5話

  ☆☆☆

  竹中努は、アタシの自慢の『兄貴』だ。

  いつも穏やかで、頭も良くて運動神経も抜群。そして何よりアタシのことを可愛がってくれる最高の兄貴だ。

  そんな兄貴が、アタシは大好きだった。

  どんなに我儘を言っても優しく受け止めてくれるし、何かあるとすぐに駆けつけてくれるヒーローのような存在だ。

  『陽菜、大丈夫か』そう言って頭を撫でてくれる兄貴の手の暖かさを感じるだけで、アタシの心は幸せでいっぱいになる。

  昔からそうだった。アタシは兄貴が居ればそれだけで良かったのだ。

  兄貴が大学に入ってから、前ほど家にいてくれないのが少し寂しかったけど。

  パパとママは『お兄ちゃんにだって彼女の一人くらいいるのよ』と言っていたけど、アタシはそんな心配していなかった。

  だって兄貴だもん。そんなのありえない。

  兄貴の好みのタイプなんて、きっとすごい運動神経抜群そうで、強くてかっこいい人なんだろうなってアタシは勝手に想像している。

  アタシが兄貴に倣ってスポーツを始めたのも、それがきっかけだ。そういう女性になれるよう日々努力している。

  でも、兄貴だったらそんな人に巡り合えたらきっと、アタシに真っ先に紹介しているに違いない。

  だって、アタシは兄貴の自慢の『妹』だもん。

  それにアタシは知っている。兄貴がたまに連れてくる大学の友達だって、男しかいない。

  特に仲の良い中山さんは、ひょろっとしてどこか頼りない感じ。

  大学の事を聞いたって大体このヒトの話ばっか。

  兄貴以外のオトコの人って、みんなああいう感じなのかな。

  中山さんは兄貴とは大違いだ。

  兄貴はもっと筋肉がついてて、それにすごくかっこよくて……アタシの理想だから。

  中山さんはアタシに気さくに話しかけてきてくれるけど、アタシは少し不満だ。

  『竹中のやつ、酔うといつも陽菜ちゃんの事ばっか自慢してるんだよ』なんて。

  兄貴が家でお酒を飲んだりなんかしてるところ一度も見たことがない。

  だからアタシは兄貴がお酒を飲んで、酔っているところなんて一度も見た事がない。

  中山さんはアタシの知らない兄貴の事を知っていて、兄貴もちょっと嬉しそうに中山さんの話をして。

  不公平だ。

  そんなの不公平だ。

  兄貴はアタシの自慢なのに、最近は中山さんの方が兄貴の事をよく知ってそうで悔しい。

  まあでも、中山さんが兄貴と仲良くしている限りは兄貴に突然恋人が出来て、うちに連れてくるなんてことはないんだろうけど。

  しかしなんでその事にアタシが安堵しなくちゃならないのか、よく分からない。

  アタシなんかよりもずっとカッコいい女の人を隣に、いつもの仏頂面を崩して楽しそうにしている兄貴を想像して、アタシは深くため息をついた。

  そんなどうしようもないことを考えていると、遠くから声が聞こえてくる。

  いけないいけない、ペースを速くしすぎた。

  涼し気な風の吹く山の中、部活の合宿の最終日。

  私はコーチにどやされない程度のペースで山道を駆け抜た。

  

