外に連れ出された僕は、近くの木の幹に縛りつけられた。
「いいか。これは貴様が革命戦士に生まれ変わるチャンスだ」
身動きできない僕に、女は真剣な目で話しかけてくる。
「今から全員で貴様を殴る。生命の危機を感じることで、自分を見つめ直すことができるはずだ」
正気の沙汰じゃない──そう思ったが、もう口にする気力も残っていない。
「頑張れ。俺も通ってきた道だ。気絶から目覚めたときには、新しい人生が始まるんだ……」
坊主頭がそう言うなり、殴りつけてきた。
「おい、みんなも総括を手伝ってやれ!」
「総括しろよ!」
「総括しろよ!」
六人に代わるがわる殴られた。頬が腫れ、肋骨がきしみ、シャツが血に染まる。
こんなことで生まれ変われるものか。何が革命だ。何が狼だ……!
僕の意識が薄れかけたとき、森の中から野鳥が一斉に飛び立った。
藪がガサリと揺れ、女は殴る手を止めて振り向いた。
「誰だッ!」
返事はなかった。
「こいつ、やっぱり公安の──」
髭面が僕に銃口を突きつけたとき、藪から黒い影が姿を現した。
それが何なのか、その場の誰もがすぐには理解できなかったに違いない。
──熊だ!
喉元に白い模様を持つツキノワグマ。ヒグマほどではないにせよ、充分に危険な存在だ。山中で熊に出会えば、誰もが一瞬は動揺する。しかし、理解できなかったのは熊だからという理由ではない。その大きさのせいだった。ツキノワグマなら二メートル程度のはずだが、目の前にいるそれはどう見ても三メートルを超えている。
熊は六人の男女を珍しそうに見つめていた。その表情は無邪気で、子熊のように見える。
「な、何だよ……たかが熊じゃねえか!」
眼鏡の男が頬を引きつらせて、熊に近づいていく。
「こっちには銃があるんだぜ。この程度でビビッてるようじゃ、革命なんて──」
熊の手が動いた。何かが木にぶつかって転がった。
──眼鏡の男の首だった。
一撃で首をもがれた体が、鮮血を噴き上げて地面に倒れた。
「うわーッ!」
残りの五人が狂ったように銃を乱射する。僕は縛られていて逃げることもできない。流れ弾に当たらないように祈るばかりだ。
銃の効果はなく、熊を刺激したにすぎなかった。
うなり声を上げて熊は突進した。坊主頭をつかまえると、その首筋に背後から噛みついた。
「アアーッ! やめろ! やめてください! 助けてくれ! 助け……」
絶叫が途切れ、バリバリと骨の砕ける音がした。その間に三人の男たちは遠くまで逃げ去っていた。
ただ一人、女だけは逃げなかった。
散弾銃に装填し直すと、坊主頭の体ごと撃ちまくった。男の体が無残な肉片と化していく。
熊は食いかけていた男を放り捨て、巨大な牙をむき出して女に迫った。
女はひるむ様子もなく、ポケットの中のものを取り出した──手榴弾だ!
