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『今週末は予定空いてるけど、どう?』
どうって何だ?自分でもどうかしていると思う。空いていると書いていても正確には空けている。チーヤンと再会してから過ぎ去り喪ってしまった時間を、傍からは輝いていたであろうあの日々を取り戻すため躍起になっている。
今日は木曜日、時刻は午後十時半。仕事と日課のランニングをこなし、シャワーと夕飯も片付けて手持ち無沙汰になった頃。社会人である以上根気強く誘い続けなければ予定は合わない、会社や業種が違えば尚更だ。送ってしまったメッセージ。取り消そうか、気づかれないうちに消してしまえば……問題ないハズ。
この間五分。自分の優柔不断を呪いながら、取り消しボタンをタップしようとした瞬間。
『空いてるけど、なにする?』
当然の結果が映し出されて、独りため息を吐く。あの日々のようにチーヤンがなんでも率先してくれるわけじゃ無い。分かりきっていたはずなのにどこかで期待してしまうそんな自分。
再会してすぐの頃はホワイトデーのお返しを買いに行ったり、行きつけのフレンチに誘っていたから迷わずに済んでいた。お決まりの映画は何度も使ってしまったし、野外フェスは都合よくは開催してくれていない。ワンマンツアーも随分前に終了したところで残された選択肢は……何が残っているだろうか。
美術館はチーヤンが退屈しそうだし、プラネタリウムや水族館は訝しまれかねない。今まで培ってきた社交術はいざという時に役立たない、それこそ表面を取り繕うことは出来ても何気ない会話でぽっかり空いたギャップを埋めることは出来やしない。
無い無い尽くしの議論に割って入った着信音。画面に写る『御厨智多』の名前を撫ぜる様に緑色のボタンをタップする。
『お疲れ、残業終わったから電話してみた』
「お疲れ様」
『それで今週末何する?なかなか返事こないから聞いた方が早いかなって』
「それが、まだ決まって無くて。チーヤンどこか行きたい場所ある?」
質問に質問で返してしまう。特段行きたい場所は無く、居たい場所があるだけ。逃げ続けてきた過去から、留まりたい現在にただ在りたい。
『季節感を取り入れるなら……プールなどはいかがでしょう』
「なんだそれ」
アパレルショップの営業トークさながらの提案に、静かな部屋に突いて出た「くはっ」と笑い声が反響する。大人になるに連れて薄れてきた選択肢に今も青春が息づいたチーヤンらしさを感じて、二つ返事で了承する。
『じゃ、また日曜近くの市民プール前で待ち合わせな』
「遅くまでお疲れ、お休み」
別れの挨拶に名残惜しさと、遠くない未来への期待を込めて結ぶと赤いボタンにそっと触れる。静かな日常に戻されてあくびを一つ、約束を取り付ける事に意識を奪われていたようで蒸された毛皮にはっと気づく。独り暮らしで誰の目を気にするわけでもないのにパジャマ等を用意すると静かに浴室に入って、シャワーヘッドから降る形も保てない雫が少し後ろめたくもあった情念を剥ぎ取ってゆく。
立ち湧く蒸気に身を隠し、おもむろにシャンプーを泡立てて耳の付け根からモサ毛とだんだん下へと丁寧に泡を揉み込む。毛足の長いモノトーンの被毛は扱いが難しくただ擦るだけではどんどん抜けてしまう。優しく泡で包んでしまえばいつしか背負ってきた影のような黒い被毛も境界が判らなくなって心地よい。不意に浮き上がったシャボン玉は何かと競っては笑い合ってきたチーヤンとの思い出を映し出しては弾ける、お風呂だって一緒に入っていたのに……ふと自分の分身を見やってご機嫌を伺う。ナニ事も無くてこれならあの日のように一緒に銭湯に行っても問題はなさそうだけれども、事が起きてからでは遅い。
そんな過ぎた妄想を胸に嵩張る尻尾も入念に洗い枝毛の処理もついでに済ませてしまおう。熱いお湯は苦手だからぬるま湯を振りかけて泡を流し落とすと幾分すっきりしたようで、備え置いていたバスタオルで水気を吸わせブラシ片手にドライヤーを掛ける。朝にはまたブラッシングからやり直しになっても手を抜きたくない。
