Invasion

  不意に、目が覚めた。

  それはきっと、予期せぬ目覚めだった。目覚めた瞬間、俺は直感的にそう思った。

  何故かはわからない。だが次の瞬間にも、その直感は俺の中でふわりと曖昧にほつれ、薄まり、そのまま頼りなく霧散してしまう。残ったのは、何かがそこにあったらしいという、穴の開いた手触りだけ。しかしそれもすぐ、打ち寄せる波に洗われるようにして、名残すらもわからなくなった。

  その引き換えなのか、波は砂の中に埋もれていた思考をざらざらと洗い出し、泥塗れの輪郭を端から浮かび上がらせていく。

  静止していたハズの回路に、火が戻った。錆び付き、埃を被っていた歯車が、軋みを伴って回り始める。再起動する。

  脳が、神経が、精神が、感覚が、蘇る。

  休眠状態から、覚醒する。

  休眠、覚醒⋯⋯ということは、俺は、眠っていたのだろうか?

  確かに、瞼が下りている感覚がある。視界がないのはそのためだ。当然のことに遅ればせながら気づいたところで、俺はやおら目を開けた。

  そうして目の前に広がるのは、黒く暗い空間。見たこともない、異様な光景。どれほどの広さがあるかも見通せない。何処までも終わりなく続いているようにさえ見える、果てのない、冷たく遠い景色。

  まずイメージしたのは、宇宙空間だ。所々に青白い光がポツポツと浮かんでいるのもそれらしい。

  だがもちろん、夢でもなければそんなことはあり得ない。先程意識を取り戻したのが事実だとするなら、目の前の光景は紛れもなく現実だ。

  それに、この光景を宇宙空間とするには、些か以上に余計な物が、すぐ目の前に存在していた。仄青い光に照らし出されて浮かび上がって見えるのは、男の裸体。背中だ。白い毛並みの、恐らくは狼だろう。

  何故、そんなものが目の前に見えるのか。この空間は何なのか。状況を上手く理解出来ない。

  何か、もっと他に情報を得られないかとその背中をよくよく観察しようとして、俺はすぐにその異変に思い至った。

  その背中には、あるべき物がないのだ。

  それも一つどころではなく、もっと、沢山の物が不足している。欠落して、欠損してしまっている。あって然るべき重要な物が、ことごとくそこにはなかった。

  まずは、尻尾。彼が狼だとするなら、腰から尻の割れ目にかけての中間、そこにフサフサとした長い尻尾がなくてはならない。だが、見ている限り、そこにそれらしき物は見当たらない。

  本来それがあるべき場所には、何か金属質な光沢が見える。例えるなら、電源アダプターの差し込み口が近いだろうか。

  加えて、彼には手足がなかった。二の腕と太股の位置から、その先がない。断面に血や肉の色はなく、そこにも金属的な光が見えた。

  非常に、現実味の薄い光景だ。

  紛れもなく現実とした先の判断を、今にも覆したくなる。

  それがよく出来た作り物であると言われた方が、まだ納得がいく。そこにあるのは未完成の人形で、手足と尻尾はこれから取り付けるのだと。それなら、どれだけよかっただろうか。

  しかし、そうではない。

  ソレは⋯⋯彼は、確かに呼吸をしている。背中越しにも、そのことがハッキリと見てわかった。深く、大きく、長く、彼はゆっくりと息をしている。

  目の前にいるのは、紛れもなく生きた人間だ。

  そのハズだ。少なくとも、俺の目にはそう見える。

  では、触れた感触ではどうだろう。手触りや体温、触覚から得られる情報は、それが生物か非生物かを確かめる上で大きな助けになる。

  そんなことはわかりきってる。

  だから、早く手を伸ばせ。

  何も難しいことなんてないだろう。

  普段、生活の中でしている動作だ。

  物を取る時。パンを食べる時。部屋を出る時。電気を消す時。銃を撃つ時。

  利き手の右腕を、前方に向かって伸ばす。

  たったそれだけの動作が、今の俺にはどうしても出来なかった。

  首から下の感覚がない。動かせないどころか、何も感じない。丁度、手術の際に麻酔をかけられた時と同じ感覚だ。どんなに命令しても、どんなに集中しても、首を境目にして神経がふっつり途絶えてしまっているように、感覚がない。

  どうしてだ。何故そんなことになっている?