女は手榴弾を熊の口に投げこむと、地面に転がり身をふせる。こもったような爆発音がして、熊は悲鳴のような咆哮を上げて倒れた。血と肉片とを吐き出しながら全身を痙攣させている。
女は立ち上がって、熊の額に散弾銃を向けた。
「──革命的に死ね!」
至近距離から撃った。熊の頭蓋は原型をとどめないほどに砕け散った。
気分が悪くなった──熊よりも女のほうがはるかに狂暴で、残酷に見えた。
熊を足蹴にして、絶命したことを確かめると女は声を張り上げた。
「貴様ら、戻ってこい!」
三人の男たちが、青い顔をして戻ってくる。女は男たちを整列させて命じた。
「仲間を見捨てて逃げるとはどういうことだ? 自己批判を要求する! 自分で自分を殴れ!」
男たちは渋々、自分の頬を殴り始めた。
ペチン、ペチンと情けない音がする。僕を殴ったときの半分の力も出していない。
「もっと強くだ!」
間抜けな光景だった。男たちは無言で自分の頬を叩き、女は目を光らせてその姿を見つめている。
いずれにせよ、今は僕に意識が向いていない。縛られてさえいなければ逃げるチャンスだが……。
──ふいに、腕を縛っていた縄がほどけた。
驚いて振り返ると、ナイフを握った例の少女が、身をかがめてそこにいた。
「君! いったい……」
言いかけた僕の口を抑えると、ついてくるように顎をしゃくる。藪に隠れて僕たちは山道を上った。
「いったい、今までどこに行ってたんだ?」
連中の姿が見えなくなったところで僕は聞いた。
「野菜がほしいって言ってたじゃない。摘んできたのよ」
少女はヤッケのポケットから、紫色をしたキノコを引っ張り出した。絶対に食べてはいけない色だ。
「……今は食欲ないかな」
「せっかく摘んできたのに」
少女はキノコを放り捨てると、腫れあがった僕の顔を心配そうに覗きこんだ。
「ひどい顔ね。何でこんなことするのかしら」
「君こそ、あの小屋を無断で使っていたのか?」
「誰もいなかったから使ってただけ。それにしても殴ることないじゃない」
「……あの連中が、君が見た〈狼〉なのかい?」
「あいつらが狼ですって? バカにしないで。あんなやつらが狼なわけないじゃない!」
少女が不機嫌そうに口を結んだとき、下のほうが騒がしくなった。僕が逃げたことに気づいたらしい。
僕らは再び山道を上った。
「あそこだ!」
遠くからの声とともに銃声がこだまする。僕のすぐ後ろで木の枝が弾け飛んだ。
必死に逃げようとしたが、殴られ続けて僕の体力も限界だった。もう一歩も動けそうにない。
「君だけでも、逃げろ……」
「ダメよ、しっかりして!」
少女を先に行かせようとしても、彼女は動こうとしない。
振り向くと、〈狼〉の四人はもう顔が見えるところまで迫ってきていた。
「総括は失敗だったな……」
女が怒りの形相で、銃の引鉄に指をかけた。
──突然、地鳴りがした。
「うわッ?」
地面が激しく揺れ、追ってきた四人はもつれながら倒れた。
山の斜面が音を立てて崩れていく。そこから土煙とともに現れたものに言葉を失った。
一瞬、真っ黒なトラックが飛び出してきたのかと思った。
血走った目に睨まれて、それが巨大な──想像を絶するほど巨大な熊の頭部だと気づいた。
熊が首を振って土埃を払い落とすと、再び地面が崩れ、巨熊は後脚で立ち上がった。
──信じられなかった。周囲の木よりもはるかに大きい。二十メートルはある!
巨熊は何かを探すようにあたりを見まわしたが、やがてある一点を呆然としたように見つめた。
その視線の先には、女に殺された熊の死骸があるはずだった。
「グフオオオオオ!」
地面が割れるほどの咆哮を上げて、巨熊は木々をなぎ倒しながら山を駆け下りていった。
「化物……」
〈狼〉の四人は放心したように動かなかった。僕にしたところで、あまりの出来事に足がすくんでいる。
ふいに、僕の体が持ち上がった。いつの間にか僕は少女に背負われていた。
人一人背負っているとは思えないほどの力強さで、少女は山道を駆け上がっていく。
四人が追いかけてくる気配はなかった。
「グフウウウウ……」
低い、悲しいうめき声が響いてくる。
「あれは……」
「母親グマよ。以前も見かけたことがある」彼女は言った。「彼女の子供が殺されたの。きっとあいつらは殺される。あたしたちも、ここにいたら危ない」
その言葉どおり、巨熊は山の斜面を引き返してくる。〈狼〉たちのところへ向かっているようだ。
連中も攻撃を始めたらしく、銃声と爆発音が聞こえてきた。
開けた丘の上で、少女は僕を降ろしてくれた。
数十メートルほど下の斜面に、銃を乱射しながら逃げる四人と、それを追う巨熊の姿が見える。
