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羽ばたけローリンミーティア

  ボクは怪物。

  皆がそう言うから、怪物。

  ボエという名前があるんだけれど。

  猫も杓子も、ボクが現れると逃げてゆくから。

  薄汚れた森の最奥、満月も気に留めない洞穴で、

  できる限り静かに過ごしています。

  ボクの食べるのは、腐った物だとか、一般的には毒物だとか、だから…それほど迷惑は掛けていないんじゃないかな。虚しいことに。

  ただ、隣で生き生きと揺れ動く、真っ赤な果実なんかを見ていると…

  少しだけ、何処か遠くへ旅立ってみたいな…

  なんて思ってしまいます。

  いけないいけない、絶対に駄目なんだから。余計なことは考えない。楽しいことは想像していれば楽しいんだから。うん。

  辺りは宵闇。

  兎にも角にも、早く帰らなくちゃ…と。

  気を取り直したら、

  気がついたら、

  ボクは知らない場所に立っていました。

  道に迷ってしまいました。

  幾度となく歩いた道なのに。不可思議なこともあるものだなあ。けれど、何かが起こる予感がして、ほんのり胸騒ぎがしちゃったりして。…はあ、子どもみたいだ。

  どうしようもないボク。当てもなくどしどしと歩いていると、目の前に開けた草地が見えました。

  こんなに容易く抜けられる森ではない筈なのに……。

  ボクは森と草地の境界線から、ひっそりと草地を覗き込みました。

  草地の中にぽつんと2つ、岩が並んでいて…

  その1つに、女の子が座っていました。

  [newpage]

  美しく月に照らされる彼女、まるで…

  天使みたい……。

  うっとりと、眺めてしまった。

  いけないいけない。ボクはなんて重罪を。

  ……え?

  あの子、手招きしている。

  その煌びやかな瞳をボクに向けて。

  他に誰もいないよ。いない。

  きっと見えていないんだ。

  月明かりの届かない、ボクの奇っ怪な体が。

  やはり姿を見せてはいけない。

  戒めを胸に、立ち去ろうとしたとき。

  「大丈夫」

  あの子の声、春風のように優しい声。

  「私は大丈夫ですから」

  ……

  あの子、ボクに笑いかけてくれた。

  ズシリ。

  彼女の方へ向かってしまう。いけない。だめ。そう思っても戻れない。

  ドシリ。

  なんて我儘な脚なの。いつも開きっぱなしで、みっともないのに。

  汚れきった八重歯が、月に照らされ始めてしまった。

  せめて、先に、口を開かなくちゃ。口の中、毒みたいに青いけれど。

  「ボク、こんな怪物だよ」

  「怪物?」

  あの子は、落ち着いたまま。

  「……見えていないの?」

  「見えますよ。その…お強そうなお体。」

  どうして、平気な顔をしているの。

  「だってこんな…垢の落ちない皮膚に、鱗の突き出たお腹、物騒な手に岩肌みたいな尻尾。

  顔だって。ギョロっとした目に、鼻が不細工に出張って、口もぐちゃぐちゃのふてぶてしい仏頂面。

  血しぶきみたいな赤毛が生えた始末の、どうにもおどろおどろしい……」

  自分の悪口は、いくらでも浮かんでしまう。思い出せてしまう。

  「こんな…恐ろしい怪物だから。逃げるのが当たり前…なのに。」

  「ふふ。なんですか、それ。」

  あ、あれはたぶん、苦笑い。

  「私って少し、『当たり前』ができないものですから…。」

  「あ…ごめんなさい、そんなつもりじゃ」

  「それにね」

  「恐ろしい怪物は、女の子から逃げようとしたりしません。」

  月に照らされるあの子の、温かい光がとても眩しい。どうしてボクの方を向いてくれるの。

  「こっちに来て、お話しましょ。」

  ボクがこの子の、隣の岩に、座って、いいのかな。本当に、いいのかな…。

  「あの…ボク、嫌なにおいするでしょ…?」

  「平気ですよ。」

  彼女の頭上には、淡い金色の輪が輝いている。天をそのまま被ったようなそれが、ボクを優しく迎え入れてくれる。

  彼女は、落ち着いた様子で続ける。

  「お名前は?」

  「ボクは、ボエ…。誰も呼ばないけれど、ボエ。

  ……あ、いや、アナタは…?」

  「私はムー。天使の端くれです。」

  本当に天使なんだ……。

  「端くれって、こんなに美しいのに、謙虚なんだね。」

  あ、これボク、気持ち悪いかな。

  「ごめんなさい、ボクなんかに言われても嬉しくないよね…」

  「いいえ、嬉しいです。」

  静寂を急いでかき消すような、その…それは、笑顔?