  そもそも、何がどうなっている。俺の身に、いったい何が起きているというのか。

  明瞭になっていく思考とは裏腹に、寧ろ反比例して深まっていく混乱。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせても、逆に不安ばかりが膨らんでしまう。感覚がないハズの心臓が、冷たく鼓動を強めていくのが、確かにハッキリとわかった。

  落ち着け。落ち着くんだ。

  とにかく、目の前のことより、目の前の誰かのことよりもまず、自分自信を見つめることの方が先決だろう。

  喉の奥から這い上がってくる嘔吐感と焦燥に急かされながら、俺は身体の中で唯一感覚のある首を頼りに、自分の身体を見下ろした。

  傷んだ黄色に走る黒縞模様。見慣れた自分の毛並みだ。鍛えて膨らんだ大胸筋から、下に向かって深く刻まれた腹筋の筋も、記憶の中と何一つ変わらず。臍を通り越し、その下にぶら下がるナニまで、全くいつもの通りにそこにある。

  そこまでは。

  そこまでだった。そこまでしかなかった。

  息が止まる。喉が詰まる。唇がひきつる。

  予感があった。嫌な予感が。当たらないでくれと心の何処かで願っていた、最悪な予感。

  だが無情にも、俺の目はその最悪な予感を肯定する。確定させる。視神経を伝って、まだ信じたくない気でいる脳に、その事実を認めさせる。

  そこには、なかったのだ。

  あるべき重要な物が、ことごとくそこになかった。欠落して、欠損してしまっている。

  俺の足が、腕が、ない。

  ない。ない。何処にもない。

  二の腕から先が、太股から先が、ない。

  ない。なんでだ。どうしてない。

  何度見ても、首を巡らしても、それは見つからない。隠れている訳でも、見えない訳でもない。

  間違いない。

  今の俺には、手足がなかった。

  目眩がする。吐き気がする。動悸が止まらない。

  ゼィゼィと喉が鳴く音が聞こえる。カラカラに渇いた口が、水を求めて繰り返し空唾を飲み込む。

  叫び出したい気持ちで一杯だった。泣いて喚いて、自分の中で渦巻く激情を少しでも外に出してしまいたかった。

  だと言うのに、俺の喉からは掠れた喘ぎが漏れるだけで、言葉が出ない。声の一つも上げられない。

  嘘だろ。冗談だろう? 夢だと言ってくれ。

  そうだ。夢だ。こんなのは夢に違いない。こんなことが、現実であるハズがない。

  夢なら早く、早く醒めてくれ。

  俺は今、寄宿舎の仮眠ベッドの上にいて、もうすぐ見張りの交代時間のハズだ。こんな悪夢を見るのも、睡眠不足と厳重警戒下のストレスの所為だろう。今の状況を考えれば、それもきっと仕方がないことなんだ。

  この危機が去れば、また元の平穏な日常が戻ってくる。いや、元の日常を取り戻すために、俺達が危機に立ち向かわなくてはならないんだ。

  そのために俺は銃を取って奴らと────

  銃を⋯⋯そうだ、俺は銃を取って、戦ったんだ。

  警報を聞いて。爆音に背中を押されて。碌に装備を整える間もなく駆けだして。それから⋯⋯それから⋯⋯?

  外に出たら、基地が、俺達の拠点が、襲撃を受けていたんだ。

  奴らから。あのゴキブリみたいに黒光りする、妙な見た目をしたロボットの集団から。

  太陽系よりもずっと外、銀河の彼方から、二ヶ月前遙々やって来たらしい、物好きなエイリアン共。その侵略者共が送り込んできた、敵地攻撃用自律機動兵器から、我が軍は突如襲撃を受けた。

  それから、それから⋯⋯

  俺達は、応戦した。俺も、破壊された弾薬庫から辛うじて持ち出せた数少ない武器で、命を賭けて奮戦した。戦力差は絶望的だったが、仲間の中に逃げ出そうとする者は誰一人としていなかった。

  そうして⋯⋯そうだ。内一体を撃破したんだ。胸部にあった継ぎ目に、至近距離から手持ちの五.五六ミリ弾を残らずぶち込んで、開いた隙間にグレネードをねじ込んで吹っ飛ばしてやった。

  その瞬間は、その時だけは、最高の気分だった。

  それで⋯⋯それから、どうなった?

  倒せたのはその一体だけか⋯⋯?

  後は?

  いや、そもそもその一体も、本当に倒せていたのか⋯⋯?

