ケモホモ男子寮(公認)に放り込まれた俺の受難な高校生活8

  ~~~~♪

  「………………もうこんな時間か」

  廊下から流れる音楽をドア越しに聞くのも、それに渋々と重い腰を上げるのも、ずいぶん慣れたものだ。初めの頃は点呼の五分前には食堂に行こうと意識して生活していたけれど、今やこの曲が流れなければ時間になったことにも気づかないだろうし、知らなかったふりをしてずっと部屋にいるかもしれない。こーすけやその他寮生が、鬱陶しく感じると苦言を呈していたのも、だんだんとわかるようになってきた。

  俺が入寮してから、一ヶ月半が経過した。ざっと六週間ってとこだから、時間にしてみればそんなに経ってはいないはずなんだけど、なにより一日一日が濃いせいで半年くらいに錯覚してしまう。ストレスを抱えることもあり、起伏の激しい感情のジェットコースターな日々は、島にいた頃とは比べ物にならないくらい情報量が多い。たくさんの人と関わって、たくさんの人に囲まれて。感じたことの無い初めての経験を、この一ヶ月でぎゅっと押し込まれた気分だ。

  大体俺の一日は朝の五時に目が覚めて、点呼までの時間を一人で潰す。点呼後は朝食を摂ったり学校の支度をしたり、基本的にずっとこーすけと一緒に行動する。学校に行ってもそれは同じで、登下校までこーすけと共に過ごしていると、一人でいる時間の方がよほど少ないんじゃないかと思う。だからこそ早朝の孤独な時間には、体を動かせない分ぼーっと考え事に耽ったりすることを主にしている。考え事ばかりになって頭が痛くなったときは、屋上に登って明け方の空気を吸ってみる。それから部屋に戻って小説を読んだりしていれば、あっという間に点呼の時刻になっている。

  この曲が流れると寮生たちは眠気眼を擦りながら部屋から出てきて、列になって食堂へ向かう。もはや体に染み付いてしまって、自然と起きてしまう人もいるんじゃないだろうか。まぁもちろん、朝が弱いうちのルームメートは起きないことも多いけれど。

  「………………おい、起きろよ。点呼だぞ」

  体を数回揺すって、布団の上に毛布を被ってクルリと丸まっている猫獣人に触れる。シャツ越しにも分かるくらいに体温が高くて、さぞ毛布の中は暖かくて居心地がいいんだろうと思う。この調子じゃ放っとけば昼まで寝続けるだろう。つくづく猫獣人というのは眠りに素直な生き物だ。

  もちろん軽く触ったくらいじゃ起きる様子もないから、大抵俺は耳を引っ張ったり髭を弄ったり、猫獣人が嫌がりそうなことを中心にアプローチをかけていく。

  「……起きねぇと寮監に怒られるぞ」

  こーすけの鼻をぐいっと押し込んで、鼻孔を塞いでみる。鼻が小さいせいであまり顔をいじくっても不細工にならないのが、種族間の格差を感じる。イヌ科の俺からすると、猫獣人っていうのは色んな種族の良いとこどりをしたような生き物のような気がして、たまに羨ましく感じることもある。例えば基本は単独行動だったり、現実主義だったり、欲求に素直だったり。くよくよ悩んでいるイメージも少なくて、何かとスリムな生き物だ。

  鼻を塞いだらいい加減息が出来なくなったのか、寝苦しそうに唸ったあと、ゆっくりと瞼を開いた。

  「…………起きたか?」

  「………………………………………………んぅ……………………」

  半開きの眼から切れ長の瞳孔が見え隠れして、ぼんやりと俺のことを写し出したようだ。俺を見てか頬を緩ませながら、俺のマズルにそっと触れてきた。

  なんとなくそのままにしていると、するするとこーすけの腕が伸びて、後頭部の毛を優しく掴まれる。気づけばこーすけの体は上体が少し起き上がっていて、目を瞑ったままのこーすけの顔がゆっくりと近づいてきていた。

  マズルとマズルが段々と距離を縮めて、あと10センチくらいまで近づいたとき、こーすけの狙いに気づいた俺は瞬時に間に手を挟んで、接近する顔を受け止めた。湿った鼻先を掌に感じて、指の隙間からこーすけの不服そうな瞳が覗いているのを確認する。

  「……………………いい流れだったのに」

  「狸寝入りか?」

  「いや寝てたのはホント…………でもいいじゃんキスくらい……」

  こーすけはこちらに傾けていた体を戻して毛布を放ると、大きな欠伸をしながら伸びをした。ふてぶてしい三毛柄も、一緒に伸びている気がする。

  「…………哲也は俺にだけガード堅いね」

  「お前が毎日キス狙ってくるせいだろ…………」

  実際朝起きたときとか、寮での二人きりの時間には頻繁にセクハラをしてくる。とはいえ体に触ってくるのは前よりもかなり減った。俺が本気で嫌がっているのに気づいてくれたんだろうか。

  こーすけはすくっと起き上がると、携帯を取ってベッドから立ち上がる。俺の横をふらりと通り過ぎ様に、聞こえるか聞こえないかくらいの声で、ボソッと呟きを残していった。

  「……………………篠崎くんとはキスしたくせに」

  「……っ、え…………?」

  俺が思わず聞き返すと、何でもない、と笑って部屋のドアを開けて振り返らずに出ていってしまう。すぐさま追いかければよかったのに、少しの間呆然としてしまって、こーすけが去って開け放たれたドアをじっと見つめてしまう。

  …………篠崎とキスしたこと、何でこーすけが知ってるんだろうか。間違いなく俺から言ったことはないし、むしろ隠そうとしていたくらいだ。久郷田先輩とのこともこーすけに知られれば、嫉妬されるんじゃないかと思って誰にも言ってない。そりゃ雰囲気とかで距離が縮まったように見えたかもしれないけど…………てことは篠崎がこーすけに間接的にでも言ったんだろうか?まぁあのバカなら何かの拍子にポロっと漏らしてもおかしくはないけれど。

  でもそれは俺の中で、一度の過ちとしてもう整理がついてしまっていた。空気とか雰囲気に流されてキスやらハグやらしてしまったことはあるけれど、もちろんそこに恋愛感情はない。あったらとっくに付き合ってるし。それは篠崎や久郷田先輩にも伝えてるから、当人たちも納得してるはずだけど……。

  もしこーすけがキスのことを知ってたら、何か勘違いや誤解を生んでる可能性は少なくない。直接こーすけに聞いてもいいけど、隠していた俺が自ら切り出すのも何だかおかしい。本人は軽い冗談のつもりなんだろうか……それとも遠回しの嫌味?

  俺がそんなことにだらだらと思考を巡らせていたせいで、点呼に数分遅刻してしまった。考え事をするのが癖になりつつあるけれど、それにばかり集中してしまうのは良くないなと、反省しようと思うところだ。

  

  「さっき廊下で藤原に会ったんだけどさ」

  こーすけと歩く通学路。毎日のことで当たり前になりつつある朝のルーティン。一日中一緒に過ごしていると話題もつきそうになるものだが、意外とのんびりと会話をしていると話の種は見つかるものだ。そうでなくても沈黙が気にならなくなっているのは、一ヶ月とはいえ本当にずっと共同生活してきたせいだろう。

  こんな風に唐突にボソッと呟いてくるときは、適当に聞き流せる愚痴であることが多いけど、藤原が登場したことに耳がピンと立った。寮生達にはこーすけと藤原が不仲であることは周知の事実だ。

  砂利道に転がる石ころを蹴り飛ばしながら、こーすけは語る。

  「いつもならすれ違ってもお互い無視なんだけど、向こうから話しかけてきてさ」

  「……………………何を?」

  「哲也のこと。藤原と哲也が仲良くなっても、俺は口出すなってさ」

  「…………………………………………………………」

  つい最近のことだけれど、藤原と話す機会を意図的に増やすようにしている。やはりこーすけばかりじゃなくて、他の二年生とも接しようと思った結果、一番取っつきやすかったのが藤原だった。こーすけとの板挟みも懸念したが、本人達は気をつける、と約束したはずだ。

  まぁもちろん、こーすけが黙ってるわけないだろうな。

  「口出してから言えよ、って思わない?放っといてんじゃん。今のとこ」

  「…………ほんとお前らって何かと言えば喧嘩をふっかけ合ってるよな」

  「一括りにしないで。俺は理由もないのにふっかけたりしないよ」

  こーすけは直ぐ様反発してくるけど、仮に第三者がいたとしてもお構いなしに喧嘩を勃発させるのを何度も見たことがある。喧嘩といっても手を出すことはせずに、睨み合いながら嫌味を言い続けるネットリした喧嘩だ。正直無関係の俺ですら聞いてるだけで嫌な気持ちになるようなことを、お互いペラペラ言い合ってるのは同族だからなんだろうな、と感じるところだ。本人たちは絶対認めないと思うけど。

  喧嘩するほど仲が良い、って言うけど、どうなんだろうな。愛情の裏返しにも限度があると思う。

  地面に落ちていた小石を、憎々しげに蹴り飛ばすこーすけを見ていると、不思議と俺もため息が漏れる。

  「……そういえば、秋沢くんと高田くん喧嘩したらしいよ」

  「………………あ?あの二人付き合ってるんじゃねぇのかよ」

  「そうだけど…………秋沢くんのtwitterの裏アカに書いてあった。ここ数日でなんかあったんじゃない?」

  「喧嘩って………………なんでだよ」

  「詳しくは分かんない。でもあの秋沢くんが怒るんだから相当なことしたんだろーね」

  「……………………………………………………」

  秋沢といえば、気弱でビビりな性格のせいで高田のわがままを散々聞かされていたはずだ。表沙汰にはしていないにしろ、二人が付き合っていることはクラスのほとんどが分かっている…………というか隠すのが下手すぎるだけなんだけど。クラス1の真面目な委員長と、テキトーで不真面目なトラブルメーカー。むしろ数週間もっただけで十分かもしれない。

  「哲也秋沢くんと仲いいでしょ?機会があったら聞いてみてよ」

  「嫌だよ。本人たちは隠したがってるかもしんねぇし」

  「まぁそっか。聞くなら高田くんだろーね」

  「そういう問題じゃ……」

  「ちょっと、そこの君?」