  「けど、貴方こそ謙虚の塊じゃないですか。」

  「ボクが醜いのは、本当のことだから……。」

  「…それ、何なんですか?醜いとか怪物とか。」

  一瞬だけ、黒い雲でも立ち込めたような気がした。

  「皆そう言うんだ。怖い、汚い、おぞましい。見ているだけで不快になる。

  ボクの体、顔も形もおかしいし、いくら頑張っても綺麗にならないんだ。自分でもそれがわかっちゃうし……。」

  「…珍しいのは、おかしいんでしょうか。」

  天使の輪の光が、僅かに薄くなったような。

  「おかしいって、皆言うんだ。

  ボクを見かければ逃げる、叫ぶ、石を投げる。それが当たり前。

  まともにお話しできたことなんて一度もなくて、だから…ボクも諦めた。」

  「それはお可哀想に……。」

  ぽつり。

  ぽつり。

  赤毛が少し垂れ下がってきた。

  いつの間に雨雲がやって来たみたい。

  ああもう、鱗が濡れて、余計にぶっつぶつの濁色になってしまうよ。

  「こんなに不格好で、無愛想で、どうしようもない体だから…仕方がないんだ。

  でもね、ムーさんに出会えて、こんな風にお話しができて、今はとっても幸せ。本当に…本当にありがとう。」

  「…いいえ。」

  雨はどうやら軽い通り雨だったみたいで、

  月が顔を出すと、彼女の瞳が煌めいた。

  「不格好とか無愛想とか、私は思いませんから。貴方はとってもお優しい。出会ったばかりの私でも、ちゃんとそう思いますから。」

  ああ、なんて美しいんだろう。月明かりをそのまま映し出したみたい…ううん、彼女の心が月を照らしているみたい。

  まるで太陽だ。

  まるで幻想だ。

  「…確かにパッと見は怖いですけどね。」

  あ、よかった。少しだけ現実味がある。

  「そうだよね…ごめんなさい」

  「謝らないで。」

  声色が少し変わった。

  その声は大人しいのに、妙に頭の奥に吹き渡るような気がした。

  「貴方は…神を憎んだっていいのに。」

  「に、憎むだなんてとんでもないっ。だって今、ムーさんと出会えて、本当に幸せだよ。夢みたいなの。感謝してもしきれないよ。」

  神様だとか、全然知らないし、本当にいるのかなって、今までは思っていて…

  夢の中に目を逸らすように、いたらいいなって、少しだけ、勝手に、心の拠り所にしてしまっていたけれど…

  今、目の前に天使がいるんだもの。きっと神様もいるんだ。

  「やっぱり素敵なひとですね。ボエさんって。」

  どうしてそんなに褒めてくれるの?それに、名前…初めて呼んでもらえた。

  それからもう少し、お話しは続いた。

  ムーさんはあまりにも天使で…、やっぱり夢でも見ているのかもしれない。のに…

  ゴ"ァ"ァ"ァ"ァ"ァ"ァ"ァ"…ッ"

  欠伸まで怪物なんだから、ボクったら……。

  「ごめんなさい、みっともなくて…」

  「いいえ。さぞお疲れのことでしょう。今日はこのくらいにして…良ければまた明日、ここでお喋りしませんか?」

  「ほ、本当に?またボクとお喋りしてくれるの?」

  「私がしたいんです。」

  「…喜んで!とっても嬉しい!!」

  あ、つい、喜びが溢れ出て

  「ごめんなさい大声出して…」

  「平気ですよ。」

  やっぱり落ち着いている。凄いなあムーさんは……。

  「それでは、また会いましょう。」

  ムーさんは華麗に飛んでゆく。

  背に大きな岩を背負っているようだけれど、それが月明かりで色鮮やかに輝いてまた綺麗…

  って、駄目駄目あんまり見つめちゃ。

  さて、そういえばもう住処に帰れそうもないや…今夜はどう過ごそう……。

  ギョロギョロ、ギョロギョロ。怪物だけれど、獲物を探し回っているわけではなくて。

  「キョロキョロとして、何かお探しですか?」

  ムーさん、戻ってきた。キョロキョロって言ってくれた。

  「あはは、実はボク迷子で…この辺りに身を隠せる暗い場所はないかなあって」

  するとムーさんはなんだか俯いて、

  「…お好きなところでお休みになってください。

  …きっと誰も来ませんから……」

  とても悲しい…いや、苦しいような、そんな顔。

  「え、それってどういう…」

  「いえ、すみません何でもなくて、お気になさらないでください…!それでは!!」

  ムーさんは、急いで飛び去っていった。

  [newpage]

  次の日。…次の日?随分眠っていたと思うんだけれど。辺りはまだ夜…眠る前と違う曇り空で、宵闇を過ぎたような空気で……

  もしかして、また夜!?