逃げ遅れた男が踏み潰され、真っ赤な血だまりになる。僕は思わず目をそらした。
残りの三人は小屋までたどり着いたようだ。窓から銃を突き出して射撃を続けている。昔のニュース映像で見た、過激派が山荘に立てこもった事件を思い出した。
もっとも、彼らが相手をしているのは、説得を試みる警官隊などではない。子供の復讐に燃える巨大な野獣なのだ。巨熊にのしかかられた小屋は一瞬にして崩れ落ちた。
銃声がやんだ。しばらくして、残骸の片隅から誰かが這い出してきた──あの女だ。その手にはロケット砲のようなものを抱えている。
女は何かを叫びながら撃った。白煙を引いて飛んだ弾頭が、巨熊の腹で破裂した。
熊はわずかによろめいただけだった。
そして巨大な口を開けると、女を頭から飲みこんだ。
巨熊の怒りは収まらないようだった。
小屋の残骸を何度も、何度も踏み潰していたが──その視線が、僕らのほうに向けられる。
「やめて! あたしたちは関係ない!」少女は叫んだ。「あなたの子供を殺したやつは、みんな死んだ!」
そんな言葉が届くはずもない。巨熊は斜面を登って、僕らがいる丘に迫ってきた。
僕は残った力を振り絞り、少女の手をつかんで走った。
爪が襲いかかってきて、僕らのいた場所が大砲のような一撃にえぐり取られる。
「あっ!」
足元が崩れ、少女は足を滑らせた。僕はとっさに近くの木をつかんで、彼女の体を抱き抱えた。
「グフオオオッ!」
巨熊は目の前で大きく口を開ける。獰猛な牙が唾液に濡れて光っていた。
──次の瞬間、僕たちは空を飛んでいた。
いや、この言い方は正確ではない。
何かに襟首をつかまれて、僕らは空高く持ち上げられていた。
「……!」
僕らの真下に、巨熊の血走った目がある。僕らをつかんだ何かは、風のような速さで動き出した。
「フッ……フッ……」
頭上から息づかいが聞こえる。
振り向くことはできなかったが、何か巨大な動物に咥えられているように思えた。
その巨獣は風を切って走り、木々を跳び越えて僕らを運んだ。熊の姿が見る間に遠ざかっていく。
三宮神社の境内が見えてきた。近くの草むらに僕らをそっと下ろすと、その巨獣は吠えた。
「アオオオオオン……!」
腹の底が震えるような、それでいて美しい響きの遠吠えだった。
今や巨熊の姿は、はるか後方にあった。
さすがに追いつけないと判断したのか──巨熊は山中に姿を消した。
「……」
僕は頭上を覆う巨大な影を見上げた。
その巨獣は褐色の豊かな毛を持ち、尖った耳は小さく、真っ直ぐな鼻をしていた。
それはわずか数点の剥製を残して、今は絶滅したはずの動物の特徴を持っていた。
「ニホンオオカミ……!」
巨大な狼は全身を震わせると、霧のように姿を消した。
わずかに金色をした目と、黒々とした鼻だけが宙に浮いていたが、それもやがて見えなくなった。
「──おっかあの毛は隠れ蓑なの。人間に見つからないように、何年もかけて習得したの」
少女の声でわれに返って、僕は彼女を見た。
「おっかあ……あの狼が?」
「そうよ。あたしは人間のおっとうとの間に産まれたの」少女があっけらかんと言う。
「何をバカな……」
「信じないならそれでいいわ。でも、何千人かに一人、狼とつがいになれる人間がいるの。あたしがその証拠。狼の血を絶やさないためには、そんな人間を見つけなきゃいけない」
「待ってくれ!」突拍子もない話だったが、僕は聞いた。「たとえそれが本当だとしても、なぜ人間と?」
「例えば──犬とつがいになった祖先もいたわ。だけどあたしたちはより強い動物を選んだ。最も狡猾で、最も残忍で、そう簡単に絶滅しそうもない動物……」
「それが……人間?」
少女はうなずいた。
「だとしても、あの大きさは──」
「あたしたちは百歳を過ぎたころから大きくなる。聞いたことない? 山奥にいる巨大な狼の話を」
僕は教授の話を思い出した。
「まさか……『鍛冶ヶ婆』の話って……」
「失礼ね。おっかあはまだ二百六十歳なのよ。そうね……おっとうは千疋狼のセン、って呼んでいたわ」
「千疋狼の、セン……」
「そしてあたしも、やがておっかあみたいになる」
そう言うと少女は、ヤッケの袖をまくった。
その腕は、びっしりと体毛に覆われていた──人間とは明らかに違う、獣のそれだった。
「……」
呆然としている僕に、少女は藪の向こうを指さして言った。
「行って。ここを抜ければ神社の境内に出られる。あたしは山に戻るわ」
「だけど、あの熊が……」