  外装は、少なくとも確実に破壊出来た。それはわかってる。そして、その内部に⋯⋯

  内部、に────

  そうだ。ああ、そうだ。

  俺はその内部に、とてもおぞましいものを見た。

  瓦礫で蓋をされていた記憶が、ザラザラと蘇っていく。望まずとも。望みに反して。

  そうか、俺はそれを思い出したくはなかったのだと、思い出してから、思い出した。

  中に見えたのは、人だ。

  円筒状の水槽の中に浮かんだ、手足のない人間だった。俺達と同じ、生きた人間。

  今の俺と、同じ。

  カチカチと、歯の根が震えだす。

  アレが何だったのか。コレが何なのか。

  全てが繋がってしまう。

  アレは────恐らく動力源だ。

  奴らは生きた人間が有する何らかのエネルギーを吸い出し、資源として利用する技術を持っているらしい。そんな噂を聞いたことがある。今の今まで、そんなものただの与太話程度としか思っていなかったが、もし⋯⋯もしもそれが真実だとしたら。各地で、奴らが拠点や町へ攻撃を仕掛けてくる際、無闇に兵や市民を殺傷しようとせず、その多くを捕虜として連れ去っていたという報告とも符合する。

  中国のある農村部では、隣接した三つの集落が丸ごともぬけの殻にされてしまったケースまであるという。行方不明者数は、当局の発表でのべ三万人にも及ぶ。

  連れ去られた市民がその後どうなったのかは、誰にもわからない。

  わからない、が。わからなかったが。

  それを今、これから今、俺は身を持って体験しようとしているのかも知れない。

  最後の最後に至るまで、俺は思い出した。

  残らず全部。丸ごと全て。最後に、記憶が途切れるその瞬間までを。克明に。鮮明に。思い出した。

  俺は、捕まったのだ。

  中に人が入っている。生きた人間が中にいる。

  それを知ってしまった、見てしまったことで、俺はそれ以上、奴らに⋯⋯向かってくる敵に対して、引き金を引くことが出来なくなってしまった。

  いずれにしても、弾薬も底をついていたのだ。俺に打てる手は、もう何も残されていなかった。

  武器もない。戦意もない。ただ茫然と立ち尽くしていた俺を、奴らが見逃してくれるハズもない。

  直後、横合いから殴りつけてきた衝撃に対しても、俺は無防備だった。全身に濡れた雑巾を叩きつけられるような痛みが走った後、襲ってきたのは圧迫感と窒息感。何が起きたのか正確にはわからなかったが、巨大なとりもちか、ゴムの膜のような物で頭から足先まで丸ごと身体を包み込まれた、例えるならそんな感覚だった

  身動きも取れない。息も出来ない。何も見えない。

  そんな状態で、長く意識を保っていられるハズもなく⋯⋯────

  気づいたら、ここにいた。

  途切れていた記憶が繋がる。推測が現実と繋がる。逃れ得ない未来に向かって、繋がれる。

  ここが何処かは、わからない。

  奴らの母船か、それとも遠く銀河の彼方かも知れない。いずれにしても、地球で鹵獲してきた『資源』を集めて、加工なり保存なりするための施設ではないかと思われる。

  そして今俺がいるのは、加工用の作業レーンだろう。

  頭上を見上げると、金属のレールが背後から前方に向かって真っ直ぐに伸びていっているのがわかる。そこから繋がった黒いアームが、俺の肩と腰辺りをガッチリと掴んで宙吊りにして、今の今まで気づかないほど非常にゆっくりとした速度で、前方向へと運んでいっているようだった。

  後ろを振り替えってみれば、やはり想像した通り。俺や狼と同じく、手足を寸断された熊の男がダラリと首を落として宙吊りにされている。恐らくはその後ろにも、かつ前についても同じように、何人もの人間が連なって運ばれているのだろう。

  いったいどれだけの人間が集められているのか、想像もつかない。

  しかし、どうやらその中で今意識があるのは、何故か俺だけのようだ。他の人々は、何か薬物なりで昏睡させられているように見える。俺だけ意識を取り戻した理由はわからないが、それがイレギュラーであるのは間違いないだろう。