  ボク、1日寝過ごしちゃった!?

  慌てて昨日の草地に戻ると、既にムーさんが来ていた。

  ああ、夢じゃなくて良かった…じゃなくて!

  「ま、待たせちゃってごめんなさい…!」

  ボクが言っていい台詞なのかな、これ。いや、この状況は他に言えることがない。

  …あれ?本当にボクを待ってくれていたのかな…?昨日もボクが来る前からいたわけだし…不安になってきた……。

  「大丈夫ですよ。」

  ムーさんは相変わらず落ち着いた様子。

  そっか。大丈夫なんだ。よかった……。

  ゼェ、ハァ、…いや、たぶん、グルルルル、グァァァァ…ッ。

  「随分走ったんですね。」

  「グル…ヴゥ、ほんと、みっともなくて、ごめんなさい…息切れが、抑えられない……」

  恥ずかしくって、それに迷惑だろうし、顔も合わせられないや……。

  「ふふ。大丈夫ですから。」

  あれ、なんだか笑っているような。

  「足音、遠くから聞こえましたよ。地面から振動が伝わってきて、ドキドキしちゃいました。」

  ああ…そうだよね……。ドスドス、ドタドタ……。ほんと恥ずかしいやボク……。

  「ごめんなさい恐怖させて…」

  「あ、そういうのじゃないですよ。」

  ???

  「というかボエさん、謝りすぎです。」

  「いくら謝っても足りないよ……。

  なんだか、寝過ごしちゃったみたいで…今起きたばかりなの。いつもは朝、起きられるんだけれど……」

  「…違うんです。」

  ムーさんは静かに、風を切るように首を振った。

  「違うって…何が?」

  ボクは喧しく息を飲む、ムーさんの息が張り詰める。

  「…ここは、夜の明けない世界なんです。」

  「世界…?」

  うっかり見上げた曇り空が、もっともっと曇ってゆく。

  「違う世界なんです。この世界にいるのは、私とボエさんだけ…だと思います。」

  あ、昨日の別れ際に言っていたことって、そういうこと…

  そうだ、見慣れた森にいた筈なのに全然知らない場所に出たのも…そういうこと?

  「ボク、違う世界に迷い込んでしまったんだ…本当に夢みたい。」

  「やっぱり信じてくれるんですね。」

  「だって、素敵な天使が目の前にいるんだもの。」

  月の光がまたムーさんを照らす。

  けれどなんだか落ち着きのない夜空。月が曇り空と戦っているよう。

  「夜が明けなくても、ボクは今とっても幸せ…」

  ハッ

  「ムーさんは困るよね!こんなのと2人きりで閉じ込められちゃったなんて、それに、天使だもん、天使って…わからないけれど、することもあって、きっと家族やお友だちもいて…???」

  「落ち着いてください!!!」

  ムーさんの声に初めて感嘆符が付いた。そうだよね。つい慌てて変になっちゃって、ごめんなさい。

  「…私は、もう少しゆっくりしていたいなって…そう思ってますから。」

  「…天使って、やっぱり忙しいの?」

  思わず聞いてしまったけれど…聞いてよかったのかな。そんなボクの不安を煽り立てるように、空が暗くなってきた。

  「…私のことはいいんです。まあ、今はこの世界を…楽しみましょう、ボエさん。」

  聞いちゃいけなかったのかもしれない。守秘義務だとか、きっとあるんだ。この世に知られてはいけないこと。

  けれど、怒ってはいない…のかな?

  一緒にいて、一緒に楽しむ。そんなことができるのなら、とても嬉しいお誘いなんだけれど…

  本当に、いいのかなって、なにか心に訴えるように風が吹いて、なんだか胸が痛いような気がする。

  熱風のように暖かくて、熱いくらいで、酔いどれそうになっていたら、涼風が水を差してきた。

  あ、ちょっと待って、

  ゴ"ギ"ュ"ル"ル"ル"ル"ル"ル"ル"…ッ"

  ああもう。

  だから怪物だなんて言われるんだよ、ボクは……。

  「起きてから何も食べてないんですね。」

  「ごめんなさい…本当にお恥ずかしい…」

  「お食事にしましょう。私もなにか食べてみたい気分なんです。」

  なにか食べてみたい…?