「あいつもおっかあには手出ししない。おっかあはこの山の女王だもの。それから、最後にひとつ言っておくけど」少女は僕の目を見て言った。「おっかあのことは誰にも言わないで。あたしのことも」
「……わかった。言わないよ。約束する」
そう答えると、少女はニッコリ笑って走り去った。野生動物さながらの速さで山中に姿を消す。
僕はしばらくそこから動けなかった。夢と現実の狭間に取り残された気分だった。
神社のほうが騒がしかった。
境内に出てみると、警官に誘導されて、何人かが神社から退避しているところだった。
まだ朝早いので参拝客は少ない。神職や売店の従業員のようだ。
「君、そのケガはどうしたんだ!」
警官が僕を見て目を丸くする。
無理もない。殴られた僕の顔は腫れ上がり、山中を走りまわって服はボロボロだ。
「あの熊にやられたのか?」
「あの熊……?」ようやく事態が飲みこめてきた。「まさか、山を下りたんですか、あいつが!」
「知っているのか? 見たんだね、あの熊の化物を!」
僕がうなずくと、警官は無線を手にした。しばらく会話をしたあとで、警官は言った。
「すまないが、署まで一緒に来てもらえないだろうか。ケガの手当もしないと」
パトカーに乗せられて、僕は警察署に向かうことになった。
途中、見覚えのある場所を通り過ぎた。僕が道をたずねた、例の老夫婦がいる民家だった。
──その光景を見て、僕はもう少しで吐くところだった。
建物と庭は跡形もなく壊されていた。救急車に白い布をかけた担架が運びこまれている。
担架に乗せられた人物は、動いているようには見えなかった。
「あの化物にやられたんだ……」
ハンドルを握る警官の声が震えている。
「わざわざ民家を壊しながら町に向かってる。まるで人間を恨んでいるみたいに……」
警察署で僕はケガの手当を受け、落ち着いたところで会議室に連れていかれた。
そこに一人の刑事が待っていた。四十歳くらいの誠実そうな男性で、名を宝田といった。
「話をまとめると──君は道に迷って、山小屋にたどり着いた。誰もいなかったので、そこで一晩を過ごした。そこは過激派の拠点で、君はスパイと疑われて暴行を受けた。そこに熊が現われて、連中の一人が殺された。連中がその熊を殺すと、親と思われるあの巨大な熊が、連中を一人残らず殺害した。君はその隙に逃げ出した──ということで、いいのかな?」
刑事の言葉に僕はうなずいた。約束どおり、少女と千疋狼──センのことは言わなかった。
一人の警官が、小屋に置きっぱなしにしていた僕のリュックを持ってやってきた。
「これは君のかい?」
「そうです……よかった、無事だった!」
リュックの中身をあらためた。財布とスマホも無事のようだが、すぐには返してもらえなかった。
「念のため大学に問い合わせさせてもらうよ。それから、通話記録も確認させてもらう。まさかとは思うが、君も過激派の仲間だといけないからね。すまないが、返却はそのあとだ」
刑事は僕のスマホと学生証を警官に渡し、話題を変えた。
「さて、もうひとつの問題はあの大熊だ。君の言うとおりなら、あの熊は子供を殺した人間を憎んでいる──今の時点で十二名の犠牲者が出ている。過激派の連中を含めるなら十八名だ。そいつが今、国道沿いに日高市に向かっている」
「……」
「あの怪物が町に出たら、どれだけ被害が出るか想像もつかない。一刻も早く駆除しなければいけない。君にもぜひ協力してほしい。今のところ、奴を間近で目撃した唯一の人物だからね」
「協力といっても……」
言いかけたとき、廊下が騒がしくなった。
十数名の男たちが会議室に入ってくる。迷彩服から一目で自衛隊だとわかった。
刑事と敬礼を交わした口髭の男は、第1偵察戦闘大隊の田崎3佐と名乗った。
「君があの大熊の第一発見者かな?」3佐が僕を見て言った。「早速だが、あの大熊に名前をつけてくれないか」
「名前を?」
「そんなもの、大熊でいいじゃないですか」
刑事が口をはさむと、3佐は首を振った。
「大熊のことは、すでに全国に報道されている……もしどこかの学校に、『オオクマ君』という名前の子供がいたとしたら、その子はいじめられたりしないだろうか。怪獣などという不名誉なあだ名で呼ばれたりしないだろうか」
「なるほど、一理ありますね」
そこまで言われたら、僕としても名前を考えないわけにはいかない。
「そうですね……クマのモンスターですから、略して──」
「──ベアラ! ベアラというのはどうだ? それがいい!」
僕の提案はなぜか言わせてもらえなかった。
自衛官たちは準備を進めた。次々と運びこまれた通信機器が手際よく組み上げられ、会議室は臨時の作戦指揮所となった。
