ケモホモ男子寮(公認)に放り込まれた俺の受難な高校生活10

  張り詰めた空気が教室内を支配している。空調の動く音がこんなにもハッキリと聞こえるのは非常に珍しい。蛍光灯の稼働音、開けた窓から入る湿った風、部屋中に慌ただしく鳴るシャーペンが紙をなぞる音。誰一人として沈黙を守ったまま、延々とその繰り返しだ。

  ………本当は試験に集中しないといけないんだろうけど、俺はもうシャーペンを置いていた。空白はなるべく埋めたし、答案は何度も見返した。もうベストを尽くした、と半ば諦めに近い感情で頬杖をつく。大門5がまるまる分からなかった虚無感は、そうそう消し去れるものじゃない。昨日は夜更かしして勉強したつもりだったけど、苦手な数学の前には歯が立たなかった。まぁよくて60点………最悪40点くらいかな。基本の計算問題はミスさえしてなければ取れてるはずだ。志は低いが、赤点さえ取らなければそれでいい。数学の大宮先生は、赤点の生徒にみっちりと補修をするらしい。宿題も増えるそうだし、どうにかして回避したいところだ。

  チラリと黒板の上の時計を見ると、試験終了まであと三分ほどだった。教卓では大宮先生が淡々と書類を書いていて、機械のようにキビキビと働いている。あんな速度でテストが解けたらさぞ楽しいだろうなと、教卓の上に積み上がった紙の束を睨んだ。

  俺の一つ前の席である高田は、机に突っ伏してイビキをかいていた。普段の授業からよく居眠りをしているが、数学のテストは開始十五分でもう答案用紙を涎で濡らしていた。大宮先生も起こす気はないらしいし、秋沢も試験中は干渉できない。まぁ間違いなく赤点確定だろう、ざまぁみろ。

  紙をひっくり返して最後の確認をする者、急いで空白を埋める者、諦めて落書きをする者…………色んな人がいる中でのテストは、かなり新鮮な経験だった。田舎にいたころはクラスメイトが二人とかだったし、大人数での試験は感覚が全然違った。もし大学受験とかになったら、より多くのライバルたちと一斉にテストを解かなきゃいけないんだろう。本番の圧迫感は計り知れない。

  するとそのとき、ピピピッとタイマーの鳴る音がした。少し遅れてチャイムが流れ始める。

  「試験終了です。答案用紙を回収しますので、ペンを置いて裏返してください。問題用紙は持ち帰ってください」

  大宮先生の声が聞こえるのと同時に、パタパタと次々にシャーペンを置いて、深いため息が合唱のように教室に響いた。全教科中の最後の試験だけど、数学は難易度が少し高かったかもしれない。パッとしない顔をした生徒がほとんどだった。

  腕を上下に突っ張って、長々と伸びをする。思わず呻き声が漏れるくらい、ここ二三日の精神的重圧は大きかった。100点を狙っていたわけじゃないが、赤点をとったら高い学費を出してもらっているじぃちゃんに顔向けできない。特に転校して最初のテストは、稲光のレベルについていけるかが顕著に出る重要なテストだ。最後の方は息切れした感じもあるが、まぁベストは尽くせただろう。

  ツンツン、と背後から肩をつつかれる。

  「やぁぁっと終わったねテスト。放課後用事ある?」

  「いや、何もない。どっか行くのか?」

  振り返ると、ぐったりと机の上に体を預けるこーすけが疲れた顔をしていた。本人なりに一生懸命挑んだのかもしれない。テスト中何度も後ろの席からあくびが聞こえてきていたけれど。

  「縞縞軒行かない?久しぶりに」

  「あー…………まぁいいけど」

  少し返事が遅れたのは、お財布事情を考えていたからだ。じぃちゃんから定期的に振り込まれる生活費は、日用品や趣味に使うお金まで一緒くただ。その中でなんとかやりくりしていかなきゃいけないんだけど、最近は中央駅に行ったりファミレスに行ったり、少し浪費が多かったから、縞縞軒での食事も頭の中で計算が過った。俺は特に趣味もないし、生活必需品以外の浪費といったら、ちょっとしたおやつを日々の贅沢に買うくらいだ。それでもこーすけに付き合って外出したり、文房具を揃えたりしている内に、お金というのはどんどん減っていく。都会にきてから余計に、細かい値段に敏感になってきた。

  こういうことをこーすけに言うと、簡単に奢るよ、と返ってくる。こーすけはこの年でパソコンやら携帯やら色々持っていて、実家からたんまりとお小遣いを貰っているらしい。ただそれに頼るのはなんだか嫌で、友達に借りを作るのは好きじゃなかった。返せる宛てがあるわけじゃないし、金銭的な悩みは話さないようにしていた。

  「渡嘉敷ウチの店くんのか!!?俺午後からバイトだぜ~!!」

  不意に前の席から大きな声で会話に割り込まれ、椅子を傾けて俺の机に肘をついて侵食してくる虎獣人を見る。ついさっきまで寝てたくせに何なんだお前は。

  「お前テスト大丈夫なのかよ。ずっと寝てたろ」

  「大丈夫大丈夫!秋沢に教えてもらったしなっ!!要は赤点とらなきゃいいんだろ!?」

  「いいえ?ここでのテストの結果も内申書に大きく影響します。特に授業態度は重視されますよ」

  高田の頭上にゆらりと影が現れて、鋭い鷲獣人の眼光がキラリと光ったように見えた。立ってるのも合わせて高い視点から見下ろされている分普段よりかなり威圧感を覚える。

  「あーー………………あっはっはっ!!」

  「笑い事じゃありません。今年度から数学において赤点を取った生徒は宿題も増量することになりました。もちろん未提出分だけ評定も下がります。単位が取れなければ留年も視野に入りますね」

  微動だにせず蛍光灯を背に淡々と語る担任の口調からは、有無を言わせぬオーラがあった。日頃から高田には手を焼いてる分、少し脅しのような雰囲気も感じる。

  それに対して高田は愛想笑いですみませーんと受け流していて、こいつホントに大丈夫かと思った。

  「先生、数学だけ難しくなかったですか?最後の問題教科書に載ってました?」

  「いいえ。しかし問題集には解説が掲載してありますし、教科書の基礎を応用すれば解ける問題です」

  「平均点どれくらいですかね?」

  「おおよそ75点を目安に作成していますが、恐らく60点に及ばないほどでしょう」

  詰められていた高田にこーすけが助け船を出す。大宮先生の気が逸れている内にこっそりと高田は教室の外に避難していった。大宮先生も気づいてるだろうけど、引き留めてまで追及する気はなさそうだ。

  …………それにしても60点か。赤点回避がギリギリの俺にとっては、先が思いやられる数字だ。テスト返却の日が今から憂鬱になってくる。

  大宮先生が立ち去った後、再びこーすけから話しかけてきた。

  「哲也は数学平気そう?なんか怖いこと言ってたけど」

  「…………いや、自信ない。でももう終わった話はやめようぜ。もう点数は変わらねぇんだし」

  「それもそうか。じゃあHRのあとそのまま行く?一回着替えてからでもいいけど」

  「制服のままでいいだろ……あ、でも放課後すぐは混むかもな」

  縞縞軒は学園の目の前にある飲食店だし、放課後そのまま昼飯を食べにくる学生で溢れるかもしれない。腹は空いてるけど、少し時間をズらした方がいいだろう。

  俺がそう答えると、こーすけは一瞬驚いたかのように目を開くと、そのまま机に頬杖をついた。

  「混み具合まで計算するようになったなんて……哲也もだんだん都会に染まってきたね」

  「え?……………………まぁ…………そうだな」

  確かに前の俺だったら、お店の混み具合なんて考えもしなかったたろう。けど都会で生活してれば自然と意識するようになるし、嫌でも学習する。それを都会に染まってきた、というのだろうか。田舎者の自負がある分なんとなく心がゾワゾワした。

  「…………なんでちょっとむくれてんだよ」

  「いやなんか、哲也が大学で清楚系の彼女とスタバとか行ってるとこ想像して、萎えちゃった」

  「なんだそれ。何の妄想してんだよ」

  勝手に妄想して勝手に落ち込んでるこーすけは放っといて、体を正面に向き直す。このまま少なくとも二年弱都会にいたら、かなり慣れていくんだろう。例えば久郷田先輩も俺と同じ実家がかなりの田舎だが、三年目の今は都会人と遜色なく生活している。染まる、という表現をすると田舎のことを忘れてしまったかのような印象を受けるが、そんなことはない。俺は遅かれ早かれ、八重木島に帰るつもりだ。この都会での生活は人生経験として勉強する気持ちでいる。東京に永住しようとは思わないし、骨を埋めるのは必ず島だ。

  「………それではHRついでに連絡です。体育の金城先生から、男子は来週、女子は再来週に着衣泳の授業があります。水着と濡れてもいい普段着を用意するようにとのことです。それと、明日の六限目は第1講義室で進路指導の授業が…………」

  「……着衣泳?泳げるとこあんのか?」

  先生の話を聞き流しながら、後ろのこーすけに小声で尋ねる。

  「あるよ。稲光は水泳部無いくせにプールはあるから。毎年着衣泳の授業でしか使わないやつ」

  「プール…………プールって、人工池みたいなやつだよな?」

  俺がそう聞くと、こーすけは分かりやすく頭上にハテナを浮かべたが、少しして納得したようにあー、と呟いた。

  「そっかもしかして島にはプール無かったの?」

  「無いだろそんなもん………ていうか海があるし」

  俺は小学生に入る前から、日常的に海で泳いでいた。魚や貝を素潜りで採ってきたり、隣の島に遠泳したり。生活の一部になるくらい、海は俺にとって友達のような存在だった。それが都会にきて、付近に海のない立地的に泳ぐ機会は絶対無いんだろうと思っていた。プール、という単語を聞くまでは。

  そうか、都会でもプールがあれば泳げるのか。生き物はいないし海より狭いけど、だんだんと夏に向けて気温が上がっていく今日、水泳ができるとわかっただけで俄然テンションが上がってきた。

  「ていうか哲也水着持ってるの?」

  「水着……?いや持ってねぇけど」

  「え?海で泳いでたんでしょ?」

  「は?海で泳ぐのに水着いらないだろ」

  海で泳ぐとき、俺含め島の人たちはみんなTシャツ等の服を着たまま入水していた。海には危険な生き物も多いから、それらから身を守るためでもあるんだろうが、多分一番はめんどくさいからだろう。ウェットスーツみたいなのは見たことあるけど、少なくとも子供たちは水着なんて着ていなかった。

