「ええ。元を断つわよ」

  アタシはミーティアを背に庇い、杖を構えた。

  家を爆撃するよりも、この露出したパイプラインに高火力の炎を叩き込み、逆流させてネットワークごと焼き払う方が確実だ。

  詠唱はいらない。純粋な熱量を、この醜悪な植物に流し込むだけ。

  杖の先に、太陽の欠片のような球体が収束する。

  パチリ。

  その瞬間だった。

  背筋に、湿ったナメクジが這いずり回るような、生理的な嫌悪感が走った。

  「――ッ!?」

  知っている。この感覚。

  誰かに見られている。それも、ただの視線ではない。

  水晶玉や鏡を通し、遠隔地から一方的にこちらを覗き込む、粘着質な監視の気配。

  あの少年と、悪魔だ。

  奴らが、アタシたちの侵入に気づいた。

  (まずい――!)

  本能が警鐘を鳴らす。

  攻撃の予備動作ではない。もっと根源的な、強制力の波動。

  足元の地面が、唐突に紫色の燐光を放った。

  「しまっ――」

  視界が回転する。

  重力が反転したかのように、アタシの身体だけが下へと強く引っ張られる。

  足元に展開されたのは、幾何学模様が複雑に絡み合う魔方陣。

  抵抗する間もない。これは、アタシの意思を無視して座標を強制転移させる、絶対的な契約の行使だ。

  「ラミアサン!」

  ミーティアが叫び、手を伸ばしてくる。

  アタシも反射的に手を伸ばした。

  指先が触れ合う。彼女の温かい掌が、アタシの手首を必死に掴む。

  爪が食い込むほどの強い力。

  「離しなさい! アンタまで巻き込まれるわよ!」

  「嫌デス! 絶対に離しまセ――!」

  だが、魔方陣の吸引力は、少女の細腕ごときが抗えるものではなかった。

  ズズズッ、と身体が沈んでいく。

  底なし沼に引きずり込まれるように、世界が紫に染まっていく。

  「っ、あ……」

  プツリ。

  指が、滑った。

  摩擦で皮膚が焼けつくような熱を残し、最後に縋っていた温もりが、無情にも引き剥がされる。

  「ミーティアッ!」

  視界が紫一色に塗りつぶされる直前、アタシが見たのは。

  誰もいない路地裏に一人取り残され、絶望に顔を歪めて虚空へ手を伸ばす、小さくて無力な「おトモダチ」の姿だった。

  [newpage]

  紫色の燐光が網膜に焼き付いたまま、視界が歪んで再構築される。

  重力の向きが正常に戻ると同時に、鼻を突いたのは、埃と古紙、そして乾燥した薬草が入り混じった独特の生活臭だった。

  アタシは床に描かれた幾何学模様の中心で、反射的に杖を構えていた。

  指先にはすでに致死性の炎魔法を装填済み。一瞬でも殺気を感じ取れば、この狭い空間ごと相手を消し飛ばすつもりで、アタシは周囲を睨みつけた。

  そこは、天井まで届く本棚に囲まれた、圧迫感のある部屋だった。

  背表紙の革が擦り切れた大量の魔導書、ガラス瓶に詰められた正体不明の乾燥物、真鍮製の天秤やフラスコが散乱する作業机。

  いかにも二流の魔術師が好みそうな、整理整頓という概念が欠落した工房。

  そして、魔方陣の外側。

  アタシを見下ろす位置に、その「一人と一匹」はいた。

  「…………は?」

  アタシの喉から、間の抜けた音が漏れた。

  杖を握る手に込めていた力が、行き場を失って空回りする。

  灰色のフードの中から茶色のボサボサ髪が覗く、どこにでもいそうな魔獣の少年。

  その隣に浮遊する、コウモリの羽を生やした灰色のぬいぐるみのような悪魔。

  アタシの記憶の底にある彼らは、確か、触れれば切れるような鋭利な殺気を全身から放っていたはずだ。一挙手一投足が命取りになるような、ヒリつくような緊張感の中で呪いを仕掛けた記憶がおぼろげにある。

  けれど、今目の前にいるのはどうだ。

  少年は、アタシを見て驚きに目を丸くしているだけで、その立ち姿には一片の警戒心もない。まるで路端の石ころでも見るような、あるいは珍しい昆虫を見つけた子供のような、拍子抜けするほど無防備な眼差し。その緊張感のなさは、あの能天気な「おトモダチ」と重なって見えて、ひどく苛立ちを誘う。

  隣の悪魔もそうだ。腕を組んで偉そうに顎を上げているが、そこにあるのは強者の威圧感ではなく、小物が必死に虚勢を張っているような滑稽さだけ。

  (……いや、違うわね)

  アタシは目を細め、眼球に魔力を集中させた。

  世界の色が褪せ、魔力の奔流だけが可視化される魔力視の世界へと切り替わる。

  「……うわ、気色悪っ」

  思わず本音が漏れた。

  その悪魔の腹。ぽっこりと出た下腹部に備わった、縦に裂けた第三の目――『邪眼』。

  その瞳孔に向かって、虚空から伸びた何十本もの太い紫色の『根』が、直接突き刺さっていたのだ。

  ドクン、ドクン。

  心臓の鼓動に合わせて、その根が脈打ち、膨大な量のマナを悪魔の体内へと強制的に流し込んでいる。

  まるで汚泥をすするヒルだ。

  悪魔はニヤニヤと笑みを浮かべているが、その額には脂汗がびっしりと浮かび、こめかみの血管が切れそうなほど浮き上がっている。

  浮遊する身体は、許容量を超えたエネルギーの充填に耐えきれず、熱に浮かされたように小刻みに痙攣していた。限界なのだ。嘲笑の仮面の下で、内側から破裂しそうな圧力を必死に抑え込んでいるのが見て取れる。

  そして、その元凶はすぐそこにあった。

  彼らの背後。散らかった机の上で、呼吸するように怪しい光を放つ、黒の刺繍が入った一本の旗。

  『ゴール旗』。

  この世界線のものだろうか。禍々しい輝きを放つその布切れが、あの醜悪な根の吸引力を極限まで増幅させ、この場を世界の終わりの爆心地へと変えようとしていた。

  杖の先をわずかに下げ、しかし切っ先は正確に悪魔の眉間を捉えたまま、アタシは乾いた唇を開いた。

  「……わざわざアタシを呼び出したのは、あそこから遠ざけるためかしら? アタシたちが『根』を焼き払おうとした、あのタイミングで」

  「……はっ、それもあるがな」

  宙に浮く悪魔――でびるん、と呼ばれていたか――は、不敵な笑みを浮かべながら、短い腕を組んでみせた。

  だが、その態度は虚勢に過ぎない。

  額から流れ落ちる脂汗が、床にポタポタと染みを作っている。呼吸は浅く、小刻みに震える身体は、今にも破裂しそうな風船のように膨張して見えた。

  「だが一番の理由は別だ。おみゃー、大分豊富な魔力を備えていそうだったから選んだんだよ。大人しく魔力をよこしやがれ」

  貪欲な瞳孔が、アタシの身体を舐めるように上下する。

  狂っている。

  魔力過多による酩酊状態か、それとも元々の知能が欠落しているのか。

  魔力視で見える彼の体内は、すでに飽和状態などとうに超え、臨界点ギリギリで悲鳴を上げている。これ以上、スプーン一杯のマナでも注ぎ込めば、器ごと消し飛ぶのは明白だ。

  「……アンタ、正気?」

  アタシは呆れを通り越し、背筋が寒くなるのを感じた。

  もし、あの白い閃光の原因がこいつだとしたら。

  計算された破壊工作や、崇高な思想によるテロリズムなどではない。ただの、食い意地のような欲望の暴走だというのか。

  「もうとっくに許容量を超えた魔力を蓄えて、何がしたいの? その気色悪い根で地脈ごと魔力を啜って、自爆でもする気?」

  「ほう、怠惰の根が見えるなんておみゃー、やるじゃねぇか」

  図星を突かれたはずなのに、悪魔はニヤリと口角を吊り上げた。

  賞賛された子供のように、得意げに胸を張り――その拍子に、腹部の『根』がビクンと脈打ち、さらなる魔力を吐き出す。

  「そりゃあもちろん、オレサマのすごさを知らしめるために魔力を集めまくるのだ! 世界中の魔力を全部オレサマのものにして、誰も逆らえないようにしてやるんだよ!」

  「……集めて、その後はどうするの?」

  アタシの問いかけに、部屋の空気が止まった。

  悪魔の動きも、止まった。

  泳ぐ視線。ひきつる頬。

  数秒の、重苦しい沈黙の後。悪魔はそっぽを向き、ボソリと呟いた。

  「……決まって、ない」

  カッ、と脳内で何かが焼き切れる音がした。

  血管という血管に、熱湯が駆け巡る。

  杖を握る指の関節が、ミシミシと音を立てて白く変色した。

  (決まってない、だと……?)

  ふざけるな。

  たったそれだけのことか。

  目的もない? ビジョンもない? ただ「集めたいから集めた」?

  そんな、幼児の悪戯のような動機のために。

  アタシの視界が赤く染まる。

  あの満天の星空が。

  ミーティアと焼いたクッキーの甘い香りが。

  「おトモダチ」と笑い合った、アタシの人生で初めての手に入れた「幸福な日常」が。

  こんな、くだらない、あまりにも馬鹿馬鹿しい理由で、理不尽に奪われたというのか。

  数億の命と、あの子の笑顔を天秤にかけた理由が、「決まってない」だと?

  「……ッ」

  歯ぎしりの音が、静寂を切り裂く。

  アタシはゆっくりと視線を動かした。

  その殺意の矛先は、悪魔の隣で、気まずそうに視線を逸らしている一人の少年へと向けられた。

  なぜ止めない。

  使い魔がこれほどの暴挙に出ているのに、なぜ飼い主であるお前が、ただ突っ立って見ている?

  その目は、事態の深刻さを理解していないのか、それとも共犯者として楽しんでいるのか。

  どちらにせよ、万死に値する。

  アタシの腹の底から、どす黒いマグマのような激情が噴き上がると同時に、その平凡な少年の瞳を射抜くように睨みつけた。

  だが、そこに映っていたのは怯えでも愉悦でもない。

  どこか遠く――この世界の理の外側を見つめるような、冷ややかな諦観だけが滲んでいた。

  「アンタ、ロード魔法を持ってるわよね?」

  その言葉を放った瞬間、部屋の空気が凍りついたように静止した。

  少年の肩がビクリと跳ねる。

  見開かれた瞳孔が、焦点の定まらない恐怖と驚愕で揺れ動き、アタシの顔に釘付けになる。

  無理もない。たかが一介の、それもヘビヘビ族の呪術師風情が、時を操る神の御業を知り得ているなど、彼の想定にはあるはずがないのだから。

  「……ッ、どうしてそれを」

  「とぼけても無駄よ。それなら、これから数時間後には世界がどうなるかも分かってるはず」

  アタシは畳み掛ける。

  あの純白の閃光。全てを無に帰すリセットボタン。

  それを知っていて、なおこの状況を放置しているのかと。

  少年は唇を強く噛み、視線を床に落とした。

  握りしめた拳が微かに震えている。

  「……それは、仕方ないんだ。僕は進めなければならない。考えられる可能性を全て見つけなければならないから」

  「……は?」

  耳を疑った。

  可能性、だと?

  その抽象的で、あまりに身勝手な探求のために、この世界を実験場のように使い潰すというのか。

  彼の言う「全てを見つける」という言葉の裏にある、途方もない屍の山を想像して、アタシの胃の腑が鉛のように重くなる。

  何度もやり直す。何度も滅ぼす。何度も、何度も。

  その果てしない試行回数の中に、アタシが初めて魔導書を手に入れたあの世界線も含まれていたのかもしれない。あのアタシの絶望も、復讐も、彼にとってはただの「失敗した可能性の一つ」として、ゴミ箱に捨てられたデータでしかないというのか。

  (……人のこと言えないじゃない、なんてね)

  ふと、冷ややかな理性がアタシの脳裏で囁く。

  お前も同じだ、と。

  自分の都合で世界を巻き戻し、都合の悪い記憶を消し去り、欲しい未来だけを貪ろうとした同類ではないか、と。

  「うるさいッ……!」

  アタシは脳内の声を怒鳴りつけ、無理やり黙らせた。

  知ったことか。

  アタシは聖人君子じゃない。世界を赦したわけでも、過去の憎しみを忘れたわけでもない。

  ただ、守りたいものができただけだ。

  あの温かいスープの味を、クッキーの甘い香りを、アタシの名前を呼ぶあのお節介な声を。

  それらを守るためなら、アタシは喜んでエゴイストになる。倫理も、正しさも、因果も、すべてドブに捨ててやる。

  「……アンタの言い分は分かった。けれど、アタシは認めない」

  アタシは杖を振り上げた。

  切っ先が、一人と一匹の眉間を正確に捉える。

  先端に嵌め込まれた紅蓮の宝玉が、主人の殺意に呼応して、低く唸るような音を立てて明滅を始めた。

  「今すぐ魔力回収をやめて解放しなさい。さもなければアンタごとこの場を焼き尽くすわ」

  本気だった。

  もし拒否すれば、次の心拍でこの部屋ごと蒸発させる。

  その覚悟の熱量が伝わったのか、少年は息を呑み、一歩後ずさった。

  けれど。

  「……悪いが、それはできない」

  彼の瞳から、怯えは消えていた。

  あるのは、頑固なまでに張り詰めた、悲壮な決意だけ。

  「はぁ? なんでおみゃーにそんなこと言われなきゃならねぇんだ? するわけねぇだろボケ」

  悪魔が鼻で笑い、嘲るように舌を出した。

  交渉決裂。

  彼らには彼らの、譲れないエゴがあるということだ。

  「……そう。残念だわ」

  アタシの指先が、最後のトリガーに触れた。

  杖の先端に宿った紅蓮の光が、埃っぽい部屋の空気を焦がし始めた。

  アタシの網膜には、すでに彼らが炭化し、崩れ落ちる未来図が焼き付いている。

  既に賽は振られた。この世界を救うためだ。多少の血が流れることなど、これまで何度も繰り返してきた「必要経費」に過ぎない。

  「灰になりなさい」

  冷徹な宣告と共に、魔力を解放しようとした、その刹那。

  脳裏のスクリーンに、場違いな映像がフラッシュバックした。

  ――ラミアサン!

  あの日だまりのような笑顔。

  アタシの胸で泣きじゃくっていた、震える背中。

  もし、アタシがここで彼らを焼き殺して、煤にまみれた手で戻ったら。あの子はまたアタシに向けて笑ってくれるだろうか。

  『ラミアサンは優しいデスね』。そう言ってくれた彼女の信頼を、アタシ自身の手で裏切ることになるのではないか。

  (……っ!)