  だからと言って、俺に何が出来る訳でもない。

  身体は相変わらず、首から下の感覚が戻る気配もないし、声も出せないので周りを起こしてやることだって出来はしない。

  ただ俺だけが、これから起こることを目撃することになるというだけ。

  胸の中で、感情の波が大きくうねる。無力感がフラストレーションを生み、目の奥が熱くなる程耐え難い激情に高ぶったかと思えば、その怒りを吐き出すことすら出来ない絶望感が冷たく堆積して、深く重く悲嘆に沈んでいく。

  その波が、繰り返し寄せては返し、二度三度と目まぐるしい浮き沈みを経た頃。

  ずっと先の方で、何か変化があった。

  ゆっくり、ゆっくりと進んでいくレーンの先で、何かが動いているのが見えたのだ。近づいていくごとに、それが少しずつハッキリしていく。

  それは、身体を支えているのとは別のアームのようだ。細い幾つかの黒いアームが、高速で動いて何か作業をしている。

  一人、また一人。順番が進んでいく。

  何をされているのかは、まだ見えない。

  見えないが、どうしようもなく寒気がする。

  嫌だ。そちらに行きたくない。

  いくらそう願っても、首を横に振っても、俺に拒むことは出来ない。

  そして、目の前の狼の番が来た。

  いったい、そこで何が起きるのか。

  目をつむってしまうことも、俺には出来た。きっと、恐ろしいことが起きる。それを見ないという選択肢だって、あっていいハズだ。許されて然るべきだ。しかし、そうするのもまた、俺にはあまりにも恐ろしかった。

  何故ならそれは、次に俺の身に起きることなのだから。これから何をされるのか、知ってしまうのも恐ろしいが、知らずにいることもまた恐ろしい。

  逃げ場のない恐怖が、ギリギリと締め付けるように心を追いつめていく。

  動かないハズの身体が震えていた。肺が縮んで、浅くしか息を吸えない。閉じるのを忘れた目が乾いて、涙が溢れる。

  そして、滲んだ薄暗い視界の中、それは容赦なく始まった。

  狼の背筋。項から腰にかけての間を、細いアームが目にも止まらぬ速さで往来する。鋭く、機敏に駆け巡るその先端が、そこへ鈍く艶めく電子部品を、突き刺した。

  いや、単純に刺したというだけのことではない。針や糸状の物質を複雑に走らせ、絡ませ、それらを植え付けていく。組み込んでいく。差し込んでいく。背中へ。背骨へ。脊椎へ。

  あまりに淡々と、冷酷に、迅速に進んでいくその光景に、現実から目を背けようとする俺の目には、さながらミシンで軍服に階級章を縫い付けていっているかのように写った。

  だが、いくら脳が否定しようとても、そこにあるのは人体だ。生身の肉体だ。

  目の前で行われているのは、裁縫などでは断じてない。見るもおぞましい、外法の外科手術である。

  背中の、毛皮の茂みから、不自然に金属質な光沢と赤色の配線が生えているその異様は、痛ましくて見るに耐えない。出血が殆どなさそうなのがせめてもの救いだ。恐らくは、痛みも感じてはいまい。そんなもの、気休めにもならないが。

  特に、これから次にそれを身に受けることになる、俺にとっては。

  そうだ。次は俺の番だ。

  目の前でアームの動きが止まった。

  身体は依然、レールに沿ってゆっくりと前へと進んでいる。鋭く牙を剥き出しにして、アームが待ち構えるその位置を目掛けて。意思のないハズのアームが、次の獲物を待ちわびるようにその先端を光らせて俺を誘っているように見えた。

  嫌だ。嫌だ。嫌だ。

  あんな風になりたくない。手足もなくなって、背中にあんな痛々しい物まで埋め込まれて、改造されて、そんなことになったら⋯⋯俺は、俺はもう、きっと人として生きていけはしないだろう。その確信がある。