  「…………田舎じゃ水着着ないんだよ」

  「そうなんだ。じゃあ着衣泳ってのも変な感じだろうね」

  「そうだな……服着るのが当たり前だし……」

  水着か。これから買いに行かないといけない。どこで売ってるとかも知らないし、こーすけに頼ることになるだろう。また金銭的な課題が一つ増えてしまった。

  「なんかさっき、哲也が都会に染まってきた、って言ったじゃん?」

  振り返ってこーすけの顔を見る。無表情だがやや上機嫌そうで、後ろに尻尾を優雅に揺らしていた。

  「…………あぁ」

  「前言撤回。哲也はやっぱまだまだ田舎者だし、世間知らずだね」

  「…………わぁってるよ」

  「だからまだまだ俺がいないとダメだね?」

  「………………はいはい、そうだな」

  口では適当にあしらうも、こーすけがいないと生活が困ることは明らかだった。入学当初からずっと助けられてるし、度重なるアプローチを差し引いても、これだけ情報通なルームメートでよかったと思うところだ。

  さて、まぁ午後からの予定も決まったことだし、テストも終わったし、ようやくリラックスして───

  「───私語は、慎みましょう」

  目の前にはいつの間にか大宮先生が立っていて、その高い背丈で威圧するようにじっとこちらを見ていた。

  「っ、すいません………………」

  クルリと踵を返し、コツコツと教卓に向かって歩いていく背中を見て、密かに揺れていた尻尾はシュンと地面に垂れた。

  「すいませーん、ふた────」

  「ッらっっっしゃぁいッ!!!!!!!」

  「…………二人でーす」

  いつもの如く、こちらの挨拶を掻き消すような野太い大声が大砲のように飛んでくる。俺はまだあまり慣れなくてピクリと体を跳ねさせるも、他の客やこーすけは澄ました顔で店内に入る。店の扉が開くたびにこの怒号まがいのらっしゃいが発射されているはずなので、道路を歩いてる通行人にも聞こえているだろう。誰かに注意されたりしないのは、店主の縞馬獣人の見た目が怖いせいだろうな。

  縞縞軒は、学園の道路挟んで真向かいにあるラーメン屋で、店主は目にバツ印の傷痕が入ったイカツイ縞馬獣人だ。少し古ぼけた印象の店だが、立地条件や学生に良心的な価格設定のおかげで、常によく人が行き交っている。今日はテスト最終日、学校は午前中までしかないため、放課後の学生で繁盛したことだろう。それを見越して俺とこーすけは、少し遅れて昼過ぎに入店した。とはいえ、店内はそこそこの人で賑わっていた。

  空いている席に腰かけると、奥から虎獣人がずっかずっかと歩いてきて、ドン!とテーブルの上にお冷のグラスを叩きつけた。

  「らっしゃい!!!お前ら来たんだなっ!!」

  「………うるさい。島村さんは?」

  「今日はシフト入ってねぇぜ!テスト終わりだし疲れてるだろーからな!」

  それはお前もだろ、と言いかけて口を閉じた。そういえばこいつ寝てばっかりだったな。バイトくらいちゃんとやってもらわないと困る。

  「高田くん、ネギ塩ラーメンと餃子!あと哲也はどうする?」

  「……あーじゃあ醤油ラーメンかな。俺も餃子6個入り」

  「あいよっ!!ネギ塩醤油に餃子2だな!!!」

  ささっと伝票にメモを取ると、注文を大声で厨房に伝える。そのまますぐにレジまですっ飛んでいって、お会計を済ませて客に挨拶をする。

  前に来たときは一ヶ月以上も前だったが、高田は店員としてかなり成長していた。フロアを一人で任されるくらい、仕事ができている方なのか。あんなに乱雑でバカなイメージがある高田でも、二ヶ月働けばそれなりに店員らしくなっている。油で汚れた白いエプロンも、意外と様になっていた。

  …………高田でもできるんなら、俺もバイトしてみようかな。

  「高田くん、学校が嘘みたいにテキパキ働いてるね」

  「………料理とかも溢さずに運んでるよな」

  縞縞軒のラーメンはスープが並々入っているから、気をつけて運ばないと簡単に溢してしまいそうだ。それを尻尾でバランスをとりながら、素早くテーブルに運んでいるのを見ると、アイツも猫科の隅におけないなと思った。

  「バイト始めるんなら、何からすればいいんだ?」

  俺がそう聞くと、こーすけは目をぱちくりと瞬きさせた。

  「え、意外。バイトしたいの?」

  「あぁ…………まぁ。社会経験は必要だろ?」

  それもあるけど、本当は金銭的な面が大きい。自分で自由に使えるお金が増えるだけで、心にも生活にもゆとりが生まれる。じぃちゃんからもらうお金だけでやりくりするには限界があるし、バイトに興味が出るのは自然なことだ。

  「うーーーん…………俺バイトしたことないしなぁ」

  「………お前小遣い多いもんな」

  「いや、お小遣いは少ないよ。でも学校からの請求ってことにしてお金チョロまかしてる」

  「………………………………………………」

  こいつ悪いやつだな。親に対して遠慮とか罪悪感とか無いんだろうか。

  「いーの。うち共働きだからお金困ってないし」

  「…………まぁそれはいいけど。じゃあバイトのやり方こーすけも分かんないのか?」

  「知識としては知ってるよ。電話なりアプリなりで応募して、面接行って、受かったら何日から来てって言われる」

  そうか応募か。まず電話でバイトさせてください、って伝えないといけないな。でもそもそもどこでバイトするのがいいんだろう。

  「初めてのバイトは……どこがいいんだ?」

  「その辺は知らないなぁ……でも単純作業とかがいいんじゃない?それこそ工場とか」

  「近くに工場なんてあるか?」

  「あそっか。あんまややこしい駅だと通うのが大変か。哲也的にも学区内か、乗り換え不要で行けるとこがいいよねー」

  そう言うとこーすけは携帯を取り出して、なにやらポチポチと調べ出した。情弱な俺の代わりに検索してくれてるのかもしれないが、その間俺はやることがなくなった。

  本当は縞縞軒で働けたらいいんだろうが、店主のこだわりで体が縞模様の人しか雇っていないらしい。ウルフドッグの俺は面接で落とされてしまうだろう。学園付近にはお店がいくつかあるので、その中から選ぶのがいいかもしれない。逆にあまり遠いと、電車を使って通わないといけなくなる。中央駅くらいなら一人でも行けるかもしれないが、乗り換えとかになると途端に難しい。自分だけの力で都会を渡り歩くのは、しばらく先だろう。

  するとそのとき、また店の扉がガラガラと開いて、店主の怒声も慣れたようにあしらいながら一人のジャッカルが入ってきた。見知った顔に思わずあっ、と声をあげると、それに気づいたこーすけも顔を上げる。

  「あ、三下先輩……一人で食べに来たんですか?」

  「ん?あぁお前らか。座っていいか?」

  「どうぞー。一人は寂しいですもんね」

  「はっ倒すぞ」

  三下先輩はそのままこーすけの隣に座ると、メニューも見ずに高田に注文を伝えた。だいぶ常連なのか、いつも頼むのを決めているのかもしれない。

  こーすけは当然のように馴れ馴れしく三下先輩に話しかける。初めの頃はちょっと怖めの先輩かと思っていたが、言葉遣いが乱暴なだけで普通に優しい人だと分かってきた。特にこーすけからのイジりにちゃんとツッコミを入れてくれるんだから、冗談も通じるいい人だ。

  「昼飯まだなんですか?」

  「昼寝してたら遅くなっちまってよ。手早く済ませようかと思ったら、寮生に出くわしちまったな」

  「あえて遅めにしたんですけど、やっぱここ寮生多いですよね」

  「まぁ近いからな。量も値段も申し分ないし、店長様々だ」

  お冷をグビッと飲み干す仕草は小さいながらおっさんのように見えて、指摘しようか迷った。しかしすぐにこーすけが次の話を始めたので、そっと口を閉じた。

  「そういえば、哲也がバイトしたいって話してて、三下先輩はバイト経験ありますか?」

  「あるぞ。一年の半ばから二年までやってた。受験勉強って名目で辞めたけど」

  「ちょうど話聞きたかったんです。三下先輩は何のバイトしてたんですか?」

  「俺はパン屋だな。平日はほとんど出れないから、休日だけやってた」

  パン屋………三下先輩のイメージからはかけ離れた存在だ。あの三下先輩が小麦粉をこねたりオーブンで焼いたりしてたんだろうか?

  「パン屋かー。だいぶ意外ですね、パン作れるんですか?」

  「いんや、俺は接客だけだよ。仕込みとかは朝早いから手伝えねぇんだ。客にパンを売って、トレーを取り替えて、たまに掃除するだけの簡単な仕事だった」

  「なんでパン屋にしたんですか?学園の近くにはなかった気がするけど」

  「賄いが焼き立てのパンだったからな。それと時給がそこそこ良かった」

  働く上で給料はとても大事だろう。どれくらいが高いのか安いのか判別がつかないし、その辺りも三下先輩に教えてもらおう。 思わぬところにとても頼りになる先輩がいた。

  そのとき高田が餃子を運んできて、一度会話が途切れる。香ばしい熱々の餃子が鼻腔にダイレクトに誘惑をかけてきて、口の中に涎が湧いた。

  「うわぁウマそう。利根川一個くれよ」

  「嫌ですよ。俺餃子食べに来たんですから」

  「あぁー?いいだろ一個くらい。じゃあ渡嘉敷」

  俺も本当はあげたくなかったが、バイトについての情報を教えてもらう授業料として、そっと皿を前に差し出した。お!っと嬉しそうな笑みを浮かべて餃子をひとつまみし、大口を開けてまるごと放り込んだ。見てるだけで美味しいのが伝わってくるし、俺も早く食べようと割り箸を二つに割った。

  「うめぇなやっぱ。縞縞軒はラーメンよりも餃子グランプリ狙った方が──」

  「それ店長に聞かれたら殺されますよ」

  「いいんだよ、店長案外優しいから」

  あの見た目で優しいなんてことあるんだろうか。二メートル越えた背丈、筋骨隆々の体、目に入った傷痕。いかにも裏社会に生きてそうな印象だけど。

  「優しいって、知り合いなんですか?」

  「知り合いっつーか三年も通ってるからな。人が少ない時間帯に行って、カウンターで話もしたことあるし」

  いわゆる常連客としての交流か。縞縞軒は贔屓にしたいくらいのお店だから、そういうのに憧れはある。もうちょっと頻繁に通ってみようかな。

  ……と、そんなことよりバイトの話が途中だった。やはり経験者に聞けることは聞いときたいし、餃子一個分は教えてもらわないと。

  「三下先輩、俺バイトしたことないんすけど……色々教えてほしいです」

  「ん?あぁいいけど。渡嘉敷って田舎出身だったもんな」

  「まず何のバイトするかだよねー。哲也でもできそうなやつあります?」

  三下先輩はボリボリっと頭をかくと、体を背もたれに預けて腕組みをした。

  「いやそれより、寮生はバイトするっても門限があるせいで、平日はほぼ行けねぇんだよ。だから休日を潰さなきゃなんねぇのと、あんま遠いとこにすると移動時間も合わせて門限に間に合わねぇんだよな」