  不意に声をかけられたかと思いきや、学園の正門から10mくらい手前のところに、紙袋を持ってスーツを着た猪獣人の男性がいた。年はかなり上で、多分40代くらい。ニコリと人の良さそうな笑みを浮かべながら、先端を丸く削った牙をちらつかせていた。

  何だか分からないけど、話しかけられたからには無視するわけにもいかない。正門に流れ込む人混みから少し逸れたところで、俺たちは立ち止まった。

  「君は、神を信じるかい?」

  「…………哲也、宗教勧誘だよ。行こ」

  「っ、ちょっと待てよ。ぁえっと…………ボンヤリとは信じてます」

  猪獣人の質問に、こーすけはすぐさま俺の腕を引っ張って人混みに引き込もうとした。体に力を込めて踏みとどまると、呆れ返ったような顔のこーすけに睨まれる。その視線には無視をして、薄目で微笑んでいる猪獣人に応えると、少し大袈裟なリアクションで再び語りかけてきた。

  「ぼんやりと、ね。確かに君くらいの歳では、まだ神からの声を聞くことはできないだろう。ただ神というのは、信じるものの側に必ず現れてくださるものなんだよ。この本を君にあげよう。神の教えと、君の抱える問題の全ての答えが、ここにある」

  「………………答えが?」

  猪獣人は徐に紙袋から文庫本サイズの書籍を取り出すと、俺に押し付けるように手渡してきた。その様子を冷めた目で見ているこーすけの存在は少なからず感じていたけど、今はそれよりも問題の答えという部分が気になった。

  例えば今抱えてる問題………雄に言い寄られていて、そのせいでトラブルにも巻き込まれて、板挟みになって。それがこんな小さな本の中に解決策があるというのだろうか。にわかには信じがたい。

  「もちろん明瞭な答えは見つからないかもしれない。人生は自分で選択し、答えを決定していくものだ。けれど時にはそれが難しく、厳しいものになる。そんな時、君を救い、道しるべを示してくださるのが、我らが全能神なのさ」

  「……………………………ありがとうございます」

  「…………勧誘にお礼なんかいいよ 」

  「ハハ、少年。我々は勧誘なんかしないさ。ただ迷える子供たちに道しるべを示しているだけに過ぎない」

  猪獣人の言葉にもこーすけは全く耳を貸さない様子で、俺の腕を引っ張りながら校内へと早足で向かう。俺はというとあまり抵抗もしないまま、もらった本を抱えながらチャイムの鳴る校舎へと入っていった。

  「いーち、にー、さーん、しー……」

  体育委員の気だるそうなかけ声に合わせて、俺たちもそれなりの気だるげな声で応える。少し間延びした準備体操の号令が、静かな体育館の天井まで響き渡って、特大の照明灯に引っ掛かったバレーボールにまで届いているだろう。

  体育の時間は思いっきり体を動かせる時間だから、個人的には好きな方なんだけど、そうじゃない人も結構いるらしい。そもそも体育が嫌いな人や、種族柄運動が苦手な人、単純に不真面目な……こーすけみたいな奴もいて、みんながみんな好きじゃないっていうのは都会に来てから知った事実だ。田舎の学校では暇さえあれば外で走り回っていたから、このギャップにはなかなか驚いた。

  例によってここでも前後の列で体操をしてる俺とこーすけは、号令に紛れてひそひそ話をしていた。

  「一組って普段あんまり絡みないけど、あの体育委員の子イケメンだよねー」

  「…………あのチーターの奴か…………足長ぇな」

  基本的に体育は一組と俺たち二組の男子合同で行われるんだけど、他所のクラスに友達がいるわけでもないから、俺は体育の授業でしか一組の生徒と接する機会がない。二組の男子の名前は覚えたけれど、他のクラスの生徒までなかなか名前は覚えきれない。

  こーすけに言われた体育委員の奴は、一組の列の先頭に立って、チーターらしいその長い手足をピンと伸ばしながら真面目にストレッチをしていた。チーターという種族はネコ科の中でも特に運動に特化していて、オリンピックの陸上競技なんかは軒並みチーターが占拠しているくらい、体育のために生まれてきたような生き物だ。細身ながらも筋肉質な四肢は、走るのが得意な犬科から見ても羨ましく思う。

  まぁこーすけは顔の方を見ているようだけど。

  「川元君っていうの。陸上部でメダルとかも取ってるめっちゃスゴい人。正直うちの学校にいるのもったいないよねぇ」

  「まぁ……本人が来たかったんだろ」

  稲光学園はLGBTへの理解と応援に特化した学校だが、学業やスポーツに関してはかなり普通らしく、何かしらで全国トップを狙うような生徒には不向きの学校と言えるだろう。強いて言うならサッカー部が都内でそこそこの成績を収めたことがあるとかないとか。少数の生徒のために優秀な指導者を雇えるわけでもないからそれは仕方ないだろう。

  そのため稲光学園は都内の学校と提携したりすることで、多少のサポートを得られるようにはしているらしいが、本気で一番を目指すなら行く必要はない学園だ。

  そんな中でも、例えば秋沢財閥の一人息子がいたり、全国レベルのスポーツマンがいたりするのは、当人たちが同性愛者で、この学園に来たいと思ったからに他ならない。それでももったいないと言われてしまうのは、仕方のないことだが。

  あまり存在意義の分からない深呼吸をしたあとに、再び先生によって整列をさせられる。体育の先生は、名前は分からないけど男の牛獣人の先生だ。野球部かなんかの顧問だったような。

  「……よし、今日はドッジボールをするぞ!」

  フン、と鼻を鳴らしつつ、腕を組みながら先生は言い放つ。傍らに置いてある片手で握れそうな大きさのボールを見て、そんな予感はしていた。

  「めんどくさいから一組対二組だ!適当にストレッチして始めてくれ。ドッジボールは白い線だからな!」

  「せんせー、一組今日八人しかいないんですけど」

  「ん?休みか?あーじゃあ…………」

  体育の先生の目が二組の生徒たちの間をフラフラと揺れてから、ピタッと俺を見たところで視線が止まった。完全に白羽の矢が立った。

  「えー渡嘉敷!一組チームに入れ!以上!」

  ピッ!と鋭く笛を吹いたのと同時に、俺たちはビクッと肩を揺らしてから散開する。こーすけに軽く尻尾をパンチされてから、高田に肩を叩かれて、秋沢の弱々しい視線を感じたあと、俺は恐る恐る一組の生徒がいる側に歩いていった。

  既にみんなで輪になって喋っている一組は、俺が近づくと自然とスペースを作ってくれた。顔は見たことあるけど名前までは知らないって程度の中だから、ちょっとだけ気まずい。スペースを開けてくれたのは、さっきこーすけと話していた川元だった。

  「えっと、渡……嘉敷……?よろしく」

  「あぁ、名前分かりづらいよな。よろしく」

  スラッと伸びた細身の手を差し出され、軽い力で握手した。俺と身長はそんなに変わらないけど、姿勢がいいせいか背が高く思える。真っ黒な瞳孔を見ていたら、そっと目を逸らされた。

  「渡嘉敷は転校生だよな?まだそんなに喋ったことないし」

  「今年度から編入した。あんま他のクラスの人とは関わる機会もなかったからな」

  「へぇ、じゃあこれからだな。俺は川元」

  「知ってるよ。友達が言ってた。陸上部なんだろ?」

  「あぁ。短距離やってる。渡嘉敷は?」

  「えーと、一応演劇部……かな」

  まだ一回も部活に参加したことはないので、部員かどうかも怪しいところだけど。川元は少し意外そうに微笑んだあと、先生が鳴らした笛の音を聞いてコートの方へ歩いていった。

  島の授業でもドッジボールはやったことがある。雨の日で校庭が使えないときは、大抵体育館でドッジボールだ。ただやはり人数が少ないのもあって、他の学年の子とボールを投げ合う分には、かなり手加減をしなきゃならなかった。俺は地域で一番運動が出来たから、無意識に手加減をする癖がついている。

  でも同学年の生徒だらけのこの空間は、思いっきりスポーツを楽しめる絶好の機会でもある。四月は体力テストとかマラソンばっかりで楽しくなかったけど、いよいよ合法的に遊べる時間だ。全力でやってやろう。

  白線に囲まれたコートの上では、一組と二組それぞれ九人ずつが立っていた。こっちのチームは名前は知らない熊獣人、向こうのチームは秋沢が外野に回るらしく、端で準備運動をしている。そしてコートの中央、センターサークルではジャンプボールをするらしく、川元と高田が見つめ合いながら立っていた。

  単純に身長で言うと、2m近い高田の方が圧倒的に有利だ。この学年では恐らく一番くらい背が高いはず。ただ手の長さはどう見ても川元の方が長くて、だらりと伸びた斑点模様の腕から、ひしひしと自信が伝わってくる。

  あとは跳躍力の問題だ。単純に猫科は全種族の中でもかなり跳躍力が高い方で、柔軟な体としなやかなバネは、どのスポーツでも有利に働くだろう。チーターと虎、どちらも猫科トップクラスの身体能力を誇る。取った方が一気に優勢になる、大事な局面だ。

  体育の先生がコートの真ん中に立ち、笛を咥えたままボールを構える。俺からは高田の背中しか見えないが、きっと両者睨み合い、火花を散らしているところだろう。

  「よし、始めるぞ!前半10分………開始!!!」

  ピッ!!!!

  先生が鋭い笛の音を響かせたのと同時に、手の上のボールを高く真上に放り投げた。全員の視線がボールに集まる中、川元と高田は深く体勢を沈ませて、グッと足腰に力を込めた、

  瞬間、勢いよく垂直に飛び上がり、ピンと身体を伸ばして天高く手を伸ばした。二人の影が重なって、最高到達点に差し掛かるとき、数センチ指先が長かったのは…………川元だ。

  「ッ!!!」「!!!???」

  川元がこっちにボールを弾いて、それが真っ直ぐと俺の目の前に飛んでくる。全身を前へ前へと傾け、走り出すのと同時に腕を伸ばして、地面に自由落下するボールを両手でしっかりとキャッチした。

  そのまますぐに投げるモーションに移行して、着地したばかりの高田に標的を定め、大柄な背中に向かって思いっきり投げつけた。

  バンッ!!!