  目の前に吊されている狼の姿を見て、誰が生きた人間だなどと思えるだろうか。

  だから、抗う。抵抗する。力の限りに。全てを賭して。全力で。

  全力で、首を振った。牙を剥いて威嚇した。唾を吐いた。

  結局、俺に出来たのはたったそれだけだった。

  ただそれだけが、今の俺の全力だった。

  その最中、背中をツンと押されるような感覚に、呼吸が止まった。

  続けて、それが連続する。背骨に沿って項から腰に向かって、先に丸くした綿を詰めた棒のような物でつつかれているような、そんな感触。

  後ろを振り返ることは、どうしたって出来なかった。

  視界の端を高速で過る影を目が追いかけそうになるのを、必死に堪える。

  見たくない。見てはいけない。見るまでもない。

  自分の背中が今どうなっているのか。

  それは、目の前を見ればわかるのだから。

  背筋を擽る冷たい違和感と共に、暗い絶望感が這い上がってくる。目の前が、黒に塗りつぶされる。

  俺はもう間もなく、人間ではなくなるのだろう。

  奴隷ですら、家畜ですらない。

  奴らにとっての、燃料。エネルギー資源。

  こんな何処とも知れない暗闇の中で、惨めに、涸れ果てるまで搾取され、消費される。

  そんな末路が現実のものとして眼前に差し迫って、正気を保てようハズがない。

  俺は、狂乱した。

  声もなく泣き叫んだ。言葉にならない嘆きと呪いを吐き散らした。首よちぎれろとばかりに頭を振り乱し、頭蓋の中を泡立つ程かき混ぜた。

  いっそこのまま狂い死んでしまえと、己すらも呪い、願いながら。

  しかし、そんな願いすら、届かなかった。

  頭の奥で、何かが嵌まる音がした。

  突如として走った衝撃。頚椎から脳天に向かって杭を打ち込まれたかのように、痛みのない電流が走り抜ける。火花が飛ぶ。目の前を覆っていた暗澹とした幕が全て消し飛び、散り散りに光の欠片が舞い飛んで見えた。

  背中の中心を、背骨の中を、神経の枝を端から縫うように、針金が駆け巡っていくような感覚。それまで全く応答のなかった神経に、火が入る。

  筋肉に熱が灯り、繊維が唸りを上げて引き絞られる。

  だがそれは、俺の意思じゃない。自分で自分の身体を動かしている訳じゃない。

  なら何だ。俺の意思じゃないのなら、何が俺の身体を動かしている?

  気付けば、いつの間にか目の前には半球状の透明な壁があった。狼や、列を成していた他の人間の姿は見えない。どうやらここが、レーンの終着点らしい。

  カプセルホテル程度の広さの空間。すぐに背後で、重いドアが閉じられるような音がしたことから、どうやら閉じ込められたようだ。

  正面の壁は透明だが、向こう側は見えない。何処までも真っ暗な闇が広がっている。

  そのお蔭で、不格好に歪んではいたものの、壁に反射した自分の姿がよく見えた。

  手足のない全裸の虎。それが、前に向かって両手足の断面を見せつけるように掲げている。血も肉も覗いていない、溝の入った金属で蓋をされたその断面を見ていると、自分の姿が出来の良過ぎる玩具にさえ見えた。

  そして、背中側はよく見えないが、項付近へ太いケーブルのような物が繋がっているのが見える。恐らくは、それが先程の衝撃の正体。なら、そこから電気信号なりを脊椎に流し込まれ、強制的に筋肉を収縮させられていると考えればいいんだろうか。

  有線リモコンで操作される玩具。今の自分がまさにそれだと考えると、絶望感よりも自嘲的な感情が胸を濡らした。

  支配権を失った俺の身体は、自ら地面へ四つん這いになるような姿勢を取り始める。ずっと宙吊り状態だった身体が、地面に向かって下ろされる。その先に見えるのは、四つの窪み。

  そこに、手足がピッタリと嵌まり込んだ。カチカチと音がして、ロックされたのがわかる。どうせ動けやしないというのに、何の意味がある。

  その間も、背中には次々とケーブルが繋がれていく。その一つ一つが接続される度、背筋に淡く痺れるような感覚が走る。痛みはない。ただ、擽ったさに似ていて、少し具合が悪いだけ。

  だけ、ではなかった。一際太い一本が尻尾のあったハズの場所へ接続された瞬間、俺は思わず目を剥いて喉を反らした。

  腰から突き抜けた感覚はそのまま真っ直ぐに、後ろから前へと身体を貫く。

  前へ。尻尾とは身体を挟んで丁度真裏の位置にあるソレへ、内側から鋭い刺激が襲う。

  ガクガクと、無意識に腰が震えた。息が切れる。目眩がする。

  額から噴き出した汗を逃がすように首を落とし、項垂れた俺の視界に入ったのは、信じられない程強く、硬く反り返った自らのイチモツ。こんな状況で勃起を催すなど、考えられない。理由があるとすれば、たった今腰を通り抜けた電流のような刺激に違いない。