  それもそうか。寮生は例外的な理由がない限り門限が六時って決まっている。例外的な理由というのは、部活とか居残りで学校にいる場合のみだ。バイトは学校の管轄外となってしまうから、例外には含まれない。

  六時に間に合うように働くとなると、そこまで長時間の労働はできないか。そんなにたくさんお金が欲しいわけじゃないから、俺には都合が良いかもしれないけれど。

  「だからちょっとした小遣い稼ぎなら、夏休みに短期バイトすんのがオススメだな。俺は居酒屋とかも一ヶ月だけやってたよ」

  「短期バイトかーいいですね!そんな難しい作業はないだろうし」

  「………じゃあ短期バイトやってみるとして、どうやって応募したらいいんですか?」

  さっきこーすけにも聞いたけど、探してから応募するまで、俺には結構ハードルが高い。できれば先輩にも手伝ってほしいくらいなんだけど。

  「ネットで探すのが手っ取り早いんじゃね?特に短期の募集なんかしてるとこ少ねぇだろーからな」

  「でも哲也スマホ持ってませんよ?」

  「渡嘉敷いい加減携帯買えよ。安いやつでいいからさ」

  「…………不便だと思ったら買いますよ」

  「不便だろ。もう既に」

  「まぁまぁ、バイト代で携帯買うんですよ。俺らが探して電話だけ哲也がすればいいんじゃない?」

  こーすけの提案はありがたいが、確かにそこまでやってもらうのも迷惑な話だ。電子機器に不慣れ、苦手という意識から一向に買う気が起こらないが、やっぱり都会で生きていく上で携帯は必要なんだろうな……。

  「あそれと、やるなら事務作業系はオススメしない。簡単とか単純作業とか書いてるけど、結局力仕事させられるケースをよく聞くからな」

  「……俺の場合パソコンとかより力仕事の方が嬉しいですけどね」

  「力仕事ってもキツいぞ?牛とか虎とか馬向けだよあんなの。相田くらいデカくねぇとぶっ倒れて終わりだ」

  えぇぇ、そんなキツいんだろうか。体を動かすのは得意だし、やるならそういうのしか活躍できないと思ってたけど、流石に馬獣人とパワーで張り合えるわけがない。あまり役には立てないんだろうか。

  「哲也でも無理ですかね?」

  「まぁ仕事によると思うけど、引っ越しとかは地獄って聞くな。工場とか倉庫の物品整理くらいなら、渡嘉敷でもできるんじゃね?」

  「近場に工場ってありますかね」

  「知らね。利根川に調べてもらえ」

  そう言って三下先輩は席を立つと、ふてぶてしくトイレのある方へ歩いていった。こーすけを見ると、既に携帯をポチポチ弄くり回していて、バイトを探してくれているのかもしれない。全く関係ないことをしてる可能性もあるけど。

  話し相手がいなくなってしまったので、餃子をつまみながらカウンター越しに厨房の方を眺める。縞縞軒はカウンターに面した厨房と、さらにその奥にも厨房があるようだ。沸き立つ湯気が店長をホワホワと蒸して、その狭間から流れるように湯切りをする姿が見える。手際よくテキパキと働いていて、次々と料理を完成させていく様子は、仕事ができる人、の典型例のように映った。

  料理は不得意だ。島にいた頃も料理らしい料理は一回もしたことがないし、手先もそんなに器用じゃない。バイトは何だっていいけど、厨房は多分無理だな。皿洗いくらいが限界だろう。

  店長がピクリと耳を動かした瞬間、再びガラガラと引き戸が開いた音がする。すかさず大声で飛んでくる挨拶を受け止めたのは、ボリボリと頭を掻きながら気だるそうに入店してきた、久郷田先輩だった。

  またしてもあっ、と俺が声を出すと、こーすけも顔を上げて久郷田先輩に気がついたようだった。

  「あれ、先輩部活じゃないんですか?」

  「よう。休みだったから自主練だけだ」

  学校からそのまま来たのか、制服姿で学生鞄まで手に持っていた。当たり前かのようにこっちに近づいてくると、俺の隣に平然と座り込んだ。

  「…………いや、なんでですか」

  上着を脱いでネクタイを緩める久郷田先輩をじとっとした目で見る。

  「あ?どうせお前ら二人だからいいだろ」

  「あーそれが二人じゃないんですよね」

  こーすけは苦笑しながらも、どこかニヤつきを抑えられない様子で、見ていてイラッとした。二人だけじゃないのは本当だが、まぁ三下先輩だし知り合いだから大丈夫だろう。

  そこにタイミングよく、三下先輩がトイレから帰ってきた。

  「…………おい、なんで久郷田がいんだよ」

  さっきよりもさらにふてぶてしく、ドカッと椅子に座ると机に頬杖をつく。半ば睨むような目つきを久郷田先輩に向けているが、先輩は気にもしていないという態度をとっていた。

  「なんだ三下か。お前こそなんでいんだ?」

  「たまたまこいつらと一緒だったんだよ。お前部活は」

  「休みだ」

  二人の空気は険悪、とまではいかないが、どこかトゲのようなものを感じる。そういえば三下先輩と久郷田先輩が喋っているところは見たことがないけど、仲が悪いという話も聞いたことがない。本当に犬猿の仲ならどちらかがすぐに席を立つだろうし、口調がぶっきらぼうなのは元々だ。俺の思い過ごしならいいんだけど。

  久郷田先輩は会話を止めると、おもむろに俺の頭を撫でてきた。最近よく撫でてくるが、今に関しては餃子を食べているので単純に邪魔だった。

  「……やめてください、なんで頭撫でるんですか」

  「お前がキスさせてくんねぇからだよ」

  「するわけないでしょ!てかここ店ですよ」

  「あ?じゃあ寮に帰ったらするんだな?」

  「んなこといってません!」

  相変わらずのアプローチは学園の外でも健在のようで、止めてほしいことこの上ない。お店という公共の場でかつ、高田とか島村さんに見られたら最悪だ。

  そんなこともお構いなしに、懲りずに尻尾を絡ませてくる久郷田先輩を払い除けていると、高田がお冷のグラスを持ってやってきてしまった。

  「らっしゃいませー!ご注文決まりました?」

  「ん?あー縞縞ラーメン。味玉追加トッピングで」

  「かしこまりましたっ!!………って、もしかして渡嘉敷の彼────」

  「───違うッ!!!さっさと仕事に戻れ!!」

  案の定邪推してきた高田を全力で否定する。距離も近いし尻尾でじゃれあっているように見えたんだろう。とはいえそれをそのまま聞いてくるこいつのデリカシーの無さには呆れるところだけど。

  久郷田先輩はまんざらでもなさそうにニヤニヤと笑っている。その顔をひっぱたいてやりたいところだが、とりあえず高田の誤解をとかないと。

  「いやぁー渡嘉敷彼氏いたんだな!!利根川とずっと一緒にいるからてっきり──」

  「だから黙れ!彼氏じゃない。寮の先輩だ」

  強引に遮ってゆっくりと強調して伝えれば、流石の高田も耳を貸したのか驚いたように眉を上げた。

  「あぁあ!!!寮の先輩か!!どうもちっす!」

  「おう。渡嘉敷のクラスメートか?」

  「そっすね!!ダチっつーかマブっつーか」

  普通に会話し始めた高田と久郷田先輩にどぎまぎする。普段絶対に接点の無い二人が俺を挟んで喋っているのがとても居心地が悪い。下手なこと喋る前にどっか行ってくれ。

  タイミングよくそのとき、

  「たかだァァアアアッ!!てめぇサボってんじゃねぇぶっ殺すぞッッ!!!!」

  「はーーいさーせん!!!」

  間違いなく怒号がこっちのテーブルに向かって浴びせられて、もれなく全員ビクッと体を跳ねさせた。唯一高田は慣れてるのかそそくさとカウンターの方に歩いていく。つい数時間前も学校で先生に怒られていたが、高田にとっちゃどんな怒り方も堪えないらしい。ニコニコと笑いながら料理を運ぶ姿に、やっぱり変な奴だと再確認した。

  「声でっか……鼓膜破れるかと思った」

  「あの店長、声はでかけりゃでかいほどいいと思ってるからな」

  「俺の注文通ってるといいんだが」

  思い思いの感想を呟いたあと、久郷田先輩はさらに懲りずに肩を抱いてきた。ここまでしつこいと怒るとか通り越して呆れてしまう。先輩は篠崎と仲直りしたあと、直接的ではないが篠崎に対抗して見せつけるかのようにやたらと俺にスキンシップをとってくるようになった。見るからに喧嘩を売るとペナルティがあるため、水面下で挑発しているような感じだ。呆れて物も言えない。

  面倒くさくてされるがままにしてると、三下先輩がフン、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。同じく呆れている……というよりは不機嫌そうにも見えるけれど。

  聞いてみてもいいんだろうか。

  「…………あの、三下先輩と久郷田先輩って、仲良くないんですか?」

  「あ?なんでだよ」

  「……あんま喋ってるとこ見たこと無いので」

  三下先輩は黙って頭の後ろを数回掻くと、体を防御するかのように腕を組んだ。対して久郷田先輩は特に変わりなく、俺の肩を抱いたまま上機嫌そうに尻尾を揺らしている。その様子が三下先輩の神経を逆撫でするであろうことは、なんとなく分かった。

  「元ルームメイトだ。それ以上でも以下でもねぇ」

  久郷田先輩の言葉に、三下先輩は眉をひそめた。

  「あァ?…………お前ってほんと………………」

  「まぁまぁ、お店だし喧嘩はしないでくださいね」

  少し険悪になりかけるムードを、こーすけが気を遣ってなだめる。ただそんなに一触即発の関係なら、相席なんてしないだろう。三下先輩が久郷田先輩を気に食わない理由が気になるけど、本人を目の前にして教えてくれるだろうか。もしこーすけが知ってるなら、後でこっそり教えてもらった方がいいかもしれない。

  そう思い始めたとき、三下先輩が口を開く。

  「渡嘉敷。最近コイツに狙われてるらしいけど、絶対流されんなよ。頭ん中ヤることしか考えてない性欲魔人だからな」

  「あ?テメェ殴られてぇのか」

  「事実だろ。俺は渡嘉敷にはあんな目にあってほしくない」

  三下先輩は刺々しい言葉で攻撃するが、久郷田先輩がキレたところを見たことがある俺からしたら、久郷田先輩の脅しには全く身が入ってなかった。とりあえず形だけ怒ってるような感じだ。尻尾は相変わらずブラブラ揺らしているし。