  という鈍い音と共に、高田の呻き声のようなものが聞こえ、跳ね返ったボールがこちら側のコートに転がってきた。そしてすぐに、短く刻む笛の音が体育館に響く。

  「高田!アウト!!」

  「ッ、いっでぇぇ…………」

  そのまま地面に膝をついた高田を他所に、すぐにボールを拾って次の的を狙おうとする一組チーム。風を切る音と共に、飛び交うボールが示唆しているのは、ドッジボールが始まったこと。

  全力投球でムカつく奴に思いっきりボールを当てた余韻に浸っていると、戻ってきた川元が緩く微笑んで、

  「ナイス」

  と言ってきた。そのままグータッチを要求されたので、俺もニッコリ笑って、

  「そっちも」

  熱い拳を交えた。

  ドッジボールは佳境になっていくにつれて盛り上がるスポーツだ。コート内の人数が減れば減るほど不利にはなっていくが、その分動けるスペースが増えるため、より避けやすいフィールドが整っていく。外野が増えればそれだけ狙われる危険も増えるし、本当によく出来たシステムだと思う。

  序盤、人が多い段階で有利なのはボールを投げるのが上手い奴だ。一組には野球部が二人いて、二組には一人もいない。やはり部活で鍛えてるだけあって、その肩は豪速球を繰り出して、運動が苦手な二組の生徒を次々と外野送りにしていった。

  しかしこっちが優勢だと思った束の間、ボールが相手に渡った途端、外野にいる高田が暴れ始める。野球部顔負けのスピードで飛んでくる球は、何人かの生徒を突き指にした挙げ句外野に送り出し、しつこく再びコートに戻ってくる。数分が経過した頃には、野球部vs高田の図が出来上がっているほどだった。

  程なくして野球部二人を退場させた高田は、そのまま無双するかと思いきや、川元の綺麗なフェイントに引っ掛かってキャッチミス、そのまま退場となった。

  試合が後半になってくると今度は、避けるのが上手い奴が場を制するようになってくる。ここで強いのが猫科で、その動体視力と反射神経でスルスルとボールの軌道を避けていく。体が柔らかいのもあって、やはり後半は猫科が制していくような局面になっていた。

  こーすけはそこそこ終盤まで残っていたけど、途中で避けきれなくなりアウト、二組の人数が減っていくなか、ここにきて秋沢が本気を出し始めていた。

  「秋沢!!いけいけ!頑張れ!!!」

  「川元!負けんじゃねーぞ!!」

  生徒たちからの野次やボールが飛んでくるなか、運良く生き残った俺と、ずっと狙われているのに一向に避け続ける川元が、二組のコートに残っていた。対して一組は秋沢ただ一人。にも関わらず、もうこっちは連続で四人やられている。

  ボールを持っているのはこっちの外野で、野球部二人で秋沢を挟み撃ちにしているけど、見たことない程の身のこなしでかわしていく。正直、秋沢は体育の時間でもそんなに目立ったことはなかった。勉強ができる内気なイメージだった秋沢が、見事にこの数分で塗り替えられた。やはり秋沢財閥の一人息子は、なんでも出来て当然なんだろうか。

  「…………やっぱ秋沢はスゴいな。部活に入ってないのが勿体ないよ」

  「全然知らなかった。秋沢って運動もできるんだな」

  「アイツいつも体育は手を抜くんだよ。一年のとき同じクラスだったけど、短距離で俺と僅差だったんだ。でもそれ以来目立つのが嫌らしくて全然本気を見せない」

  「…………なんで今日は本気なんだ?」

  「たまにスイッチが入るんだよ。理由は知らないけどな」

  陸上で全国に行くような奴にここまで言わせるんだから、秋沢の運動神経は並外れたもののはずだ。それでも本人の内気が災いして見せないようにするなんて、つくづく厄介な性格だ。

  ちょっと休憩できるなと思ったら、野球部の豪速球を秋沢は腹でしっかりと受けとめ、こっちに向かって全力で振りかぶってきた。俺たちはピクリと体を動かして、左右に散らばりつつ警戒する。大事なのはここで下がりすぎないこと。自陣のコートの七割くらいの距離で対応することで、連続して狙われても避けやすくなる。

  秋沢は振りかぶる瞬間、目線を完全に川元にロックオンしていた。軸足の方向からしても、確実に川元を狙うつもりだ。俺は気を緩めつつ、二人の攻防を見守ろうとじりじりと後ろに下がった。

  しかしそのとき、秋沢は見てすらいない方向にボールを投げたのだ。フォームはめちゃくちゃだが一直線に俺を狙って飛んできたボール。咄嗟のことで驚きつつもすんでのところでなんとか回避した。スピードが最大限に出ていなかったのが幸いか、キャッチしようなんて気にも起こらないくらい唐突だ。

  「ッ、」

  ボールが顔の横をかすめるように通り抜けて、思わず体勢が崩れた。だが不意を突かれたのは俺だけじゃない。思いもよらないコントロールに対応できなかったのは、外野にいる高田も同じだ。

  ボールは一度地について、飛び付くようにキャッチした高田はすぐに俺を狙おうとした。でもそのときには俺はコートの中央まで逃げている。不安定な軌道のボールは俺の体に真っ、直ぐ飛んできたせいで、容易に受けとめることができた。

  すぐに反転して秋沢の方を向くも、既に秋沢は受けの姿勢が出来ている。ここは一回、外野に回した方が確実だ。

  俺がパスを出したあと、再び秋沢のアクロバットタイムが始まって、また少し川元と話す余裕ができた。

  「…………ああいうフェイントも使ってくるなんて、なかなか小賢しいな」

  「今のは誰も見抜けなかった。でも避けたのはナイスだ。次からは警戒できる」

  「危なかったけどな。ていうかこれ後半もあるんだよな?」

  「あぁ。きっと前半以上に白熱するぞ」

  足元の低いボールをジャンプでかわした秋沢を見て、これは骨が折れる授業になるとため息をついた。ふと周りの様子に目線を配ると、ノリノリでボールを投げている野球部たち以外は、わりとうんざりした顔で壁に寄りかかっていた。中には私語をしている生徒もいて、体育が嫌いな人もいるんだなと再確認した。白熱して見てるのは体育の先生と高田くらいか。ちょくちょく後ろから、おぉ!とかうぉ!とかリアクションが聞こえてくる。見えないけどこーすけも携帯いじったりしてるだろう。

  俺がそうしてよそ見をしていたときだった。

  「っ、渡嘉敷!」

  慌てた川元の声がしたかと思ったら、グイッと左に強く引き寄せられてヒュッとボールが風を切る音が聞こえた。いつの間にかボールの主導権が変わっていたようだ。

  すぐに体勢を整えようと後ろを向いた瞬間、打点高くボールを掲げながらこっちを振りかぶっている高田の姿が視界に入る。まるでスローモーションになったかのように、ニヤついた虎獣人の牙がキラリと光ったところまで、しっかりと見ることができた。

  次の瞬間、俺の目の前を斑点模様の手の甲が遮ってきた。ドスンッ!!と鈍く弾くような音がして、数秒後、その場で地面にボールが跳ねていた。

  「……川元!アウト!!」

  ピッ!と笛の音がして、教師の声が響いた。隣を見れば、痛そうに右手を振る川元が、外野に向かって歩いていく背中があった。

  ……どうやら川元に守られたらしい。確かにあの距離で高田の全力投球を食らったら、下手すりゃ怪我をしかねない。軌道からして完全に顔面に向かって飛んできていた。

  「…………っ…………………」

  声をかけようかと思ったけど、何となくタイミングを失ってしまった。礼を言うべきなんだろうけど、もはや外野の端でクラスメイトと話し始めている。

  「…………渡嘉敷、ボール拾え」

  「……ぁ、すいません」

  その場に落ちたボールを拾い上げて、手の中で数回クルリと回してから、顔を上げて前を見る。

  …………あ、そうか。川元アウトだから高田が帰ってきてるのか。向こうは猫科が二人、対して俺は一人。まだ秋沢もいる。

  せっかく庇ってくれた川元のためにも、なんとか勝って終わらせたいが、これはかなり骨が折れそうだ。

  [newpage]

  案の定、前半後半共に大した活躍もできないまま今日の体育は終わった。俺も球技にはそこそこ自信があったんだけど、他の二組の生徒はともかく秋沢と高田が強すぎて、明らかに種族の差というものを感じた。そりゃ体の大きさや作りがそもそも違うとはいえ、同い年の男子で差を感じるなんてのは、やっぱり虎とライオンは色んな種族の中でも抜きん出て身体能力が高い。田舎にはライオンなんてそうそういなくて、都会にきて間近で見ると、ひしひしと感じた。

  ただもちろん個体差はある。秋沢が今日の授業で一回もボールを当てられなかったのは、ライオンだからじゃなくて秋沢だからだ。それだけの身体能力を持ってるってのに、いつも縮こまって気弱でいるのはなんだか腑に落ちない。獅子獣人にプライドが高いイメージがついたのは、元の能力が高いからだろうに。

  俺がそんなことを考えていると、更衣室のロッカーの扉越しに、こーすけが話しかけてきた。

  「ドッジボール白熱してたね。哲也もノリノリだったし」

  「…………俺が?別にノリノリじゃねぇよ」

  「嘘。外野から見てたけどずっと尻尾振ってたよ」

  「…………………………マジで?」

  「マジで」

  それが本当だとしたら相当恥ずかしい。高校生にもなって体育の時間でテンション上がって尻尾振っちゃうなんて。しかもそれに自分で気づかないなんて。

  そりゃ久しぶりにスポーツが出来て楽しかったけど、こーすけとかクラスメイトに見られてたかと思うと、なんかバカにされてないか心配になる。

  それを見かねてかこーすけが、軽く肩を叩く。

  「大丈夫。そういうとこも可愛いよ」

  「嬉しくねぇよ」

  手を払って体操服を脱いだと同時に、着替え終えた川元が通りすぎるところだった。一言声をかけようと思って、そのまま話しかける。

  「川元、さっきありがとな」

  「…………え?あぁ……」

  「助かったよ。でもドッジボールって顔面セーフだろ?」

  「顔に当たったら危ないだろ」

  「あのボール硬いもんな」

  俺が微笑みかけると、川元は少し目を逸らしてから再び俺の顔をじっと見た。

  「…………渡嘉敷、連絡先聞いてもいいか?」

  「え?」

  「あーLINEとか…………良かったら」

  どことなく歯切れの悪い川元に疑問を覚えつつも、ここ1ヶ月でよく聞かれた質問に流暢に答える。

  「悪い。俺携帯持ってねぇんだ」

  「え、そうなのか……珍しいな」

  「電子機器苦手でさ。もし用事があったら寮の電話にかけてくれると助かる」

  「そうか…………わかった。それと、」

  川元は一瞬だけ俺の全身を見たあと、

  「…………早く服着ろよ。風邪引くぞ」

  「え?あぁ、うん」

  そう言ってスタスタと足早に更衣室から出ていってしまった。クールだけど、普通にいいやつそうだ。ちょっと何考えてるか読み取りづらいけど。

  ともかく、同級生の友達を増やすという目標にまた一つ近づいた気がする。特に他のクラスとは接点が少ないから、こうやって体育の授業とかで関われるのはいいことだ。

  ふと向き直ってこーすけの方を見ると、じっとりした目で軽く睨まれていた。

  ……あぁ、どうせいつものやつだ。

  「そうやってあっちこっち色目使うの良くないよ」

  「使ってねぇよ。普通に喋ってただけだろ」

  「自覚してなくても、哲也の頭からは特殊な電波が出てホモを勘違いさせちゃうの」

  「あ、ホモは差別用語。だろ?」

  「ホモが言う分にはいいの」

  こーすけと一緒にいるときに、こーすけを放っといて他の人と喋ったりしてるとき、いつも色目使いとかたらしとか文句を言われる。普通に会話して友達を作ろうとしてるだけなのに、それにいちいちイチャモンをつけてくるということは、十中八九嫉妬してるんだろう。最初の一月は右も左も分からずに、ずっとこーすけに助けてもらってたけど、だんだん学校生活に慣れてきて、自分なりに住み心地がよくなってきてからは、そうこーすけにべったりって程でも無くなった。人の心に疎い俺でも、こーすけからしたら面白くないだろうなってのは、簡単に予想がつく。

  「そのうち誰かに掘られるよ?それもそれで面白いけど」

  「掘る?何を?」

  「ぁ…………渡嘉敷くん」

  不意に背後から声をかけられたので、シャツのボタンを閉めながら振り向けば、もう既に着替え終わった秋沢の姿があった。