  腰に刺激が加わる度、ヒクンヒクンと赤い頭が上下に揺れるのが、情けなくてならない。あり得ない恥辱に目頭が熱くなる。

  コイツらは、いったいどれだけ俺の⋯⋯人間の尊厳を踏みにじれば気が済むのか。

  唇に牙を食い込ませ、ただ息を止めて耐え忍ぶことしか出来ない俺に、しかしこれで終わりではないとばかりに、更なる仕打ちが突きつけられる。

  尻の、穴にだ。

  グッと、今まで触れられたこともない箇所へ感じたゴムのような圧迫感に、俺はハッと息を飲んだ。

  青ざめている暇もない。

  腰から送り込まれてきた電気が、ひとりでに肛門の括約筋を開かせる。

  身構える余裕もない。

  そのまま、歪な形をした異物が、俺の身体へズルリと入り込んできた。

  泣きたくても、今の俺には声も出せない。

  直腸を物体が遡行してくる感触に、背筋の毛が逆立つ。痛みはやはりない。ただ、中を大きく押し広げられる重い感覚と、内側から身体を撫でられるような違和感、そしてそこへ確実に異物が侵入しているという存在感が、俺を酷く苛む。

  抜いてくれと、声を出せたならそう恥もなく懇願していただろう。

  予感があったからだ。

  これから、この先に待ち受けるのは、俺の人格と尊厳を粉々に踏み砕くようなおぞましい地獄だと、本能が叫んでいた。

  これ以上、それ以上先に進まれたら⋯⋯きっとそれが、終わりの始まりだ。取り返しのつかないことになる。後戻りは出来ない。

  その確信があるというのに、俺には抗うことが出来ない。着実に差し迫ってくる破滅を、ただ黙して待っていることしか出来ない。焦燥感が、悲愴感が、絶望感が、ジワジワと端から心を齧り取っていく。

  そして、その時は来た。

  尻の中から、股間の奥深くにある何かを抉られた。それだけはわかった。わかったと同時に、腰が抜ける程の悦楽が陰茎の先から漏れ出す。

  ダメだ。ダメだ。ソコに触れられてはいけない。こんなのは無理だ。堪えられない。

  痛みなら、まだ対処のしようがあった。鞭打ちでも水責めでも、ただの拷問になら、いくらでも堪えてみせる自信がある。

  しかしこれは、こんな責め苦は⋯⋯快楽になんて、堪える方法を知らない。

  それもこんな、こんな倒錯的な方法で⋯⋯尻の穴から押し込まれる快感など、処理のしようがない。

  グリグリと、体内の異物がソコを揉み込むように蠢く度、俺は涙を垂らして悶え狂った。喉が掠れた音を立てて喘ぐ。涎の飲み込み方は、とっくに忘れていた。

  だがきっと、まだだ。まだ終わりじゃない。こんなことでは済まない。終わるハズがない。

  その予感を肯定するように、地獄の蓋が開く。

  両脚の間でだ。

  ソレは大きく口を開けて鋭く伸びると、まるで蛇が獲物を目掛けて一息に飛びつき、丸ごと一呑みにしてしまうように、目標を正確に捉えた。

  ソレとは、透明な筒状の物体。そして目標とは、俺の陰茎だ。

  竿の根本まで、得体の知れない物に急所を全て咥え込まれてしまったその衝撃に、身体が戦慄する。

  だが、恐怖におののくことが出来たのも、ほんの一瞬。

  陰茎を包み込む柔らかく濡れた感触と、間髪入れず吸い上げてくる強烈な負圧に、意識が持って行かれる。

  その感触には、経験があった。市販されている、自慰用のカップだ。アレと正しく同じ構造である。襞の一つ一つが、自律して蠕動することを除けば。

  どういう訳か、宇宙人共は俺を徹底的に辱めるつもりでいるらしい。もしも声を出せれば、今頃情けなく女のように喘いでいたことだろう。

  性器と、肛門、それから腰から不定期に流し込まれる電流が、何も考えさせてくれない。思考を快感に塗り潰される。理性を欲求に蝕まれる。

  無意識に、もっと⋯⋯もっとと願う気持ちを止められない。

  それは、恐怖や絶望からの逃避でもあったのかも知れない。もう何も考えたくない。ただひたすら、享楽に浸っていられればいい。

  それは紛れもなく、今の俺の心からの願望だった。

  そして、どうやら奴らはその願望を叶えてくれるらしい。

  四方から、薄赤い色をした液体が勢いよく注ぎ込まれてくる。密閉された狭い空間。液体はすぐに室内へ溜まり、みるみる内にその水位を上げていく。

  あっという間に、もう顎の高さだ。四つん這いの姿勢から動けない俺には、もう幾ばくの猶予も残されていない。

  だというのに、不思議と恐怖はなかった。

  液体に浸かった部分は柔らかい快楽に包まれ、被毛がそよぐ度にゾクゾクと震えが走る。加えて快感もさることながら、得も言われぬ安心感のようなものが、絶望に硬く強張っていた胸の芯を甘く蕩けさせていく。早く、その心地よい感覚に身体の全てを委ねてしまいたいと、そんな風にさえ思った。