  「………あの、何があったのか聞いてもいいですか?」

  しびれを切らして俺が二人を見ながら言うと、久郷田先輩は微動だにせず、三下先輩はフン、と鼻を鳴らした。

  「ヤリ捨てられたんだよ。ルームメートだったっつったろ?一年のとき、入学して一週間で夜這いされた」

  「……まぁヤッたのは事実だが、捨てた、ってわけじゃねぇ。元々何の関係でもなかったからな」

  「そこが嫌いなんだよ!貞操観念ガバガバで、好きでもない奴に平気で手を出す。下半身に脳ミソがあんだよコイツは!」

  三下先輩は憤慨して真っ向から嫌いだと言う。にも関わらず、久郷田先輩は平気そうな顔であくびをする。その態度がさらに神経を逆撫ですることは明白だ。こーすけもまぁまぁと宥めている。

  ……しかし、入学一週間でルームメートに手を出すなんて、やっぱりこの人は異常だなと思う。前に発情期がやたらと多い、という恥ずかしい秘密を聞いたことがあるが、それを差し引いても本人の貞操観念はゆるゆるだ。そこは俺も気に食わない点なので、三下先輩が嫌いと言ってくれてなんだか安心した。

  「つってもお前も拒否らなかったじゃねぇか。嫌なら断りゃいいんだよ」

  「お前が俺のこと好きだと思ってたからな。こんなクソヤリチンだと思ってなかった」

  「ハッ、喘いでたくせに」

  「死ね」

  三下先輩の暴言にも、久郷田先輩はニヤニヤ笑って受け流すだけだった。本気で心から嫌っているわけじゃないという自信でもあるのだろうか。余裕の姿勢を崩さない久郷田先輩に、三下先輩はため息をついて背もたれに体を預けた。チラリとこーすけの方を見ると、意にも介さない様子で携帯を弄っている。この寮生たちの特殊な距離感は、入ったばかりの俺では馴染めそうにない。

  久郷田先輩は、少し体を前のめりにして机に肘をつくと、おもむろに口を開いた。

  「……それと、お前さっき渡嘉敷に同じ目にあってほしくない、っつったな?」

  「…………あぁ。それが?」

  「それはありえない。なぜなら、」

  先輩は言葉を区切って俺の体を力強くグッと引き寄せた。抵抗できないまま先輩の胸元に抱かれる。

  「渡嘉敷は本命だからだ。な?」

  「っ、な?じゃなくて……やめてください……!」

  少し体をよじらせても離してくれないくらい、久郷田先輩は強く力を込めていた。いつもなら抵抗すればわりとすぐ離してくれるが、今の間だけは解放する気はないようだ。こうなったときの解決法は、未だに思い付いていない。

  ニヤニヤと笑う久郷田先輩にニンニク臭い息を吐きかけてやろうかと思った。

  「…………お前が誰かに入れ込むのは珍しいけど、正直信用してない。根本的にクズ野郎だからな」

  「さぁな。だが、渡嘉敷が俺に応える気があるなら───」

  久郷田先輩は無理やり顔をこっちに向けさせた。マズルの先端同士がくっつきそうな距離感で、真っ直ぐと俺の目を見つめている。驚いて強ばる俺の体を支えながら、先輩は低い声で囁いた。

  「───お前は俺が一生幸せにする」

  「ッッッ、いや、その………………」

  そ、それって最早アプローチなんか飛び越えて、プロポーズじゃないだろうか。俺の一生を支えて、添い遂げる覚悟を伝えられると、一瞬頭が真っ白になって吃驚してしまった。不敵な笑みで力強く抱き締められて、顎の下に添えられた手で優しく撫でられて、低音の甘い声で愛の告白を囁かれたら───

  「…………ごめんなさい!」

  ──俺は左手を勢いよく持ち上げて、久郷田先輩の頬を掌底した。近かった顔の距離を一気に離して、先輩の腕の中からなんとか逃れる。いくら先輩でもマズルを強打されたら堪えたらしく、少しフラりと体が揺れて一度俯いたかと思えば、顔を上げたときにはとっくに不機嫌な顔になっていた。

  「ハハッ、ざまぁみろ。渡嘉敷はお前なんかに応える気はねぇってさ」

  「ここに100万ドルの夜景があっても、哲也は難攻不落ですよ」

  今度は三下先輩がやたら満足げにニヤついていて、久郷田先輩はしかめっ面だった。掌底はやり過ぎだったかもしれないが、店の中でプロポーズしてくる方が悪いんだからしょうがない。チラリとこーすけの方を見れば、澄ました顔でまだ携帯を弄っていた。

  「……チッ、一瞬いけそうだったんだがな」

  「…………一か八かでプロポーズするのやめてもらっていいですか?」

  「知るか。こっちはお前が頷くまでやるぞ」

  相変わらず諦めてはくれないようだ。一応西村先生を倣って、ごめんなさい、とはっきり言ったんだけどな。

  するとそのとき、高田がラーメンを持ってやってきた。

  「お待たせしました!!醤油ラーメンとネギ塩ラーメンです!!!」

  「わぁー美味しそう。あれ?チャーシューちょっと多くない?」

  「なんか店長がサービスだって!!!俺もよくわかんねぇけど」

  厨房の方を見ると、忙しく料理をしている店長の横に島村さんの姿があった。カウンター越しにこっちを眺めていて、俺の視線に気づくと指でグッド、と合図をしてきた。

  「…………島村さんか。間接的に久郷田先輩のおかげでもありますね」

  「あ?なんで俺だよ」

  「高田くん、二人にお礼伝えといてくれる?」

  「ん、おっけー!!!」

  店員なのに友達のような返事で戻っていく高田。何のことか分かってない三人と、いつも通り勝手に全てを悟ったこーすけ。学校の外でも猫科たちに振り回されるのは変わらない。

  そこまで追及することでもなさそうなので、麺が伸びてしまわないうちにラーメンに手をかける。香ばしい醤油スープに、ごま油やネギの薬味が絶妙に食欲を刺激してきて、自然と唾液が沸き上がった。

  「…………旨そうに食いやがって。旨いか?」

  「……ふぅ…………はい」

  久郷田先輩の質問に答えたら、また頭をガシガシ撫でられた。払い除けるのも面倒になって、無視してラーメンを口にいれる。湯気の立つ熱々のスープを、ほどよい柔らかさに茹でられた麺に絡めてたっぷりと頬張れば、言い知れぬ幸福感が溢れた。

  俺がラーメンにがっついていると、それを見ていた三下先輩が話を切り出す。

  「…………そんで渡嘉敷のバイトは見つかったのか?」

  「あーまだです。求人は色々あるんですけど、近場で短期ってなるとなかなか難しいですねー」

  「夏休みまであんま時間ねぇぞ」

  申し訳ないが、バイト探しはこーすけに頼りきりになってしまう。足で探しに行くより、ネットで調べた方がはるかに効率がいいだろうし。

  すると会話を聞いていた久郷田先輩も口を開く。

  「んだ渡嘉敷バイト探してんのか」

  「はい。三下先輩に聞いて、夏休みに短期のバイトをしようかなって」

  「金欲しいなら俺に言やぁいいのに。身体で払ってくれりゃいくらだって」

  「ハイハイ」

  誰がそんな売春みたいな真似するか。三下先輩が下半身に脳ミソがあると言っていたのも納得だった。

  とはいえ先輩も冗談半分で言っていたらしい。ニヤケ顔がふっと消えると、頭の後ろをボリボリと掻いた。

  「…………知り合いがバイト募集してるんだが、お前行くか?」

  「え?知り合い……?」

  「お前それ裏バイトじゃねぇだろうな」

  「ただのファミレスだ。中央駅からすぐのとこ」

  ファミレスのバイト……久郷田先輩の知り合い。なんとなく怪しい感じはするけど、それを判断できるほどの人生経験はない。せっかく薦めてもらえるなら、お言葉に甘えるのもいいかもしれない。

  ……まぁただ、こーすけと三下先輩の意見を聞いてからだ。

  「どこのチェーン店ですか?」

  「グルートだ」

  「あ、哲也この間行ったとこじゃない?ほら、勉強会の」

  言われてみれば、そんな感じの名前だった気がする。あの時は初めてで緊張してて、あまり周りを見る余裕がなかったけれど。

  「中央駅付近にグルート三個くらいあんだろ。ホントに行ったとこなのか?」

  「さぁ。でも雰囲気はどこも大して変わらないでしょうし、ちょうどいいんじゃないですか?」

  「渡嘉敷はどうなんだ?やるっつーなら連絡入れるが」

  久郷田先輩の顔をチラリと見る。何か裏があるようには見えない。元から人の嘘を見抜けるほど目敏くはないが、怪しい話には聞こえなかった。この際どこでバイトするかはどうでもよくて、世間知らずの俺ならどこに行っても苦労するだろう。探す手間が省けるメリットは大きいし、やってみようかな。

  「…………じゃあ、お願いします」

  そう言って久郷田先輩の顔を真剣に見つめると、俺の覚悟が伝わったのか、向こうも少し真面目な表情になった。

  「おう。詳細が決まったら連絡する」

  「…………渡嘉敷ほんと大丈夫なのか?久郷田だぞ」

  「ちょっとでも変なことあったらすぐ帰った方がいいよ」

  「テメェら俺を何だと思ってやがる」

  先輩は深くため息をついて、徐に再び俺の頭をガシガシと撫で回した。

  ラーメンを食べたあと、久郷田先輩とは別れて三人で買い物をしにいくことになった。一駅離れたところにある小さめのデパートに、食後の運動がてら歩いて向かう。俺の水着を買いにいくだけなのに、三下先輩まで付いてくる理由を聞いてみると、とにかく暇だからだそうだ。テスト期間も終わったし、初夏の昼下がりをダラダラと歩く時間は、どこか解放感に溢れていた。

  会話の隙間を埋めるように、こーすけが口を開いた。

  「……にしても段々暑くなってきたね。俺の嫌いな夏がくる……」

  「夏嫌いなのか?なんでだよ」

  「暑いから。年々異常気象で気温も上がってるし、このまま地球は爆発するんじゃないかな」

  なにやら物騒なことを言っているこーすけを横目に、道路を走る車の群れを見る。この車たちから出る排気ガスが地球をどんどん汚染していって、気温上昇に繋がっている。とはいえ車がないと不便だろうし、無くせばいいという話でもない。いつか地球が耐えきれなくなる前に、賢い人になんとかしてもらえることを祈る他ない。

  「ネコ科の祖先は暑いとこ出身だろ。換毛期もそろそろ終わるし、利根川は大したことないんじゃねぇの?」

  「まー確かに俺より久郷田先輩とか相田先輩の方が、真夏はぐったりしてるイメージですけどね。でも人は人ですよ」

  実際狼や北国出身の犬科なんかは、夏に熱中症で倒れるニュースがよく流れる。俺も例外なく熱に弱い種族だけれど、南の島で生きてきた分暑さには耐性があると思ってる。まぁ夏っていったらほとんど海に飛び込んでたから、あんまり関係ないっていうのもあるけど。