  ☆☆☆

  1週間の合宿を終えて、アタシは久々に地元の土を踏んだ。

  スマホの電波も届かない山奥に合宿先を選んだのはキャプテンである自分に他ならなかったけど、失敗だったように感じる。

  どうしても兄貴のことが気になってしまったからだ。

  大学だって夏休みだし、いつも通り中山さん達と遊びに行ったり出かけたりしてるんだろう。

  少し、羨ましい。

  そんな時、ちょうどラインに着信が入った。ママからだ。

  『合宿お疲れ様でした♪学校まで車で迎えに行きますので待っててね』

  『ありがとうママ、助かるよ』

  そう返信を返して、私は校門前に張り巡らされたフェンスに背中を預ける。

  ギシりと菱形の集合体が背中に食い込んで、少しだけ形を変えた。

  走って帰る事も出来る距離だけど、荷物も多いし何より疲れていたのもあるだろう。

  待っている間、私は無意識にスマホをいじっていた。

  トークアプリを開き、兄貴とのメッセージ履歴を見返す。

  すると未読のメッセージがいくつかあって目が止まる。

  アタシが合宿先に着いてから送ったのだろう、ネットが繋がる今日まで届いていなかったものだ。

  そのタイミングの悪さに少し苦笑するけど、兄貴らしい。

  そう思いながらも古いものから見ていくと、確認出来るわけもないのに『平気か?』とか

  『ご飯は美味しいか?』とか兄貴らしい文面で、クスリと笑いが込み上げてくる。

  やっぱり、合宿行ってよかったかもしれない。

  そんな事を考えながら読み進めた時だった。

  一番新しいメッセージ。今日のものだった。

  『大事な話がある。合宿から帰ってきたら話しがしたい』

  愕然とした。

  正直、これが1番驚いた。

  『分かった』

  そう短く返すと、スマホをスリープさせて鞄にしまう。

  「……兄貴から大事な話って……なんだろ……」

  頭の中に嫌な予感が過ぎるのを感じながらも私はママの車を待った。

  

  