  水位が上がる。

  液体は上唇を舐め上げ、鼻を越えた。

  もう、首を伸ばしても水面までは届かない。鼻から出たあぶくが、慌てたように銀色に揺れる境目を追いかけていく。

  一度目を閉じると、その間に温かな感触がすぐに瞼を通り越し、止まることなく耳の先までを水中に沈めた。

  溺れる。

  力の抜けた唇から、空気が泡となって止めどなく漏れ出て行く。その代わりに、口から入って喉を通り抜けた液体が、気管と言わず食道と言わず我が物顔で通り抜けていく。

  溺れる。溺れる。溺れる。

  息を止めている余裕はない。

  下半身を沸かせる例えようもない快感が、水中であるにもかかわらず常に俺を喘がせる。

  吐き出す空気は、すぐになくなった。

  息が尽きる。

  肺が痛む。苦しさに目が回る。

  ────死んでしまう。

  そう思ったのは、ほんの一瞬だけだった。

  肺が膨らみ、縮む。それまでのように。これまでのように。

  空気よりも重いものが、喉を通り抜け、また戻っていく。

  息が出来る。

  いや⋯⋯厳密には、息をしている訳ではないのだろう。俺は、変わらず水中にいるのだから。

  肺へ入ってきているのは、空気ではない。液体だ。俺は今、液体で呼吸をしている。

  液体に含まれた酸素を肺で吸収し、代わりに二酸化炭素を吸収した液体が肺から外へと送り出されて行く。液体を通じたガス交換。地球では、未だ実用化されていない技術だ。

  慣れると、すぐに違和感も消えた。ぬるま湯の中を揺蕩っているだけで、常に新鮮な酸素を得られる快さが、癖になりそうですらある。

  小部屋の中は、完全に液体で満たされた。

  視界は殆どきかない。音も、僅かに液体がうねるくぐもった音と、耳の中を流れる自分の血潮の鳴動だけ。

  五感が、薄れていっているのがわかる。

  それが液体の効果なのか、それとも背中に繋がる無数のケーブルによるものなのかはわからない。

  しかしその一方で、逆に強く鋭敏になっていく感覚があった。

  性感だ。

  下半身から響いてくる快感が、加速度的に大きく、鋭さを増していく。

  前から、後ろから、中から、外から、何処にも逃げ場のない快楽の中に閉じこめられる。陰茎は壊れたポンプのように脈動し続け、既に自分では、失禁しているのか射精しているのか区別がつかない。

  他のあらゆる感覚が薄く、遠く、白く濁っていく中、性感だけが唯一残された真っ白な宇宙を、一人孤独に漂っているかのようだった。

  辛いのか心地よいのかもわからない。今すぐ止めて欲しいと願いながら、もっと続けてくれと叫ぶ。そんな矛盾が、しかし紛れもなく心の中に同居していて、思考が滅裂にちぎれてしまいそうになる。逆回転同士の歯車が激しい軋轢を訴え、いずれ歯が欠けて弾け飛ぶのをただ待っているしかない。そんな心持ちだ。

  自分の心を快楽というヤスリで端からガリガリと削られ、着実に磨耗していくのを、俺にはひたすら黙って待つことしか出来なかった。

  一瞬とも永遠ともつかない時間。時間が流れているのかどうかすら覚束ない。夢なのか現実なのか。妄想なのか幻覚なのかも定かじゃない。

  自我が、解けて消えてしまいそうだった。自己の同一性を保証出来ない。俺という存在が薄れて、希薄になり、輪郭を保てなくなる。

  こんな死に方があるなんて、思いもしなかった。肉体は生きたまま、精神だけが煮溶かされる。後に残るのは、中身のない抜け殻だけ。死に様として、これ以上無惨で見窄らしいものもないだろう。

