人の世の終焉から竜の世の幕開けへ

  私のお母さんが熱を出した。本人は『なんともない』と言っていたけど、心配性のお父さんは『寝ておけ』と言って強引に寝室へと押し込んでいた。

  リビングにあるテレビでやっている報道番組では、パンデミックが発生したとか言っている。全国で一斉に熱を出した人が現れたのだとか。ただし、熱を出したのは女性ばかり。男性は例外なく無症状という、奇妙なものらしかった。

  お母さんが寝室に引っ込んで少ししてから、娘の私も例にもれず熱が出たので、二階にある私の部屋で寝ることになったのだった。

  最初のうちは、普通の風邪にかかったときと同じ程度の熱だったけど、部屋にこもってからはぐんぐん熱が上がっていって、夜半前(午後十時ごろ)になると四十度以上という危険な域に達した。

  そんな熱の高さとはうらはらに、熱っぽさも苦しさも気だるさも無い。体の異常をまったく感じないので深刻にはとらえられず、普通にぐっすりと寝ることができてしまった。

  夜が明けて、いつもの時間きっかりに目が覚める。体調は普段と変わりない、どころかとても調子が良い。全身が力で満ちているし、頭はハッキリ冴えているし、空だって飛べそうなほどに体が軽い。お腹がスッカラカンなこと以外は元気いっぱいだ。

  それでもいちおう電子体温計で体温を測ってみると、すぐにエラーが出て測ることができなかった。測りなおしてみても、やはり結果は変わらない。

  昨日まではちゃんと動いていたのに、壊れてしまったらしい。小さい頃から使ってきた体温計がとうとう壊れてしまったのは残念だけど、しかたないことだと思って割り切ることにした。

  扉がひかえめに二度ノックされると、私の返事を待たずに誰かが入ってくる。私のお母さんだった。お母さんも回復したようで元気そうだ。

  だがしかし、その誰よりも見てきた顔が、記憶にあるものから不気味に変わっていて息を呑んだ。

  額や頬など、顔の半分近くに赤くてこまかい何かが張りついている。

  私を優しげに見つめてくるその目は真っ赤に染まっていて、瞳孔が爬虫類系の縦割れになっている。

  端が大きく裂けている口の周りには赤い液体がべっとりとついていて、服のえりと胸も赤く濡れている。そして血のにおいが鼻を突いた。

  「おはよう。体調はどう?」

  普段と違うお母さんが、普段と変わらない調子で呼びかけてくる。

  早鐘を打つ胸をそっとおさえつつ、その人外顔をまじまじと見ていると、お母さんは首を傾げてきた。

  「どうしたの? 私の顔、なにか変な物でもついてる?」

  そして、異様に長い舌で口周りを拭いながら問うてくる。

  『変なのはあんたの顔です』なんて本音は出せず、黙っていることしかできない。

  特殊メイクでドッキリ、いや違う、そんなことをする理由がない、さすがに突拍子がなさすぎる、細部の質感と挙動が生々しすぎる、五感が現在進行系かつリアルすぎる。

  このままではいけない。まるでまとまらない考えを丸めて投げ捨てて頭をからっぽにしたら、飛び出すようにして部屋から出る。お母さんが困惑した感じで呼び止めてきても構わず、誰かを、そう、お父さんを探しに廊下を駆ける。今の時間なら一階のリビングにいるはずだ。

  滑るように階段を駆け降りる。すぐに目的のリビング前まで来たら、勢いよく扉を開けて部屋へ飛び入る。

  そして目に飛び込んでくるのが、壁には血が飛び散っていて、床には致死量であろう血だまりが広がっている、ベタなホラーものに出てきそうな惨状の部屋である。

  部屋に充満したこの血臭と死臭は、まぎれもなく本物だと感じる。一瞬で体が凍りついて、嫌な汗が全身から噴き出す。ひくっとのどが絞まって悲鳴をあげることすらできない。

  さらに調理台に乗せられている大きなものが目に入ると、完全に息が止まる。

  それは首周りがぐちゃぐちゃにえぐられているお父さんの死体だった。血だまりの源はこれだったのだ。

  心臓が渾身の蹴り上げでも受けたかのように跳ね上がる。右を見る。左を見る。何がどうなっているのかサッパリわからないがとにかく異常だ、ここに留まっているとヤバい。

  差し迫った命の危機を感じたので即刻リビングを出て玄関に行き、靴をはき損ねて靴下のまま家の外へと駆け出す。が、外に飛び出してみて早々に、家の中以上の異常さに阻まれてしまって立ち往生した。

  いきなり逃げ道に困ってしまい、その場を右往左往することしかできない。

  閑静な住宅街であるはずの町のあちこちから、不気味なうなり声やらほえ声やらが響いてくる。以前家族で行った動物園の喧騒を思い出す。そんな音に混じって、ときどき悲鳴や断末魔の叫びがかすかに届いてくる。

  通行人が駆け足で目の前を通り過ぎていく。その人もお母さんみたいに、顔や手が緑色の何かに覆われている異形になっていて、肉、肉と、うわごとのようにつぶやいていた。あんな生き物、見たことがない。

  向かいにある公園では、服の断片をまとう人間の倍はありそうな黒い四足獣が、倒れた人を頭から喰らおうとしている。そこへボロ切れみたいな服をまとう長身の黒い二足獣が、奇声をあげながら飛びかかっていた。あんな生き物、見たことがない。