パジャマを着たら枕元に目覚まし時計を置いて掛け布団を手繰り寄せると懸念事をも巻き込む、あの頃以来プールはおろか海にも行ったことが無く水着を持ち合わせていないことに。明日仕事帰りに行きつけのスポーツ用品店にいけばなんとかなるかな。そう結論づけて部屋の電気を消した。
***
日曜日の朝、カーテン越しに注ぐ陽で目を覚ます。悪夢を見る間もなく過ぎていった夜達が週始めの憂鬱や虚しさをも連れ去っていった。今日のために金曜日の誘いはさらりと躱して、店員さんに勧められるまま水着にラッシュガードなんていうものまで買いそろえ準備してきた。クーラーの効いた部屋から抜け出し洗面所で顔を洗うなど日課を済ませてしまう。キッチンで手短に朝食を摂るとまだまだ遠い待ち合わせの時間にあくせくする。
どうせ濡れるのに毛並みを整え、忘れ物の無い様に普段より一回り大きな鞄をひっくり返して水着類だけでなく替えの下着類と目薬に絆創膏や消毒液。きっと必要ないだろうけれど大事が有ったらと思うと眼が霞む。準備したばかりのハンカチで拭って鞄の底にしまい込み用意してきた道具類を思いのままに押し込んだ。
今日、別に今やらなくても良い雑事に手を付けて気づけば日が高く昇っている。時計を見れば約束の一時間前で鞄を片手に玄関まで歩き、日ごろ手放すことのない持ち物の確認。腕時計を着けて財布は鞄の中に入れたし携帯電話はスラックスに、鍵は締めて鞄の中へ。定位置にあることを確認したなら駅に向かおう。
***
チーヤンもUターン組だったのか、約束したプールは距離を置こうと決めた直前の夏に当時の悪友たちに連れられてやってきた市民プール。社会人としてのマナーに倣い到着は約束の三十分前で開園を待って友人たちと話す子供達の声を聴きながら遠く浮かぶ入道雲をぼんやりと眺める。
ほかの面々はどうしているのかな、だなんて考えがよぎるけれどチーヤンの一件に漏れず進学の流れに飲み込まれ、行方はわからないまま今に必死で振り返ることも忘れていた。
左手首を捲り目線を少し下げると見慣れた顔が手を振りながらやってくる。そんな大仰に近づかなくとも分かるのに。
「お待たせ」
「大して待ってないよ、まだ開園してもないし」
開園時間と同時に合流するつもりだったことを踏まえれば、約束の時間に間に合わせている時点で上々といったあたりだろう。チケット窓口で背伸びしているイヌ科獣人の背中はあの日の幻想。柱時計を見上げてそわそわしている気持ちは否応なく感じる。
チケット窓口で入場料を払って更衣室に踏み込む。水はけの良いようになのかコンクリートむき出しの簡素な床にロッカーがずらりと並ぶ。
「懐かしいな、この急に暗くなる感じ」
チーヤンが鞄からおもむろに水着を取り出しながら語る。確か小学生の時初めてチーヤンとここに来た時半べそかきながら手を握って着替えていたんだっけな。今は暗がりに身を寄せても何も恐れることはなく居られる。隅のロッカーを選んで水着とラッシュガードを胸に寄せて服を脱ぐ。
「水着とか持ってなくてさ、ジャングルでお急ぎ便頼んじゃったんだよね。サイズ合ってるかな」
そう語りかけるチーヤンはすでにパンツ一丁でトランクスタイプの水着を腰に宛てて笑う。そして先日の銭湯の時のように何のためらいもないままに最終防衛線を放棄しようとして手が止まる。
「はっちん?着替えないの」
「いや、着替えるけど。少しは隠したほうが良いんじゃないか」
断じて幼馴染の成長具合を視たかった訳ではなく。きっとぜったい。
ラップタオルはさすがに無いので嵩張る尻尾を抑え込み、フェイスタオルを腰に巻き暗がりに身を潜めて水着を履く。上はフード付きのラッシュガードで体のラインを隠せば完璧。年を取るたびに恥ずかしく思うことと頻度が増えてくるのは悩ましい。
待ちきれないかのように光差す途へ飛び出したチーヤンの後を追う様にフードを目深に被ってプールサイドに向かってゆく。
***
昔は苦手だった生温いシャワーがフェンスの外に満ちたつまらない日常を流し去る。そばを走り抜けた少年に攪拌され巻き上がったプール特有の刺激臭が非日常を実感させた。
「確かここの目玉はスライダーと流れるプールだったっけ」
目を輝かして今にも飛び込もうとしているチーヤンに問いかける。この歳にもなって昔監視員さんに叱られた事も忘れてしまったのかと少し呆れ、ロッカーの鍵を巻き付けた右手を引っ張るとピクリと体が跳ねる。