  「なんだ?」

  「あの…………先生に頼まれた資料を運ぶの、手伝ってくれないかな。一人じゃ厳しそうで……」

  さっきのドッジボール中は素早い動きでコートを駆け回っていたというのに、最早見る影もなくいつも通りの萎縮した秋沢になっている。まぁこれでも、初めて話したときは目も合わせられないくらいだったから、マシにはなったんだろうと思うけど。

  「高田は?いつも高田に頼んでただろ?」

  何の気なしに言った直後、こーすけからつま先を踏まれてハッとする。そういやコイツら今喧嘩中だったんだっけ。

  秋沢は申し訳なさそうに目を逸らした。

  「高田くんは…………ちょっと用事があるみたい」

  「あぁ…………えっと、わかった。じゃあこーすけ、体操着持ってってくれ」

  「おっけ。でも次の授業まであんま時間ないから、二人とも急いだ方がいいよ」

  「うん…………じゃあ、行こうか」

  背丈の高い秋沢がトボトボ歩き出したので、慌てて背中に着いていく。やや前のめりで猫背な後ろ姿は、相変わらず獅子獣人らしくない、自信なさげで弱々しいものだ。そのくせさっきまで体育の授業でエース級の活躍をして一番目立ってたんだから、そりゃ怖くて誰も話しかけないだろうなと思う。

  そんな中、唯一仲の良い高田と恋人になって、今度は喧嘩して。本人も多少は落ち込んでたりするんだろうか。まぁただ喧嘩の内容を聞かないことには、解決策もどっちが悪いとかも考えようがない。そこに首を突っ込むべきなのか、スルーして本人たちに任せるのか、俺はやや面倒くさい立場にいるような気がした。

  正直そこまで色恋沙汰には興味がないんだけど……面倒に巻き込まれるのはご免だし。でもここで秋沢を放っとくのも、なんだか情に薄いように感じる。1ヶ月前の余裕がない俺なら間違いなくスルーしていたと思うけど、今はそれなりに学園に慣れてきて、知り合いも増えた。クラスメイトの悩みくらい聞いてやってもいいんじゃないかと思えてきた。

  とはいえ本人が俺に話したいかどうかもあるし、こっちから切り出すのは愚策だろう。それとない話で適当に間を埋めようか。

  「…………秋沢、兎とナツメグ、今真ん中くらいなんだけどさ」

  「え?ぅ、うん…………」

  急に話しかけたせいか、廊下の真ん中でビクッと肩を揺らして驚く秋沢。小動物じゃねぇんだから。

  「主人公の幸雄?けっこうクズじゃねぇか?」

  「うん………………でも、麗花が盲目的になる描写が上手だから、クズだけど愛しやすいっていうか、嫌悪感は少ないよね」

  「まぁな。でも恋愛小説の主人公がクズっていうの、斬新な気がする」

  「最近のラノベとか、漫画の風潮に近いよね。作者も比較的若い人だからか、キャラクターの思想が今どきって感じ」

  ほんと本の話題になると急に饒舌になるな。流暢に自分の意見も言えるし、声も大きくなる。それが出来るなら普段からやってくれれば、友達も増えるんじゃないだろうか。

  正直俺の本に対するボキャブラリーは全然ないので、また話題を変えてみる。

  「……そういやどこに向かってるんだ?」

  「本棟三階の資料室だよ。四限目の授業で使う古代史の小さい黒板みたいなのがあるらしいんだけど………」

  「秋沢も知らねぇのか」

  「…………本棟の資料室って、あんまり行ったことがなくて」

  本棟は一階にデカい講義室があったり、二階に特殊な教室があったりして、そこそこ出入りすることはあるけど、三階まではなかなか行く機会がない。特に資料室なんかほとんど物置みたいなもんだし、見たことがないのも当然だ。俺もない。

  本棟に入ってすぐの階段を、普段立ち入らない三階まで登っていく。休み時間とはいえ二階三階になるにつれて周りに誰もいなくなり、資料室の前に着いた頃には長い廊下が完全に静寂に包まれていた。

  資料室は横開きのドアにガラス窓が付いていて、中の様子をなんとなく見ることができた。物がごちゃごちゃ積まれているくらいしか、特に何も無さそうだけど。

  秋沢が借りてきた鍵を差し込んで開けて、中に入ったので俺もそれに続く。扉を閉めたら、使われていない教室ならではの埃っぽい臭いがして、本当に誰も来ないんだろうなと再確認する。中には古そうな金属製の棚や、何が入ってるかも分からない大量の段ボール、埃を被った世界地図なんかもあって、様々な物が雑多に置かれていた。部屋の広さがそれほど無い分、縦に高く積まれているせいで、さらに圧迫感を覚える。実際獅子獣人が一人いるだけで、やけに狭くなったように感じるし。

  「…………で、見たこともないものをこの山からどうやって探すんだ?」

  俺が少しいじわるに問いかけると、秋沢は気まずそうに黙った。本人もきっとため息をつきたいところだろう。歴史の教師は中年の先生だけど、自分で取ってこいよ、って強く思った。

  渋々といった様子で秋沢は山積みの物に手をかけた。

  「…………手当たり次第探すしかないと思う。先生が言ってたのは、古代史の初期、第1から第3世代までの図解が分かりやすく書いてある…………黒板?」

  「まぁそれっぽいのを持っていけばいいだろ。違っても怒られはしないだろうし」

  俺もとりあえず目の前の段ボールを開けてみる。巨大なビニール製の袋の中に、何か赤とか白とかカラフルな装飾っぽいものが入っている。もしかして体育祭とかで使うやつかもしれない。

  黒板みたいなやつってことは、大きめの板っぽいやつを探せばいいってことだ。ぐるっと教室を見渡して、それっぽいのから手をつけてみることにした。

  「…………これ数学のやつか。グラフみたいなの」

  「関数で使うのかな。こっちはフィボナッチ数列を図形にしたやつがある………こんなの授業で使わないと思うけど…………」

  「あっ、これ有名な古文だろ?」

  「春暁だね………一年で使うのかな」

  「使わないからここで埃被ってるんだろ。秋沢、これは?」

  「ファラデーの法則。なんでこれだけ別に纏めてるんだろ…………」

  掘れば掘るほど色々な物が出てきて、かなり新鮮だった。初めて見たような難しいやつもあれば、一度教科書で見覚えのあるような内容とか、とにかく様々な種類の黒板やらホワイトボードが置いてあった。

  中には物理とか数学で使いそうな謎の球体とか、難しい漢字が書かれてるカード、英文法の本なんかも出てきて、学問に使うような物は無限にあるんだなと思った。

  それに加え面白いのが、俺が知らない道具を秋沢に見せると、全部何かしら答えが返ってくることだった。返ってきた答えが正解かは知らないが、なんだかクイズ大会をしているような気分で、珍しい物を見つける度に秋沢に渡しては、それについての用途や情報が返ってくるのがなんだか楽しくて、辞書と会話してるみたいだった。当の秋沢もなかなか楽しんでそうだったし。

  「…………秋沢すげぇな。高校生レベルの教科は全部網羅してるのか?」

  「いや…………教科書を覚えてるだけだよ」

  「一度は言ってみたいなそれ。頭が良いのは知ってたけど、ここまでとは思わなかった」

  授業中も真面目に勉強して、少しでも暇があれば本を読んでて、誰よりも抜け目なく宿題もこなして。絵に描いたような優等生っぷりだ。間違いなくこの学校にいるレベルの学力じゃないことは分かる。もっと東大とか目指すような高校に行った方が良かったんじゃないだろうか。

  ただそれを言ってしまえば川元も同じように、本人が稲光に来たいと望んだのだから、外野がアレコレ言うのは筋違いだ。勿体ないとは思っても、本人の選択にケチをつけるような真似はよくない。

  俺の褒め言葉を受けて、秋沢は微弱に笑ったが、あまり嬉しそうではなかった。散々言われなれてるのか、触れてほしくない部分なのか。でも少なからず、勉強とかクイズとかは好きなんだろう。嫌いでここまで凄いんだったらなんだか腹が立つ。

  「……………でも、全然見つからないね。もうすぐ授業始まっちゃうよ」

  「こんなに量があったらしょうがねぇよ。どうする?また後で探しに来るか?」

  「うーん…………この辺とかありそうなんだけど」

  そう言って秋沢は諦め悪く、部屋の角にある棚に手をかけ始めた。棚の中もごちゃごちゃだけど、棚の上にもさらに物が積まれている。ちょっと崩れそうなくらいバランスが悪いし、あまり触らない方がいいんじゃないかとも思うけど。

  俺も再び、足元の黒板を整理する。似たようなものばっかりで、なんで使いもしないのにこんなに保存してあるんだろうか。

  すると、

  「…………あ、あれかな……?」

  「お?あったのか?」

  声のした方を見ると、背の高い秋沢ですら背伸びするくらいの高さに山積みの資料の中から、一つの黒板を引っ張り出そうとしていた。見るからに危なそうだったので注意を促そうと口を開いたときだった。

  ぐらっ

  「っ、あ……!」

  秋沢が黒板を強く引っ張った拍子に、ゴミの山が大きく揺れたかと思えば、あろうことかその下の棚までぐらぐらと振れて、秋沢に向かって勢いよく倒れこんできた。危ない!と言おうとした頃にはとてつもない音が鳴り響いて、あちこちに埃を撒き散らしながら色んな物が吹っ飛んでいった。棚はドアに向かって倒れていて、中にあった小物も床に散らばり、ずいぶん悲惨な状況になっていた。目配せをすると、秋沢は素早く危機察知して部屋の角に避難していたようで、端で目を丸くしながら耳をピンと立てている。

  「………………………………………………」

  「………………………………………………」

  一度轟音が鳴ってから、 辺りは静寂に包まれた。なんと喋っていいかも分からず、怒っていいかも嘆いていいかも分からずに、とりあえずぼーっと目の前の惨状を見つめていた。床に落ちた教科書の束から、黒い虫が逃げるように他の棚の裏へ移動していく。

  「………………っ、へっくしゅんッ!!!」

  舞い上がった埃に思わずくしゃみをして、その静寂は破られる。秋沢もハッとしたように動き出して、こっちに近づいてきた。

  「………………ごめん。渡嘉敷くん…………大丈夫?」

  いつも以上に肩を縮こませながら、恐縮を全身で表現した秋沢が俯きながら言う。拳骨でもしたいところだけど、何の解決にもならないのでため息混じりに答える。

  「…………秋沢は平気か?……ったく何してんだよ」

  「ごめん………………」

  少し屈んで床に落ちている教科書を拾ってみる。散らばったものはほとんどが使われていないガラクタだろうから、壊れていたとしても最悪バレないし怒られもしないだろう。さっきの音で誰か教師が駆けつけてくるかと思ったけど、下の階までは響かなかったらしい。棚を戻して適当に片付ければ、証拠は隠滅できそうだ。ただ間違いなく授業には遅刻するだろうけど。

  秋沢はグイッと倒れた棚を持ち上げて、元の位置に置き直す。

  「備品……壊しちゃったりしたかな…………」

  「大丈夫だろ、元から古そうだし………それより黒板はあったのか?」

  「うん……一応。早く戻して教室に戻らないと………」

  いくら使われていない資料室とはいえ、床に散らばったままなのは不自然だろう。そこら辺に山みたいに積んでいけば、気づかれないとは思うけど。

  秋沢頭良いくせにこういうところはバカだよな………と口に出さないまでも思いつつ、復元作業を進める。

  「………あんなデカイ音なのに誰も……っくしゅんッ!!!」

  「………………埃すごいね」

  「あぁ………ドア開けるよ。なんでここ窓もついてないんだ」

  「……あの棚で隠れちゃってるみたい」

  間違いなく換気が必要な教室のくせに、物の多さのせいで窓すら開けれないなんて。ここの教室はおろか本棟にはしばらく近づかないだろうな、なんて思いながら、教室のドアに手をかける。

  …………すると何故か、ドアに鍵がかかっていた。

  「………………ん?俺鍵かけてないよな……」

  ボソッと呟き、内側についている扉の鍵を開けようとするも、つまみの部分が固くて動かせない。思いっきり力を込めてスライドさせようとしても、まるでビクともしなかった。

  確か秋沢は鍵を扉の外側に差しっぱなしにしていたはずだ。それが何かの拍子に深く差し込んでしまい、扉が開けられないとか?