  そっか、天使って食事の必要がなかったりするのかな…。まあ聞かないでおこう。

  森を散策してみると、いろんな果実が実っていた。

  「カラフルでワクワクしますね。」

  「本当に不思議な世界だね。」

  その中に1本、カリンの木が。果実が満ち満ちに実っているかのように、全部腐ったまましがみ付いている。

  「こんな鮮やかな木々の中にたった1本…」

  「何かあったんでしょうか…」

  「もしくは環境が合わないとか…。こんな状態で枯れていないのが不思議なくらい。

  ボクとしては都合がいいけれど。」

  「そうなんですか?」

  「ボクはこんな風に腐った果実を食べるんだ。…ボクにはこれがいいんだけど、皆は違うみたいで。そんなところまでボクは怪物…」

  隣を見ると、腐ったカリンをもぎ取っているムーさん。

  「…すごい香り。」

  「いや、ある意味すごいと思うけど!良くない匂いだよ!?たぶん、ボクと同じような…」

  自覚すればするほどに悲しくなる。申し訳なくなるよ。

  「私はあまり匂いに触れて来なかったので、どれも楽しんでます。大丈夫ですよ。」

  そ、そっか…本当かな……。

  ムーさんったら、仏様みたいに動じない。優しいんだから。

  …というか、

  「ムーさん、それ、どうするの?」

  「どうって…一緒に食べませんか?」

  「だめだめ!駄目だよ!口に合わないよ!!」

  「そうですか……。」

  「ええっと、たぶん、普通の皆が美味しいって言うのが、周りにいっぱい実っているから。ムーさんはそっちを食べてよ。」

  「じゃあ、そうします。」

  ムーさんは思っていた以上に食事経験がなさそう。

  ムーさんは周りを飛び回る。ボクは腐ったカリンを集める。

  食事量もワガママな体のボクだけれど、この木1本で数日は持ってしまいそう……。

  ボクはムーさんと分け合うこともできない怪物で…よかった。よかったよ。

  果実を抱いたムーさんが、隣に来てくれる。

  「たしかに、こんな綺麗な実がなったときに嬉しいんだって、聞いたことがあります。

  それに…一緒に食べるご飯が美味しいって。」

  ボクは、誰かと一緒に食事ができるときが来るなんて、思ってもいなかった。

  「だから一緒に食べたかったんです。」

  ムーさんの笑顔が、満開に弾けた。

  昨日よりももっと眩しくて…でもほんのりと優しい光。

  ボクは照れるばかり。

  ふと空を見上げたら、月が曇り空を追っ払ってしまったみたい。

  一際輝くデネブの星が、それはまあ綺麗。

  [newpage]

  それから、ボクらは毎日のように会うようになった。

  ただ、雨の日はムーさんはあの草地に来ないみたい。それはそうだ。濡れるのは嫌だよね。

  ボクは雨の日も、気がついたらムーさんのことばかり考えるようになっていた。

  そして月が出たら、新しい何かを探しに行くんだ。

  綺麗な花を見つけては、ムーさんに見せに行った。

  清らかな滝を、一緒に眺めた。

  不思議な石を、一緒に見つめた。

  「良いなあ。あれも、これも、どれも素敵だなあ。」

  「ボエさん、ずっと感動してますね。私もですけど。」

  「ずうっと、見たかったんだ。こんな景色。森の外にはどんな世界が広がっているんだろうって、憧れていたの。」

  「…森の外に出たこと、ないんですか?」

  「うん。だってボクが他所の地に現れてしまったら、きっと悲鳴だらけになってしまうよ。捕えられるかもしれない。森の中でさえ嫌われていたから、できるだけ見つからないように過ごしていたんだ……。」