  ふと影が差したので空を仰ぐと、背中にコウモリのような形の翼があるナニカが空を飛んでいくのが見える。ソレに捕まってぐったりしている人から流される血が、私の顔にぱっとかかった。あんな生き物、見たことがあってたまるかバカヤロウ。

  バカヤロウ。

  右も左もどこを見ても、わけのわからない怪物しかいない。まともな人間は、死体以外にはどこにも居なかった。

  「ちょっと! 急に出て行ってどうしたの?」

  悪夢そのものの光景におののいていると、はだしで駆けてきたお母さんが追いついてきた。

  私よりも背が低かったはずの人を軽く見上げて、間近からその顔を見る。顔にたくさんついている赤いものは鱗だったようだ。

  端が裂けた口からは、尖った歯が何本も見えた。

  「昨日は寝込んでたっていうのに、そんな動いてたらだめでしょ。さ、ご飯の時間だから行くわよ」

  人間とは異なる造りの眼からは、さっきから表情がほとんど変わらないことと相まって、どんな感情を抱いているのかを読み取ることができない。そのはずなのに、たしなめてくる声には親しみがあって、やっぱり思いを推しはかることができて、頭がこんがらがってくる。

  お母さんは私の二の腕をむんずとつかむと、家に戻るべく歩き出した。

  手のほとんどが鱗で覆われていて、爪の形が獣のようなカギ状のものになっている。怪物的な手からはものすごい握力を感じるので、振り払おうとすると骨をへし折られそうだ。引っ張ってくる力も、まるで車のような重量物にでも引かれているかのようで、少しも抗うことができそうになかった。

  そういえばご飯の時間と聞いて、確認しておかなければならなかったことを思いだす。

  お父さんが家のリビングで惨殺されていたことについて、なんとか声のふるえを抑えながら尋ねてみると、お母さんは平然とした様子で答えてくれた。

  「お父さん? ……なにそれ? ……あ、もしかしてあの獲物のこと? すごくお腹が減ってたし、肉づきが良くておいしそうだったから、すぐにのどを食い破って仕留めたの。ご飯のためにとっておいたから、いっしょに食べましょ」

  舌なめずりしながらの語り調子からは、声色からは、お父さんに対する情念がまったく感じられないので、背筋に寒気が走った。

  長年連れ添ったはずの伴侶をみずから手にかけたようなのに、そもそもソレが自分の伴侶だったということを認識すらしていないらしいことが、今の受け答えから察せた。人間をただの肉、食肉用の家畜か何かとしか見ていないのか。

  誰よりも慣れ親しんだ人の形をしているのに、そして人間の形をしているのに、人間らしさがすっぽりと抜け落ちているようなのがとても不気味だった。

  お母さんに連行されるがまま家へ戻る。途中、リビングに入る前に放してくれた。とりあえず頭を整理するべく、『顔洗ってくる』とだけ言って、洗面所へと小走りで駆け込んだ。

  誰の目も耳もない個室に入ることができた。扉にもたれかかって、まずは落ち着く、頭を冷やす。

  鼻から大きく息を吸って口から深く吐くことを、たっぷり十セット繰り返す。お母さんから教わった腹式呼吸によって動悸と息切れが鎮まって、ようやく気持ちに余裕が出てきた。

  とりあえず身づくろいだ。いちおう寝起きなので、顔を洗うことにする。蛇口のレバーハンドルを持ち上げようとして、私の手が目に入る。

  手の甲に赤い鱗が張りついている。起きたときは無かった気がするのだけど。指先で触れてみると、硬くてザラザラしている。そして爪を立ててみても全然はがれない。

  顔を上げて鏡を見てみる。頬にも同じ色・形をした鱗があって、口には尖った歯ばかりが見える。

  鏡越しに立つ私の目は、お母さんと同じように真っ赤に染まって、瞳孔が縦に細く伸びている獣のようなものになっていた。

  お母さんほどではないけど、知らぬ間に人間離れしていた顔を見ると、『いつもと変わらないじゃないの』という考えが第一に浮かぶ。

  お母さんのことも外でのことも私のこともあたりまえのことだったのだ、などと受け入れてしまいそうになったけど、すんでのところで人外へと傾ききりかけていた自分を連れ戻せた。

  もう一度深呼吸する。異常なのはお母さんだけではない、私もそうだったのだ。現実を認めて気をしっかり持つ。

  物音ひとつ無い狭い部屋で耳をすませてみると、謎の異音が私の体のあちこちから聞こえてくる。手をもう一度じっくりと観察してみれば、新しい鱗がゆっくりと生えてきて、少しずつ面積を増やしていることがわかった。

  私の体の変異は進行している。そして、それを止める方法はわからない。

  どうにもならない現実に直面して、持ち直したはずの気がさっそくへし折れそうになったので、あわてて頬を両手で打った。

  ここでうだうだ悩んでばかりいては何も解決しない。この閉塞感を打破するための何かを見つけるには、なんでもいいから行動しなければ。まずは、あのお母さんと向き合うべきだろう。何か新しいことがわかるかもしれない。

  いやに冷たく感じる水を顔に浴びせて気合を入れたら、覚悟を決めてリビングへと戻ることにした。

  私の家族が団らんに使ってきたリビングは、相変わらずの血みどろである。昨日までの私だったら、最初にこの部屋を目撃した時点で卒倒していそうなものだったけど、不幸中の幸いというか、知らぬ間に強い耐性を得ていたようだ。