  指先が、凍りついたように止まった。

  ほんのコンマ数秒。瞬きするほどの短い躊躇。

  かつてのアタシなら、鼻で笑って切り捨てていたはずの甘さが、致命的な隙を生んだ。

  「――[[rb:戒めの鎖よ、逃れ得ぬ因果の檻となれ> アルジ・ヴィンクル]]ッ!!」

  少年の鋭い詠唱が、アタシの思考を断ち切った。

  彼の手元から放たれた幾条もの光の鎖が、蛇のようにアタシの手首と足首に絡みつく。

  「なっ……!?」

  杖を取り落とす。カラン、と乾いた音が響くのと同時に、アタシの身体はバランスを失い、硬い床板へと叩きつけられた。

  受け身を取ることも許されない。見えない鎖が全身を締め上げ、筋肉の自由を奪う。

  肺の中の空気が強制的に吐き出され、視界がぐるりと反転した。

  「ぐ、ぅ……ッ! 卑怯よ、アンタたち……!」

  床に這いつくばったまま、アタシは首だけを持ち上げて彼らを睨みつけた。

  頬に触れる床の冷たさと、埃の味。

  見下ろされる屈辱に、全身の血が沸騰しそうだ。

  「はっ、なに隙見せてんだよ、バァーカ! おみゃー、さてはビビったな?」

  悪魔が空中で腹を抱え、下卑た笑い声を上げる。

  その嘲笑が鼓膜を突き刺す一方で、拘束魔法を行使した少年は、アタシと目を合わせようとはしなかった。

  杖を握りしめたまま、苦虫を噛み潰したような顔で、気まずそうに視線を床の隅へと逃がしている。

  「……ごめん。でも、今はこうするしかないんだ」

  その震える声が、アタシの神経をさらに逆撫でする。

  謝罪なんていらない。

  ただ、アタシの甘さが招いたこの無様な現状が、どうしようもなく腹立たしかった。

  「ぎゃはは……は……あ、れ?」

  下卑た嘲笑が、唐突に途切れた。

  空中に浮遊していた悪魔の身体が、不自然に降下し、作業机の縁にゴトリと音を立てて着地する。

  先ほどまで脂汗を浮かべ、熱に浮かされたように赤らんでいたその顔色が、見る見るうちに土気色へと変貌していく。

  「さ、む……い……?」

  カチ、カチカチ。

  小刻みに鳴る音は、悪魔の牙が震え合っている音だった。

  彼は自分の細い両腕を抱きしめ、信じられないものを見るような目で、自分の腹部を見下ろしている。

  「なん、だ……、魔力、が……持ってかれる……!?」

  異常事態。

  床に縫い留められたまま、アタシは反射的に眼球へ魔力を集約し、魔力視を発動させた。

  世界が再びモノクロームに沈み、魔力の流動だけが色彩を持って浮かび上がる。

  「……なっ!?」

  息を呑んだ。

  逆流している。

  先ほどまで、悪魔の腹にある『邪眼』へ向かって奔流のように流れ込んでいた紫色の光が、今は凄まじい勢いで「外」へと吸い出されていた。

  原因は、無数にある根のうちの、たった一本。

  その一本だけが、他の根とは比較にならないほど醜悪に膨れ上がり、ドクン、ドクンと血管が破裂しそうなほど激しく脈打ちながら、悪魔というタンクから燃料を根こそぎ奪い取っているのだ。

  (どうして? 根が意思を持って反旗を翻したとでもいうの?)

  あり得ない。あれはただの管だ。外部からの強制的な干渉がなければ、物理法則を無視して逆流などするはずがない。

  外部。

  この閉鎖空間の外。

  あの路地裏に、アタシが置いてきてしまった存在。

  「ミーティア……ッ!」

  嫌な予感が、背骨を氷の指でなぞるように駆け上がった。

  少年も異変に気づいたらしい。顔色を変えて机上の水晶玉に手をかざす。

  「くそっ、何が起きてるんだ……! 映れッ!」

  ノイズ混じりの映像が、水晶の表面に結ばれる。

  そこに映し出された光景を見た瞬間、アタシの心臓が早鐘を打った。

  薄暗い路地裏。

  そこに、あの小さな「おトモダチ」がいた。

  彼女は、地面から露出した『根』に、まるで親愛なる者に抱きつくようにしがみついていた。

  閉じた瞳。食いしばった歯。

  彼女の全身を包む淡い光が、根の中を流れる膨大な濁流を、必死に自分の小さな身体へと引き込もうとしている。

  「馬鹿な真似を……! 吸収魔法で、流れを止めようとしてるの……!?」

  無茶だ。自殺行為にも程がある。

  彼女の魔力タンクは確かに規格外かもしれない。けれど、その入り口は狭い。

  ストローでダムの放流を受け止めるようなものだ。あんなことをすれば、一瞬でキャパシティを超えて廃人になる。

  いや、そもそも――。

  (おかしいわ。あの子の出力じゃ、『根』の吸引力には勝てないはず)

  悪魔の強制徴収能力に割り込んで、逆に吸い上げるなんて芸当、大魔術師クラスでも不可能だ。

  何かが、彼女の「吸い込む力」を異常なまでに増幅させている?

  増幅。

  その単語が脳裏をよぎった瞬間、アタシの血の気が引いた。

  「まさか」

  拘束されたまま、アタシは身をよじり、背中側のポケットの感触を探った。

  ない。

  ゴツゴツとした、あの忌まわしい硬い感触が、消えている。

  (いつ? 召喚された衝撃で? それとも、あの子が手を掴んだ時に……?)

  視線を、再び水晶へと戻す。

  映像の中、ミーティアの足元。

  石畳の上に転がった一枚の旗が、禍々しい金色の光を撒き散らしていた。

  『ゴール旗』。

  対象の魔力効果を、666倍に増幅させる悪夢のブースター。

  それが今、悪魔のためではなく、ミーティアの「魔力を吸い込む」という行為そのものを、致命的なレベルまで加速させていた。

  水晶の中で明滅する金色の光。

  その不吉な輝きが脳裏のスイッチを押し、封印していた記憶の蓋を無理やりこじ開けた。

  前の世界線。

  地脈の暴走により、大地が悲鳴を上げ、炎と瓦礫が空を覆い尽くしたあの地獄絵図。

  だが、今目の前で起きようとしているのは、あんな生温かいものではない。

  あれは一都市のエネルギーだった。けれど今回は、マジリシア全土の魔力が、たった一人の少女という極小の器に、ありえない圧力でねじ込まれているのだ。

  (……耐えられるわけがない)

  質量を持った絶望が、胃の腑を氷点下まで冷やす。

  あの子の魔力タンクがどれほど規格外だろうと、物理的な限界がある。

  ダムの水を風船に注ぎ込めばどうなるか。

  破裂だ。

  それも、肉片が飛び散る程度の話ではない。世界そのものを道連れにする、あの純白の閃光。

  アタシたちが昨日、星空の下で見た「終わり」の正体は、これだったのだ。

  「も、ぅ……ダメ、だ……」

  カサリ、と乾いた音がした。

  空中で震えていた悪魔が、糸の切れた人形のように床へ落下する。

  その身体は萎びた果実のように縮み、先ほどまでの傲慢な覇気は微塵もない。

  根こそぎ吸い尽くされたのだ。魂の搾りカスになるまで。

  「な、なにこれ……! こんなの聞いてないよ!」

  少年が頭を抱え、水晶の前で狼狽する。

  想定外。計算外。そんな言葉で片付けられる事態ではないことに、彼も気づき始めている。

  「やめさせてッ! その水晶を通してあの子に命令しなさい! 今すぐ接続を切るのよ!!」

  アタシは床に頬を擦り付けたまま、喉が裂けよとばかりに絶叫した。

  拘束魔法の鎖が、暴れるアタシの皮膚に食い込み、ジリジリと肉を焼く。

  けれど、痛みなどどうでもいい。

  「だめだ……! この水晶は見るだけのものなんだ! 声なんて届かない!」

  「ッ……!!」

  アタシの叫びは、虚しく部屋の壁に吸い込まれるだけ。

  水晶の向こう側。ノイズ混じりの映像の中で、事態は臨界点を迎えようとしていた。

  路地裏のミーティアが、苦悶の表情で蹲る。

  彼女の小さな背中が、内側から溢れ出す光で透けて見えた。

  皮膚の下を駆け巡る魔力の奔流が、血管の一本一本を焼き切り、細胞を崩壊させていくのが分かる。

  「ミーティア! 手を離して! お願いだから手を離してぇッ!!」

  届かない。

  彼女は、離さない。

  いや、離せないのだ。暴走した『ゴール旗』の吸引力と、彼女自身の「みんなを守りたい」という強すぎる意志が、その手を根に縫い付けてしまっている。

  映像の中、蹲っていた彼女が、不意にガバッと顔を上げた。

  「――あ」

  アタシの呼吸が止まった。

  水晶越し。距離にして数百メートル。

  なのに、彼女の瞳が、真っ直ぐにアタシを射抜いた気がした。

  泣いているようにも、笑っているようにも見えた。

  口元が動き、音のない言葉を紡ぐ。

  『ラミアサン』と。

  それは、最期の別れの挨拶だったのか。それとも、助けを求める悲鳴だったのか。

  彼女は、何かを断ち切るように腕を大きく広げた。

  「やめ――」

  次の瞬間。

  彼女の喉から、音にならない絶叫が放たれた。

  それは声帯が震える音ではない。世界を構成する魔力のバランスが崩壊し、次元そのものが悲鳴を上げた音だった。

  「ミーティアぁぁぁぁぁぁッ!!」

  アタシの絶叫さえも置き去りにして。

  水晶の映像が、部屋の景色が、少年の驚愕顔が、そしてアタシ自身の意識さえも。

  絶対的な「白」が、等しく、無慈悲に飲み込んでいった。

  [newpage]

  瞼が、重い。

  鉛のように重く閉ざされたそれを、意思の力で無理やり押し上げる。

  いつもの朝なら、そこには見慣れた工房の天井があるはずだった。

  年季の入った木の節穴。舞い上がる埃を照らす、カーテンの隙間からの生ぬるい陽光。

  日常という名の、安っぽいけれど愛おしい景色。

  けれど。

  「……ッ」

  喉の奥で息が詰まる。

  眼前に広がっていたのは、底のない「黒」だった。

  無限に広がる黒いビロードの上に、無造作にばら撒かれた砕けたダイヤモンド。

  星だ。

  手が届きそうなほど鮮烈に、けれど絶対的に冷たく輝く、無数の光点だけが、アタシを見下ろしている。

  「……あ、れ?」

  声を出そうとした喉が、カサついた音を立てる。

  音が、響かない。吸い込まれるように消える。

  鼓膜を圧迫するような、完全なる静寂。真空の沈黙。

  つい数秒前まで、アタシの脳髄を直接揺さぶっていたはずの轟音――世界が割れる音、建物の崩壊音、少年の情けない悲鳴、そして何よりも、鼓膜に焼き付いて離れないミーティアの絶叫――その全てが、嘘のように消え失せている。

  身体が、奇妙に軽い。

  背中を預けるはずの床がない。

  手足が頼りなく虚空を掻く。重力という鎖から解き放たれたアタシの身体は、まるで水槽の中のクラゲのように、頼りなくその空間に漂っていた。

  ドレスの裾が、ふわりと広がり、無重力の海を泳いでいる。

  「嘘……でしょ……?」

  視線を、狂ったように巡らせる。

  ない。

  あの狭苦しい、古紙とカビの臭いがした部屋がない。

  窓の外に見えていたはずの、赤煉瓦の屋根がない。

  石畳の路地も、市場の喧騒も、魔法都市ソルシエの大地さえも。

  上も下もない。東も西もない。

  360度、どこを見渡しても、あるのは深淵のような宇宙だけ。

  慌てて首を振る。視界がブレるほどの勢いで。

  あの少年は? 干からびて床に転がっていた悪魔は?

  そして、何よりも。

  最後の瞬間まで、アタシを見つめていた、あの子は?

  いない。

  誰も、いない。

  ちかちかと瞬く星々の光だけが、ただ無機質にアタシを照らしている。

  広大すぎる虚無。

  その中心で、アタシだけが、傷一つない五体満足な姿で、ポツンと取り残されていた。

  虚空に投げ出された身体が、あてもなく回転する。

  上も下もない。重力という絶対的な座標を失った三半規管が、混乱のあまり悲鳴を上げているが、そんな生理的な不快感など、眼前に広がる光景の前ではチリに等しかった。

  「……ない」

  視界の端から端までを埋め尽くすのは、冷徹なまでに澄み渡った星の海だけ。

  つい数秒前まで、そこには大地があった。

  歴史ある石造りの街並みがあった。やかましい市場の喧騒があった。朝露に濡れた森があった。

  そして何より、アタシが、アタシたちが生きていた「マジリシア」という名の世界があったはずなのだ。

  けれど、今は塵ひとつない。

  あの超新星のごとき閃光は、破壊という生温かいものではなく、存在そのものの「消去」だったのだと、アタシの脳裏に焼き付いた残像が告げていた。

  自分の手を見る。

  白く、滑らかな肌。爪の先一つ欠けていない。

  ドレスの裾は優雅に宇宙空間を漂い、焦げ跡ひとつついていない。

  息ができる。

  本来なら真空と極寒で即死するはずのこの場所で、肺は確かに酸素を取り込み、心臓は規則正しく脈打っている。

  まるで、誰かが用意した「特等席」だ。

  安全圏から世界の終わりを高みの見物をするための、悪趣味極まりないVIPシート。

  「……あ、は」

  口元が引きつり、乾いた笑いの形を作る。

  叶ったのだ。

  かつてのアタシが、親の愛に飢え、世界を呪い、毎晩のようにベッドの中で神に願っていた夢。

  『こんな世界なんて、滅んでしまえばいい』。

  おめでとう、ラミア。アンタの悲願は成就したわ。それも、アンタだけは無傷で生き残るという、これ以上ないほど贅沢なオプション付きで。

  「……ふざ、けるな……ッ!」

  笑みが、瞬時に憎悪へと凍りつく。

  違う。

  今のアタシが望んだのは、こんな結末じゃない。

  欲しかったのは、滅びの美学でも、復讐の快感でもない。

  ただ、あの小さな家で焼くクッキーの香りだけだった。

  隣で「ラミアサン」と笑う、あのお節介で、非力で、愛おしい「おトモダチ」の体温だけだった。

  「ミーティア……ッ! どこなの、ミーティア!!」

  喉が裂けるほどの勢いで、名前を叫んだ。

  けれど、音がない。

  声帯は激しく震え、空気の塊を吐き出したはずなのに、鼓膜に届くのは自分の血流の音だけ。

  真空は音を運ばない。

  アタシの絶叫は、口から出た瞬間に死に絶え、誰にも届くことなく虚無へと霧散していく。

  「嫌よ……いや、あ、あああ゛あ゛あぁぁぁぁぁッ!!」

  喉が裂ける感触があった。

  鉄の味が口内に広がる。けれど、その痛みさえもアタシには救いにならない。

  狂乱した獣のように、手足を無様にばたつかせた。

  ドレスの裾が幽霊のようにまとわりつくのを乱暴に引き剥がし、ありもしない「何か」を求めて、爪を立てて虚空を掻きむしる。

  重さがない。

  抵抗がない。

  握りしめた拳の中にあるのは、絶対的な「無」だけ。

  指の関節が白く変色するほど強く握り込んでも、爪が自分の掌に食い込み、赤い血が滲むだけ。

  「嘘よ! どこに隠したのよ! 出てきなさいよぉぉッ!」

  眼球が乾くのも忘れて見開く。

  黒。黒。黒。

  あの生意気な少年の呆け顔も、小憎らしい悪魔の嘲笑も。

  そして何より、アタシに向けて伸ばされた、あの小さな手も。

  宇宙の塵ひとつ、原子のカケラひとつ残さず、綺麗さっぱりと消去されている。

  「返してよ……! 返しなさいよぉぉッ!! アタシの、アタシの友達を返せぇぇぇッ!!」

  杖を、デタラメに振り回した。

  詠唱などない。構築などない。ただ体内で暴れまわる魔力を、嘔吐するように撒き散らす。

  紅蓮の炎が、極光の雷が、絶対零度の氷が、真空の闇に極彩色のアートを描く。

  だが、それはあまりにも虚しい花火だった。

  焼くべき対象も、凍らせるべき敵もいない。放たれた魔法は、誰にも当たらず、何の音も立てず、ただ永遠に広がる暗黒の彼方へと吸い込まれて消えていく。

  手応えのない暴力。

  行き場を失った激情が、内側で渦を巻き、ラミアの精神をズタズタに引き裂いていく。

  「はぁ、っ、あ、ぐぅ……ッ!」

  過呼吸が、肺を痙攣させる。

  涙が溢れ出した。

  けれど、ここは無重力だ。涙は頬を伝って落ちてはくれない。

  大きな水の膜となって両目を覆い、視界を歪ませ、ただでさえ遠い星々の光を、残酷なほど美しく滲ませる。

  鼻水とよだれで顔をぐしゃぐしゃにし、淑女の面影など微塵もなく。

  「ミーティア……ミーティアあああぁぁぁッ!!」

  アタシは、世界で一番安全で、世界で一番残酷な棺桶の中で、たった一人。

  胎児のように身体を丸め、音のない世界に向かって、もう二度と戻らない名前を繰り返し叫び続けていた。

  ……

  どれだけの時間、そうしていただろうか。

  喉が張り裂けそうなほどの絶叫も、やがて空気を失った肺が痙攣するだけの浅い呼吸へと変わっていった。

  暴れ疲れた四肢が、糸の切れた人形のように宇宙の闇に漂う。

  視界を覆っていた涙の膜の向こう側、漆黒のキャンバスに、一冊の本が頼りなく回転していた。

  真紅の表紙。黒の装飾。

  全ての始まりであり、全ての終わりの記録。

  手を伸ばす。

  重力のないこの場所で、それは羽毛よりも軽いはずだった。

  けれど、指先が革の表紙に触れた瞬間、惑星そのものを持ち上げたような錯覚に襲われた。

  ずしりと、魂に食い込むような質量。

  (……これさえなければ)