  ☆☆☆

  ママの軽自動車が校門から少し離れた場所に止まると、アタシは後部座席に荷物を投げ入れて助手席に飛び乗った。

  「ただいま!」

  そう元気よく挨拶をするとママはニッコリと笑ってハンドルを握る。

  「おかえり陽菜ちゃん♪おうちに帰る前にお買い物したいんだけど、大丈夫?」

  「うん、平気だよママ」

  そう言って窓の外に目をやる。見慣れた景色が流れてゆくのをぼーっと見ながら呆けていると、ママはぽつりと口を開いた。

  「ねえ陽菜ちゃん……。今日ね、陽菜ちゃんの合宿お疲れ様パーティーしようと思ってるんだけど、疲れてない?」

  「え?……いやいや全然へーき!」

  合宿の疲れなんて一気に吹き飛んでしまった。私は驚きと嬉しさが入り混じった表情でママに言う。

  「兄貴も来るんだよね……?」

  「もちろん♪陽菜ちゃんの大好きなもの沢山作ってくれるって♪」

  そう言って笑うママの顔は本当に嬉しそうで、アタシはそれだけで幸せだった。

  「……あ!あとね、陽菜ちゃん」

  いきなりママの声色が神妙になって、思わず身を強張らせる。

  「陽菜ちゃんはお兄ちゃんの事……勿論大好きよね?」

  「そ、そりゃ大好きに決まってるじゃん!……なにもうママ」

  あまりの不自然さにそう突っ込むと、ママは少し困ったように笑いながら言う。

  「あのね陽菜ちゃん……最近お兄ちゃんと連絡取ってる?」

  「……へ?連絡って……?」

  いきなりそんな事を言われてもよくわからなかった。いや、嘘だ。本当は心当たりがある。だからこそ動揺したのだ。

  『大事な話がある』

  そんな兄貴からのメッセージを思い出して鼓動が早くなるのを感じた。

  ママのこの態度と言い、恐らく家に帰ったら、兄貴と『何か』が待ち構えている。

  そんな予感がするのだ。

  「……えーと、合宿行ってる間は特になかったけど、いつも通りだよ……」

  そう答えると、ママは少しほっとしたようにして続ける。

  「そう……ならお兄ちゃんの事、しっかり祝ってあげないとね。意地悪な事しちゃダメよ?」

  「……うん」

  正直、兄貴とも、『その人』ともまともに会話が出来る自信はなかったけど、そんな不安を掻き消すように明るく振る舞った。

  そんなアタシを横目で見ながらママは微笑む。

  「……きっとお兄ちゃんもそうしたら喜んでくれるわよ♪」

  そう言うと車は丁度酒屋の前で左折して、駐車場に止まっていった。

  ☆☆☆

  家に帰ると、既に玄関の前にパパが立っていた。

  「陽菜~!おかえり、会いたかったよ~♪」

  「ただいまパパ!どうしたの?」

  ぎゅうぎゅうと抱きしめてくるパパの腕に困惑しながらもその抱擁を受け入れる。

  そんな私達を微笑ましそうに見ながらママは言う。

  「お兄ちゃん『たち』、陽菜ちゃんの大好きな物沢山作ってくれてるらしいわよ♪楽しみね♪」

  『たち』。

  曖昧なやり取りの応酬でも分かっていたとは言え、結構効く。

  いきなりのしかかってきた既成事実に胃が重たくなるのを感じる。

  正直、扉を開けて玄関より先に足を踏み入れたくはなかった。

  自分の家なのに、何でこんなにも入りにくいんだろうか。

  (ママのジョークで、兄貴と中山さんが待ち構えてるとかは……ないよね)