  血や死体を直視してもほとんど嫌悪を感じないので、正気を保っていられる。今ならどんなホラー映画でも、眉一つ動かすことなく観ることができるだろう。

  それのどこが正気なのかなお姉さん、と、つっこみを入れたいところではあるけど。これも人間から離れつつあることの影響なのだろうか。

  猟奇殺人事件の現場みたいな部屋で、お母さんが調理台に向かっている。私が部屋に入ってからすぐ、なにかに驚いたのか肩をビクッと跳ねさせて、あわてたような素振りで振り向いてきた。

  私のほうが十倍は驚かされる。お母さんの顔が短い時間のうちに変わり果てていたから。

  頭髪以外の顔が、首が、目に見える人肌がすべて鱗に入れ替わっている。

  鼻がつぶれていて、大きな鼻の穴だけが残る。

  ヒレのような形になっている耳まで口が裂けきっている。

  おもちゃ屋で売っている怪物の面でもつけているかのようだ。どうやっても人間には見えない。

  「グゥゥ……お腹が減ったから、ついつまみ食いしちゃった。すぐご飯を出すからね」

  お母さんは獣のようにのどを鳴らしながら、恥ずかしそうな声で何か言ってくる。短い時間で急に変異が進んだお母さんのことで頭がいっぱいになってしまって、その言葉は右から左へと通り過ぎていった。

  しばらく放心状態になってしまったけど、“ご飯”をテーブルの上に並べ終えたお母さんが肩をゆすってきたところで我に返った。

  「グァウ、だいじょうぶ?」

  そばに立っていたお母さんが心配そうな声で呼びかけてくると、新しい顔を近くに寄せてきた。

  鱗で覆われつくした顔には、もう人間のような表情は無い。

  まぶたの動きかたに違和感があって、まばたきをするごとに瞬膜が横に動いている。

  口が耳まで裂けているのは頬肉が無くなったからのようで、少し開いている口は、ずらりと並ぶ血濡れの牙がすべてむき出しになっていた。総毛が立つ。

  お母さんは手を伸ばして私の額に触れて、熱を測ろうとしてくる。その手も鱗で完全に覆われていて、かぎ状になっていた爪が長く伸びて刃物みたいになっている。額に当てられる鱗の感触がザラザラしていて気持ち悪い。

  突き飛ばしたくなる衝動を気合で抑えて、今生で最高の出来栄えの愛想笑いをする。少し考え事をしていただけだと言って、大きくなったお母さんの手を軽く除ける。

  「そう、ならいいけど。グルル、あんた体はあまり強くないんだから、無理はしないようにね。クゥ……お腹減ったわ」

  お母さんはとりあえず納得してくれたのか、かちかちと爪が床に当たる足音をたてながら離れていった。

  その後ろ姿を少しの間だけ見送る。お尻の谷間辺りがこんもりと盛り上がって、何かが左右にうごめいているのが気になった。

  お母さんはなんとかやり過ごせたので、次にテーブルに並べられた“ご飯”のほうへと注意を向けると、顔が一気に引きつった。

  小さい頃から使ってきた丸皿に、結婚指輪がはまったお父さんの左腕が盛られている。腕の方がずっと長いので皿にはまったく収まっていなくて、おまけに傷口から血が垂れてテーブルを汚していくので、食器が食器の役目を果たせていない。

  マグカップには真っ赤な液体が半分ほど注がれている。鉄臭さ全開のにおいから察するに、恐らくお父さんの血だ。

  あんまり過ぎるごちそうに、思わず『最高』と皮肉を吐いてしまった。

  全力で目を背けたくなる食卓なのだけど、なぜか目をそらせない。皿の上に乗っているものから目を離したくても離せない。そしてお腹が盛大に鳴るとともに、軽く意識を持っていかれそうなほどの猛烈な飢えが私を襲った。

  体のふるえが止まらない。息づかいが全力疾走した犬みたいに荒くなり、口がだらしなく開けっぱなしになる。目の前にある血と肉が至高のごちそうに見えてくる。これらを食べたくて食べたくてたまらない。本能に突き動かされるがまま、お父さんの一部に食いつこうとする。

  だがしかし、私の理性が待ったをかけた。コレの味を知ってしまったら“二度と戻れなくなる”と直感した。

  小刻みにふるえる手で口を押さえながら、やけに軽く感じるお父さんの腕をそろりと皿に戻す。ぎゅっと下唇を噛み、こむら返りを起こさんばかりに全身をこわばらせて、人肉への渇望に耐える。

  それから、どれくらい経っただろうか。グチャッグチャッと何かを咀しゃくするような、いや、食いちぎるかのような気色悪い音を聞き取ったことで、ようやく我に返った。

  音がしてきた方を見てみると、お母さんが調理台に転がされているお父さんの死体に覆いかぶさって、獣みたいに口だけを使ってむさぼり喰っていた。

  髪の毛が生え際のほうからハラハラと落ちていく。そこから現れる地肌は、当然のように鱗で覆われている。

  全身の筋肉がふくれ上がって、体全体がむくむくと大きくなっていく。肥大化する体に耐えられなくなった服が張り裂けていく。服の下にあるものは鱗ばかりで人肌は見当たらない。

  くぐもった音をたてて背骨が一斉に盛り上がる。その背骨に沿って、一列に並ぶトゲが生えていく。背骨の先からは、足と同じくらいの長さの太い尻尾がズボンを破って飛び出した。