  指が震える。

  この魔導書さえなければ、アタシはただの孤独な呪術師として、あの工房で腐っていくだけだったかもしれない。

  こんな身を焼くような絶望も、心臓を抉り取られるような喪失感も、知らずに済んだかもしれない。

  (……いいえ、違うわ)

  唇を噛み締め、鉄の味と共にその思考を否定する。

  道具のせいにするな。運命のせいにするな。

  歪んでいたのは、アタシ自身だ。

  誰からも愛されず、誰も愛さず、ただ世界を呪うことでしか自己を保てなかった、アタシという魔獣の欠陥。

  その歪んだ根っこを正そうともせず、あの子の優しさに甘え、聖人のフリをして日常を貪っていたツケが、今回ってきただけだ。

  「アタシが……災厄なのよ」

  音のない空間で、唇だけが動く。

  アタシがいる限り、ミーティアは幸せになれない。

  アタシの業火が、アタシの呪いが、あの日だまりのような場所を焼き尽くしてしまう。

  なら、答えは一つだ。

  終わらせなければならない。

  この不毛な繰り返しも。この身勝手な復讐劇も。

  そして何より、ラミアという名の、歩く災害を。

  「……ッ」

  魔導書を掴む指に、力が戻る。

  もう二度と、あの子を巻き込まない。

  あの子を脅かす全ての元凶――あの地下の根も、悪魔も、何もかもを焼き尽くして。

  最後には、アタシ自身を断頭台へ送る。

  それが、唯一残された贖罪。

  震える手で、ページをめくる。

  真空の中で、羊皮紙が音もなく開かれる。

  そこに記された文字列は、世界を滅ぼす呪文でありながら、あの子をもう一度だけ蘇らせる祈りの言葉でもあった。

  「は、はは……」

  喉の奥から、乾いた音が漏れた。

  皮肉だわ。本当に。

  アタシを地獄に突き落としたこの悪魔の書が、今の私に残された、最後の希望だなんて。

  視界が滲む。

  けれど、もう迷わない。

  アタシは、あの時間へ還る。

  あの子が生きて、笑っている、あの場所へ。

  そして、永遠にさよならをするために。

  「――[[rb:停滞せし因果を呼び戻し、刻まれし刹那を現在へと再臨させよ > ロード・オブ・クロノスタシス]]」

  [newpage]

  [chapter:6. 贖罪の探求]

  薄青い朝の光が、網膜を刺した。

  瞬きを一度。

  木の節穴だらけの天井。舞い上がる埃。古紙とインクの匂い。

  つい数秒前まで漂っていた虚無の宇宙は消え失せ、日常という名の舞台セットが、何食わぬ顔で再構築されている。

  身体を起こす。

  シーツを握りしめることも、過呼吸に陥ることもない。

  アタシの心臓は、凍りついた湖面のように静まり返っていた。

  迷いは、ない。

  枕元に立てかけてあった愛用の杖を、無造作に掴む。その滑らかな木の感触だけが、今の掌に残された唯一の現実だった。

  玄関の扉を開け放つと、まだ冷たい早朝の空気が頬を撫でた。

  浮遊魔法を発動させる。

  重力という鎖を断ち切り、石畳を蹴って空へと滑り出す。

  眼下に広がる森と街並み。

  アタシの首筋にある筋肉が、反射的に右の方角――あの赤い屋根の小さな家へと向こうとして、軋んだ。

  けれど、アタシはそれを鉄の意思でねじ伏せた。

  視線は真っ直ぐ前へ。瞬き一つせず、目的地であるソルシエの住宅街だけを凝視する。

  見てはいけない。

  あの日だまりのような場所を一目でも見てしまえば、この身を焼く決意が揺らぐ。アタシという災厄が、またあの笑顔に触れたくなってしまう。

  だから、もう一瞥もくれない。それが、アタシにできる最初で最後の「守る」という行為だ。

  風を切り裂き、目的の路地裏へと降下する。

  湿った石畳と苔の匂い。

  そして、空間を歪ませるほどの、吐き気を催す魔力の澱み。

  あった。

  地面から露出した、脈打つ醜悪な紫色の『根』。

  アタシは音もなく着地し、杖の切っ先をその根に突きつけた。

  躊躇はない。詠唱もいらない。

  ただ、腹の底でドロドロに煮えたぎる怨嗟を、魔力という形に変換して流し込むだけだ。

  「……あの子を二度も殺した罪、その魂で償いなさい」

  杖の先から放たれたのは、爆発的な炎ではない。

  血管に水銀を流し込むような、粘着質で高密度の熱量。

  ジジジ、と根の表面が焼け焦げる音がする。

  アタシは指先から伝わる魔力の感触を通じて、地下深くに張り巡らされた根のネットワーク全体を把握していた。

  まるで導火線だ。

  アタシが送り込んだ呪いのような熱は、根の内部を侵食しながら走り抜け、その終着点にいる「本体」へと殺到する。

  ターゲットは、あの傲慢な悪魔の腹にある『邪眼』。

  あそこが全ての入り口であり、急所だ。

  一気に爆発させてはいけない。それでは楽に死なせてしまう。

  真綿で首を締めるように、じっくりと、執拗に。

  取り込んだ魔力を逆流させ、あの気色悪い眼球の神経一本一本を丁寧に焼き尽くし、二度と開かないように炭化させる。

  アタシの脳裏に、あの悪魔が「目的はない」と嘲笑った顔が浮かぶ。

  ふざけるな。

  そんな戯れ言のために、アタシたちの世界は奪われたのか。

  許さない。絶対に許さない。

  消えない炎をその身に抱えて、永遠にのたうち回ればいい。

  ズズズ……と、地面の底から低い振動が伝わってくる。

  遠く――あの少年の家の方向から、何かが引き裂かれるような、絶叫とも悲鳴ともつかない音が微かに風に乗って届いた気がした。

  断末魔にも似た、魂を削り取るような響き。

  「……あら、空耳かしら」

  アタシは無表情のまま、さらに魔力の出力を上げた。

  飼い主の少年がいれば、死にはしないだろう。

  死なせない。生かしたまま、地獄を見てもらう。

  根が完全に灰になり、地下からの魔力供給が断たれた感触が手に伝わるまで、アタシは冷徹な作業機械のように、ただひたすらに熱を注ぎ続けた。

  ……

  掌に残る熱の余韻を確かめるように、杖を強く握り直す。

  足元の『根』はもはや黒い炭の塊と化し、風にさらわれて崩れ去っていた。

  けれど、ふと鼻をひくっとさせると、焦げ臭い風が路地裏を吹き抜けていくのがわかった。

  視線を上げれば、住宅街のあちこちから、黒く細い煙が立ち上り始めている。

  地下を走る熱流が、地上の可燃物に引火したのだろう。

  ゴミ集積所のネットが溶け、庭木の枯れ葉がパチパチと乾いた音を立てて爆ぜている。

  「……あら、大変。ちょっとやり過ぎてしまったかしら」

  口元に手を当て、わざとらしいほど白々しい声を漏らす。

  でも、これでいい。煙が高く昇れば昇るほど、正義の味方たちは早く駆けつけてくれるはずだから。

  ボヤ程度でいい。

  人が死なない、けれど無視できない程度の騒ぎ。

  それが、あの正義面をした魔法警察という名のハイエナたちを呼び寄せる、最高の撒き餌になる。

  自首なんて生ぬるいことはしない。

  凶悪な放火魔として暴れ、鎮圧という名目で、公的に、物理的に、この身を消滅させてもらう。

  そうでもしなければ、アタシという業の塊は浄化されない。

  「さあ、踊りましょうか」

  ドレスの裾を翻し、アタシは地面の上を軽やかにステップした。

  まるで舞踏会のフロアを行くように。あるいは、死出の旅路を飾る花道を行くように。

  カツ、カツ、とヒールのように石畳を叩く音が、爆ぜる火の粉の音とリズムを刻む。

  杖を指揮棒のように優雅に振るう。

  指先から放たれるのは、普段なら敵を骨まで焼き尽くす殺戮の炎。

  けれど今は、それを極限まで絞り込み、繊細な筆致で街を彩っていく。

  路地のポリバケツに小さな火種を。

  石造りの塀に煤の落書きを。

  誰もいない物置小屋の屋根を、少しだけ派手に焦がして、視覚的な恐怖を演出する。

  「……難しいものね、手加減というのは」

  額にうっすらと汗が滲む。

  全力を叩きつける破壊の方がよほど楽だ。

  殺さず、壊しすぎず、それでいて「こいつは危険だ」と認識させる。

  まるで薄氷の上でタップダンスを踊るような、張り詰めた緊張感が指先を痺れさせる。

  けれど、アタシの杖捌きは洗練されていた。

  宙に描かれる炎の軌跡は、暴力的な破壊の跡ではなく、芸術的な曲線のよう。

  チロチロと燃え広がる赤とオレンジの舌が、朝の静寂を食い破り、パニックという名の熱狂を煽り立てていく。

  これなら、すぐに飛んでくるはずだ。

  アタシがよく知る、あの血の気の多い大物が。

  アタシは炎の赤に染まった視界の中で、自らを断罪する執行人の到着を、恋い焦がれるように待ちわびていた。

  ……

  オレンジ色の光が住宅街を舐め回し、黒煙が空を汚し始めた頃、待ち焦がれていた音が響いた。

  けたたましい警笛の音。

  悲鳴を上げて逃げ惑う住民たちの波をかき分け、現れたのは紺色の制服を着た集団だった。

  魔法警察。

  彼らの靴音が地面を叩き、怒声と共に杖が一斉にこちらへ向けられる。

  「そこまでだ、凶悪犯ッ!」

  「抵抗をやめろ! 直ちに拘束する!」

  その視線には、明らかな敵意と殺気が宿っている。

  アタシは口角を吊り上げ、わざとらしく杖を振ってみせた。

  さあ、来なさい。アタシを悪と断じ、その手で終わらせて頂戴。

  「[[rb:紫電の鎖よ、賊を穿て > カテナフラ・スタグン]]!」

  「[[rb:捕縛の銀縄 > アルジ・カプトゥラ]]!」

  数条の光が、アタシの四肢を狙って放たれる。

  紫色の電撃と、銀色に輝く捕縛用のロープ。

  けれど、アタシにとってはあまりにも遅く、脆い。

  杖を軽く振るだけで、展開した透明な障壁がそれらを弾き返し、花火のように虚しく散らす。

  「……あら、そんなもの? これじゃあ、アタシを捕まえることすらできないわよ」

  挑発的に言い放つ。

  違う。こんな雑魚の手で、手錠をかけられて終わるなんて御免だ。

  アタシが求めているのは、もっと圧倒的な暴力。

  この身を灰も残さず消し飛ばしてくれる、絶対的な火力が欲しいのよ。

  すると、警官たちの人垣が割れた。

  その奥から、重厚な足音が響いてくる。

  周囲の空気が、ピリリと張り詰めるのがわかった。

  現れたのは、ピンと立った三角形の獣耳を持つ、鋭い目つきの男。濃紺のマントを羽織り、その全身からは隠しきれない殺気が湯気のように立ち昇っている。

  ドーベル警部。

  かつてアタシが世界を滅ぼそうとした際に立ちはだかった、因縁の相手。

  彼なら、やってくれる。

  「……貴様か。この騒ぎを起こしたのは」

  低い唸り声と共に、彼はマントを翻した。

  その裏地が見えた瞬間、アタシの肌が粟立った。

  赤、青、緑、黄。

  数え切れないほどの高純度魔石が、複雑な幾何学模様を描いて縫い付けられている。

  それらが一斉に脈打ち、禍々しいほどの光を放ち始めた。

  ブォンッ、と空気が震える。

  マントの魔石が共鳴し、彼の魔力回路を強制的に拡張させていく。

  十重に展開された魔法陣が、唸りを上げて大気を振動させ、視界を埋め尽くすほどの巨大な砲口へと変貌していく。

  極大のエネルギーが収束し、周囲の空間が悲鳴を上げている。

  これだ。この圧倒的な破壊の光こそ、アタシが最後に浴びるべきスポットライトだ。

  アタシはゆっくりと、右手の中にある相棒へと視線を落とした。

  古びた樫の木でできた杖。その先端に埋め込まれた真紅の宝玉が、主人の危機を察知して、ギョロりと瞳孔を開いている。

  いつもなら、獲物を見つけて歓喜に震えるはずのその単眼が、今は不安げに小刻みに揺れ、アタシの顔を覗き込んでいた。

  「……ごめんね」

  指の腹で、その滑らかな木の表面を愛おしむように撫でる。

  この杖だけは、アタシがどんなに狂っても、どんなに堕ちても、文句ひとつ言わずに力を貸してくれた。

  アタシの暴走する魔力を吸い上げ、破壊へと変換し、共に罪を重ねてくれた共犯者。

  「いつも魔力ばかり求めて世話が焼けたけど……ずっと側で一緒に戦ってくれて、ありがとう」

  感謝の言葉を紡ぐと、宝玉の瞳が信じられないものを見たと言わんばかりに見開かれ、激しく瞬きを繰り返した。

  アタシが「ありがとう」なんて言うはずがないと、そう言いたげに。

  ふ、と指の力を抜く。

  カラン、コロン。

  乾いた音が、乾いた地面の上に虚しく響いた。

  主人の手から離れた杖が、地面に転がる。

  その瞬間、アタシの周囲を包んでいた不可視の障壁――防御魔法が、ガラス細工のように音もなく砕け散った。

  生ぬるい風が、無防備な身体を直接叩く。

  煤と焦げ臭さが混じった空気が、肺の奥まで入り込む。

  

  完全に丸腰。

  煤と泥で汚れ、かつての高級な光沢を失ったドレス。

  けれど今のアタシには、このボロボロの衣装こそが相応しい死に装束に思えた。

  「なっ……!?」

  目前で、ドーベル警部の殺気が揺らいだのがわかった。

  彼は眉間の皺を深く刻み、発射寸前だった魔法の照準をわずかに迷わせる。

  抵抗を止めた相手を撃つことへの、生理的な躊躇。

  甘いわね、警部さん。

  でも、その甘さがアタシの狙い通り。

  アタシは口角を吊り上げ、頬の筋肉を総動員して、精一杯の「笑顔」を作った。

  鏡の前で何度も練習してきた、淑女としての完璧な微笑み。

  けれど今のそれは、これから人殺しになる男へ贈る、最高に意地が悪くて、最高に惨めな呪いの仮面だ。

  「さあ、撃ちなさいよ。……せめてこの気色悪い笑顔が、アンタの心の中に残り続けてくれるように願っているわ」

  皮肉を込めて、目を細める。

  さようなら、世界。

  さようなら、ミーティア。

  これでやっと、アタシはアタシを許せる気がする。

  まぶたの裏に、あの日の星空を焼き付けながら、終わりの光を待ち受けた。

  その時だった。

  「――ダメデーースッ!!」

  視界の端から、ピンク色の小さな弾丸が飛び込んできた。

  アタシと、巨大な魔法陣の間。

  絶対に割り込んではいけないその射線上に、小さな影が仁王立ちになる。

  ふわふわとした毛並み。必死に広げた両手。

  アタシが何よりも守りたかった、あの「おトモダチ」が、そこにいた。

  ……

  [Side: ミーティア]

  意識の底。重力も時間も溶け出したような、灰色の泥沼の中で、ミーだけが必死に手足をばたつかせていまシタ。

  指先が触れるのは冷たい虚無だけ。喉から出るのは言葉にならない空気の塊だけデス。

  それでも、魂に焼き付いたたった一つの願いが、壊れたレコードのように脳裏で繰り返されまシタ。

  (ラミアサン……一人にしちゃ、ダメ……。置いてかないで……ラミアサン……ッ!)