  それは兄貴の性格とメッセージで薄々気付いてはいた事なのに。

  そんな中パパが私の荷物を片手に持っているのを見て、ママは買ってきたお酒の袋をパパに預けて言う。

  「さあさあ!お兄ちゃん『たち』も待ってるし早く上がっちゃいましょ♪」

  ママはそう言って玄関を開けてくれた。

  見慣れた我が家の玄関の景色を目の当たりにして、私は深くため息をついた。

  兄貴のデカいサイズのスニーカーの隣には、見慣れぬサンダル。

  可愛らしいデザインの、ヒールの付いたストラップミュールだった。

  たまに見かける兄貴より少し小さなメンズのサンダルじゃ、ない。

  私は無意識に唾を飲むと、意を決して家の中に上がった。

  リビングまで続く廊下を歩く間、ママもパパも一言も言葉を発さなかった。

  それがまるで逃げ道を塞ぐように感じられて、背中にじっとりと汗が滲むのを感じた。

  私はゆっくりとリビングへのドアの前に立つ。するとそこにはいつもと変わらない風景が広がっていると信じて疑わなかった。

  兄貴が台所に立ちながら黙々と料理をして、私を見ると少し嬉しそうな顔をしてくれる。

  何もおかしいところなんてないのだ。兄貴はアタシの大事な家族だもの。

  さあ、扉を開けよう。きっとパパとママが心配することなんて何もないよ、そう言ってくれるはずなんだ。

  そう思いながらドアノブに手をかける。ガチャリと音を立てて扉が開く。

  目の前に現れたのは思っていた通りの光景で、兄貴が台所に立ちながらこっちを振り向いている姿だった。

  「おかえり陽菜」

  エプロン姿の兄貴は、そう言いながら少し微笑んでいて。

  なんだ、なんだ。やっぱりいつも通りの兄貴だ。

  「兄貴……ただいま」

  緊張で上手く顔が見れない。俯きながら返事をすると、兄貴が微笑んだままこっちを見て言った。

  「待ってたぞ。お前の好きなの沢山作ったんだ、腹減っただろ?もう準備はできてる」

  「そ、そうだね兄貴……アタシお腹ぺこぺこだけどさ……」

  そう言いながら私はもじもじと身体を動かす。

  そんなアタシに気付いたのかそうでないのか知らないけど、兄貴は後ろを振り向いて『ほら、来い』と誰かに声をかけている。

  それに気付いたのか、兄貴の背中からひょっこりと『その人』が現れた。

  「ひ、陽菜ちゃん……おかえりなさい」

  おずおずと気まずそうに出てくるその姿を見て私はただ、愕然としていた。

  切れ長の大きな目と長いまつ毛。

  真っ白で青い静脈が透き通って見えそうな肌。

  何処か見覚えのあるパーマのかかった髪に、細い腕。

  花柄の清楚な印象を醸し出すワンピースに、ゴツゴツした兄貴の趣味とは思えないヒールサンダルの主。

  そしてアタシと同じくらいの背丈のその人は、アタシを少し警戒するように見ている。

  そんなアタシを置き去りにするかのように兄貴は言う。

  「陽菜、紹介させてくれ。こいつが……」

  やめろ。聞きたくない。やめてくれよ兄貴。

  だけどそんなアタシの心は兄貴には伝わらないのか、あっさりとその事実を口にするんだ。

  「俺のだ「『大学の友人』の『中山幸(なかやま さき)』です!よろしくお願いします!!」」

  兄貴の言葉を遮るように、兄貴の太い腕に細い腕を絡めた『その人』は笑顔でアタシにそう自己紹介をする。

  それを見たアタシは只々呆然とするしかなかった。

  ☆☆☆

  ああ、ああ。

  なんでこんな事になってしまったのだろう。

  俺は厚い一枚板の大きなダイニングテーブルの席にちょこんと鎮座したまま、間の悪い空気の中ただただ作り笑いを浮かべていた。

  隣には竹中が居て、目の前には竹中のご両親が居て。

  上座には竹中の妹の陽菜ちゃんが居て。

  どことなしか警戒と威嚇とが混ざったような強ばった表情で俺の方を見ていた。

  俺『達』がこのような状況に陥ってしまった原因は、他ならない俺にあるのだ。

  ベッドを再起不能なレベルにまで自分の体液でドロドロに汚してしまった俺を、何事もなかったように起きてきた竹中はいつもの調子で何も言わないままベッドを片付けるのを手伝ってくれた。

  替えの布団も無ければ来客用の布団なんてものも無かった俺の部屋だ。何人か飲みに来た日には床で寝っ転がって雑魚寝なんてこともよくあった。

  「あ~、バイト代入るまで床で寝るのかあ……」

  自分の中の衝動的な性欲と死闘した結果なので仕方のない事かもしれないが、やはり少し情けない。

  一緒になって黙々と部屋の掃除をする竹中は何も覚えていないだろうし、この布団を『駄目』にした液体について、なにも聞きもしなければ気にも留めていない風だ。

  トイレでの事も『そういうもの』と割り切っているのだろう。

  竹中がそんな風に軽く流しているのを良い事に、俺は今日からの心配ばかりしていたのだ。

  しかし竹中は先程までの死にそうな雰囲気から一転して、寧ろキビキビとした動きに磨きすらかかっている。

  (元気なもんだよなあ……それに比べて俺は……)

  角の先からしっぽの先まで経験した事のない絶頂に襲われた俺は内股に少し違和感が残っているのを感じて、小さくため息をつく。

  あれだけ強く快感を貪ったせいか、今はマシになったようだったけど未だ身体中は熱を帯びており、風呂上がりの濡れた髪のようにじとりと纏わりついて俺を落ち着かせてくれなかった。

  「幸、ここはこれで良い。シーツをゴミ袋に入れるの手伝ってくれ」

  「はいはい……」

  掛け布団も敷布団も燃えるごみの仲間入りだ。これからの生活を思うと本当に先が思いやられる。

  そう思いながら俺はベッドにかけられたシーツをべろりと剥がすと、竹中と一緒に丸めてゴミ袋に押し込んでいく。

  「幸」

  すっかり俺の事を仮名で呼ぶことにも慣れた竹中が、俺の名前を呼んだ。

  「な~に~。おにいちゃん」

  シーツを丸めながら妹モードで返事をすると、少し間を置いてから竹中は口を開いた。

  「俺の家に来い」

  「へ?何言ってんの?」

  唐突な提案に俺は思わず間抜けな声が出てしまった。

  そんな俺を竹中は真っすぐと見つめてくる。

  「街に行くのも、うちから通った方が絶対にいい」

  「い、いやでも迷惑だろ……」

  まさかの提案に俺は戸惑いながら答える。

  確かにこいつの家は街の中心から少し離れたくらいの閑静な住宅街にあって、こんな安いだけが取り柄の立地の悪いアパートとは訳が違う。

  そんな俺の言葉を遮るように竹中は続けた。

  「気にするな。親父もお袋も、陽菜も何とも思わないと思う」

  (なんだその思い込み!?)