  『マジかよ』という言葉がひとりでにこぼれる。お母さんが、みるみるうちに人外の怪物へと変わっていく。

  あの“食事”を止めるべきではないかと思うけど、一心不乱に人間を、自分の伴侶だったはずの人をあたりまえのように喰らう姿が怖すぎるので、とても手を出せない。

  いつのまにかテレビのリモコンを手に取っていたので、とりあえず電源を入れて現実逃避に走っておく。

  テレビでやっている番組は、戦争報道だった。

  恐怖に歪んだ顔をしている男性レポーターが、『女性がみんな怪物に変わって人を食べている』と叫んで、カメラマンはその惨事を映している。撮ってないで逃げろよ、と言うのは野暮か。プロの鑑だ。

  身体が鱗で覆われていて、翼や尾といった人外の部品があったりなかったり、二足歩行だったり四足歩行だったりする大小様々な怪物たちが、駅前の街で逃げまどう男の人たちに襲いかかっていく。

  その怪物たちの大半は、まだ人肌が残っていたり、髪の毛が残っていたり、破れた女性ものの服を身にまとっていたりする。

  それは、この人間を襲う怪物たちが、元は人間であったということを如実に示していた。

  チャンネルを変えると、別の戦場が映る。皮膜の翼を持つ恐竜みたいな姿の怪物が、街の空を飛びまわって大暴れしている。

  武装している男の人たちが怪物に向けて銃を撃つけど、まったく通用していない。大砲やらミサイルやらの兵器を撃ち込んでも、怪物の鱗には傷一つつかない。

  戦車を叩き潰され、戦闘ヘリを体当たりで撃墜されたら、男の人たちが撤退しようとする。すると怪物は口から爆炎のような炎を吐き出して、男の人たちは一人残らず炎に飲み込まれる。

  そこで怖気ついたカメラマンが『もうだめだ、逃げるしかないんだぁ』と震え声で言うと、回れ右をして逃げ出した。

  他のチャンネルも同じようなものか、避難を呼びかけるものばかり。

  すばらしく絶望的な内容の番組しかやっていないのだけど、怪物たちが人間を襲う様子を見ていると、絶望どころか興奮してくる。

  あの“狩り”に参加して、人間を襲って喰らいたい。たくさん喰らって大きくなって強くなりたい。そんな残酷で血生臭いことを考えながら映像に釘づけになっていることを自覚してしまって、自己嫌悪感でひどく気持ち悪くなった。

  では、ネットのほうはどうだろうか。何か救いのある情報は手に入れられないか、誰かと連絡はとれないか。

  電話(スマートフォン)を使うことに思い至ってふところを探ってみるけど、どこにも無い。そういえば慌てて部屋から出てきたので、電話は置きっぱなしだったことに気づいた。もう頭を抱えたくなってくる。

  二階へ取りに行くか。しかし用意された“ご飯”を放っておいたまま部屋から出たりしたら、お母さんがどう出るかわからない。今はうかつに動けない。

  ため息を一つつき、横目で“食事”中のお母さんを見る。直立すれば天井に頭が届きそうなくらいの体格になっていて、バリッバリッと身の毛のよだつ音をたてながら、夢中になってお父さんの死体を喰っている。

  しばらく目を離していた間に、変異は大きく進んでいたようだ。今は人間の形が崩れて、まったく別のナニカへと生まれ変わりつつあった。

  立派なトゲの背びれがある筋骨隆々とした上半身は極端すぎる撫で肩になっていって、背からは腕の付け根が見えなくなる。

  筋張った足は短く縮んで、代わりにかかとが長く伸びる、獣の後ろ足の形へと近づいていく。

  じわじわと長くなる太い尻尾は背丈に迫るほどになって、近くにある家具を重々しく打ちながらうねる。

  パッと見て、犬や猫といった動物のよう。そう、家の外やテレビで見た四つ足の怪物を思わせる体形だった。

  いや、いくらなんでも変わるのが速すぎるだろう。

  お母さんは最初から私よりも変異が進んでいたけど、明らかに今、目の前で起きている変化は早回しに過ぎる。

  私との違いは何だろうかと考えてみて、私の中にいるナニカが答えを教えてくれた。誰だおまえは。

  私たちは、たくさん喰らうと大きくなって強くなる。家に戻ってからずっと、たくさん食べていたのだ、この人は。

  お母さんが“食事”をぴたりと止める。意味深な間を置いたあと、一部の動物のように長くなった首を持ち上げ、その首だけをひねって私に目を向けてくる。

  毛が全部抜け落ちて鱗で覆われつくした頭は、人間の骨格ではなくなっている。目から上の頭骨が平たくなって、鼻とあごが一体化した口吻が突き出す、爬虫類のような造形だ。

  頭頂部には角のような二本の突起が生えてきていて、それがどこか異質な迫力を付け足していた。

  完全に人外となっているお母さんが、鮮血と肉片にまみれる牙だらけの口を開く。

  「どう、したの。グルルちゃんと、食べ、なさい。食べ、グルル食べないと、大きく、なれない、グルル、強く、なれ、なれない、わ」

  人の形を留めていない怪物から、トーンが不安定なお母さんの声が出てきたその瞬間、なぜか笑えてきた。涙が出るほどに。

  血の気が一気に引いて気が遠くなってきたので、テレビの正面にあるソファへとうつぶせで飛び込む。

  これは幻だ、ただの妄想だ、出来の良いVRだ、この現実感は間違いなく夢じゃないけど絶対に夢だ、昨日出た熱に浮かされて超リアルな悪夢を見てるだけなんだ、寝る前から兆候があったけど気のせいだ、目を覚ませば私はちゃんと病気で死にかけていて、お母さんは化け物じゃなくて、お父さんは食べられてないんだ。