  あんなに悲しそうな顔をしていたヒトを、たった一人で暗闇に行かせたらダメデス。

  ミーは、見えない水流に逆らうように、感覚のない腕を前へ、前へと突き出しまシタ。

  何かを掴まなければ。彼女と繋がる何かを。このまま流されてしまえば、二度と会えない気がしまシタ。

  ガシッ。

  不意に、掌に硬く、それでいて布のような感触が飛び込んできまシタ。

  絶対離しまセン。爪が食い込むほど強く握りしめたその瞬間、強烈な引力がへその奥を引っ張り、意識が浮上しまシタ。

  「――ッ、はぁッ!?」

  肺が大きく膨らみ、酸素を貪る音で目が覚めまシタ。

  飛び起きた拍子に、背中の毛が逆立ちマス。

  心臓が早鐘を打ち、全身から冷や汗が噴き出していまシタ。

  視界がぐらりと揺れマス。

  目の前には、見慣れた天井から吊るされた、ブリキ細工の星のモビール。

  微かな隙間風を受けて、チリン、と小さな音を立てて回っていマス。

  朝日が差し込む、いつものミーの部屋デス。

  「……夢……?」

  自分の頬をぺたぺたと触りマス。温かい。柔らかいデス。

  けれど、右手だけが違和感を訴えていまシタ。

  何かを強く、痛いくらいに握りしめていマス。

  恐る恐る視線を落とすと、そこには黒の刺繍が施された禍々しい布――『ゴール旗』がありまシタ。

  棒の部分を両手で強く握りしめたまま、ミーはそれを布団の上に持ち込んでいたのデス。

  (なんで、これがここに……?)

  混乱する頭の奥で、数秒前の記憶がフラッシュバックしマス。

  路地裏の湿った空気。石畳の冷たさ。

  そして、身体の内側から風船のように膨れ上がり、細胞の一つ一つを焼き尽くしていった、あの許容量を超えた魔力の奔流デス。

  「……っ」

  反射的に胸を押さえまシタ。

  痛みはありまセン。けれど、あの時感じた「破裂する」という恐怖の記憶が、幻痛となって指先を震わせマス。

  視界が真っ白に染まり、自分の輪郭が溶けていく感覚。

  あれは夢じゃありまセン。ミーは確かに、あの場所で消滅したはずデス。

  唇を噛み締めマス。

  役に、立てませんでシタ。

  必死でシタ。ラミアさんが魔方陣の向こうへ消えてしまった後、残されたミーにできることは、あの暴走する根っこをどうにかすることだけでシタ。

  身体が悲鳴を上げても、血管が切れそうになっても、歯を食いしばって耐えまシタ。

  けれど、ダメでシタ。

  ミーの小さな器では、世界を飲み込むほどの濁流を受け止めることはできず、あえなく決壊しまシタ。

  (ラミアサンも……きっと……)

  あの白い閃光。

  あれに巻き込まれて、無事でいられるはずがありまセン。

  ミーが弱かったせいで。ミーがもっと強ければ、彼女を助けられたかもしれないのに。

  胸の奥が、お腹を壊した痛みとは違う、もっと鋭く重い鉛を飲み込んだような苦しさで軋みまシタ。

  ただ、消滅したはずのミーがこうして呼吸をしていマス。心臓が動いていマス。

  その事実は、たったひとつの答えを指し示していマス。

  ラミアサンが、『時』を戻してくれたのデス。

  あんな結末、彼女が許すはずがありまセン。

  きっと、ミーたちが消える直前、あの魔導書を開いたに違いありまセン。

  だとしたら、やるべきことはひとつデス。今度こそ、あの地面の下に蠢く『根』を取り除かなければなりまセン。

  けれど、ベッドから降りようとした足が、ピタリと止まりまシタ。

  嫌な汗が、背筋をツーっと伝いマス。

  尻尾の毛が、静電気を帯びたみたいに逆立って収まりまセン。

  (……おかしいデス)

  ラミアさんは、あの時、根の暴走に気づいていまシタ。

  そして、ミーを巻き込まないように、自分一人で全てを背負おうとしていたように見えまシタ。

  もし、あれだけ必死に奔走しても、マジリシアの滅亡を防げなかったとしたら。

  責任感が強くて、いつも自分に厳しいあの人のことデス。

  

  ――もう、誰にも頼らないかもしれまセン。

  ――自分一人で、思い詰めて、誰も届かない場所へ『先』に行ってしまうのではないデショーか。

  言葉にできない、泥のように重くて暗い予感が収まりまセン。

  居ても立ってもいられなくなり、ミーは慌ててローブを羽織りまシタ。ボタンを掛け違えても気にしまセン。

  そして、無意識に握りしめていた『ゴール旗』を、もう一度強く握り直しマス。

  ゴツゴツとした柄の感触。刺繍が放つ、少しだけ怖い魔力の気配。

  最後の記憶の底で、ラミアさんのポケットから零れ落ちたこの旗。

  ラミアさんは言っていまシタ。「対象の効果を大幅に強める魔法器具」だと。

  (ミーは弱くて、あの時なにもできまセンでシタ)

  自分一人で駆けつけたところで、また足手まといになるだけかもしれまセン。

  でも、これが手元にあるということは、何か意味があるはずデス。

  この旗の力が、ミーの足りない力を埋めてくれるかもしれない。

  根拠なんてありまセン。でも、そう信じなければ、震える足が前へ進まないのデス。

  ミーは玄関のドアを蹴破る勢いで開け、朝の冷気の中へと飛び出し、ラミアさんの気配がする方角へと駆け出しまシタ。

  ……

  息を切らして角を曲がると、朝の澄んだ空気を濁すような、黒い筋が幾本も空に立ち上っていまシタ。

  煙デス。

  それも一箇所だけではありまセン。あの不気味な根が生えていた住宅街の方角を中心に、あちこちから不穏な灰色の雲が発生していマス。

  「……炎?」

  鼻をひくつかせると、焦げ臭い匂いに混じって、特有の魔力の残滓を感じ取りまシタ。

  鋭利で、熱くて、どこか哀しい炎の匂い。

  間違いありまセン。ラミアサンの魔法デス。

  でも、どうして?

  あの人は、口は悪いデスけど、無関係な住民を巻き込んで家を燃やすような真似をするようなヒトじゃありまセン。

  こんなあからさまな騒ぎを起こすなんて。

  走りながら、ミーの脳内でパズルのピースがカチリと音を立てて組み合わさり、最悪の絵柄を描き出しマス。

  わざと目立つように。

  住民を逃がす猶予を与えながら。

  けれど、確実に「凶悪な放火魔」として認知されるように。

  (まさか……魔法警察を……)

  心臓がキュッと縮みまシタ。

  おびき出して、どうするつもりなんデスか?

  まさか、自分自身を……裁かせようとしているんじゃ……。

  信じたくありまセン。

  でも、今までラミアさんから聞いた、彼女の過去の話が頭をよぎりマス。

  歪んだ教育。誰からも愛されなかった幼少期。世界を憎むしかなかった孤独な日々。

  そして何より、たった一人で時間を巻き戻し続け、誰にも理解されないまま罪を重ねてきた、あの重苦しい魔導書の物語。

  彼女は何度も言っていまシタ。

  「アタシはろくでなしだわ」と。

  「いつか報いを受けるべきなのよ」と。

  もし、今回の件で、彼女が自分のことを「償いきれない罪を抱えた災厄」だと思い込んでしまったとしたら。

  自分こそが、この世界にとって最も不要な存在だと思い詰めてしまったとしたら。

  「……ッ、そんなの」

  涙が風に飛ばされマス。

  ミーは、ラミアさんのことが大好きデス。

  一緒にクッキーを焼いてくれた時の、少し照れたような顔。

  魔法を教えてくれる時の、厳しくも真剣な眼差し。

  もし彼女がいなくなってしまったら、ミーの心は壊れてしまいマス。耐えられまセン。

  そしてきっと、ラミアさんも同じだったはずデス。

  ミーを守れなかった自分を責めて。ミーを失う痛みに耐えきれなくて。

  だからこそ、こんな極端で、悲しい結論を選んでしまったに違いありまセン。

  「待ってくだサイ……お願いだから、早まらないで……ッ!」

  ミーは肺が焼けつくような痛みを無視して、煙の源へと足を速めまシタ。

  ……

  息が切れて、喉の奥から鉄の味がしまシタ。

  心臓が早鐘を打つ音と、周囲の喧騒がごちゃ混ぜになって、鼓膜をガンガンと叩きマス。

  辿り着いた先は、地獄の入り口のようでシタ。

  野次馬を押し留めるように展開した、紺色の制服を着た魔法警察の分厚い壁。

  その頭上、黒煙を切り裂いて、天を焦がすような紅蓮の火柱が立ち昇っていまシタ。

  肌を焼く熱波と一緒に、見覚えのある魔力の波動がビリビリと伝わってきマス。

  「ラミア、サン……ッ!」

  名前を呼びながら、ミーは警察官たちの足元へ身体を投げ出しまシタ。

  大人の男たちの隙間。盾と盾の継ぎ目。

  ミーの柔軟さと、小柄な体格を武器に、泥と煤にまみれながら無理やり奥へとねじ込みマス。

  「こらっ! 子供が入るんじゃない!」

  「戻れ! 危険だぞ!」

  頭上から怒号が降ってきまシタ。太い腕がミーの襟首を掴もうと伸びてきマス。

  でも、捕まるわけにはいきまセン。

  ミーは身をよじってその手をすり抜け、這いつくばるようにして、最後の一列を突破しまシタ。

  その瞬間。

  世界から音が消えたような、張り詰めた静寂が肌を刺しまシタ。

  視界が開けマス。

  地面が焼け焦げた広場の中心。

  そこには、マントを翻し、視界を埋め尽くすほどの巨大な幾何学模様の魔法陣を展開している男がいまシタ。

  殺気。純粋な破壊の意思。

  その杖の先には、今にも放たれようとしている、目が眩むような死の光が収束していマス。

  そして、その銃口の先に。

  ボロボロのドレスを纏い、愛用の杖を足元に転がした彼女が立っていまシタ。

  煤で汚れた頬。風に乱れた髪。

  けれど、その唇には、どこか憑き物が落ちたような、それでいて見ていて胸が締め付けられるほど哀しい、諦めの笑顔を浮かべていたのデス。

  「――ダメデーースッ!!」

  考えるよりも早く、身体が弾かれたように前へ出ていまシタ。

  肌を焦がすような熱風。鼓膜を圧迫する魔力の唸り。

  視界を埋め尽くす幾何学模様の光が、ミーの目の前で明滅していマス。

  「――ッ!?」

  目前に迫っていた魔法警察の男が、驚いて目を見開き、寸前で杖の動きを止めまシタ。

  けれど、放たれる殺気は収まるどころか、切っ先のように鋭くなってミーの全身を突き刺しマス。

  「どけッ!! 死にたいのか!!」

  怒号が頭上から降り注ぎマス。

  怖くて、膝がガクガクと震えまシタ。尻尾は勝手に丸まり、耳はペタリと頭に張り付いてしまいマス。

  それでも、ミーの足は地面に根を張ったように動きまセン。

  ここを動いたら、ラミアさんが消えてしまう。その事実だけが、恐怖を上回って身体を縛り付けているのデス。

  「アンタ……ッ! 何やってんのよ!!」

  背後から、悲鳴のような、それでいてガラスを引っ掻いたような鋭い叫び声が聞こえまシタ。

  ラミアさんデス。

  「どきなさいよ! アタシは、早く殺されたいの! やっと終わらせられるのよ!? 邪魔しないで!!」

  彼女の手が、ミーの肩を掴んで乱暴に引き剥がそうとしマス。

  その力は震えていて、でも痛いほど強くて。

  ミーは奥歯を噛み締め、数歩だけ離れつつ、勢いよく振り返りまシタ。

  「嫌デース!!」

  喉が裂けるほどの声で、ラミアさんに怒鳴り返しまシタ。

  彼女が、呆気にとられたように目を丸くしマス。

  「そ、そんなこと言わないでくだサイ! ラミアさんに……生きてほしいんデス!!」

  「な……ッ、馬鹿言わないで!」

  ラミアさんの顔が、怒りと絶望でぐしゃりと歪みマス。

  「生きてて何になるのよ! アタシはね、アンタを何回も殺したのよ!? 数え切れないほどの時間を踏みにじって、世界を巻き込んで……アタシの中身はもうドロドロのゴミ溜めなの! いるだけでアンタを傷つける、歩く災厄なのよッ!!」

  唾を飛ばしながら、彼女は自分の胸を拳で叩きマス。

  その瞳から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちて、煤けた頬に筋を作っていまシタ。

  「アンタのためなのよ! アタシがいない方が、世界は平和なの! アンタも幸せになれるの! だから……ッ、お願いだからアタシを捨てなさいよぉッ!!」

  「違いマスッ!!」

  ミーも負けじと叫び返しまシタ。

  論理なんてありまセン。理屈なんてどうでもいいデス。

  「そんなの、ミーの幸せじゃありまセン! ミーは、ラミアさんがいないと寂しいデス! ラミアさんと一緒にクッキーを焼きたいんデス! 明日も明後日も、おはようって言いたいんデス!!」

  「それが迷惑だって言ってるのよこのバカ猫ッ!!」

  「バカでいいデス! ミーの幸せはミーが決めるんデス!!」

  ギャーギャーと、火事場の真ん中で喚き合いマス。

  話が噛み合いまセン。

  彼女は「ミーのために死ぬ」と言い、ミーは「ミーのために生きて」と言う。

  お互いがお互いを想うあまり、線路はどこまでも平行線のまま、交わることなく火花だけを散らしていまシタ。

  「もう、いい加減にしなさいッ!!」

  ラミアさんの堪忍袋の緒が切れる音が聞こえた気がシタ。

  彼女は血走った目でミーを睨みつけると、ドレスの袖を振り上げ、無造作にその細い腕を薙ぎ払いマス。

  詠唱破棄。

  手加減されているとはいえ、大人の魔獣が吹き飛ぶくらいの衝撃波が、不可視のハンマーとなってミーの横っ腹を殴りつけようとしマシタ。

  (……ッ!)

  ミーは反射的に目を閉じ、歯を食いしばりマス。

  痛いのは嫌デス。でも、吹き飛ばされても、すぐに這い戻ってやりマス。そう覚悟を決めて、衝撃に備えまシタ。

  ……けれど。

  いつまで経っても、痛みは来まセン。

  身体が宙に浮く浮遊感もありまセン。

  地面を踏みしめる足の裏の感触が、消えるどころか、むしろ大樹の根のように深く、重く、地面に吸い付いているような感覚がありマス。

  「……は?」

  ラミアさんの、間の抜けた声が聞こえまシタ。

  恐る恐る目を開けると、彼女は信じられないものを見るように、自分の手とミーを交互に見比べていマス。

  彼女の魔法が不発だったわけじゃありまセン。周囲の煤や小石が吹き飛んでいるのがその証拠デス。

  ミーだけが、理屈を無視して、その場に縫い付けられたように微動だにしなかったのデス。

  ドクン。

  右手のひらが、熱い。

  心臓がもう一つ増えたみたいに、強く、大きく脈打っていマス。

  ミーは視線を落としまシタ。

  無意識に強く握りしめていた、あの禍々しい布切れ――『ゴール旗』が、金色の粒子を撒き散らしながら、眩い光を放ち始めていたのデス。

  (守って……くれてるんデスか?)