「焦りすぎ。はしゃぐ気持ちは分からないではないけれど」
決まりが悪い顔をしながら「はいはい」と肩を落として並び歩くチーヤン。風に煽られてきたビーチボールをプールに投げ返して、流れるプールを目指す。
***
流れるプールはすでにミチミチになっていたけれど、チーヤンはそんなこともお構いなしに群れの中に入って流されてゆく。
見る見るうちに点描画の数多ある斑点に紛れたようで、十数年来の孤独を幻視する。全長、速度や規模なんて数値では推し測れない。面影を探し歩いたあの日々に過去のフラッシュバック、仲良しグループで遊びに来て今までプールに来なかった理由。あの時もチーヤンが一人で飛び出して探し回っていたんだよね。
そう思い出していると手が、震えてプールサイドを蹴って衆目を、気にする余裕すらなく歪む視界のなか愛おしい背中を、紋を描くマーブルの中に見出そうと我を忘れてる。陽を遮られるようにそびえたつ松も、楽しげな声に覆われた水辺もあの頃と何にも変わってない。
中州に掛かる橋を渡り探し回って、前よりも視界が広がってもブチ模様を捉えられない。息が乱れなくても心音は速く高く変化してくる、成人して久しい訳だからそうそう大事にならないと解っていても鼓動は抑え付けることが出来ない。
ラッシュガードの裾で目元を拭い、水の流れに逆行してようやく俺だけ置いて一人流されるままに浮かぶチーヤンを見つけ、飛び込むや否やなだらかな肩を掴む。キョトンとした顔をじっと見つめてそれ以上何もできないまま数秒間。びしょ濡れになって全身に纏わりついた冷や汗に目の端に溜まっていた雫は、水しぶきと共に中空に跳ねては水面に溶けていった。
「はっちん?急に飛び込んでどうしたんだ」
先に我に返って問いかけられる。状況証拠は先の飛び込みで消え去った、といっても本心を今打ち明けるわけにはいかない。
「なんでもないさ、ちょっと酔ってきたから近くの売店で休憩しよ」
「うん?まぁそう言うならそうしようか」
水分を含んで重くなった布や毛束が依然水面へと引き込もうとするが、はしごを使って滑らないように陸地に上がる。振り返ると変わらない君が居て、焦らなくても手の届く場所に居る。
「それにしてもはっちん、いいカラダしてるよなぁ。何食ったらそうなるんだ」
「ひゃうッ‼……チ、チタ?」
おもむろに胸に手を掛けるチーヤン、濡れ透けた布地に体毛が見え隠れしているからといって、突然の接触は予測できない。頬は上気し目を白黒させて腕は虚空を切る、止めてほしくてどこか続けてほしいそんな感情。理性は沸騰して距離を置こうと跳びのき、息を整えて。
「チーヤン、そういうことは部屋で」
「何を言っているんだ」
呆然と立ち尽くす俺たちの間をどこからか迷い込んできたビーチボールだけが転がって行った。
***
水辺ではしゃぐ若者に紛れて子供達やそれに付き合う親たち。プールサイドから少し離れた場所で開業している屋台からは焼きそばやフランクフルトの他にアイスやカップ麺を販売している。ここに来てまでカップ麺を啜るなんて野暮なことはしたくないけれど。
日陰を選んでここまで来たはずなのに暑い以外の言葉がマズルから漏れてこない。つい癖で舌を出しながらはぁはぁと息を上げる。
「ポルムは……さすがに無いかぁ。どうせなら普段食べられないものが良いよな」
長年の付き合いなのか、気配りできるように成長したのか判然とはしない独り言に近い投げかけに、小さく首を振る。
「かき氷とかどうかな。俺はメロンにするけど確かはっちんはイチゴだっけ」
「じゃあ席取っておくね」
わざとらしく染められたシロップを粉々に砕いた氷の上に掛けるだけ。作り方も単純で急いで掻き込むと頭が痛くなり、あんまり炎天下で時間を掛けて食べ進めると甘いだけの冷や水になる。そんなかき氷、チーヤンは今になってもシロップに染まる舌を見せてはしゃいでる。そんな変わらないチーヤンと見つめあいながら笑えている自分。
当分陰りそうに無い陽を浴びて水面は絶えず輝いていた。
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