  「………………秋沢、扉が開かねぇ」

  「…………え?どういうこと?」

  「なんか鍵が壊れたっぽい……自分でやってみろよ」

  秋沢は一度手を止めて、訝しげに近づいてくると、扉に手をかけた。当然ガチッと何かに阻害されている音がして、今度は鍵の方に手をかける。上下にスライドさせることで閉められるタイプの鍵みたいだが、何故かつまみが上の方にあって、知らぬ間に鍵がかかっている。秋沢の力でもつまみを下にスライドさせることができないようで、少し試してから一度手を離した。

  「…………………………どうしよう」

  「いやどうしようじゃねぇよ!!絶対さっきの衝撃で鍵壊れただろ!」

  「う、うん…………ごめん…………多分倒れた棚が鍵にぶつかったせいだと思う。外につけっぱなしの鍵も、もしかしたら中で曲がってるかも…………」

  「こっち側から直す方法はあるのか?」

  「…………もし鍵が曲がったまま差し込んであるなら、それを抜かないと開けられないから…………多分……」

  「………………ない?」

  「……………………うん」

  さらにしょんぼりした様子で目を伏せる秋沢にため息を吐きかけつつ、一度部屋の中を見渡してみる。窓はなく、そこら中にさっきの事故の残骸が散らばっていて、埃にまみれてる。目の前には項垂れた秋沢がいて、中から鍵を開ける方法がない。

  つまりは簡単に言うと、外の人の力を借りないと絶対に出られないってことだ。ハプニングをダブルで起こしやがって、秋沢らしくない。

  ここで追い討ちをかけるように、授業の開始を知らせるチャイムの音が鳴った。

  「……………………授業…………始まったね」

  ボソッと呟く秋沢を見やると、本当に真下を向いてて尻尾もだらりと下げている。こんな分かりやすく落ち込む奴がいるんだな、と場違いなことを思う。

  ……まぁ一生出られないわけじゃないし、俺らが資料を取りに行ったことはこーすけが知ってる。無遅刻無欠席の秋沢が授業にいないってことで、先生たちも心配したりして探しに来てくれるんじゃないだろうか。運が良ければ次の授業の休み時間には出られるだろうし、昼休みになれば流石に大事になるだろう。それまで小一時間ここにいるのも、数学の授業と比べてどっこいどっこいってところかもしれない。

  ひとまず秋沢を慰めて、今やるべきことを決めよう。

  「…………おい、ここでしょげてても仕方ないだろ。とりあえず散らかした分片付けようぜ。どうせ出られないんだし」

  「うん………………渡嘉敷くん、本当にごめん…………」

  「いいって別に………怪我もしてねぇし。授業ちょっとサボるだけだろ?たまにはいいじゃん」

  「………………………………本当………………ごめん……」

  軽く肩を叩いて元気づけようとしても、そう簡単に立ち直るほど単細胞じゃないか。それでも俺が片付けを始めたら、しょげながら秋沢もやり始めた。

  「…………今何分だ?」

  「えっと………………授業始まって15分くらい」

  あれから適当に資料室の片付けを終わらせて、何回か鍵開けをトライして失敗したあと、あまり埃の被ってない椅子を見繕って二人で座っていた。資料室には時計がないから、秋沢の腕時計を頼りに時刻を聞くも、ただ時間を潰すにはあまりに暇でしょうがない。一応目当ての古代史黒板は見つかってるし、本当ならこんなところもう用事はないんだけど。

  秋沢もようやく立ち直ってきたのか、今は棚にあった教科書を読み漁っている。勉強の意識が高いのはけっこうなことだが、話し相手になってくれないかなとも思う。埃のせいで時々くしゃみが出るのも、俺のストレスとなっていった。

  また少しして我慢できず、化学の教科書を読む秋沢に話しかけてみる。

  「…………秋沢、お前なんか今日らしくないな」

  「……………………………………え?」

  「いや、いつもはもっとちゃんとしてるっていうか、こんなドジ踏むタイプだったっけ、って思ってさ」

  「……………………………………ごめん」

  「謝らせたいんじゃねぇよ。最近なんかあったのか?嫌なこととか悩みとか」

  二メートルほど近くにいる秋沢の様子を観察してみると、普段より毛並みが荒れているように見えた。運動してた後ってのもあるけど、絶対それだけじゃないだろう。体育の授業のときも、川元が言うには何かスイッチが入ってたらしい。普段なかなか気弱だが冷静な秋沢とは、少しイメージが違う。

  こんな質問をしながらも、俺は秋沢が高田と喧嘩してることを知ってるのだから、なんだか卑怯な気がしてきた。

  秋沢は教科書を読むのを止めて、少し考えるような素振りを見せてから、俺の方を見た。

  「…………………………あるよ。悩み事は…………たくさん」

  秋沢の瞳孔が微弱に揺れて、蛍光灯の光を反射した。

  「……言ってみろよ。誰かに話した方が――――」

  「――――でも、でも…………………俺は、悩みなんて人に言ったらいけないんだ」

  俺の言葉を遮りながら、まるで自分に言い聞かせるかのように呟く。固く握りしめた拳は、自分自身を抱き締めているかのような弱々しさを感じる。

  …………秋沢は、気弱で繊細な性格だ。財閥の一人息子という立派な肩書きのもと、プレッシャーと戦いながらやるべきことを完璧にこなして生活している。前にも似たようなことは言っていて、親からのプレッシャーに繊細な性格が耐えきれない時があるんだろう。

  とはいえ最近高田と付き合い始めたことで、多少なりともプラスに働いてたように見えたんだけど、喧嘩のせいでマイナスが大きくなったんだろうか。

  「…………お前悩みくらい誰かに言わなかったら爆発するぞ?秋沢財閥の一人息子でも、悩み相談くらいしたっていいだろ」

  「………………俺は…………もっと強くならなきゃ…………メンタルが弱いから………………」

  「…………自滅しそうになってんじゃねぇか」

  自尊心と自己肯定感の低さ。とてもじゃないけど獅子獣人には見えない。きっとどれだけ人に褒められて認められても、親からの期待に応えられていないという意識があるんだろう。ネガティブな性格が災いしてるのもあるが、どれだけプレッシャーをかけ続けたらここまで怯えた子供に育つんだか。

  今の秋沢は自分の中だけで結論を決めて、どんどん破滅に向かっているらしい。きっとトリガーになったのは高田との喧嘩だろう。少し前まではこんなに卑屈じゃなかった…………かもしれない。

  「お前高田と付き合ってただろ?」

  「…………っ………………やっぱり……バレてたんだ……」

  「まぁそりゃ………明らかに距離感違ったし。でも喧嘩したんだろ?」

  「…………うん……………………バレバレだね」

  秋沢は気弱に微笑んだあと、鬣をねじり始めた。こんなにメンタルが弱い奴が恋人と喧嘩したら、そりゃ落ち込むだろうな。

  秋沢の方に体を向けて座り直し、改めて聞いてみる。

  「なんで喧嘩したんだ?お前あんまり怒るタイプじゃねぇだろ?」

  「…………最初に怒ったのは高田くんの方だよ。俺が怒らせちゃったんだ」

  意外な返事が返ってきて、少し考えてみる。どうせ高田が無神経なことをやらかして怒らせたんだと思ったけど、どうやら違うらしい。神経質な秋沢がどうやって高田を怒らせたんだろうか?

  「詳しく言えよ」

  「……………………渡嘉敷くんは、聞きたいの?」

  「………………まぁ興味半分、暇潰し半分。それとこーすけに聞いてくるよう言われたんだよ」

  「…………利根川くんか。いいね……二人はラブラブで」

  「ラブラブじゃねぇ。付き合ってもねぇし。つーか俺の話はいいんだよ」

  やたらとネガティブでもじもじしている秋沢をじっと見据えて、逃げられないようにする。そもそもこの密室じゃ逃げようはないんだけど。

  秋沢は相変わらず目を逸らしているが、先程まで読んでいた教科書を机の方へと置いた。少しは話す気になったんだろうか。

  「…………………俺は………………秋沢財閥の跡取りで、秋沢家を継ぐために生まれてきたから…………」

  「……………………よくそんなこと自分で言えるな。自分の人生の指針が決まってるって、悲しくないのか?」

  「ううん。秋沢家に生まれたからには、義務を果たさないと…………そのために父様は、俺に莫大な投資をしてるんだから」

  これは価値観の問題だと思うけど、俺は自分の人生は自分で決めたいタイプだ。誰かのためじゃなく、俺が幸せに生きるために選択をしていく。生まれてきた意味なんて分からないけど、それを見つけるのはずっと後だと思ってる。

  でも秋沢は、秋沢家に献身することを目的に生きてるように見える。これは家族愛なのか、行き過ぎた教育のせいなのかは誰にも分からない。この歳で自分の人生の意味まで決めてるなんて、俺には悲しく思えてくるけど…………でも少し、何かが引っかかった。

  秋沢は話を続ける。

  「………俺にはもう許嫁がいるんだ。大学を卒業した時点で結婚する予定があって、式場まで予約してある。だから…………高田くんに別れたいって言ったんだ」

  「…………まだ付き合って数週間だろ?」

  「…………初めての恋人で、舞い上がっちゃったのかな。冷静に考えたら、俺はいつか高田くんと別れなきゃいけないから…………好きになり過ぎる前に、友達に戻りたいって」

  「……………………まぁ、そんな繊細な感情をアイツが理解できるわけないけどな」

  「はは………………それでちょっと言い合いになっちゃって、喧嘩してるんだ。一応まだ……別れたことにはなってない……のかな」

  秋沢の目は悲しそうだ。きっと頭がいいからこそ、自分の中で色んな可能性を模索して、それでも秋沢家に献身する道を選ぼうとして、それ以外を除外しようとしてる。こんなに真面目な性格の奴が、軟派に遊びたい放題するわけもないしな。

  とはいえ、高田の気持ちも分かる。恋人に数週間で別れたいって言われたら、まぁ反発したくもなるだろう。テキトーに見えるけど、そういうところは正常な価値観を持ってるらしい。

  「お前はその許嫁と結婚するしかないのか?」

  「うん…………ライオンの、すごい綺麗な女性だよ。平安時代からある名家のお嬢様なんだ」

  「まぁ…………でもお前ゲイだしな。その辺は父親に打診してみたりしたのか?」

  「話してみたことはあるよ……ゲイだってカミングアウトした時に。でも子孫の問題があるから……女性と結婚しなきゃ」

  「今は代理出産とか色々あるだろ。何がなんでも結婚しなきゃなのか?」

  「秋沢家は代々純血の獅子獣人しかいないんだ。それに政略結婚の兼ね合いもあるから、お互いの家のために必要なビジネスなんだよ」

  「………………………………窮屈だな」

  結婚してから不倫するって手も、真面目な秋沢がするとは思えないし。高田…………に限らず、秋沢が本当に好きになった人と結ばれる未来は無いんだろうか。秋沢は了承してるっぽいけど、やっぱり端から見てると不幸としか思えない。

  …………でも、だとしたら。

  「…………じゃあそもそもお前はなんで稲光にいるんだ?」

  「………………っ、それは………………………………ぅん」

  ずっと引っかかっていた、一つだけ大きな矛盾。家のために人生を捧げる覚悟があるなら、そもそもLGBTの学園なんかに来る必要がなかったはずだ。エリート高校を選ばず、わざわざ稲光にいるってことは、秋沢の中に多少なりとも同性愛に関する興味があったってことだろう。転校もせず二年生を続けているのも、恋人が欲しかったからじゃないだろうか?

