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くすんだ灰色、寒空の下。吐く息は白く手はかじかむ。白衣が無かったらこの部屋で活動するにも厳しかっただろうな。
ガスバーナーでビーカーを炙り沸騰したら持ち込んだインスタントコーヒーを投入。前に資料の砂利を入れた時は吐き出して天日で乾燥させたっけ。
「今日は何しようとしたんだっけ。標本の整理も粗方終わったし器具の整備も問題ないし」
入り口、窓際の机と仮眠スペース。この三点はよく使うから片付いている、逆説的にそれ以外の場所は荒れ放題だ。しかし、支障は無い。
「体育の授業で持久走とは何のためにやるのだか……疲れたし少し眠ろうか、家に帰ったからといって何もないし」
重い通学鞄を机の側に置き、仮眠スペースに身体を横たえる。いつ洗濯したかわからないけれど僕が科学部室を使うようになってから持ち込んだものだしそう支障は無いだろう。胸の上に白衣を掛けて温もれば仮眠の準備完了と。
来客の少なくなった科学部に顔を出す物好きはもう居ない。
***
締め切った部屋の中、カーテンを開けると“光”が忍び込んで被毛を灼く。母屋に降りるといつ崩れるか分からない本と標本が雑然と積まれているから不用意に近づかない方がいいって祖父に言われてこの小屋に居る。……きっとそれ以外にも理由があるのだろうが食糧と研究に使う資料があれば特に困らない。
小学生の間に学ぶ事なんてたかが知れていて既に学んでいるのなら毎日学校に行くのは徒労。必要なものはなんでも通販頼みに集積すれば事足りる。
なぜ研究するかなんて、あのいそいそと研究し続ける両親の背を見て、そんなに楽しい物があるのかと手を伸ばした結果だろうか。
「熱量と水分、タンパク質と無機分を規定値摂取。次に蔵書から鉱物を調査しようか__これって」
活動量と生育段階から導いた量の栄養を摂り、壁にずらり並んだ背表紙を追い見つけた分野。今の背丈じゃ見え辛く気付いていなかっただろう、ほんの少し高い位置の『生物』はまだ紙も白く気になる。僕が全く知らないなら敢えて学校も両親も隠していたという事。
そこまで行きついた思考に手を伸ばして空を切る未熟な手。どうにか引きずり出して長く大きな尻尾に振り回され、強かに尻を打つ。
「なにか大きな音がしたけど、何があった」
「本が倒れただけで何も。怪我も無いよおじいちゃん」
扉を押しやり入ってくる祖父。大型種だけあってすらり背の高い、ハンチング帽を載せた顔をこちらに見せる。
「ならいいが。私もここに本を取りに来ていて、幾つか持ち出すから」
靴を脱ぎ上がるおじいちゃんは、毛足の長い灰色の被毛を襟付きシャツで覆いループタイで胸毛を抑え込んでいる。
「私も毎日ここに通えればいいがそうもいかなくてな。全くあいつらも研究で忙しいからって……」
「いいんだ、僕も研究楽しいし。必要以外は面倒だから」
甘える必要もないし、理解してもらう必要も無い。小学校生活三年目にして気付いた真理、理解者は探しても見つからないという事。
「あとは『生物』の本だけれど、もしかして無くしたのか隠れているのか。__もうこんな時間か、また探しに来るから私はお暇するよ」
大きな尻尾の下に隠れた『生物』の本、きっとこの事だろうけどおじいちゃんも僕に隠そうとしているなら読みは正しいだろうな。
一人残された小屋の中。立派な本棚とそれから溢れて生まれた本の塚、その他の家具は簡素にテレビも無い。調査用の顕微鏡や祖父に買ってもらった望遠鏡が今も僕を見ている気がする。
職場で毎日着るからって部屋の片隅に掛けられた白衣を見て、『生物』の本を片手に立ち上がり、袖を通すとほんのり薬品のニオイが残っている。当然、裾が余って床を撫でるが研究者の正装に対する憧れはそう消えるものではない。
『生物』の本をものが散乱した机に置いて、開けば泡と湧き出す知らない単語に種族差に関する説明と図表。面白い。イヌ科とネコ科が多いと前から思っていたけれど、それは淘汰によるもの。アルビノに混血種、意図的に交配する事で特性を掛け合わせる……か。
「これって前の学年に居た子もそれに該当するって事だよね」
ラバの、一際体が大きく教室の隅でじっとしていた子。学校では教えていないのは他にタブーがあるのか。
「『混血種は過度に身体が大きくなり寿命が著しく短くなるほか、生殖能力を持たないと報告されている』__これは母のメモだから、道理で」
純血の狼に生まれた僕が未就学期に喜ばれていた理由、そして資料としての価値がない事に祖父が隠そうとした理由。一本の線で繋がった。
「あれ…?」
視界が回る、惑う。からだが熱く辛い。数年前プールで溺れた時に似た感覚。意識はそこで途絶えた。
後に、祖父に起こされ軽い過労と言われたけれど両親は居なかった。
その数日後の夕方、鉱物の採掘に山をぶらぶらと歩いていると寝虎に出会って。はみ出し者が僕だけじゃなかった事を知って、玲音さんという協力者にも恵まれた。何かに理由をつけて秘密基地に呼んで遊ぶ日々は今までの暮らしにも色があった事を教えてくれた。
鷲己に声を掛けたのも偶然じゃない、どんな人か観察してから話しかけたし誰かも傷つけたくないし僕も傷つきたくはない。だから調べるんだ。
それが寝虎も鷲己も各々の途を歩き、僕から遠ざかっている。腐れ縁として祝ってやりたいのに僕はわがままで未熟で、調査が足りていない証なんだろう。
そんな僕が誰よりも嫌いだ。
***
「……!」
誰かに揺らされている?腐れ縁たちはもうこの部室に用は無いだろう。だとすれば誰だ。
「大丈夫か」
キラキラ輝くそれは金属片と艶やかな鬣。花火みたいだけど僕の知ってる人にそんな人は居ない。
「誰」
「あぁ、ごめん。今日から科学部に入部します、紅月煌星です。うなされてたから勝手に上がり込んで揺さぶっていたんだ」
あかつき……寝虎が煌星先輩って呼んでいた馬の先輩か。そういえば新入部員が来るって寝虎が言っていた。
「すみません、僕も忘れていて。よろしくお願いします、紅月先輩」
「そんな、かしこまらないで。ボクの方が科学部の所属歴は短いし、どうしてもなら煌星先輩で」
軽音楽部の先輩が何故こんな幽霊部員ばかりの、普段は僕みたいな陰気な下級生しか居ない科学部を好んでまで入部したのだろう。
「どうしてボクがこの部活にって質問なら、知的好奇心と答えておくね。いろいろ余裕なくて実験操作も標本観察も出来なかったから」
並べられた理由からは見た目と違って同類、なのか。鬣に隠れた目を見る限り他にも理由がありそうだけれども拒む理由もまた、無い。
「うなされていたのは何があったんだ」
「それは……」
この前のウチアゲで見ただけの初対面に近い相手に話す事は。いくら寝虎に近い先輩だからといって胸の内、抱えてきた過去を明かすわけにはいかない。
なのに気力を失った目の奥がだんだん熱く、痛くなる。視界が急にぼやけて焦点を合わせていない望遠鏡を覗いた時のように像が崩れる。これは止まらない、涙か。
「言わなくても良い、ボクには弟がいてさ。今は泣いても良いから、落ち着くまでこのままで居よう」
厚い胸板に顔を埋め、声を殺して流れる涙は僕でも理解できない。人肌に暖まった白衣は今も傍に居た。
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