  「夏の間はそうだが、アイツら冬になっても薄着だからな。ブレザー着てるのなんか式典のときだけだぜ」

  「哲也も半狼だし、冬でも平気なんじゃない?」

  「まぁ……言われてみればそうだな」

  冬場はギリギリまで半袖短パンでいくし、どんなに寒くてもロンT一枚で解決してきた。南国の冬は大したことないとはいえ、この分厚い毛皮の恩恵といえばそうなんだろう。

  獣人たちは長い歴史の過程の中で、本当に多種多様でそれぞれの進化をしてきた。同じ種族でも毛皮の色や構造が違ったり、住んでる地域や生活様式でも日々変わり続けている。さらにそこに個人差が生まれるわけだから、多様性の幅は恐ろしいことになっているはずだ。ただそれでも一般論として、犬獣人は群れるのが好きとか、狼は暑がりが多いとか、猫は運動神経がいい、なんて通説が存在する。少なくとも大多数に当てはまる特徴を前提としないと、話が進まないからだ。

  だからきっと、冬にダウンジャケットを着込む狼獣人もいるってことを、頭に入れながら話さなくちゃならない。もちろんそれすらも、一般論になりつつあるけどな。

  「三下先輩はな───────」

  そのとき、道を歩いてる俺たちの横をとんでもないスピードで、ブォンブォンブォォォンとけたたましくエンジンを鳴らしながら、バイクの集団が駆け抜けていった。俺の声は完全に掻き消されて、あまりの煩さに思わず耳をふさぐ。こーすけと三下先輩は慣れてるのか、迷惑そうに少し顔をしかめただけだった。

  何台くらいか数えてる暇はなかったけど、そこそこの台数が通り過ぎていったあと、すっかり止んでしまった会話を再開させる。

  「…………今のはなんなんだ……?」

  「暴走族。都会……っていうか田舎にもいるけど、集団でバイク乗って騒音撒き散らす警察の敵」

  「…………不良とはちげぇのか?」

  「うーん広い意味では同じ?その辺三下先輩詳しくなかったですか?」

  俺たちが視線を向けると、三下先輩は小さくため息を吐いた。

  「不良はまぁ……せいぜい学校でイキってるやつ。学校社会関係なくイキってんのがヤンキー。ヤンキーの中で族に入ってんのが暴走族」

  「イキ…………?あ、あと今の人たちは暴走族ですか?」

  「多分そうだろうな。基本夜間に群れてんのが多いし、この辺じゃ珍しいかもな」

  不良とか、ヤンキーとか、暴走族とか、あまり社会に適合しないで生きてる人が都会に一定数いるのは知ってたが、実際に見るのは初めてだった。まぁ正直うるさいし速いしよく分かんなかったけど。辺りに残る排気ガスの臭いが、ツンと鼻を刺激する。

  「稲光の周りって治安良いですもんねー。ちょっと離れるとこういう人たちもいるってこと」

  「警察の敵って言ってたけど、俺たちにはなんかしてくるのか?」

  「族はまぁ放っとけばうるせぇだけだが、たまに絡んでくる奴もいる。絡まれたら無視して人の多いとこ行けよ」

  「………………………………」

  なんだそれ、まるでゲームのモンスターみたいだ。まぁ稲光にいる分には出会うことはないだろうが、今後さらに外に行くことがあれば注意してみよう。

  ふと顔を上げてみると、長い緩やかな坂道の下に大きなデパートが建っているのが見えた。恐らく今回の目的地だろう。

  「……三下先輩は何で暴走族に詳しいんですか?」

  流れで俺がそう質問すると、三下先輩は露骨に顔をしかめた。

  「…………北九州出身だからだ。俺の地元はヤンキーとか暴走族だらけで治安が悪かった」

  「まぁどこにでもそういうのはいるけど、三下先輩の地元って飛び抜けて治安悪いですもんね」

  「北九州って…………福岡とかですか?」

  「まぁな。ヤクザとかまでいる地域だったし、俺の親も元ヤンだし」

  「それで三下先輩も口悪いんですねー」

  「はっ倒すぞ」

  いつも通り失礼なこーすけに、三下先輩は軽く頭を押し退けた。言われてみれば口調がぶっきらぼうだったり、たまに暴言を吐くのはそういった背景があったんだろう。それでも三下先輩は優しい方だと思うし、接してて気楽な良い人だ。人に迷惑をかける暴走族たちとは似ても似つかない。

  少し歩いて坂を下りきれば、八光という名のデパートについた。見た感じ屋上の方にも駐車場がついてたり、入り口がいくつもあったりとなかなか大きめの建物だった。中央駅のには及ばないけれど、大抵のものは何でもありそうだ。

  ガラスの自動ドアを二重に通り抜ければ、涼しげな冷房の風が吹いてきた。蒸し暑かった外に比べて、ひんやりと体を冷す空気はかなり快適で過ごしやすい。一階のごみごみとした食材コーナーの片隅で、少しゆっくりとしたくなる。まぁ置いてかれないように俺は二人にぴったりとくっついていくんだけど。

  エスカレーターに乗りながら、こーすけは尻尾をゆらゆらと揺らして上機嫌に話しかけてくる。

  「二階から五階までは服があって、その上は雑貨とか家具とか置いてある。メンズは五階だからこのまま登るよ」

  「水着って…………服のとこにあるんだよな?」

  「たぶん。ここなら高校生が着るようなヤツも売ってると思うんだけどなー」

  「こーすけはもう持ってんのか?」

  「俺は中学の頃から体のサイズ変わってないから。成長期の高校生たちがパツパツのスク水履いてる様子は眼福だろうねー。着衣泳なのが残念」

  「おっさんくせぇぞ利根川」

  いつも通り変態を隠そうともしないこーすけに呆れながら、三階、四階とエスカレーターをどんどん登っていく。実は島にはエスカレーターなんて無かったから、乗るだけで勝手に上がってくれる階段は、少しワクワクするものだ。降りるときに尻尾を挟みたくなくて、ヒヤリとしながら登っていく様は、田舎者からすればちょっとしたアトラクションだった。さすがにはしゃいだりはしないけど、俺は今都会にいるんだなと実感するところだ。

  いよいよ五階に着いてフロアを見渡すと、所狭しと男性用の衣服が並べられていて、繊維の匂いにクラりとした。中央駅のデパートは小さな店がたくさんある感じだったけど、ここは一つの大きな店舗だ。所々に設置されたマネキンは、幼児のような子供からスーツを着た大人まで色んな服が飾ってある。それに加えて種族ごとに違う体のサイズの分豊富な種類を取り揃えているんだから、これだけ広くなるのも仕方ないといえば仕方ないんだろう。

  三下先輩はさっそく手前にあったシャツに手をかけている。あんまり服装を気にするタイプに見えないけどな。

  「…………これイケてんな」

  「えーーいやそれV系でしょ?先輩背低いから止めといた方がいいですって」

  「似合う似合わねぇじゃねぇんだよ。着たいものを着るのがいいんだ」

  「でも先輩服のセンスないじゃないですか。この前もドクロまみれのTシャツ着てたし」

  「あ?あれ気に入ってんだよ。お前にこのセンスは分からねぇ」

  服のことで議論されると、俺に口出しする権利はない。三下先輩の選んだ服はシルバーにかなり派手な柄がプリントされていたが、それがオシャレかどうかは分からない。

  しかしこーすけは見るからに萎えた表情をしていて、言わずともダサイと主張したいのが伝わってきた。

  「……まぁいいや。哲也、水着捜しにいこ?」

  「ん?あぁ……」

  こーすけは自然に俺の手を取ると、服で迷路のように入り組んだ通路に引っ張っていった。左右を通り過ぎるズボンやシャツは、恐らく夏用に向けて用意してあるんだろう。目配せするだけでも忙しく、本当にたくさんの洋服が陳列している。ちらほら俺好みの服は見かけたが、こーすけに引っ張られるままどんどん奥へと進んでいった。

  不意に目の前が開けて少し大きめの通路にでると、視界に堂々と飾られた水着のコーナーが飛び込んできた。小型から大型までカッコいいデザインの水着が並び、涼しさを主張している。

  小型獣人の水着なんて子供の頃着ていたサイズだし、熊獣人レベルの水着はぶかぶかでずり落ちそうだ。パンツひとつでこんなにも差があるんだから、服を売るのも大変だろう。

  「……あー哲也がこの水着着てるとこ見てみたいなぁ…………」

  「…………っていつまで手繋いでんだよ。いい加減離せ」

  「ちっ、バレたか」

  俺が手を振りほどくとこーすけは悪戯っぽく笑い、水着コーナーの列に入っていった。表に飾られているのは恐らく海水浴用のやつだろう。学校で使うスクール水着は奥にある。

  陳列されているのを適当に漁りながら、こーすけに質問される。

  「哲也って中型のL?それとも大型のM?」

  「いや…………わかんねぇ。服は大体おさがりとか、友達に買ってきてもらってたから」

  「見た感じ大型だけどね。Lだとちょっと大きいのかな」

  俺の田舎者っぷりにはこーすけも慣れてきたようで、服にあまりに無頓着なのもスルーされるようになってきた。最初の頃は少し引かれていたくらいだけど。

  水着だし試着はできないだろうから、間違ったサイズは買いたくない。体型的に一番近いのは篠崎だから、もうちょっと詳しく聞いてくればよかった。

  「今着てるのはM?」

  「あ?えっと…………Lだな」

  言われて確認したらタグはLサイズだった。今のやつはちょっとブカブカで、ぴったりって感じじゃないから……Mなのか?