  秋沢は言葉に詰まって、何も言えなくなってしまった。きっと言い訳を考えているはずだ。もう少し、秋沢の本音を引き出してみる必要がある。

  「ホントは普通の高校生みたいに、恋人作ってデートして、没頭したかったんだろ?でもお前はゲイだから、この学園に来ないといけなかった。違うか?」

  「違………………わない………けど………………でも、中三のときの俺がバカだっただけで…………」

  「なら転校すりゃよかっただろ。お前の学力ならもっとレベルの高い名門校に行けるはずだ」

  「………………………………渡嘉敷くんって、普段鈍感なのにたまに鋭いよね」

  「褒めてんのか?」

  「褒めてるよ……」

  少しだけ俯いてから、ようやく俺の方へ向き直った秋沢。赤色の瞳が不安げに揺れている。

  深くため息をついてから、秋沢は口を開く。

  「俺がバカなんだよ…………もっとちゃんとしなきゃいけないのに………………恋人が欲しいだなんて………」

  「別にいいだろ、悪いことしてるんじゃねぇし」

  「悪いよ…………秋沢家を継ぐためには、そんなの必要ない」

  秋沢は席を立って、近くにあった机の上に腰かけた。少々埃の被ったやつだったけど、本人は気にしていないようだ。

  そこに座った秋沢は、とても財閥の跡取りには見えない…………普通の高校生だった。

  「きっと俺は明日にでも……転校すべきなんだろうね。色んな役職を放り投げるのは気が進まないけど…………俺には必要なことなんだ」

  そう言ってから、秋沢はさっき置いた教科書をまた拾い上げた。パラパラとページをめくり、さっき読んでいたところを探している。

  その様子に何故か少しイラッとした俺は、ボリボリと頭を軽く掻いてから立ち上がる。

  「………ちげーよバカ」

  軽くぼやいて、秋沢の座る机の方までゆっくりと歩み寄り、机の足を軽く蹴飛ばした。

  ガンッと揺れて、秋沢は俺の方を少し驚いた様子で見つめる。俺は秋沢の手にある教科書を無理やり取り上げて、教室の角にボイと投げる。そのまま空いた方の手で秋沢の制服のネクタイを掴むと、首が閉まらない程度に自分の方へと引き寄せる。顔の距離が近くなって、秋沢の驚いて丸くなった目がよく見える。やっと目が合った。

  少し吐き捨てるように、少し説得するように。

  「お前に必要なのはあと二年間、この高校で色恋沙汰を楽しむってことだ。勉強はどこでも出来んだろ?」

  「……………………………………でも、」

  「でもじゃねぇ。お前があと人生で恋愛を楽しめる期間は二年だぞ?喧嘩なんかしてないでイチャイチャしてろよ」

  「…………………………………………………………」

  ネクタイを放して、少し後ろに下がる。なんか口が悪くなってしまったような気がしたが、言いたいことは言えた。秋沢は真面目すぎる。真面目すぎる故に視野が狭い。俺がこの学園に来てこーすけから学んだのは、もっと適当に柔軟に生きてもいいってこと。あーだこーだと価値観が凝り固まっていた俺を、アイツはいつも飄々と上から見下ろしてくる。そしてからかうように柔軟な生き方を見せつけてくるのだ。

  こーすけから影響を受けたわけじゃないが、秋沢は価値観が凝り固まった典型的な例だ。楽しめるだけ楽しんで、自分本意に生きる。ちょっとくらい軟派になってもいいんじゃないだろうか。

  秋沢は黙ったまま、俯いて何かを考えている。個人的には、転校を思い止まってくれると助かるんだが。

  「…………………………………………………………」

  「…………おい、なんか言えよ」

  もしかして逆効果だったか?気弱な秋沢をもっと追い詰めたかもしれない。選択肢を広げるつもりで言ったんだけど、むしろ狭めることになっていたら洒落にならない。秋沢がそれでも転校したいと言うのなら、止める術はない。そもそもこの学園でも友達は少なかったし、転校したら俺の後味が悪いだけだ。高田は………どうせすぐ忘れるんだろうな。そういうヤツだし。

  「………………………………そう………………かも」

  考え事をしていると、秋沢がぼそりと呟いた。あまりに小さい声で、聞き取るのも困難なくらいだったけど、静かな教室の中で確実にそう言っていた。

  秋沢は顔を上げて、俺を見る。

  「………………高田くんと………話し合ってみるよ。ちゃんと聞いてくれるか分かんないけど…………」

  「転校はするなよ。こんな話した後に転校されたら味が悪いし」

  「…………うん…………………………」

  崩れたネクタイを直しながら、秋沢は座り直した。肩についた埃を落として、制服のシワを伸ばす。

  身なりを整えた秋沢は、立ち上がって俺と向かい合った。いつもより背筋が伸びていて、獅子獣人らしい威圧感を感じる。

  「ありがとう…………俺なんかに怒ってくれて」

  「なんかってなんだよ。ごめんな、無神経で」

  「……ううん…………学校の人に家の話をしたの初めてなんだ。今まで聞かれたことすらなかった…………」

  「そりゃお前、俺以外に友達いねーもんな」

  俺がふと呟いた言葉に、ビクッと秋沢は強く反応した。見て明らかに分かるくらいに、耳がひくひく動いて尻尾も落ち着きがない。少し前のめりになって丸い目で俺を見下ろす様は、まるで脅されているような気分になって、思わず俺も後ずさりした。

  「………………友達…………なの?…………僕たち」

  「……いや、そう言われると微妙だけど……………でも学校じゃよく喋るしたまに昼飯一緒に食うし………友達…………じゃねぇのか?」

  「……………………………!……………友達……………」

  秋沢はその場で固まってしまった。少し呆然としたような、驚愕としたような………そんなに意識していなかったんだろうか。そもそも友達の定義って曖昧で人によると思うから、当人たちが友達だと思ってれば友達でいいと思うんだけど。なろうと思ってるなるようなもんじゃない。

  まぁでも、秋沢は友達のハードルを高くし過ぎなんだろう。きっと俺以外にも、気軽に秋沢と話ができてる奴はいるはずだ。それを本人が勝手に心の壁を作って、自分に友達なんかできない、って思い込んでるんだろう。

  いざ口に出すと気恥ずかしいものではあるけど、俺と秋沢は友達……ってことでいいんじゃないだろうか。

  「…………………………渡嘉敷くんは、僕が友達で…………いいの?」

  「いいって言ってるだろ。あとお前一人称変わってるぞ」

  「あ、あぁ…………ごめん、えっと……………………俺、友達ができるの初めてで………あの………ありがとう……」

  「礼なんていいって。ホントに初めてなのか?」

  「ぅ、うん………………」

  秋沢の反応を見るに本当っぽいな。子供の頃から忙しくて、そんな暇なかったのか……それとも向こうは友好的でも、秋沢が拒絶してしまっていたのか。まぁコイツ面倒くさいところあるし、肩書きも邪魔してなかなか出来にくい環境だったとは思うが。

  ついさっきまで落ち込んでいたのが、気弱になったり驚いたり喜んだりと、ずいぶん起伏が激しい。今はもうソワソワとその場で体を動かしている秋沢にまた座るよう促して、二人とも再び椅子に腰かけた。

  「驚いた……………渡嘉敷くんが俺のことそんな風に思ってくれてたなんて…………」

  「………ぃや、大事にし過ぎだって。たかが友達だろ?」

  「ううん…………俺にとっては大事だよ。この短期間で恋人も、友達もできるなんて…………」

  「普通逆だけどな。そんでまだ転校する気か?」

  「いやいや………………滅相もないよ」

  秋沢は緩やかに微笑んでから、少し虚空を見上げて何かに思いを馳せているようだった。その表情は今日1日見た中で最も晴れやかで、この部屋に入る前の鬱屈とした顔の何倍もマシだ。蛍光灯の下、鬣のつやも良くなったような気がする。きっと気のせいだけど。

  「なら解決だ。な?話してよかっただろ?」

  「ハハ…………暇潰しになった?」

  「あぁ。今何分だ?」

  秋沢は腕時計をチラ見したあと、俺の目を見ながら苦笑する。

  「……授業始まって20分くらい」

  [newpage]

  結局授業まるまる欠席したあと、休み時間中に探しに来たこーすけに発見され、その後何人かの教師と生徒を巻き込んで多少大事になりつつも、なんとか脱出した。資料室の鍵は壊れてしまい、今後開けっ放しにすることになったらしく、秋沢が弁償することもなく済んだ。中の備品はいくつか破損したかもしれないが、元々古かったしバレてはいないだろう。午前中のうちに肉体的にも精神的にも疲れた俺は、珍しく四限目の授業中に居眠りしてしまった。

  時間は飛んで放課後。帰りのホームルームも早々に終わらせたうちのクラスは、またガヤガヤと帰り支度をしている。女子たちはつるんでおしゃべりをしているし、体操服で部活に走っていく奴、携帯を弄ってる奴、もう宿題に取りかかってる奴。色んな人がいる。

  ふと前の方の席に視線を向けると、六限目からぐっすり寝ている高田と、それを起こそうか悩んでいる秋沢の姿があった。普段から高田を起こす係は秋沢だけど、喧嘩中の今はどうにも気まずそうだ。資料室での会話がプラスに働いて、関係を戻すに至ったらいいが。

  「哲也、かーえろ」

  ツンツン、と背中をつつかれて後ろを振り返ると、既に帰り支度が終わったこーすけがいた。いつもなら俺も帰るところなんだが、今日は違う。

  「いや、俺これから部活だ」

  「え?あぁ…………演劇部?」

  「珍しく呼ばれてさ。だから先帰ってくれ」

  そう伝えるとこーすけは少し口先を尖らせてから、はーいと言って鞄を持って教室から出ていった。基本的に俺以外に友達のいないこーすけは、放課後学校に残ることはない。別に内向的なタイプでもないし、誰とでも分け隔てなく喋るやつだけど、俺と普段一緒にいすぎて他の友達を作る気がないのかもしれない。同室でクラスメイト、毎日ほとんどの時間を共に過ごしているんだから、休日とか他の友達と遊びに行ったりしたらいいのにって思う。まぁでもそれは俺も同じか。

  机の上に鞄を置いて、体操服のジャージに着替える。制服のままでもいいらしいけど、俺は基本的に雑用係で入部させられてるから、動きやすい服の方がいい。

  シャツのボタンを外していると、いきなり後ろから話しかけられた。

  「なぁなぁ渡嘉敷ー!」

  「………ん?あ、佐藤か。なんだ?」

  猿獣人の佐藤は普段から頻繁に喋るわけじゃないが、たまに話しかける程度のクラスメイトだ。制服姿で鞄を持って、今にも帰る準備万端って感じだけど、どうしたんだろうか。

  ……そして若干ニヤついているようにも見える。

  「来週末の日曜日、暇か?」

  「あー特に何にもないけど」

  「じゃあさ、勉強会しよーぜ!もうすぐテスト期間に入るだろ?」

  「あ…………」

  そういえば、最近遊んでばっかりでテストの存在を完全に忘れていた。稲光に入って初めてのテスト、入学時にも受けたがそこそこの難易度だった。特に俺は数学が苦手で、面談でも赤点を取らないように担任に言われている。成績が悪ければ最悪留年もあり得るし、成績表はじぃちゃんにも送られるから、ちゃんとやってないと電話で叱られるかもな……。

  テスト自体は確か六月の下旬。あと1ヶ月ないくらいだ。大体一週間前とかから勉強を始めてギリギリになるのがいつものパターンだけど、今学年からはちゃんとしたいっていう気持ちもある。少なくとも赤点は避けなければならない。

  「いいよ。こーすけも連れてっていいか?」

  「もちろん!お前らセットだしな」

  「………………。場所と時間は?」