  今まで忘れていた罪悪感がまたじわじわと俺を襲い始める。

  俺がやっている事は、ひたすらに竹中努の生活に迷惑を掛け続けていくばかりで、終いにはその家族すら巻き込もうとしているのだ。

  しかもその理由はただ己の欲求を満たすためで、自慰を覚えたてのガキかと思うような俺の行為に何の見返りもない。

  こいつの両親は勿論の事、陽菜ちゃんの気持ちを考えると胸が張り裂けそうになる。

  「でも……」

  俺が尚も言い淀んでいると竹中が酷く憂鬱そうな顔でため息をつく。

  そして俺にとって一番恐ろしい言葉を言い放つのだった。

  「……俺は、お前を独りにはしたくない」

  その言葉を聞いた瞬間に息が詰まって、思わずヒュッと喉が鳴った。

  見開いた目で竹中を見ていると、少しだけ笑った竹中は俺に諭すように言った。

  「うちに来い」

  (……このお人好しめ)

  そんな風に言われたら断れるわけないじゃないか。

  俺が無言で頷くと、竹中は俺の背中を優しくさすった。

  そんな優しさすら、俺の罪悪感を増長させてしまって居たたまれ無くなりながらも、小さくなった手でぎゅっとおにいちゃんの大きな背中を抱きしめる。

  「よろしく、おねがいします」

  掠れてしまった声でそう言うと、竹中は酷くホッとしたのか大きく息を一つ吐いた。

  「任せておけ、おにいちゃんに」

  そんな頼もしい声が俺の耳元に聞こえてきて、少しだけ嬉しくなる自分がいた。

  ☆☆☆

  「お前んちに行く前に、ほらこれ」

  俺は、竹中にスティック状の爪やすりを手渡した。

  ネイルケアにも興味が出ていたので、買っていた代物だ。

  竹中は無表情のままそれを眺めるばかりで要領を得ないと言わんばかりの顔をする。

  「これは」

  「あたまの角、とんがってて危ないからさ。やすりで削って欲しい」

  そう言って俺は頭に生えた角を指差す。

  まだ髪の毛で隠そうと頑張ればカバーできなくはない大きさだけど、不意に刺さりでもしたら危険だ。

  しっぽをゆらゆらさせながら俺は竹中に催促する。

  「じぶんでやってもいいけどさ、洗面台の鏡見ながらだとやり辛いしよ……」

  半分本当で半分嘘だ。この非常に敏感な器官である角を下手に扱いでもしたら、また良からぬ快感に襲われて変な声が出てしまうだろう。

  その点、竹中に任せるのもアリかもしれない、と昨日の一件と先ほどまでの情事で俺はそう思い始めて来ていた。

  誰かに身をゆだねる、甘える。

  酒に酔えば簡単かもしれないが、素面の俺には難しい行為だった。

  竹中は手の平に爪やすりを乗せると、しげしげと眺めた後暫くしてから意を決したように俺に言ってきた。

  「わかった……上手くできるかわからんがやってみよう」

  それを聞いて俺は心の中でガッツポーズを決めた。

  胡坐をかいたまま、大きな身体に背を預けるようにすると、

  竹中がゆっくりと俺の角に爪やすりをあてた。

  ゴリゴリと、力いっぱいやられてたらきっと飛び跳ねてまた竹中の指は悲惨な事になっていただろう。

  やすりで優しく角を削られる感触は、撫でられるのとはまた違った心地よさがあった。

  敏感な部位を誰かに預けているという背徳的な行為に、背筋がぞくぞくと震える。

  思わず漏れそうになる声を、歯を食いしばって必死に我慢した。

  (あぁ……すげーいい)

  俺はそんな風に思いながらも竹中の手つきに意識を添わしていた。

  結構集中して削っているのか、無言のままザリザリとやすりが動く音だけがする。

  角の根元のあたりは神経が集まっているのか少しだけピリピリする感覚があったが、その痛みさえも今は甘美な快感だった。

  そうして暫く、ザリザリとやすりが擦れる音だけが聞こえてくる。

  夢中になって角を削る竹中を背中に感じて俺は小さくため息をついた。

  顔も見れないけど大きな手と角が擦れる音だけが俺に安心感を与えてくれる。

  「痛くないか?」

  まるで床屋さんのシャンプーの時のような聞き方。

  「うん、気持ちいい」

  そんな風に返すと竹中はそうか、と短く言った。

  指で角を抑えられながら削られると、本当に床屋の時と変わらず目を瞑ってしまう。

  なんとも言えない心地よさと安心感に俺は夢見心地のままうとうとしてしまう。

  (これ……癖になりそうだなあ)