  「それブカブカだもんね。水着だし……Sにしよう」

  「小さくねぇか?」

  「スク水ってピッタリサイズで着るものなの。だからこれでOK、他に買うものある?」

  「俺はねぇよ。こーすけは?」

  「うーんちょっとだけ見て回ろうかなー。三下先輩もぶらぶらしてるだろうし」

  歩き出したこーすけに黙って着いていき、はじめのTシャツがあったコーナーに向かう。平日の昼下がりは店内に人も少なく、のんびり見て回れそうだ。歩きながらこーすけはパパッと物色して、時折気になったものを手にとってはすぐに戻す、というのを繰り返していた。慣れるとこんなにも早く見回れるのかと感心しつつも、今の服良かったのになとぼんやりした眼で見守る。帰ったら何をしようか、晩御飯は何がでるのか考えてるところに、こーすけが声をかけてきた。

  「なんかあんまピンとくるのがないなー。ねぇせっかくだから哲也が選んでみてよ、俺に似合いそうなやつ」

  「…………え?でも俺オシャレとかわかんねーよ」

  「なんでもいいよ。哲也がいい感じ、って思うやつ選んで」

  そう言ったこーすけの表情には悪意や悪戯心は読み取れない。むしろ好奇心の塊のような顔をしていた。とくに他意はなく、単純に俺に選ばせたらどうなるか気になっているみたいだ。

  …………服のことなんて本当に分からない。俺個人の好き嫌いでいえば、派手すぎるのは苦手だけどそれはあくまで俺が着る場合の話だ。こーすけは三毛猫で、そもそも派手な柄だから、俺みたいに無地で真っ暗な服は似合わないかもしれない。

  試しに一番近くにあったやつを適当に手に取る。胸のところにスポーティーなロゴマークがついているが、それ以外は紺色一色だ。これで済ませるのは流石にちょっと感じが悪いかな。

  さっきのこーすけのように、その辺をウロウロと歩き回りながら物色してみる。一枚一枚見ていたら日が暮れそうで、とはいえ適当に選ぶのも難しい。さっきも見たような服が何枚も並んでいて、よく都会の人はこの山の中から探せるなと思った。

  少し困ってこーすけを見る。

  「…………本当にわかんねぇ。同じような服ばっかだし…………」

  「えーそうかなぁ」

  こーすけも一緒になって陳列しているシャツの川を掻き分ける。猫獣人の男にしてはこーすけは高身長な方で、中型のMがちょうどいいくらいなんだろう。合うサイズの服が大量にあるだけ、その候補も膨大になる。全部見ている時間はないし、どうしようかと顔を上げて、ぐるりと辺りを見渡した。

  するとふと目に止まったのは、若い犬と猫のカップル。もちろん若いって言っても俺たちより歳上で、20歳は越えてるだろう。手を繋ぎながら身を寄せあって、ニコニコと笑いながら服を選んでいた。手に取った服を男の胸元にあてて悩む猫の彼女に、犬の彼氏は満更でもなさそうに尻尾を振る。絵に描いたような幸せな恋人たちの様子がそこにはあって、俺は数秒間微動だにせずその光景をじっと見つめていた。

  「…………ねーこれなんかどう…………ってどうしたの?大丈夫?」

  ノイズも消えていた世界の中に、不意にこーすけの声が聞こえてハッとする。こーすけを見下ろせば、茶色っぽい…………あみあみの…………服を持っていた。

  「…………サマーニットっていうんだけど。それよりなに見てたの?」

  心を読まれたかのように訝しげに見つめられて、ようやく俺は今の心境を自覚した。言いようもないざわめきが、俺の心を荒らしている。怒りでも、悲しみでも恐怖でもない。これは…………焦りに似た何かだ。

  原因はとっくにわかっている。さっきのカップルを見て途端に落ち着かなくなった。そうだそういえば俺は、まともに男女のカップルを見たことがなかった。

  島にいたころは当然、若い人たちは一握りしかいないしいつも老人たちの相手をしていた。カイとさゆりちゃんは手も繋いだことがなくて、独り身のじぃちゃんは恋愛ドラマなんか全く見ない。

  島に出てからは周りを見る余裕なんてなかったし、ほとんどの時間を稲光で過ごしてきた。稲光にいるカップルはほとんど同性同士で、中央駅は人混みが嫌で考える暇もなかった。

  もしかしたら、生まれて初めて──もしくは二回目くらい──同年代の"普通"のカップルを見たかもしれない。

  …………俺は、ああやって彼女を作って、デートして、笑いあって…………それが漠然とした目標だぅたはずだ。今の俺はどうだ。こーすけ篠崎久郷田先輩に受けるスキンシップを、当たり前のように過ごしていないか?

  これが慣れというやつか。俺はこのまま稲光に染まって同性愛者になるのか?いつの間にか女の子への興味を失くすのか?こーすけの服を選んでいる場合なのか?

  「……………………こーすけ」

  「ん?」

  「…………俺の服選んでくれ」

  「は?いや…………いいけどどうしたの急に」

  「………………いいから。お前はそのあみあみが似合うと思う」

  「サマーニットね。さっきまで服いらないって言ってたじゃん」

  「考えが変わった」

  半ば強引にこーすけの腕を引っ張ると、大型イヌ科の服があるコーナーへ連れていく。このままの、何にも知らない田舎者のままじゃダメだ。

  ペラペラの財布をはたいて、俺は門限ギリギリになって三下先輩に怒られるまで、こーすけと服を選んでいた。

  [newpage]

  ツン、と鼻につく異臭が近づいてきて、いよいよそれが無視できなくなってきたくらいに、ようやく俺はこーすけに尋ねた。

  「………何だこの臭い。薬みたいな」

  「あー塩素じゃない?プールの水って、塩素消毒してあるの」

  「普通の水じゃないのか?」

  「水道水にも塩素は入ってるけど。色んな人が浸かるとこだから、病原菌とかいたら嫌じゃん?」

  俺たちはいつもの体育館ではなく、校舎から少し離れたプールへ向かって足を進めていた。誰が統率をとるわけでもないけど、一組と二組の男子たちは固まって廊下を歩いている。最後尾にいる俺とこーすけは、あまり道もよくわかっていないまま集団に着いていっていた。

  今日は水難訓練の日だ。先週買った水着と普段着と、やたらと多い荷物を抱えている。都会に来てから泳ぐ機会なんて全く無いと思ってたから、プールの授業はなにげに楽しみにしていたが、初めて嗅ぐプールの臭いは人工物感が強く、慣れるのに時間がかかりそうだ。

  稲光の広い敷地内、通ったことの無い廊下を進んでいるけど、一体誰が先導しているんだろうか。先生は一足先に向かっているらしいし。

  「なぁおい渡嘉敷!!お前泳げんのか!?」

  前を歩いていたデカイ背中が振り返って、そのニヤケ面を向けてきた。プールに子供のようにテンションが上がっているのは、ピンと伸びた尻尾を見ずとも伝わってくる。

  「当たり前だろ。お前こそネコ科なのに濡れて大丈夫なのかよ」

  「俺はプールっ子だからな!!夏は毎年プール行ってるぜ!!!」

  にかッと笑った牙には昼に焼きそばでも食ったのか青のりがついていた。高田の横から補足するように、おずおずと秋沢も喋りだす。

  「最近の研究で、ネコ科は水嫌いっていうのは完全な迷信だって立証されたんだ」

  「え!そうなの?俺風呂とか嫌いなんだけど」

  「個体差の範疇らしいよ。元々は水資源の少ない乾燥帯の地域から────」

  「なぁー!!いいだろそんな難しい話!!!俺は秋沢の裸が見れて嬉しいぜ!!!」

  「……ご、ごめん。俺は今日見学だから」

  秋沢の発言に高田は見るからに残念そうな顔をする。

  「えぇえーー!!お前泳がねぇのかよ!!!いいじゃん泳ごうぜぇーーー!!」

  「高田うるせぇよ、子供じゃねぇんだから」

  「秋沢くんどっか具合でも悪いの?」

  こーすけの質問に秋沢は一瞬だけ固まったあと、苦笑いを浮かべながら、ちょっとね、と答えた。

  その様子に不信感を覚えながらも、集団の先頭が減速してようやく立ち止まった。どうやらプール横の更衣室に到着したらしい。扉は一つだろうし俺たちが入れるのはまだ少し先だろう。プールの臭いはすぐそこまで迫ってきてるが、ここからだと中の様子は見ることができない。おあずけを食らっているような気分にやきもきしながら、ふと気になったことをこーすけに聞いてみる。

  「稲光って水泳部無いんだろ?なんでプールと更衣室があるんだ?」

  「稲光は新設校だけど、新設校じゃないから」

  何の疑問も解決しない答えに、チラリと秋沢を見る。大抵のことは秋沢が知っていた。

  「………稲光は新設校なんだけど、設備や校舎の一部を建て替えただけで、元々ここには違う学校があったんだ」

  「そう!そういうこと」

  「最初から言えよ。前の学校を潰して作った、ってことか?」

  「うーん潰したって言うと語弊があるけど………合併に近い感じかな。あんまり経営が上手くいってなくて、今の学園長が事実的に買い取った……みたいな」

  「俺ずっと近所に住んでるから知ってるぜ!前は中倉学園だったんだぜぃ!!」

  高田の得意気な顔を無視しつつ、秋沢の話に耳を傾ける。稲光学園の歴史はほとんど知らなかった。

  「ここの土地の昔の名前が稲光なんだ。学園長が変わってから方針も一新したら、全国から生徒が集まるようになったんだ」

  「確か前の学校で事件ていうか不祥事起きたんでしょ?10年以上前だしよく知らないけど」

  「…………知らない方がいいよ。だから稲光には所々古い設備が残ってるんだ。この前行った資料室にも、めちゃくちゃ昔の備品があったでしょ?」

  その事件とやらも気になったが、秋沢の話で先日の資料室のことを思い出す。二人で閉じ込められた資料室には、とても10年どころじゃない年季の入ったものが散乱していた。捨てるのにも困ってとりあえずあそこに置いてあるんだろう。今後使うこともない気がするけど。

  すると、ちょうど前の人たちが更衣室に入っていくところだった。俺が声をかけてみんなを向かせると、端が錆びた鉄扉に入っていった。

  中はなんとも言い難い古ぼけた臭いが充満していた。青色の壁は所々塗装が剥げていたり、使われていないはずのロッカーは開けっ放しになっていたり。奥の方に巨大なホースが押し込まれた形跡もあって、さっきの話に信憑性が増していた。

  「…………使ってないなら、掃除もしてないのか?」

  「一応夏前には一年が掃除したって聞いたけど」

  すると奥からスリムなチーターが歩いてきた。

  「三列目は汚いから、なるべく一列目から使ってくれ。詰めれば全員入るそうだ」

  体育委員の川元は、既に着替えを済ませて普段着のTシャツと短パン姿だった。先生から誘導するよう指示されているのだろう、最後尾の俺たちにまで伝えに来てくれた。

  何列っていうのは恐らく更衣室のスペースのことだ。ロッカーで三列の部屋のように区切られた更衣室は、パッと見でも三列目が汚い。一列目には一組と二組の生徒たちが入り交じって着替えているが、やたらと狭そうだ。まぁ四の五の言ってられないんだろうが。

  あんまり長いことたむろするわけにもいかないので、少し急いで端のロッカーで高田とこーすけと三人で並んで着替える。秋沢は制服のまま先生のところに行ったようだ。

  「みんなもう授業始まるぞ!ちゃんとシャワー浴びてから来いよ!」

  川元はそう言って更衣室を出ていく。既に周りも着替え終わっている人が多いし、段々と焦ってきた。

  「シャワー?シャワーってなんのことだよ」

  「プールに入る前に体を慣らすの」

  「あれつめてぇんだよなぁーー」

  パッパッと服を脱いで、上に普段着を重ねる。水着を着るためにパンツも脱がないといけない。

  「お?渡嘉敷そんなパンツ履いてんだな!」

  「ぶっ飛ばすぞお前、黙って着替えろ!」

  「俺水着履いて来たから。先いくね」

  さらっと着替え終わったこーすけに裏切られ、高田と二人になる。

  「…………っ、この水着きついな」

  「渡嘉敷いいケツしてんなぁー」

  「黙れって!」

  なんとか水着とズボンを履き終えて、高田を置いて駆け足で更衣室のドアを開ける。後ろでなんか聞こえた気がしたけど無視して出ていけば、パッと眩しい太陽が視界に飛び込んできた。暑い夏の日照りが獣毛の黒っぽい部分を熱して、地肌までそれが伝わってくる。