「──こちら本部。これより目標をベアラと呼称する。本部よりコブラワンへ。映像送れ」
「コブラ……対戦車ヘリですか?」刑事が目を丸くする。
「何しろ、相手は二十メートル級の猛獣だ。ひょっとしたら戦車より厄介かもしれん」
会議室のモニターに、コブラから送られてきた映像が映し出される。あたり一面の森林地帯だ。
しばらくは何の異常も見られなかったが、やがて画面の隅で不自然に揺れる木を見つけた。
『目標視認』
同時にコブラからの通信が入り、3佐は命じた。
「了解。射撃開始せよ」
『了解。射撃開始』
機銃音とともに、画面に映る木々が弾け飛んだ。巨大な影が驚くほどの速さで移動していく。
機銃はほとんどダメージを与えていないようだ。
「木が邪魔だな……それにあの分厚い毛皮では、皮膚にまで銃弾は届くまい」3佐が言った。「射撃中止。しばらくは刺激せず、時間を稼いでくれ」
「どうする気です?」刑事が聞いた。
「ここにゴルフ場がある」3佐は広げた地図の一点を指さした。
「現在、施設隊が落とし穴を掘っている。そこにベアラを誘いこんで足止めをしたうえで、対戦車誘導弾で仕留める──問題はベアラの誘導方法だ。コブラで牽制しつつ追いこむつもりだが、より確実に引きつけるために、何か餌のようなものがあればいいのだが……」
「熊が好む餌……」
刑事は腕組みをしながら考えていたが、やがて思い出したように言った。
「──そういえば大学の山岳部が、しつこく熊に追いかけられた事件があったでしょう。あれは、熊に奪われた荷物を取り返したのがいけなかったそうですね。熊は一度逃した獲物を、絶対にあきらめないそうですから」
「一度逃した獲物……」
3佐と刑事はそろって僕を見た。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
思わず叫ぶ僕の肩をつかんで、3佐が言う。
「頼む! 君が頼りなんだ。君の安全は小隊が全滅しても必ず護る!」
「全滅しても困りますけど……」
「僕からもお願いする。これ以上の被害はどうしても食い止めたい。市民を代表してお願いする」
刑事も深々と頭を下げる。さすがに断りきれなくなった。
日高市内は静かだった。
住民はすでに避難しているらしく、聞こえてくるのは鳥のさえずりと蝉の声ぐらいだ。
ゴルフ場の鮮やかなグリーンの真ん中で、僕は新鮮な空気を吸いこんだ。
後方には武骨な自衛隊の車──高機動車が停まっている。中には田崎3佐と宝田刑事、運転席には自衛隊員が小銃を手に待機していた。
「もうすぐ、来るぞ!」
3佐の声に僕は息を飲み、目の前に広がるグリーンを見つめた。
そこには粘度の高い泥で満たされた、直径三十メートルの落とし穴が掘られているはずだ──はずだ、というのは巧妙に偽装されているので、本当に掘られているのかわからないからだ。
もし掘られていなかったら? 掘られていても浅かったら? 不安が胸をよぎる。
しばらくして、ヘリのローター音と断続的な銃声が近づいてきた。
ベキベキと何かが倒れる音。ズシンとくる振動。僕はすぐにでも車に飛び乗って逃げ出したかった。
「もう少し我慢してくれ。ベアラが君を目視するまで」
やがて迷彩塗装のコブラが、空気を震わせて上空に現れた。
それを追うようにして、巨大な黒い野獣がゴルフ場に入ってくる。
ベアラだ──その巨体を再び目のあたりにして、恐怖が喉元までこみ上げてきた。
血走った目が、グリーンの上にいる僕の姿をとらえた。
「グフオッ……」
足がすくむ。これで僕の役目は終わったはずなのに、体が動かなかった。
「さあ、早く車に戻って!」
宝田刑事が迎えに来てくれて、ようやく体が動いた。
僕たちが高機動車に飛び乗ると同時に、運転席の隊員がアクセルを踏む。
ベアラは四つ足になって僕らを追いかけてきた。その足がグリーンの真ん中に差しかかったときだ。
──凄まじい地響きがした。
「グフオオオオッ!」
泥のしぶきをはね上げながら、ベアラの体がグリーンに沈んでいくのが見えた。
ベアラはもがいていたが、泥の粘度は相当あるらしく、簡単に抜け出せそうにはない。
上空を旋回していたコブラが、ベアラから離れた位置で制止した。
「誘導弾発射」3佐が無線で命じた。
『誘導弾発射!』
風を切って発射された誘導弾は、ワイヤーの遠隔操作でベアラが落ちた穴に直撃した。
火山が噴火したようだった。爆風とともに泥が吹き上がり、僕らの車にも降り注いでくる。
「やった!」
3佐と刑事が握手をかわした──そして、絶句した。
何ということだろう……土煙の向こうで、巨大な影はまだ動いている!