  あんなに不気味だった黒の刺繍が、今は頼もしく輝いて見えマス。

  ミーの「ここを動かない」という意志を、この旗が何百倍にも増幅して、物理法則をねじ曲げたのでショーか。

  しかし、その輝きを見た瞬間、ラミアさんの顔から血の気が引いていきまシタ。

  煤で汚れた頬が、死人のように青白く染まりマス。

  彼女の瞳孔が針のように収縮し、唇がわなわなと震えまシタ。

  「アンタ、それ……まさか、『ゴール旗』なの!?」

  悲鳴のような声でシタ。

  無理もありまセン。彼女にとってそれは、世界を滅ぼした悪夢の象徴そのものなのデスから。

  「馬鹿! 何持ってるのよ! 今すぐ捨てなさい!!」

  彼女が半狂乱になって叫びマス。

  髪を振り乱し、必死の形相で手を伸ばしてきマス。

  「魔力もないのにそんなもの使ったら、アンタの身体なんか木っ端微塵よ! 魂ごと消し飛ぶわよ! お願いだから手を離してぇッ!!」

  彼女の恐怖が、肌を刺すように伝わってきマス。

  けれど、ミーは首を横に振りまシタ。

  怖いデス。手の中で暴れる強大な力に、指の骨が砕けそうデス。

  でも、ここで離したら、ミーの願いは届きまセン。

  ミーは、両手で旗の柄を握り直しまシタ。

  爪が食い込み、血が滲むほど強く。

  そして、ありったけの想いを込めて、目の前の泣きじゃくる大切なヒトを見据えまシタ。

  「嫌デースッ!!」

  旗が、呼応しマス。

  金色の光が、視界を埋め尽くすほどに膨れ上がりマス。

  魔力なんて難しいことは分かりまセン。

  ただ、願うのデス。

  「ミーは、ラミアサンに……幸せに生きて欲しいんデーーースッ!!」

  カッ!

  世界の色が反転しまシタ。

  音も、熱も、痛みも、すべてを塗り潰すような絶対的な閃光が、ミーと、そしてラミアサンを飲み込んでいきまシタ。

  [newpage]

  [Side: ラミア]

  視界を埋め尽くしていた閃光が、ゆっくりと粒子となって溶けていく。

  瞼を焼くような白さが引いていき、恐る恐る目を開けた。

  白。

  上も下もない。奥行きさえ掴めない、乳白色の空間。

  先ほどまでの宇宙空間のような、冷たく拒絶する黒ではない。けれど、あの煤けた路地裏でもない。

  温度も、風も、匂いさえもない、完全なる無機質な世界。

  「……あぁ、またやったのね」

  アタシは力なく、その場――地面があるのかさえ怪しい場所――にへたり込んだ。

  身体に痛みはない。それが逆に、生の実感を遠ざける。

  あの不吉な旗の暴走で、また何かとんでもない事象を引き起こしてしまったのだ。

  世界を救うどころか、また別の形の地獄へ落ちたのか、それともここが死後の虚無なのか。

  どちらにせよ、アタシはまた失敗した。あの子を巻き込んで、最悪の結果を招いたのだ。

  胃の腑が重く沈み込み、吐き気が込み上げてくる。

  ごめんね、ミーティア。

  結局、アタシという災厄は、アンタを道連れにすることしか――。

  「――そうじゃ、ないデス」

  凛とした鈴のような声が、鼓膜を優しく震わせた。

  心臓が跳ねる。

  顔を弾かれたように上げた。

  白い霧が晴れるように、アタシの目の前に「彼女」の輪郭が結ばれる。

  暁色のローブ。

  毛先をくるりとカールさせた、いつもの髪型。

  ピンと立った猫耳と、ふわりと揺れる尻尾。

  どこからどう見ても、あのアタシの愛すべきお節介焼きの「おトモダチ」、ミーティアだった。

  けれど。

  「……な、に……これ……?」

  アタシの喉が、引きつった音を立てた。

  本能が、肌の細胞の一つ一つが、目の前の存在に対する畏怖で粟立っている。

  姿形は同じだ。けれど、決定的に違う。

  彼女から放たれている魔力の質が、あまりにも異質だった。

  かつてのアタシが持っていたような、刺々しい攻撃的な魔力ではない。

  悪魔が持っていたような、ドロドロとした欲望の魔力でもない。

  それは、陽だまりそのものだった。

  見渡す限りのこの白い空間そのものが、彼女の魔力で構成されている。

  アタシの肺が吸い込む空気も、肌に触れる温度も、すべてが彼女の優しさで満たされているような、圧倒的な包容感。

  まるで羊水の中に浸っているような、絶対的な安心感と、抵抗を許さないほどの巨大な慈愛の圧力。

  「一体、何が起こったのよ……。アンタ、その姿は……」

  震える声で問うと、彼女はふわりと、重力を無視して宙に浮いたまま、悪戯が見つかった子供のように舌を出した。

  「ラミアサンを護るために……ちょっと『神様』になってみまシタ」

  「……は?」

  思考が停止した。

  神様? この子が?

  アタシは茫然と、彼女の胸元で淡く輝く光の粒子を見つめた。

  そこには、あの『ゴール旗』の残滓が溶け込んでいるのが見える。

  666倍の増幅。

  本来なら、その負荷で肉体が崩壊するはずの劇薬。

  ……そうか。そうだったわね。

  アタシは知っていたはずだ。この小さな身体の奥底に、常識では計り知れない、呆れるほど規格外な魔力の海が広がっていることを。

  普段はあどけない少女の皮を被っているけれど、中身はアタシなんかよりもよっぽど化け物じみた器を持っていたことを。

  あの旗は、その「規格外」を、さらに666倍に膨れ上がらせたのだ。

  マジリシア中の魔力を集めたわけじゃない。

  ただ、彼女一人の内包するエネルギーが、増幅器を通して臨界点を突破し、物理法則をねじ伏せるほどの「奇跡」へと昇華された。

  この空間は、彼女の莫大な魔力と願いによって作られた、彼女だけの揺り籠。

  理屈を超えた、因果の特異点。

  ただ願いを叶えるために、彼女自身の存在そのものが、法則へと書き換わってしまったというの?

  「信じられない……アンタ、自分のしたこと分かってるの……?」

  アタシは乾いた唇を震わせ、目の前の、あまりにも神々しく、けれどあまりにも親しい「神様」を見上げることしかできない。

  これは、悪い冗談だ。

  アタシは呪術師だ。論理と法則、等価交換の理で構成されたこの世界の真理を解き明かす者だ。

  神などという不確定で、都合の良い上位存在など信じていない。祈りで腹は膨れないし、懺悔で死者は蘇らない。それがアタシの知る現実だ。

  けれど、この空間を支配している圧倒的な「暖かさ」はなんだ。

  肌に触れる空気の粒子ひとつひとつが、アタシを肯定し、許そうとしている。

  こんな出鱈目な魔力、物理法則を無視した事象改変……「神」という言葉以外で、どう説明すればいいというのか。

  混乱で言葉を失うアタシに、ミーティアはふわりと微笑みかけ、歌うように言葉を紡いだ。

  「ミーは、あのまま一人だったら……こんなに楽しい思いは出来ませんでシタ」

  彼女の夜空を閉じ込めた瞳が、細められる。そこには、過去を懐かしむような慈愛が満ちていた。

  「きっと、夢すら持てないまま、あの小さな部屋で埋もれてしまっていたと思いマス。誰かと見る星が綺麗だとか、外の世界が広いだとか、そんな当たり前のことにも気づかないまま」

  「……何よ、それ」

  「でも、ラミアサンと出会って、生きることに意味ができまシタ」

  彼女が一歩、空中を歩いてアタシに近づく。

  その一歩ごとに、波紋のような光が広がる。

  「好きだった星のことも、もっと好きになりまシタ。やりたいことが、山のように出てきまシタ。ラミアサンのことも沢山知りたくなりまシタし、沢山のことを一緒にやりたくなりまシタ。……実際、時間は少なかったデスけど、ほんのわずかデスけど、やりたいこともできまシタ」

  クッキーを焼いた時の甘い匂い。

  望遠鏡を覗き込んだ時の、彼女の横顔。

  そんな些細な記憶の断片が、彼女の言葉と共にアタシの脳裏に流れ込んでくる。

  「そんな大切なものをくれたラミアサンだからこそ……ミーは、助けたいんデス」

  彼女の声色が、少しだけ震えた。悲しみと、それを上回る強い意志を帯びて。

  「大切な存在が、自分自身を傷付けながら、ミーに笑いかける……そんな顔、もう見たくないんデス」

  「……アタシは、傷ついてなんて」

  「嘘デス。ラミアサンの心は、もう血だらけデス」

  見透かされていた。

  あのお節介な猫には、アタシの鉄壁の仮面など何の意味もなさなかったのだ。

  「ラミアサンが抱えた罪は、確かにいけないことデス。許されないことかもしれまセン。でも……」

  彼女は悲しげに眉を寄せ、まるで自分のことのように胸を押さえた。

  「周りの環境がおかしかったんデス。誰もラミアサンを愛さず、誰も正さず、歪むしかなかった。……もし、ミーがそんな境遇だったら、きっと同じ事をしたと思いマス。世界を呪って、壊してやろうとしたと思いマス」

  「アンタとアタシは違うわ! アンタは……っ」

  「違いまセン。同じ、心を持った生き物デス」

  ミーティアは首を横に振り、アタシの言葉を遮った。

  そして、聖母のような、あるいは母のような穏やかな眼差しでアタシを射抜く。

  「だからこそ、ミーがその罪を引き受けマス。消すことはできまセンから、肩代わりしマス。……この空間なら、それができるんデス」

  「な……っ!?」

  息が止まった。

  罪を引き受ける? この子が?

  アタシが重ねてきた、怨嗟と殺戮の歴史を?

  そんなことをすれば、この小さな魂はどうなる。永遠の責め苦を受けることになるんじゃないのか。

  「やめなさい! そんなの頼んでないわ! アタシは自分で裁かれたいのよ!」

  「ダメデス」

  彼女はきっぱりと拒絶した。

  「どうか、抱えた罪や自分のことを気にせず、幸せな人生を過ごしてくだサイ。……罪さえなければ、ラミアサンは優しくて、不器用で、とっても素敵なヒトなんデスから」

  彼女の手が伸びてくる。

  触れられたわけではないのに、頬に温かいものが伝う感触があった。

  「お願いデス、ラミアサン。……もう、自分を許してあげてくだサイ」

  喉が、干からびたように張り付いた。

  何かを叫ぼうとして、肺から空気を押し出したはずなのに、声帯が凍りついたように震えない。

  「ふざ……けな、いで……」

  ようやく漏れ出たのは、言葉とも呼べない、掠れた吐息だけだった。

  罵倒したかった。

  何を寝言を言っているのだと、そのふざけた自己犠牲を嘲笑い、アンタごときにアタシの業が背負えるものかと突き放すべきだった。

  けれど、唇が痙攣して、次の言葉が続かない。

  目の前の少女は、アタシがこの世で最も忌み嫌い、汚らわしいものとして吐き捨てようとしていた「罪」を、宝物でも受け取るかのように両手を広げて待っている。

  血と灰と絶望で塗り固められた、ドロドロの怨念。

  それを、この無垢な魂が飲み干そうとしている。

  身体の奥底、心臓の裏側あたりに突き刺さっていた氷柱が、ミシミシと音を立ててヒビ割れていく感覚があった。

  『自分を許してあげてくだサイ』

  その言葉が、鋭利な刃物となって、アタシの最も柔らかい部分を抉る。

  アタシは、誰よりも残虐に振る舞い、誰よりも多くの血を流し、世界を呪って生きてきた。

  けれど、誰よりもその行いを許していなかったのは、他ならぬアタシ自身だった。

  だからこそ、死に場所を求めた。

  あの警部の魔法で、跡形もなく消滅させられることを、魂の救済だと信じていた。

  それなのに。

  このお節介な猫は、アタシがひた隠しにしてきたその自虐の刃を、安っぽい同情や正義感ではなく、圧倒的な「肯定」で包み込んでしまった。

  アタシが自分自身に向け続けてきた殺意を、彼女は見透かしていたのだ。

  視界が滲む。

  呼吸がうまくできない。

  許していいはずがない。生きる価値などあるはずがない。

  そう叫び続ける理性と、彼女の温もりに縋り付きたいと泣き叫ぶ本能が、アタシの中で激しく衝突し、火花を散らしている。

  「……なんで」

  声が、震えた。

  乾ききった喉から、砂利を吐き出すように問いかける。

  「なんで、そこまでするのよ。アタシはアンタを巻き込んで、何度も殺して……ろくでもない嘘つきの魔女なのよ? なのに、どうして……ッ」

  アタシの問いに、彼女はかつてあの小さな部屋で、焼き上がったクッキーを差し出した時と同じように、ふわりと微笑んだ。

  「ミーは、ラミアさんのことを『おトモダチ』と思ってるからデス」

  迷いのない、透き通った声。

  「だからこれは、ミーの『我が儘』なんデス」

  彼女はそう言うと、ふわりと宙を踏み、アタシの前でくるりと身体を横に向けた。

  両手を胸の前で組み、祈るように伏し目がちになる。

  その横顔は、教会に飾られた聖女の彫像よりも神々しく、けれど触れれば温かいであろう血の通った少女のものだった。

  静寂が満ちる。

  彼女の唇が、ゆっくりと動いた。

  「ラミアサンは……」

  一度、言葉を切る。

  その「溜め」の一瞬、心臓が痛いくらいに跳ねた。

  彼女は閉じていた瞳をパッと開くと、身体ごと正面に向き直り、組んでいた両手を翼のように大きく広げた。

  そこにあったのは、太陽ですら霞むほどの、屈託のない満面の笑み。

  「――ミーの大切な、宝物デーーース!!」

  胸の奥底で、何かが砕ける音がした。

  それは、アタシが自分自身を守るために、そして世界を拒絶するために何重にも張り巡らせてきた、分厚く冷たい氷の扉。

  それが、たった一言の熱量で、跡形もなく粉砕されたのだ。

  「……っ、う、あぁ……ッ!」

  視界が一気に歪む。

  涙が、溢れるなんてものではない。堰を切ったダムのように、目からボロボロとこぼれ落ちる。

  拭っても拭っても、止まらない。

  何度も騙した。

  何度も死なせた。

  アタシの手は、この子の血で汚れていると思っていた。

  けれど、彼女はそれを「宝物」だと言った。

  アタシという存在のすべてを、罪も罰もひっくるめて、この世で一番大切なものだと肯定したのだ。

  喉の奥から、動物のような嗚咽が漏れる。

  膝から崩れ落ち、地面のない白に縋り付く。

  欲しかったのは、世界を滅ぼす力じゃない。

  誰かを震え上がらせる悪名でもない。

  ただ、これだけだったんだ。

  誰にも拒絶されず、誰にも利用されず、ただ「ここにいていい」と、「アンタが大切だ」と言ってくれる、温もり。

  目の前の「おトモダチ」がくれたその光が、アタシの凍りついた魂を、芯から溶かしていくのが分かった。

  ふわり、と。

  春の日差しを煮詰めたような、濃密で優しい熱が、アタシの全身を包み込んだ。

  視線を上げるまでもない。ミーティアが、その小さな身体で、泥と煤と罪にまみれたアタシを抱きしめていたのだ。

  「……ぁ、あ……」

  アタシの喉から、言葉にならない吐息が漏れた。

  拒絶なんて、できるはずがなかった。

  アタシのドレスは焦げ跡だらけで、肌には返り血のような煤がこびりついている。魂だって腐臭を放っているかもしれない。

  けれど、彼女はそんな「汚れ」さえも愛おしむように、更に強く、逃さないと言わんばかりにアタシの頭を胸元に引き寄せた。

  アタシの震える手が、吸い寄せられるように彼女の背中に回される。

  暁色のローブを、指が白くなるほど強く握りしめ、顔を彼女の胸に埋めた。

  布越しの体温が、皮膚を突き抜けて、凍えていた心臓を直接温めているようだった。

  ドクン、ドクン、と。

  アタシの不整脈のような鼓動とは違う、力強く穏やかな心音が、直に伝わってくる。

  頬に触れる、柔らかい毛並みの感触。

  鼻先をくすぐる、日向で干した藁のような、焼きたてのクッキーのような、どうしようもなく安心する「いつもの」匂い。

  神様になっても、彼女はやっぱりアタシの知っているお節介な猫のままだった。

  その事実が、アタシの理性の堤防を完全に決壊させた。

  「……あたた、かい……」

  無意識に、子供のような言葉が漏れた。

  熱いんじゃない。痛いんじゃない。ただただ、温かい。

  彼女の手が、アタシの乱れた髪を梳くように、一定のリズムで優しく撫でる。

  よしよし、と。

  まるで、悪夢にうなされる子供をあやす母親のように。あるいは、傷ついた迷子を慰める姉のように。

  その掌から、とめどなく流れ込む魔力の奔流。それは「許し」そのものだった。

  アタシの細胞の一つ一つに染み込んだ罪悪感が、彼女の光に溶かされ、涙となって流れ出ていく。

  アタシは、この温もりに飢えていたのだ。

  世界を憎み、自分を憎むことで蓋をしてきたけれど、本当はずっと、こうして誰かに抱きしめられたかった。

  「ここにいていい」と、「アンタが必要だ」と、肌で教えて欲しかった。

  世界中のあらゆる幸福を凝縮したような光の繭の中で、アタシたちは一つになっていた。

  時間の感覚が消える。

  一秒が永遠のように長く、けれど一瞬のように尊い。

  この白い虚無の中で、罪も罰も忘れて、ただこの温もりに溶けてしまいたい。一生、このまま時が止まってしまえばいい。

  そう願ってしまうほど、それは甘美で、残酷なほど優しい時間だった。

  アタシの涙が枯れ、そのローブをぐしゃぐしゃに濡らしても、彼女はただ笑って、その体温を分け与え続けてくれた。

  しかし。

  永遠のような安らぎは、唐突な終わりを告げる。

  「……でも、ごめんなサイ」

  耳元で囁かれた声は、鈴の音のように澄んでいたけれど、どこか切ない響きを含んでいた。

  「叶えられる願いは、一つだけデスから」

  え?