  「ボエさん……。」

  ムーさんの顔が、暗くなる。

  色なき風が、ボクを叱りつける。

  「ごめんなさい、暗い話しちゃって…」

  「いいえ。聞きたいです。聞かせてください。

  貴方は…そんなお辛い思いをして、どうして生きてこられたんですか。」

  真っ黒な夜空にいわし雲がどさっと押しかけて、何かが起こりそうな空気。

  恐ろしくて、苦しくて、その中に、僅かに1粒、希望の光を求めているような。

  いつも動じないムーさんの、眩しい笑顔で振り向いてくれるムーさんの、時々苦しそうな、その正体に迫るような。

  「……ボクは、いつも夢を見て生きてきたんだ。

  小さな蕾、風の音、揺れる葉っぱに滴る光。とりどりの季節の声に浸って、もっと素敵な世界を想像して…。

  生きているのが嫌にならないように、妄想ばかりしていたの。…自分でも気持ち悪いかなって思うんだけれど。」

  現実逃避ばかり。

  「でもね、ボクは今、ムーさんのおかげでとっても幸せ。それに…」

  ムーさんの隣は、とっても居心地が良いけれど。

  ボクの現実はここじゃない。

  「それに……」

  ムーさんにも、きっとここじゃない現実がある。

  きっとボクなんかよりも大切な。

  「…もしもムーさんとお別れするときが来ても、ボクはムーさんのおかげでもっと強く生きられる気がするの。」

  何を言っていいか、わからないけれど。

  「少しね、本当に旅に出てみたいなって…思うんだ。

  ボクの元いた世界はきっと甘くないけれど、誰に何を言われるかわからないけれど、何が起こるかわからないけれど。

  それでも、1歩踏み出してみたい。ムーさんみたいな希望の光が、何処かにいるかもしれないから。」

  ボクにできるのは、素直に気持ちを伝えることだけ。

  「ムーさんのおかげで、生きていてもいいんだって、思えたんだよ。」

  ……

  ……

  ……

  少しの、けれどボクの心には随分と長い、静寂が流れた。

  暗くって、暗すぎて、ムーさんの表情はよく見えない。

  「…ありがとうございます。」

  それは感謝の言葉なのに、今までのどの言葉よりも弱々しい声だった。

  今まさに最後の葉が落ちてしまう枯れ木のような、決定的な声。

  ボク、何かいけないことを言ってしまったのかもしれない。

  どうにかしなくちゃ、けれど、どうしよう、どうしよう。ボクが行動に出る前に。

  ムーさんは、小さく口を開いた。

  「この世界は……」

  ……

  ……

  ……

  「すみません、ボエさん……。」

  この世界は……、それに続く言葉は出てこなかった。

  「どうして謝るの?」

  「それは…その……」

  ……

  ……

  ……

  その静寂に風の音が強く流れ始めた。

  ずっと真っ黒な空模様、風も強くなっちゃ敵わない。けれどムーさんの声が聞き取れないわけじゃない。ムーさんは喋っていない。

  この世界…

  そうだ、ムーさんは最初からこの世界に詳しいみたいだった。

  「…ムーさんはこの世界について、何か知っているの?」

  …ムーさんは俯いて、返事は無かった。

  悪いことを聞いてしまったかな。

  「…ごめんなさい」

  「謝らないで。」

  ムーさんはいつもと同じようにそう言うけれど、俯いたまま。

  きっと何かを言いたがっている。けれど、言えないこともあるのかもしれない。天使なわけだし、それに、女の子は繊細なんだって、聞いたことがあるし。

  言われたくないことも沢山言われてきたボクは、誰の心にも触れて来なかったボクは、きっと察しが悪い。けれど、でも。

  「…ボクになら、何を言ったって大丈夫だよ。」

  ……。

  「ボクったら何言っているんだろうね!?」

  「ふふ、もう、落ち着いてください。」

  …顔を上げてくれた。

  これはたぶん、苦笑い。

  [newpage]

  次の日は、雪が降ってきた。

  …あれ?今日ってこの世界に入って、何日目だったっけ……?