『第二射、発射します!』
再び攻撃準備に移ったヘリをベアラは睨みつけた。
「ガアッ!」
次の瞬間、ベアラの口から何かが迸り、コブラのフロントガラスに直撃する。
──泥だ。ベアラは飲みこんでいた泥を吐き出したのだ!
視界を奪われたコブラがグリーンに着陸する。乗員があわてて脱出するのが見えた。
攻撃で落とし穴の泥は吹き飛ばされていた。ベアラは穴から這い上がりコブラに近づいた。回転しているローターを一撃ではね飛ばし、返す拳で機体を真上から叩き潰す。
二つに折れた機体がオレンジの炎を吹き上げた。
「化物め……」3佐が歯ぎしりする。
どこに隠れていたのか、自衛隊員がゴルフ場のあちこちから飛び出してきた。手にした自動小銃を撃ちまくったが、誘導弾さえ通用しない相手には牽制にもならない。
運転席の隊員が高機動車を急発進させる。直後、ベアラの爪が背後の地面をえぐった。
ゴルフ場を飛び出した高機動車は、アスファルトにタイヤ跡を残しながら町中を疾走する。無人の町に邪魔になるものはなかったが、それはベアラにとっても同じことだった。
四つ足で追ってくるベアラは速かった。一歩踏み出すだけで十数メートルも前進してくるのだ。
「もっと速く走れないんですか!」
焦る刑事を横目に、3佐は無線で連絡を取っていた。
「現在、作戦地点に向け目標を誘導中……A戦・B戦、配置状況を報告せよ」
『A戦、配置完了』
『B戦、配置完了』
「……どこかにベアラを誘導するつもりですか」刑事が聞いた。
「落とし穴作戦が失敗したときのために、入間川河川敷を最終防衛線に設定した。あそこには広い緑地がある。そこに一〇五ミリ砲を積んだ戦闘車を配置してある」3佐が答える。
「入間川の向こうは川越市だ。人も建物も多すぎる。市内での作戦はほぼ不可能だ──河川敷でベアラは絶対に仕留める!」
思惑どおりベアラは高機動車を追い、順調に入間川へと誘いこまれていた。
だが、やはり誘導弾の攻撃は効いていたらしい。ベアラはゆっくりと速度を落とし──やがて路上に腰を下ろしてしまった。入間川まであと数キロはある。
「まずいな……ここに居座られては、戦闘車が展開できない」
3佐の顔に焦りの色が浮かんでいる。僕は決心して言った。
「──僕が出ます。出てベアラをおびき寄せます」
「しかし、それはあまりに……」
「他に方法がありますか」
「……」
3佐はうなずくと、ドアを開けてくれた。
「無理はしないでくれ。危ないと思ったらすぐに車に戻るんだ」
僕は車を降りると、ベアラのほうへと足を進めた。
「ベアラ! こっちに来い! 僕はここにいるぞ!」
叫んでみたが、ベアラは動く気配を見せない。
「どうした? 僕が憎くないのか?」
どうすれば挑発できるのか──考えるあまり、ついベアラから目をそらしてしまった。
「──逃げろ!」
「はっ?」
刑事の声が聞こえたときはもう遅かった。
「グオオオッ!」
ベアラが猛然と襲いかかってきた。さっきまで座りこんでいたとは思えない素早さだった。
僕の足は恐怖で動かなかった。大きく開かれた口が眼前に迫る。
これが人生で最後に見る光景になるのか──そう思ったとき、彼女はやってきた。
インクが滲むように、突如現れた巨大な狼──センはベアラの腕に噛みついた。
二頭の巨獣が地響きを立てて地面に倒れる。車から降りた刑事が呆然と口を開いた。
「何だ、あれは……」
「千疋狼……」
「千疋狼?」
「何してるの。早く逃げて」