  少し進めば巨大なシャワーがあって、先生が蛇口を捻ると冷たそうな水が落下してきて、その下にいる生徒たちは悲鳴をあげていた。その飛沫を感じるだけで、これから泳げる、という期待感で胸が高鳴ってくる。

  ノズルの下に立って上を向くと、水流がマズルの先から全身に広がった。照りつける日差しの中、毛を掻き分けて冷たい水が染み渡る感触に目を細める。気持ちいい、と感じた途端にシャワーは止まって、思わず先生の方を見る。

  「ずいぶん気持ち良さそうに浴びるな渡嘉敷。ほら、さっさと行け」

  快活に笑う先生に少し恥ずかしくなりながらも、さらに先へ進んだそのときだった。

  視界いっぱいに飛び込んできたのは青色の水面。キラキラと日光を反射して宝石のように煌めいている。透き通った水の底まで見通せば、小波の影が映り込んでゆらゆらと俺を誘惑する。今すぐ飛び込んで冷水に全身を浸したい。この蒸すような暑さの中、自由に泳ぎ回ったらさぞ気持ちがいいだろう。深く潜ってもいい、ただ体を浮かべるだけでもいい。この大量の水たちと何時間でも戯れていたい。

  プールを覗き込みすぎて落ちそうになっている俺を、ぐいと引っ張ったのは先生だった。扇風機のように振れている俺の尻尾を見てニヤケながら、あっちに並べ、と指示をした。

  一組と二組の男子が全員並び終えると、号令と体操が始まった。泳ぐからなのかいつもより入念にストレッチをさせられるが、プールサイドの地面は裸足には熱く、あまり集中できない。みんなであっちぃと言いながらも体操を終えて、眩しい日差しに目を細めながら、先生の説明を待つ。

  「ハァ……………あつい。溶けそう……」

  「早く泳ぎてぇな」

  「6月なのが信じらんない。夏休みは家から出ないって誓います神様」

  「まだ…………まだかな」

  興奮気味な俺と萎えているこーすけは今までで一番噛み合わなかった。

  すると先生はようやく動き出して、海難事故の説明を始めた。

  「これからの季節、海や川などで遊ぶ機会があるかもしれない。もしそういった場面で、例えば足を滑らせて………………」

  その瞬間、牛獣人の大柄な先生はプールに向かって倒れ込んだ。パーンッ!と大きな音と共に巨大な水飛沫が上がって、突然のことにみんな目をギョロっとさせる。

  「………こんな風に事故にあったとき。なるべく生き残るための訓練だ!」

  プールの中から嬉しそうにニッコリと笑う先生に、羨ましさで俺はうずうずと体を疼かせた。

  それからまずはプールに体を慣らしてから、浮くための練習をした。服を着ているときより着ていないときの方がもちろん泳ぎやすい。着たまま事故にあったときのために、周りの漂流物に掴まりながら、とにかく浮き続けることの訓練をした。

  実際俺も昔、海で泳いでいるうちに沖へ流されて帰れなくなったことがある。そのときは近くを通った船にすぐ助けてもらえたけれど、救助が来るまで体力を温存するのは大事なことだ。周りのみんなは着衣泳にそこそこ苦戦しているようだったけど、俺だけは難なく動き回れて、少し得意になった。

  背泳ぎのような姿勢のまま、着ている服で腹のところに空気をいれると浮きやすくなるらしい。その練習をしながら、広いプールにみんなで浮かんでいる様子は少し滑稽だったろう。そんなことも気にならないくらい俺は久々の水の感触を楽しんでいて、こっそり潜ったり泳いだりして遊んでいた。島にいた頃は毎日のようにこうしていたのに、数ヶ月経っただけでこんなにも恋しくなるとは思わなかった。一回とは言わず、プールの授業をもっとしてほしいくらいだ。

  そのあと訓練か先生の趣味か知らないが、プール際に立って先生に投げ飛ばされる訓練をした。落下したときの受け身をとるためらしいけど、あんなに放り投げられたら受け身も何もない気がしてきた。

  ちょうど佐藤がごみを捨てるように投げ飛ばされたところで、高田の番になる。

  「おし!!……って高田か。流石に投げれんぞ」

  「えーっ!!俺も飛びたいっす!!!」

  「俺よりデカイくせに何言ってんだ」

  先生はそのまま高田を背負い投げすると、そのままプールに放り込んだ。背中から落ちてるとはいえ流石に危なそうだけど。

  噴水のような水飛沫がこっちまで跳ねてきたあと、プールの中央から高田の笑い声が聞こえてきた。どうやら平気らしい。

  「次!!」

  その次に並んでいたこーすけは見るからに不服そうな顔をしたまま、先生に抱き抱えられて天高く放り投げられた。元々軽いせいで余計に高く飛んで行き、猫獣人のシルエットが空中でゆらりと動く。一度丸まるような体勢になってから、くるりと体を捻らせて、綺麗に足から入水していく。ストン、と落ちていくように飛沫も小さく抑えると、数秒後、不機嫌な顔のままこーすけの顔が浮かんできた。

  さすがの猫獣人の動きに感心の声も上がる中、いよいよ俺の番になった。

  先生に近づくと少し疲れているようで、ふぅ、と息を吐きながら俺を見て笑った。

  「渡嘉敷が最後か。じゃあ俺のスペシャルをお見舞いしてやる」

  「ぃ、いや大丈夫です……」

  「とはいえ渡嘉敷もデカイからな……よいしょっと」

  筋骨隆々な先生は俺の膝の下と肩に腕を回すと、そのまま横向きに持ち上げて俺をお姫様抱っこした。途端に横転する視界と、目の前にあるのは下から見上げた先生の顔。濡れた衣服越しに心臓の鼓動まで伝わってきて、なんだか恥ずかしくなる。

  ヒューと拍手と歓声が生徒の方から上がり、俺はそっちから顔を背ける。とてもじゃないが手を振る余裕なんてない。誰かにお姫様抱っこされるのは初めての経験だった。

  先生はそのままギリギリまでプールサイドに寄ると、グイン、と振り子のように俺の体を振る。たまらず先生の肩を掴むと、先生は俺の顔を見てニッコリ笑うと、

  「飛ぶ瞬間には離せよ!!よし、行くぞ!!!」

  「ッ、っっッ!!!???」

  勢いよく助走をつけた振り子は頂点に達した瞬間に手を離れ、ふわりと体が宙を舞う。自分の身長くらいまで飛び上がりながら、眩しい太陽に顔を歪めたのも束の間、重力に引っ張られる感覚にゾワリと背筋を凍らせる。遠くで聞こえる先生の雄叫び、生徒たちの歓声、高田の笑い声。それらが一瞬で聞き取れたと自覚した途端に、

  ジャッッボォォオオンッッッ!!!!!

  体中を水が包み込み、深くへと潜っていく。泡の欠片が水面を揺らすと、隙間から見える太陽がガラスのように割れていく。煌めく水中は燦々と輝いて、屈折した日光が俺の獣毛まで揺らぎ照らした。

  お尻が水底に付く感触があって、そのままゆっくりと浮上した。微かに聞こえる地上の音が段々と大きくなって、水面を顔が突き破った瞬間に聴覚が戻ってきたような気がした。

  「っぷ、ッはぁ…………はぁ…………!」

  「渡嘉敷ー大丈夫かー?」

  「渡嘉敷!すごかったぞー」

  「先生投げすぎだろー!」

  顔面の水を取り払って、ため息をつく。息を止める暇もなかったから、ゆっくりと深呼吸した。

  プールサイドから先生が手を伸ばす。先生は嬉しそうに微笑んでおり、俺が苦しそうに呼吸をするほどニコニコと笑みを浮かべるようだった。

  「…………平気か、渡嘉敷」

  先生の問いに答える気力もなくて、内心少し怖くて少し楽しかった俺は、力なく笑って先生の手をとった。

  それから時間が余って、先生は自由時間を作ってくれた。泳ぎたい人は泳いで、それ以外の人は浸かっているだけの時間。屋外のプールは日照りが激しく、外にいるだけでも熱中症になるだろう。少しでも涼しんでいられるのは非常にありがたいだろうし、まだまだ泳ぎ足りない俺は一人黙々とプールの端を泳ぎ回る。進むたびに獣毛を撫でる水が心地よくて、延々と遊泳していたい。端から端まで25Mのプールを、色んな泳ぎ方で往復し続ける。水を掻き分けて進むというより、一粒一粒を楽しむ感覚は、戯れるという表現が正しいだろう。遠くに聞こえる喧騒を無視して、自分だけの世界にいれるこの瞬間、俺は都会に来てから最も充実した時間を過ごしていた。

  すると、どこからともなく川元がやってきて、話しかけられる。

  「渡嘉敷、泳ぐの上手いな。水泳部か?」

  「え?…………あぁ、いや、違うよ」

  「フォームが綺麗だ。習ってたとか?」

  少し考えてみて首を横に振る。泳ぎ方なんて誰かに教わった覚えはない。

  「へぇ、じゃあセンスがあるんだな………………にしても、その…………脱がないのか?」

  「え?」

  川元に言われて自分の体を見る。着衣泳のまま、Tシャツとズボンは着たままだ。特に違和感もなくそのまま泳いでいたけど、そういえば都会の人は服を着ないんだった。

  「……俺、着衣泳慣れてるんだ」

  「珍しいな。でも…………脱いだ方が泳ぎやすいだろ?」

  「うーん、どっちでもいい………かな」

  見ると、川元は既に水着一枚となっていて、水面から胸より上が出ている。流石スポーツマンというか、大胸筋まで引き締まった体をしていた。

  そのまま見上げて、川元の顔を見る。前にこーすけが言っていたけど、確かに川元はイケメンだ。端整な顔立ちは誰から見ても清潔感があるし、背も高くスラッとしている。手足も長くてモデル体型だし、それでいてちゃんと筋肉もついている。

  ………こういうやつがきっと女子にモテるんだろう。スマートさが全身から滲み出ているし、骨太な田舎者の俺とは天と地の差がある。俺はどう転んでも老け顔のウルフドッグだし、川元みたいになるにはどのくらい努力が必要なんだろうか。

  俺がボーッと見ていると、川元はジッと見つめ返してきた。特に互いに目も逸らさず、プールに浸かったまま見つめ合うだけの時間が十秒くらい過ぎる。

  先に視線を背けたのは川元の方だった。

  「…………水着の方が抵抗が少ないし、筋肉の動きも分かりやすい。渡嘉敷が水着で泳いでるところを見てみたい……んだが」

  最後の方は少しどもる川元の顔を覗き込む。

  「…………どうした?大丈夫か?」

  「だ、大丈夫だ。とにかく渡嘉敷が水着で泳いでいるところが見たい………ス、スポーツ的な興味として」

  「あぁ…………まぁいいけど」

  川元は陸上で全国レベルの選手だし、よくわかんないけど筋肉とか人体とかに興味があるんだろう。川元に誉められるくらい俺の泳ぎ方が良かったってことなら、見せびらかすのも悪い気はしない。