  なんだか季節がわからなくなってきた。ずっと夜だし、植物も当てにならない、不思議な世界だから…そっか、不思議な世界だもの。雪が降っても冬とは限らないかもしれない。

  今日は草地にムーさんがいた。

  雪に濡れるのは平気みたい。急に吹雪いたりしないかな……その時は何が何でも守らなくちゃ。

  …ちょっぴり図々しい気持ちはさて置いて。

  ムーさんは落ち着いた様子だから、昨日の話はもう気にしないことにしよう。

  今ボクにできることは、一緒に楽しく過ごすことだけ。

  「雪って、いいよね。」

  「いいですよね。」

  そう、うっとりしちゃう。

  「ゆらりゆらりと舞い降りて」

  妖精みたいに。

  「真っ白に積もり積もって」

  天使みたいに。

  「そう、純白に埋め尽くされた森は、とっても…」

  ハッ

  「あはは、ボクったら妄想で盛り上がっちゃって……。」

  「いいじゃないですか。」

  「でも実際はね、ボクが歩くとすんごく汚れちゃうから、歩きたくなくなっちゃうよ。

  …せっかく美しいのに。」

  「でも、重たいんです。」

  「そうそう、以外と重たいんだよね。」

  「少し、怖いんです。」

  「雪崩は怖いね。」

  ……。

  あれ?何だろうこの空気。

  雪の日の澄んだ空気とは、まるで違うような気がしてきた。

  徐に俯いたムーさんの吐息は、美麗に舞い上がる。

  「……私、怖いことがあるんです。」

  「怖い…?」

  雪の話…?いや…この感じは……

  昨日の話と、関係があるのかな…。

  「…ごめんなさい、何でも……

  なく、は、

  ない…

  ですけど……」

  ふるふる、ぶるぶる。

  吐息がこんがらかっていく。

  …どうしても言えないんだ。

  「なにか事情があるんだね。」

  何を言ったらいいんだろう。ずっとひとりでいた、ボクは、何もわからない…けれど。

  「…ボクはムーさんの力になりたい。ボクにできることがあれば、頼ってほしい。」

  「…ほら、こんな怪物だけれど…だからね、力だけは強いからね。怖いものなんてないよ。」

  何なら言える、何ならできる、無骨な頭を必死に回して、毒色の口から滑り出た言葉。

  「ボクが傍にいるから」

  あれ、今ボクとんでもなく図々しいこと言った。

  ムーさんがどんなに優しくたって、怪物は怪物らしく……

  そうだよ、所詮は怪物なんだから…

  あれ……?

  ムーさんはずっとこの世界で…怯えていて…言えないことがあるわけで……

  「もしかして怖いのってボクのこと…」

  「…違いますよ。」

  ムーさんは顔を上げて、ボクの顔を見て言ってくれた。

  落ち込んでいるのに。何かに怯えているのに。

  「もう、今さら何言ってるんですか。自信持ってください。貴方はとっても…お優しいんだから……」

  今、たぶん、笑おうとしたけれど、すぐに暗くなった。

  ごめんなさい。ボクのことを褒めている場合ではない筈なのに。

  ボクって無力だ。

  次の目覚めは大雨だった。

  なんだかひどく虚しいや。

  心に抱いた蟠りを、天から投げ捨てられているみたい。

  ムーさんはどうしているかな。

  雨の日はムーさんを見たことがないけれど。

  本当に雨を凌いでいるのかな。

  探しに行ってみようかな。

  だって、こんなやるせない空の下。

  あの子が辛い思いをしていたら、怖い思いをしていたら。

  怖い……?

  この世界……雪……怖い……

  もしかして、怖いことって、このことだったのかもしれない。

  この世界に詳しいムーさんは…例えばこの世界を抜け出す方法だとか、何か秘密を抱えて、ひとりで戦っているのかもしれない。

  もしも、もしも、

  彼女がびしょ濡れになって震えていたら…

  荒れ狂う風に飛ばされて怪我を負っていたら…

  …行かなくちゃ!!!

  余計なお世話かもしれないけれど、

  考えすぎかもしれないけれど、

  彼女の震え戦く声が、胸を突き刺して止まないから!!

  ドスドス、ドタドタ。グッチャグチャ。

  喧しいボクの息切れも、かき消すような大雨の中。

  あちこち探し回った。

  その末に、最後に向かった。

  そこにいるとは思わなかった。

  ムーさんは、あの草地に、あの岩に座っていた。

  [newpage]

  ……どうして。

  「ムーさん!どうしたの!?」

  「…ボエさん

  ……どうしてここに?」

  ムーさんこそ、こんな冷える日に、全身びしょ濡れで、どうしてそこに。

  「だって…ひとりで何か抱え込んでいるなら、やっぱり教えてほしいよ!ボクも貴女の支えになりたい!!」

  ウルウルと煌めくムーさんの瞳は、雨に濡れっぱなしだけれど、それよりも涙に濡れているような気がして。

  「とりあえず、大きな葉っぱでも持ってくるから…」

  ムーさんは、水を切るように首を振った。

  「…このままで居させてください。」

  一体どうして。ボクは、見つめることしかできないの?