  ああ⋯⋯いよいよ、この思考すらも維持出来なくなってきたやも知れない。頭の中まで白く濁り始めた。考えがまとまらない。言葉が、出て来なくなってきた。

  俺という人間は、もう間もなくして死を迎える。ならばせめて、最期の瞬間くらいは、心穏やかでありたいと願う。

  そう、あらゆる全てを投げ出し、手放して、瞼を閉じてしまおうとした、その直後だった。

  網膜を閃光が焼く。舌が焼けそうに熱い。毛先の一本一本が弾けて、地膚が剥き出しになる。全身が爛れる。鼻が焦げる。鼓膜が吹き飛ぶ。

  だが次の瞬間には、それらが全て錯覚だと悟った。

  圧倒的な情報の奔流。感覚刺激の暴発。

  まるで、五感全てのチャンネルに最大ボリュームの信号を叩き込まれたかのようだった。乗っ取られた中枢神経が、過負荷に重く痺れている。

  直感した。今のはテストだ。

  神経がキチンと接続されているか、感覚全てを制御出来ているか、そして、俺が何処までの刺激に耐えられるかという、試験信号。

  なら、次に待つのは⋯⋯

  水中で息を呑む。チリチリと背筋が騒ぐ。

  覚悟している余裕は、もうなかった。

  ────────

  快楽中枢が叫ぶ。悲鳴を上げる。

  世界が裏返った。中と外が入れ替わる。精神が、外部へと広がる。

  内側でドロドロに煮溶かされていた心が、外側へ剥き出しにさらけ出され、直接快楽を塗りたくられている。

  今俺が受けている衝撃を、言葉で言い表すのは凡そ不可能だ。世界の全てが快楽に置き換わった、とでも言うしかない。

  何もかもがキモチイイ。キモチイイ以外の感覚がない。

  頭の中の何処を探しても、快楽以外の情報が見つからない。

  キモチイイ。キモチイイ。キモチイイ。

  それをひたすら押し付けられる。流し込まれる。強いられる。

  外から、ケーブルを伝って、快楽しろと命じられる。身体はその命令へ忠実に従い、感じられる最大限の強さの快楽で自らを灼く。

  肺の動かし方も忘れた。今、目は開いているだろうか。閉じているだろうか。

  色も匂いも、味も音も、全てがわからなくなる。全てがキモチイイ。

  何もかも不確かに消えていく世界の中、快楽だけが確かだった。快感だけは本物だった。俺にはもう、それだけしか残されていなかった。唯一残されたそれだけを、感じ続ける。浸り続ける。しがみつく。

  快楽することだけが、俺の価値。快楽するためだけに、俺は存在している。それでいい。それだけでいい。

  そんなものは、もう人間とは呼べないだろう。生きてなどいない。死んでもいない。

  そうか。ああ、そうだった。

  俺はもう、ヤツらにとっての燃料源でしかなかったんだ。

  石油や石炭と同じ。地球上へ潤沢に残る資源の一つ。この先いくらでも浪費出来る、再生可能エネルギー。

  きっと、人類はもうダメだ。

  そう遠くない内に、残らずヤツらに採り尽くされる。地球は丸ごと、ヤツらの発電施設になるだろう。

  最期に、俺の網膜が捉えた景色。幻覚かも知れない、しかし確かに俺の脳が受信したその映像が、これから先の人類の未来をありありと物語っていた。

  透明な壁の向こう。その向こう側で、整然と立ち並ぶ全く同じ透明な半球。そして一つ一つ、その中に浮かぶ、俺と同じ、かつて人間だった者達。

  並んだ数は星の数程。無数。夥しい数の、燃料。

  既にそれだけ、ヤツらにエネルギーを供給しているということだ。これからどれだけ、それが増えるのか。

  ヤツらの燃料源が増えただけ、地球上からは人が消える。減った分がそのまま、ヤツらのリソースになる。

  勝ち目のない戦いだ。いや、始めから戦いなどではなかった。

  一方的な侵略。搾取。

  人類側には、降伏する権利すら与えられはしまい。ただ為すすべもなく、最後の一人になるまで蹂躙されるのみ。

  その未来を強く幻視し、確信しながら、俺は快楽する。俺にはもう、快楽していることしか出来ない。

  人類が滅亡するその日まで、俺はここで快楽していることだろう。

  願わくば人類に、快い滅びが訪れんことを⋯⋯────