  朝から抑え続けてきた色々なものが一気にあふれ出てきて、それに押しつぶされるとともに意識が落ちた。

  [newpage]

  ぱっと意識が浮かびあがって目が覚める。とても静かだ。空気は重くよどんでいて、血のにおいが充満している。

  心労のあまりに失神でもしてしまったのだろうか、そこそこの時間を寝ていた感覚がある。

  ソファから顔を上げる。住み慣れたリビングは、血で彩られたホラーな空間のままだった。

  やっぱりこれは夢ではないのだと、無情な現実に打ちひしがれて、うなだれてしまう。

  心なしか小さくなっているソファに座り直し、深くもたれかかって、深く息を吐きながら脱力する。

  テレビはつきっぱなしだった。今は避難指示の字幕が映っていて、まったく動きがない。

  赤い鱗ですっぽりと覆われて尖った爪が伸びた手でリモコンを取る。なんだかリモコンが縮んでいるけど、操作に支障は無い。

  適当にチャンネルを変えてみても、同じような字幕や、電子音を垂れ流すカラーバーしか映らなかった。

  お母さんが用意した“ご飯”が置かれていたテーブルを見ると、“ご飯”だけが無くなっている。

  部屋にお母さんの姿は無い。家の中からは誰の気配も感じない。私が気を失っている間に出かけたのだろうか。

  気が重い。でも体は軽い。何よりも胃が軽い。

  今日はまだご飯を食べていないのでお腹が空いた。ただでさえ精神的にまいっているのだから、何かをお腹に詰めておきたい。お父さんの肉以外ならなんでもいい。

  “お父さん”のことを思い出して、ふと調理台のほうに目をやると、そこには一面に広がる血と肉片しか残っていなかった。私が気絶したあと、お母さんが骨も残さず喰いつくしてしまったのだろうか。

  嫌すぎる想像を振り払い、早足で冷蔵庫へと向かう。

  まず冷蔵室を開けてみる。肉や魚、卵に乳製品、種々の惣菜パックなどなど、豊富な食べものが詰まっている。野菜室には色とりどりの野菜があり、冷凍室には冷凍食品とラップで包まれた残り物がたくさんある。

  お母さんは、人間の食べものにはまったく手をつけていなかったらしい。十分すぎる量のまともな食べものがあったので、ほっと胸をなでおろす。これならお腹いっぱい食べることができそうだ。胃が受けつけてくれれば、だけど。

  手始めに、ソーセージをつまんでかじってみる。

  皮がぱりっと弾けて飛び出した肉汁が舌に染み込んだそのとき、忘れていた飢餓感がせきを切ったかのようにして押し寄せてきた。理性を揺るがす猛烈な食欲が一瞬で体を支配してくると、私の体を食事のために動かしだした。

  お腹が減った、足りない、足りない、このままでは変われない。体を作るための栄養が欲しい。進化するための養分が欲しい。そうしないと生存競争に勝てない。

  惣菜を口いっぱいに詰め込んで、強引にのどの奥へと押し込む。

  卵を割らずにそのまま呑み、満タンだった牛乳を一息で口に流し込み切る。

  肉も魚も野菜も冷凍食品も包装ごと食いちぎって、噛まずにどんどん飲み込む。

  やがて胃の容量をはるかに超える食べ物が体に収まったところで、ようやく体の自由が戻ってきた。

  中身が見事に消えた冷蔵庫を見ると、足腰に力が入らず床にへたり込んでしまう。

  朝から感じ続けていた飢えはようやく少しだけマシになったけど、食べた量だけ気が重くなってしまったように思う。

  食べ物をあさったことでベタベタになった両手を見る。食事の前より倍は太くなった指はいつの間にか一本減っていて、鋭利なナイフのごときかぎ爪が伸びている。

  手についたベタベタを無意識のうちに舐めている。ものすごく長く伸びる舌は、蛇やトカゲみたいに先が割れている。

  お尻の方に新しい神経が通っている感覚があるので背を見てみると、立派な尻尾が生えている。それは私の意志で自由自在に動かすことができる。

  そしてビリビリに破れている服の下にある肌は、どこもかしこも鱗で埋めつくされていた。

  顔に手を当ててみると、どこを触っても鱗が触れ合う硬い音がする。ついでに顔の動きもやたらと硬い。その割にあごだけは大きく動かせる。

  きっと私の顔も、今まで見てきた怪物と同じアレになっているのだろう。鏡をのぞいてみる勇気は無い。

  ああ、たくさん食べれば、本当にたくさん変わってしまうのだ。お母さんの変異が加速するのは食事をする時なのだろうと見ていたけど、自分の身でそれを実証してしまった。

  かぶりを振って深くため息をつくと、口から火が噴き出したので慌ててふさぐ。

  私の顔はどんなふうだったのだろう。昨日までの自分自身に思いを馳せていると、いきなり玄関の方から盛大な破壊音がするとともに家が軽く揺れたので、驚いて跳ぶようにして立ち上がった。

  まるで家に車でも突っ込んできたかのようだ。いったいぜんたい何が起きたのか、確認をするために小走りでリビングの扉を通ろうとして、うっかり頭をぶつけてしまう。

  思いっきりぶつけたのに全然痛まない額を軽くさすりながら、私が頭をぶつけた所を見てみると、扉上部の木枠が割れてゆがんでいた。

  扉の背丈がやけに低い、いや違う、天井も低い。私のほうが大きくなっているのだ。全力の頭突きをする勢いでぶち当たっても私は無傷で、逆に扉の方が壊れてしまうなんて、私はなんて頑丈になってしまったのだろう。