  アタシは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

  至近距離にある彼女の顔。

  その輪郭が、蛍の光のように揺らいでいる。

  「な……に……?」

  抱きしめてくれているはずの腕の感触が、ふわりと軽くなった。

  死んで消えるのではない。

  ただ、世界の理が書き換わっていくのだ。

  「罪人」と「善人」。本来なら交わるはずのない二つの存在が、正しいあるべき場所へと引き剥がされていく。

  彼女の身体が、金色の光の向こう側へと遠ざかっていく。

  その輪郭が透けていくのは、彼女が消滅するからではない。

  彼女が、アタシの代わりに「業火の真ん中」へ――あの殺気と憎悪が渦巻く断罪の場へと、たった一人で還ろうとしているからだ。

  「……本当は、もっと一緒にいたかったデス」

  光に溶けそうな笑顔で、彼女が呟く。

  「心配なんてしないで、一緒に生きたかった……でも、今のミーには、そこまでは叶えられまセン」

  「な……に……?」

  アタシは反射的に、彼女の背中に回していた腕に力を込めた。

  行かせない。絶対に離さない。

  けれど、アタシの指は、まるで異なる次元の映像に触れたかのように、彼女のローブをすり抜けた。

  そこにはもう、アタシが触れられる「おトモダチ」はいない。

  そこにいるのは、世界中の憎悪を一身に受ける大罪人となった、孤独な少女だけ。

  アタシは安全な場所へ弾き出され、彼女だけが地獄へ残ろうとしている。

  「待って! 待ってよ……ッ!」

  喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。

  罪なんてどうでもいい。許しなんていらない。

  アンタがアタシの代わりに裁かれるなんて、そんなふざけた話があるか。

  「アタシも、ミーティアとっ……! アタシもそっちへ行くわよッ!!」

  必死に手を伸ばし、隔絶の壁を叩くように空を掻きむしる。

  指先が、温もりを求めて空を泳ぐ。

  けれど、掴めるものは何もない。

  目の前の笑顔が、優しく、残酷に遠ざかる。

  「ねえ、置いていかないで……ッ!!」

  指先が、彼女の頬だった場所に触れた瞬間。

  ふっ、と最後の温もりが消失した。

  アタシの手は、勢い余って空を切り、無様な音を立てて何もない空間を握りしめた。

  届かない。

  もう、アタシと彼女は、決定的に違う世界に分かたれてしまった。

  次の瞬間、アタシの視界は、世界そのものを塗り潰すような白亜の閃光に飲み込まれた。

  [newpage]

  視界を焼き尽くした白亜の閃光が、唐突にその彩度を落とした。

  鼓膜を圧迫していた無音の世界がひび割れ、現実の喧騒がどっと流れ込んでくる。

  警笛の音。怒号。そして、肌をジリジリと焼くような、高密度の魔力の余熱。

  反射的に身を強張らせた。来る。

  あの極大の破壊魔法が、アタシの罪ごとこの肉体を消し飛ばす。

  痛みへの恐怖よりも、ミーティアとの別れの余韻が脳髄を麻痺させていて、防御魔法を展開する指先ひとつ動かせない。

  ただ、まぶたの裏に焼き付いたあの子の最後の笑顔だけを道連れに、終わりの時を待った。

  ……けれど。

  いつまで経っても、肉が焼ける臭いも、骨が砕ける衝撃も訪れない。

  あるのは、頬を撫でる生温かい風と、周囲のざわめきだけ。

  恐る恐る、膠着したまぶたを持ち上げる。

  目の前には、依然としてドーベル警部が立っていた。

  紺色のマント。鋭い眼光。

  けれど、彼が展開していたはずの、視界を埋め尽くすほどの巨大な幾何学模様の魔法陣が、霧散していくのが見えた。

  殺意の塊だった魔力の粒子が、風に溶けて消えていく。

  「……何を呆けている! 危ないぞ、下がりなさい!」

  耳を疑った。

  投げつけられたのは、犯罪者への断罪の言葉じゃない。

  迷い込んだ民間人を叱責するような、粗野だけど義務感に満ちた警告だった。

  彼の手元にあった杖はすでに下ろされ、あの突き刺すような殺気は、嘘のように消え失せている。

  「君、怪我はないか!?」

  「ここは危険区域だ、早く避難して!」

  周囲を取り囲んでいた警官たちが、武器を収めて駆け寄ってくる。

  その手には手錠ではなく、分厚い毛布が握られていた。

  一人の警官が、アタシの肩にそれをふわりと掛ける。

  粗末なウールのチクチクとした感触と、少し埃っぽい匂い。

  向けられる視線に、敵意の欠片もない。あるのは純粋な「庇護対象」への気遣いだけ。

  何が、起きているの?

  アタシは……アタシは、世界の破滅を目論んだ大罪人のはずよ。

  混乱で呼吸が浅くなる。

  視線が、無意識に自分の身体へと落ちた。

  息が止まる。

  ドレスの裾。

  放火の煤と泥で汚れ、あちこちが焦げ付いてボロボロだったはずのシルクの生地が、ショーウィンドウに飾られた新品のように滑らかな光沢を放っている。

  焦げ臭い硝煙の匂いなどしない。ほのかに漂うのは、今朝ミーティアが振りかけてくれた香水の甘い残り香だけ。

  そして、左手。

  地面に投げ捨てたはずのアタシの半身。

  古びた樫の木の感触が、吸い付くように掌に収まっていた。

  指先が震える。

  杖の先端、宝玉に埋め込まれた縦長の瞳孔が、ギョロりと動いてアタシを見上げている。

  『何を間抜けな顔をしているんだ』とでも言いたげに、その単眼は皮肉げに瞬いた。

  ドクン、と心臓が早鐘を打つ。

  杖が手元にある。ドレスが汚れていない。

  つまり、アタシは「何もしていない」ことになっている。

  炎を放ってもいなければ、警察と対峙してもいない。

  ただ、この場に居合わせただけの、無垢な少女として存在している。

  『ラミアサンを護るために……』

  あの子の声が、脳裏でリフレインする。

  これが、そうなの?

  神様になったアンタが書き換えた、新しい世界の理なの?

  足元の石畳が揺らいで見えた。

  物理法則も、因果律も、すべてを無視した奇跡。

  論理的思考を信条とする呪術師としての理性が、あり得ないと悲鳴を上げている。

  けれど、掌に残る杖の硬質な感触と、警官たちが向ける温かい眼差しだけが、このふざけた改変こそが紛れもない「現実」なのだと、冷酷なまでに突きつけていた。

  掌に残る杖の感触を確かめるように、指の腹で強く、白くなるほどに柄を握りしめた。

  だが、このふざけた奇跡が現実だというのなら、計算が合わない。

  等価交換。この世の理は、何かを得れば何かを失う天秤でできている。

  アタシのドレスから汚れが消え、手配書からアタシの顔が消えたのなら、その「穢れ」は何処へ行ったというの。

  アタシが積み上げた瓦礫の山は? 撒き散らした呪詛は?

  質量保存の法則を無視して消滅するはずがないのよ。

  視線を彷徨わせる。

  紺色の制服の壁。心配そうにアタシを覗き込む警官の瞳。

  いない。

  どこにもいない。

  つい先ほどまで、アタシの前に立ちはだかり、涙ながらに訴えていたあの小さなピンク色の影が。

  アタシの罪を肩代わりすると言った、あのお人好しのバカ猫が。

  「……ッ」

  嫌な汗が、背筋を氷の指でなぞるように伝い落ちた。

  胃の腑に、冷たい鉛を流し込まれたような重圧。

  その時だった。

  アタシの目の前で膝をつき、安否確認をしていた警官の胸元。

  銀色の記章が埋め込まれた通信用の短杖から、ザザッという耳障りなノイズと共に、ひどく切迫した声が響いた。

  『――緊急連絡! 緊急連絡ッ!』

  空気が、ピリリと張り詰める。

  通信機の向こう側の男は、興奮と恐怖、そしてサディスティックな熱狂がない交ぜになったような、甲高い声を張り上げていた。

  『中央広場にて、逃走中の放火魔を発見! 現在、逃げ道を塞いだ住民らによって包囲されています!』

  ドクン、と。

  心臓が肋骨を内側から殴りつけた。

  警官がメモを取る手を止め、顔を上げる。

  『特徴は一致! ピンク色の髪を持つネコネコ族! 暁色のローブを着用! 間違いありません、この都市を焼き払おうとした大罪人です!』

  世界が、遠のいた。

  血の気が引く音すら聞こえそうなほど、急速に体温が奪われていく。

  指先が凍りつき、感覚が麻痺していく。

  ミーティア。

  間違いない。その特徴を持つ少女なんて、この街に一人しかいない。

  あの子が、「大罪人」?

  アタシが被るはずだった汚名を、あの子が着せられているというの?

  しかも、「住民に包囲されている」。

  その言葉の意味を理解した瞬間、吐き気がこみ上げた。

  それは逮捕じゃない。

  警察の留置場ならまだマシよ。法という首輪があるもの。

  けれど、暴徒と化した住民は違う。

  彼らを突き動かすのは正義感なんて高尚なものじゃない。アタシがさっきまで撒き散らしていた恐怖への反動と、共通の敵を見つけた時に大衆が抱く、どす黒い嗜虐心だ。

  想像してしまう。

  アタシがこれまで積み上げてきた死体の山。

  踏みにじってきた尊厳。

  そこから噴き出す怨嗟のマグマが、あんなにも華奢で、人を疑うことすら知らない無防備な少女一人に、一極集中して降り注ぐ光景を。

  石が飛ぶだろう。罵声がナイフのように突き刺さるだろう。

  加減なんて効くはずがない。彼らは「世界を救う」という大義名分を盾に、嬉々として彼女を肉片に変えようとするはずだ。

  寿命が、削れていく音がした。

  一秒。たった一秒遅れるだけで、あの子の綺麗な肌に傷が増える。あの子の心が壊れていく。

  「総員、広場へ急行せよ! 住民の暴走を止めろッ!」

  ドーベル警部の怒号が響く。

  警官たちが一斉に踵を返し、重たいブーツの音を響かせて駆け出そうとした。

  遅い。

  そんな鈍重な足取りじゃ、間に合うわけがない。

  「どきなさいッ!!」

  悲鳴とも威嚇ともつかない叫びが、喉から迸った。

  アタシは羽織っていた毛布を乱暴に振り払い、杖を真横に薙ぎ払う。

  爆発的な魔力の奔流。

  足元がきしみ、衝撃波が周囲の警官たちをたじろがせた。

  重力制御、全開。

  安全装置なんていらない。着地のことなんて知ったことじゃない。

  身体がふわりと浮く間もなく、アタシは弾丸のように空へと射出された。

  風が頬を切り裂き、景色が線となって後方へ流れる。

  眼下で豆粒のように小さくなっていくドーベルたちを置き去りに、アタシは悲鳴を上げる心臓を無視して、一直線に広場へと突っ込んだ。

  ……

  風切り音が鼓膜を切り裂き、眼下の景色が溶けた絵の具のように後方へ流れていく。

  減速? 着地の衝撃? 知ったことじゃないわ。

  重力制御の術式が悲鳴を上げ、アタシの身体を包む結界が摩擦熱でバチバチと火花を散らしていても、そんなものは今のこの焦燥に比べれば微風も同然。

  広場が見えてくる。

  同時に、吐き気を催すほどの濃密な熱気が、上空のアタシの肌を刺した。

  炎の熱じゃない。何百、何千という魔獣が放つ、ドロドロに煮詰まった憎悪と狂気の熱量。

  アタシの視界に飛び込んできたのは、地獄絵図なんて生易しいものじゃなかった。

  広場の中央、樹齢数百年を越える大木の太い幹。

  そこに、荒縄で幾重にも縛り付けられた、小さな影があった。

  かつてアタシが「暁色」と形容した美しいローブは、無惨に引き裂かれ、泥と靴跡でどす黒く汚れている。

  ふわふわとしていた自慢のピンク色の髪は、粘着質な血糊で固まり、力なく頬に張り付いていた。

  肌の至る所が青黒く腫れ上がり、裂けた皮膚からは鮮血が滴り落ちて、足元の石畳に不規則な赤い染みを作っている。

  ミーティア。

  その名前を呼ぼうとした喉が、裏返ったような音を立てて痙攣する。

  彼女の首はガクリと力なく垂れ下がり、浅く速い呼吸をするたびに、肋骨が折れているのか、苦しげに顔を歪めていた。

  彼女の桜色の唇が、微かに震えている。

  血の泡と共に、壊れたレコードのように繰り返される、小さな、小さな音。

  「……ごめん、なサイ……ごめ、んな……サイ……」

  意味なんて分かっていないはず。

  記憶を失い、自分が誰かも、何をしたかも分からないまま。

  ただ、降り注ぐ理不尽な痛みを止めてほしくて。自分が悪い子だからいけないのだと、混濁した意識の中で本能だけで謝罪を紡いでいる。

  その姿は、あまりにも無垢で、あまりにも痛ましくて。

  けれど、そのか細い声を、圧倒的な悪意の津波が、物理的な質量を持って押し潰していった。

  「この化け物めッ!! よくも俺の店を燃やしたな!!」

  「死んで詫びろ! 死ねッ!!」

  「子供を返せ! お前のせいで、あの子はッ……!!」

  男が、女が、老人が。

  顔を醜く歪ませ、唾を飛ばし、拳を振り上げて罵倒を浴びせている。

  彼らの手には石が、空き瓶が、あるいは杖が握られていた。

  正義の執行者を気取りながら、その瞳の奥にあるのは、弱者をいたぶる昏い愉悦と、行き場のない怒りをぶつけるサンドバッグを見つけた安堵。

  耳を塞ぎたくなるような轟音となって、たった一人の少女の「ごめんなさい」を、跡形もなく掻き消していく。

  「ミーティアァァッ!!」

  喉が裂けんばかりの絶叫と共に、アタシは広場の中央へと弾丸のように突っ込んだ。

  減速なんてしない。アタシと大地の間に圧縮された空気が爆ぜ、衝撃波となって周囲の有象無象を紙屑のように吹き飛ばす。

  悲鳴。怒号。土煙。

  そんなものはどうでもいい。

  アタシの視界にあるのは、ぐらりと傾く彼女だけ。

  杖を振るう時間さえ惜しい。アタシは指先を弾き、極小に絞った炎の刃を生成する。

  狙うは、彼女の細い手首と足首に食い込む、忌々しい荒縄。

  彼女の柔肌を焦がさぬよう、ミリ単位の制御で魔力を走らせる。

  ジッ、と乾いた音がして、焦げた麻の臭いが鼻をつく。

  束縛を失った小さな身体が、重力に従って前へと崩れ落ちた。

  「っ……!」

  アタシは滑り込むように両手を伸ばし、その身体を受け止める。

  腕の中に収まった感触は、恐ろしいほどに軽かった。

  まるで中身がこぼれ落ちてしまった硝子細工のよう。

  抱き留めた手のひらに、ぬるりとした生温かい液体が広がる。

  視線を落とせば、アタシの真っさらなドレスが、見るも無残な赤黒い地図で染め上げられていくのが見えた。

  「嘘……嘘でしょ、ねえ……」

  震える指先で、彼女の頬に張り付いた血と泥を拭う。

  冷たい。

  いつもなら陽だまりのように温かい肌が、陶器のように冷え切っている。

  浅く、痙攣するような呼吸音だけが、彼女がまだ生者の側に辛うじて留まっていることを告げていた。

  「死なせない……絶対に死なせないから!」

  アタシは杖を放り出し、両手を彼女の胸元にかざす。

  なりふり構わず魔力回路を全開にし、治癒の術式を編み上げる。

  淡い緑色の光が溢れ出し、彼女の身体を包み込んだ。

  裂けた皮膚が、見るに堪えない速度で蠢き、強引に塞がっていく。

  けれど、足りない。

  アタシの額から、玉のような汗がボタボタと滴り落ちる。

  傷が深すぎる。表面の傷を塞いでも、内側で壊された骨や内臓までは、この場での応急処置じゃ届かない。

  魔力を注げば注ぐほど、彼女の顔色が白蝋のように青白くなっていく気がした。

  カチリ、と奥歯が鳴る。

  焦燥感で視界がチカチカと明滅する。

  ここはダメだ。こんな埃と殺意にまみれた場所じゃ、精密な治療なんてできっこない。

  骨の髄まで届くような高度な治癒術式を組むには、絶対的な「静寂」と「集中」が必要なのよ。

  邪魔が入るこの戦場じゃ、命を繋ぎ止めるのが限界だわ。

  