  「…私、貴方に謝らなくてはいけないことがあるんです。」

  突風が吹き荒れて、けれどムーさんがくっきり見えた。

  真っ直ぐな眼差しだった。

  もう、大雨ですら気にならない。

  ボクは、隣の岩に座った。

  彼女の天使の輪がいつの間にか紫色に染まっている。灰被りのそれが、ボクに迷いを訴える。

  そしてムーさんが、口を開いた。

  「実はこの世界は、私のつくった世界なんです。」

  ムーさんの…つくった世界?

  「私は天使として不完全なあまりに、どうしてもルールを守ることができず…

  苦しくて、苦しくて、

  もう働くことができなくて、

  このままでは堕天してしまいそうで…

  苦し紛れにつくったこの世界に逃げ込み、閉じこもっているんです。

  逃げ込むときに、貴方を見つけて…。今ひとりになったら、私の心は本当に終わってしまう。そう思って、咄嗟に、貴方をこの世界に巻き込んでしまったんです。」

  「だから、私が貴方に縋ってるだけなんです。本当は、貴方がこの世界から出られないわけじゃないのに。

  …本当にごめんなさい、ボエさん。」

  「…いいよ。

  ボクは…ボクは、ムーさんの支えになれていたなら、とっても嬉しい。

  ボクはムーさんに、この世界に、すっごく感謝してる。今とっても幸せだもの、怒る理由なんて何も無いよ。」

  「…やっぱり、天使失格なんです。」

  「…どういうこと?」

  ぽつり。

  ぽつり。

  涙が、零れる。

  「天使には、天上の時を過ごした亡者様を来世へとご案内する務めがあります。

  亡者様の最期のお話を聞き、

  記憶を完全に消し去り、

  心をも消し去り、

  未練の無くなった魂を、来世へと送り出さねばなりません。」

  「でも…私にはそれができない。情が沸いてしまうんです。」

  情…ボクにいっぱい与えてくれた、温情。

  「話を聞けば気になってしまう。つい盛り上がってしまう。一緒に笑って、怒って、泣いてしまう。亡者様の大切な生前のこと、私がこっそり消してしまうなんて、そんな残酷なことできないって、思ってしまうんです。

  目の前には、私にいっぱい生前のこと語って、私の同情で、きっと未練が増してしまった亡者様が、

  なんの疑いもない顔で私を見つめているんですよ……。」

  そんな苦しみにもがいていたんだ。ボクには到底想像のつかない苦しみを隠して、笑っていたんだ。

  「天使は、いつも笑顔でいなければならないんです。

  それなのに、亡者様の前で泣いてしまうんです。

  同情なんて、してはいけないのに。してしまうんです。

  私は天使なんてガラじゃない。

  作り物の笑顔は向けられない。

  …ダメダメの、天の不良品なんです。」

  「…ムーさんはダメダメじゃない。不良品なわけないよ。」

  「……。」

  いくらでも言いたいけれど、たぶん今は、そうじゃなくて。

  「…天使のお仕事は、嫌?」

  「…嫌じゃありません。亡者様と過ごす最期の時間は、何より温かいんです。それに、分かってはいるんです。どんなに残酷でも、大切な務めだと……。」

  「…もしもね、ボクが天に昇れたのなら。ムーさんみたいな天使に、迎え入れてほしいんだ。」

  「ボエさん……?」

  「ムーさんは素敵な天使だもの。ボクには天の事情はよくわからないけれど。心優しいそのままのムーさんが、1番良いと思う。

  だって、笑っていなくたって、嬉しかった。同情だって、幸せだった。

  ボクは、生きたくなった。」

  「ボエさんったら…本当に貴方は…もう……っ」

  ムーさんは喜怒哀楽が全部混ざったような顔で。

  「…それじゃダメなんです!!!」

  飛び去ってしまった。

  「待って、違う…」

  ボクやらかした。絶対に間違えた。無責任だ。

  きっと伝わっていないんだ。そうじゃないんだ。

  追いかけなくちゃ。

  絶対に今、言い直さなくちゃ。

  [newpage]

  乱れてもふらついても、美しく舞う天使に。

  愚かなボクが突き放してしまった、大切なムーさんに。

  走っても走っても、追いつけないけれど。

  ドスドス転げ回る怪物でいい。

  ドタドタ転げ落ちる怪物でいい。

  冷えきった陽の光が熱く胸を刺しても、

  たとえこの身が焼かれても!!!