  着ていたTシャツとズボンを脱いで、プールサイドに置く。水着一枚で泳ぐのは初めてだし、解放感と共に少し羞恥心も感じた。パンツ一枚で泳ぐのと変わらない、という認識を放り投げて、川元の前で水着姿になってみせた。

  「…………やっぱり、綺麗だな」

  「…………まだ泳いでないけど」

  「ぃ、いや、その………………筋肉が。自然な付き方をしてるんだ。同じスポーツを続けたり、筋トレをしたりすると偏った筋肉になる」

  川元は自分の腕を曲げて力こぶを作る。

  「俺はずっと陸上をやってたから、早く走るための筋肉が付いてる。だから上腕二頭筋は大したことない、だろ?」

  「あぁ、まぁ確かに」

  「渡嘉敷はスポーツとか筋トレじゃない、本当に自然な筋肉なんだ。歩く、走る、跳ぶ、投げる。日常の色んな動作をちゃんと大切にこなしてきた人の筋肉だ」

  まぁ言われてみれば、島にいてスポーツや筋トレなんかしたことはない。遊び回って、走り回って泳ぎ回ってるうちに、勝手に体が鍛えられた。とはいえこれは狼獣人の遺伝子のせいだと思ってるし、そんな大層なことはなにもしてない。

  少し冗談めかして、川元に笑いかけてみる。

  「そんなに褒めてどうすんだよ。俺からしたら川元の方がスマートでかっこいいよ」

  「…………本当か?」

  「あぁ。それで泳ぐとこ見たいんだろ?」

  「…………じゃあ頼む」

  川元に言われて、その場からゆっくりと平泳ぎを始める。手を中央に集めたら、掌で大きく水を掻き分けて後ろへ持っていく。足もしっかりと蹴って伸ばすだけで、海の中をゆっくりと楽しむには十分な推進力が得られる。

  海で泳ぐときは大抵平泳ぎだった。クロールやバタフライは疲れるし、そんなに速く遠くまで行く必要はない。海水は塩分で浮きやすいから、顔を出したままでも平泳ぎができる。そうやってのんびりと泳ぎながら、時折カイと競争したり────

  「お?なんだ!?」

  頭がゴツン、とぶつかって柔らかい肉の感触が伝わってくる。追突した、と思い急いで水面から顔をあげると、

  「なんだ渡嘉敷か!!!俺のケツにぶつかったぞ!」

  「…………っ、」

  黙って水を掬ってニカニカ笑う虎獣人の顔面にぶっかける。

  「ぶぇっ!!」

  「邪魔だ!あと何でそんな水着着てんだよ!!」

  高田は俺のよりはるかに布面積が小さい水着を着ていた。下着にもこんな小さいやつは見たことないし、サイズが合わないせいかパツパツだ。お陰で高田の尻の感触をものすごいリアルに感じる羽目になった。

  「えぇーーいいだろコレ!!!ブーメランパンツって言うんだぜ!!!」

  「知るか!!!」

  遅れてきた川元が苦笑いしながら会話に合流する。

  「高田、それスクール水着か?」

  「いんや!!多分海行くやつだな!!!」

  「違ぇよ。それボディビルダーとかが履くやつだ。水着ですらないんじゃないか?」

  「えっ!!!マジで!!?」

  呆けた面のバカ虎をひっぱたいてやりたくなったが、高田の大声のせいで注目を浴びそうだ。先生の前で暴力はふるいたくない。

  「何でそんなん履いてくんだよ…………」

  「そりゃだって、俺の筋肉が見やすいだろ!!!?」

  高田は両手を上げてアホみたいにマッスルポーズをとってみせた。すかさず俺は水をかける。

  「ぶぇっ!!!」

  「しかもそれワンサイズ下じゃないか?何でぴったりの選ばないんだよ」

  顔を拭った高田は再び白い牙を見せる。

  「そりゃだって、こっちの方がもっこりが───」

  言い終わる前に俺は高田の頭を掴んでプールの中に押し込んだ。悪いけど篠崎のせいで下ネタには過敏になっている。

  後ろで川元の笑い声が聞こえた。振り返ってみると、珍しく顔を歪めて笑っている。クールな印象の川元も、こうして笑うことがあるなんて少し意外だった。

  「行こう渡嘉敷。先生が気づいたらまずい」

  「あぁ………………そうだな」

  高田の頭を離して少し遠ざかる。ぷかーと動かずに浮いているが、尻尾はぶらぶら揺れている。死んだふりでもしているつもりだろう。小学生か、あいつは。

  川元とプールの角っこまで歩いて、休憩する。プール全体を見渡せば、各々泳いだり潜ったり水をかけ合ったりして遊んでいた。水難訓練はどこへやら、男子高校生たちがはしゃいでる光景しか見えない。先生は日陰で何か記録を書いているし、本当に平和な昼下がりだ。こーすけの姿が見当たらなくて、さらによく探せば、見学者用のベンチで秋沢と喋っていた。いつの間にか制服に着替えているし、器用なやつだ、と目を逸らした。

  「高田はあれ……動いてないけど大丈夫か?」

  「大丈夫だろ。ほら、尻尾が動いてる」

  「………死んだふりか」

  「子供かよ」

  俺が悪態をつくと、川元はまた小さく笑った。

  「まぁ………でも、高田の筋肉も見事だよ。あれは筋トレでつけた筋肉だ」

  「あいつが筋トレ?」

  「意外と努力家なのかもな」

  俺が不満げに小さく鼻を慣らすと、川元は宥めるようにさりげなく俺の肩に触った。

  「…………それに比べて、渡嘉敷はやっぱり綺麗だ」

  「……………………あぁ……ありがと」

  「…………………………毛色も…………綺麗だよ」

  「……………………………………………………………………」

  遠くを眺めていたが、ふと川元の顔を見る。川元も俺を見ていて、また少し見つめ合う時間ができる。今度は俺の方から目を逸らした。

  「………………あの………………嬉しいけど、そんなに褒められると口説かれてるみてぇだ」

  「……っ、あぁ、ごめん。気に障ったな。悪い」

  「いや、いいんだけどさ……」

  川元は慌てて俺の肩から手を離すと、少し距離をとった。顔を見てももう遠くの方を見ていて、目が合う様子はない。せっかく距離が縮んだのに、遠ざけてしまっただろうか。川元と友達になるための適切な距離が未だに分からない。もうちょっと喋る機会があればいいんだろうが、体育の時間くらいしか接点がないんだから致し方ない。

  ……少しの間、無言が続く。もしかしたら、川元の気に障ることを言ってしまったのかもしれない。本人は口説いてるつもりなんかないのに、俺が勝手に距離をとって……。

  「……………………川元」

  「…………ん?」

  振り返った川元の顔に少量の水をかける。

  当然川元は顔をしかめたあと、不思議そうに俺のことを見た。

  「競争しようぜ。ここから端まで、どっちが速いか」

  俺の提案を聞いた川元は、徐々に口角を上げる。手首をぶらぶらして、首をポキポキと鳴らした。

  「……いいのか?俺は全国で金取ったこともあるんだぞ」

  「陸上でだろ?水中なら俺の方が速い」

  「ははっ、じゃあ負けたらジュース奢ってくれよ」

  「そっちもな。よーいどん!」

  間髪いれずに俺は勢いよく壁を蹴って、前方へ大きく推進した。頭から水に潜れば音は聞こえづらくなるけど、後ろの方で川元の笑い声が聞こえたような気がした。振り返りもせず、俺は底に映る自分の影を見ながら、煌めく日光をかき分けてどんどん進んだ。水面から飛び出した俺の尻尾はきっと揺れていただろう。

  …………そして再び高田の尻に激突するのは、すぐ後のことだった。

  [newpage]

  「はい点呼をとりますー……まぁ全員いるわね」

  ホワイトタイガーの寮監は、いつもの如くざらっと全員の顔を見てから頭の中で点呼をとった。くたびれたジャージにボロボロのノート、少しがさつな女性だがこの男子寮を運営するのに無くてはならない存在だ。寮生たちもとっくに点呼には慣れっこで、用事があっても聞いていないことが多い。こーすけもふてぶてしく携帯を弄っているし、俺くらいは真面目に聞こうと思っていつも耳を傾けている。

  しかし、その日の点呼の連絡はいつもと一味違った。

  「はいじゃあ連絡です……来週の日曜日夜、沙良川花火大会があります」

  その瞬間、ギギッと椅子を引く音が何ヵ所かで聞こえる。イヌ科の耳はピンと立ち、寝ていた人は急に起き、こーすけは携帯から視線を外した。

  あくまでも静寂……だが、皆が続きの言葉を期待しているのを感じ取れた。一年生と俺は蚊帳の外なんだけれど。

  「今年は…………行けることになりました!おめでとう」

  寮監の言葉に続いて、あちこちで話し声やざわめきが起こる。主に二年生や三年生のテーブルだが、雰囲気は見るからに喜ばしいことのようだ。

  沙良川花火大会?花火大会って………

  「ハイハイ、静かにー。まぁ詳細は当日にも言うんですが、今年は19時出発から21時帰宅までとします。一年生には上級生が詳しく教えてあげなさいね。あと一部生徒は行けないことも忘れずに!連絡は以上です、解散!」

  寮監が喋り終わるのと同時に、寮生たちは皆それぞれ話し始める。俺は何分ちんぷんかんぷんなもんで、こーすけに聞かないと何も分からない。

  俺がじっと見つめるだけで伝わったのか、こーすけはチラリとこっちを見てから携帯をテーブルに置いた。

  「…………沙良川花火大会。稲光の近所にある川で毎年やってるお祭りだよ」

  「祭り……………………花火………………」

  「寮生の門限って常に厳しいから、一年に一度だけ監督つきで出歩けるようになるイベント。もしかして花火大会も初めて?」

  こーすけの問いに俺は少し遡って考える。祭りはまぁ、俺がいた集落でも豊年祭ってのをやってた。もちろん今回のとは何もかも違うだろうけど。

  ……花火大会は、昔一度だけ行ったことがある。八重木島の隣の本島へ、車で一時間くらいかけて行ったはずだ。当時は小学生だったし、あまり中身は覚えていない。カイと出店で遊んだあと、疲れて車で寝たんじゃなかったっけ。花火の記憶もうっすらとあるが、テレビで見たものか現実か区別がつかない。

  「…………たぶん、初めてだ」

  「えーそりゃ楽しみ。沙良川のはそんなに大きくないけど、意外と人いっぱい来るんだよね。祭りあんまり好きじゃないけど、哲也となら楽しめそう」

  そう言ったこーすけの顔を見たら、瞳の奥がきらりと光った。