  そんな小さな幸せに少し後ろめたさを感じながらも、今の俺には安らかな時間だった。

  やがてザリザリとやすりが擦れる音が止み、竹中が耳元で囁く。

  「こんなもんでどうだ」

  俺は指で恐る恐る触ってみると、もうすっかり角が丸みを帯びて綺麗に削られていた。

  竹中は最後にやすりの微調整をしていたのか、余計なところまで削られていることもなく丁度いい具合に削れていた。

  「ありがと……すっげえいいじゃん」

  俺がそう言って振り返ると、竹中は少し得意げに笑っていた。

  ☆☆☆

  竹中の両親とは『以前の俺』の時に幾度か面識があった。

  だけれども、今日は、いやこれから?は『以前とは違うわたし』として顔合わせをする事になる。

  衣服等を旅行鞄に纏めて、さながら俺は駆け落ち中のカップルのような気分になりながら、大きな一軒家を見上げていた。

  竹中は軽くやつの両親に電話をして少し話をして切ったあと、俺に向かって頷いてきた。

  その首肯がどういう意味なのかさっぱりわからなかったが、とりあえず竹中の家に行くと言う後に引けない状況で、俺は意を決して玄関のインターホンを押した。

  「ごめんくださーい……」

  緊張のあまり声が少し上擦ってしまう。

  「は~い!ちょっとおまちくださ~い」

  インターホンの応答が返ってくるや否や、女性の声が家の中から聞こえてきた。

  しばらくするとドタバタと足音が聞こえてドアが開かれ、そこから一人の女性が姿を現して俺に向かって笑顔を向けた。

  「こんにちは!あなたが幸ちゃんね!」

  「こ、こんにちは……はい、中山幸です。よろしくおねがいします」

  丁寧にお辞儀をすると竹中の母親はニコニコしながら俺を家に招き入れてくれた。

  「そんなに緊張しなくて大丈夫よ~!さ!入って入って!努も突っ立ってないで家に上がる!」

  竹中母はそう言って俺と竹中をまとめて家に入れてくれた。

  リビングに入ると、そこには竹中によく似た男性がソファでくつろいでいて、俺たちに気が付くと気さくに話しかけてきた。

  俺が呆けて立っていると、男性の方が俺に近付いてきた。

  「君が幸ちゃんかい?努から話は聞いているよ」

  男性は穏やかに微笑みながらそう言うと、俺の手をぎゅっと握って握手してきた。

  「あ……は、はい!はじめまして!いきなりお邪魔してしまって申し訳ありません……」

  突然の接触に思わず動揺してしまうが、その男性、竹中父も俺の事をじっと観察するように見つめてくる。

  「ふむ……努とは大違いのしっかりした子だ。さ、幸ちゃん」

  そう言うと竹中父は俺の背中をぽんと押して、テーブルの方に来るように促してきた。

  (ええー!ちょっと何この状況!めちゃくちゃ気まずいんだけど!?)

  そんな事を思いながら俺は半ば強制的に座らされた椅子の上でもじもじとしていると、竹中母がお茶まで用意してくれて俺達の対面に座った。

  「努から話は聞いたわ……大変だったわね」

  そう言いながら女性は眉を下げる。俺は何が何だかわからずに、ただ俯く事しかできなかった。

  そんな俺を見かねたのか、竹中父が俺に話しかけてくる。

  「幸ちゃん、ごめんね。突然でびっくりしただろう?うちは狭いかもだけど落ち着くまで居てくれていいからね」

  (いやもう色々びっくりだけれども!)

  心の中でそう突っ込みを入れていると、竹中がいつもの表情で口を開いた。

  「幸は今、住むところが無いから少しの間だけでいいから。うちに住まわせてやってください」

  こいつ……!サラッととんでもねえこと言いやがったぞ!