  「まだ決めてない……っていうか、さっき思いついたんだ。もうちょい人誘って、ファミレスとかでやるのがいいかなーって」

  「わかった。決まったら教えてくれ」

  「りょうかーい!」

  佐藤はそう言うと足早に教室から出ていった。猿獣人は比較的頭が良いって聞いたことあるけど、佐藤が勉強できるようにはあまり見えない。でも進んで勉強会を開くくらい勉強への意欲があるんだから、偉いと思う。

  勉強会は、島にいた頃カイとよくやってた。とはいっても、カイの方が勉強ができたから、ほとんど教えてもらうばっかりだったけど。それで二時間も経たずに飽きちゃって、結局遊び出すのがいつものパターンだった。

  そもそも勉強って人と一緒にやって能率が上がるもんなんだろうか。一人でやってるときの方が集中できるような。友達とやるのも楽しいからいいけれど。

  体操服のジャージに着替えてから、二年棟一階の演劇部の部室に向かう。ここには数回訪れたことがあるくらいで、それもほとんど顔合わせ程度のものだった。役者チームの人たちは台本が渡されて、配役からさっそく稽古が始まっているらしい。文化祭は11月だから、まだ半年くらい先の話なのにすごい熱量だ。演劇部には掛け持ちの人が多いから、それくらい前からやらないと間に合わないんだろう。

  対して裏方チームは意外とのんびりしていて、掛け持ちで来てる人や俺のような手伝い要員ばかりだからか、特に何もしていないのが現状だ。全体的に必要な道具や音楽、衣装などの細かい部分は脚本を書いた部長の頭にしか入っていない。きっと役者チームとのすり合わせで進めていくんだろう。俺は台本すらもらってないし、とりあえず頼まれたことを手伝うだけだ。

  部室の重たい鉄扉を開けて、中に入る。部屋にはそこそこの人数部員が集まっていて、真ん中の方で話し込んでいた。お疲れ様です、と軽く挨拶してから、とりあえず裏方チームのリーダーである青木先輩を探す。

  すると、どこからともなく狐獣人の耳がひょこひょこと近づいてきた。

  「渡嘉敷先輩、お疲れ様です。どうされたんですか?」

  「上柴、青木先輩見たか?珍しく呼ばれてさ」

  「さっき奥の部屋に入っていきましたよ。椎名先輩と話してるんだと思います」

  「そうか……じゃあちょっと待つか」

  演劇部の部員たちとはほとんど初対面みたいなもんで、一度顔合わせした程度の人ばかりだ。役者チームの人とはもっと喋る機会がないし……まぁ滅多に来ない俺が悪いんだけど。

  そんな中で俺が演劇部にいるのは、上柴がいるから、っていうのもある。上柴は俺が部室に入るといつも一番に話しかけてくれて、他の部員との橋渡しをしてくれることもある。女子部員が多い演劇部で、それが本当に助かっている。

  近くの固そうな段ボールに腰かけて、部室をぐるりと見渡してみる。色んなものがごちゃごちゃと積まれてあって、本当に雑多な部屋だ。

  「上柴たちは何してるんだ?」

  「僕たちも椎名先輩を待ってました。これから体育館で稽古するらしいです」

  「演技チームはやる気がすごいな。まだ5月なのに」

  「もうすぐ6月ですよ。運動部と掛け持ちされてる方は夏の間忙しいですし……夏休み明けたら文化祭なんてすぐですもんね」

  「体育祭もあるしな。確かに今しかねぇかも」

  思えばこれからテストがあった後夏休み、秋になれば行事が目白押しになって、色々と忙しくなるだろう。それが終われば年末になって、年明けて少ししたら二年生が終わる。まだ5月、もう5月。最近一年があっという間に感じるのは、歳をとったからだろうか。

  すると、部室の扉がギギッと開いてジャージ姿のリカオンが現れた。扉の前で喋っていた俺と上柴の視線もそちらに向く。

  「………………ちわっす」

  「あ、籠谷くん。先輩、新入部員で僕のクラスメイトの籠谷くんです」

  現れた籠谷は、俺のことを見て少し目を見開いたあと、軽く会釈をしてそそくさと部屋の隅に歩いていった。コイツの内情を知ってる俺はなんとなく冷めた思いでその背中を見守る。

  上柴は当然、俺と籠谷が初対面じゃないことを知らない。もう上柴に迷惑かけてなきゃいいけど。

  「……………あの新入部員は役者チームなのか?」

  「いえ、裏方チームですよ。演技は未経験らしくて、とりあえずお手伝いからするらしいです」

  裏方チーム………ってことは俺と同じか。今日呼ばれた理由も同じかもしれない。あんまり仲良くする自信はないけど、邪険には扱わないでおこう。一応あの日の夜間外出の件は、お互いに負い目があるから。誰かに悟られるわけにはいかない。

  そんな事情は露知らず、上柴は朗らかな表情で俺に話しかけている。

  「演劇部はそもそも部員が少ないですし、一人でも入ってくれるだけで大助かりですよね。先輩のご友人とかで、興味のある方いませんか?利根川先輩とか」

  「こーすけ?こーすけは部活入んないらしい。めんどくさがり屋だからな」

  「そうですか……利根川先輩らしいですね。演技とかお上手そうなのに残念です」

  「そうか?ポーカーフェイスなだけで芝居とかは下手くそだろアイツ」

  上柴は演劇部のことを本当に大事に思っているようで、まだ入部して少しなのに思い入れがすごい。新入部員を探すことに余念がないし、こーすけまで誘おうとするくらいなんだから。中学のときも演劇部だったって聞いたけど、よっぽど芝居が好きなんだな。

  ふと俺の周りで演劇部に入りそうな奴を思い浮かべてみたが、一人も該当しなかった。秋沢はなんでもできるけど、演技もできるんだろうか。

  「………にしても先輩たち遅いな。もう部活始まってるってのに」

  「だいぶ話し込まれてますね………僕来週は宿泊学習で部活に参加できないので、なるべく稽古を進めたいんですが…………」

  するとそのとき、ようやく奥の扉が開いて中から小さなウサギと腕にギプスをした犬獣人が出てきた。

  「みんなお待たせー!ちょっと遅れちゃったけど、役者チームのみんなはこのまま第3体育館に移動よ!」

  手に台本やらメガホンやらを持った椎名先輩は、部員を中央に集めて引率するように部屋から出ていった。それの後に続いて役者チームの人たちもゾロゾロと着いていき、隣にいた上柴も俺に軽く会釈をしてから退出した。役者チームは舞台の上で稽古をするみたいだから、基本的には体育館に行くんだろうな。

  少しして、部屋に残ったのは俺と青木先輩と籠谷のみ。

  「…………よし、じゃあ裏方チームのみんなは……」

  「え、裏方チームってこれだけなんすか?」

  喋り始めた青木先輩に尋ねると、苦笑しながら怪我をしていない方の手で否定した。

  「たまたま今日来れたのが君たちだけってこと。みんな他の部活との掛け持ちだから、手が空いてないんだよね」

  手が空いてないも何も、何も分かっていない俺と新入部員の籠谷、骨折をしている青木先輩。不安しか残らない人選だ。籠谷も同じ事を思っているのか、俺のことをじっと見つめてからすぐに目を逸らした。

  「とりあえず俺らは夏休みに入るまでに、大道具をなるべく作っちゃいたいんだ。手始めに、背景からなんだけど…………」

  青木先輩はごちゃごちゃした部室の端の方へ行って、片手でごそごそと壁の辺りを動かし始める。慌てて近くに寄って、代わりに引っ張り出すのを手伝う。かなり大きな板のようなもので、壁一面を覆うように立て掛けてあったのを、裏返して床に置くようだ。とてもじゃないが1人じゃ持てなかったので、籠谷も協力してなんとか出すことができた。

  「2年前の劇で使った背景なんだけど、これを再利用することになってね。所々ペンキが剥げてるから、とりあえず塗り直すところから始めようか」

  確かに空の青色とか色褪せているし、森っぽい背景が枯れ木みたいになってる。劇の舞台がいつかは知らないが、冬ではないだろう。

  しかしかなり巨大なパネルで、舞台の端から端に届くくらいはあるだろう。これを綺麗に塗り直すとなると、下手すりゃ夜までかかりそうだ。

  「じゃあ僕、美術室からペンキ借りてくるから、二人はちょっと待ってて」

  「え?」

  「………………」

  青木先輩はそう言うと、無責任に部室を出ていってしまった。そもそも片手しか使えないんだから後輩を使いっ走ればいいのに、優しさがかえって逆効果だ。

  ………籠谷と部室に二人とか、何を話せばいいんだよ。

  向こうも同じ事を思っていたのか、小さめのため息をついてからその場に座り込んだ。でもその失礼なため息を聞き逃さなかったために、俺は自分から話しかける気も失せて、背景パネルを鑑賞するフリをしていた。

  別に仲良くなろうとする必要はない。ただ上柴の手前邪険にも扱いづらい。ストーカーのくせに。俺から言えることといえば、注意警告くらいのものだけれど。

  そのとき、

  「………………アンタ演劇部員だったんだな」

  不意に、籠谷の方から話しかけてきた。沈黙に耐えきれなくなったのか、何か言いたいことでもあるのか。向こうは元ストーカー、こっちはそれを捕まえた立場だ。非難される謂れはないが、敵対視されててもおかしくない。

  「…………そうだけど。お前も演劇部入ったんだな」

  「……………………あぁ………あのさ、アンタ上柴とどういう関係なんだ?」

  まぁ聞かれるだろうとは思っていた。前に話したときはこっちの素性はほとんど明かしてないし。上柴が好きなコイツとしては、俺が恋敵になるのか見定めたいんだろう。

  籠谷はその場に少し斜めの姿勢で立ったまま、訝しげにこっちを見つめていた。

  「ただの先輩後輩だよ。同じ寮生だから仲良くなっただけだ。お前が思ってるような関係じゃない」

  「…………深読みすんなよ。俺はただ………………」

  そこまで言って籠谷は黙る。思いの外敵意は感じないけど、警戒してる感じはひしひしと伝わってくる。ストーカー行為を知ってるのは俺とこーすけと篠崎だけだ。口止めできてるか心配なのかもしれない。

  「………………アンタの名前は?」

  沈黙が少し続いたあと、意外な質問をされた。そういえば名前すら知らないのか。あの神社での夜は3対1でかなり一方的だったな、と内省する。

  今さら普通に自己紹介するのもなんだか気が引けたが、一応これから部活の後輩になる奴だ。俺はさりげなく歩み寄って、右手を差し出した。

  「渡嘉敷だ。よろしく」

  「………………………………よろしく」

  きごちなく数秒握手をしている間、籠谷はずっと目を逸らしていた。気まずいのもあるし、弱みを握られてるのもあるし。お互い仲良くなれる気はしていないだろう。

  俺が近くの椅子に座ると、籠谷も真似するように段ボールに腰かけた。

  「…………アンタは上柴のこと好きじゃないのか?」

  「……良い後輩だと思ってるけど、恋愛対象じゃねぇよ。だから好きなだけアタックすればいい。ストーカーはダメだけどな」

  「っ、もうやってねぇよ……………じゃあアンタは好きな人いないのか?」

  「いない。少なくともこの学校には」

  籠谷がもうストーカー行為をしてないと聞いて、少し安心した自分がいた。上柴は大丈夫だと言っていたが、またバレないように近づいてる可能性があったから。

  …………ん?というかなんだ今の質問。

  「てことは恋人もいないんだな?」

  「いねぇよ」

  「気になってる奴も?」

  「いねぇよ!てかなんかおかしくないか?」

  何で俺は籠谷と恋話をしなきゃいけないんだ。ストーカーの云々がなかったとしても、さっき自己紹介した相手と恋話なんかしないし。籠谷は俺の恋愛事情を知って何が楽しいんだ?