  アタシの腕の中で、か細い命の灯火が、風前の灯のように揺らいでいる。

  その儚さが、アタシの心臓を素手で握り潰すような恐怖となって締め上げた。

  不意に、空気がバチリと爆ぜる音がした。

  アタシの肌を刺していた視線の熱量が、物理的な熱源へと変換される。

  治癒術式の構成に集中していたアタシの神経が、本能的な危機察知によって強制的に引き剥がされた。

  「――消えろッ!!」

  誰かの絶叫が引き金だった。

  群衆の中から、不揃いな詠唱と共に、赤黒い火球が幾つも撃ち放たれる。

  洗練された軍用魔法じゃない。生活用魔法の延長線上にあるような、着火剤代わりの粗末な炎。

  けれど、殺意という燃料をくべられたそれは、人を炭に変えるには十分すぎる温度を持って、アタシと、アタシの腕の中の少女へと殺到した。

  「ッ……! 鬱陶しいのよッ!」

  アタシはミーティアを抱きかかえたまま、空いた左手で杖を薙ぎ払う。

  展開するのは、物理干渉を拒絶する障壁。

  半透明のドーム状の結界が、アタシたちの周囲に瞬時に張り巡らされる。

  ドォンッ!

  衝撃音が鼓膜を叩く。

  障壁の表面で火球が弾け、紅蓮の華となって散った。

  視界が炎の色で塗り潰され、熱波が結界越しにアタシの頬を舐める。

  焦げ臭い煤の匂いが、鼻腔の奥まで侵入してきた。

  一撃では終わらない。

  堰を切ったように、次々と魔法が飛来する。

  炎だけじゃない。氷の礫、風の刃、あるいはただの魔力の塊。

  雨あられと降り注ぐ暴力の奔流が、アタシの障壁を絶え間なく揺らし、きしませる。

  その軌道を、アタシの目は冷ややかに捉えていた。

  この照準……アタシを狙ったものじゃない。

  全ての射線が、一点に集中している。

  アタシの背後にある大木――つい先ほどまで、ミーティアが縛り付けられていたあの場所へ。

  背筋が凍るような戦慄が走った。

  こいつら、殺すつもりなんてものじゃない。

  「焼却」しようとしたのだ。

  生きたまま、痛みと恐怖を与えながら、灰になるまで焼き尽くす。

  それは、かつてマジリシアの歴史書で読んだ、蒙昧な時代に行われていた野蛮な儀式そのものだった。

  魔法を恐れ、理解できないものを排除するために行われた、魔女の火あぶり。

  それを、この文明が開化した現代で、法も秩序も無視した私刑で再現しようとしている。

  アタシの腕の中で、あんなにも小さくなって震えている、無抵抗な少女相手に。

  ガンッ! バギィッ!

  障壁を叩く音が、鼓膜を直接殴りつけるような轟音となって響き渡る。

  視界の端で、焼け焦げた石礫が弾け飛び、火の粉となって舞い散った。

  アタシが展開している障壁は、雨あられと降り注ぐ殺意の奔流を受けて、悲鳴のような高周波音を上げ続けている。

  重い。

  物理的な重さじゃない。

  杖を握る左腕に、何百人もの魔獣が吐き出すドロドロとした怨念が、粘着質な泥のように絡みついている。

  呼吸をするたびに、鉄錆のような血の味と、焦げ臭い硝煙が肺を犯していく。

  「死ね! 化け物!!」

  「俺たちの街から出て行け!!」

  罵声。罵倒。呪詛。

  ヒトの形をした肉の塊たちが、口角を泡で汚し、血管が浮き出た醜悪な顔で叫んでいる。

  その目は、もう魔獣のものではない。

  自分たちは「正義」を行っているのだと陶酔し、弱者を嬲り殺す愉悦に浸りきった、ケダモノ以下の濁った眼球。

  アタシの腕の中で、ミーティアがビクリと痙攣した。

  意識がないはずなのに、向けられる悪意に魂が怯えている。

  その反応が、アタシの理性の琴線を、一本、また一本と引きちぎっていく。

  ……ああ、そうね。

  やっぱり、そうなのよ。

  奥歯が砕けそうなほど噛み締めた口の中で、血の味が広がった。

  アタシは知っている。この世界の感触を。

  あの冷たくて、広くて、誰もいない屋敷の廊下を。

  どれだけ泣いても、どれだけ喉が裂けるほど助けを求めても、誰一人として振り返らなかったあの冬の時代を。

  いい子にしていても、悪い子になっても、この世界はアタシなんて見ていなかった。

  ただ都合のいい道具として消費するか、排除すべき異物として唾を吐きかけるか。

  そのどちらかしか選ばせてくれなかった、暗黒の世界。

  それでも、生きてきた。

  この漆黒の闇の中で、たった一つ、奇跡みたいに舞い降りてきた「星」を見つけたから。

  アタシの手を握り、名前を呼び、温もりを分けてくれた、か弱くて尊い善性の塊。

  ミーティア。

  なのに。

  この世界は、それさえも許さないというの?

  アタシから全てを奪い、傷つけ、今度はこの小さな光さえも、寄ってたかって踏み躙り、暗闇で塗り潰そうとするの?

  ふざけるな。

  心臓が、早鐘とは違う、爆発的な脈動を打った。

  血管の中を流れるものが、血液から灼熱の溶岩へと入れ替わる。

  全身の毛穴という毛穴から、どす黒い魔力が蒸気のように噴き出した。

  そうよ。最初から分かっていたことじゃない。

  この世界には、救いようのない悪意しかない。

  美しさなんて欠片もない、反吐が出るほど醜悪なゴミ溜め。

  なら。

  そんなもの、残しておく価値なんてない。

  浄化? 改心?

  いいえ、そんな生温いものはいらない。

  燃やし尽くしてやる。

  アタシの瞳孔が、極限まで収縮した。

  視界に映る魔獣たちが、ただの燃えるゴミに見えてくる。

  全部、全部、全部。

  灰燼に帰しなさい。

  アタシとミーティアを否定する者は、神だろうが悪魔だろうが一般人だろうが、誰一人として逃がさない。

  この世の全ての熱をかき集めて、地獄の業火で骨の髄まで焼き尽くしてやるわ。

  アタシは両手で、恋人の手を愛おしむように、けれど首を絞めるような強さで、樫の木の杖を握りしめた。

  胸の前で掲げられたその姿勢は、皮肉なことに敬虔な聖女の祈りのポーズそのものだわ。

  違いがあるとするなら、アタシが捧げようとしているのは感謝でも懺悔でもなく、純度100パーセントの殺意と、世界の破滅を願う愚かな呪詛だということだけ。

  心臓の奥にある魔力の水門を、理性のストッパーごと強引に破壊する。

  ドクン、と体内時計が狂ったような音がして、血管という血管に溶岩が流し込まれたような激痛が走った。

  魔力回路が悲鳴を上げ、許容量を超えたエネルギーが、皮膚を内側から食い破ろうと暴れ回る。

  バチッ、バチチッ。

  大気中の魔力がアタシの暴走に共鳴し、青白いスパークが弾けた。

  いつもは重力に従って垂れている長い耳が、逆立つほどの静電気と魔力の余波を受けて、ピンと張り詰める。

  毛先が焦げるようなオゾンの臭い。

  視界の端で、金色の髪が重力を無視して蛇のようにうねり、逆立っていくのが見える。

  アタシの手の中で、杖が喜悦に震えた。

  木製の柄がミシミシと軋み、先端の宝玉に埋め込まれた瞳孔が、限界まで見開かれる。

  低い唸り声はやがて、地底から響く龍の咆哮へと変わった。

  腕の骨が砕けそうなほどの振動。

  けれど、アタシは笑った。もっと鳴きなさい。もっと怒りなさい。アンタも腹が立っているのでしょう? この救いようのない世界が。

  脳裏に、かつて実験場にした市場の光景がよぎる。

  あの時は手加減した。理論値の限界を探るための、冷徹な実験だったから。

  それでも、石造りの建物が紙細工のように吹き飛び、更地になったわ。

  でも、今回は違う。

  あんなクラッカー花火じゃ足りない。

  広場? いいえ。

  このふざけた街も、法律も、正義面した連中も、石ころ一つ残さず消し去るのよ。

  燃料は、アタシの命そのもの。

  魔力の残量? 身体への負荷?

  知ったことじゃないわ。

  この一撃を放った後に、アタシが灰になって死のうが、魔力枯渇で廃人になろうがどうでもいい。

  ミーティアのいない世界で生きながらえる未来なんて、一秒たりとも欲しくない。

  視界が赤く染まり、思考がホワイトアウトしていく。

  もう、誰もアタシを止められない。

  神様だって、魔王だって、アタシのこの煮えたぎる怒りを鎮めることなんてできやしない。

  震える唇が、世界への死刑宣告の第一節を紡ぎ出した。

  「[[rb:地を這う愚民の骸よ、我が嘆きの炉にて追悼の火を灯せ> ラメモリア・サントラ・フェイル]]」

  その刹那。

  世界から「湿り気」が消滅した。

  破裂音と共に、大気が物理的な質量を持って膨張する。

  肌にまとわりついていた空気の層が、一瞬にして超高温の檻へと変貌した。

  暑いなんて生易しいものじゃない。

  肺が吸い込んだ酸素が、喉の奥を焦がす熱風となって内側から身体を焼く感覚。

  背後で、パキパキという乾いた音が連鎖した。

  つい先ほどまでミーティアを縛り付けていた、あの忌々しい大木だ。

  樹齢数百年を誇る巨木の内部で、樹液が一瞬にして沸騰し、気化したのだ。

  緑色だった葉が茶色く縮れ、発火する間もなく炭化して舞い散る。

  幹の裂け目から、赤い舌のような炎が勢いよく吹き出した。

  足元を見れば、広場を彩っていた芝生や可憐な花々が、まるで早回しの映像を見ているかのように萎び、黒い煤となって崩れ落ちていく。

  美しい緑も、鮮やかな色彩も、すべてがアタシの怒りの色――黒と赤だけに塗り潰されていく。

  そして、アタシたちを取り囲んでいた有象無象ども。

  さっきまで威勢よく吠えていた彼らの様子が、滑稽なほど変わっていた。

  目を見開いている。

  けれど、その眼球は干上がった沼のように濁り、充血していた。瞬きをするたびに、乾いた瞼が眼球の表面をヤスリのように削る音が聞こえそうだわ。

  あちこちで、口をパクパクと開閉させている。

  悲鳴を上げようとしているのでしょうね。

  でも、無駄よ。

  ヒューッ、カヒュッ……。

  漏れてくるのは、壊れたふいごのような掠れた呼気だけ。

  喉の粘膜が瞬時に乾燥して張り付き、声帯が機能を失っている。

  彼らの肌から、見るも無惨に水分が奪われていく。

  脂ぎっていた額は赤く爛れ、紙のようにカサカサになり、細かいひび割れから血が滲む――それさえも、空気に触れた瞬間に蒸発して痂に変わる。

  地獄?

  ええ、そうね。ここは地獄だわ。

  けれど、これはアタシの内側そのもの。

  煮え滾る血。焼き尽くしたいほどの怒り。そして、涙さえ枯れ果てた悲しみ。

  アタシという魔獣が抱え込んだ感情のすべてが、灼熱の世界として顕現し、この醜い現実を侵食し始めているのよ。

  陽炎がゆらりと立ち昇り、視界の全てを油絵のようにドロドロに溶かしていく。

  世界が歪む。人も、建物も、空さえもが熱波に揺らめき、輪郭を失っていく中で、アタシの殺意だけが、凍てついた刃のように鮮明なピントを結んでいた。

  瞼が、限界まで引き上げられる。

  乾燥した大気に眼球が焼かれる痛みなど、もう感じない。

  白目は無数の毛細血管が破裂して赤黒く染まり、その中心にある虹彩と瞳孔は、針の穴ほどに極限まで収縮していた。

  映しているのは「敵」のみ。

  排除すべきゴミ屑どもの断末魔だけを、この網膜に焼き付ける。

  あごの骨が外れんばかりに大口を開け、喉の奥から呪詛を搾り出す。

  その口元は、微笑みとも慟哭ともつかない、醜悪な形に歪んでいた。

  目尻から、ドロリとした粘着質の液体が溢れ出す。

  それは涙と呼ぶにはあまりに熱く、重い。

  頬を伝い、顎から滴り落ちようとした雫は、空中に放たれた瞬間にジュッと音を立てて白煙へと変わった。

  アタシ自身の発する高熱が、悲しみさえも蒸発させていく。

  ……結局、こうなるのね。

  

  ふと、嵐のような激昂の裏側で、冷え切った心が嘯いた。

  ドレスが綺麗になろうが、手配書が消えようが、関係ない。

  本質は変わらないのだ。

  アタシという異物は、世界を呪う化け物は、どうあっても罪を犯さずにはいられない。

  血に塗れ、炎に巻かれ、全てを破壊することでしか存在を許されない。

  それがアタシの運命なのだと、全ての希望を諦めた。

  なら、全うしましょう。

  世界の敵として、最悪の災厄として。

  このふざけた喜劇の幕を、アタシの手で引いてやる。

  ひび割れた唇から、最後の一節が零れ落ちる。

  「[[rb:天翔ける神々よ、星海を灼く怨嗟の雷に見伏すが > オスキャ・モスリィーゼ・ガリ]]――」

  「……やめ……て……くだ……サイ……」

  鼓膜の奥底で、幻聴が響いたのかと思った。

  あまりに微かで、あまりに儚い。

  この場を支配する業火の咆哮と、アタシの血管を走り抜ける激流のような血流音にかき消されてしまうはずの、鈴の音が割れたようなノイズ。

  けれど、それは幻聴じゃなかった。

  左足の足首に、何か熱くて、頼りない質量が絡みつく感触があったから。

  アタシは反射的に視線を落とした。

  今まさに、世界へ引導を渡そうとしていた唇が、半開きのまま凍りつく。

  ミーティア。

  全身を血と泥で汚し、息も絶え絶えのはずの彼女が、アタシの足にしがみついていた。

  砕かれた指先で、アタシのドレスの裾を、命綱のように握りしめている。

  腫れ上がった瞼をわずかに開け、焦点の合わない瞳で、必死にアタシを見上げていた。

  「……お姉、サン……」

  喉が詰まっているのか、ヒューヒューという音と共に、言葉が紡がれる。

  「たす、けて……くれて……ありがとう、ござい……マス……」

  馬鹿なの?