  俺が声にならない声を喉で詰まらせていると、竹中母が眉間に皺をよせて早口に喋り始める。

  「何言ってるの努!!少しだけなんて!幸ちゃん女の子なんだから!!ずっとうちに居てほしいわ!」

  いや俺女の子じゃないし……まずいと思った所で俺は声を張り上げる。

  「あの!!!大丈夫です!ご迷惑はお掛けしませんから!!」

  俺の張り上げた声に2人共驚いたのか、時が止まったように静まり返ってしまった。

  俺の言葉の後にも、ただただ静寂が流れていくだけだったので居た堪れなくなりながら俺が口を開いた。

  「あ……す、すみません。突然大きな声出して……。見ず知らずのわたしにこんなに良くして頂いて……本当にありがとうございます。ただ、わたしは、竹中さん達の迷惑にはなりたくないんです」

  色々と言いたい事もあったけど、竹中がどう俺の事を説明したのか全く不明だ。

  たどたどしい敬語で自分の気持ちを何とか伝えると、二人は呆然としたまま俺の話を聞いていた。

  「幸……」

  少し俯いていた竹中が顔を上げて俺の顔を見る。

  あー、もう。

  お前は俺の事をどう説明したらこんな雰囲気になるんだ。

  お前のせいだぞと言わんばかりに少し睨みつけると、竹中は何かを誤魔化すように咳払いをして再び話し始めた。

  「幸は大学の同級生で、俺の大事な人です。よろしくお願いします」

  大事な人?まあ確かにこの場で友人とか親友には適さない関係だから間違いではないけど、も……。

  そんな事を思いながら俺の顔は徐々に真っ赤になり、埴輪の様に固まっていると、目の前の二人は顔を見合わせる。

  「まあ!まあまあ!」

  竹中母の興奮したような高い声に、俺はさらに汗が噴き出てくるのを感じていた。

  「いやまさか努にそんな大事な人が居るなんてね!ほら、お父さんも驚いてるわ!」

  お母さんの言葉に、父である竹中父がうんうんと頷いている。

  いやあのね、おたくの息子さんが口下手で不器用で朴念仁なのは知ってるでしょ!

  もう駄目ですわたし恥ずかしくて死んでしまいます。

  そんな俺の気持ちなど何処吹く風といった様子で二人は盛り上がっていた。

  「嬉しいわ~!やっと努にもそういう子が出来たのねえ~!!」

  「いや、付き合ってはいない」

  竹中が真顔でまたそんな事を言っている。

  ああもう黙っててくれ!なんて心の中で突っ込みを入れていると、竹中父はお茶を飲みながら一息ついて俺の方を見やって言った。

  「……幸ちゃん、いや幸さん」

  「あ、はい……」

  俺よりずっと年上の男性に突然さん付けで名前を呼ばれた事にびくっとしてしまう。

  緊張したまま返事をすると、竹中父の目つきが急に鋭くなり俺を見据えてきた。

  その眼光はけして怒りに満ちているというものではなく長年の人生の苦楽を味わってきた人のもつ重みそのもので、俺は蛇に睨まれた蛙のように体を硬くしてしまった。

  「努は不器用だし、女の子の扱いなんて知らないようなやつだから、幸さんに苦労を掛けると思う」

  「だけど努にとって君はとても大事な人だという事だけは、信じてやってくれないだろうか」

  そう言う竹中父の顔は真面目そのものだった。

  (お父さん……)