──聞き覚えのある声が聞こえた。いつの間にか、ヤッケの少女がそこにいた。
「君……ここで何をしている! こんなところにいたら危ない!」
刑事の言葉を無視して、少女が近寄ってくる。
「どうしてここに……」僕は聞いた。
「おっかあがキミを気に入った。助けてあげるって」
「えっ?」
聞き返した僕の耳に、エンジン音が響いた。
「とにかく、二人とも乗って!」
刑事にうながされるまま、僕は少女と一緒に高機動車に乗った。
「ガウッ!」
「グフオオッ!」
二頭が互いの急所を狙って牙を鳴らす。その隙に運転手はアクセルを踏んだ。
ベアラは走り出した車に気づくと、センを振りほどき追ってくる。
センもまたベアラを追い、背中から飛びついて首筋に牙を突き立てた。
「車なんかより、自分で走ったほうが速いけどなあ」
車内では不満そうな少女を横目に、刑事が僕に聞いてきた。
「その子は君の知り合いかい?」
「山で迷っているときに、助けてもらいました」
「そんな話は聞いてないぞ」
「それは……」
「黙っていてくれたのね。ありがとう」
「君、名前は? あの巨大な狼は、君とどんな関係があるんだ?」刑事が口をはさむ。
「あなたに話すことはないわ」
少女がそっぽを向いたとき、3佐が前方を指さした。
「着いたぞ!」
緑に覆われた入間川の河原が見える。高機動車は、タイヤをスリップさせながら急停止した。
その頭上をセンとベアラが飛び越えていく。二頭はもつれ合いながら河原に落下した。
「第一班攻撃用意──撃てッ!」間髪を入れず3佐が無線で命じる。
耳をつんざくような砲声とともに、三方向から飛んできた砲弾がベアラの体に食いこんだ。
「グフオオオオッ!」
凄まじい咆哮を上げたベアラがのたうちまわる。
「第二班攻撃用意──撃てッ!」
今度は対岸から砲弾が放たれた。
二発がベアラに命中したが、残りの一発はセンの足元に着弾し、河原に穴を穿つ。
「おっかあ!」少女が叫んだ。
続けて発射された三発は、すべてセンに向かって飛んできた。センは驚くほどの素早さで回避したが、その後の砲撃は避けきれなかった。対岸から放たれた三発のうち一発が前脚に命中した。
少女は怒りの形相で3佐につかみかかった。
「おっかあに何するの!」
「お、おっかあ?」
刑事と二人がかりで少女を引き離しながら、僕は3佐に言った。
「あの狼は味方です! 攻撃をやめさせてください!」
「しかし……」
「早く!」
3佐は困惑した目で僕を見ていたが、やがて無線で命じた。
「本部より各班へ。砲撃はベアラに集中せよ。その他目標への砲撃は、即時中止!」
ようやくセンへの砲撃がやんだ。少女は車を跳びだすと、血を流している母親のもとに駆け寄った。
「君!」
呼び止める僕を睨みつけて、少女は叫んだ。
「──人間なんか助けるんじゃなかった!」
「……」
僕には何も言えなかった。そうしているうちに少女は母親の前脚を伝って、その背中に乗った。
同時に狼は姿を消した──赤い血の跡だけが点々と、山に向かって遠ざかっていった。
「あれは、いったい……」
3佐が遠ざかる血の跡を呆然と見つめていると、刑事がその肩を揺さぶった。
「田崎さん、見てください!」
河原にには直立したまま動かなくなったベアラの姿があった。
──その巨体がグラリと揺れる。次の瞬間、凄まじい水柱とともに川へと没していった。
しばらくの沈黙があった。やがて3佐は無線を手にとった。
「ヒトサンマルゴー。現時刻をもって本作戦を終了とする」