  などと、体の変化について考えるのは後回しだ。低い扉を軽くかがんで通り抜けて、玄関へと顔を出した。

  屋内のはずなのに、冷たく感じる風が部屋いっぱいに吹き込んでくる。私が小さい頃から使い続けてきた玄関が、扉を壁ごと破られたことで開放的な空間にリフォームされていた。

  そんな空間を占拠する、軽く見上げるほどもある四つ足の巨獣が、壊れた壁の撤去作業をしている。

  ソレが私に気づく。男の人の惨殺死体を口にくわえている、ゴツゴツトゲトゲした赤い鱗で全身を覆われている恐竜みたいな怪物が、ぎらついた爬虫類の瞳で私を見下ろしてきた。

  一目見てすぐ、その気配から、においから、鱗の色合いから、顔つきから、この怪物が私のお母さんだとわかった。さっぱりわからないのだけど、私の中にいるナニカが懇切丁寧に教えてくれた。誰だおまえは。

  私が気を失っている間に、お母さんは完全に人間の形を失っていた。人間の死体をくわえながらフガフガと吐き出される吐息は、血臭に加えて独特の獣臭も入り混じる、人では発しようのないものになっている。

  あれからいったい、何人を喰い殺したのだろうか。

  完全な四足獣の体つきになったにもかかわらず、体高が今の私の背丈を超えるという巨躯になったため、服はすべて破れ落ちている。

  数トンはありそうな体を支える脚は人間だった頃とは比べ物にならないほどたくましく、節くれだった四本の指の先から伸びるかぎ爪は鋭利な鎌のようだ。

  脚の何倍もの長さがある丸太みたいな尻尾は、振るえば石垣なんかは積み木のように崩せるだろう。

  胴体と同じくらいの長さがある首は、鋼のような筋肉で覆われた極太のもの。そんな首の先に乗る頭部は、ねじくれた二本の角、トゲのような無数の鱗、耳周りに開くヒレが飾っていて、収まりきらない牙が生えそろう長い口吻をもつ。

  感想は『つよそう』。もはや怪獣だ。このバケモノが本当に昨日までは人間だったというのか、変異の過程を見てきた私でさえも信じられず、絶句するしかなかった。

  お母さんは無言で手を、いや前足を動かすと、口にくわえている死体の右足を、まるで人形の足でも外すかのように軽々ともぎ取ってから私の足元へと放り出してきた。本体のほうは自身の足元へと降ろす。

  それから、私が気絶する前までとは全然違う、野太いガラガラ声で語りかけてきた。全身が骨格から造り変わっているので、声帯は完全な別物になっているのだろう。お母さんの声はもう二度と聞けない。

  「グルルル、あんた、ご飯、食べ、食べて、ない。ご飯、少し、分け、あげる。たくさん、食べない、グウウ、私みた、みたいに、強く、大きく、なれない」

  人間とはまったく構造が違う口を動かして、ものすごくたどたどしく話してくる。そこにうなり声が交じるのでとても聞き取りづらいけど、気絶前にお母さんが用意した“料理”に私が手をつけなかったことが気に食わない、ということは辛うじて理解できた。

  お母さんは爪の先で血濡れの足を私に向けて転がして、ぐいぐいと押しつけてくる。

  「ご飯、食べない、私、みたい、に、な、グルル、なれ、なれない。あんた、食べるの、わた、グルル、私、見る! 見てる! グルルルルッ、シャーッ!」

  そして口の中と牙を見せつけるようにして、軽く開いた大あごを開きっぱなしにする。これは『言うことを聞かないと咬んでお仕置きするからね!』という意味だと、私の中にいるナニカが詳しく解説してくれる。誰だおまえは。

  この様子では、ちゃんと私が人肉を食べるまでは許してくれなさそうだ。

  さっき冷蔵庫の中身を食べつくした時に改めて感じたのだけど、もし人間の味を知ってしまったら、私は私でなくなってしまうと思う。そう、きっと心まで目の前の怪獣と同じものになる。

  はやく食べて楽になった方がいいよ、人間を捨てればつらい思いをせずに済むのに、どうして人間であることにこだわっているの、などと私の中にいるナニカが優しくさとしてくる。誰だおまえは。

  確かにつらいけど、くじけてしまいそうだけど、それでも今の私をあきらめたくない。私はこの私でいたい。わけのわからないまま私ではないナニカに取って代わられるなんて、絶対に嫌なのだ。

  なんとしてでも、ごちそうになるのを避けなければならない。

  千切れた足を両手で掲げる形で持って、目線を足とお母さんの鼻面の間でさまよわせる。食いつこうとしてみて、寸前で止めてみる。食いつこうとしてみて、急に食欲が強くなって本当に食べそうになってしまうので、あわてて口を離す。

  なんとか食べるフリでごまかせないだろうか。降って湧いたこの危機を乗り越えるためにはどう対処するべきなのだろうか。なんとか妙案をひねり出すべく、必死になって頭の血をめぐらせた。

  少しして、ふとお母さんをちらりと見てみると、視線が私からそれていることに気づく。お母さんは自分の足元に置いた死体をじっと見つめて、鮮血混じりのどろりとしたよだれを垂らしている。