  やばい、普通のお話しだったらとっても感動してしまいそうな展開の連続だけど。

  俺はあなたたちに何度か会ったことのある努くんの男友達のひとりで、ぱっとしない奴だという事をこの人達は知らない。

  本当の俺が男だって知った時、ふたりはどういう反応をするんだろうか。

  そんなどうしようもない考えが脳裏をよぎったけど、俺はどうにかして笑顔を浮かべて答えることにした。

  「はい!わたしにとって努くんは……すごく大事な人です。いつも助けてもらってばっかりで、わたしにはもったいないくらい……」

  嘘は言っていない。俺は言葉をどうにか紡ぎだしながら俺は竹中父の顔を見つめる。

  そんな俺の心境を知ってか知らずか、彼はにこやかに笑って「そうか」と呟いたあと再びお茶を飲み始めた。

  それに倣って俺もカップの持ち手に手を掛けると熱くて弾かれるように手を引っ込めた。

  そんな俺の様子を見ていた竹中父が微笑みながら俺に言った。

  「ゆっくりしていってくれ、幸さん」

  ☆☆☆

  そうしていって俺はまさかの今日が、陽菜ちゃんの帰ってくる日だなんて知りもしなかった。

  いや、竹中のやつは知ってて今日家に俺を連れてきたわけなんだけど。

  しかも、1週間の合宿から帰ってきた彼女を労う為のささやかなホームパーティもセットもするのだと言う。

  今日はその準備をしていたようで、でもそれは俺と竹中のせいで『陽菜ちゃんお疲れ様&努くんが彼女連れて来ちゃったよパーティ』に変わってしまっていた。

  俺はそんな事を知る由もなく連れられてきて、ただただ竹中家の面々に言われるがままお手伝いをしていたのだった。

  「はあ……」

  俺はキッチンでお皿を洗いながら一人ため息をつく。

  俺の正体だけは陽菜ちゃんにはばれたくない。

  きっとあの無垢な笑顔が凍り付いてしまうだろう。それはなんとしても避けたい所だ。

  隣の竹中はどこ吹く風と言った様子で次から次へと料理の支度をしていく。

  「幸、もうすぐできるからテーブルに皿を並べてくれないか」

  「ああ、うん」

  俺が皿を棚から取り出してキッチンを出ると、丁度竹中母が車のカギを持って玄関へと足を運ぼうとしている所だった。

  あー、ついに来てしまう。パーティーの主役が。

  俺が皿を落とさないように神経を尖らせていると、竹中母が俺達を見て声をかけてきた。

  「陽菜のお迎え行ってくるから~。お酒、良いの買ってくるわね♪」

  竹中母が出て行ったあと、俺は深く深呼吸をして取り分け皿をテーブルに並べていく。

  あの、竹中を敬愛の目で慕う陽菜ちゃんがいくら兄が連れてきたとは言え他の女(しかも女装している男)が家に居るのを見てどう思うだろうか。

  しかも背格好も同じくらいで、色々と混乱するだろう。

  兄貴の女性のタイプが、いや……そもそも俺は女じゃなくて男だけど。

  でもそんな男が竹中の意中の相手みたいな風に少なくとも竹中家には思われちゃってるわけで……。

  ああ、なんだか俺まで頭がこんがらがって訳が分からなくなってきた。

  竹中父母は俺の見た目についてなんにも突っ込みを入れてこないけど、内心どう思われてるのか考え始めると居ても立ってもいられなくなってきた。

  「幸、皿は並べ終わったか?」

  竹中がキッチンから声を寄越してくる。俺はテーブルに手を着いて力なく答えた。

  「終わった……」

  俺のか細い声を聞いて竹中は不思議に思ったのか、キッチンから顔を出して俺に声を掛けてくる。

  「どうかしたか?」

  そう言って心配そうに俺の顔を覗き込んでくるものだから、俺はたまらず胸に何かがこみ上げてきたのを堪えつつ無理に笑顔を作って言った。

  「なんでもねえよ!さあ陽菜ちゃんが来るぞ!」

  キッチンに戻って竹中の作った料理を大皿に盛り始める。

  今日のメニューはから揚げと煮豚、カルパッチョにサラダに何種類かのマリネ。

  どれも作りたてでほかほかの湯気を立てており食欲をそそる香りが俺の鼻孔を刺激していた。

  (うちの母さんよりめちゃくちゃ料理の手際がいいな……)

  そんな事を思いながら皿を並べ終わると、愛車のエンジン音を察知したのか、竹中父が意気揚々と玄関に走っていくのが見える。

  やばい、ついに陽菜ちゃんの登場だ。

  俺の心臓は緊張のあまりバクバクと激しく波打っていた。

  (落ち着け俺!平常心、平常心で……!)

  そう願いながら祈るようにぎゅっと目を瞑る。

  「兄貴……ただいま」

  どこか元気のない陽菜ちゃんの声が聞こえ、俺の心臓はきゅっと縮み上がった。