  ボクは今、彼女の傍に行きたい。

  そしてあの太陽を、天に帰したい。

  いつからだろう。空はもうぐちゃぐちゃで、月が出ては曇って、雨が降り始めたと思えば雷が鳴って、雪が降ってはまた雨が降る。

  雨粒の1つに、彼女の温かさを感じた。

  「…雪解雨みたいなんだ。」

  やっと追いついた。

  喧しいボクの息切れも、もうどうだっていい。

  「…なんですか、それ。」

  「ムーさんの優しさが、みんな温かく解かしてくれた。嫌だったことも、嫌だった自分も。

  ムーさんのおかげで、もっと前向きに生きてみたいって思えたの。生きたいって、未練じゃないよ。新しい1歩を踏み出す勇気をもらったんだ。

  だからきっと、大丈夫。亡者さんたちも、ムーさんにお見送りされるのが幸せだと思う。何より温かい時間を、最期にもらえるんだもの。」

  「ボエさん……。」

  月に照らされる彼女の瞳が、少しづつ光を取り戻して、真っ直ぐにボクの方を向いてくれる。

  「できるよ。ムーさんなら。

  貴女の迎えを待っている、誰かがいるでしょ。」

  「…ありがとうございます。」

  天使の輪が金色に戻ってゆく。眩しい光がキラっと弾ける。

  「…はあ、貴方があんまりピュアだから、ほだされちゃいました。

  でも、天使としては許されないかもしれません……。」

  天使って難しい。

  労る目を見せては罪なのか。

  眩しい顔を絶やせば闇なのか。

  ねえ神様、そうなの?

  そんなわけない。

  暗い日だって太陽だ。

  それは絶対、確かなんだ。

  「…ボクには天の事情はよくわからないけれど。

  どうしても無理に笑っていなくちゃいけないのなら、神様がそう言うのなら……

  ボクが罰を受けたっていい!

  ボクが地に落とされたっていい!!

  だから…ボクのせいにしてよ。」

  ボクが取れる責任は、それだけだ。

  「ボエさん、何を言って…」

  「だって元々ムーさんに出会えなければ、ろくでもない人生だったんだよ。

  ボクは堕ちがけの天使に恋した怪物…

  貴女を誑かした、悪魔みたいな怪物だ。」

  「ただひとり大切な貴女に、全て捧げても足りないくらい…愛の重たい怪物の、最後のワガママ。ね、お願い。」

  うわ、ボク気持ち悪い。

  「…誑かしたの、私じゃないですか。」

  「愚かな怪物は天使のご加護を受けた気になって、幸せいっぱいで旅に出るから!そんなことはいいの!!」

  「…ふふ、ふふふ。もう…もう!」

  ああ、これで見納めかな。眩しくて眩しくて、何よりも美しい。その笑顔。

  「…あー、もう、カッコつけちゃって。

  やっぱり最後まで素敵な怪物さんです。」

  「あはは、嬉しい!」

  ああ、いろんな顔してくれるなあ。ボクは本当に幸せ者だなあ。

  「…ボエさん、無理してません?」

  「え?無理なんてしてないよ、無理なんて…」

  ボクのだらしないギョロ目から、ツーっと伝っていくドロドロを、彼女は見逃さなかった。

  「 …嘘なんてつけないね。素直が1番だ。ちょっぴり寂しい。」

  けれど、ボクがこう言ってしまうと、やっぱり彼女は罪に思うみたい。

  「ボエさん…ごめんなさい。」

  「謝らないで!」

  「ボクは貴女と出会ってから、そしてこれからも、ずっと幸せだよ。

  本当に、本当にありがとう。ムーさん。」

  「…いいえ、こちらこそ。

  ありがとう。ボエさん。」

  そうしてボクは、天へと帰るムーさんを見送った。

  天から光が差して、ひらりと昇ってゆく彼女の姿。ああ、なんと言えばいいの、早天の空、優美に飛び立つは、フォーリンエンジェル…それは、とっても、とっても、とっっても、美しかった。当分忘れられないや。今この時間に浴びた光は、当分絶えないや。

  [newpage]

  気がついたら、ボクは元いた世界に立っていました。不思議な長い夜は、とうとう明けてしまったようです。

  ここは森の出口、開けた草原が辺り一面に。

  ボクは相変わらず不格好な背にいっぱいの朝焼けを浴びて、旅の1歩を踏み出しました。

  この先何が起こっても構わない。

  なんと言われても戻らない。

  前向きに生きていこう、そう心に誓ったんだ。

  いつかまた、あの子に会えるように。

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