  「フーフー、お腹、グルル減った、グルル食べ、食べる、るるる」

  それから、今しがたのやりとりを忘れたかのようにして死体を喰らい出した。

  怪獣と化したお母さんの“食事”は実に豪快だ。その気になれば人間を丸呑みにできそうなほどに口が大きいので、一口で人間の部品を丸ごとかじり取ってしまう。

  一口、もう一口食いつくと、何かが軋むような音がしだすとともに、お母さんの体に変化が起きる。ここまで原形を留めていない姿に成り果てておいて、まだ変わるというのか。

  背中側の筋肉が目に見えて増していくと、人間でいう肩甲骨がある部分だけが大きく盛り上がってコブになる。

  ゴキッゴキッと骨が鳴るような異音をたてながら、背にできたコブがぐんぐん大きくなる。

  お母さんが死体を最後まで食べ終えたその時、バチッと硬いものが割れたかのような破裂音とともにコブが破れて、そこから一本のかぎ爪が現れる。そのかぎ爪を力いっぱい引き抜くようにして、大きなものが背中から勢いよく飛び出した。

  それはコウモリのような皮膜のある、今のお母さんの体をも覆い隠せそうなほどに巨大な翼だった。

  翼と尾を持つ鱗ある怪獣となったその威容は、まるで西洋の伝承に出てくる竜のようだ。いや、これはそのものだろう。ここまで来るともはや芸術的な姿で、感嘆の念すら覚えてしまう。

  とうとう伝説上の生物になったお母さんは、生えてきたばかりの翼を試すようにして羽ばたかせる。大きな翼によって生み出される風は、まるで突風のようだ。砕かれた家の破片やほこりが残らず舞い上がり、収納ボックスや傘立てみたいな少し大きなものまでもが吹き飛ばされていく。

  羽ばたき終えたお母さんは、目をパチパチさせながら鼻面を寄せてきて、何を思ったのか無言のままじっと私を見つめだした。

  「……」

  私を見るばかりで一言も発することがなく、ただ無感情な眼を私に向け続ける。私から呼びかけてみても反応を見せない。静止画像か何かのように硬直し続けている。

  「ギャオオオオッ!」

  謎の沈黙が十秒ほど続いたと思ったら、お母さんは大きな口を全開にすると私に向かって咆哮して、いきなり殴りかかってきた。

  突然の凶行に驚くも、私も人間ではなくなっているおかげか瞬時に反応することができて、自分でも驚くほどの俊敏な動きで大きく飛び退くことでうまく避けた。

  前足による一撃は床のコンクリートを砕いて小さなクレーターを作り、爪が当たった部分はすっぱりと切れて深いみぞができていた。この威力は絶対にお仕置きなどではない、本気で殺すつもりの攻撃だ。

  いったい何をすると抗議しようとすると、炎がもれ出る口を全開にしての敵意全開な威嚇をやりだしたお母さんの姿を見たら、なにも言えなくなった。

  「ガルルルルッ、グァッ! グァッ!」

  人間の言葉を忘れたのか、いきりたってほえ声をあげるばかりのお母さんは、私によこしたはずの千切れた足をすばやく引き戻すと、それを私から守るようにして仁王立ちしている。

  つい先ほどまでは、娘である私なら辛うじて見て取ることができた母としての情が、大人としての知性が、目の前の怪獣からは消えてなくなっている。ただの獣の姿がそこにあった。

  お母さんの急な豹変にがく然として立ちつくしてしまいそうになるけど、今も威嚇をしてきているので、早く退散しないとまた攻撃される。実の母に食べられたりしてはたまらない。仕方なく家から離れる形で大きく距離を取ってみると、お母さんはやっと威嚇をやめた。

  お母さんは千切れた足を一口で喰うと、私には一瞥もくれずに私たちの家へと入っていった。巨体を阻む壁や天井を、体重を支えきれない床を、思い出がたくさん詰まっている私たちの家を、わずらわしげに壊しながら。

  少し離れたところで息を潜めて、こっそりと観察してみる。

  お母さんは扉を壁ごとぶち破ってリビングに入る。次に、太い四肢や尻尾を振るってテーブルやソファといった家具を乱暴に叩き潰し、なぎ払って、その巨体を収めるのに十分な空間を作る。

  それから床に伏せて尾を上げると、ぶるぶると小刻みに身を震わせだす。少しして、股の間から白いものが落ちると、堅い音をたてて床に転がった。

  それは一抱えほどありそうな大きな卵だった。

  お母さんはどっしりと伏せて長い尻尾を丸めると、卵を守るようにして包みこむ。そして、どこか慈しむような仕草で卵を舐めまわしだした。

  お母さんの産卵を目撃したことで、さっき急に攻撃されたことに合点がいった。

  お母さんは卵を産んだことで、新しい子どもと親子の縁をむすんだ。それは同時に、前の子どもである私との縁が終わることでもある。だから私を、保護するべき自分の子どもではなく、餌を奪おうとする外敵のひとりとして認識するようになったのだ。