  アンタ、今にも殺されそうだったのよ。

  石を投げつけられ、罵声を浴びせられ、火あぶりにされようとしていたのよ。

  なのに、最初に出る言葉が、自分を助けた相手への感謝だなんて。

  彼女の痙攣する唇が、血の泡を吐きながら、さらに動く。

  「けれど……そんなに、怒ったら……」

  彼女の指に、ほんのわずかな力がこもった。

  それは制止。

  世界を焼き尽くそうとするアタシの凶行を、その小さな身体一つで止めようとする意志。

  「せっかくの……可愛いお顔が、台無し……デス……」

  時が、止まった。

  「……周りのヒトたちが……びっくり、して……しまいマスから……」

  脳髄を、巨大なハンマーで殴られたような衝撃が走った。

  可愛い? びっくりする?

  何を言っているの。

  アタシは今、修羅よ。世界を呪う悪魔よ。

  それに対して、顔が台無しだとか、周りが驚くとか、そんなピントのズレた心配を、死にかけの身体でしているというの?

  自分を殺そうとした連中のことを「周りのヒトたち」と呼び、彼らを怖がらせないように気遣うなんて。

  狂っている。

  あまりにも、優しすぎて。あまりにも、純粋すぎて。

  その時、アタシの脳裏に、あの白い空間での記憶がフラッシュバックした。

  神々しい光を纏った彼女が、悪戯っぽく舌を出して言った言葉。

  『ミーがその罪を引き受けマス』

  カシャン、と。

  アタシの中で煮えたぎっていた怒りの炉心に、冷や水がぶちまけられた気がした。

  そうだったわ。

  この子は、自分の人生も、未来も、名誉も、すべてをドブに捨てて、アタシのために罪を被った。

  アタシが「無実の善人」として、幸せに生きること。

  それが、彼女が命を賭して叶えた、たった一つの願い。

  すべては、アタシのためのもの。

  それを、アタシ自身の手で燃やす?

  彼女が守ろうとした世界を、彼女が守ろうとした「アタシの潔白」ごと、灰にする?

  それは、彼女の献身への、この上ない冒涜じゃない。

  アタシのために泥をかぶった彼女の想いを、アタシが踏みにじってどうするのよ。

  杖を握る手が、ガタガタと震え出した。

  振り上げられた拳は、行き場を失って宙を彷徨う。

  足元の少女の、どこまでも愚かで、どこまでも尊いお節介が、暴走するアタシの心臓を鷲掴みにしていた。

  『……お姉、サン……』

  先ほど紡がれた、その他人行儀な呼び名。

  それが、冷たい楔となって、熱り立った胸に突き刺さる。

  やっぱり、そうなのね。

  この子は、アタシのことを覚えていない。

  脳裏で、呪術師としての冷徹な計算式が弾き出される。

  これはロード魔法による時間の巻き戻しじゃない。すでに確定した結果を、無理やりこじ開けて書き換える因果の改変だ。

  かつてアタシが時間を遡るたびに、世界が少しずつ軋み、綻びが生じたように。

  神の御業とはいえ、これだけ大規模な構成変更を行えば、どこかに致命的な歪みが生じるのは道理。

  その歪みが、彼女の記憶野を焼き払ったのか。

  それとも――。

  腫れ上がった瞼の下で揺れる、透き通る瞳を見つめる。

  そこには、理不尽な暴力への恐怖はあっても、自分の運命を呪うような昏い色は一切ない。

  もし、記憶が残っていたら?

  自分が無実であると知りながら、他人の罪を被って石を投げられる屈辱。

  愛する友のために犠牲になったという自負が、痛みと恐怖の中で「なんで私が」という憎悪に変わっていく過程。

  それは、肉体的な死刑よりも遥かに残酷な、精神の凌遅刑に他ならない。

  だから、消したのね。

  あるいは、世界が慈悲として奪ったのか。

  自分が「最初から極悪人だった」と思い込めば、この痛みも罰として受け入れられるから。

  生き地獄の中で、精神が崩壊しないための、哀しい安全装置。

  けれど。

  アタシは息を呑んだ。

  杖を握る手が、重力に負けたようにダラリと下がる。

  記憶がない。アタシとの日々がない。クッキーの味も、星空の約束も、何もかもが白紙の更地。

  今の彼女にとって、アタシはただの「突然現れた、大量殺戮を行おうとしている不審な女」でしかないはず。

  なのに。

  彼女は、血反吐を吐きながら、アタシの心配をしている。

  自分を虐げた群衆を守ろうとしている。

  憎しみで歪んだアタシの修羅の形相を見て、怯えるどころか「もったいない」と悲しんでいる。

  変わらない。

  何一つ、変わっていないじゃない。

  記憶が消去されても、その魂の根底に刻まれた善性は、いつも通り。

  誰に教えられたわけでもない。

  損得勘定でもない。

  ただ、目の前で泣いている魂があれば、放っておけない。

  それが、赤の他人であっても。世界の敵であっても。

  本当に、どこまでもこの子は。

  アタシは、呆れを通り越して、脱力してしまった。

  怒りで沸騰していた血液が、急速に冷却されていく。

  殺意が消えたわけじゃない。この醜い有象無象どもへの憎悪は、依然として腹の底でドロドロと渦巻いている。

  けれど、それ以上に。

  この小さな身体一つで、世界の理不尽を全て引き受けようとする彼女の誇り高さに、完敗してしまったのだ。

  アタシが灰にしようとしているのは、ゴミ屑どもだけじゃない。

  彼女が命懸けで守ろうとした「アタシの潔白」と、彼女自身の「覚悟」だ。

  それを燃やす権利なんて、アタシにはない。

  「……ふぅ」

  アタシは大きく、長く、肺に溜まった熱気を吐き出した。

  張り詰めていた指の力を抜く。

  ミシミシと悲鳴を上げていた樫の木の杖を、宥めるように優しく撫でる。

  「いい子ね。……食事はお預けよ」

  空間を歪めていた重圧が、霧散する。

  臨界点まで高められていた魔力回路を、強制的に閉じる。

  それは、暴走する機関車のブレーキを素手で止めるような荒業だったけれど、不思議と痛みはなかった。

  世界から色が戻ってくる。

  アタシの怒りで塗り潰されていた赤と黒の景色が、パラパラと剥がれ落ちていく。

  干上がりかけていた空気が、再び湿り気を取り戻す。

  頬を撫でる風が、熱風から、ひんやりとした秋の風へと変わった。

  静寂。

  炭化した大木と、煤けた広場。

  そして、呼吸を忘れて立ち尽くす人々だけが残された。

  誰も動かない。自分がなぜ助かったのか、目の前の悪魔がなぜ止まったのか、理解できていないのだ。

  まるで、死にかけていた世界そのものが、危機を脱して「助かった」と安堵のため息を漏らしたような、奇妙な静けさだった。

  アタシは冷ややかな瞳で、マヌケ面を晒している群衆を一瞥する。

  殺す価値もない。

  そう思わせてくれたのは、アタシの慈悲じゃない。足元の少女のおかげよ。

  「勘違いするんじゃないわよ」

  誰に聞かせるでもなく、アタシは世界に向かって吐き捨てる。

  「アンタたちが生き延びたのは、この子の顔を立ててやったからよ。……この借りは、高くつくと思いなさい」

  言い放つと同時に、アタシは杖を高く掲げた。

  攻撃魔法じゃない。

  この場からドロンするための、目眩まし。

  「[[rb:瞬きすら許さぬ極光よ、愚者の網膜を焼き尽くせ> ルクリレ・ヴァン]]!」

  杖の先端から、太陽が破裂したような強烈な閃光が迸る。

  視界の全てが白一色に染まり、網膜を焼かれた人々が「うわぁっ!」と目を覆ってうずくまる気配がした。

  その隙に、アタシは足元のミーティアをひょいと抱き上げる。

  軽い。あまりにも軽すぎて、涙が出そうになる。

  けれど、その温もりだけは、確かにここにある。

  アタシは彼女を強く抱きしめ、地面を蹴った。

  展開するのは、長距離転移の術式。

  座標は、北の山を超えた先の丘。

  かつての世界で、最後の星空を見上げた、あの場所へ。

  浮遊感と共に、アタシたちの身体が粒子となって世界から溶け出した。

  [newpage]

  空間が捩れる不快な浮遊感が唐突に途切れ、足の裏に土の感触が戻ってきた。

  同時に、閉じていた瞼を、強烈な太陽の光が灼いた。

  目を開ける。

  視界いっぱいに広がったのは、目が痛くなるほどの鮮やかな青空と、風に波打つ緑のススキの原だった。誰もいない丘の上。

  平和そのものの陽光が降り注ぎ、ひばりのさえずりが遠くで聞こえる。

  つい先刻までの、ドロドロとした殺意と煤煙にまみれた地獄が嘘のよう。

  アタシは膝から崩れ落ちるようにして、抱きかかえていたミーティアを草の上に横たえた。

  日差しは暖かいけれど、吹き抜ける風は少し冷たい。

  寝台も、薬も、包帯すらない野ざらしの場所。

  けれど、ここには何よりも必要な「静寂」がある。

  あの騒がしい広場じゃ、骨の髄まで届くような繊細な神経接続の修復なんて、とてもできなかったわ。

  「……っ、じっとしてなさい。時間はかかるけど、絶対に治してあげるから」

  アタシは震える指先を、彼女の胸元にかざした。

  大きく息を吸い込み、肺の中の淀んだ空気を、丘の澄んだ空気と入れ替える。

  治癒魔法の構成を開始。

  薬がない分は、アタシの魔力を直接生命力に変換して補うしかない。

  それは自らの寿命を削るに等しい行為だけれど、迷いはなかった。

  淡い緑色の燐光が指先から溢れ出し、彼女の痛々しい傷口へと吸い込まれていく。

  ぱっくりと割れていた皮膚が、時間を早回しにしたように塞がっていく。

  けれど、深い。

  内臓へのダメージと、全身の打撲。

  アタシは額に玉のような汗を浮かべながら、顕微鏡を覗き込むような集中力で、一つ一つの細胞を励起させていく。

  時間が、溶けるように過ぎていった。

  真上にあった太陽が、ゆっくりと西の空へと傾いていく。

  ススキの影が長く伸び、空が茜色に染まり、やがて紫色の帳が下りてくる。

  気温が下がり、夜行性の虫たちが鳴き始めても、アタシは石像のように動かず、ただ魔力を注ぎ続けた。

  魔力回路がオーバーヒートして悲鳴を上げ、視界が明滅しても、この手を止めるわけにはいかない。

  ……どれくらいの時間が経っただろうか。

  致命傷となっていた肋骨のヒビと、頭部の裂傷を完全に塞ぎ終えた頃には、世界はすっかり夜の闇に沈んでいた。

  「……ん、ぅ……」

  小さな呻き声と共に、彼女の瞼が微かに震えた。

  琥珀色の瞳が、ゆっくりと開かれる。

  焦点が定まらない様子で、ぼんやりとアタシを捉え、そして自分が置かれた状況を確認するように、頭上の星空へと視線を彷徨わせた。

  「……どう、シテ……?」

  掠れた、枯れ葉が擦れるような声だった。

  彼女は身を起こそうとして、力が入らないのか、再び草の上へと崩れ落ちる。

  その視線は、恐怖と、それ以上の困惑に揺れていた。

  「どうして……ミーを、助けたんデスか……?」

  彼女は自分の身体を見下ろし、綺麗に塞がった傷跡を信じられないものを見るように撫でた。

  「ミーは、悪い魔獣なんデスよ……? 街の人たちが、そう言ってまシタ。お店を燃やしたのも、子供を傷つけたのも、全部ミーがやったことだって……」

  悲痛な独白。

  記憶がない彼女にとって、周囲の罵倒こそが世界の真実なのだ。

  自分がやった覚えがなくても、世界中がそう言うなら、自分はそういう化け物なのだと。そうやって理不尽を飲み込むことに慣れきってしまっている。

  「それに……こんなこと、はじめて……デス」

  彼女の瞳から、大粒の雫がこぼれ落ちた。

  星明かりを反射して、キラキラと頬を伝う。

  「誰かに優しくしてもらったことなんて……生まれてから一度も、なかったのに……」

  その言葉が、アタシの疲弊しきった心臓を、鋭利な刃物で抉る。

  そうね。この世界線のアンタは、アタシと出会っていない。

  クッキーを焼いて褒められたことも、一緒に星空を眺めたことも、全てなかったことになっている。

  ただ孤独に、誰からも愛されず、最後には濡れ衣を着せられて殺されかけただけの、悲惨な人生。

  唇を噛み締める。

  鉄の味が口の中に広がった。

  本当なら、叫び出してしまいたい。

  アンタはアタシの友達だと。世界で一番大切な、かけがえのない宝物なのだと。

  抱きしめて、その温もりを確かめ合いたい。

  けれど、それは許されない。

  今の彼女にとって、アタシはただの「通りすがりの狂人」でしかないのだから。

  記憶を持たない彼女に、アタシの重すぎる感情を押し付けるわけにはいかない。

  だから、アタシは精一杯の虚勢を張って、鼻を鳴らした。

  「……アタシの、ただの『我が儘』よ」

  冷たく突き放すような物言い。

  けれど、ドレスの膝を握りしめるアタシの手は、白くなるほど強く震えていた。

  「わが、まま……?」

  「そうよ。アタシはアタシのやりたいようにやるだけ。アンタを助けたのも、あの連中が気に入らなかったから。それだけの理由よ」

  ミーティアがぽかんと口を開け、不思議そうな顔でアタシを見つめている。

  わけがわからないでしょうね。

  通りすがりの他人が、気まぐれで世界を敵に回してまで自分を救うなんて。

  でも、それでいい。

  理由なんて、アタシの胸の中にだけあればいい。

  アタシは彼女から視線を外し、逃げるように空を見上げた。

  そこには、あの時と同じ、息を呑むような満天の星空が広がっていた。

  数えきれないほどの光の粒が、黒いビロードのような夜空に散りばめられている。

  地上でどれほど醜い争いがあろうと、どれほど理不尽な悲劇が起きようと、星たちは何も語らず、ただ静かに瞬いている。

  その光は、残酷なほどに平等だった。

  英雄にも、罪人にも。

  高潔な魔獣にも、忌み嫌われる魔獣にも。

  分け隔てなく降り注ぐ、冷たくて美しい、遠い過去からの輝き。

  アタシたちは、その圧倒的な静寂の下で、世界から弾き出されたたった二つの異物として、小さく呼吸を重ねていた。

  ふと、肺いっぱいに夜気を吸い込む。

  ……ああ。

  味が、違う。

  かつて、あの陰気な屋敷で吸っていた空気は、常にカビと古い羊皮紙の臭いがして、アタシの舌には何ひとつ馴染まなかった。

  息をするたびに、見えないコルセットで内臓を締め上げられているような、窮屈な窒息感があった。

  けれど、今はどうかしら。

  土の匂い。草の香り。そして、隣で眠る獣の匂い。

  それらが混じり合ったこの空気は、驚くほど甘く、アタシの肺の隅々まで抵抗なく染み渡っていく。

  なんて――清々しいのかしら。

  胸の奥で、カチンと音がした気がした。

  それは、無理やり押し込められていた鋳型が熱で溶け落ちる音。

  「高尚なる呪術師」だとか「名家の令嬢」だとか、アタシをがんじがらめに縛り付けていた鎖が、音を立てて焼き切れていく開放の音。

  口元から、抑えきれない笑みが零れ落ちた。

  クツ、と喉が鳴る。

  もっと早く、こうしてしまえば良かったのよ。

  いい子を演じて、完璧なカーテシーをして、誰かに愛されようと媚びを売るなんて、時間の無駄だった。

  どうせ愛されないのなら、どうせ理解されないのなら、理解してもらえる「共犯者」が一人いれば、それでいいじゃない。

  アタシがこの世界にとっての異物であり、毒を撒き散らす災厄だというなら、上等よ。

  同じ災厄同士、世界の爪弾き者同士、傷を舐め合って生きてやる。

  夜風が、アタシの髪を掻き乱し、頬を優しく撫でていく。

  今の気分?

  ええ、最高よ。

  この腐ったマジリシアで、最高に愛おしい相棒と生き抜いてみせる。

  アタシはもう、誰の指図も受けない。親の期待も、世間の目も、法律も、知ったことじゃない。

  極悪非道? 世界の敵?

  結構じゃないの。

  それが、アタシがアタシとして生きるための、唯一の作法なのだから。