  何かの冗談かと思って表情を見るも、いつもの不機嫌そうな顔から変わっていない。

  「そんなこと聞いてどうすんだよ」

  「…………いや、そうだな。なんでもない」

  籠谷は何かを祓うかのように頭を横に振ってから俯いた。そのまましばらく黙り込んでしまったので、何を話しかければいいか分からず、俺も口を閉ざしてしまう。

  青木先輩が美術室から帰ってくるまでもうしばらくかかるだろうか。初対面の後輩だったら、もっと先輩としてあれこれ話しかけるのに、何せ第一印象が最悪だったせいで会話が思いつかない。とはいえストーカーのことに何度も触れるのもよくないだろうし。

  俺が次の一言を悩んでいるうちに、またしても籠谷の口が動いた。

  「…………この前、アンタ俺の顔が悪くないって言っただろ」

  思いがけぬ籠谷の言葉に思わず少し反応が遅れた。

  「……………え、この前って…………あの夜のときだよな」

  「それ以外ないだろ」

  「……………………そんな……こと……言ったっけか」

  言葉尻の方は随分声が小さくなってしまったけど、覚えてないと正直に言いづらい雰囲気だった。確かあのときは実力行使で捕まえてから三人で尋問をして……半ば脅しみたいなことを言って帰ったんじゃなかったっけ。籠谷の顔の話なんてしてないような気がするが。

  でも籠谷の表情を見るに冗談じゃないことは明らかで、記憶の薄い俺を睨むかのように見つめている。ここで覚えてないと言ったら怒るんじゃないだろうか。

  「…………まさか覚えてねぇのか!?」

  「いや覚えてる覚えてる!それがどうしたんだよ!」

  いきなり声を荒げた籠谷に思わず嘘をついてしまった。部室で喧嘩なんかしたくない。青木先輩にも迷惑がかかるし、こういうタイプは怒らせると面倒そうだ。つくづく上柴には近寄らせたくない。

  俺が見つめ返すと、籠谷はまた目を逸らした。

  「………………いや…………あれから筋トレ始めてさ、毛並みも整えるようになって……………感謝してる」

  「………………感謝?」

  「…………ちゃんとした方法で上柴に好かれようって思った…………から。アンタの一言でやる気が出た」

  「そう…………か。よかったな」

  正直これ以上どんな声をかければいいか分からなかった。けど、籠谷がもうストーカーをする気がないのを知って、少し安心した自分がいた。上柴が心配しなくていいのもあるし、籠谷自身のためでもある。こっちの関係の方がよっぽど健全だ。

  「…………それと、アンタのツレの………猫獣人」

  「ん?あぁ…………こーすけか」

  籠谷は耳をピンと立てたまま、開いた瞳孔で俺のことを睨み付けた。

  「アイツは絶対に許さない……上柴の貴重な写真を消しやがった…………!」

  「あぁ………………まぁ…………」

  でも盗撮したんだろ?と言いたいところだったけど、かなり怒ってそうだったのでやめておいた。学年も部活も違うし、二人が今後廊下でバッタリ出会わないことを願う。

  こうやってこーすけには敵が増えていくんだな、と学びながら、牙を剥き出して唸る籠谷を鎮める。

  「………まぁまぁ………でももう盗撮してねぇだろ?」

  「……………………………………してねぇよ」

  やけに返答の前に沈黙があって、いささか怪しく感じたけれど、これ以上疑うのはやめておこう。まだ証拠もないわけだし。

  怒る籠谷を宥めながら、早く青木先輩帰ってこないかなとおもむろに部屋を見渡していたときだった。

  バーンッ!と勢いよく……実際はそこまで大きな音でもないけれど、部室のドアが開いたと思ったら、白くて長い耳と共に、椎名先輩が飛び込んできた。

  俺が声をかけようと口を開くよりも先に、

  「ちょっと二人とも!!?青木くん片手でペンキ4缶持ってヨロヨロ歩いてるわよ!!なんで怪我人一人で行かせるのよ!」

  「あっ……え…………す、すいません!!」

  椎名先輩の精一杯の怒号を受けて、俺と籠谷は慌てて廊下に飛び出していった。

  その事件が起こったのは、ちょうど風呂場から部屋に帰るときだった。

  三階へと登る階段を中腹まできたところで、踊り場のところでシャンプーを落としてしまった。着替えの服とかお風呂セットを色々持っていた俺が拾うのに苦労していると、スッと後ろからクリーム色の腕が伸びて、シャンプーを拾われた。

  ふと背後を見れば、Tシャツ短パンでいつものようにアホ面をした篠崎が立っていた。

  「うっす、センパイ。ちょうどセンパイの部屋行こうと思ってたんすよ!」

  「お前宿題終わったのか?」

  「えーいや終わってないっすけど、別にいいじゃないっすか」

  「終わるまで来んなって言ったろ。宿題せずによく怒られてるって、上柴から聞いたぞ」

  「えーでもそしたらセンパイに会う時間減っちゃうじゃないっすかぁ」

  篠崎はシャンプーを俺のお風呂セットの上に乗せて、やけに距離を詰めてきた。

  「…………おい、ちけぇよ」

  「あ!じゃあ宿題の分かんないとこセンパイ教えてくださいよ!ほとんど全部っすけど!」

  「イヤだ。俺は俺で宿題するんだよ」

  もうすぐテスト期間だというのに、篠崎は毎日のように俺の部屋に遊びに来る。大抵こーすけとかと雑談しながら、たまに俺にちょっかいをかけてくる。あわよくば一緒に寝ようとするし、セクハラ紛いのこともしょっちゅうで、だんだん俺もそれに慣れてきていた。

  毎日続くアプローチはとどまることを知らず、どんなに邪険に雑に扱っても尻尾を振って飛び付いてくる。その度に、こいつ本当に俺のこと好きなんだな、と思う。今も今で、距離が近いかと思ったらそっと肩に手を回しているし、よくもまぁ飽きずに俺なんかにアプローチできるもんだ。

  篠崎はぐっと体を密着させてきて、俺の首元でクンクンと匂いを嗅ぐ。鼻息が当たってくすぐったい。

  「風呂上がりのセンパイいい匂いっすねぇ………シャンプー何使ってんすか?」

  「おい離れろ。蹴っ飛ばすぞ」

  「いいじゃないすか誰も通らないしー」

  「そういうことじゃねぇんだよ……」

  ちょうど両手が塞がってるのを良いことに、いつも以上にぐいぐい密着してくる篠崎。腹の辺りを蹴っ飛ばしてやりたいところだが、階段の際に立っているせいで突き飛ばすと転げ落ちかねない。流石にいくら篠崎でも階段に蹴落とすのは可哀想だ。まぁもしそれも計算済みでやってるんなら今すぐ蹴っ飛ばしてやるところなんだが。

  とりあえず危なくないところまで離れるため、少しずつ壁際に移動させようとしてるときだった。

  「…………テメェら何階段でいちゃついてんだ」

  後ろから脅すような低い声が聞こえて、三階の方の階段から久郷田先輩がのっしのっしと降りてきていた。やけに毛が逆立っていて、見るからに不機嫌そうな様子だ。怖い顔がいつも以上にパンチが効いている。

  なぜ不機嫌なのかは知らないけど、篠崎が俺に抱き着いてる様を見て余計に神経を逆撫でさせるのは確実だ。今すぐ離れた方がいいと判断した俺は篠崎の方に顔を向けて、オイ、と軽く睨む。

  いつもの篠崎なら、すぐに察してニコニコと作り笑いを浮かべながら、久郷田先輩の肩を叩きにいくところだろう。だが何故か今日の篠崎は、じっと久郷田先輩の方を見ながら俺の体を離そうとしなかった。

  「久郷田センパイ、おつかれっす。いつも以上に怖い顔してますよ」

  「……人が通るところに居座ってんじゃねぇ」

  「…………っ、おい篠崎…………」

  俺がさっさと離れろと合図をしても、一向に言うことを聞かない篠崎。般若のような形相で睨むシベリアンハスキーを挑戦的な目付きで見上げながら、がっちりと俺を抱き締める腕に力を込めていた。

  その態度を見て久郷田先輩も何かを察したかのように、ニヤリと不敵に笑って近づいてきた。

  何やら不穏な気配がして、俺もどうするのが正解か考え始める。二人が衝突しかけることは何度もあったが、今回はやけにお互い喧嘩腰に見える。

  「…………篠崎、退け」

  「…………あぁ、退いてほしかったんすか。はい、どうぞ」

  篠崎は俺を引っ張りながら壁際に離れて、久郷田先輩に道を譲る。でも久郷田先輩がただ退いてほしかったわけじゃないのは、ここにいる誰もが知っている。

  威圧的な低い声で、久郷田先輩は言う。

  「ナメた口聞くようになったな、篠崎」

  「そすか?別にフツーっすけど」

  明らかに普通じゃない声色で篠崎が答える。その証拠に、お互いの落ち着きのない尻尾がぞわぞわと逆立っているのが見える。それを隠すように睨み合いながら、徐々に距離が近づいていく。

  明らかにいつもの小競り合いと違う、喧嘩の前の雰囲気。久郷田先輩の口元から鋭い牙がちらついて鈍く光る。篠崎の腕に力が籠るのを肌身に感じる。

  ちょうどよれたタンクトップが目前に迫ったとき、久郷田先輩が勢いよく左手を篠崎の背後の壁に叩きつけた。ダンッ!と大きな音が鳴って、コンクリート製の壁が揺れたように感じるくらい、迫力のある掌底打ちだった。

  その振動にビクリ、と耳を動かす俺とは対称的に、一ミリも動くことなく久郷田先輩をじっと見つめる篠崎。鋭い視線を交わしつつ、地を這うような低音が深い息づかいと共に響きわたる。

  「………………渡嘉敷から離れろ」

  その言葉の後に、久郷田先輩は小さめの唸り声で脅した。これ以上反抗すると容赦しない、言葉がなくてもそのメッセージは伝わる。

  だがそれを飲み込んでも尚、篠崎は一歩も退こうとしなかった。

  「…………アンタに何の権限があるんすか?彼氏でもねぇくせに」

  普段の篠崎からは考えられないような、冷徹で突き放したかのような冷めた言い方。凍てつく視線で久郷田先輩を睨み付けながら、口を少し開いて牙を覗かせる。尻尾は臨戦態勢だと言わんばかりにピンと張っていた。

  「そりゃオメェもだろ?渡嘉敷も嫌がってる、さっさと寄越せ」

  「アンタみたいなもんには絶対渡さない。センパイは俺のだ」

  「いぃや、俺のだ………………」

  グゥルルルル…………と静かに唸り合いが始まった。最初は小さく、しかし互いに押されないように、徐々に徐々に大きくなってゆく。獲物を取り合うケモノが、互いを威嚇し、牽制し合い、感情の激流をぶつけ合う瞬間を、今か今かと図り続ける。二匹の唸り声はやがて俺の両耳を完全に支配して、混ざり合いぶつかり合い反発して、ぐるぐると回る不恰好な竜巻のように、その場に轟き続けた。

  そして二人はついに大口を開けた。ゾロリと並ぶ鋭利な牙の一本一本が、相手を傷つけようと主張するその瞬間、俺はお風呂セットを地面に落とした。

  「ガァッ!…………グゥ……………………!」

  「ッ、………ゥ、グッ、……グ………………!」

  目の前で行われる嘘のような出来事を見つめながら、俺の頭は思いの外冷静だった。理性が外れた体の大きなイヌ科二匹を、どのようにしたら止めることができるか。じっとその方法を考えていた。

  イヌ科同士の喧嘩で最も重傷になりやすいのは噛み付き合いだ。犬は体の中で顎の力が最も強い。その気になれば首を引き千切ることなど容易く、凄惨な傷害事件も起こりやすい。

  二人の会話に口を挟もうかとも考えていた。ただ今下手なことを言えば火に油を注ぎかねないと思い、有効な一言が思いつかなかった。

  結果的に、俺が取った行動は最適解だったのかもしれない。お風呂セットが地につくことなんてお構い無しに俺は、力が緩んだ篠崎の腕を振りほどき、大きく口を開いた二匹のマズルを両手で思いきり押さえ込んだ。

  イヌ科の顎は噛む力は凄いが開く力は弱い。片手の握力でも握られてしまえば開くことができず、少し混乱してしまう。案の定、篠崎と久郷田先輩は抑え込まれた口元を開こうと首をくねらせて暴れ回る。すぐに手を掴まれて引き剥がされてしまうだろう。

  だからその前に、俺は二人に向かって思いきり、タックルをお見舞いした。

  ゴトゴトゴトッ!と鈍い音が数回続き、止まった頃には二人は階段の下で頭を押さえていた。何段転げ落ちて頭を打ったかは知らないが、すぐカッとなるコイツらにはそれくらいが丁度いい。冷たい床で頭を冷やさせている間に、階段の上から二人を見下ろす。

  先ほどの唸り声とは打ってかわって口から呻き声を漏らす二人を横目に、俺はお風呂セットを持ち上げて、小さく息を吸い込んだ。

  この瞬間、俺がどんな言葉を発しても効果はてきめんだったろう。バーカの一言でも、二人にはとてつもない一撃のはずだ。

  ただ俺が言ったのは、単なる否定。もっとマシな言葉はいっぱいあっただろうけど、その時は思いつかなかった。

  「俺は、モノじゃねぇっ!!!」

  階段の下の方からごちゃごちゃと文句を言っているのが聞こえたが、聞こえないフリをしてそそくさと部屋に戻った。