  私は何に合点がいったのかと自問するけど、本能的にわかってしまうのだから仕方ないのだとしか言えない。私は脳みそまで人外の怪物になりつつあるのか。

  とにかく、もうここには居られない。居る理由もない。

  もう、私には何も無い。

  でも、どこへ行けばいいのだろう。

  町のあちこちから獣の咆哮が響いてくる。空では煙が幾筋も立ちのぼっていて、怪物たちが飛びまわっている。

  この町の混沌ぶりは、早朝のときよりも悪化しているように見える。こんな状況で、どうしろと言うのだろう。

  力を貸してもらうために生存者を探すか。怪物たちに喰われる前に会えるのか。というか、人を襲っている怪物と変わらない姿の私を受け入れる人なんているのか。

  私みたいに今も理性を保てている仲間を探すか。そもそも存在するかどうかがわからない。どこを探せばいいというのか。探して見つかるものなのか。

  それでも探すしかない。頼りにすることができる仲間を、希望となるなにかを、自力で見つけ出すしかない。

  怪物の総攻撃によって破滅していく町を往く。私も同じ怪物なので、襲われることなく進むことができる。

  翼をもつ怪物が空を舞いビルに突撃して、中に潜んでいた人間をさらっている。

  尾をもつ怪物がマンションに飛びつき軽快によじ登って、中に隠れていた人間を襲っている。

  その怪物たちが、狩った餌をめぐって残虐ポッキーゲームをやりだしたり、取っ組み合いをやりだしたりしている。

  まさに阿鼻叫喚。この悪夢から逃れられる道なんてあるのだろうか。手遅れ感がすさまじいので正直言って無いと思うけど、それでも往くしかない。

  幸せは歩いてこない、だから自分から歩いていくしかない。この地獄に垂らされているかもしれない希望の糸を見つけ出すには、しゃにむに突き進むしかないのだ。

  無数の凶悪な怪物が無力な人間を襲って喰らう、地獄絵図の真っただ中を走る。

  行く先々で人間用の食料をあさることで飢えをしのぎながら、何日も何日もひた走る。

  服が破れ落ちていって、鱗だらけの体があらわになる。

  背が伸びて、筋肉がふくれ上がって、体がどんどん強く大きくなる。

  首がぐんと伸びて、鼻が前に突き出て、肉を軽々引き裂ける鋭い牙が生えそろう。

  いつのまにか四つ足の体勢になっていて、壁も建物も軽々と乗り越えられるようになる。

  やがて大きな翼が背から生えると、大空を舞って人間の領域から飛び出す。

  人間の形を完全に失っても、私は私を手放すことはなかった。

  [newpage]

  [chapter:エピローグ]

  緑に飲み込まれた町を、私の巣である山の頂から見下ろす。

  彼方の先にある故郷であった町は、手入れをする人間が姿を消したために朽ち果てて、遺跡と化していた。

  人間が私の同胞たちに喰らいつくされてから、どれだけの時が流れたのだろうか。

  私が人間であった頃の思い出は、完全な竜となってからの長い生の果てにすり切れ果ててしまって、なにも思い出せなくなった。今ではもう、私は生まれついての竜なのだと本気で思い始めている。

  それでも私は、今の時代に至ってもなお、人間としての知性を保っていた。

  この世界で唯一、私だけが。

  特異なものを持っているからなのか、それとも別の理由があるからなのか。いつしか私は、かつて人間たちが夢想していた“魔法”のような奇跡の力を身に着けて、どの竜よりも圧倒的に強大な存在になっていた。そのような力を持っているため、同胞たちは私を竜の王として畏れ敬っている。

  私にこうべを垂れる同胞たちの中には、どこか覚えのあるにおいがする、私と同じ色の竜の姿もあった。

  それ以外は、なにも起きなかった。本当に、まったく、なにも無さすぎた。起きて、ひとり遊びをして、寝る。それだけの日を延々と繰り返している。

  知的交流のない獣の日常に変化は訪れない。どれだけ年月が経とうが暮らしは変わらない。変えられもしない。

  なまじ人間の知性があるせいで、それを途方もなく『つらい』と感じてしまう。

  どうして私は、この私を手放して、ただの獣として生きる道を選ばなかったのだろうか。

  竜の寿命がどれくらいあるのかは知らないが、恐らく今まで生きてきた時間よりもずっと長い。きっと私は、命尽きるその日まで、ただ生きているだけの暮らしを送り続けていくのだろう。

  そう思って、なにもかもをあきらめて、次の日に目覚めなくなることばかりを願っていた。

  ところがある日、超特大の変化がやってきた。未来文明的な装備を身に着けている人間の男が、森の中でこそこそと身を隠しながら歩いている姿を見かけたのだ。

  新人類だか宇宙人だか異世界人だかの人間にそっくりな生き物などではない。あれは間違いなく私が知っている“人間”だと本能的な直感が告げていた。

  それはもう、ぶっ飛ぶくらいに仰天した。絶滅して久しいはずの生き物がふたたび見つかったのだ。世紀の大発見だ。それに文化的なナリからして、おそらく他の個体もいる。

  すべての女性が竜と化したので繁殖手段を絶たれたはずだが、人間たちはどうやって今の時代まで種を繋いできたのだろうか。

  ただ、人間の姿を見ても、まったく親近感を覚えなかった。アレが仲間だとは欠片ほども感じられなかった。ただの獲物にしか見えなかった。

  それなのに、私はあえて同胞たちへみだりに人間を襲わないように命じて、人間を保護するようにした。その反面、もし人間が同胞たちを傷つけたら、私はためらいなく人間を駆逐するつもりでいる。

  私は、まだ人間との接触を果たしていない。

  だが、面と向かって話をする気にはなれない。

  でも、本当は話をしたくてたまらないのかもしれない。

  しかし、私は人間の言葉をしゃべることができるのだろうか。

  いや、いっそのこと食べたら色々と楽になれるのではないか。

  だが、しかし、いや、でも。

  私は何をやりたいのだろう。

  私は人間に何を求めているのだろう。

  誰もいない山の頂で、答えを求めて思い悩み続ける。